第20回 レヴィナスから読む歴史主体論争・前編

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。第20回は、高橋哲哉・加藤典洋の歴史主体論争をレヴィナスから読み解く。

高橋哲哉は、歴史主体論争において、アレントと並ぶかたちでエマニュエル・レヴィナスというフランスの哲学者の思想に自論を補強する根拠を認めていた。

理解されたレヴィナス哲学とは、こういうものだ。

人間の倫理の根源には、他者の「顔」がある。異邦人や寡婦や孤児といった弱者の「顔」に見つめられるとき、人は「汚辱」の意識のなかで自分の無辜を信じられなくなる。元慰安婦の証言は、物語的な歴史に安易に組み込まれない「顔」、別言すれば他者の他者性にほかならず、これに直面することで恥ずべき記憶の忘却に抗わねばならない。これが慰安婦問題に対して今日の日本人がとれる責任=応答的な態度である。

責任を意味するフランス語responsabilitéを、respons+ablity(応答+能力)と高橋が解釈するのも、何を隠そう、元ネタはレヴィナス哲学が訴えていた語源考的主張だった。

顔こそ倫理の根本を司るという、レヴィナス哲学は、宗教的意匠を巧みに凝らした極めて難解な文体をもつが、その表面だけなぞれば、経験的に共感しやすい側面もある。

軽い不法行為であれ、他者が目の前で見ていることを意識するとき、私たちには躊躇や良心の呵責が生じる。どんなに凶悪な犯罪を犯したとしても、その受刑者の顔を見ながら、彼を死刑に処すことは難しい。心的な負担を減らすためには、死刑囚の顔に覆いを被せる必要がある。

フェース・トゥー・フェースを突破せよ

第一哲学としての倫理学の根幹を他者の顔に託すレヴィナス哲学は、明らかに、これまで考えてきた匿名性の区別と応用の議論とは対極にある。ある意味、ペルソナ、ノッペラボウ、そしてヴェールへと至る道筋は、一貫してレヴィナスにノーを言いつづける反顔貌的思索の紆余曲折だったとさえいえる。

であるからこそ、ヴェールを手にした私たちは、レヴィナスが代表しているものとの直接対決に臨まなければならない。通俗的に表現してみると要するにこういうことだ。ウーティスがどうとか、第一とか第二とか、匿名性なんてもうウンザリ。互いに本名を名乗って顔と顔を突き合わせて直接話し合うのが人間のあるべき姿でしょ!

フェース・トゥー・フェースこそが信頼関係の基本である。ここまでの議論をすべてひっくり返すような、それでいて、至ってまっとうで常識的ですらあるこの正論に対峙しないかぎり、ヴェールという面倒なわりに大した成果が見込めるとも思えないアイディアに、大きな説得力は宿らないだろう。

自己(自国)がなければ他者はない

加藤典洋は高橋の理解するレヴィナスの他者論を、「自己を作るのは他者との出会いだ」と要約した上で、自分自身の考え方は「自己がなければ他者に会えない」と対置してみせた。「自己」先行の主張が、国民的主体性回復への問題意識とパラレルなのはいうまでもない。

自己(自国)から出発する限り、他者との齟齬やすれ違いは避けられない。が、その差を介してこそ、他者の他者性を受け止められるのではないか。別言すれば、自己(自国)の歴史的なありようをよく吟味せず、誤りを回避するために他者の結論を先取りすることは、結局のところ他者をないがしろにすることと同義なのではないか。

誤りうることのなかで前進せねばならない。鶴見俊輔ゆずりのプラグマティックなこの可謬主義を、加藤は正しさの追究だけに終始せずに誤謬のなかで自己を振り返る文学の力として評価する。

内田樹の高橋哲哉批判

後年の評価になるが、レヴィナスに師事する思想家の内田樹は、レヴィナスを自論の強化のために用いた高橋ではなく、加藤の方にその顔の倫理を認めた。

加藤が主張していることは、高橋が誤解しているように、身内の死者を贔屓して弔う、ということではない。「汚れ」を消去ことなく、しかしそれでもなお、彼ら死者と正面から対峙すること。これを回避する限り、革新と保守の国家的分裂は放置され、他国への謝罪は完了しない。

つまり、加藤の処方箋とは具体的には、保守派のように死者を英霊として崇めることではなく、「死者が顔をもつこと」、即ち、内田の整理に従えば「血みどろの死者、死臭を放つ死者、肉と骨をもったまま死んだ人々のなまなましい死を、飾ることなく、ありのままに見つめることから始めよう」ということだった。この連載では、その事態を死面との対面と呼んだ。内田によれば、ここにはレヴィナスの顔の倫理学の実践を認めることができる。

高橋は確かにレヴィナスを上手く援用している。けれども、内田は高橋の理解が偏っていると批判する。レヴィナス的倫理は、共同体の暴力やナショナリズムの悪を厳しく問いただす「正義」によってだけで構築されているのではない。他者の顔は、高橋的正義の冷酷さとは反対に、対面する者にとって平和的・非暴力的な仕方で現れる。

内田が引用しているレヴィナスから引く。

ラビ〔=ユダヤ教の説教者、指導者〕たちに言わせると、聖書のなかには一つ矛盾があります。ある聖句は「裁きを下す者は個人の顔を見てはならない」とあります。つまり裁き人は自分の前にいる者を見てはならず、その者の個別的な事情などを斟酌してはならない、というのです。裁き人から見れば、被告はたんに告発に責任を負うべきなにものかでしかないのです。(レヴィナス『暴力と聖性』)

愛と正義の循環

正義の裁き、高橋的にいえばジャッジメントに臨むときに、裁かれる者の顔を見てはいけない。死刑囚の顔に覆いをかける理由と一緒だ。見た途端、ジャッジメントの公平無私が揺らぎ、(それが極悪人だったとしても)同情や躊躇が生まれてしまうからだ。

内田はこれを「慈愛の過剰」と呼んでいる。顔は愛の源泉で、愛は正義を鈍らせる。けれども、そもそも論として、他者に愛を抱けないのならば、顔から遠く離れた正義の行使にも意味がなくなってしまうのではないか。

内田は高橋哲哉が慰安婦問題にコミットしていく理由を、「高橋が正義を希求することになったのは、彼が「長い忘却を経て歴史の闇の中から姿を現した」〔慰安婦の〕顔を直視してしまったからである。正義を要請しているのは高橋における「慈愛の過剰」である」と洞察する。

であるならば、正義によって愛を追い払うべきではない。追い払ってしまえば、正義の足元こそがぐらついてしまう。翻って加藤の提言が含み込んでいたように、「汚れ」をもった日本兵士もまた、慈愛の源泉としての顔をもっているに違いない。

内田が解釈するレヴィナスの教えとは、煎じ詰めれば「慈愛と正義の終わりない循環」に留まれ、ということだ。

オレが正しいのだから、オレの言うことをきかない奴は悪い奴に決まってる! 限度を失った正しさは容易に暴力正当化の根拠に転じる。正義が正しさの自家中毒に陥って暴走し、他者を(たとえ正当にであれ)冷酷に傷つけるとき、愛はこれに歯止めをかけなければならない。

悪い他者の顔を直視する。同情につられて、これはいけないと思い、目を背けてきちんと判断する。よし、大丈夫だ、今度こそ、と、再び顔に目をやると、やっぱりためらってしまう。どうにも決心が鈍ってしまい、困ったものだ。

正義と愛が目まぐるしく入れ替わるどっちつかずの複雑な他者経験こそ高橋的レヴィナスに欠落している要所である、というのが内田の主張だ。

参考文献

  • 内田樹『ためらいの倫理学――戦争・性・物語』、角川文庫、二〇〇三年。とりわけ、一〇〇頁、一二四頁、一二五頁。元の単行本は冬弓舎、二〇〇一年。
  • 加藤典洋『敗戦後論』、ちくま文庫、二〇〇五年。とりわけ、一一八頁。元になった単行本は、講談社、一九九七年。
  • レヴィナス&ポワリエ『暴力と聖性――レヴィナスは語る』、内田樹訳、国文社、一九九一年。とりわけ、一六〇頁。原書は一九八七年。

1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophやパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)など。最新刊は『仮説的偶然文学論』(月曜社)。twitter:@arishima_takeo