第15回 仮面淑女の闘い

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。第15回は、伊藤整の長編小説『火の鳥』のヒロイン・生島エミの日本的「空気の支配」との闘いぶりから見えてくるもの。

サイクロプスは、洞窟に住んでいる一つ目の巨人であるが、たまたま島を探検しようと十二人の部下を連れてその洞窟に入って来たオディッセウスは、この巨人の捕虜になり、朝晩に二人ずつ部下をとって食われる。トロイ戦で第一の智将と言われたオディッセウスは、謀を案じ、携えていた葡萄酒をこの巨人に飲ませ、酔いつぶれて寝たところを、その巨人の杖の一端を切った材木を削りとがらせたのを火で焼いて、その眼に突き刺し、ようやく逃れて、船に乗り、海上へと漕ぎ去る。(伊藤整『得能五郎の生活と意見』第一〇章)

詩人として出発しながらも、昭和初期の文壇に新心理主義をいち早く導入した小説家の伊藤整は、ジョイス『ユリシーズ』を訳出するにあたって、その元となった『オデュッセイア』を読む必要に直面した。その甲斐あってか、長篇小説『海鳴仙吉』や、いま引用した『得能五郎の生活と意見』などには学習の成果を反映するかのように日本のオデュッセウスの影が作全体に落ちている。

ただ、文士仲間から聞いたポパイの一エピソードから『オデュッセイア』を連想する、冒頭で引用した場面では、私たちにとって重要なポイントが無視されている。勿論、ウーティスの策略である。

では、伊藤整は「誰でもない」の想像力をまともに受け止めなかったのだろうか。勿論、そんなことはない。注目したいのは『火の鳥』という長篇小説だ。

三〇歳を超えてベテランの域に達しつつあるイギリス人と日本人のあいだのハーフ、生島エミは、演劇理論家である田島愛美の小劇団「薔薇座」の看板女優だ。かつて劇団員で堕胎騒動を起こした杉山、エミを自分の理論の最高の体現者と考えて愛人関係を結ぶ田島、そして映画で共演することになる若き俳優志望の長沼とのロマンス……。数々の男性たちと肉体関係を結びながらも、エミは自分の核にある不安定なアイデンティティに向き合っていく。

一九四九年から一九五三年までに発表した連作の短篇をつなぎ合わせて、一個の長篇として五三年の八月に光文社から単行本化された。

配役の不自由

エミの格闘は、いわば日本的(と形容される)「空気の支配」をいかにねじ伏せるか、に傾斜している。「日本の家庭で、未来の同じような家庭の主婦になる鋳型にはめ込まれながら育って来た少女たちは、自分の意見、自分の一人立ちの心を持っていないのだ。何かにもたれ、絡まり、陰口を言う。私はそんな風に育たなかった」。けれども、そんなエミも、周囲の日本人を無視して独立独歩を貫くことはできない。とりわけ、混血児であることにコンプレックスを抱く彼女は、周囲の視線を過剰に意識し、日常生活でも幼い頃から演技的に振る舞ってしまう。だからこそ役者とはエミにとって天職に等しい。

どのように、ねじ伏せるか。エミは演技の洗練を目指すことで、舞台の支配権を手中に握ろうとする。花形として舞台を統べ、他の役者が結果的に自分の引き立て役になってしまうとき、エミは自分に憑依した「配役を支配する力」を自覚する。

役者の不足はいつも役だ。配役さえあれば。その配役だけが役者の自由にならないものだ。劇団がもめたり、分裂したりする。それはどんな名目であろうともその実質は配役への不満からだ、と役者仲間では信じている。その配役の実在しない責任が私の背中にかぶさってしまった。あの人たちの私に見せる表情、気がねした物言い、注意深いキッカケの渡しかた、それが皆その幻影の及ぼす力なのだ。(『火の鳥』第二章第三節)

卓越したアクションは、舞台監督・田島の指導を離れて、場面を牽引し、ときに自分が最も輝くように周囲を組織する力を帯びてしまう。実際、エミは所詮は西洋への憧憬にすぎない田島の演技指導に従わず、学校という舞台で培ってきた自分の演技力の方を信じる。

ここで発生している「責任」とは、ペルソナの分節(=配役)に由来している、根柢では連帯的なものだ。エミの日本的「空気」への抵抗運動は、「空気」の外を目指すというよりも、毒食らわば皿まで、誰よりも声を響かさせることで「空気」を我が意にかなうものとして取り扱える操縦権の独占を意味している。

郷に入っては郷に従え、服従の徹底化こそが他郷を自分の王国に変える唯一の手段だ。

映画は編集できる

エミの自負は、映画女優に対する優越感からも伺える。たまたま入った蕎麦屋で、エミは映画の脇役で活躍している後輩と彼が連れていた新聞にも写真の出る新進の若い女優に出くわす。「どうしても私は映画人を、あのノッペリした大衆志向の均一菓子のような顔を軽蔑せずにいることができない」と思うエミは、顰蹙を買うことも恐れず、彼女を「芸なしの人形」と揶揄する。

なぜ、エミは映画人を敵視するのか。彼女の言葉に従えば、同じ役者でも「顔の美術的な魅力をアップで利かせる映画俳優と、自分で作品を理解した人間にだけ出来る配役と自分の性格の合致という難かしいことを全身でやるのが条件の舞台俳優」は、その行っている内容において大きく相違する。つまり、「切れ切れの、監督が出す一コマずつの演技の切れっ端でしかない映画の撮影に必要な演技は、あれは監督の心の中の演技なので、俳優の演技とは言われない」。

かつてベンヤミンが指摘していたように、舞台と違って、映画は編集可能性に開かれている。現在進行形のアクションを後から切り刻んで、監督の思うがままツギハギして再構成できるのが映画最大の特徴だ。田島の演劇理論さえも無視して己の演技に集中しようとするエミは、これに我慢がならない。そこで生じているのは自分の卓越した演技を殺して、支配権を他人に譲り渡すことであり、翻っていえば、この要求に迎合する演技など真正のアクションと呼べないからだ。だから映画俳優は演技(=「芸」)のない「人形」というべきだ。

ペルソナによってアイデンティティを獲得するエミにとって、大根役者でも編集次第でどうにでもなる映画は、ペルソナの尊厳を奪い、果ては演技を壊しかねない危険なものだ。いってみれば、映画人の「ノッペリ」した表情には、ノッペラボウに転落してしまう危機感が予告されている。もしペルソナが必要ないのなら、自分は、監督の考えるまま、そして「空気」の流れるままに、流されてしまうかもしれない!

演技の日常化

けれども、『火の鳥』というテクストが興味深いのは、映画人を毛嫌いするこのエミが、気紛れにも主役として映画撮影に参加し、そこで出会った新人俳優(=「ニュー・フェイス」)の長沼と恋愛まがいの事件さえも起こすということだ。「火の鳥」とは、この映画の題名でもあった。ハーフの彼女は、その技能においても、分裂的な状態に身を置こうとする。つまりは、舞台人かつ映画人として。

けれども、過剰演技といえるほどの芸の追求は、彼女の日常を確実に蝕んでいく。映画会社でストライキが生じて馘首されたことを機に左翼演劇を始めた長沼から舞台への出演を頼まれたエミは、その誘いを受け入れる。けれども、当日、舞台終盤で警官が乱入して暴動に発展。エミは騒動のさなか警官から殴打を食らう。そのことが新聞のスキャンダルとなって、彼女は薔薇座での立場を失いかける。

座の人たちといる間じゅう、私は、あの新聞記事に書かれたとおりの人間として、ずっと先生をだましていた人間、長沼敬一を愛していて左翼の学生グループをずっと前から援助していた女として行動し、表現しているのに気がついた。(『火の鳥』第五章第七節)

虚実入り混じった新聞記事という名の台本の通りに、無意識のまま演技してしまっている自分に彼女は気づく。洗練された演技にアイデンティティを求めたエミは、その果てに空っぽな自分、つまり演技しているのではなく――たとえば対他的な「空気」によって――演技させられている自分の不確かさに直面する。「前から見られる自分は、顔も姿もあるが、後ろは、紙をかためて作った面のように凹んでいる空っぽのお面のように感じた」。日常生活に演劇が浸透し、複数のペルソナを常態的に使い回すことで、誰への回帰を約束しない裏に隠れていたノッペラボウが露呈する。

演技に使役されるに従って彼女は薔薇座の裏方への配慮を高めていく。具体的には「舞台裏の人々の間をまわって、皆に煙草を一つずつ配った。そして、それが私の日課になった」のは、まことに象徴的だ。根回しがなければ劇は崩壊する。舞台は仮面を被った役者だけで成り立っているのではない。

仮面紳士と逃亡奴隷

このような小説の筋立ては、「『火の鳥』は『小説の方法』の理論に基く作品」(「私の実験工場と作品」)という自作評を仲介せずとも、伊藤が抱いていた文学観を容易に連想させる。

伊藤が提唱した有名な概念に「仮面紳士」と「逃亡奴隷」という対がある。これは伊藤文学論の代表作『小説の方法』(一九四八年)にも通底している、その名も「仮面紳士と逃亡奴隷」というエッセイのなかで提示された。

伊藤によれば、日本の小説は外国文学のスタンダードな歴史からしてみれば奇矯な進化を遂げている。いわばガラパゴス化している。どういうことかといえば、日本では作家の身辺雑記をフィクションを交えず、あるがままに曝け出すような自伝的私小説が強い力をもっているが、こういったことは虚構の作品世界をつくりこむ本格小説を王道とする海外では余り見られない現象だ。

なぜこのようなことが生じるのか。伊藤の説明によれば、社交界に象徴される公的な場で他者と頻繁にコミュニケーションをせねばならない西洋の作家は、円滑なコミュニケーションのために自分のエゴイズムを抑圧する偽善的な仮面を身につける必要がある。これと並行して、本来ならば己の醜いエゴを仮託したいと思っている文学作品の主人公さえも素直に造形することはかなわず(危ない奴だと思われたらどうしよう!)、社会の調和を乱すような性格はことごとく虚構のものとして仮装しなければならない。そうでないと、社交の仲間からハブられてしまう。

これとは反対に、日本では生活の糧を出版業界に求めることで、厳しい社会(現世)から逃走して、社会人的常識を身につけない自由人として振る舞うことが許される。芸術への邁進によって道徳を逸脱したり身を崩したりしても、その事実そのものを嘘偽りなく暴露することで芸術至上主義的な評価に転換する術が日本の作家には残されている。

無論、西洋作家は「仮面紳士」で、日本作家は「逃亡奴隷」に分類される。「日本人は仮面を必要としない。フィクションなどは阿保らしいのである。フィクションなどというのは、夕方に燕尾服を着て出かける連中のすることである。奴隷にていさいはいらない」のだ。

本連載の言葉でいえば、「逃亡奴隷」とは、他者に頓着しないキュクロプスにほかならない。

参考文献

  • 伊藤整『得能五郎の生活と意見』、『伊藤整全集』第四巻、新潮社、一九七二年。とりわけ、一四九頁。もとの単行本は、河出書房、一九四一年。
  • 伊藤整「仮面紳士と逃亡奴隷」、『伊藤整全集』第一六巻、新潮社、一九七三年。とりわけ二九一頁。
  • 伊藤整『火の鳥』、『伊藤整全集』第五巻、新潮社、一九七二年。とりわけ、三一四頁、三二五頁、三三七頁、三三八頁、三六三頁、三六七頁、三八四頁、四〇二頁、四一二頁。もとの単行本は、光文社、一九五三年。
  • 伊藤整「私の実験工場と製品」、『伊藤整全集』第一七巻、新潮社、一九七三年。とりわけ、四四〇頁。初出は『朝日新聞』、一九五四年九月三~五日号。
  • 多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』、岩波現代文庫、二〇〇〇年。