第16回 東京:1995(大山ハッピーロード)

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

東京に来てまだ日が浅い折、休日の過ごし方に難儀した。何せ分倍河原では手持ち無沙汰であり、隣の府中は比べれば駅前に賑わいはあるにせよ、雰囲気のいい喫茶店も見当たらず、しかも職場で毎日通うところであってはのんびり過ごす気にもなれない。仕方なしに映画を観るか書店をぶらつく算段をすれば、新宿を目指すほかなかった。
 新宿駅に着けば西口と東口が地下でつながっているのはわかっても、目で見通す限りに人がおり、景色にまったく抜けがない。おまけに人いきれに圧迫され、ただの移動のはずがダンジョンに入り込んでしまったように感じられてしまい、動悸が高まる。そうして東口へと至る道の探索を諦め、JRの入場券をわざわざ買って駅構内を通り抜けたことが幾度もある。

あのときの振る舞いは、上京したばかりの者に共通の不案内さゆえのもたつきではあったろうが、人混みに辟易とする感覚は生き物としては正しかったように思う。東京に来てしばらくは人の多さに酔って嘔吐したこともあり、まだ満員電車を受け入れる耐性もなかった。
 慣れは鈍磨と引き換えに訪れる。だからと言って体感が削られる一方でもなかった。街に順応するに従い人波の心身への圧を表面的には感じなくなり、その頃には自身の所在を感覚的に掴むことができるようになった。
 たとえば分倍河原から中目黒へ行き、イームズだの家具を冷やかしに行くとして、そこまでにかかる時間やどういうルートを辿ればいいかがすぐさまわかるようになった。
 そのことを地理を覚え、距離感が把握できるようになったのだと長らく思っていたが、それはどうも誤りで、よく考えれば自分の身体のスケールを越えたものに、滑らかに距離感を覚えられるとしたら奇妙なことだ。

2019年現在、私は長野の下諏訪で暮らしている。東京にいた時分は分倍河原を振り出しに、最後は千駄木で10年過ごしたが、たとえば武蔵小杉まで食事をしに出かけるとか、そういうことをまるで厭わなかった。今はわざわざ遠出をして食事などしない。ひとつには交通手段が限定されているせいもある。だが、それだけではなく、なんとなく感覚的に嫌なのだ。その忌避感は億劫と似ていても、それとぴったり重なるわけでもない。整った交通状況への警戒感がある。

東京は鉄道の路線が張り巡らされており、それこそ身体のスケールからすれば到底一日で往復できないような距離の遠さを縮めてくれる。どこまでも線路で滑らかにつながっている気になってしまうし、実際に行けてしまう。
 あそこへ行けば美味しいパンケーキが食べられる。向こうに流行りのスポットができた。そう聞けばいそいそと出かけた。欲望に煽られた身を電車に滑り込ませれば目的地に着く。飢えと対象とがすぐさま結びつき、その切れ目のなさを便利、快適と呼んでいた。それが都会の自由の面目だと思っていた。
 けれども、それは情報に引っ張られ、本当にそれを欲しているかどうかもわからないまま、鉄路がつながっているから辿り着けてしまうだけの話で、感覚的には分断されていたのではないかと思っている。つまり、己の欲するものが何かわからないまま衝き動かされるのを能動的な行動と選べるチャンスの多さだと捉えていたのだ。

1994年から95年にかけての私はまだ身幅を超えた距離感を東京に対し十分に持てていなかった。それがゆえに勤めていた会社に辞表を出し、分倍河原の社員寮を退出しなくてはならなくなった後の住まいをなぜか池袋を起点に考え、東武東上線沿の大山という町に決めてしまった。
 というのも、もともと上京する気も憧れもなかったものだから、取り立てて中央線が良いだの、世田谷線が渋いだのといった事情に詳しくなく、かろうじてあったなけなしの東京に関する見取り図は、セゾンが東京の文化を牽引しているという古びた情報だった。
 地元の神戸には当時、パルコもリブロもなかったのになぜそう思ったかというと、父が年に二回ほど、家業である菓子の包装紙の卸の参考にと、洋菓子のトレンドの視察で東京へ行っており、その際、西武百貨店池袋本店の食品売り場に必ず立ち寄っていたからだ。
 ケーキ店の多い神戸ではあっても、消費者のニーズを掴んでの展開の速さや微細なセンスにおいて、80年代には最先端とは言えなくなっていた。時代の要求するものの勘所を抑えていたのが西武百貨店だと、東京から戻るたびに父は強調しており、自然と私の中にセゾングループの名が刻まれた。だから東京の中心は池袋だと見当違いを基準に次の住処を考えることになってしまったわけだ。
 
 物件探しに池袋駅近くの不動産屋をいくつも回った。在日コリアンにとっては、ありがち過ぎてもはや特筆大書すべきことでもないが、部屋を借りようとすると「外国人お断り」の大家に出会うことは甚だしい。2000年代になっても事情はさほど変わらなかった。こういう対応は明確に違法で、仮に訴えれば過去の判例からしても大家は敗訴するだろうが、彼らとしては法律の遵守よりも守りたいものがあるのだろう。それにしても訳がわからないのは「外国人お断り」なのに「ペット可・子ども二人まで可」といった条件の物件があったことだ。

社員寮に住める期間は限られており、早く決めないといけない。こうも入居拒否が続くと焦る一方で「なんでもいいから決めてしまいたい」と捨て鉢な気分にもなる。
 何軒目かの不動産屋を訪れ、大した期待もしないままに「5万円代・風呂付き」の要望を出すと、「お客さん、ここどうですか?」と示されたアパートが東武東上線の大山駅から徒歩15分の物件だった。川越街道のすぐそばで風呂はないがシャワーが付いている。日当たりはいい。家賃は5万3000円。どうにも微妙に価格と条件が釣り合っていないように感じたが、従業員の次の言葉に引っかかった。

「大山は東武東上線沿いの下北沢って言われているんですよ」

今にして思えば「どこがだよ?」と突っ込むところでも、その時の私は東武東上線の醸す雰囲気を知らず、それでいて下北沢=若者の町という理解は一応はしていたものだから、「それならいいのではないか」と心動かされた。
 しかも大家は外国人でも構わないという。「構わない」という言いようも飲み込みにくいものではあるけれど、入居拒否が続くと、多少のことは目をつぶってしまおうという気持ちにもなる。すぐに内見に出かけた。

振り返ると私の最大の誤りは、部屋を決めないといけないという焦りから、大山駅の改札を抜けるとすぐさま500メートル余に渡って伸びているハッピーロード大山商店街の店のラインナップをちゃんと見ることなく、脇目も振らずにアパートに向かったこと。加えてその前に下北沢を一度でも訪ねておかなかったことだ。
 双方を仔細に見ておれば、下北沢との対応の正誤表が作れたはずだ。今にして思えばセレクト古着店は高齢者向けの洋品店、100円ショップは雑貨店、やたら多いパチンコ店はアミューズメントくくりでヴィレッジバンガードにあたるだろうか。
 総論として言えば、似ても似つかず、誰が「大山は東武東上線沿いの下北沢」と呼んだのか? ということに尽きる。今は再開発が進み名残はないが、下北沢駅近くのおそらくは戦後の闇市跡と思われる入りくんだ路地の場末感をして、「東武東上線沿いの下北沢」と大山を形容したのか。謎は今なお解けないままだ。

私の落ち度はそればかりではなかった。ハッピーロードの長いアーケードを抜け、川越街道沿いを歩いてしばらくすると、狭いゲージに犬が詰め込まれた、今では完全に違法なペットショップとその隣にあるパチンコのスロットをショーケースに並べた店があり、明らかに異様な雰囲気を放っていたのにさほど意識を向けなかったことだ。
 犬の扱いの酷さはあっても、ペットショップはまだ目的はわかる。だが面妖なのはスロットだけを置いている店だ。外から見るとイギリスとほど遠い川越街道沿いの景観ながら、車をコツコツと組み立てているバックヤードビルダー然として見えなくもない。店内には分解したスロットが何台も並べられており、店主と思しき人が何やら組み立てていた。ひょっとしたらスロットで生計を立てている人が研究するために台を購入する店なのかもしれなかったが、他所でそんな商売を見たこともなかった。とにかく足早にその前を過ぎ、目的の物件へと向かってしまい、そこでの違和感を持ち続けなかった。

訪った大家に案内されたのは、木造モルタルのアパートの2階。外付けの階段を上がりドアを開けて申し訳程度の狭い玄関を上がると、いきなり目の前に現れるのが据え置きのシャワー。よく海の家で見かけるようなユニットタイプのもので、それがデンと置かれているために左に折れて5畳程度の和室に向かうにも、突き当たって(と言っても3歩ほどの距離だが)台所へ行くにもどうにも邪魔になる。シャワーユニットは後付けのものと見えて、どうしたって動線を阻むように置かれている。
 付近の街並みと部屋に対する違和感の表面張力が破れて、溢れ返っているにもかかわらず、私はそこへの入居を決めてしまった。

引っ越してから数日後の夕刻、大山駅に降り立つと駅前には袴に高下駄を履き、肩に何やら書き連ねた幟を背負って演説をしている年の頃は60代後半と思しき男性がいた。彼はしゃがれた声で吠えるように何かを言っている。時局についての演説をしているらしいのだが、いくら聞いてもまったく意味が取れない。幟に書いてある文もまるでわからない。彼はこの世の表を見ているだけではわからない世界の真相と陰謀、それからの救済について説いていた。雨の日だろうが毎日夕刻になると辻説法を行っていた。
 そうしてしばらくすると駅のホームに持ち込んだラジカセで東京音頭をかけて踊る若者が現れた。彼は実に楽しそうに踊る。ハッピーロードとはよく言ったものだという感慨を抱いて、私の大山での生活は始まった。

Profile

1970年4月16日生まれ。フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原Jr氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、ダンサーの田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。著作に『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)など多数。