最終回 応答を先延ばしにすること

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園球児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察、いよいよ最終回。

日本人が海外でテロリストの人質になるとさかんに自己責任論が叫ばれる。アイツは周囲が止めるのも聞かずに勝手に危険地帯に赴いたのだ。ほっておけ、我々の知ったことではない。いささか個人主義的にみえる他人を突き放した考え方。

他方で、甲子園球児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場になる連帯責任という、やはり日本でよく見慣れた光景は、この自己責任論と相反する責任概念を提示しているようにみえる。君たちはアイツの仲間であり、チームメイトなのだからともに処分を受けるべきだ。共同体主義とでも呼べる、人々をよくも悪くも包摂した考え方。

私たちはもう、このどちらかを選ぶべきだ、といった牧歌的な選択肢の前に立っていない。自己責任にしろ、連帯責任にしろ、帰責の操作の背後で、意図的な、いや原理的に不可避の責任転嫁が生じてしまう。即ち、社会生活のなかで身につけなければならない匿名性によって帰責の確たる対象を指定できず雲散霧消してしまう。逆らえる空気じゃなかった。役割だからやったんだ、文句なら上の担当者に。日本人ならみんなやっていること。

責任逃れを正当化するための材料はその気になれば無限に探し出すことができるし、実際、ときにそれはかなり尤もらしくもある。ある母親がわが子を虐待したとして、彼女の生育環境が圧倒的な暴力に満ちていたことを知ったとき、私たちはその責任を、なんの躊躇もなく彼女にのみ押しつけることができるだろうか?

逃げ去りやすい責任を手放さないため、レヴィナスは逆転の発想でもって切り抜けた。つまり、転嫁するのは結構だけれども、責任をただただ一方的に引き受けることによってのみ、人間は人間らしくなれる、本当の意味での主体になれるのだよ、と。つまり、人間の犯した行為に責任を問うのではなく、人間の条件として責任を考えたのだ。

もっとも罪深いのはこの私

聞きなさい。あなたの部下が暴行を犯しました。これはあなたのせいです。東京の繁華街で無差別殺人が起こりました。これもあなたのせいです。大阪でシングルマザーが幼い子供を手にかけました。これもあなたのせいです。中国でビルが倒壊し、百人以上の人々がなくなりました。これもあなたのせいです。この島と神戸を揺るがした地震で数千もの人が亡くなりました。これもあなたのせいです。毎年毎年、人知らず自ら命を絶つ者が何万人もいます。これもあなたのせいです。今もどこかで誰かが人格を否定され、食べ物さえ与えられず、あらゆる凌辱を受けながら、死んでいこうとしています。はい、これは、誰のせいですか?(上田岳弘『異郷の友人』)

勿論、「あなた」のせいだ。

上田岳弘『異郷の友人』に出てくる、Sという新興宗教の教祖は、このように述べて、略奪行為をする海賊の団長を説き伏せる。「全ての責任は自分にあると思わなければなりません」を教義とする彼の教えは、容易にレヴィナスの無限責任を連想させる。というのも、レヴィナスのいう責任とは、「責任が引き受けられれば引き受けられるほどに責任が増大してゆく」借金地獄のような負債、完遂しない応答可能性のことを指すからだ。

レヴィナスの無限責任は、この世界のすべてを背負おうとする。彼がよく好んで引用するドストエフスキー『カラマゾフの兄弟』の言葉でいえば、「私たちはみな、すべての人に対して、あらゆる面ですべてのものごとに対して罪を負っているのですが、なかでもいちばん罪深いのはこの私です」という、宗教的に洗練された自意識過剰こそ、実は責任なるものの根柢をなしている。レヴィナスにとってそれは人間的主体の条件でもあった。

パス・ゲームを断ち切る極論

しかも、一見極論のようにもみえるレヴィナスの宗教哲学的な立論は、しかし責任という概念が本性的に抱えている不思議な終わりなき性格に確かに触れているように思える。自分の行為が起こした、ある過失の責任を(たとえば丁寧な説明、謝罪、賠償といった仕方で)果たしたとして、何食わぬ顔で、自分は責任を果たしたのだからもう無関係だ、と言い直ることには、どこか無責任な響きがある。予め責任の範囲を区切ること、責任を単なるある具体的なタスクの遂行に還元することには、なぜか抵抗感が生じてしまう。

レヴィナスはあるインタビューで「私は他人の責任に対してさえ責任を負っている」と述べる。大きな事故を起こしてしまい、責任を果たすため、こちらが必死で謝罪と賠償に尽力した結果、家族や職や財産を一切失くしてしまい、被害者の方が申し訳なく感じたとして、その責任もやはりこちらにあるといわねばならないのではないか。もっといおう。自分の子供が殺人鬼に殺されたとして、殺した彼が改心してついには自死さえも願っているとき、子供を殺された親にその犯罪者に対する応答の切迫が生じないと果たしていえるだろうか。人間はまったく責任を感じなくてもいいことでさえなぜか責任を感じてしまう。

アレもコレも、ほかならぬ、この私のせい。責任を無節操に請け負っていくレヴィナス的責任論ならば、転嫁のパス・ゲームを断ち切って、「無責任の体系」、或いは責任のインフレを止めることが確かにできよう。

応答のリズムを引き延ばす

しかしながら、ヴェール的匿名性は、そのような有責の私を一時解除することで、過剰責任を宙吊り状態に置く。その帰責が間違っているからではない。そこで問題になっている私なるものが渦中の現在の私でしかないことに否を唱えるためにこそ、面紗で自分自身と出会い直すことが求められる。正義の人である井上達夫だけではなく、レヴィナスですら、顔から逸脱していく第三者の視線を無視することはできなかった。

ヴェールが求める正義とは、いわば、己に対してであれ他者に対してであれ、帰責の短絡を禁じて冗長化することで応答のリズムを引き延ばすことにある。責任の時間を吟味することにある。

これは新しい責任逃れの方法だろうか。或いは、そうかもしれない。しかし、往々にして私たちは他者の顔を見ていると高をくくりながら、その実、日本人や女性やフリーターの面を見ているにすぎない。そして、いつのまにかペルソナはノッペラボウに滑り落ちている。役割に応じた強い責任意識は、役割外の無責任を同じくらい強く肯定する。彼はそのことに気づけない。自分は立派な責任を果たしていると思っているのだから。そう、だからこそ、責任を仮想的に解除する真空のなかで改めて自分自身と出会い直し、他者と出会い直さねばならない。

あなたが思っているあなたは決してそれに尽きるあなたではなくて、それと同じように、あなたが思っている彼は決してそれに尽きる彼なのでもない。責任を果たすことがもっと大きな責任回避の免罪符とならないように、無限責任を負うヒーローがそのヒロイズムに酔わないように、オデュッセウスはウーティスと相伴する。

還るべきところに還ろう。きみはウーティスと言わねばならない。

 

参考文献

  • 上田岳弘『異郷の友人』、新潮社、二〇一六年。とりわけ五三~五四頁。
  • レヴィナス、エマニュエル『全体性と無限』下巻、熊野純彦訳、岩波文庫、二〇〇六年。とりわけ一四九頁。原著は一九六一年。
  • レヴィナス、エマニュエル『倫理と無限――フィリップ・モネとの対話』、ちくま学芸文庫、二〇一〇年。とりわけ一二五頁、一二七頁。原著は一九八二年。

*「きみはウーティスと言わねばならない」は今回で終了です。長らくご愛読ありがとうございました。本作品は推敲のうえ、来年単行本化の予定です。ご期待ください。

 

1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophやパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)など。最新刊は『仮説的偶然文学論』(月曜社)。twitter:@arishima_takeo

第22回 彼性とイリア

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。第22回は、レヴィナスの対面の倫理にふくまれる危うさについて。

ここまで何度も世話になってきたアレントの語彙を懲りもせずまた拝借してみれば、レヴィナスは「何」を介することなく他者のユニークな「誰」(=顔)と対面することができる……し、それを経ることによってこそ人間の主体性や責任が誕生するのだ、と考えた思想家だ。「何」はユニークな他者をユダヤ人や中年女性といった紋切型の分類パターンに押し詰めて理解する非倫理的な暴力にほかならない。そういった共約可能な「何」の流通は、反対に、赤裸の「誰」との対面から事後的に生まれてこなければならない。

けれども、そのようなレヴィナス哲学のなかにも対面の倫理を危うくさせる契機がふくまれていた。とりわけ「第三者」の概念に注目してみたとき、その困難はより克明に浮かび上がってくる。

『全体性と無限』の「第三者」

私と他者の顔との対面関係を重視するレヴィナス哲学にとって、第三者性が二者関係に収まらない不穏な予兆をもっていることは想像に難くない。

勿論、歴史主体論争で参照されていた一九六一年刊行の主著『全体性と無限』においては、その第三者性は、「第三者が、他者の眼のなかで私を見つめている」と、対面のなかに組み込まれることによって、表面的な動揺を回避している。

そもそも、レヴィナスは他者に対する反応と責任=応答を区別していた。なぜなら、「応答は「私たちのあいだ」にはとどまることができないからである」。

難しいが例を考えてみる。道を歩いていると後ろで大きな音が鳴る。振り返ると大木に雷が落ちたようで、ぼうぼうと燃えているさまを目撃する。消防署に連絡をした方がいいかと思って携帯電話に番号を打ち込む。振り返ること、目撃すること、電話をかけようとすること、これらはすべて、「私たちのあいだ」――私と雷、私と火事、私と消防署――に終始する反応にすぎない。

けれども、倫理的応答はこういった反応とは異なる。道を歩いていると、ホームレスの男が残飯を漁っている。偶然、彼と目が合ってしまい、バツが悪くて早足でその場から逃げてしまう。そこには自分とホームレス以外、誰もいなかった……が、にも拘らず、自分の行動はあれで正しかったどうか自問してしまう。妙な罪悪感が拭えない。

ここにおいて、自問や罪悪感は、反応を超えて、責任=応答と呼ばれるに相応しい。私とホームレスの対面は単に「私たちのあいだ」で終わるものではなく、ホームレスを通じて、貧しき者に対していかに振る舞うべきか、という万人に関係する普遍的次元が立ち上がっているからだ。これをレヴィナスは平等性という概念を仲介することで説明している。

貧しい者、異邦人は平等なものとして現前する。その本質的な貧しさにおいて、彼らの平等性 égalitéは第三者を参照することで成立している。すなわち、第三者は出会いに居あわせ、〈他者〉は悲惨のただなかにおいてすでに第三者につかえているのである。(レヴィナス『全体性と無限』、若干訳を変えた)

ここで言及されている「第三者」が、具体的なあれこれの彼や彼女のことを指していないことに注意しておきたい。この「第三者」は、対面関係のなかで働く潜在的な局外者に等しく、「すべての人間」が圧縮された代表のようなものだ。そしてその普遍人は、驚くべきことに、具体的で代替不能な他者の顔のなかに宿っている。

目の前の他者は他者の他者という通路をも開く。この逆説的なシカケのおかげで、レヴィナスは二者の対面関係を崩すことなく、対面の狭さを超えていく第三者を他者の倫理学に組み込むことができたように思われる。

彼性が貨幣を可能にする

レヴィナスはこれを「彼性 illéité」という言葉でも呼んでいる。フランス語の彼(ilとラテン語のそれ(illeを元にしたレヴィナスの造語である。「何」的理解をあくまで拒絶し、存在の彼方を指し示すものの、他者の顔を介して私と倫理的に関わっている誰でもないもの。「聴取するに先だって私が服従しているような命令の到来」。ほとんど神に等しい超越性を顔に組み込むことをその語は命じている。

彼性をてっとり早く理解するために、大澤真幸の「第三者の審級」、とりわけ貨幣論に応用した議論を引いてみよう。

普通に考えて貨幣を手元に置いておくことは危険なことだ。なぜならば、それは貝殻だったり金属片だったり紙でしかなく、水や食べ物のように使用価値がないからだ。貨幣が価値をもつとすれば、それは相対する他者の商品と交換できるときだけだ。では、その他者はどうしてわざわざ危険な貨幣を受け取ってくれるのか? 勿論、他者の他者が同じく貨幣を受け取るだろうと信じているからだ。では、他者の他者の他者は? ……以下、無限につづく。

彼性とは要するに、危険な貨幣を引き取ってくれるはずの「コミュニケーションそのものに直接に参与せずに、しかしその可能性の条件を提供しているという意味で、超越的な第三者として機能している」不在者のことだ。レヴィナスは他者の顔のなかに全体性に汲み尽されない無限を読むが、この貨幣の仕組みを理解すれば、顔が無限性を帯びるのは第三者が無限的であるからだと理解できる。潜在的第三者は決して顕在化することなく、他者の他者の他者の……という無限の構造を対面のなかに組み込むのだ。

イリアという悪

レヴィナスの初期からの重要なタームの一つに、イリア(il y a)というものがあった。英訳すれば、there is(are)~のこと。つまり、なにかが「ある」ことを表現するときに用いる定型的な言い回しだ。

その名も「ある」という論考で、レヴィナスは、なんだか分からないけれども、依然として「ある」としかいいようのない不定形な存在をイリアと呼ぶ。それは、名詞として括ることのできない存在それ自体の喧騒だ。

「何かが生じる」の無規定性は、非人称構文における三人称の代名詞のように、不分明な動作主をではなく、いわば動作主をもたない匿名の行為を指している。非人称、匿名ではあるが、消化することのできない存在のこのような焼尽、無それ自体の奥底で囁くこの焼尽、われわわれはそれをあるil y a)という語で表現する。あるは、人称形式を拒むがゆえに、「存在一般」なのである。(レヴィナス「ある」)

あなたの目の前にあるコレもアレもイリアではない。イリアは、指し示すことすらできないような属性や位置を欠いた赤裸の存在だ。自然そのものといってもいい。

二つのイル

イリアのilとは、英語でいう三人称単数のheと同じものだが、ここで念頭におかれている用法のilは一般に非人称のilと呼ばれ、主語ならざる主語として機能する。

例を挙げてみれば、フランス語で、雨が降っているは Il pleutという。pleutとは動詞pleuvoir(雨が降る)の変化形。ここでのIlは具体的な対象(人称)を指しているのではなく、一種、構文上便宜的な主語の役割だけを果たしている。これが非人称のイルであり、イリアとは、そのイル(il)がそこで(y)持つ(a=動詞avoirの変化形)というかたちをもった定型句だ。

だからイリアは、必然、レヴィナスの「顔」の対義語と理解しても構わないほどの対照をみせている。人称の基礎をなす顔概念、そして、顔に対面する意識主体、これが即ち責任主体でもある。以上のような概要で流通するレヴィナス倫理学は、その意味でいえば、イリアをいかに克服するかの思索だったと約言してもいいかもしれない。

実際、レヴィナスはインタビューで「他人に対する責任、他者に対する存在が、存在の匿名的で無分別なざわめきを止めるように思えた」と回想している。

だからこそ、レヴィナスの思想体系には、対面の契機を前後にして、二つのイルがあったことが分かる。つまり、輪郭を失った匿名的な存在一般を指す非人称のイル(=イリア)と、対面関係に潜在する三人称のイル(=彼性=イレイテ)だ。

驚くべきことに、悪の匿名態であるイルを克服せんと企てたレヴィナス倫理学は、正義の匿名性を考えるなかで、抑圧していたイルが回帰してくることを許してしまう。『全体性と無限』から約三〇年経って刊行された後期の主著『存在するとは別の仕方であるいは存在することの彼方へ』では、「第三者」の概念を対面の顔にとどめておくことができず、複数の他者に同時に直面する現実の事態を指す言葉へと変容する。潜在的に予感されていた、この二者的対面の破れは、愛に引きずられない正義の領分の始まりであると同時に、無責任の悪をばらまくノッペラボウの深淵なのではないか。

参考文献

  • 大澤真幸『恋愛の不可能性について』、ちくま学芸文庫、二〇〇五年。とりわけ一〇六頁。単行本は春秋社、一九九八年。
  • レヴィナス、エマニュエル「ある」、『レヴィナス・コレクション』収、合田正人編訳、ちくま学芸文庫、一九九九年。とりわけ二一五頁。もとの論文は一九四六年。
  • レヴィナス、エマニュエル『全体性と無限』下巻、熊野純彦訳、岩波文庫、二〇〇六年。とりわけ七三~七四頁。訳文を変えた箇所がある。原著は一九六一年。
  • レヴィナス、エマニュエル『存在の彼方へ』、合田正人訳、講談社学術文庫、一九九九年。とりわけ四五頁、三四一頁。原著は一九七四年。
  • レヴィナス、エマニュエル『倫理と無限――フィリップ・モネとの対話』、ちくま学芸文庫、二〇一〇年。とりわけ五九頁。原著は一九八二年。

1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophやパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)など。最新刊は『仮説的偶然文学論』(月曜社)。twitter:@arishima_takeo