第19回 東京:2002(千駄木)感情教育の始まり

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

千駄木駅近く、三崎坂の脇に店を構える老舗の菊見せんべいには、ハッピーターンの鼻祖ではないかと思わせる「めずらしせんべい」がある。舌に広がる甘さと塩っぱさのせめぎ合いの勝敗の行く末を確かめるうちに、せんべいを摘んでは口に放り込む運動があたかも無限軌道のように止まらなくなる。この病み付きの感覚を求め、荻窪に住んでいた時分からたまに買いに来ていた。

せんべいを買った後に付近をぶらりと散策すれば、目前に乱歩の『D坂の殺人事件』で知られた団子坂が控えており、坂を登りきって右手に曲がると鴎外の住んでいた観潮楼跡に行き当たる。名前からわかる通り、かつてはこの辺りから品川沖が見えたという。坂のある街が好きなのは神戸で生まれ育ったせいだろう。平地だとどうにも落ち着きがなくなる。
 新宿・歌舞伎町から千駄木に移ったのは以前から街並みが気に入っていたのに加え、当時付き合っていた人が千駄木から歩いて数分ほどの本駒込に住んでいたからだ。私の住まいは団子坂と武者小路千家のある狸坂に挟まれたごく細い大給坂――この変哲もない坂をタモリが好きだという――を上りきった先のマンションだった。ここから彼女のマンションまでは800メートルほどの距離。
 しかし、この物理的な近さが感情の結びつきを必ずしも深くへとは導かないと後々知ることになった。彼女との2年に渡る交際は、人と人とがわかり合うプロセスを阻む隔たりは何がもたらしているのか。そして、それを埋めるにはどうすればいいのかといった謎の解明に当てられた。
 私は自分の感情や気持ちを言葉にする経験がほとんどなかったことに、彼女と交際するまで気づけなかった。いわば生まれて初めて情操教育を自らに施すことになったわけだ。千駄木で暮らした10年余りは感情のリハビリを行った期間でもあった。

越した直後、知り合って長い友人とご飯を食べていた。
 彼女とは定期的に会う仲だった。ひとしきり話した後、彼女は不意に箸を置くと「知り合って長いのにいつも初めて会ったばかりでそこから打ち解けていくみたいな、この距離感を詰めていく感じ。全然変わらないよね!」と言った。彼女は私を詰っているわけではなかった。また実際に私の態度は冷淡というのでもない(と思う)。ちゃんと話には答える。しかし、彼女にとっては答えてくれることがかえって面妖に思えるらしい。というのは「透明度の高いガラス越しに話しかけてくる感じ」が拭えないからだそうだ。
 会話というのはテニスのラリーみたいなものだとして、親しくなると近い間合いで時にダイレクトにボレーしたりするのだろう。私の場合は打ち合っていたつもりなのに、気づいたら相手に「ひとりでガラス窓に壁打ちしていた」といった感覚へと陥らせるようだ。でも相手もガラス越しに私の姿を認めはする。
 間柄が近しくなるほど互いを理解し合えるという期待を無意識に持っているがゆえに、この関係ではそれを裏切り、むしろどんどん不穏な空気をたたえ始める。相手からはこちらの気持ちや心が見えないからだ。

当時は、「人の心がわからないこと」が問題だと思っていた。そう漏らすと「いや、人の心なんて誰しもわからないものだよ」と諭す人はたくさんいた。だが、そういう人ですら、「どうして君は人の心がわからないのか? インタビュアーなんでしょ?」と、先に自分がいったセリフも忘れて口にするのを覚えている。単に鈍感というレベルではないらしいのは日常会話は問題ないからだ。ただ、ちょっと距離を縮め始めた途端にどうにも話の通じようのないコミュニケーションの捻れを体験をさせるらしい。
 私にとっては自然に行っていることなので、相手が抱く違和感を説明するのは骨が折れるのだが、例えて言うなら陸上競技のハードルだ。アフォーダンスの観点からすれば、ハードルを見ると跨ぐなり飛び越える動作を誘われるはずだ。だが、私にとって目の前に現れたハードルはリンボーダンスのように下を潜っていくことをアフォードしている。その妙な独自性を発揮すると、漏れなく他人との会話がギクシャクする。「はて、いったい何を話していたのだったか」といったように、話が行方不明になってしまう。

今どきは広汎性発達障害や自閉症スペクトラム傾向が強いと言われるのだろう。
 けれども起きている現象そのものを受け止めるのではなく、出来合いの言葉に言い換えて安心する一連の行為はひどく退屈だ。名前が腑に落ちたところで、自分のあり方に何も変化が生じないのではないかと思うからだ。とはいえ、私にとってもコミュニケーションがうまくいかないというのは不具合を感じることが多いので、いつか相手に徒労感を与えるような自分のあり方を変えたかった。
 かと言って具体的な取り組みはいつも事後策でしかなく、トラブルが起きるたびに「ここを抑えておけばとりあえず人間関係は破綻しない」と人の心の忖度の仕方や気持ちのあわい、情緒に関する考えを獲得していった。それではいつまで経っても「弱いロボット」のままで、その時その場で生じた出来事に応じた最適な振る舞いをするには至らない。すでに学習した内容以上の事態が起きるとやっぱり混乱していた。

特に動揺したのは、怒りの感情に触れる時だった。私にとって長らく怒りという感情は謎だった。背景には活火山の如く常に怒っていた父がいる。彼には自分以外の人間の一挙手一投足が怒りの対象だった。
 たとえば横断歩道の信号が青に変わった瞬間に歩き出さなかったという理由でひどく怒られたことがある。「なぜ人に先んじて歩き出さない。そこにおまえの甘さが現れている」云々と一事が万事、この調子であり、幼い頃から理不尽な怒りをぶつけられた結果、身をすくませることを覚えた。反論してはさらに怒られるため「自分は無力だ」と思うことが唯一怒鳴られてる時間をやり過ごす方法だと体得してしまった。
「本当に感じていることを言っては怒られる」という身の内に巣食ってしまった恐怖が人間関係を結ぶ上でのベースになっていた。そうなると人との関わりは決して親密になりはしない。相手に深く踏み込んでしまっては怒らせるかもしれないからだ。
 怒りを異様に怖れた結果、ついには本当に自分が思っていることを口にせず、自身が誰かに怒ることも躊躇うようになった。喜怒哀楽の感情を心置きなく表せるのが深い交わりとすれば、私はそれを徹底して避けた。

交際していた彼女と出会ったのは、今のように怒りと親密さのメカニズムを知るずいぶん前のことで、だからまだ感情に関する学習は始まっておらず、「弱いロボット」っぽさがむき出しだった。
 彼女はよく怒っていた。それは私が彼女を怒らせていたからだ。かといって、「恋人だったらご飯をつくってくれるのが当然」とかくだらない束縛とか、そういうことで怒らせたのではない。うまく気持ちを類推できない時に「どうしてあなたはわからないのか」と怒った。後年、彼女の怒りの中に悲しみがあり、それは「わかって欲しい」という切実さが含まれていたと知るのだが、その頃は怒りはただ怒りとしてしか受け取ることができなかった。
 普通であれば「そうやって言うけれど、自分の気持ちをわかって欲しいばっかりじゃないか」とか「わからないものは仕方ないだろ。君だって完璧じゃないんだろう」と感情的な反発というものがあるだろうし、彼女も当然そういうリアクションがあると思っていたようだ。ところが私の場合はそういうことにならない。そうした期待にはまったく応えない。

まず彼女が怒ると「なんか悪いことしたのかな」と反省モードに入ってしまう。あるいは「君が怒っているのは、カクカクシカジカの理由からなのだろうか?」と分析して、しかも口にしてしまう。どちらもさらに怒らせる。備長炭くらい燃え盛る。
 当時は心底わからなかったのだが、反省モードとは自分の内に引きこもってしまうことで、それは相手と関係なくなり自己完結してしまうことだ。そうなってしまうと、彼女の中では「勝手に反省してるけどさ、それだと私関係なくない?」ということになっていたのだと時間が経ってから理解した。
 次いで分析は言わずもがなで、相手が感情的になっているのに一方が冷静だと「バカにされている」感覚を与える、らしい。
 私としては誤解を解きたいし、相手を理解したい一心の発言だった。
だが、この考えも曲者で「誤解を解きたい」という構えには、「相手のほうが間違っている」が初期設定としてあることに気づけなかった。加えて「理解したい」も相手の行動の軌跡であって、今起きている事柄ではない。これもまた目の前にいる人を無視した行為だ。というのを新たなプログラムとして自分に叩き込んでいたのだった。
 一度、「怒りに怒りで返したらさらに怒るんでしょう?」と聞いたら、「当たり前でしょうが!」と言われて、キョトンとした。意味がまったくわからなかったのだが、しばらくして「そうか!人は感情の応酬自体を理解のプロセスとみなしているのだ」と発見して感動した。ユリイカ!と叫びたいくらいの気持ちだった。

事の顛末はもう覚えていないが、彼女にとってひどく腹立たしく、そして悲しいことを私がしでかしたことがあった。それから一週間ばかり電話をしてもいつも留守番メッセージに切り替わり、連絡がとれなくなったことがあった。さらに数日経って連絡したらようやく電話に出てくれた。「ひさしぶり。元気にしてた?」といった、これまたよそよそしい切り出しで話をした。
 何だかわからないままに謝るというのはよくないのだろうけれど、そんなにまでして怒るというからには相当の理由があるはずだ。そう思いはしても、付き合いの中でそれなりに学んだのは「なんで怒ったの?」と尋ねてもどうやら逆効果だということは理解するようになっていたので、「とにかく会いませんか」と言って、彼女の部屋に向かった。
 ドアを開けた彼女は最後に会った日に比べたら清々しい顔をしていたから、ホッとしたのも束の間。部屋に上がると大きなビニール袋が動線を遮るように置いてあり、中を見るや「アー!」と思わず大声をあげてしまった。それは彼女の部屋に置いていた、私の大のお気に入りのライダーズジャケットだった。あまりにも気に入りすぎてほとんど袖を通したことがない(気に入って買った服や靴下は10年以上保つのだが、その訳はほとんど身につけないからである)。
 そのライダーズジャケットはコットン製でも遠目にはレザーに見えるような光沢があり、しっかりとした生地で撥水も抜群でとにかくかっこいいものだった。それがズタズタに破かれ、ビニール袋に無残に放り込まれていた。
 アーッ!!!と叫んだ後、ごく自然にこう続けた。
「服がかわいそう」

それを聞いた彼女はヘナヘナと崩れ落ち、ハァーと落胆の溜息を漏らした。人間の眉があんなにもハの字になるのを初めて見た。
「あれ、なんかやらかした?」と思い、「いや、ほら、ほとんど着てないしさ」と言ったのだけど、彼女は「そうか」と言うとタバコに火をつけ、また「そうか」と言うと、ふふふと笑い出した。

これだけを読むと、彼女はひどいことをしていると思うかもしれない。実際、彼女は後に「ひどいことをしているとわかっていた」と言っていた。なぜなら私がすごく大切にしていると知って破っていたからだ。表面上の“ひどい”の底に何があるかというと、暖簾に腕押し、糠に釘の私に少しは自分の怒りや悲しみをわかって欲しくてやったのだ。「それほどまでに悲しかったのか」という私のリアクションを期待していたのに第一声が「服がかわいそう」と来たものだ。
「なに? それじゃ私の気持ちはどうでもいいの?」と彼女が思うのも当然だ、とこれまた後に考えてわかったものの、その場では彼女の心の機微がわからない。
 ひどくややこしいことには、「よくもオレが大切にしている服を切り裂いたな!」と怒ったわけでもなく、彼女に「なんでこんなことをしたんだ!」と怒りをぶつけたわけでもないことだ。怒りは一切ない。
 万物に生命は宿るではないけれど、服としての命をまっとうさせてあげられなかったことに「かわいそう」と思ってしまった。服の命を感じても恋人の感情には気づかないのは、やっぱりどうかしているのかもしれない。

この事件を機に「私も“人の心なんてわからない”と普段から言っていたけれど、自分も期待していたんだってことがわかった。だから本当にあなたには期待しても仕方がないんだと諦めがついた」と彼女は思ったそうだ。
 それからは確かにあまり怒らなくなった。その代わり似たような発言をして、彼女が「それ、どういうこと」と言って私が困った顔をすると、「レトリーバーみたいな顔するな」と突っ込むようになった。

「レトリーバーはいたずらをして飼い主に叱られても『僕、わかんない』って顔するでしょ。それにそっくりなんだよね」

情操教育のおかげでコミュニケーションの段階はロボットからレトリーバーに昇格したようだ。

Profile

1970年4月16日生まれ。フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原Jr氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、ダンサーの田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。著作に『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)など多数。

第18回 東京:2002(歌舞伎町)

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

隣室のドアを激しく叩く鈍い音で目が覚めた。
 時計を見ると目を瞑ってからまだ数時間しか経っていない。目を閉じればすぐに眠れた寝付きの良さが、ここでは身を潜めてしまい、まんじりともしない夜が増えた。窓越しに見えるギラギラとしたネオンは、カーテンを閉めさえすれば完全に遮ることができ、部屋は真っ暗になる。
 けれども街の底からふつふつと沸き上がる瘴気とそれを吸ってさらにいや増す、あたりをたむろする「飢え」を抱えた人たちの蠢きが細かな空気の震えをもたらすのか。床についても絶えず低い唸りが耳に響くような感覚に襲われ、浅い眠りしか訪れない。
 マットレスに身を横たえたまま耳をそばだてれば、廊下から聞こえるのは苛立った靴音の重なりで、複数人が廊下にいることが知れた。そろそろと起き上がりノブに手をかける。チェーンが決していっぱいに張り切ってしまわないくらいにドアを少しだけ開けると片目で外の様子を確認する。このマンションに越してからというもの、廊下を歩くのにもドアを閉めるのにも背後を振り返るなどして細心の注意を払うようになった。

「東京地方裁判所のものです。ただいまから強制執行を行います」

拳を鉄槌の要領で打ち付け、ノックの代わりとしていた男性がそう宣言したのを認めると、そっとドアを閉めた。これから開けろ開けないの押し問答がしばらく続くのだろう。寝るのを諦めてカーテンを開けると夜光虫のように輝いていたネオンは灯りをすっかり落としており、寝ぼけ顔の歌舞伎町が眼下に広がっていた。
 歌舞伎町のど真ん中にある、このマンションは知る人ぞ知る建物で通称「ヤクザマンション」と呼ばれていた。住人の9割がその筋の人たちだからだ。どうして歌舞伎町に居着くようになったのかを説明するには、まずは荻窪と平井を経由してからの話になる。

板橋は大山の安アパートに都合2年ばかり住んだ後、もう少し文化的な暮らしを望む気持ちが嵩じて荻窪に居を移した。それからの日々は荻外荘までぶらぶら散歩した後に邪宗門でコーヒーを飲むといった暮らしで悪くないものだった。
 一方、仕事はといえば変わらず低調で、ライターの名刺を作りはしても手渡す機会など滅多にない。ただ時間だけはたっぷりあったので、目覚めてしばらくすると図書館へ赴き米朝落語のCDを漁り、次いでこんな時でなければ手を出さないだろうと『水滸伝』や『大菩薩峠』など長編ばかりを片端から借り、読みふけった。部屋で落語をひとしきり聴いてあははと笑い、腹ばいになって物語に耽溺しているうちに舟を漕ぎ、午睡の後は銭湯で湯を浴びる。文字通りの無聊をかこつ暮らしだった。
 そんな取り留めない暮らしに耽っていられたのはわずかの間で、やがて生活は跛行の足取りを見せ、日々のたつきに難儀し始めた。そうして暮らしの傾きに引きずられ、住まいを中央線から今度は賃料の低い総武線の平井へと変えた。亀戸や錦糸町の名を知る人は多くても、その間にある平井を覚えている人は稀だろう。
 引っ越し当日、御茶ノ水駅を超えた途端、町の色合いが灰色がかり始めたことに暗澹とした気分に襲われた。駅に降り立てば海抜ゼロメートル地帯のためか風がそよとも吹かない様に我が身の拙さと顚落を感じ、ため息ついた。
 平井については多言を要しない。和食店であっても黄色を基調とした派手な色使いにためらいがないのと不用品の回収業者が尋常ではない音量でひっきりなしに立て込んだ住宅街を往来するといった、常に不穏な気持ちにならずにはいられないところで、心静かに暮らすことは極めて困難だった。
 賃貸の更新を間近に控え、これ以上ここに住むのは限界だと思っていると、同じ実話誌で仕事をしていたライターの先輩が「仕事場でよければ、しばらくの間なら住めばどうか」と声をかけてくれた。
 実話誌とは、芸能ゴシップとアウトローの動向を抱き合わせで扱う媒体のことだ。私が関わっていたのはヤクザの専門誌で、いわばアウトロー業界の「ロッキング・オン・ジャパン」といった風情だった。その雑誌で長年記事を書いていた先輩ライターが事務所として借りていた部屋が件のマンションというわけだ。そこに間借りするまで、私はそのマンションが界隈で有名とはまるで知らなかった。

その頃の生計の大半は実話誌で立てていた。あるときは地方に出向き親分らの話を聞いた。待ち合わせのホテルのラウンジに着けば、若い衆がぞろりと並んでいた。挨拶を済ませ、いざ移動する段になると、若い衆が両脇をかため花道めいた動線が歩道を突っ切り案内された車まで伸びている。通行人はこうした光景に慣れているのか、私たちが通るまで待っている。車に乗り込むと今度は若い衆が道路に走り出て、手を広げて後続の車を全て停めた上で発進した。すべてが演劇的に見えたのは気のせいではなく、彼らは明らかに自身が確保している力を見せようとしていた。
 夜はせっかく東京から来たのだからと食事の誘いを受け、地元で評判のすき焼き屋に連れて行ってくれた。上等の肉だというのはわかりはしても、ビールを注いでくれたりと何くれとなく気を使ってくれる側近がどういう経験をすればそこに傷がつくのだろうか。眉間に明らかに刃による傷を持つ強面であれば肉を味わう余裕もない。
 仲居が客である私や編集者ばかりが食べて、その若い衆が箸をつけていないのを見て、「私の作ったものが食べられないのか」と地元の訛りで言いつつ、彼の肩口をバンバン叩く。見ているこちらは気が気ではない。

彼らが見せる顔はあくまでこちらを客分として扱っているからで、それを勘違いして近づこうものなら当然ながら別の容貌を見ることになっただろう。まして彼らに憧れを持つ気持ちなどさらさらない。努めて一線を引こうとは思っていた。
 先輩ライターは彼らに肉薄してルポを書いていた。私は彼らの内情にとことん迫るようなことははまったくしておらず、上辺をさらっていただけだ。
 浅い内容ではあったが、実話誌の仕事をしてよかったと思うのは、ヤクザもまた市井の人と同じ顔を持つという当たり前の事実を知ったことだ。取材で出会った中には結婚して子供がいる人もいた。我が子の成長を喜ぶといった話から彼らの普段の暮らしの断片が伺えた。あるいは年をとってあちこちが痛いといった、人生のある時期を境に誰しもが悩むことを口にした。
 加えて、ヤクザは暴力を背景にしながらも単に腕力が強いだけでは人を束ねる力量にとうてい繋がらないのだと知れたことも収穫と言える。普通なら匙を投げる荒くれ者や半端者でも、ともかく生きていくだけの余地を残す。器量や度量という言葉がかつて持っていた意味合いを彼らに接してみて思い返された。
 とは言え、表の世界で目先の利益や効率を尊ぶ賢しらな人が幅を効かせるようになっているように、裏の世界でも「器」といった数値化などできるわけもない人間のスケールに関して、彼らの間でも価値を置かなくなっている傾向を感じたのも確かだ。

いつしか報道においては「ヤクザ」ではなく、もっぱら「暴力団」の名称が使われるようになった。命名した警察にすれば、ヤクザが任侠、極道を自負するなど実態に程遠く、暴力こそが彼らの本質だというのを徹底周知したかったのだろう。
 強きを挫き弱きを助けなどファンタジーであり、そのため身も蓋もない「暴力団」という呼称こそが彼らにはふさわしいというのも事実だ。かといって庶民が暴力と無縁でいられるというのもまた幻想で、いざとなれば誰しも私的な欲望を果たすために暴力を用いる。生きるために。
 ヤクザと違って堅気とされる私たちは、まともな社会生活を送っている。そう思っている。だが、そのまともさを支えるインフラや法律、そのほかさまざまなシステムがダウンした途端、自らの存在を実力で確保する必要に迫られるだろう。その「実力」には当然ながら「他者を排する」が否応なく関わり、時にそれは暴力を含む。生きていくことと抜き差しならない関係にあるのが暴力だ。それをできるだけ見ないようにしている普通の暮らしがいかほどまともであるのだろう。

そんなことを考えるようになったところで、彼らをよりよく理解したいという気持ちになどまったくならないのは、日々マンションで出会う人たちが本当にもう剣呑な雰囲気が全開だからだ。白いパンツに黄色のシャツ、ガニ股で歩くといった「いかにも」な風体の人もいたが、年が下るほどに一般と見分けがつかない傾向を感じた。中には丸の内あたりにいそうなビジネスパーソンに見えなくもない人もいて、物腰も丁寧なのでかえって怖い。敬して遠ざけるにしくはない。がしかし、せっかくの機会だから観察したいという下心も抑えきれない。
 かといって親しげに話しかけるわけにもいかなかった。その折衷が棟内で出会う人たちに片端から「おはようございます」「ご苦労様です」と挨拶するということで、大抵は「おう!」と返事してくれた。そうしている間は、足を止め彼らを見たとて咎められることはない。何もなしにちらりと見たとすれば、そういうところでは鼻が利く彼らのことだから、「何見てんだ?」ということになりかねない。
 エレベーターの中で居合わせたり廊下ですれ違う中で場違いに感じたのは、ベビーカーを押すロシア人と思しき若い女性だった。歌舞伎町や錦糸町の飲食街ではロシアに限らず、ひと頃はコロンビアやルーマニアから仕事を求めて女性たちが集まっていた。また新大久保あたりで街娼として道端に立っている姿をよく見た。
 彼女が極東の島にやって来、しかもヤクザと夫婦になる道を選んだ理由は彼女の胸のうちにある。それがどうあれ、私が気になったのは可愛らしい赤ん坊を前にしても、ついぞ笑みを浮かべた姿を見かけなかったことだ。
 暴力を生業とするもの。そして、その周辺に集う人にはそれなりの事情があるだろう。成り行きと選択の絡み合いがもたらすのはただの生活であり、そこに良いも悪いもないと思うと、ひときわ目を引くのは、マンションの管理人室に貼られた「暴力団追放」と大書されたポスターだった。秩序の安寧とその埒外で生きていくことが日常として同居していて、それでもそこに彼らにとっての幸福があるならばどういう顔つきをしているのだろう。
 無頼もアウトローも社会から放逐された存在を指す。威勢を張ったとて、明日をも知れぬ我が身を支えるのは暴力だけでは心もとない。マンションに一歩入ると独特の暗さを感じた。それは住人たちの寄る辺なさのせいだったのかもしれない。部屋にいると、そうした念を感じて仕方がなく、すすり泣きを聞かされるような湿った雰囲気に堪りかねて、しばしば喫茶店に逃げ込んだ。

紀伊國屋書店の近くにかつてトップスビルがあり、この1、2階にあったニュートップスとその近くにあったウェルテルという喫茶店をよく利用した。どちらもABCマートとみずほ銀行を両側に据えた新宿モア4番街に近い。
 新宿通りには今はグッチやコーチなどハイブランドの店が軒を並べており、その澄ました顔のつながりで新宿モア4番街を捉えてしまいがちなのは、道路を利用したオープンカフェが設置され、なんとなくお洒落な空間に見えてしまうからだ。だが以前はこの辺りには常にホームレスの姿があった。オープンカフェは浄化作戦の一端を担ったのだろう。歌舞伎町に近づくほど猥雑で饐えた臭いが強まったのが、かつての新宿だった。
 息抜きに喫茶店を利用したにもかかわらず、やはり怖いもの見たさの気持ちはあって、そこで出かけたのが風林会館の喫茶店「パリジェンヌ」だ。今は知らないが当時はホストが開店前のミーティングを行っては気合いを入れていたり、ヤクザが集って何やら話し合っていた。私が歌舞伎町で暮らし始める前に中国マフィアが店内でトカレフを発砲する事件も起きていた。なにせ今では決して嗅ぐことのない不穏な雰囲気が立ち込めていて、しばらくその場に身を置き、彼らを眺めているだけで飽きなかった。

自分が得難い経験をしているとは思っても、いわばサメが回遊するような環境に身を置いているわけで気の休まる暇はなく、実際熟睡できない日々が続いていた。それにいつまでも間借りの部屋住み生活をするわけにもいかない。またぞろ文化的な生活をというどうにも中産階級っぽい願望が頭をもたげ始めた。そこで次に選んだのが歌舞伎町とは真反対の千駄木という鴎外や漱石、高村光太郎も住んだ文教地区であった。

引っ越し当日、運送会社からは学生のアルバイトが二人やって来た。荷物の大半は書籍で荷造りした人はわかるが、これは段ボールのなりは小さくても持ってみると腰に来る重さだ。アルバイトが荷物を持ち上げてチッと舌打ちしたのを見逃さなかった。
 そこで私は彼らに「ここがどういうマンションか知っている?」と問いかけた。「知らない」と即答したので、ここの住人の特徴を伝え、「とりあえずすれ違った人には元気よく挨拶をしてくださいね」と伝えると、彼らの態度はいっぺんに改まり、愚痴をこぼすことなくキビキビと作業し始めた。
 こうして半年ほどの歌舞伎町暮らしを終え、東京を離れるまで暮らすことになる千駄木での暮らしが始まった。

Profile

1970年4月16日生まれ。フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原Jr氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、ダンサーの田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。著作に『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)など多数。