第8回 アレントと和辻の「間柄」

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。第8回は、ハンナ・アレントの「公的領域」と和辻哲郎の「間柄」の類似についての考察から。

 

「誰」/「何」のインターフェイスとしてペルソナを解釈したとき、齋藤純一の真っ当なアレント批判も、寧ろ彼女のテクストに沿う仕方で理解することができるかもしれない。

齋藤は、アレントが考えたように「誰」から「何」を切り離すことは可能か、仮にできたとして、そこに立ち現れてくるものはアクションに相応しいものなのか、と問うている。「もし「誰か」が「何か」から遮断されるならば、そのとき「誰か」と「誰か」との間に成立する対話は、一部のリベラリズムが求める「中立性」の会話に似たものとなろう」。

極端なまでにポリティカル・コレクトネスに配慮した戯画的な場面を思い浮かべて欲しい。多くの場合にセンシティブな性や身体に関する話題は勿論のこと、出身地差別や職業差別を恐れて、他者の歴史性に踏み込もうとしない会話は、ひどく薄っぺらなものになるに違いない。許されるのは紋切型の挨拶くらいなものだ。いや、何気ない挨拶でさえ、ある国語を用いる限り、その国にトラウマを抱えた彼(女)はもしかしたら不快を感じるかもしれない!

こういった「中立性」、つまり偏見を完璧に排除しようとする言葉が、「何」への転落を恐れるあまり「誰」の的を外していることは明らかだ。斎藤がいうように「「何か」としてのアイデンティティのもとで経験されてきた事柄は、やはり他に代えがたい内実をもつはず」と考える方がやはり自然だ。

けれども、この理解はアレント的ペルソナの思想と矛盾していない。ペルソナは直接「誰」を示さないが、ペルソナがなければ公的領域は生じず、過剰としての「誰」を感じる機会もないのだから。

斎藤が例示として挙げている「あなたはアイヌの女性としてどう思いますか」という質問は、回答者にステレオタイプな返答を期待する「何」的重圧を与えているものの、だからといって「アイヌの女性として」語る振る舞いに、「誰」へ至る道筋が開けていたとしても決して不思議ではない。

ペルソナは「誰」/「何」を分割しつつ取り結ぶのだ。

「公的領域」と「間柄」

長々とアレントの議論を概観した。

元々の目的を忘れてしまう前に、いいかげん本筋に還ることにしよう。そもそもなぜアレントに言及したのか。それは、彼女の議論が和辻哲郎のペルソナ論と響き合っているように思えたからだ。

では、なぜ和辻哲郎なのか。

何を隠そう、和辻とはポスト個人主義として既に取り上げた間人主義という着想の原型といってもいい、間柄の哲学を唱えた哲学者に他ならなかったからだ。実際、浜口恵俊は、精神病理学者の木村敏とともに和辻の名にたびたび言及している。

その思想の集大成である『倫理学』で、和辻は人間という言葉が、人と人の間、つまり「よのなか」や「世間」を含意していることに注目して「間柄」を倫理の根幹に据える。「間柄の本質は、我れの志向がすでに初めより相手によって規定せられ、また逆に相手の志向をも規定している、ということ」だ。

たとえば、ある人が手紙の読み手になるのは、別の人が手紙の書き手になるからだが、読み手を想定することができなければ、そもそも手紙を書こうとは思わない。このように人間の行為的連関は、他者存在を排除して個人が独立する個人主義を虚構として斥け、顕在的であれ潜在的であれ、常に相互的な「間柄」が関与していることになる。

考えてみたいのは、こういうことだ。アレントのいう公的領域とは、和辻のいう間柄となにがどう違うのか、と。アレントが、『人間の条件』で利害関心(interest)を「間にあるもの inter-est」と分解し、「ほとんどの活動と言論は、この中間者 in-betweenに係わっている」と書くとき、またそのリアリティを「人間関係のウェブ」と書くとき、彼女の「あいだ in-between」に和辻的間柄を読み込んではいけないのだろうか。

もし両者に大差がないのだとすれば、アレント的公共性はヨーロッパ発祥のアイディアであり、またその演劇的モデルは古代ギリシャに範をとっていたにも拘らず、間人主義や分人主義にも通底しているようにみえた、日本的と形容される無責任さの温床になりえてしまうだろう。或いはその危険を免れたとしても、往々にして公共性はいつの間にか「無責任の体系」へと劣化してしまうのではないか。

こう言い換えてもいい。桜井哲夫が指摘する、個人主義が西洋のなかでも近代に限定されること、また「無責任の体系」が日本に限定されずナチスにも見出せることを考えたとき、むしろ個人主義に立脚した責任主体の立ち上げこそ特殊で奇矯な営みなのではないか、と。

どんなに頑張っても無責任

疑念は、アレントが読み込んだ公的領域の演劇性にもある。

和辻の「面とペルソナ」は伎楽や能で女になるための「面」を材に、そのペルソナ性の考察を始めていた。興味深いことに、山本七平もまた、女形の面とその舞台という演劇的比喩を用いることで「空気の支配」を説明していた。

舞台とは、周囲を完全に遮断することによって成立する一つの世界、一つの状況論理の場の設定であり、その設定のもとに人びとは演技し、それが演技であることを、演出者と観客の間で隠すことによって、一つの真実が表現されている。端的にいえば、女形は男性であるという「事実」を大声で指摘しつづける者は、そこに存在してはならぬ「非演劇人・非観客」であり、そういう者が存在すれば、それが表現している真実が崩れてしまう世界である。(『「空気」の支配』)

改めて復習しておけば、このような舞台に対して、演者は本当は男! と客席からヤジを飛ばすのが、山本のいう「水を差す」行為だった。とはいえ、そのことによって劇全体を打ち壊すことはできないし、ヤジった当人が表舞台に上がって責任をとるわけでもない。山本は、この「劇場の如き閉鎖性」に、世界に背を向ける日本的鎖国を読み取っていた。

これは和辻的間柄の世界となにが違うのか。そして繰り返す、さらにいって、それらはアレント的公共性となにが違うのか。

その問いかけの先に待っているのは、肯定的であれ否定的であれ日本という留保が取っ払われた先にさえあるのかもしれない、時代や文化や国籍を超えて人間存在が拭い難く共有している無責任性、という身も蓋もない結論であろう。

アレントと和辻の距離

無論、類似した比喩を用いたからといって、その思想を一緒くたにする粗雑な考え方を許すべきではない。実際、アレントと和辻――そして日本的な個人主義否定の思潮――とのあいだの距離を強調することは十分可能だ。

たとえば、和辻の間柄論には、アレントが強調していたような公私の峻別に関する厳しい視線が存在しない。「人間存在は公共的であるとともに私的でもある。〔中略〕ロビンソンほど孤立した人にあっても、もはや私的存在を持ってはおらない」と和辻は述べる。この二重性、別言すれば個人的(私的)に思われている日常生活にさえもう既に浸蝕していた共同性を、間柄論は手放さないのだ。

また、『倫理学』での間柄論においては、複数の他者とのコミュニケーションの網目以上に、場を包みこむ空間性が高く評価されているため、土地の気候や地形、つまりは固有の風土と間柄が強く結びつけられている。和辻の最も有名な著作『風土』の知見が大きく取り入れられているわけだ。

けれども、その結果、熊野純彦が指摘するように、風土性の自覚の要請の下、特権的なまとまりとして国家の領土が前景化し、国土が間柄の単位となるようなナショナリスティックな要素を多分に抱えることになった。「個よりも全の側に力点が置かれていることは否めないであろう」と評すのは宇都宮芳明だ。このような風土=国家論的性格も、アレントにはみられない。

そしてなにより、和辻哲学において、「何」に回収されない余剰としての「誰」の契機が決定的に不足しているようにみえる。いうなれば、和辻の「間」は、アレントの「あいだ」に比べて、既存の関係性のコードを高く評価するために、その緊張の度合いが著しく弛んでいる。和辻の間柄において、予期しえない異邦人との偶然の出会いといったケースは想定されていない。

「誰でもない」の言説史

であるならば、やはりアレント礼賛に徹することで、日本のウーティスの思想を――たとえば「誰 who」に固執することによって――断ち切れば、それで山積する(無)責任問題は解決するのか。

「歯車理論」という考え方がある。個々人はある命令系統体制の歯車に過ぎず、その集団が仮に大きな罪を犯したとしても、「歯車」には責任能力は認められない、とするものだ。アレントは、どんな全体主義体制の社会であっても、「個人の責任」が無効になることはないと考え、この「歯車理論」を斥ける。そのような彼女ならば当然、「無責任の体系」から脱却し、「空気」に流されない強い個人を主張することができるだろう。

けれども、問うことをやめるべきではない。そもそも、どうやったらそれほどまでに強力な個人性を獲得することができるのか、という点にこそ難問があるのだから。

寧ろ、演劇的比喩のほかに多くの共通点をもつ、公人と間柄的人間像の対比から学ぶべきは、どんなに努めても行為と言論を用いて「誰」を顕示させるような公共空間を実現できない、と描いてしまう「誰でもない」の言説史の日本的厚みである。

或いはまた、それは、どんな公的領域であれ油断すればすぐにウーティスが回帰してしまうのではないか、という不安の格好ででてきた輸入思想への一種の批評といってもいいかもしれない。

この不安に真摯に向き合わない限り、公人に変装してまぎれこんだウーティスを見抜くことはできないだろう。

参考文献

  • アレント、ハンナ『人間の条件』、志水速雄訳、ちくま学芸文庫、一九九四年。とりわけ、二九六頁。原著は、一九五八年。
  • アレント、ハンナ「独裁体制のもとでの個人の責任」、ジェローム・コーン編『責任と判断』収、中山元訳、ちくま学芸文庫、二〇一六年。とりわけ、五一頁。原著は、二〇〇三年。
  • 宇都宮芳明「人間の「間」と倫理」、佐藤俊夫編『倫理学のすすめ』収、筑摩書房、一九七〇年。とりわけ、一三五頁。
  • 齋藤純一「表象の政治/現われの政治」、『現代思想』一九九七年八月号。とりわけ、一六三頁、一七〇~一七一頁。
  • 桜井哲夫『〈自己責任〉とは何か』、講談社現代新書、一九九八年。とりわけ、一〇二頁、一一三~一二二頁。
  • 熊野純彦『和辻哲郎』、岩波新書、二〇〇九年。とりわけ、一九六~一九七頁。
  • 山本七平『「空気」の研究』、文春文庫、一九八三年。とりわけ、一六一~一六二頁。もとの単行本は文芸春秋、一九七七年。
  • 和辻哲郎『倫理学』第一巻、岩波文庫、二〇〇七年。とりわけ、七八頁、二二一頁。もとの単行本は岩波書店、一九三七年。

1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophやパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『小林多喜二と埴谷雄高』(ブイツーソリューション、2013)、『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)。twitter