第10回 アレントから読む歴史主体論争・後編

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。その第10回は、「歴史主体論争」で対立した加藤典洋と高橋哲哉それぞれのアレント論の検証から、再び仮面の物語についての考察へ。

高橋哲哉の評価するアレントの思想はごく一部に局限され、注意深く切り取られていた。では、高橋に引きずられるかたちでアレント論を展開した加藤典洋の方はどうだったか。

加藤はアレントの『イェルサレムのアイヒマン』の「語り口」に共同性と公共性の重層を読んだ。論争の中心になった論文を収めた『敗戦後論』の続篇となる『戦後的思考』では、この視角を糸口にしてアレント的公私分割論のさらなる追究を試みている。

ただし、この続篇で加藤が参照しているアレントは、『人間の条件』のアレントでしかなかったことは、特筆しておいていい。加藤の関心は、アレントの思想全体というより、教科書的な公共性論に照準されている。高橋のそれとは齟齬がある。

加藤はアレントが併せ持つ、公共性と共同性の意識を、それぞれポリス(都市)とオイコス(家)、「政治的共同体」と「自然的共同体」と言い換え、その上で彼女が見なかったものとして、人間の「共通の本性」を主張している。それは「私利私欲」であり「死に瀕して死にたくないと思う生命の本能」である。

公共的=政治的なものは、ときに各人の命よりも優先されるべき共同体の使命があるのだと諭して、生命を潔く捨てることをしばしば要求する。アレントにとって私的領域が、寝食や生殖をふくめたヒトの動物的活動を指していたことを考えれば、公的領域での生命軽視は当然とさえいえよう。

けれども、加藤はこの主張に納得しない。その私的な「共通の本性」がなければ人間の複数性に開かれた公共性も存立しないのではないか。

こうして、アレントの意図さえ超えて、公共性は共同性と重層構造をなしている、という元々あった『敗戦後論』でのテーゼの強調へと還ってくるのだ。

物語への違和感

加藤は言及していないが、一連の議論は、近代以降、生殺与奪ではなく個々人の延命に尽力してより健康になれるよう配慮する力へと権力形態が変化していったとする、ミシェル・フーコーの「生‐政治学」(bio-politique)という概念を連想させる。加藤の立論は、公私の素朴な峻別への疑問というフーコー的(?)発想と響き合うことで、現代的アレント批判の王道を通っていた、と捉え直せるかもしれない。

ただし、加藤はアレントの公共性論を論じつつも、高橋が用心深く切り取っていた演劇モデルにほとんど関心を払わない。舞台の上の役者は勿論のこと、客席にいる観客の方はなおさらだ。だからこそ、高橋が慎重に選り分けようとしていた演劇/裁判の比喩に関しても、最後まで鈍感を貫き通したようにみえる。

けれども対陣を張り合った両者のあいだには一つの重要な共通点があった。高橋も加藤も実はアレント哲学には不満があるのだ。しかも、その視線はともに公的な歴史=物語に注がれているといっていい。

高橋の場合、公共という舞台の上で演じられたヒロイックな歴史=物語は、舞台に登場しない(できない)証言や記憶を忘却の彼方に追いやる権力装置であった。加藤の場合は、直接主題化したわけではないが、公共性論を介したかたちで、生存に執着する「私利私欲」を切り捨てた領域の独立に疑問を差し向ける。国民国家に代表される大きな物語の底部には、それを支える名もなき私人(たとえば義のない戦争で死んだ兵士)の存在があるのではないか。

実際、加藤は旧来のナショナリストが主張するように、日本兵士を大義ある戦争の「英霊」として清く祀る――ぼくらの祖先は悪くない!――ような意味加重の弔い方法を拒否し、無意味に死んでいった死者一人ひとりの顔に無意味に向き合うことに「ねじれ」解消の道筋を読んでいた。

どちらも公的な歴史=物語に書き込まれないものを擁護しようとしているのだ。

肉づきの面から死面へ

アレントは『人間の条件』のなかで「物語というのは、行為の束の間の瞬間が過ぎ去った途端に始まり、その時になって、物語は物語となる。〔中略〕活動の意味が完全に明らかになるのは、ようやくその活動が終わってからだ」と述べていた。

アレントにとって「物語」は、アクションのあとで浮上する英雄的行為の証拠のようなものだ。個々の人間はいずれ死に、彼らが成し遂げた偉大な活動もすぐに忘れ去られてしまう。けれども、活動を物語として保存しておけば、その名声は死後もつづくことになる。それだけでなく、物語化は活動が終わったあとに完了するため、舞台上の役者が見渡すことのできなかった劇の全体像を把握することができる利点も認められる。

アクションは役者だけでは完成せず、ワーク(製作)を司る「物語作者」(=「歴史家」)とセットになって完全なものに至るのだ――ちなみに、この『人間の条件』での物語作家の位置づけは、後年の『カント政治哲学講義録』の「観客」とアナロジカルだ――。

これは「何 what」と峻別された「誰 who」の問題とも無縁ではない。アレントに従えば、公的領域で対他的にしか露呈されなかった掴みどころのない「誰」は、彼が死んだあとに紡がれる歴史=物語において初めて、対面したことのない者でも触知すること(tangible)が許される。「人間の本質が現われるのは、生命がただ物語を残して去るときだけである。〔中略〕実に、その人の「誰」のことである」。

ここにおいても、やはり峻別の努力空しく、「誰」が「何」に限りなく接近しているようにみえる。たとえば、ハンナ・アレント自身の物語化された「誰」とは、ユダヤ人でありながらユダヤ共同体に反して思考をつづけた稀有な女性哲学者という「何」的説明と同じなのではないか?

とまれ、一旦はアレントに従おう。以前に、「誰」を肉づきの面と形容した。その延長で再びたとえれば、歴史=物語とは肉のかたちを保存しようとする死面(デスマスク)のようなものだと考えればいいだろう。

社会的役割を分節するペルソナを通じて、各人は対面する人間の(本人さえ知らない)肉づきの面を垣間見る。その人間が死んだとき、彼の面を型にした死面がつくられ、人類の共通財産であるかのように時代を超えて共有される。死面は、アクションから遊離していたとしても唯一的「誰」に照準しているという点で単なるペルソナとは異なるかえがたい仮面なのだ。

そして、加藤と高橋はともに、死面がわざわざつくられるのはごく一部の偉人でしかないではないか、と批判しているわけだ。

死面との対面か、法的ペルソナか

改めて整理してみれば、加藤典洋は国民国家という物語の外部に打ち捨てられた死者に目を向け、彼らを正式に物語内に迎え入れること、別の角度からみれば既存の硬直した物語をより柔軟な仕方で語り(書き)直すことで、日本的アイデンティティが自覚的に統合(回復)されるはずだ、ひいては「ねじれ」のない責任ある外交の基礎になるだろう、と考えた。

高橋哲哉の関心もまた、国民国家という物語の外部に打ち捨てられた者たちに傾斜する。だが、彼の場合、加藤と違って演劇的に活躍できる役者しか登録しようとしない物語そのものを警戒している。この懐疑心が、アレント哲学の使用を裁判モデルに制限しようとする一種の検閲につながった。

歴史=物語に対してともに違和を感じていた論者二人は、しかし、その対処の方法において相克する。簡潔にいえば、加藤は物語に内属しつつも当の物語では語り尽くせないような身体性(肉づき)を温存する死面に改めて対面せよと述べており、高橋は死面ではなく物語から隔離された法的ペルソナ(裁判モデル)に向き合えと命じている。高橋にとってみれば、物語の外に出るためにわざわざアレントから注視者や法的ペルソナを引っ張りだしてきたのに、加藤の死面は物語への回帰を促すことで自分の苦労を骨折り損にさせかねない危険を孕んでいる。

けれども、先に感じていた疑問を蒸し返せば、死面とペルソナをそもそも明確に区別することができるのだろうか。つまりは、死面なきペルソナを考えることなど本当に可能なのだろうか。

仮面の物語再考

少し前に、「タイガーマスク」と「ゼロ」という二つの仮面を考察するさい、そこで発揮されていた物語の力を確認した。仮面を手にする者は、その仮面が内属している物語によって鼓舞されて、日常では躊躇してしまうような特別な行為に臨むことができた。

アレントにとって、そのような仮面は一つのペルソナにすぎない。彼女にとってより重要な価値をもつのは、その面を介して接近できる唯一的「誰」に照準する肉づきの面であり、アクションが終わったあとで初めて語られる肉をうつしとった死面である。

アレントに従えば、物語は行為に先んじて存在しているのではなく、英雄的行為の結果(形見)として語られ、また保存される。

けれども、そのような物語理解に物足りなさを覚えてしまうのは、死面もまた一つのペルソナとして機能するように思えるからだ。別言すれば、誰も成し遂げたことのない英雄的行為に踏み出すには、実はその背面では既に完結した誰かの物語による激励や支持があるのではないか。

いや、さらにいえば、我々が普段用いている一般的なペルソナ(医者として、著者として、教師として……)は、元をただせばすべて具体的な「誰」の死面だったのではないか。和辻的にいえば人‐間たちが行う、面の度重なる流用のなかで、浮き上がっていた「誰」が面下に沈没してしまっただけなのではないか。

比喩的に考えてみる。「タイガーマスク」は、ペルソナだろうか、死面だろうか? 「ゼロ」はどうか? その判断は極めて難しい。一方でそれを無償善行の記号や帝国主義に反旗を翻す希望の象徴と解すならば、それら面はペルソナ的といえる。だが、翻ってそこに「伊達直人」や「ルルーシュ」といった交換不能な「誰」の歴史を読み込むのならば、仮面は死面であるといわなければならない。

まるでリンカーン、まるでヒトラー

同じことはおそらく、現実の政治的場面でもいえる。たとえばバラク・オバマが、黒人の代表として、また大統領(国民の代表)としてスピーチするとき、彼は黒人や大統領のペルソナを装着しているといえるが、その言動のうちにキング牧師やリンカーンという具体的な「誰」の残響を聴衆が受け取るならば、仮面は死面に変質している、というべきだ。

さらに考えを進めてみる。あるパワフルな政治的指導者を、知識人がヒトラーになぞらえるとき、その「ヒトラー」とはアドルフ・ヒトラーという歴史上の個人(の実存)を指しているのだろうか。それとも最悪の独裁者という符牒として用いられているのだろうか。使用者が仮にどちらの意図で用いていたとしても、人々に開かれたその解釈は決定不能といわざるをえない。

ペルソナの困難は、装着者自身がこういうつもりで振る舞っても、その間‐人間的性格故に他者次第で仮面の同一性が揺らいでしまうということにある。それは時代を経て、語り継がれる場合にいっそう錯綜としてくる。物語化された「誰」に附帯するこの不安定さに、誰/でもないという匿名的想像力の肯定と否定を画する、重要かつ複雑な境界線が走っている。

参考文献

  • アレント、ハンナ『人間の条件』、志水速雄訳、ちくま学芸文庫、一九九四年。とりわけ三一〇頁、三一二頁。原著は一九五八年。
  • 加藤典洋『敗戦後論』、ちくま学芸文庫、二〇一五年。とりわけ六三頁。もとの単行本は講談社、一九九七年。
  • 加藤典洋『戦後的思考』、講談社文芸文庫、二〇一六年。とりわけ二八四頁。もとの単行本は講談社、一九九九年。
  • フーコー、ミシェル『性の歴史』第一巻、渡辺守章訳、一九八六年。とりわけ一八〇頁。原著は一九七六年。