第13回 ペルソナとノッペラボウ

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。第13回は、統治功利主義の議論を引きつつ、ペルソナが提示する匿名性とは別の、ノッペラボウ的匿名性を介した責任論の可能性を模索する。

自分という責任主体の重さに嫌気がさし、「宇宙的連帯」に身を任せたい願望を内に秘めていた大学卒業直後の若き清水幾太郎。彼は過去の継続のなかで新たな画期なく自分が機械的に自動決定されていくかのような倦怠的気分のことを、「ノッペラポー」と呼んでいた。

小泉八雲のノッペラボウの怪談を知らない人は少ないだろう。

夜中、ある商人の男が坂をのぼっていると、一人の女が屈んで泣いていた。理由を知ろうと肩に手をかけ、振り返ったその顔には、目も鼻も口もない。驚いて坂を駆け、飛び込んだ蕎麦屋の主人に、息を切らせながら今あった始終を急いで話すと、自分の顔を撫でながら「その見せたものはこんなものだったか?」と言った主人の顔は、まるで卵のようだった。

この怪異譚が与える暗示は極めて深い。思えば、本物を証明できない誰にでも開かれたペルソナに懊悩していた伊達直人もまた、「ノッペラボー」の悪夢にうなされていたのだった(文庫版第六巻、四一三頁)。ペルソナの裏側にはノッペラボウがいる。

全体主義的ノッペラボウ

顔のない化物は、具体的な「誰」が消失して、最終的にはアノ人とコノ人を区別できない全体=総計のノッペラボウに回収されるだろう。それは当然、性別や職業や社会的役割といった属性――つまりは「何」――で他人と対峙することをやめてしまった妖しく蠢く集塊(マッス)である。

清水幾太郎、東浩紀、加藤典洋などに流れる匿名的思想は丁度このノッペラボウのようなものと考えていい。そして、彼らが取り組んだ私人の底にあるノッペラボウ的性格の見直しは、その取り扱いに際して幾分かの緊張を命じていた。その無批判的な肯定は、理性を欠いた盲目的な大衆扇動にスライドしてしまう危険を常に孕んでいたからだ。

正にアレントは『全体主義の起原』第三巻で、一九世紀の近代社会論におけるどの階級からも落伍した者たちの寄せ集めでできた「モッブ」の登場を描写しつつ、ヨーロッパ産全体主義の最初期の姿を「誰」的緊張が皆無な「没我性」や「匿名性」で特徴づけていた。

大衆化した人間に特有の没我性 selflessnessはここで、匿名性 anonymityへの憧れとして、つまりはただの歯車 a cogとして働きたい、一個の数としてだけ存在したい、要するに社会に組み込まれた明確な類型やお決まりの職務への自己同一化を一掃できる変化ならばなんであれ、という信念のなかに現れた。(アレント『全体主義の起原』第三巻、訳を若干変更した)

ナチスの歯車になったからといって責任能力を問えないわけではない。アレントの「歯車理論」をおさらいしつつ、注意しておきたいのは、この匿名の巨大なうねりが「類型」や「職務」、つまりは「ペルソナ」を破壊し、「誰」露呈の契機、そして公的領域の確保を無に帰してしまうということだ。

いや、その危険を熟知していたからこそ、アレントは個人同士の言論と行為を用いたコミュニケーションで「誰」を手放さないよう反動的に忠告しつづけたのだ、と説明してもいいかもしれない。

全体主義でなにが悪い!

ある条件を満たせばその全体主義的な光景に怖れを抱く必要はない、とする居直る見解も捻り出せないわけではない。清水幾太郎や東浩紀以上に匿名的思想を極端化させた、安藤馨の「統治功利主義」はその一例だ。

ベンサムを代表的論客とする功利主義は元々、人類の幸福(快楽)最大化を目指すための数値化、計算可能性と極めて相性のいい思潮だったが、他の道徳哲学に圧されて長年日陰の立場に甘んじてきた。安藤は主著『統治と功利』のなかで、功利主義の現代的復活を試みた。

安藤のいう「統治功利主義」は個人がなにをなすべきかを論じるのではなく、法や国家制度において幸福の最大化がいかに果たされるかを唯一の基準としている。そのため、人々の福利が約束されるのならば、通常、リベラリズムが尊重する個人の権利や自律性といった根底的にみえるリベラルな価値を無視することも厭わない。

そのとき大きな助力となるのが、被統治者だけでなく統治者(支配者)さえ包み込む、功利計算をこなす高度な統治技術である。

自動車のエンジンが酒気を帯びていれば起動しないメカニズム、脱税なき完全消費税を達成する貨幣の完全電子化など、行為主体の予期が無くとも望ましい行動を採らせることが可能な統治技術の発達は、予期と愛着=共感を必要とする威嚇サンクションを無用ならしめ、その高い功利性ゆえに統治に於いて重要な意義を持ってきた「人格」をその地位から追いやることになるだろう。ここにいたっては、近代的な「個人」はもはや無用である。(安藤馨『統治と功利』)

引用文中でいう「威嚇サンクション」とは、パトロールする警官が発見した脱法行為に罰を与えるような場面をイメージしておけばいい。自動作動するメカニズム――レッシグという憲法学者はこれを「アーキテクチャ」と呼んだ――は、見つかったら怒られるかも! と予期する道徳的な意識を介することなしに、脱法行為を未然に防ぐことができる。

その種の技術の全面化は、最終的には「人格」をもつ「個人」概念を放逐する力を獲得する。これを安藤は「人格亡きあとのリベラリズム」と名づけている。正しい社会のためには、意識の高い倫理的主体や説教じみた道徳家、権利や義務の感覚に厳しいリベラリストはもはや必要ない。

大屋雄裕は、安藤の構想する人格の溶解した世界を、SF作家スタニスワフ・レムの作品に出てくる、知性をもった唯一の生命体としての惑星、「ソラリスの海」にたとえる。また、稲葉振一郎の言葉を借りれば、それは「よき全体主義」にほかならない。正に言い得て妙。

二つの匿名性

高度に洗練された技術によって管理されている「統治功利主義」=「ソラリスの海」=「よき全体主義」が、顔をなくしたノッペラボウであることはいうまでもない。

その領域ではもはや人格は無用の長物だ。そして、人格とは正しくペルソナ性(personality)のことだった。ここではアレント的な仮面を装着した舞台上でのコミュニケーションもまた、人格概念の追放と同時に政治の重要な場面から不要のものと打ち捨てられることだろう。

いままでの議論を二つの匿名性を区別することによって整理しよう。

第一に、ペルソナが提示していた、誰/でもないの境界線上で不可避的に生じるインターフェイスとしての匿名性。社会的な役割(~として)を演じることで、自分自身の固有性を諦め、ある文脈、ある物語、複数の人間のあいだのなかに組み込まれる。諸個人の人格はここに源泉がある。ただし、このの否定態は、匿名性とは名ばかりといわんばかりに、公的領域を準備し、他者との対面のなかで、すぐさまに帰着する、というよりもを露呈させる手続きそのものにほかならない。

誰/でもないの分割線は改めてに出会うための前座のようなものだ。この奇妙な媒介に耐えられるのは、「誰」でもあり「何」でもあるような、また、死面と思ったら肉づきの面にも見える、そして常に私と他者の中間に位置している、ペルソナの不安定さ、その両義性以外にない。

第二に、ノッペラボウの怪談にある不気味さを備えた、全体性=総計に消失していく分割線を喪失した端的に誰でもないの匿名性だ。私的な日常生活のなかで繰り返されている行動を集計することで、ある人間集団の無意識の傾向性を浮かび上がらせる。ここでは個々人の人格はそもそも等閑視される。

誰/でもないで維持されていた分割線の緊張は消失し、私的なものがそのまま短絡され大きな全体のなかに組み込まれる。インターフェイスを喪失した集塊は、暴走の危険を孕みつつ、けれども使用法次第では、コミュニケーションを介さない奇妙な公共性、の次元を立ち上げることに成功する。

第一のものをペルソナ的匿名性、第二のものをノッペラボウ的匿名性と名づけよう。ここまで紹介してきた多くの論客や理論家は、どちらに比重を置くかの相違はあれど、この二つのあいだで右往左往してきたのだった。

「誰」は「何」に後続する

一見、ペルソナが匿名性を帯びているという主張は、奇異なものに思われるかもしれない。アレントにとってペルソナとは公的領域でのドレスコードに相当し、そして公的領域でこそ各人のユニークな「誰」が示されるからだ。

けれども、「何」を切り捨てて「誰」に出会うことの困難を思い出してほしい。年齢、性別、人種といった肉体的アイデンティティを完全に無視して、互いに他に代えがたいユニークな存在として言論を交わすという想定は、頭のなかで考えたコミュニケーションの妄想よろしく、どこか実態にそぐわない歪みを私たちに抱かせる。

むしろ、人は直接「誰」に対面するのではなく、一旦「何」的なペルソナを介することで、その面の破れの隙間に「誰」を触知すると考える方がずっと自然ではないか。「何」は第一位のものであり、「誰」はこれに後続する。この順位は揺らがない。そして、その場合のペルソナとは、ユニークでもなんでもない他者との交換可能性(入れ替え可能性)に開かれた人格的アイデンティティ、社会的役割であるといえる。

新たな語彙を用いて赤木智弘の主張を次のようにパラフレーズしてもいい。

非正規労働者への社会的抑圧を告発する赤木の異議申し立ては、非正規労働者が公的領域に相応しいペルソナを与えられていないことに求められる。フリーターは、誰でもないからに至る連絡線が途切れた、人前にお見せできない(と感じてしまう)恥ずべき面であり、を約束する正規の仮面は正社員が独占している。ここには不公正がある。

こういった状態が放置されるくらいならば、日本軍の一兵士というペルソナを希望する暴挙も厭わない。赤木の「英霊」願望は、死面(デスマスク)を仲介した人格的アイデンティティ奪還への追い詰められた期待にほかならない。加藤典洋が配慮したように、その面には最低限、公的な歴史=物語に内属できるという尊厳が約束されている。

誰でもいいものに成り代わることで、ほかでもない私になれる。ペルソナ的匿名性はだから、ユニークな私を探しつづける近代的な観点に立てば、自分の生まれもった(と感じる)固有名や顔を諦めねば、本当の自分の固有性に到達できない、というパラドックス成立のさいに発生する不可避的な副産物なのだ。

声と息遣い

この副産物の背面でノッペラボウ的匿名性が胚胎する。

ペルソナは私と他者との間隙に緊張を走らせるが、ノッペラボウはその間隙を埋め合わせて互いを一なるものへと融解させる。ペルソナは間を穿つものだが、ノッペラボウはそれを埋める塊だ。

にも拘らず、二つの匿名性は決して対立していない。というのも、公的領域のためのペルソナ的匿名性は、その裏では、公の場から締め出されて秘匿された私的なものを累積させており、その統計の結果にこそノッペラボウ的匿名性が宿るからだ。公共性のための作法が、回り回って、反転した鏡像のごとき疑似公共性を立ち上げる。

仮面を装着した役者たちの言論の舞台に還ってみよう。彼らは彼らだけで自律していたわけではなかった。役者は固唾を飲み込む観客に見守られ、無名のスタッフや黒子に舞台の雑務を任せることで初めて演劇全体を完成させることができる。ここにおいて、役者が役で自分を隠す匿名性と劇場そのものを支える匿名性が見事に調和する。

或いは、フリーターに言外の高文脈的読解を強制する「空気の支配」に還ってみよう。彼らは実際に発話された言葉以上に、その背後にある(と思われる)メタ・メッセージに拘束される。その過剰な先取には決して理由がないわけではない。というのも、対面する他者や帰属集団がもっている――清水幾太郎が指摘していた――「然れども」(aber)に後続する独特の余韻は、言葉の環境としての沈黙をある方向性へと導くからだ。

アレントが指摘していたように、ペルソナとは語源的にいえばper-sonare、即ち、音(son)を響かせるものだった。仮面は「あるものを通して声を響かせることができる」。

この拡声器や変声器にも似たペルソナの声は、政治の場において票や意見として雄々しく表明されるが、声は声だけで自存しているのではなく、声にならない細かな息遣いとともに発話される。或いはまた、山本七平風にいえば、己を響かせる媒体でありながらも、ときに集団の暗黙の了解でもって声を上げることを事前に圧殺する「空気」のなかで発話される。

ペルソナが声の政治だとすれば、ノッペラボウは息遣いの政治を司る。

責任論に置き直す

懸案だった責任論の論脈に置き直してみよう。

丸山眞男の「無責任の体系」は、一方では誰にでも責任があるが故に誰も責任を負わない責任主体の雲散霧消を、他方では責任を他者の自己責任に局限して自分を免責するスケープゴーティングを引き起こした。

日本文化論を介して、「体系」は、ときに西洋の近代的個人主義から遅れた前時代性として否定的に評価され、ときに日本独自という理由で肯定的に見出されるものの、歴史的にみれば綱引きが延々と続くだけで最終的な決着はかなわない。

このとき、ペルソナ的匿名性は、他者との対面を可能にする公的な局面を切り拓くが、同時にそこでの社会的役割は、その対他的な性格が災いし、あるときは周囲の雰囲気に流されて変形し、また別のときは同じ雰囲気によって必要以上に硬直化して、結果、一貫した主体性をもてずとも当然だ、といった無責任の弁解材料を無際限に生み出してしまう。

この挫折に対して、私と他者を画然と分割して責任を割り当てようとする方法、いわばペルソナを基礎単位にしたゼロ/イチの方途を諦め、仮面の裏で蠢くノッペラボウ的匿名性を仲介する小さな責任論が模索された。つまり、責任の個人主義的な単位を細切れにし、小数点的に各人が分担していく、責任の体系という方法である。

この方向は個人の人格に準拠していたいくつかの強い責任を社会的に解除する。その先には居直っても容認可能な無責任への道が切り拓かれるだろう。

さて、私たちはこれですべてが解決した、と安心してよいだろうか。

 

参考文献

  • アレント、ハンナ『全体主義の起原』第三巻、大久保和郎+大島かおり訳、みすず書房、一九七四年。とりわけ四五頁。原著は一九六二年。
  • アレント、ハンナ『革命について』、志水速雄訳、ちくま学芸文庫、一九九五年。原著は一九六三年。
  • 安藤馨『統治と功利――統治主義リベラリズムの擁護』、勁草書房、二〇〇七年。とりわけ二七八頁、二九三頁。
  • 稲葉振一郎『「公共性」論』、NTT出版、二〇〇八年。とりわけ一九八頁。
  • 大屋雄裕『自由か、さもなくば幸福か?――二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う』、筑摩書房、二〇一四年。とりわけ一九六頁。
  • 梶原一騎+辻なおき『タイガーマスク』第六巻、講談社漫画文庫、二〇〇一年。
  • 清水幾太郎『私の心の遍歴』、『清水幾太郎著作集』第一〇巻、講談社、一九九二年。とりわけ三八六~三八七頁。
  • レッシグ、ローレンス『CODE――インターネットの合法・違法・プライバシー』、翔泳社、二〇〇一年。原著は一九九九年。

1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophやパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)。新刊『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)が12/25に発売予定。twitter:@arishima_takeo