第4回 ポスト個人主義の無責任?

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。第4回は、平野啓一郎、鈴木健が唱える「分人主義」の検証。

 

しかし、『エンジョイ』が示唆していたように、「空気」が交代可能なものだと分かったとして、このことは根本的な解決をもたらしはしない。単に「空気」に対して「水を差す」だけの行為に等しい。

正しく、山本七平は「空気」の対語として「水」を挙げていた。「水を差す」の用例で分かるように、「水」はノッペリと広がる一辺倒の雰囲気に抗う異見=異物として存在する。「空気」の盛り上がりは、現実から遊離した状況を生み出すが、一旦彼らが置かれている実際の現状を報告してやれば、一気に現実へと引き戻される。山本はこれを「通常性」という言葉でも理解している。

ただし、興味深いことに山本は、「空気」に対する「水」のツッコミによってでは「空気の支配」を脱することができない、と随所で仄めかしていた。

客観的状況に立脚する「水=通常性」の倫理は、「あの状況ではああするのが正しいが、この状況ではこうするのが正しい」といった、状況対応的な命令に堕している。このリアリズムの背面で語られているのは、間違っているのは状況(状況を作り出した連中)の方であって、その責任は自分にはない、という「自己無謬性」や「無責任性」である。

たとえば、カント倫理学のように、ある行為が超越的な道徳律に準じるか否かなどという審級は、ここではもはや問題にならない。

状況次第の「水」的倫理は、だから個人の自由な思考を許すものではない。「この『水』とはいわば『現実』であり、現実とはわれわれが生きている『通常性』であり、この通常性がまた『空気』醸成の基である」。「水」は結局のところ新たな「空気」に回収されて終わるのだ。

間違え続けの財産

丸山眞男とはやや異なる道筋をたどりながら、山本もまた日本的「無責任の体系」に直面している。これに対する山本の処方箋は、「あらゆる拘束を自らの意志で断ち切った『思考の自由』と、それに基づく模索だけ」という、現状分析の精緻さに比べややボヤけた印象を与える努力目標である。

しかし、そもそも、そのような「自らの意志」が消失しやすいからこそ、体系化した無責任が連帯の名の下に闊歩して、ときに「自己責任」語りを介して自らの免責を確保しようとするのではないか。

山本が念頭においているだろう、自分の頭で考える自律した近代的主体のモデル、より簡潔にいえば個人主義こそ、日本に根づかなかった最大の思想であることは、歴代の様々な日本文化論が喧伝してきたことだ。堂々巡りである。

無論、ここで小谷野敦『日本文化論のインチキ』を引き、そもそも日本文化を特殊とするような言説の多くは学問的な手続きにおいて誤っている――たとえば比較対象が西洋近代でしかない、たとえば検討されている日本人なるものがエリートに限定されている、等々――、と切り捨てて議論を終わらせることもできなくはない。

しかし、少なくとも、次のことは考えていい。即ち、日本が現実に世界から見て特殊であろうが一般的であろうが、表象の次元においてはポジティブであれネガティブであれ特殊化に関する言説の歴史があり、その枠組みの参照が延々反復されてきた、という事実だ。

仮にその反復性の構造自体もまた、近代国家一般に認められる特徴だったとしても、その具体的な内容は他に替え難いはずだ。青木保『「日本文化論」の変容』や船曳建夫『「日本人論」再考』など、日本文化論の系譜を歴史的に読み直すこと、つまりメタ日本文化論(日本文化論・論)の功績はそのような姿勢から生まれた。

すべてが間違っているのだとしても、間違え続けた歴史は大きな財産である。そして、訂正を介してもなお、その反復が継続されて現在に至ることを、とりあえずの現状分析としなければならない。

平野啓一郎の「分人主義」

個人主義という舶来品に対する日本人の違和感を逆手にとったのが、二〇一〇年代以降、しばしば注目される「分人」という概念だ。「分人 dividual」とは、「個人 individual」の変形概念であり、これ以上もう分割‐できないもの(in-dividual)としての自我観を拒否し、「私」は独立して存在しているのではなく複数のキャラクターやモードの複合によって成り立っている、という前提に基づいたフレキシブルな自我像である。

分人主義者の一人、小説家の平野啓一郎は『私とはなにか』のなかで、他者とのコミュニケーションや関係性において自分というものが自在に変容すること――クラスメイトに対する自分、両親に対する自分、恋人に対する自分――に注目して、「本当の自分」という観念には実体がなく、存在しているのは分人だけだと主張する。

平野によれば、「本当の自分」の強要は西洋の一神教に由来しており、その支配から外れる分人言説は広義での日本文化論を再生産しているといえる。端から一神教と距離のあった日本人にとって分人の発想は決して不自然なものではない。

複数の自分を統べる、核となる「本当の自分」に囚われてしまうと、「自分探しの旅」で徒労を味わい、過剰な同一性への執着が翻ってアイデンティティ・クライシスを帰結させる。ならば、核への信仰など捨て、ポートフォリオを組むように分割された諸人格で「私」をリスクヘッジすべきなのではないか。「他者を必要としない『本当の自分』というのは、人間を隔離する檻である」。以上のことを平野は自身の書いてきた小説作品、とりわけ『決壊』と『ドーン』という二つの大作を自己解説しながら問題提起している。

このように主張する論者にとって、個人が犯した犯罪行為の責任はどのように果たされるべきなのか。その答え方は錯綜しているようにみえる。

赤ん坊は様々な他者と対面しながら「分人化」のなかで成長する。故に、成長した少年が殺人を犯したとしても、「犯罪の責任の半分は、やはり社会の側にある」と平野は指摘する。責任も分散化すべきである――なぜ半分なのか? 三分の一や五分の四でないのはなぜなのか? という疑問は横におくとしても――。

ただ、次の頁を捲ると、この主張と矛盾するような文言に出会う。つまり、個人とは「(もうこれ以上)分けられない」ものであるが、「(もうこれ以上)」に注目するのなら、「他者とは明確に分けられ」、「だからこそ、義務や責任の独立した主体とされる」。よって、「罪を犯せば、それはやはりあなたがしたことで、他の人間は無関係である」と結論づけられる。

疑問が残る考え方だ。もし「分人化」の原動力が、孤独ではなく様々な他者とのコミュニケーションにあるのならば、個人の犯罪の責任を考量する上で「他の人間は無関係」とはいえないはずだ。逆に、「他の人間は無関係」な主体を設定してよいのならば、分人概念の背後にはやはり核となる「本当の自分」が鎮座していることを意味している。

平野の分人主義は明らかにこの困難を克服できていない。

鈴木健の「分人民主主義」

もう一人の分人概念の使用者、鈴木健はどうだったか。鈴木は『なめらかな社会とその敵』という書物のなかで、分人に基礎づけられた、新しい「なめらかな」未来社会を構想している。

たとえば、近代の選挙制度では個人に一人一票が与えられ、相応しいと思える候補者一人に投票を行う。しかし、分人を前提にした原理からすれば、その一人の単位を絶対視せず、票の分割や他の投票者への委託といったかたちで意志の「なめらかな」多元性を認めなければならない。「強い個人」を前提にしない新しい民主主義、それが鈴木のいう「分人民主主義 Divicracy」だ。

だからこそ鈴木が、冒頭部で第一に責任概念に言及していることは興味深い。鈴木は簡単に帰責対象を見出せないような複雑系の社会のなかで、責任なるものが、やはりスケープゴートとして働くフィクションであることを強調し、「責任をとらせようとすればするほど、誰も責任をとらせなくてもよいような社会制度が生まれてしまう」パラドックスに注意を促している。

解決の道筋は、潔くすべての責任を負うヒロイックな個人への期待を捨て、分人がそうであったように、「今まで負ってきた責任を分散化させることによって、国家や個人を楽にしてあげること」にある。「なめらか」とは、いままで壁のように自他を区別していた境界を透過性の高い膜に替えることで、我がことを世のこととして、世のことを我がこととして捉えようとするアイディアである。こうして「なめらかな社会」において所有の観念は、私有でもなく公有でもなく、共有へと交代していく。

故に、この本の「あとがき」にはクリシェとしてしばしば繰り返される著者責任を斥けるような文言が記されている。「本書の責任は著者の私にあるというのが、よくある表現なのだが、どうも納得がいかない。ここで名前を挙げたみなさんも、挙げられなかった方々にも、本書の内容には少しずつ責任をもっていただこうと思う」。

体系が反転する?

分人主義者は、「無責任の体系」の困難に突き当たっているようにみえる。

平野の場合は、無責任に堕落する危険を素早く察知したためか、「義務や責任の独立した主体」を切り崩すことはせず、帰責先となる旧来からの近代的主体を保守的に温存している。

だが、その振る舞いは、「分人」なるものが所詮はコミュニケーションの多元性を称揚するプロパガンダでしかなく、その多元を束ねることができる強力な自己の幻想の強化に終わっている。

他方、鈴木は「無責任の体系」に対する危機感を明確に意識しつつ、逆に「分人」の発想が、独特の責任意識の達成に通じている、と考えているようだ。

たとえば、鈴木が指摘するに「多くの日本人にとっては、政府とは責任を押しつけるべき対象の他人でしかない」。俗にいう、お任せ民主主義である。このような無責任の態度を転回させるためには、「私たちの政府なのだ」という自覚が必須である。

これを調達するためには、個人を標準とした間接民主主義の年一回の選挙などではなく、分人として日常的に細かに参加できる直接民主主義的な制度でその感覚を涵養せねばならない。

いわば、「無責任の体系」を分人的ネットワークを介して、責任の体系に反転させることに、鈴木の企図があるといえよう。しかし、依然としてその事態が、北田暁大のいう「責任のインフレーション」との危うい背面で成立している点は注意しておいていいだろう。

鈴木は責任問題の厄介さを回避するため、個人に紐づけられた責任概念がそもそも失効してしまうような新しい環境=社会システムを構想している。

断っておけば政治制度の観点において、この未来像には大きな期待を寄せることができる。けれども、倫理的な観点からみて、たとえば平野的な論題に十分応答することができるかは疑問だ。分人が殺人を犯したとして、その罪は誰に帰せればよいのだろうか。分人民主主義の問題圏はその埒外にあり、おそらくは鈴木もまた、身体の個別性によって輪郭づけられた個人の観念を脱却しようとはしないだろう。

丸山や山本からみれば、分人主義者は個人主義の根づかない日本の無責任体制を、世界的に先駆するポスト個人の思想として読み直しているに等しい。けれども、分人は、他人が集うその場の「空気」を読むことにだけ必死で、自分の頭で考えようとしないポピュリストに堕落し、あまつさえそれに居直る危険がある。

近代の幻想にいつまでもしがみつく頑固者からみれば、そのように評価されてもおかしくないだろう。


参考文献

  • 青木保『「日本文化論」の変容――戦後日本の文化とアイデンティティー』、中公文庫、一九九九年。もとの単行本は中央公論社、一九九〇年。
  • 小谷野敦『日本文化論のインチキ』、幻冬舎新書、二〇一〇年。
  • 鈴木健『なめらかな社会とその――PICSY・分人民主主義・構成的社会契約論』、勁草書房、二〇一三年。とりわけ、二九頁、四三頁、二二四頁、二五四頁。
  • 船曳建夫『「日本人論」再考』、講談社学術文庫、二〇一〇年。もとの単行本は、日本放送出版協会、二〇〇三年。
  • 平野啓一郎『私とはなにか――「個人」から「分人」へ』、講談社現代新書、二〇一二年。とりわけ、九八頁、一六二~一六四頁。
  • 山本七平『「空気」の研究』、文春文庫、一九八三年。とりわけ、一一二頁、一六九頁、一七二頁。もとの単行本は文藝春秋、一九七七年。