第21回 レヴィナスから読む歴史主体論争・後編

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。第21回は、高橋哲哉・加藤典洋の歴史主体論争をレヴィナスから読み解くその後編。

前々回、井上達夫の普遍的妥当性に耐える「逞しきリベラリズム」に一瞬だけ言及した。実は、井上式リベラリズムもまた、レヴィナスを両義的な仕方で組み込んでいた。

第一に肯定的な仕方で。「逞しきリベラリズム」は、自分が自明に抱くアイデンティティの自由を確保するだけの保守的性格に留まるのではなく、自分たちが依って立つものの解釈を異にする他者と出会うことによって狭い自己中心性を瓦解させ、自己超越の契機も孕んだ自由の鍛え上げも同時に命じる。主体との同化を免れ、反対に主体を審問しつづけるレヴィナスの絶対的他者論には、そういったリベラリズム更新の可能性がある。

とりわけ、レヴィナスによれば、「正義とは他者のうちにわが師を認めることである」。倫理的な正しさは常に他者の方にあり、それを前にして、主体は非対称的な仕方で自らの自由を最終決定なく審問するほかない。他者に宿る正義を介して自分の好き勝手な自由を自ら裁くとき、各人の自由の分配に齷齪する通俗的リベラリズムとは一味も二味も異なる、鍛えられたリベラリズムが結実する。

逞しきリベラリストも顔を見ない

が、修正的な仕方でも言及せねばならない。繰り返すが、レヴィナスは、正義をふくめた倫理の根幹に「顔」、井上のパラフレーズするところの「人称的対面性」を見出した。けれども、井上の不満は正にここにある。つまり、顔への執着こそが、対面していない他者への倫理的配慮の欠如を生み出してしまう、という目の前の他者優先という残酷さ、に井上は無関心ではいられない。

私の大切な他者たる〈あなた〉に自己犠牲を厭わぬ配慮が払われる陰で、私と没交渉に生きる無数の他者が忘却の淵に追いやられる。かけがえのない唯一者として特権化された〈あなた〉への配慮のコストが、忘却された無数の他者、すなわち公衆に転嫁されることさえ起こりえよう。レヴィナスの主張に反して、人称的対面性への固執こそが、見えない他者を「欠席裁判で裁く」ことになるのである。(井上達夫『他者への自由』第三部第七章)

顔を見ないからこそ、目の前の人に気取られない普遍的な正義の原理を参照することができる。正しさを決める法の天秤、目隠しした正義の女神ディケーの審判は、〇〇さんだから、という属人性で決定されるべきではなく――それは愛の仕事だ――、裁くべき行為を抽出して杓子定規な仕方で匿名的に下されねばならない。

要するに、井上も高橋哲哉と同様、レヴィナス哲学のキモともいえる顔の直視を、ある段階で避けようとするのだ。

興味深いことに、高橋の『戦後責任論』と井上の『他者への自由』はともに一九九九年に出版されている。ただし、文献の上で相互の参照があるわけではない。では、なぜこのような一致が生じるのか。当然、二人のレヴィナスへの関心が「正義」概念に偏っているからだ。内田にいわせれば、どちらも循環を促す「愛」の契機が消えてしまっている。

他者の政治的選択

内田樹の歴史主体論争へのアドバイスは、高橋に対して、他者の顔を思い出せと命じているのに等しい。内田によれば公平無私の態度でなされる判断の根っこにはかけがえない他者への愛があったはずだからだ。正義は愛を忘れてはいけない。

けれども、逆にいえば、同じ論法で愛こそが厄介なのだともいえる。高橋の観点からすれば、加藤典洋は身近な他者への愛に引きずられることによって、正義の公平性を忘れ、自国の兵士を優先する(「空気」に漲る)同調圧力に屈してしまった。身内贔屓の批判である。同時期、井上達夫のリベラリズムは、この種の不正義を恐れていた。

内田樹は「高橋の前には二種類の「他者」がいる。「侵略者である兵士たち」と「アジアの死者たち」である」と整理するが、ここには内田のアドバイスを受け入れてもなお解決困難な、他者の政治的選択の問題が横たわっている。どの顔に対面してしまうのか、必ずしも自分の意志で選択したわけではないにも拘らず、その順位自体がただちに政治的な主張や立場の偏りに回収される。

他者とは、アレントが強調したように、単数形ではなく複数形で関係性のウェブを紡ぎ出している。そのとき、対面の契機は、彼らの他者性比較の政治的磁場から自由ではなく、残念ながら、すべての顔に同時に対面することは不可能だ。論争が露呈させたのは、他者の優先順位をめぐるシビアな闘争だった。

顔から逸れていく

高橋や井上のレヴィナスへの無理解を責め立てたいのではない。ここで確認したいことは、対面の哲学として有名なテクストのなかにさえ、顔を無視して「誰でもない」面に向っていくようなアスペクト――レヴィナスにとっては「正義」、彼はその次元を「彼性 illéité」という言葉でターム化してもいる――があったということだ。

井上は偏っていない公平性、即ち不偏不党性を帯びた「正義概念の非人称性・匿名性は非人格性と同じではない」として、レヴィナス的「顔」を乗り越えた普遍的リベラリズムを構想する。

この非(没)人格性から区別された特別な匿名性を、私たちはもう知っている。勿論、ヴェール的匿名性のことだ。ヴェールはノッペラボウに呑み込まれない仕方で、にも拘らず、固有の人格をもった個人の体裁を維持したまま、「人称的対面性」で用いるペルソナの状態を点検する。私たちはロールズのヴェールを、いささか大胆に、そのように再解釈してみたのだった。

参考文献

  • 井上達夫『他者への自由――公共性の哲学としてのリベラリズム』、創文社、一九九九年。とりわけ、二二七~二二九頁。
  • 内田樹『ためらいの倫理学――戦争・性・物語』、角川文庫、二〇〇三年。とりわけ、一二三頁。元になった単行本は冬弓舎、二〇〇一年。
  • 加藤典洋『敗戦後論』、ちくま文庫、二〇〇五年。とりわけ、一一八頁。元になった単行本は、講談社、一九九七年。
  • レヴィナス『全体性と無限』、合田正人訳、国文社、一九八九年。とりわけ、九六頁。原書は、一九六一年。