第10回 京都:1976(4)

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

貧しさにひしがれ、寡婦となり時代の変転に翻弄されて生きる中、祖母はある日突然「神様の声が聞こえる」と言い、神懸かりになった。その「気が触れた」顛末を知ったとき、真っ先に思い浮かべたのは戦前の世相を揺るがした新宗教「大本」の開祖となった出口なおだった。曰く言い難い面妖な容貌はどことなく祖母と似ている。

「三千世界一度に開く梅の花 艮の金神の世に成りたぞよ。(略)三千世界の立替え立直しを致すぞよ」

出口なおは1892年、京都は綾部での打ち続く極貧生活の果てに神懸かりとなって、この「お筆先」を書きつけた。祟り神である艮の金神のお告げを膨大に記した彼女であったが、自身は目に一丁字[いっていじ]もなかった。
 大本は昭和初期に約800万人の信徒を従えたと言い、民衆から知識人、高級官僚、軍人まで絶大な影響を与えた。しかしながら身の内に胚胎した「立て替え立て直し」という革命思想ゆえに天皇制と鋭く対峙し、やがて治安維持法や不敬罪違反による苛烈な弾圧を二度に渡り受けた。亀岡の教団本部は当局によりダイナマイトで爆破されるなど、微塵も痕跡を残すまいという国家の意思のもと徹底的に破却された。

神懸かりになった出口なおの言葉にすがり、助けを求める人も地元の京都であれば多かったかもしれないし、祖母も噂くらいは耳にしたかもしれない。それにしても当時の日本でなぜ大本が圧倒的な支持を得たのか。
 明治の一新以降、国家は近代化をひたすら推し進め、欧米列強に追いつくべく国威の伸長に邁進し、日露戦争では多大な犠牲を払い、すんでのところで勝利を得た。一等国に肩を並べたと快哉を叫んでも、文明開化を急ぐ歩調は貧しさに喘ぐ人を置いてけぼりにしていた。社会の矛盾には手をつけず、それでいて一等国民に胡坐をかいた物言いは日に日に増上慢になる。そうした世相について、漱石は滅びの予兆を早々に感じており『三四郎』でその様を記している。
 しかし、中には気持ちと体の乖離に気づく人もいた。これが望んだ世であったか。ひたすら前進する国家と一心になる上で有用だった天皇と臣民というストーリーもいささか褪色の兆しも見え始めたのが、明治も中盤を超えてからだったろうか。表には現すことのできない、憤懣と不安を覚える声が階級を超えて日本を浸し始めていた時代に祟り神は、出口なおを呼んだのかもしれない。

祖母は、むろん出口なおの霊力と比ぶべくもない。祖母の言う「神様」とはなんであったのかわからない。「立て替え立て直し」の行われることのなかった帝国に「併合」された半島を出て、列島に辿り着き、当て所のない暮らしの手に負えなさと蔑みの眼差しに囲まれ、行き場のなくなった末に気が触れた彼女に神はなんと告げたのか。私は知らない。
 その後、祖母は韓国から流れ着いて、桂川のほとりで巫祝[ふしゅく]を行い、同胞のよろず相談や吉凶を占っている師を見つけ、その人のもとに日参し、巫堂[ムーダン]としての修練を積んだのだという。気分の移ろいやすい、他人の指示に容易に従わない祖母が誰かの言うことを聞いていたとは驚きだが、自分の中に宿った力に対するひとかたならぬ関心があったものと見える。彼女の中の衝動は止むに止まれぬ気持ちを高まらせるほどのものだったのだろう。
 官憲の目を盗んでの酒造りと占いによる日銭稼ぎがいつまで続けられたのか判然としない。ただ戦後の混乱期が収まり始めると、祖母の息子たちは狐狸の類、迷信に見える彼女の行為を次第に恥ずかしいものと感じ始めていたようだ。

私は神懸かりとなった「かんなぎ」の様子をじかに見たことがない。映像で見る限り、巫堂は短刀を両手に持ち、刃を閃かせてかき鳴らされる太鼓や銅鑼に合わせて旋舞し、エクスタシーに達した瞬間、刀を投げつける。この刀を先述したように祖母は包丁で代用していた。
 かつては雨が降れば泥濘んだ道もアスファルトで舗装され、障子で仕切られたあばら家から安普請のアパートとはいえ、雨露しのぐには比べものにならない住まいに移ると、貧寒の中では映えた呪術も次第に整備され、現代風な住居が立ち並び始めた空間には場違いに思えてきた。外聞を憚ってか、息子たちは止めるように諭したという。かといって素直に従ったわけではなく、私の幼い頃、叔父が祖母に「もういい加減やめときや」と言っていたのを覚えており、身近な人からの依頼には応えていたようだ。

私はと言えば、そうして祖母を諌める親族が法事の際に行う儒式での祭祀を毛嫌いしており、それこそ「こんなことを続ける気持ちがわからない。もうやめればいいものを」と、未開の地の蛮習のように思っていた。
 高度経済成長の只中を走る神戸のモダンな暮らしの中では、京都の親族一同の頭を地につけ拝礼する様は見ていられないものだった。ましてそれに参加できるものは男のみで、女たちは厨房で祭祀後の食事の準備に忙しいさまに、文明の遅れを見ていた。儒教も巫祝も共に潰え去って構わない遅れた風俗でしかなかった。今思うと、実にいけ好かない童であった。

先日、世界各地に伝わる拝礼の仕方のひとつとして儒式の叩頭三拝を披露する機会があった。最後に祭祀を行って30年近く経つが、やってみるとスッとその形に入れたことに驚いた。習い覚えた習俗を体は忘れていなかったのだと気づくと、間も無く半世紀を迎えるこれまでの暮らしが思い起こされた。
 私の身についた所作は親族が考案したのではなく、その祖先から脈々と継がれてきたものだ。それが体の記憶として自分の中にもあると知ると、否が応でも私に至るまでの流れ、ルーツに思いを馳せるようになってきた。それを知る上で祖母はキーパーソンのひとりだ。女学校に通い、近代化に浴していたはずの良家の子女の行き着いた果ては、なぜ巫堂だったのか。その己の来し方を彼女はどう捉えていたのか。
 孫に言葉で語って聞かせるには、あの独特の抑揚ある日本語では溢れる思いは託しきれないだろう。どこから来てどこへ向かっての80年余の旅路だったのかをそれでも言葉で尽くそうと思えば、同じく80年余を費やさないといけないだろう。
 
 けれども肩を動かさず手先から動き、次第に旋回の度を増して神を憑依させ、お告げを行う「クッ」という巫祝をこの目で見たならば、それが彼女を物語る上でいちばんふさわしいことではなかったかと思うのだ。