第14回 キュクロプス再考

海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。第14回は再び本連載の出発点に戻り、キュクロプスとオデュッセウスのエピソードについての考察から。

二つの提案に引き裂かれている。

一つは、各々のペルソナに相応しい責任をちゃんと自覚しながら、「空気」に流されない強い自分を維持すること。もう一つは、「空気」をより客観的に計算することで、個人の強い責任意識なしでも上手く回るスマートなシステムを構築すること。

二つをつなぐとこういうことになる。ペルソナとノッペラボウを上手く組み合わせて有効活用することで、深刻な帰結を与える「無責任の体系」を可能な限り回避するほかない。

実のところ、これが本連載の大枠での結論といって差し支えない。

驚くべきことに、ウーティスをめぐる私たちの航海は、この精彩を欠いた凡庸な結論に至る。しかもここには依然として、「無責任の体系」はおろか、スケープゴーティングや全体主義の危険さえも確かに潜伏しているのだ。

快刀乱麻というには余りに程遠い。完全なる打開策とは到底いえない、このパッチワークの弥縫策を、粗末と断じるのは簡単だ。けれども、私たちが遊覧してきたのは、「誰」への執着が反対に「誰でもない」を中継せざるをえず、そしてどんな「誰でもない」の責任論も、ある場面の欠陥を埋めるのには重宝できても、それ単独で手放しに誉めるには躊躇が要る、ということだ。

逆からもいえる。「誰でもない」の思想は、一見、ヒロイズムの欠片もない未組織な人間集団の弱さや愚かしさに支配された粗雑な世界を素描するが、他方、人間はそのような領域から完全に身を引き離して生きていくこともできない。それぐらい人間は弱い。

再びキュクロプスの国へ

最初の問題設定に戻ってみる。オデュッセウスは「誰でもない」の力を借りて、我らが宿敵のキュクロプスを撃退した。

そもそも、退治すべきキュクロプスとはなんだったのか。『オデュッセイア』から、その奇妙な生態を拾ってみる。

第一に、キュクロプスの国は豊かな風土に恵まれ、小麦も大麦も葡萄も放っておけば自然に育つ。だから、怪物たちは労働を必要とせず、悠々自適に暮らしていくことができる。

第二に、彼らは統治の法を必要としておらず、自分たちの領域の外に出ようとしない。「ここには評議の場たる集会も定まった掟もないし、彼らは高い山岳の頂きにある、空ろな洞窟に住み、それぞれ自分の妻子は取り締まるけれども、他とは互いに全く無関心で暮らしている」。

こうした非コミュニカティヴな性格は、彼らが航海に耐える頑丈な船や修繕を担当する船大工をもたないことにもよく表れている。「船さえあれば大方の人間たちが船を用いて海を渡り、互いに通交する如く、あちこちの町を訪れては、たいていの用事は果たせるであろう」が、楽園で暮らす怪物たちは他者に無関心で、そのような交通の機会に対してなんの意欲ももたない。

キュクロプスは一つ目の怪物であった。その単眼にはノッペリとした現在しか写らない。というのも、私たちの双眼は右目と左目の二つの異なる角度から視差を得て、脳内で立体感ある視界を構成しているが、キュクロプスの場合、単一のアングルのなかでしかこの世界を観察するほかないからだ。坂部恵によれば、カントは専門分野のことはなんでも知っているけれど他者からどう見えるかを全く吟味しない専門バカのことを「一眼巨人」と呼んでいたそうだが、ここにも他者性不在の生活を予告するものがある。異なる視角=視覚の統合が彼らには必要ないのだから。

ジェイムズ・ジョイスは、『オデュッセイア』を大胆に現代的に翻案した大作『ユリシーズ』の第一二章で、オデュッセウスとキュクロプスとの対決を、ユダヤ人である主人公のブルームと「市民 the citizen」という渾名をもつ名物男との酒場での喧嘩話に変形させている。国産のビールを飲む「市民」は熱烈なナショナリストで、ユダヤ人を嫌い、当然、ブルームのことを快く思っていない。「シン・フェイン党万歳!」と、「我ら自身で」を意味するアイルランドのナショナリズム政党の名でもってブルームの言葉を断ち切るその乱暴に、キュクロプスの単眼を読むことは難しくない。

ホルクハイマー&アドルノの『オデュッセイア』批判

アレント的にいえば、キュクロプスとは、他者とのアクティヴなコミュニケーションやペルソナの装着といった公的領域を必要としない私人たちの群れである。当然、「あいだ」の緊張も存在しない。しかも、彼らは私的なものを特徴づける労働(レイバー)さえも無用と斥け、満ち足りた生活を送っている。幸福な私的空間へと引きこもっている。

実のところ、キュクロプスの世界は、ノッペラボウ的匿名性だけを信頼して安住してしまった未来的人間像の戯画として読める。

再び問うてみる。なぜ、彼らは退治されねばならないのか。いや、もしかすると退治しようとする使命感そのものが間違っていたのではないか。余計なお世話。彼らは幸福に暮らしているのだから、そっとしておいてやれよ! 余所者のオデュッセウスの方が空気を読まなければならない?

実際、ホルクハイマー&アドルノは共著『啓蒙の弁証法』において、『オデュッセイア』を西洋の啓蒙的理性が野蛮で土着的な神話的世界を蹂躙して手懐ける暴力の過程の翻訳と読んだ。

彼らの観点に立てば、「誰でもない」に関する一連の応答も、神話世界の「非同一的なもの」を屈服させることで称揚される理性の自己確立、お膳立てられた詭計にすぎない、と解釈される。

オデュッセイアに一撃を食らわせられた盲目のキュクロプスは、その名をポリュペモスといい、その意味するところは、名の知れたである。名の知れたが「誰でもない」に打ち倒されるというこの筋立てが、私たちにとって印象深いことはいうまでもない。そして、匿名性を操る力は、名前の姑息な言葉遊び――固有名オデュッセウスの音に似た非名ウーティスの掛詞――を使って馬鹿な野蛮巨人を巧みに騙す、稀代の詐欺師を誕生させる。「形なきものへの擬態をつうじて自分の生存を維持する」オデュッセウスは、「思いあがりの虜」になっている、と二人は書く。

ホルクハイマーとアドルノは、驚くべきことに、キュクロプスの強力な弁護人であった。私たちもまた、責任などという面倒なことをがなり立てるのはやめて、素直に弁護陣営に下るべきなのではないか?

統治功利主義への違和感

安藤馨の「統治功利主義」を再び取り上げてみよう。安藤は「人格亡きあとのリベラリズム」を正当化するために統治の対象となる分割の単位が変化してきた歴史を参照している。

個人主義の浸透によって、家長を中心とした家族というかつての「連座制」から、個々の人格が解き放たれて、自由ではあるがその反面で強い自己責任を求められる世界が到来した。同様に、今後、その単位を時間的に一貫した個人主義的人格という「連座制」に閉じ込めておく法はない。連座の解体をさらに推し進め、一瞬一瞬のうちに生起する苦痛の感覚自体を単位として認めたとき、功利主義は「人格」をことさらに奉る必要がなくなる。

生活保護受給者が過去に自業自得な愚行を重ねていたからといってなんなのか。いま、彼が苦痛を感じているということだけが問題だ。これが安藤の「人格亡きあとのリベラリズム」であった。

このような構想には、しかし素朴な疑問が生じる。

たとえば、大屋雄裕のもの。自動的に苦痛に配慮するシステム自体は結構。けれども、その構想は誰に対する提言なのか? 明らかに統治者の「個人」や「人格」ではない。そうではなく、統治功利主義に従って制度化された環境自体である。では、環境は誰が構築・整備するのか? その構築者や整備者は、「人格亡きあとのリベラリズム」を信じる「人格」をもつのではないか? そのとき、「ソラリスの海」の環境は残余としての外部性を残すことになるが、彼がリベラリズムを裏切る専制を発揮しないとなぜいえるのか?

または、この論点に関係した稲葉振一郎のもの。統治功利主義的な「よき全体主義」が最適な仕方で人々を幸せにすることを認めるとして、その管理の担い手(全体主義の統率者?)は幸福なのだろうか? 人々の行動を対面しながら適切なものへと指導し、また自身の後継者を育てるようなコミュニケーションが一切なくなった世界は、単純に楽しいのだろうか?

ペルソナとノッペラボウの接触面

言い換えてみる。ノッペラボウに安住するのは結構だ。けれども、ノッペラボウに向き合うには、つまり八雲的にいえば「卵」のような一定の外形が縁どられた輪郭をもつには、私人の限界を示すペルソナが必要である。「卵」は(少し分かりにくい表現を使えば)対面困難なものとの対面可能性のために用意された怪異の人間的翻訳にほかならない。

或いはまた、別の言い方で。一般意志はたしかにある傾向性に収斂する。けれども、一般意志を可視化しようとする意志、一般意志を積極的に表示し参照しようとする意志は、その外部に存在しなければならない。そのとき、集合的無意識はここで自らに融解し尽くされない意識に出会っているはずだ。

要するに、他人に無関心なはずのキュクロプスは、実際にオデュッセウス一行に出会って問答を繰り広げている。この一事が不可避であることに集中せねばならない。

目的を修正しよう。私人の群れとしてのキュクロプスの完全な退治を目指してはいけない。それは公私を分節するペルソナがその背面で否応なく生み出してしまったツケのようなものだからだ。とはいえ、完全に放置することも不可能だ。ノッペラボウはすべてを包括できるわけではなく、その外部には必ずペルソナが生じている。

ならば、この二つが暴走せずに並走できる上手い方法を編み出さなければならない。

オデュッセウスは怪物との交渉に際して、持参していた美酒を勧めていた。前述したように、キュクロプス国は肥沃な土地に恵まれているから、わざわざ他人から頂き物をもらわずとも見事な葡萄酒を手に入れることができる。にも拘らず、産地の異なるその酒は「正にアンブロシアとネクタルのお流れといってもよい逸品」との味わいを怪物に与え、結果、オデュッセウスは問答を有利に進めることができた。アンブロシアとは神の口にする食物、ネクタルとはその飲み物のことだ。

自分の領土で自足できる者を魅了するのは、自分とは異なるもの、その違いを楽しもうと誘惑してくる、彼らが拒否していたはずの交通の魅力だった。たしかに自国産の葡萄酒はケチのつけようのないくらい最上のものかもしれない。けれども、外から来た別の土地の別の酒は、自国のものに慣れ親しんで満足を覚える舌に、また異なる快楽を与えるのかもしれない。

ペルソナとノッペラボウの間の調整は、単にペルソナ出現の不可避という一方的な都合によってだけ要請されるのではなく、ノッペラボウ側の豊かな変容のためにも求められるはずだ。

参考文献

  • 安藤馨『統治と功利――統治主義リベラリズムの擁護』、勁草書房、二〇〇七年。とりわけ二七九頁。
  • 稲葉振一郎『「公共性」論』、NTT出版、二〇〇八年。とりわけ三〇六頁。
  • 大屋雄裕『自由か、さもなくば幸福か?――二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う』、筑摩書房、二〇一四年。とりわけ一九六頁。
  • 稲葉振一郎『「公共性」論』、NTT出版、二〇〇八年。とりわけ一九八頁。
  • 大屋雄裕『自由か、さもなくば幸福か?――二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う』、筑摩書房、二〇一四年。とりわけ一九六頁。
  • ジョイス『ユリシーズ』第一巻、伊藤整+永松定訳、新潮社、一九五五年。とりわけ三八三頁。原著は一九二二年。
  • ホメロス『オデュッセイア』上巻、松平千秋訳、岩波文庫、一九九四年。とりわけ二二三~二二四頁。
  • ホルクハイマー+アドルノ『啓蒙の弁証法』、徳永恂訳、岩波文庫、二〇〇七年。一四〇~一四一頁。原著は一九四七年。

1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophやパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)。新刊『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)が発売中。twitter:@arishima_takeo