第7回 公人よ、あなたは「誰」?

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。第7回は、ハンナ・アレントのペルソナについての問題提起から。

 

政治哲学者、ハンナ・アレントは、ペルソナを公私の区別として問題提起した。

『革命について』のなかで、アレントもまた、語源的釈義を用いて人格の仮面性を読み込む。とりわけ、その仮面によって獲得されるのは、私人とは区別された公共的な「法的人格」であり、ここにおいてヒトは権利や義務など法のなかで取り扱われる政治的存在として見出される。逆にいえば、この仮面をもたない私人は「自然人」に等しく、これは人「間」存在とはいえない単なるアトム的な個人(individual)に過ぎない。

人間は、生活や経済の必要=必然に拘束されるプライヴェートの世界と、複数で多様な他者と自由な言論を交わし合うパブリックの世界という、二つの異なる領域を往来しながら生きている。仮面は、パブリック(公的領域=法的政治的世界)に入るために必須な許可証だ。

アレントにとって公的領域とは、人間の複数性に開かれており、彼らが相互を取り結ぶ「間」に関心を払いつつ、その人が他に替え難い固有の仕方で現れるような空間を指している。ここでは、人間は個人の生身から離れて、医者として弁護士として著者として教師として……、つまりは~としてという種々の対他的な役割の分節を生きる。

仮面とは、この役割のことであり、和辻のペルソナ論を読み直した坂部恵の難解な言い方を借りれば、「自己と他者の分離的統一という構造」である。

さらにいえば公的領域とは、レイバー(労働)ともワーク(製作)とも区別される、アクションの主要な舞台でもある。

アクションは勿論、活動と訳していいが、演技と訳してもいい。なぜならば、アレントにとって公的領域とは、演劇の比喩に託されるべきものであり――従って、ここでいう「役」も「舞台」も演劇用語として理解すべきだ――、物語を行為的に演じることで初めて、その人は劇の主人公(ヒーロー)となることができるからだ。

主著『人間の条件』の言葉に従えば、「人間生活の政治的分野を芸術に移すことのできるのは、ただ演劇だけ」だ。アレントにとって、ペルソナとは、公共空間に出ていくのに不可欠な仮面=人格である。

「何 what」と「誰 who」

ただし、アレントが仮面に公的領域へのドレスコードを認めたからといって、仮面の下には本当の私がある、その人の固有のアイデンティティが対応している、と速断してはならない。ここでのアレントの議論は込み入っている。

ここを読み解くには彼女が峻別している「何 what」と「誰 who」の区別を理解しておかねばならない。アレントは『人間の条件』のなかで次のように述べている。

人びとは活動と言論において、自分が誰であるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティ personal identitiesを積極的に明らかにし、こうして人間世界にその姿を現わす。しかしその人の肉体的アイデンティティ physical identitiesの方は、別にその活動がなくても、肉体のユニークな形と声色の中に現われる。その人が「何 what」であるか――その人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥――の暴露とは対照的に、その人が「誰 who」であるかというこの暴露は、その人が語る言葉と行う行為の方にすべて暗示されている。(『人間の条件』、ただし訳文を若干変更した)

「何」は肉体的アイデンティティを構成するのに対して、「誰」は肉体に紐づけられない人格的アイデンティティの答えに他ならない。たとえば、ユダヤ人である(人種)、五〇代である(年齢)、女性である(性別)という属性――ちなみにこれらは『人間の条件』を書いたときのアレントの「肉体的アイデンティティ」である――に関するテーゼは、すべて「何」の問いに対応するものだ。

ここから、先に紹介したアレント的公私の区別でいえば、「何」は私的なものに、「誰」は公的なものに対応している、と一応は理解することができる。事実、「誰」は公的領域においてはじめて露呈する。ある人間の誰? に対する回答は、特別な~であるに求めることはできないし、複数の~であるの集積から生まれるわけでもない。それ以上に本質的なものが人間にはある。

では、「何」と区別される「誰」とはどのようなものなのか。これを説明するのは極めて難しい。というのも、「誰」は既に引用したように、公的な行為=演技によって他者に対してパフォーマティヴに示されるほかなく、言語によって表象(イメージ化)することが定義上できないためだ。言葉による返答は、すべて「何」に回収され、人間がもっている固有の「誰」性の謎を満足させることはない。「何」である限り替えが効くが、「誰」とはほかの誰でもない誰かなのだ。

既に明らかなように、「誰」は一個体が生得的にもっている個人の核のごときものでは決してない。「誰」は他者に対してだけ現れる。アレントが徹底しているのは、それ故に、「他人にははっきりとまちがいなく現れる「誰」が、本人の眼にはまったく隠されたままになっている」と指摘していることだ。「誰」とはその人の唯一性を証明するものだが、驚くべきことに、その内実を本人が知ることはないのだ。

ペルソナは「誰」?「何」?

ここで疑問が生じる。

アレントのいう「誰」とは、彼女が述べていたペルソナのことなのだろうか。この仮説には相応の説得力がある。というのも、対他者用のペルソナを装着することよって人は公的領域で活動=演技することを許され、私人=自然人を克服することができたからだ。「誰」もまた公的なものであり、そしてなによりこれは「人格的アイデンティティ」に等しいものだった。繰り返すが、「人格的 personal」とは語源を遡れば、ペルソナ的の意味に他ならない。

しかし、「誰」と「ペルソナ」を同義として扱うと、アレントのテクストの解釈に明らかな支障が生じる。

たとえば、『革命について』では、ペルソナの代表例として自然人から区別された「法的人格」が挙げられていた。果たして、これは唯一的「誰」の回答として相応しいものだろうか。つまり、法廷においては誰もが法的人格なのではないか。また、そのことを本人が自覚するのは容易なのではないか。

或いはまた、『責任と判断』所収の「ソニング賞受賞スピーチ」では、やはりペルソナの語源釈義に言及したあとで、次のように述べている。

私たちは常に、舞台 a stage、割り当てられた自分の職業である役割 the rolesに従って承認された世界に現れます。医者として弁護士として、著者として出版者として、教師として学生として、とかですね。この役割を通じて、これで声を響かせることsoundingで、まったく別のものが、完全に特異的で定義不能なのに依然として同一性を確認できるidentifiableなにものかがそれ自体で暴露されるのです。(「ソニング賞スピーチ」、ただし訳文を若干変更した)

役割において声を響かせる道具がペルソナであるのなら、ここでいう「医者として弁護士として」云々といった職業群はすべてペルソナと読んでいい。そして、ペルソナは露呈される「まったく別のもの」ではない。

お気づきだろうか。一見、「誰」という「人格的アイデンティティ」に対応しているようにみえたペルソナは、ここではもはや交換可能な「何」に堕落しているのだ。医者も著者も教師も、それら職業自体はユニークでもなんでもなく、世に溢れている。「誰」とはそのような属性に収まらない行為的アイデンティティだったはずだ。

「何」を介して「誰」を愛す

ペルソナの位置づけを介してみると、アレントが想定しているだろう「誰」の露呈という事態の、いささか撞着的で困難な条件が垣間見える。

先ず第一に、ペルソナは「誰」の回答に相応しくない。法的人格にしろ職業的役割にしろ、寧ろ「何」の方に親しい概念として理解すべきだ。けれども、「誰」を露呈させるためにはペルソナの装着は必至である。なぜならば、「誰」は他者と対面する公的領域でしか顕示されないが、公的領域はペルソナを被り合って初めて確立される空間だからだ。『人間不平等起源論』のジャン=ジャック・ルソーが理想化していたような孤独な自然人(=私人)は「誰」でもない。

ここから推察されることは、「誰」とは、ペルソナや「何」を裏切る余剰というかたちでしか露呈しないが、ペルソナや「何」にそもそも相対さなければその裏切りの契機すら発生しない、という点で「誰」は誰であってもいい交換可能な役割に逆説的に支えられているということだ。「面」は破られるために存在する。

入り組んでいるものの、これは卑近な例を考えてみても十分共感できる議論だ。

ある特定の人間を愛するとき、私たちはその人の替え難さを愛する、と自覚する。仮に、その彼(女)よりもよりよい人材が見つかったとして――より美人だとか、より年収が高いとか、より頭がいいとか、より優しいとか――、その理由によって愛することをやめようとは思わない。何故ならば、愛とは、様々な属性によって還元できないような「誰」に照準するからだ。

舞城王太郎の小説から引用してみる。「人が人を好きになるときには、相手のこことかそことかこういうところとかああいうところとかそんな感じとかそういうふうなとことかが好きになるんじゃなくて、相手の中の真ん中の芯の、何かその人の持っている核みたいなところを無条件で好きになるんだろうと思う」。正しい。

しかし、だからといって、ペルソナ的「何」的役割が一切存在しないとしたら、愛する「誰」への照準の維持が至難を極めるのも明らかだ。

女性の格好をしている彼女に男の私は声をかけようとする。見たところ同い年ぐらいだからなんとなく親近感がある。聞いてみるとびっくり、出身が同じ地方だったなんて! 

これら「何」の束は、一切「誰」を規定するものではない。にも拘らず、すべての「何」が剥奪されてしまった「誰」は、具体的な身体やその身で経てきた経験を一切もたない抽象的産物に堕してしまう。それは生気を失った思念的対象以外の何者でもない。

街を歩いていた女の子に声をかける。仲良くなって、彼女の性格や趣味や宗教や出身地を知る。人生の歩みを知る。彼女とよく似た女性がいたからといって、もう別の誰かと一緒にすることはできない。彼女の「誰」を痛感する。けれども、そもそもその「誰」に達するには、様々な「何」にアクセスして、そのペルソナと対面する必要があったことを忘れてはならない。

整合的に解釈しようとすればペルソナは「誰」でもなければ、単なる一つの「何」と考えるべきでもない。おそらく、ペルソナとは「何」から「誰」を垣間見せるための、その二つを連絡させるインターフェイスである。

比喩的にいえば、「何」的ペルソナに回収されない唯一的「誰」の顔とは、決して脱ぐことができず、それ故に他人と交換することも叶わない、素顔にぴたりと張り付いた摩訶不思議な肉づきの面として存在している。肉に張り付いているため外して自分で確認することもできない。それは生身の顔ではないが――それは私人の顔であろう――、装着者の身体(顔面)と切っては切り離せない生きた仮面として他者の前に現れるのだ。

 


参考文献

  • アレント、ハンナ『人間の条件』、志水速雄訳、ちくま学芸文庫、一九九四年。とりわけ、二九一~二九二頁、三〇四頁。原著は、一九五八年。
  • アレント、ハンナ『革命について』、志水速雄訳、ちくま学芸文庫、一九九五年。とりわけ、一五八~一五九頁。原著は、一九六三年。
  • アレント、ハンナ「ソニング賞受賞スピーチ」、ジェローム・コーン編『責任と判断』収、中山元訳、ちくま学芸文庫、二〇一六年。とりわけ、二四頁。原著は、二〇〇三年。
  • 坂部恵『仮面の解釈学』、東京大学出版会、一九七六年。とりわけ、八七頁。
  • 舞城王太郎『阿修羅ガール』、新潮文庫、二〇〇五年。とりわけ、四三頁。もとの単行本は新潮社、二〇〇三年。