第12回 大阪:1990(鶴橋)

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

1980年代末から90年代初頭にかけて「ディープ」という語がずいぶんと世間の口の端に上ったものだ。出来事の濃さに価値を見出したのは、それだけ何かが希薄になりつつあったからだ。それへの反動があったのだろう。
 都市化はどんどん進み、ドブは蓋をされ、宅地の中に取り残された畑も肥溜めも姿を消した。分譲住宅が増え、ショッピングモールが建ち並びと街が澄ました顔をしていくにつれ、デオドラントに関連した製品も多数出回るようになった。街だけでなく、人間そのものも含めて生活は無臭であることが奨励されるようになった。
 限られた色と匂いだけがじわじわと環境を覆っていく中、饐えた臭いを放ち、人いきれを感じさせる場末の歓楽街や踏み込むのを躊躇う土地、たとえば西成のドヤ街や新世界、飛田遊郭といった、強度のある生き方をせざるを得ない場所を「ディープ」と呼んで、辺りをほっつき歩いては、一時的にその世界を味わう振る舞いが前後して流行り出した。
 貧困と差別と賤視をそれとして自覚することなく、訪れる者がただ目撃する側にいられると思えたのは、「望月の欠けたることもなしと思えば」を地でいくような感覚をどこかで持っていたからだろう。この島の住人であるというだけで、誰もが「勝ち組」といった根拠のない自信と余裕を持てた時代だった。 
 実際、世界二位の経済大国は海外の企業やビル、名画を買い漁った。「一億総中流」が半ば常識として語られ、それを信じる限りは前途洋々だと感じられた。とはいえ、先進国の中でも相対的貧困率が高い今となっては、一体それはどこの国の話だろうといった隔世の感がある(もちろん日本の話だ)。
 当時はバックパックを担いでの旅も盛んであった。「地球の歩き方」を手に、海外のスラム街や危険地帯と言われるようなところへ行った経験もちょっとした自慢話として語られた。そうした物見遊山よりもハードルの高い観光の作法が国内に向けられ、その一端が「ディープ」という言葉に込められていたように感じる。それはのちの「裏モノ」と呼ばれるアンダーグラウンドの覗き見や廃墟巡り、ひいてはダークツーリズムに行きつくような流れに先鞭をつけた。
 このような風潮を反映してか、関西の出版社が発行する情報誌やローカル番組は、大阪の「ディープサウス」として在日コリアンの集住地域である鶴橋および隣接した一帯をしばしば取り上げた。折からのエスニック料理ブームもあって、清潔とはほど遠い、雑然を通り越したカオスな店でやたらと辛い料理やかつてはゲテモノ扱いだったホルモンを味わうことも、演出された非日常感を味わえると歓迎された。

それにしても、先ほどから当時の社会でディープが帯びていた意味合いや体験についてすらすらと語れてしまうのは、まさに自身が体験してきたことだからだ。浮かれた時代にぴったりの感性を私もまた携えていた。

1989年5月、初めて鶴橋を訪れた。前回で触れたように、在日コリアンの子供らが多い学校で週末に開催されている「民族学級」のボランティア講師をするためだ。
 プラットフォームに降り立った瞬間から「焼肉の匂いがする」と都市伝説じみた言われ方をされる鶴橋駅だが、私の記憶に残るのは妙にねっとりとした空気と雨が降ったわけでもないのに濡れて見える駅頭、道についた油染み、てかてかと黒光りするガード下の壁、もはや駐輪とも呼べない歩道を埋め尽くす勢いの自転車と、鶴橋市場のキムチや魚その他の何かと何かを掛け合わせて生み出された鼻を衝く匂い。パチンコ屋から流れるいまどき珍しい軍艦マーチ。あらゆるものが整然としていない様子に驚いた。
 今にして思うとあまりに世間知らずだったのだが、私はどうにも自分が住んでいる岡本のように敷石を用いて道路が舗装されているだとか、どぎつい色の看板や大音量を響かせるような店舗のない佇まいが街の標準だと思っていたらしい。そうではない場所があることに心底驚いた。

目と耳とに飛び込んで来る情報が多いせいか、必要以上に騒がしく感じる鶴橋駅から今里方向へと歩みをしばらく進めると平野川に突き当たる。戦前、この川の治水工事に従事したのは半島からやって来た、安い労働力を期待された韓国人たちだった。
 工事をすれば辺りに飯場ができるのは当然の成り行きで、やがてそれらは集落を形作り、さらに外から人を呼び込んだ。やはり異国の地であれば、同じ習慣を持つもの同士が集まれば安心するし、仕事の斡旋や生活して行く上での融通、便宜を図りやすくなる。川を軸にこの街は作られた。
 大阪は水の都と呼ばれ、大阪のご当地ソングには川を扱うものもいくつかある。中には「河はいくつもこの街流れ 恋や夢のかけらみんな海に流してく」と情緒的に歌う曲はあるけれど、川も海もどれも見事に汚い。
 御多分に洩れず平野川もそうで身を乗り出してしげしげと見るまでもない。ヘドロで全体が黒ずむ様子は一瞥をくれただけでわかる。水面にはアブクと空き缶や傘が浮いており、それを追いかけて向こう岸をふと見ると、住まいというにはあまりに変色して歪んだトタンがすさまじく、かと言って工場にしては手狭に過ぎるバラックが川に突き出た形で建っていた。というよりは、投入堂の懸造りのように細い柱を支えに川べりにへばりついている。
 バラックはその正体が家であれ工場であれ、およそ暮らしたり働いたりする場所とも私にすれば思えないのだが、存在していることで現に生きている人がいるという事実を証明しており、そこに衝撃を受けた。大学に入ったばかりの私はやはり学歴だとか経済力であるとか、社会に保証されたルートを辿り、ステージをクリアーして行く以外の生き方をなかなか想像できなかった。
 まして時はバブル経済の真っ只中だ。
 人生とはすでに用意された階梯を上がって行く。そんなイメージを多かれ少なかれが「中流意識」とともに育んでいる中、川に突き出たバラックはそんなドラジェのような糖衣に包まれたお話とはまったく無縁であるように屹立していた。
 いざ自分がその暮らしを選ぶとなると腰は退けるが、生きて行くこと、それ自体にひたすらにじり寄ろうとするバイタリティを感じて、圧倒された。

川を渡り右へと折れた先にある小学校の校門をくぐり、「民族学級」に集まる子供らとの初対面はなかなかにハードだった。20数人の子供らは低学年に男子がふたりばかりいるだけで、あとは全員が女子だった。しかも高学年になるにつれ、物怖じしない気質を備えている傾向があった。授業の開始は「アンニョンハシムニカ」といった挨拶や今日の日付と天気を韓国語で言うことと、あとは歌や太鼓や鉦を用いる農楽や仮面をつけた踊りを学ぶといった内容で、どれもできない私は子供らの話し相手をするほかない。
 彼女らは授業の合間にやって来ては、「どこに住んでんの?」「彼女はいんの?」。はては当時の私はほっそりとして色白だったせいか「なんか甲斐性なさそうやな」と言うなど、遠慮なく踏み込んで来る。
 大阪弁の利点は、実際に親しいわけではなくとも、それを使えば親密圏を形成できるような気分になれるところだ。相手のことを「自分」と呼ぶ文化(たとえば「自分の名前なんて言うん?」とは「あなたの名前は何ですか?」を意味する)であるだけに、相手のパーソナルについて深く知る上では不向きな言葉だろうとは思う。
 ともかく彼女らは揃いも揃って「ちびまる子ちゃん」ではなく「じゃりン子チエ」に出て来そうな、パンチの利いた子が多かった。大人を見くびるわけではないが、必要以上に言うことを聞く義理を当人たちは感じていない。その距離感からくり出される言葉の源泉は、彼女らなりの世間知がもたらしているようで、それは教師ではなく私相手だからおおっぴらに発露されたのかもしれない。
 ともかくヤンキーほどわかりやすく反抗するわけでもなく、ませているという言い方も適当ではなかった。少なくとも私の周りにいた、大人から「お利口さんね」とか「偉いわね」と言われるようなタイプはいなかった。

彼女たちの物腰は世間とどう折り合いをつけて生きて行くかを実地で知ったせいではないか。そのことが何となくわかって来たのは、子供たちが住んでいる地区に足を踏み入れてからだった。鶴橋に出入りするようになってから、地元の在日コリアンのコミュニティの中で一目置かれている若い衆と知り合った。中でもひとつ下のK君は弁が立ち、統率力もあり、しかもそれは今時の論理的なしゃべり方やわかりやすいリーダーシップでもなく、上方落語のような口調で「あんたの言い分もわかるで」と反目し合っている同士にも言い、そのうち対立を解決するというよりは、うやむやにしてしまうようなネゴシエーターの能力のある、非常に世知に長けたタイプだった。彼によって私はコミュニティの鍵となる人や場所を紹介されていった。
 ある日、モーニングを食べようと喫茶店に連れ立って入った。その店は客と亭主というようなきっかりとした区分けのない、近所の住人が憩いのために集う場で、アイスコーヒーも出来合いのものを注いで出すような店だった。
 店内には開襟シャツに競馬新聞を広げ、アイスコーヒーの注文も「レーコ(冷たいコーヒの意味)ちょうだい」と言う人がいたり、テレビから流れるバラエティ番組にいちいち突っ込むパンチ気味のパーマをかけた中高年の女性がいて、彼女はテレビに飽きると店の亭主に明け透けな噂話をしながらも、「ほんまそうらしいで。知らんけど」と、とりあえず語尾に「知らんけど」をつけさえすればいいと思っている、ひたすらノリがいいだけの会話を続けていた。
 喫茶店のくたびれたソファに座ると、開け放たれた扉から見える景色をローアングルで捉えさせる。火事にもなれば消防車が通るには難儀するであろう狭く入り組んだ道には零細なアパートが並んでいる。そこを通る人たちを見ていて気づいたのは、子供たちが日々接する大人たちはスーツを着て通勤するようなタイプではなく、こうして明け透けで赤裸々で、生きて行くことを身も蓋もないところまで解してしまう人たちで、そこで肌擦り合わせて生きて来たのだろうということだった。
 赤裸々であるからと言って、オープンなわけではなかったろう。なぜ彼女たちが韓国名を民族学級の時間だけ名乗るかというと、普段使っているのが日本名であるからという理由だけではなく、在日コリアンが多いとはいえ、所詮はマイノリティだからだろう。明け透けで赤裸々な差別がより明確になりやすい環境であれば、早い段階でタフさを身につけるほかないのではないか。

人工味のきついレモンスカッシュを飲みながら、そんなことを思った。