第13回 大阪:1990(鶴橋 2)

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

「あんな汚いカッコの人ら日本に来んといて欲しいわ」
悪びれもせず彼女はそう言うと、ひょいと伸び上がって机に腰をかけた。私はしばし絶句してまじまじと彼女を見たが、視線を外してつま先をぶらぶらと振る。11歳にもなれば、尖った言葉を意図して使いもするだろう。
 けれども、その所在なげな様子は、今しがた言い終えたことは、自分にとっては何の気なしに口を吐いたまでで、取り立てて深い考えあってのことではない、そう物語っているかのようであった。かと言って立ち去らずに目の前に居続けるということは、こちらの出方を伺っての含みを持たせた言い様なのかもしれなかった。

以前に述べた通り、私は在日コリアンの集住地域である猪飼野の小学校で土曜日だけ開かれる「民族学級」のボランティア講師を務めていた。
 授業の合間の雑談からふと出た「あんな汚いカッコの人」とは、ベトナムから日本に漂着したボートピープルと呼ばれた難民を指していた。くだんの発言をしたのは、初めて子供たちと会った際、私に「甲斐性なさそうやな」と言ってのけた子だった。彼女を知る教員によれば、勉強が抜群にできるわけではないけれど目端の利く子で、普段から「大人顔負けのことを言う」のだそうだ。確かに世事にかけては目から鼻へ抜けるような理解を示す子だった。
 1980年末から国を脱する人たちが陸続と小船で海へと乗り出し、一部は日本近海に流れ着いており、彼らの動向について報じるニュースも日ごとに増えていた。粗末な木造の漁船の上に鈴なりになっている彼ら彼女たちの険しい、怯えた、不安げな硬い表情。潮風にさらされた髪は乱れ、血色の悪い顔と痩せた体に煤けた服を纏っている。困窮を露わにした姿を彼女もニュースで見ていたのだろう。

バブル経済の只中、意識調査は国民の多くが「自分は中流だと信じている」とくり返し報じていた。一億総中流というフレーズを唱えれば、これからも幸福が続きそうに思えた時代だった。なにせ普通に働き、普通に暮らしていれば人並みの中流にいられる。その感覚からすれば難民には同情こそすれ、自分たちが享受している以外の事情について深く知ろうという気持ちは訪れにくい。「普通ではない」こと自体がありえないという考えに居直れたからこそ、誰もが「自分は中流だ」などと思えたのだから。
 とはいえ、民族学級に来る子供たちは、おおかたの国民のように無邪気に中流と信じられるような階級に属していなかった。収入が他に比べて乏しいのは、つつましい暮らしと呼ばれることもなく、ただ貧しいと嘲笑われる風潮があの頃は確かにあった。
 だからだろうか。「甲斐性」に重きを置いた彼女は金持ちに対して、「ええなぁ」と憧れを素直に口にし、「ええとこの家の人と結婚したいわ」と言いもした。「なんで?」と聞くと、「楽できるやん。働きたくないわ」と返した。その時は迂闊にも「ずいぶん現実的だな」と思うだけで済ませてしまったが、思えば私の言う「現実的」とは何を指していたのか意味不明に過ぎた。彼女にとっての現実を尋ねるべきだった。
 まだ小学5年生なのだ。結婚を早々リアルに感じるわけでもない。どこかで聞いた言い回しを口にしているのかもしれないが、それが彼女の心情といかほどか合致しているからこそそう言うのだとしたら、そこに張り付いた切迫さを私はまるでわかっていなかった。

子供たちの家庭は共働きが普通だった。激烈な格差社会が常識となった今ではそれが当たり前でも、その時の中流家庭の条件には「夫は企業に勤務、妻は専業主婦」が不文律としてあった。であれば、11歳の子供が「楽をしたい」というとき、日々のたつきのままならさを目にしてのことだったのだろう。アホボンとして能天気な暮らしをして来た私が想像したところで、彼女が直面しているしんどさをわかりはしなかった。
 「あんな汚いカッコの人ら日本に来んといて欲しいわ」と言った後、彼女は何も言わず、長い髪をまとめたヘアクリップを何度か触った。その仕草を見ているうちに、「うわべを飾ることを言っても人の本音は別のところにある。世間の事情はいろいろわかっているのだ」とでも言うような発言と不釣り合いに、ファンシーに過ぎる色あせた光沢を放つクリップを隠そうとするようにも思えて来た。貧しさの切れ端を感じさせることへの警戒が彼女の所作に表れて見えたのだ。

彼女も自身の属性からして、この先に難儀な暮らしが待ち受けていることを肌身に感じていただろう。そうした世知辛さはわざわざ誰かに教わるまでもない。零細な工場や肉体労働、小商いなどで生計を立てている界隈の住人の暮らし向きを見れば否応なくわかってしまう。痛みがわかっているのならば、難民を排斥するような発言をしないのではないかと思うかもしれないが、差別を被っている側がさらに弱い者への不寛容さを示すのは、そう珍しくないことだ。
 ただ、豊かなはずの社会で「楽をしたい」というくらいには失望を味わっていたのだとすれば、その落胆に注ぐエネルギーを困難な状況にある人の立場に共感することもできるのではないか。私はそう単純に考えていた。
 だから彼女に聞いてみた。
 もしも、今の暮らしが苦しくて、かといって旅路の果てに待ち受ける運命がまるで見当つかず、それでも海に乗り出すほかないとしたら、そのとき身につけるものはなんだろう。お気に入りの服を着るということはないだろうか。今は風と陽に洗われてぼろぼろに見える服もひょっとしたら、その人の晴れ着だったかもしれない、と。
 猪飼野には戦前、河川工事のための安価な労働力を提供すべく本土に渡ってきた人も、戦後に済州島で起きた軍や警察による島民への虐殺を逃れ、密かに海を渡って流れ着いた人もいる。どちらにしても君や君の祖先も「あんな汚いカッコの人ら日本に来んといて欲しいわ」と言われていた側だし、今なお似たようなことを言われている。それが私たちの現在の姿だろう。
 そのような内容を話してみたものの、彼女の関心を呼ぶことはなかった。それもそのはずで、「それが私たちの現在の姿だろう」と言ったところで、それは「私」の生活の実相ではなかったからまるで説得力はない。まして彼女の現実でもなかった。だから「私はあんなのと違うわ」と言うと、机から降りて踵を返すと教室から出て行ってしまった。
 理路が整然としていたら理解は進むものだと浅はかにも思っていた。19歳の私は何もわかっていなかったのだ。「あんなのと違うわ」と言った時の彼女の目の中に浮かんだ、失意の色を忘れられない。何が彼女に届かなかったのだろうと思い返してみると、今になってわかることがある。

民族学級に熱心に参加する小学校3年生の日本人の児童がいた。
 学級は在日コリアンだけを対象にしているわけでなく、半島の文化に興味のある児童は誰でも参加してよいことになっていた。彼は他の誰よりも熱心に言葉や踊りを覚えようと取り組んでいた。その子の担任と話して知ったのは、普段の勉強ではついていくのも難しい教科も多々あることだった。それだけに教師としても課外で見せる積極的な姿は驚きなのだという。
 いじめられているわけではない。むしろ目立たないことに全力を注いでいるような彼が土曜日だけは活発になる。その時間を延長したいのか。私が帰ろうとすると、彼は校庭で遊ぼうと言い、しきりにまとわりついてくる。かくれんぼをしたり、相撲をしたりと遊ぶうちに、擦り切れた、垢染みるとまでは行かないが、いつもくたびれた服を着ていることに気づく。襟元からは家の鍵をくくりつけた紐が覗いており、今帰っても家には誰もいないのだろうと知れた。
 「楽をしたい」と言った彼女もまた同じような境遇だったはずだが、少年の言うことをまぜっ返して、揶揄して笑いものにしてみたりと、その淀みない話ぶりはややもすると冷ややかな態度として現れることが多かった。思春期を迎え、だんだんと大人に向かっている身からすれば、小学校3年生の言動はあまりに幼く感じてのことかもしれないが、それだけではなかったのではないかと思う。
 大人顔負けの口の達者さは、大阪でよくいうところの「しゃべり」の地力と評価される場合も多い。それは何に向けられた力なのかと言えば、本当のことを決して言わないためでもあり、自らが傷つかないための防御でもあるだろう。
 彼女は貧しく、悲惨な境遇への理解がなかったのではなく、弱く貧しいものを見ることで傷ついていたのではないか。自身が現実に対して、あまりに無力であることを十分に知っているのであれば、無力な姿を晒す人たちを直視することは耐え難いことだ。弱者に対するいたわりという言葉は知っているだろうけれど、それはただの言葉でしかない。なぜならそれは彼女を救いはしないから。

あれから30年余り経つ。環状線に乗ると決まってあの子を思い出す。窓を流れる相変わらず灰色の鶴橋の町を見遣りながら、今なら前よりはうまく話せるかもしれないと勝手に思っている。