第3回 「空気」という媒体=場

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。第3回は、岡田利規『エンジョイ』の持つ批評性について。

 

弱さの蒐集を導くのは、具体的な誰それではなく、追い払ったはずのウーティスなのではないか。

よく知られている議論だが、山本七平ならば、このような状態を「空気の支配」と表現したかもしれない。そんな話を持ち出せる空気じゃありません、だとか、その場の空気では……、といったかたちで、日本では決定を必要とする場面において、個人の決断よりも場の「空気」が優位を得て、ひたすらこれに流されていく。しかも、そのウヤムヤな決定過程には合理的観点や科学的思考が入り込む隙がない。

山本はこのような支配形態の原因として、日本人の「臨在感的把握」という一種のフェティシズムを挙げている。これは、「物質から何らかの心理的・宗教的影響をうける、言いかえれば物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状態」を指している。

遺跡発掘で掘り起こされた人骨を処理するには「おはらい」を経ないことには心的負担は拭えない。単なる石にすぎないお墓を蹴っ飛ばすことは、「ばちあたり」だから難しい。

ここで働いているのは、自己と対象と第三者の区別を曖昧にさせる、感情移入であり、乗り移り/乗り移らせの論理である。人骨というモノに、自分が憑依するかのように、また他人が憑依したかのように、過剰な感情を仮託すると、それはもう単なるモノとしては扱えない。信心はイワシの頭から始められるのだ。

山本のいう「臨在感的把握」で現れているのは、モノの背後に立ち現れる、匿名的な他者の威圧感である。ウーティスのオーラ。そこで感得される他者とは、具体的な顔や名前をもっておらず、しかしそれが故に、みんな(一般性)を代表して、「空気の支配」という支配者なき支配の圏域を広げている。

赤木智弘は、直接差し向けられていないようにみえる社会的アクションも、一々、自分に対する攻撃だと解釈していた。典型的な「臨在感的把握」である。ある政策や文言の背後に、みんなの意志、即ちフリーター抑圧的な「空気」を読んでしまう。KY(=「空気」の読めない奴)になるのでなければ、彼は深読みをするしかない。

だからこそ、読みが暴走してしまうこと自体に、強制された困難を読むべきなのだ。

自立できない言葉

前回、個人的な話として、自己責任論的な直接攻撃に等しい「ドラマティックな光景」に出会ったことはない、と書いた。

しかし、直接はなくても間接的なものならば、いくらでも挙げることができる。

 フリーターを始めて今何年目?(いつになったら就職するの?)

 帰ったらなにやってるの?(ちゃんと努力をしてるのか?)

 毎日楽しいそうだね(ノンキなもんだな)

無論、丸括弧内の科白は、実際には発話されていない、想像された他者の内心にすぎない。だからこそ、当然のことながら、深読みの可能性もある。しかし、奥行きのある「臨在感」に囚われるには、これくらいの仄めかしで十分だ。「空気」は言外において、つまりは暗黙のうちにあって、その支配力を増幅させていく。

深読みとは、別言すれば、高文脈的な読解の謂いであり、その文脈設定の高さを自由に解除できないとき、言葉は言葉だけで自立することができず、言葉の裏にある(と思われる)心に、またはメッセージを陰で統べる(と思われる)メタ・メッセージに拘束される。

ダブルバインドとは、この二つのレヴェルでの股裂き状態を指す。仄めかされた「空気」の囲繞に、フリーターの鬱屈感の一つの原因を求めることができるのではないか。ここで想起されるのは、ちょうど赤木言説とほぼ同時期の二〇〇六年に執筆され、同年に初演された岡田利規の戯曲『エンジョイ』だ。

状況の関係性

『エンジョイ』にはこれといった物語がない。それでもあえて要約をしてみれば、「負け組」の烙印を押される、漫画喫茶で働く成人アルバイターたちの、これといった事件性もない日常を描いた作品、といえるだろうか。

二〇代と三〇代、男性と女性、派遣とアルバイト、など複数の緊張感ある分断線を走らせながら、非正規労働者たちの閉塞感を、このテクストは見事に表現している。

繰り返すが、多くのフリーターたちは直接的な攻撃を受けているわけではない。『エンジョイ』に出てくるアルバイターたちも同様だ。「こいつら終わってる的な見られ方されてる」という生きにくさを仲間に吐露すれば、すかさず「具体的な誰々さんに言われたことが直接あるの?」という反問が還ってくる。

その問いは至当だ。なぜならば、彼らは「直接言われてないのに直接言われた風に、勝手に、先読みっていうか、深読みっていうか、先走りか、してそこまで行く」のだから。それは「現実見ろよ目の前の」に対する「前もって専守防衛」でもある。「空気の支配」は、傷つくことを恐れたフリーターたちに高文脈的な読解を強制する。

『エンジョイ』では空気の代わりに「雰囲気」という言葉が多用されている。「空気、雰囲気の存在、てのが絶対に、たとえば幽霊とか、そういう、気のせいではなく存在」している。或いはまた、ある登場人物がいうように、それを「状況の関係性」と呼んでもいいかもしれない。

いろんな力関係とかの、その場その場の、状況の関係性みたいなことだったりするのなあって面もあって、たとえば時間とかの場合、基本的に、駅にいるって、急いでいる、っていう基本的な前提があるじゃないですか、ってこともたとえば関わってくる可能性もあるだろうし、そういうものがいろいろ結集して、そうそう、なるみたいなのは、でもすごく微妙で、一概にあんまり論理論理っていう面も、(『エンジョイ』)

センテンスが終わらないうちに新たなセンテンスを継いでいくため、極めて引用しにくい、つまりは切り取りにくいその台詞回しで言わんとしていることは、要する次のようなことだ。

即ち、「状況の関係性」とは、「その場その場」に応じて、拘束力の力線が複雑に絡み合うがために、依然として実体の掴めない「微妙」な「雰囲気」として立ち上がってくるものである。故に「論理」で割り切ることができない。割り切ってしまえば、ただちに「あーソレでもなんかちょっと違うんだよなーどこかなー」という違和感を残すことになる。

翻ってみれば、『エンジョイ』のうねうねと続く切り取りにくい文体は、フリーターたちが感じているその割り切れなさ、断言できなさ、いつまでもダラダラと続く彼らの生活を表現している、と評すことができるかもしれない。とまれ、このような曖昧な雰囲気は、正しく、山本のいう「空気の支配」に相当するものとして読んでいいだろう。

声と臭いのメディア

では、その支配者なき支配状態から脱却するには、どうしたらいいのだろうか。

『エンジョイ』は、その問いに対して明快なかたちでの回答を用意していない。ただし、「空気」というものを自由を奪う重石として一方的に読むのではなく、交代の機会(換気?)にも開かれている媒体として捉え直すことで、脱却のためのヒントを与えてくれているようにも思える。

とりわけ、注目したいのは、劇中で噂され、終劇の一景でやっと姿を現わす台詞のないホームレスの存在である。

漫画喫茶のアルバイターたちは、マンキツで寝泊まりするホームレスを「ジーザス系」と影で渾名し、「おじさん、ちょっと正味な話、臭いんですけど」や「アルコール臭いものも微妙にブレンドされてません?」と、その強烈な悪臭に嫌悪感を隠さない。店側も入店を拒否し、場合によっては警察を呼んでも構わないと社員内で通達されている。

けれども、そのスクリーニングは徹底できない。冒頭、ケータイの「防止スクリーン」で画面を覗き見することはできないものの会話(声)ならば聞こえてきてしまうという挿話が示すように、臭いもまた声と同じく角度の調整やツイタテの設置を無視して周囲に拡散するものだ。

つまり、劇の最後で、アルバイター同士のカップルが駅構内で抱き合い、接吻しようとするさなか、なにか違和感に気づき互いの体を強く嗅ぎ合う。そして、「しばらくして、二人の手前をホームレスが通り過ぎる」。この通過のアクションによって『エンジョイ』は幕を閉じる。ホームレスの悪臭は、カップルの臭いと「ブレンド」することで私秘的な空間に第三者が侵入する隘路を見つける。「空気」は恒常的なものではなく、みんなに開かれているぶん、場所や状況が変わればすぐに別のものに交代する。

批評家の杉田俊介との対談で、岡田は『エンジョイ』の台詞のないホームレスに触れ、「ホームレスという存在が、僕にとってはいまのところ、他者である」と述べている。岡田の意図を超えていえば、ホームレス登場の一連の筋立ては、実のところ「空気」は「他者」にも開かれていることを証している。漫画喫茶での接客ルールに基づいてスクリーニングせねばならない応接とは別の仕方で、「他者」と出会うことは依然として可能なのだ。

そして、他者には状況に知悉しないが故に、「空気」の高文脈性を感知しない無遠慮さがある。「空気」をウーティスからの無言の圧迫として読むのではなく、臭気のオープンに開かれた媒体=場として読み直せるところに、『エンジョイ』が抱える大きな批評性が認められるのかもしれない。


参考文献

  • 岡田利規『エンジョイ・アワー・フリータイム』、白水社、二〇一〇。とりわけ、一〇六頁、一一〇頁、一二九頁、一三五頁、一六〇~一六一頁、一六六頁、一八三頁。
  • 岡田利規「僕たちにとって貧困とは何か」、『すばる』二〇一〇年一一月号。とりわけ、一九九頁。
  • 山本七平『「空気」の研究』、文春文庫、一九八三。とりわけ、三三頁。もとの単行本は文芸春秋、一九七七。

1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophやパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)など。最新刊は『仮説的偶然文学論』(月曜社)。twitter:@arishima_takeo