第8回 京都:1976(2)

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

20余年住んだ東京の半ばを千駄木で過ごした。
私の住んでいたマンションは、乱歩の作品に「D坂」として登場する団子坂と武者小路千家のある狸坂のあいだに挟まれた、細く狭い大給坂を登りきったところにあった。地元にもあまり知られていないこの坂をタモリが好きだという。なかなかにシブい趣味をしている。
 坂の勾配でついた歩みの勢いを止めず、そのまま惰性に任せて行けば谷中に行き着く。『ミシュラン』で取り上げられてからというもの下町情緒を感じられる「路地」の残る町として、以前に増して海外から観光客が押し寄せるようになった。訪れた人たちは路地を見つけてはしきりと写真を撮り、そこにネコがいようものなら決まって歓声をあげた。

千駄木に住み始めてから谷中、千駄木、根津のいわゆる谷根千をよく散歩をするようになった。暗渠となった川の名残を律儀になぞる曲がりくねった蛇道や入り組んだ道を歩きながら新たにできた東欧の小物を扱う雑貨店やベーグルの店を見つけつつ、この辺りをきっと鴎外や漱石、らいてうも歩いたかしらと想像するのは楽しいひと時であった。
 散策中に家屋の隙間を縫うようにして砂利や飛び石の敷かれた路地に出くわす。そういう機会を重ねるにしたがい、「なるほど。路地はけっこうなものだな」と思うようになった。道なのか生活空間なのかよくわからない何かが都会の真ん中でぽっかりと口を開けている。誘われるままに路地をすり抜けると見知った道に唐突につながる。目の前にある建物や道路はいつも通りの済ました姿を装っているような、慣れた景色が違って見えることがおもしろく、千駄木の暮らしで私の中の路地の印象がすっかり塗り替えられた。
 ここでの路地はあくまで「ろじ」と発音する。
 京言葉では「ろおじ」である。
 私に巣食っていた「ろおじ」の記憶は暗くじめついている。

生まれて間もなくと3歳の2回ばかり、京都に住む父方の長兄にそれぞれ半年ほど預けられた。先述した通り、膠原病を患う母が入院したためだ。近くに祖母も住んでおり、しばしば彼女によって私は連れ去られた。祖母はたくさんいる孫の中でなぜか私を異様に可愛がった。
 丘の上の叔父宅を下り、大通りを斜交いに横切ってしばらく歩いたところに祖母は住んでいた。彼女がソウルから京都へ移り住んで以来、根を下ろした界隈の住所には「大路」の名が付いている。都の内を思わせはしても近代になってからの新参であり、ここはかつてならば洛外、鬼の棲む異界であったろう。近くに処刑場や風葬に選ばれた地があるのも頷ける。

母の退院後は実家の神戸に戻ったものの、盆と正月のたびに祖母のもとを訪ねなければならないのは気の滅入ることだった。路地は暗く、雨が降ってもいないのに常にじめじめとしていたからだ。
 アパートの向かいの道に沿って、痘痕のようにところどころがえぐれたブロック塀が並んでおり、その向こうに見える建物の荒れた様子からそこはてっきり監獄か廃墟だと思っていた。後に大学だと知ったものの、にわかに信じ難かったのは、まるで人の気配がなく窓はところどころ破れていたからだ。
 羅城[らじょう]の内と外であるとか化外[けがい]の地といった区分けをもちろん幼い時分は知らない。がしかし、物心ついた頃には祖母の住む地の、閑静とは言い難い、妙に静まりかえった様子に胸のざわつきを覚えていたのは確かだ。森閑としているのに何やらうるさい、蠢くような気配。長じてから私の感じるものを「念」と呼ぶと知った。ともかく腰を落ち着けることを厭わせる何かを感じていた。
 加えて祖母のもとを訪れるのが億劫だったのは、世間によくある嫁姑の陰険な争いの板挟みになるからだ。祖母と親しげにすると母の機嫌が悪くなり、かといって祖母を無視すると父が不穏になる。
 別れ際、祖母は決まって仏壇に供えていた干菓子を取りあげると「食べろ」と差し出す。狭い部屋の一角を占める仏壇に灯る蝋燭の炎にあおられ、その奥に見える金色の仏画はぬめぬめと不気味に光っていた。湿気って抹香臭い菓子には、いろんな念が絡まっているようで、受け取るのが嫌でたまらなかった。 
 

今春、祖母の住んでいた地を再訪してみたところ、かつてのトイレと台所を共用とした安普請のアパートは搔き消え、すらっとした外観のマンションに建て替えられていた。大学は見違えるように小ぎれいな格好になっており、華やかなキャンパスそのものといった学生たちの笑いさざめく声が聞こえて来た。かつての細い路地は拡張され、かつて感じていた気配は名残りを感じる程度に薄まっていた。
 記憶に任せて周囲を歩き始めると市営団地に行き着いた。その一階に野菜や日用品を扱う雑貨店を見つけた時、ここに字が読めない祖母の代わりに干菓子や蕎麦ぼうろを何度か買いに来たことが不意に想い起こされた。そうなると向かいには、祖母に手を引かれて行った銭湯があったはずだ。道路を渡ると確かにあった。だが、そこで初めて知ったのは銭湯というのは私の思い込みで、市立浴場であったことだ。
 浴場施設の入り口付近の壁には、「同和対策事業として近辺に建設された『改良住宅』に風呂はなく、市が公衆衛生向上のため設置したのだ」という旨を知らせる看板が貼ってあった。ところどころ文字の薄くなった表示を読むにつれ、父が酒を飲んだ時や幼い時分に満足に食べられなかった甘いものを頬張っている際、やおら彼が生まれ育った、この浴場からそう遠くない祖母のいた路地について話し始めたことを思い出す。

 
「俺が生まれたところは部落と朝鮮人部落が隣り合っていて、雨が降ったら地面がぬかるんでしまうような、どうしようもないところだった。便所は共同で、雨の日は特にひどい。とにかく貧乏人の掃き溜めだ。中でもうちは貧乏だったから家に壁なんかなかった。おまえたちには想像もできないだろう」

父が前触れもなく話す思い出のことごとくには沈鬱さ、垢じみた暮らしの風合いしか見当たらない。「豊かな暮らしができるようになってよかった」と現状を肯定する話につながるでもない。地べたを這う生活とは「貧しくも明るい」といった屈託のなさとは到底無縁なことだけはわかった。
 薄い板でこしらえた粗末な家屋に壁がないというのも外との仕切りは障子のみだからで、六畳一間に8人が暮らしていた。底冷えのする京都の冬であっても暖房はない。唯一の暖は布団にくるまることだけだった。床につけば身じろぎひとつできなかったのは、動けば隙間から冷たい風が入るからだ。まんじりともしない夜に寝返りを打つと、父はよく「寒い」と言われ長兄に殴られたという。

祖父はアルコールが原因で早々に亡くなっており、一家に安定した収入はなく、当然ながら食事が日に三度あるわけではなかった。空きっ腹を手っ取り早く満たすには、水を飲むしかないといった有様だ。
 おまけに食事にありつけたとしても祖母は元来料理ができない人であった。後年、その訳がわかるのだが、ともかく魚を焼くにも塩梅がわからず、炭になるほど焦がすのは当たり前。一度味噌汁を作るといつまで経ってもそれが減ることはなかった。食べた分だけ水を増すからだ。
 料理を味わうとは無縁のそんな食事は、祖母が密造酒をつくることでなんとか賄われていた。
 とはいえ、具のほとんどない、水のような味噌汁とわずかな魚を取り合うのだ。食べ盛りの腹がくちくなりようもない。飢えた子供たちは鉄くずや瓶を拾っては小遣い稼ぎに精を出した。末の叔父は送電線の銅線をぶった切り、銅の雨樋を剥がすといった悪童ぶりも発揮したという。
 法や社会が自分たちを守ってくれるわけではない。ならば己が生きていくことを実力で確保するしかない。叔父はそう心に誓うまでもなく、それ以外には生き抜くことができないと実践で学んでいたのだろう。
 実地の体験は教えてくれる。世間とはそれに則り、従うものではなく、サバイブすべき領域なのだと。幼い頃からそれを自覚せざるを得なかったのも意味があることだったのかもしれない。たとえば父はのちに高校の教師から「朝鮮人が雇ってもらえるわけないだろ」と、社会に出る前から正業につけないことを知らされ、就職の世話はしてもらえなかった。社会の成員とはみなされていなかったわけだ。

路地の外の人間が「まとも」と思っている生き方はここではできないし、期待もされていない。その境遇を嘆いたところで飯は食えないことだけははっきりしていた。
 叔父のように法を逸脱するのも厭わない徹頭徹尾のリアルさを、かつては王威の及ばぬ化外の地にふさわしい振る舞いだとつい思ってしまうのは、私が飽食暖衣の暮らしを経てきたからだ。叔父にとってはロマンティックな幻想など抱きようのない、吹きっさらしの現実でしかなかったろう。

貧乏長屋というよりは貧民窟というほうがふさわしい路地に住むものたちは日々生き抜いているだけで、そのやり繰りを仕事と思っていなかったかもしれない。男も女もバタ屋と呼ばれる廃品や襤褸の回収、飴売り、土工で日銭を稼いでいた。
父も西陣の染物屋に出入りしたり、飴をつくる小さな工場で手間賃を得た。飴をつくるのはその味ほど甘いものではなかった。ともかく熱いうちに伸ばさないといけない。作業は汗だくになりながらの手のひらの火傷を必須とするものであり、重労働だったという。
 体を使ってのきつい仕事から大人たちが寝ぐらに帰ってくると、まず求めるのは酒だった。祖母は彼や彼女らにマッコリを売っていた。だが、せっかく作った酒も時に警察が手入れでやって来、甕を見つけると手当たり次第に割っていったそうだ。きっと祖母のことだろうから地を叩いて抗議し、かきくどいたことだろう。
 祖母に限らず路地に住む人たちは激高する場面では怒声を放ち、喜びには快哉を叫び、悲しい時は身を震わせて泣いた。感じるところを隠すのを品とするような、都の雅さとは無縁だった。父はそうした慎みとは無縁の剥き出しさ加減を文化の低さとして捉え、次第に嫌悪するようになっていた。

ある日、男たちが路地に一頭の牛を運び込んだ。どういう経緯で手に入れたのかわからない。ともかく白昼、路上で牛が屠られた。帳の落ち始めた夕刻から宴が始まり、じめついた路地の方々で熾こされたカンテキの火が辺りを赤々と照らし、肉の脂で唇をぬらぬらと濡らした男たちは酒がまわり始めると例のごとく賭場を開き始めた。

たらふく肉を食うという滅多にない馳走と酒で有頂天になり、博打で興奮する人たちに、私は遣る瀬ない暮らしの憂さ晴らしを見るのだが、父はそこに自堕落と放埓さ、人間の底の生活をはっきりと見て取ったようだ。
 父の話はいつも断片的ではあっても、この日の出来事を伝える情景は私の中にひどく余韻を残すものとなった。ありありと路地の様子が想像される。酒でだらしなく酔いつぶれる人たちや博打に興じる人たちのその日暮らしの当て所のなさを悲しく感じている父が伝わってくる。
 現実を変えようとしない人たちへの失望。変えられない現実があることに対して立ち尽くすことしかできなかった、無力だった少年時代の彼の面影が赤々と熾った炭火に照らされて見えるような気がするのだ。

Profile

1970年4月16日生まれ。フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原Jr氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、ダンサーの田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。著作に『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)など多数。