第12回 一般意志と私利私欲

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。第12回は、清水幾太郎の「匿名の思想」が持つ政治的可能性と、東浩紀が提示する概念「一般意思2.0」との間に導線を引いてみる。

清水社会学には、「匿名の思想」と一見よく似た「宇宙的連帯」という概念があった。

一九三三年、東京帝国大学の社会学研究会の副手に就いたものの、指導教官の戸田貞三とうまく折り合いがつかず、教授職の希望が途絶えた清水は研究室を去って一人の売文ジャーナリストとして出立する。

竹内洋がその「正系的傍系」知識人の形成過程を論じているが、大学卒業後、家族を養うために日銭を稼がなければならない非アカデミックな雑事に追われ、清水は自分というものの係累を実感する。心理学者で友人の宮城音禰に笑われつつも、彼は次のように書いていた。

自分といふものの輪郭が邪魔になり、これに伴ふ責任が恐ろしかつた。私は、巨大なものへ融け込んで、自分の輪郭が失はれることだけを願つてゐた。宇宙的連帯といふ滑稽な言葉をつくり、これにわざわざsolidarité cosmiqueとふやうなフランス語を当てて、宮城音禰に笑はれた。〔中略〕自分をこの宇宙的連帯の中へ置いて見たかつたのだ。流れるままに流させたかつた。その流れの中で凡ゆる責任を免れたかつた。危険な思想である。(清水幾太郎『私の読書と人生』)

主観的なものを集計する

振り返れば北田暁大のいう「責任のインフレ」は、宇宙との連帯を帰結させるようにみえた。清水は「自分の輪郭」を積極的に放棄することによって、自分自身をなめらかにし、世間の文脈に融け込み、宇宙的連帯を回復させる、と同時に、個人に帰責される重圧からの自由を希求した。「インフレ」がまたも回帰している。

この「巨大なもの」融合への誘惑は、一見「匿名の思想」に至近した世界観を提示するかにみえる。

ただし、「宇宙的連帯」概念を活用した戦時中唯一の長篇論文「現実の再建」では、すべてのものがすべてのものに関係していること、「物が物を呼ぶ過程」の意として「宇宙的連帯」の語が用いられている。人間は自らの関心に従ってその過程を恣意的に切り取って「私的宇宙」を形成するが、元来、自然は人間の関心より広大である。別の言葉でいえば、「私的宇宙」には忘却された外部性が必ず附帯している。つまり、個人的主観の偏った観点から観察されることのない純粋客観世界の因果関係が主観の外部に広がっているのだ。

だからこそ、「宇宙的連帯」は厳密にいえば、人間、とりわけ国民の単位で表出する行動の統計的表現であるところの「匿名の思想」とは似て非なるものだ。「匿名の思想」は主観を排した客観世界ではなく、複数の主観的なものがそのまま集計されたさいに浮かび上がってくる一定の傾向性を指すからだ。

無論、その集計的主観性と物の因果的連鎖過程との区別を、果たして本当に維持できるかには疑問も感じないではないが。

情報技術のなかの「一般意志」

とはいえ、「宇宙的連帯」と一応は区別される「匿名の思想」には、ヒロイックな個人に請け負われる責任とも、世界に「流れるままに流させた」い没我の無責任とも異なる、デリケートな責任論を期待できる。

たとえば、東浩紀の「一般意志2.0」という概念は、その基本的アイディアをジャン=ジャック・ルソーから借りながらも結果的に、「匿名の思想」の政治的可能性、一つの声=票以前の息遣い的民主主義の実現を目指しているようにみえる。

ルソーは『社会契約論』において、複数の個人の意志の集合体として、「全体意志」と「一般意志」を区別する。前者は個々人の意志の単なる合計に過ぎないが、後者はその合計から相殺するプラスとマイナスを取り除いた「差異の和」を示す。「一般意志」には算術的操作が施されている。

この特徴から東は一般意志を数学的存在と読み、二一世紀の情報技術を介在させることで、一般意志を高度に洗練されたビッグデータ的集合知に、そして新しい民主主義のシステム構築に活かすことができると考えた。これがルソー的一般意志をアップデートした「2.0」の所以である。

新しいとはいっても決して大仰なSF的設定を思い浮かべる必要はない。

東に従えば、更新された一般意志の集計は誰の統率に従うでもなく環境的に進んでいる。たとえば、Googleの検索エンジンは、自分自身を含めた世界中のユーザーが行った検索行為の履歴をフィードバックすることで、個々人にとって最適なページを優先的に表示しようとする。Twitterに代表されるSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)上での何気ない書き込みも同様の活用を期待できる。統計的な処理を経たとき、匿名的思想の「無意識の欲望のパターン」がここに表出している。

清水幾太郎は「匿名の思想」のことを「国民の行動のカーヴ」と呼んでいた。今日の情報技術は、そのカーヴ(曲線)を数学的に集計して共有することのできる環境を整備しつつある。

カーブであれパターンであれ、現代的に更新された一般意志のデータベースは、「誰でもない」の声ならざる声として、政策決定のプロセスにこまやかに介入して、より人々に開かれた民主主義の可能性を開拓するのだ。

一般意志1.5

ここで東浩紀の名を挙げたのには理由がある。

なにを隠そう、東は加藤典洋を批判した高橋哲哉の弟子筋の哲学者であった。しかしにも拘らず、とりわけ『一般意志2.0』において、その思想傾向は高橋というより寧ろ加藤の方に至近している。

無論、弟子が師匠を模倣しなければならない謂われはないが、いささか不思議なこの現象を読むために、再び加藤の『戦後的思考』を紐解こう――ちなみに、この本が文庫化(講談社文芸文庫)されたさいの文庫解説は東が担当し、後に相互に好意的な対談も実現した――。

加藤はアレントが軽視した「私利私欲」を補填する思想家として『社会契約論』のルソーに筆先を移す。加藤に従えば、ルソーは、「私利私欲」を捨てられない個々の人間が、けれども、それがために却って公的な共通の制度(社会契約)を結ぼうと決起する逆説を考え抜いた思想家だ。ここに「私利私欲を否定することなく、「悪から薬をとりだす」ように、むしろそれに基づいてそこから公共性を作りだすカギ」がある。

具体的には近代以降の法の感覚、約束(=契約)の拘束力を想起すればいい。その力の権威は、君主の命令や過去から続く因習に根拠をもつのではなく、約束によって自分で自分を縛るというトートロジカルな自己統治の論理に依拠している。

偉い誰かに命じられたから、ではなく、自分(達)で決めたことだから守るんだ! なぜ「私利私欲」の人間が、法に従うかといえば、「それ以外に、自分の上に権威者を戴かずにすむ方法はない」からだ。自分で自分を支配する限り、誰からも支配されない自由がもてる。

加藤の理解によれば、「その法の尊厳の根源を一般意志と呼」んでいい。一般意志とは、ある法律の条文に表れるのではなく、みなが守らなければならないことがあるというメタ法的なフィクションだといえる。そして、これを支えるには各人の相異なる「私利私欲」の土台が必須なのだ。

加藤の私性に基礎づけられた一般意志論は、比喩として、「三十のコンピュータが互いに交信する」ための「交差点としてのメイン・ポスト」を採用している。加藤にとって一般意志はあくまで人々の合意の根拠として機能する仮構的なものであり、「メイン・ポスト」も比喩に留まる。

しかし、東浩紀ならばこの「メイン・ポスト」を想像的なフィクションと捉えるのではなく、Googleの検索履歴に代表されるビッグデータを収めるデータベースとして現実に実在しているではないか、と主張するはずだ。翻っていえば、アレント批判から引き出してきた「私利私欲」、そこからルソーの「一般意志」へと橋渡しする加藤の一連の議論には、一般意志1.5とも呼ぶべき先駆性があった。

東浩紀のアレント観

高橋哲哉も加藤典洋もアレントに不満があった。当然というべきか、東浩紀もまたアレントを斥けている。

東はアレントの公私の区別を、ビオスとゾーエー、人間的生と動物的生と言い換えた上で、その私的領域=動物的生の活動の集合によってこそ立ち上がる公共性が存在することを強調する。無論、その公共なるものは、かけがえない個人同士が開かれた議論(コミュニケーション)を重ねて合意形成に至るアレント的人間的公共性概念とは、方位の逆転したものだ。

いってみればそれは、「共」の次元、単なる一個人の意志(私)ではなく、かといって全体意志(公)でもない「無意識の共(一般意志)」を指す。

序文によれば、ルソー的一般意志を情報社会に実装しようとする発想は、熟議(熟考+討議)下手な日本人が、その反面で「空気を読む」ことに長けている特徴を逆手に取ろうとしたものだった。「「空気」を技術的に可視化し、合意形成の基礎に据えるような新しい民主主義を構想したほうがいいのではないか」。

またも山本七平である。けれども、山本との相違は「空気」を無責任体制の元凶と読むのではなく、私的なものの集合によって描かれる「共」の参照項として利用するべきだ、という新しい提案に求められる。

東が未来社会での「ネットワーク上の偶然の出会いを種として育つ、自分自身が決定権ももっていなければ、責任も取れない問題に対して行うゆるやかなコミットメント」の重要性に触れるとき、そこには強い個人主義を諦めてもなお可能たりうる責任のありようが模索されている。

 

参考文献

  • 東浩紀『一般意志2.0――ルソー、フロイト、グーグル』、講談社、二〇一一年。とりわけ七頁、八三頁。一三六頁、二四八頁。
  • 東浩紀+加藤典洋「私と公、文学と政治について」、『群像』二〇一七年一一月号。
  • 加藤典洋『戦後的思考』、講談社文芸文庫、二〇一六年。とりわけ三二一頁、三二六頁、三二八頁、三三六頁。もとの単行本は講談社、一九九九年。
  • 清水幾太郎「現実の再建」、『清水幾太郎著作集』第六巻、講談社、一九九二年。とりわけ三一五頁。初出は『思想』一九四三年八~九月号。
  • 清水幾太郎『私の読書と人生』、『清水幾太郎著作集』第六巻、講談社、一九九二年。とりわけ四五五頁。もとの単行本は要書房、一九四九年。
  • 竹内洋『メディアと知識人――清水幾太郎の覇権と忘却』、中央公論新社、二〇一二年。とりわけ三二三頁。

1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophやパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『小林多喜二と埴谷雄高』(ブイツーソリューション、2013)、『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)。twitter