第19回 誰の反照的均衡

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。第19回は、ロールズが提唱した「反照的均衡」について。

とはいえ、他方で、ロールズの「無知のヴェール」など実はそもそも大した道具ではないのではないか、という疑念も残る。

第一に、ロールズ自身が言及しているように、ヴェールという単語を使わないにしても、類似した発想は先行する思想史のなかで容易に見つかる。

ロールズ自身が言及しているのはカントの定言命法だ。カントは、自然法則と同じく道徳においても人間が従うべき不変の絶対的な法(=格率)があると考えた。その定式を意訳してみると、いまあなたが信じている道徳法則を普遍的に誰もが信じて行動してもあなたはそれで善いと思いますか、となる。普遍とは、場所も時代も人も問わずに、それでもなお通用することを意味している。

この問いに対して、OKならばそれは定言命法(絶対に~すべし)として認めてよいが、NGならばそれは仮言命法(~ならば~すべし)と呼ばれるべきだ。ここにおいて、道徳法則は自分の狭い臆見に限定されるのではなく、全人類が時代や地域を超えて承認するだろうものを織り込んで採用せねばならない。自分だけ、またはある特定のグループだけが認める法は、法のテイをなしていない。

ロールズの言葉でいえば、「私たちの格率をテストせよとカントが私たちに命じるとき、この想像された自然の体系の内部のどこに自分たちが位置するのかを知っていない、と彼は想定しているはず」。誰もが従うべき絶対命令を考えるとき、彼はヴェールを被ってものを考えているのと同じだ、というわけだ。ここにオリジナリティはない。

或いは、ロールズと論争した経済学者のジョン・ハーサニが、余分な情報を遮断することで公平無私な選好判断から平等な功利主義的所得分配を既に考えていたことは、研究者界隈では広く知られている。

反照的均衡とはなにか

ロールズの創見を「無知のヴェール」にも「原初状態」にも求めない渡辺幹雄は、その代わりに、「反照的均衡」という方法を高く評価している。前の二つはこの方法論的文脈の一部をなすものでしかない。

どういうことか。ロールズは理論構築において三つの視点を厳密に区別している。第一にヴェールを被っている「当事者」の視点、第二に正義に叶う秩序づけられた社会での「市民」の視点、そして最後にいま正に理論を構築せんとしている「我々」の視点だ。

正義の原理を導き出すのはあくまでヴェールをかけた「当事者」のひとり舞台だ。ここでは「市民」も「我々」も用なしである。けれども、「当事者」が発見してきた原理を目の当たりにして、「我々」はギョッとしてしまうかもしれない。つまり、自分がいま抱いている道徳的判断に照らして違和感が生じるかもしれない。その場合、「当事者」の設定を「市民」像を参考にして再度シミュレーションし直すか、現在抱いている判断こそを疑ってみることができる。この繰り返しで深まるスパイラルにこそ反照的均衡の最大の特徴がある。これが渡辺の解釈だ。

端から普遍を信じていない

ロールズは『正義論』を書いたあと、多くの批判を浴び、『政治的リベラリズム』において大きな転向を果たしたといわれている。かいつまんでいえば、『正義論』の段階にあった普遍的構築を諦め、ある限定された共同体のなか(具体的にはアメリカ合衆国)でのみ有効な正義概念を構想した。これが教科書的な理解だ。

けれども、渡辺の解釈に従えば、そもそも反照的均衡の段階で、「我々」が理想化している「市民」の視点をモデル的に組み込んでいるのだから、ロールズは普遍主義から反普遍主義に転向した、という評価は間違っている。彼は元々、普遍主義など信じていない。プラグマティズムの方向から(演繹のときに頼るような絶対の公理を信じない)歴史主義的ロールズを読むリチャード・ローティの評価も同様だ。

自分たちの信じる道徳をダイレクトに正義の原理に昇華する道は禁じられているが、機械的にはじき出された暫定的アウトプットに対して自分たちが信じる道徳的判断と照らし合わせてみる機会は残っている。反照的均衡こそロールズという思想家のオリジナルなアイディアである、と評される所以だ。

誰の反照的均衡

反照的均衡の解釈をめぐっては議論百出、専門家の間でも正確な一致を見ない。実際、渡辺の解釈も盛山和夫は否定的に取り扱っている。

とはいえ、ロールズ・インダストリーとも呼ばれる厖大な研究の蓄積に、これ以上かかずらうことは遠慮しておきたい。いま求めているのは、ロールズ正義論の正確な理解ではなく、二つの匿名性を立て直すものとしてのヴェール的匿名性であり、この文脈で顔にかける衣のアイディアが画期的なのは、ペルソナともノッペラボウとも異なる匿名性によって両者の間を創出する、という期待であった。

仮面、没面、そして面紗。渡辺は反照的均衡を、「原理と判断は、常に初期状況〔原初状態〕の記述を介して(迂回的に)影響し合う」カラクリと要約した。この迂回の力を拡大解釈したとき、人工的な布を介した匿名性の循環を、ウーティスの暴走を抑止するための誰の反照的均衡と呼んでもいい。

社会における役割や間柄への専従は、いつの間にか、「空気の支配」やお役所仕事といった無責任なシステムの歯車に堕落している――オレの担当じゃないから知ったこっちゃないよ!――。ペルソナの演技が回り回ってノッペラボウに併呑されていくさまは、仮面淑女の悲劇で学習した。取り戻すべきは、ペルソナとノッペラボウの間の崩れた均衡であり、それは舞台ではなく街頭を歩くときにすれ違うような、相異なる無縁の顔をただただ通過することによって叶えられる。声をかけることもなければ、息遣いをともにすることもない、自分かもしれない可能な面を渡り歩くことで、自分の面を反照(=反省)、メンテナンスする。

この私と誰でもない可能的な私のあいだを行ったり来たりしながら劇場(舞台/裏)の方に還っていく。この道草の動力を提供するのが、面紗こと、ヴェール的匿名性に期待しているところのものだ。

参考文献

  • 亀本洋『ロールズとデザート――現代正義論の一断面』、成文堂、二〇一五年。とりわけ、二三三頁。
  • 盛山和夫『リベラリズムとは何か――ロールズと正義の論理』、勁草書房、二〇〇六年。とりわけ、九八頁。
  • ローティ「哲学に対する民主主義の優先」、『連帯と自由の哲学』収、冨田恭彦訳、岩波書店、一九八八年。とりわけ、一七四頁。
  • ロールズ『正義論』、川本隆史+福間聡+神島裕子訳、紀伊国屋書店、二〇一〇年。とりわけ、一八五頁。原著は一九七一年(改訂版は一九九九年)。
  • 渡辺幹雄『ロールズ正義論の行方――その全体系の批判的考察(増補新版)』、春秋社、二〇〇〇年。とりわけ、一七八頁。