第5回 Nogi

日本人で文学好きの母と、瞬間湯沸かし器的にキレるセネガル人の父の間に生まれた亜和(愛称アワヨンベ)。祖父母、弟とさらにキャラの立つ家族に囲まれて、ときにさらされる世間の奇異の目にも負けず懸命に生きる毎日。そんなアワヨンベ一家の日常を綴るハートフルエッセイ。アワヨンベ、ほんとに大丈夫?

家に入ってきたママがニヤニヤしている。

一体なにを考えているのか、さっきからなにか言いたげにくねくねとしている。それは私の卒論について、マレ先生が書いたコメントと関係があるのだろうか。

フランス語で講評が書かれたプリントを、ママはいつのまにかパパのところへ持っていって翻訳を頼んでいたらしい。私は大学に入学したころに大ゲンカをして以来、パパと会っていない。

「なんか、すごいって。よくわかんないけど新しい、って書いてあるって」

ほんとか? こんなに長々と書かれているのに、小学生の感想文みたいだな、と私は思ったが、これはおそらく、翻訳者、つまりはパパの日本語のボキャブラリーが少ないことによって、表現のピクセルが大きくなってしまった結果だろう。そもそも、4年間もがき苦しみながらフランス語を学んでいたはずなのに、自分で翻訳しようと試みてもいない私は、はたして大学でなにを得たのだろうか。この4年間で分かったことは「私は外国語にあまり興味がない」ということだけだったように思える。最後の口頭試問でマレ先生に「あなたのフランス語は宇宙語です」と言われて、私は悪びれる様子もなく、弾けるような笑顔を返した。

ところで、先ほどからのママの薄ら笑いはなんだ?

「なに?」と聞いてみると、ママはパパから翻訳の内容とともに持ち帰ってきた、驚くべき告白について話しはじめた。

「なんかパパが、娘がいるとか急に言いだして」

「私じゃん」

「ちがくて、ほかにいるらしい。フランスに」

「フランス? それ、いつの話?」

「日本に来る前だって」

ママは嫌いな上司のとっておきの秘密を暴露するようにそう言ったあと「もう我慢できない」というような様子で、むせるように笑った。

ママと結婚する前に、ほかの女とこさえた娘がいる。30年近くも黙っていたことを、どうしてパパは今さら話す気になったのか。というか、どうしてこのタイミングなのか。なにより、ママはどうしてこんなに笑っているんだろうか。笑いごとではない。それが事実なら、ママはその存在を隠されたまま結婚生活を送っていた、ということになる。子供がいるのを隠して結婚するなんて、とんでもなく重大な裏切りのように感じられても仕方がない。私ならそう思う。しかし考えてもみれば、パパとママの結婚生活はとっくに終わっているし、今さら文句を言う気にもなれず、こうやって他人事のように笑うしかないというのも納得できるような気がする。もはや、笑うしかないのだ。私もママにつられて低い声でクククと笑って、しばらくふたりで壊れたように笑っていた。

突然現れた「お姉ちゃん」という存在。ちいさい頃、お姉ちゃんがいたらどんなに良いだろうと夢見ていた。私は母方のおじいちゃんとおばあちゃんにとって初めての孫だったし、そのあとに生まれてきた従弟たちは全員男子。そして当然ながら私より年下だった。いつも「お姉ちゃん」としての役割を任されたりするものの、私は面倒見が良いほうではなく、結局集まってワイワイと遊ぶ従弟たちとは、歳を重ねるにつれ一線を引いて過ごすようになってしまった。轍のない道を進むのは心地よくもあるが、拠り所のない不安もある。同じ両親のもとで、同じ性別で、同じ国に生きる姉がいたとしたら、どんなに頼れる存在だっただろうか。母親も国も同じではなかったけれど、私以外にあの人の「娘」として生まれた人間がいるというだけで、この上なく心強いように感じた。いたのだ、同じ遺伝子を持ったお姉ちゃんが。

お姉ちゃんの名前は「ノギ」という。歳は私よりだいぶ年上で、少し前までモデルをやっていたらしい。名前を検索にかけてみると、彼女のものと思しきインスタグラムのアカウントが見つかった。

大きな唇と大きな胸を強調した女性のセルフィーがズラリと並んでいる。歌を歌いながら、カメラに向かって魅惑的なジェスチャーをする動画もあった。これが私のお姉ちゃん…。たしかに顔のパーツ配置は私と近いような気もするが、私に付いているすべてのパーツを2倍にしたようなダイナマイトな女性がそこには映っていた。横に広いひし形の鼻がパパにそっくりだ。こんなに細いのに、どうして胸もおしりもこんなに大きいんだ? 私はママのほうをチラリと見て、日本の控えめな遺伝子の影響に唇を噛んだ。セルフィーの間には、有名ブランドのバックや靴がこれでもかというほど散りばめられている。プロフィールには「Top Model」の文字。自らそう名乗る自己肯定感。本当にこれが、私のお姉ちゃんなのか? 一緒にスマホの画面を見ていたママは「めっちゃアワに似てるー!」と言ってまたケラケラと笑い始めた。

「なんか、モデルの仕事でヌードやったら親戚とケンカになっちゃって、それでモデルはやめて今は会社経営してるんだって。」

下にスワイプしていくと、お姉ちゃんのセクシーな写真のなかに、高校時代のおぼこい私の写真が埋もれていた。「私の妹♡ かわいい♡」とフランス語で書いてある。本当にお姉ちゃんらしい。私はようやく姉の存在を理解した。

フェイスブックにもお姉ちゃんのアカウントがあったので、おそるおそる友達申請をしてみると、その日の夜、さっそく彼女からメッセージが送られてきた。

「Hello Awa」

英語かフランス語を話せるかと聞かれて「話せないけど、翻訳機を使うから大丈夫だよ」と拙い英語で返信した。

「あなたのことは前から知ってた。私は同じパパを持つあなたの姉です。お話しできてとても嬉しい。あなたのことがもっと知りたい。」

そう言って彼女は、私の写真をたくさん送ってきた。パパがお姉ちゃんに送っていたのだろうか。パパと私がケンカをした後の私の写真は当然無く、どれも中学や高校の頃の化粧もしていない古い写真ばかりだった。私は「それはすごく古い写真だよ」と返信して、それから最近モデルの仕事で撮ってもらった自分の写真を何枚か送り返した。またすぐに返信が来る。

「私とあなたはとっても似ている。パパはいつもあなたの話をしていたわ。あなたは私のたったひとりの妹。それがすごく誇らしい。私はヨーロッパに住んでいて、トップモデルだったんだけど、今はもうやめちゃった。」

お姉ちゃんは現役でモデルをしていた頃の写真を送ってくれた。SNSに載っていた今の写真よりさらにほっそりとしていて、まるで丁寧に彫られた美しい木の人形に、そのまま命が宿ったかのようなランウェイでの姿。トップモデルというのはこういう人のことを言うのだな、と痛感した。金色のベリーショートも、黒髪のロングヘアーもよく似合っていた。シースルーの衣装から透けているおへその形が私と同じことに気がついて、じんわりと嬉しくなる。お姉ちゃんは話題を変えた。

「アワ、どうしてパパと話さないの」

お姉ちゃんは、私たち親子の近況についてもすべて知っているようだった。もしかしたら、パパは私との仲を取り持ってもらうためにお姉ちゃんの存在を明かしたのかもしれない。

私は、

「私はずっとパパの前でいい子でいたけれど、それに疲れちゃった。それにパパは私のこと殴ったから」

と返信した。

文法のめちゃくちゃな英語に、フランス語の交じったテキスト。この日まで存在すら知らなかったお姉ちゃんに、同じ部屋を分け与えられた姉妹のように、両親が寝静まった真夜中にこっそりと打ち明けるような気持ちで話した。お姉ちゃんならきっと解ってくれると思った。お姉ちゃんは言った。

「私たちのパパはとっても気難しいの。私たちは理解してあげなくちゃ。たしかに、殴ったことは謝らないといけないって、パパは言ってた。」

理解? 理解なんてできっこない。

「私は日本に暮らしてるの。ほかの子と同じように自由に生きたい。だから、パパの言うことも聞けない。パパが私に謝るわけないし」

「謝りたいって本当に言ってたのよ。だからパパと話して。お願い」

「話したくない。怖い」

「どうして怖いの。パパが話したいって、アワに電話するって。大丈夫よ」

「絶対に嫌!」

とにかく私はパパとまた接点を持つことが嫌だった。もし、パパを許して元の関係に戻ったとしても、これから先、きっとまた同じようなことが起きる。私は価値観を押し付けられて行動を制限されるなんてまっぴら御免だ。私とお姉ちゃんは違う。お姉ちゃんはどうしてモデルやめちゃったの? 私なら絶対やめない。私だったら、親族全員と殴り合ってでも続けてやる。お姉ちゃんも結局、パパには歯向かえないんだ。完全に味方ではいてくれない。

私はお姉ちゃんに失望した。私の強情さにお姉ちゃんもうんざりしたのか「ヨーロッパに来たときは連絡してね。おやすみ」と返信がきて、その日のやり取りは終わった。

それから何度か「元気?」とか「どうしてる?」とか、短いメッセージがきたけれど、またパパの話をされるのが嫌で、返信はしなかった。そのうちメッセージは来なくなって、お姉ちゃんのアカウントの更新は止まった。

 

最近になって、ママがまたパパからお姉ちゃんの話を聞いたらしい。

「なんか、お姉ちゃんもパパとケンカして絶交したらしいよ」

そう言うと、ママはあのときと同じような表情で眉毛を下げてヘラヘラと笑った。私も私で、あんなに説得してきたお姉ちゃんすらパパと仲違いしたのがおかしくて、それみたことかと思いながら下を向いてほくそ笑んだ。やっぱり理解なんかできっこないよ、あの人。

お姉ちゃん。お姉ちゃんが今、どこでなにをしているか私は知らない。お姉ちゃんがインスタグラムに載せていた私の写真も消えちゃったし、今朝メッセージで送ったスタンプにも既読がつくことはないでしょう。もし会えたとしても言葉も通じない。ちゃんとマレ先生にフランス語を教わっておけばよかった。

パパは寂しがってるかな。でも、私たちの我慢ができない性格は間違いなく、パパからの遺伝だね。みんなバラバラになって、私はようやく、しっかりと絆が見えたような気がします。

いつかまた連絡ください。元気でいますか、お姉ちゃん。

(了)

 

伊藤亜和(いとうあわ):文筆家/モデル。1996年 横浜市生まれ。学習院大学 文学部 フランス語圏文化学科卒業。Noteに掲載した「パパと私」がツイッターで糸井重里、ジェーン・スーなどの目に留まり注目を集める。「きらきらシニアタイムス」「エレマガ。」にて連載中。趣味はクリアファイルと他人のメモ集め。