第11回 大阪:1989(1)

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

「大阪の人間で太閤が嫌いっちゅうのはモグリやで」と言ったのは、私が文章の師と慕う、ふた回りほど年かさの作家のKさんだ。知り合って20年以上経つ。自宅にお邪魔すると、「東京にはうまい店がないやろ」と決まってお好み焼きを作ってくれる。手伝おうとすると、「座って」と椅子を勧められるが、だからと言って客人として遇したいわけでもなさそうのは、100円ショップで揃えたキッチンツールを利用して整頓された台所に立ち、袖をまくって仕込みを始める姿に「お好み焼きづくりは自分の仕事なのだ」といった自負を垣間見るからだ。

粉は少なめ。そこに山芋をすりおろす。キャベツと豚肉、イカ、揚げ玉といった定番の具に加えて、干しエビ、紅ショウガ、スルメ、竹輪、こんにゃくを刻んだ具を入れる。
「神戸だとスジ肉を入れるんですよ」と言えば、「あんなもんは邪道や」と返す。むろんマヨネーズをかけて食べるなどもっての外だ。
 
 師匠のお宅は「キューポラのある街」で知られた界隈にあり、以前は鋳物工場が周囲に立ち並んでいた。20年の歳月は工場を軒並みタワーマンションに変えた。場末感の漂っていた駅前もにわかにかしこまった顔つきを見せるようになっている。変わらないのはKさんの家と自宅の真ん前にある柿の木だけだ。

お好み焼きを食べながら「広島風お好み焼きとは、大阪のお好み焼きのエピゴーネンである」との高説を拝聴していたところ、そこから「大阪の骨頂とは何であるか」の話が熱を帯び、しかしその後の展開は思いのほか大きく逸れて、かつて私の実家で飼っていた犬の名が「秀吉」だという話題に脱線した。その挙句が先の「モグリ」発言であった。

太閤とは言わずと知れた豊臣秀吉であり、「モグリ」の言いようには、「大阪人であれば吉本新喜劇のギャグのひとつやふたつはそらで言えるし、ズッコケるという集団芸もできて当たり前やし、それからしたら狸親父の家康なんかに比べるまでもなく絶対に秀吉やろ」みたいな調子が潜んでいた。

 
 ひとりマヨネーズをかけたお好み焼きを食べながら、「ぼくの地元は神戸ですよ」と冷静に言えば「神戸の人間は何や言うたら大阪と一緒にされるのを嫌がるから鼻持ちならんなぁ」といった表情をすると、「関西人やったら大抵そうや」と言い直した。

Kさんは猪飼野といういまは地名としては残っていない、在日コリアンの集住地域に生まれた。1キロ四方に1万人がひしめき合って暮らしていたという。
 
 それにしても秀吉といえば、文禄・慶長の役を起こした張本人であり、朝鮮半島に災厄をもたらした武将に他ならない。「太閤さん」と言うときの、大阪人が秀吉にもつ派手好きで陽気なイメージと正反対だ。ならばコリアンが秀吉に肩入れするのは、道理からするとおかしいということになるが、理屈そのまま生きている人間などいるわけもない。

師匠の子供の頃を想う。いまどきのようにアニメや漫画のキャラクターが幅を利かせていなかった時代は、古今東西の武勇伝や敵討ち、軍記物といった講談を下敷きにした話が身近にあった。猪飼野の路地の子供らを集めた紙芝居、加えてラジオ放送や寄席での講談で「真田十勇士」の活躍を見聞きしたことは想像に難くない。徳川勢を翻弄する真田幸村をはじめとした豊臣方の働きに、やんやの喝采を送りもしたろう。

まして幸村が奮戦した真田山は猪飼野からそう遠くない。豊臣家がかつて何をしたかはさておき、獅子奮迅、勇猛果敢、神出鬼没の英雄の活躍はいつだって少年の胸を踊らせる。

だがしかし、子供らを取り巻く世の中は、彼らの高まる胸を塞いだ。
 在日コリアンは戦後日本において、社会の構成員として表立って数えられてはこなかった。むしろ失業率の高さから社会不穏の温床と見做されていた。貧困に喘いでいたからこそ1959年から始まる北朝鮮への「帰国事業」では、開始から3年で約7万人が海を渡った。短期間のうちに資本主義国から社会主義国へと大量に移動した例など他にないだろう。以降、1984年まで続く事業で約10万人の在日コリアンと2000人の日本人妻が海を越えた。
 
 在日コリアンの出身地はほとんど半島南部であり、彼ら彼女らは故郷でもない地へと「帰国」した。日本政府は人道主義の見地から、この事業を推進していた。その背景には植民地時代に労働力不足から連行、徴用したことで内地に定住し、いまや情勢不安の要因となっているコリアンを安価な費用で送り返せるという意図があったことは見逃せない。

師匠の周りにも北に渡った人がいる。猪飼野の界隈の子供たちは貧しさと差別と犯罪が手を携える環境で身悶えせざるをえなかったし、そこから脱して生きることは容易ではなかった。学歴をつけて社会的地位を上昇しようとしても、私学の面接では「あちらの方は……」と入学金に加えて多額の寄付を言外に求められた時代だ。

出自を誇ることは、金にもならなければ腹の足しにもならない。近所のゴンタクレと遊び、つるむことは時に他のグループとの諍いと不可避であったから、なんにせよ実力をつけなくてはならなかった。その際に必要な喧嘩の口上、地口を混ぜた駆け引き、そうした生き延びる術は得体の知れない「民族性」ではなく、モグリではない真性の大阪人の度合いを高めることによってもたらされたのではなかったか。

私にはKさんのように、生活が必然的に擦り傷をともなうような経験はない。専横な君主よろしく家庭を支配する父との暮らしに戦々恐々とするだけで、世の中と直接対峙しないでいられた。そんな中、「ペットが欲しい」と兄がねだったのは、殺伐とした家の中に潤いをもたらしたかったのかもしれない。ともかく近所に分けてもらった犬に秀吉とつけたのは兄だ。

柴犬の血をひきながら、らしからぬふさふさした毛並みでチャウチャウ犬とよく間違えられた秀吉は結局のところ私や兄にはあまり懐かなかった。兄弟同様に父を恐れること甚だしく、命令に絶対的に従い、寡黙すぎる父に似てほとんど吠えなかった。感情表現の乏しさも父にそっくりだった。

どうして兄が秀吉と名付けたのはわからない。それほど秀吉が好きだったのか? 心当たりがあるのは童友社「日本の名城シリーズ」の大阪城のプラモデルを作っていたくらいのものだ。

とはいえ、近畿には「アンチ家康の秀吉びいき」転じて「アンチ東京」という空気は現在でもあるし、当時はなおさらだった。それは藤本義一や上岡龍太郎、やしきたかじんへと綿々と引き継がれている「大阪帝国主義」のテーゼからすればゆるがせにできないものだろう。それに兄も感染していたのかもしれない。

私はといえば、秀吉は別に好きではない。ただ、幼い頃から城に興味を持っていたせいで、自分なりの審美からすると徳川期の大坂城のなりは巨大で押し出しは立派であってもスクエアでおもしろみがない。比べて豊臣期の曲輪のつくりもちまちまとした縄張りと漆塗りの下見張りを施した天守閣は非常に好みだった。

それに大坂夏の陣における木村重成の、死地に臨んで兜に香を薫きしめた逸話といい、華々しく散ったさまに密かに涙したこともあるので、秀吉に思い入れはなくとも城を枕に討死の顛末についてのみ言えば、関東勢よりは上方に付きたくなる。

それにしても木村重成の奮戦もどこで知ったのかよく覚えていない。知らぬ間に備わってしまうものが郷土への愛着のように、こうして身びいきが体感から醸成されていくのかもしれない。とは言え、隣県に住みながらも秀吉はおろか大阪への馴染みはまるでなかった。

実家のある神戸の岡本から大阪梅田駅まで、阪急に乗れば当時はまだ特急は岡本を通過したものの、西宮北口で乗り換えると20分強で着けた。それくらい近いはずの大阪だが、自分一人で足を踏み入れたのは1988年で、それもせいぜいが予備校のあった梅田界隈でしかなかった。そこから先に足を伸ばしたのは、大学生になった1989年だった。週に一度、大阪へ行くという用事ができたせいだ。

大学に入り恋人ができ、彼女はこれまた在日コリアンの集住する鶴橋の近くで暮らし、地元の小学校で週末にボランティアの講師をしていた。それに誘われた。

土地柄、在日コリアンの児童は多い。子供たちは普通に暮らす限り、日本名を名乗り日本語を学び、日本語で考えてと普通の日本人と変わりない。そんな暮らしでは、ある日、突然「日本人ではない」と告げられても困惑する。日本人以外の何者かとしての拠り所がなければ、自尊心も自信も身につかない。そのことに危機感を覚えた保護者や教員らの有志が集い、民族文化との触れ合いを促す「民族学級」というクラスが土曜日の午後に設けられることになった。それに私も講師として関わることになったのだ。

と言っても、私は朝鮮半島の歴史に疎く、言葉も話せない。何を教えることもできない。ともかく子供たちの遊び相手になってくれたらいいというので、引き受けることにした。

1989年4月、初めて大阪環状線に乗った。窓外の風景の全体として灰色の占める割合の多さに驚いた。阪急線から望む山の緑との落差が激しかった。気がつくと「次は玉造駅」のアナウンスに「ここに細川ガラシャが最期を遂げた屋敷があったのか」と感慨に耽っても、それに呼応する眺めがあるわけでもなく、小さな建物が狭い道幅に沿って居並んでいる様に呆気にとられる。それにも増して鶴橋駅に降り立った時の衝撃は今なお忘れられない。