第19回 東京:2002(千駄木)感情教育の始まり

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

千駄木駅近く、三崎坂の脇に店を構える老舗の菊見せんべいには、ハッピーターンの鼻祖ではないかと思わせる「めずらしせんべい」がある。舌に広がる甘さと塩っぱさのせめぎ合いの勝敗の行く末を確かめるうちに、せんべいを摘んでは口に放り込む運動があたかも無限軌道のように止まらなくなる。この病み付きの感覚を求め、荻窪に住んでいた時分からたまに買いに来ていた。

せんべいを買った後に付近をぶらりと散策すれば、目前に乱歩の『D坂の殺人事件』で知られた団子坂が控えており、坂を登りきって右手に曲がると鴎外の住んでいた観潮楼跡に行き当たる。名前からわかる通り、かつてはこの辺りから品川沖が見えたという。坂のある街が好きなのは神戸で生まれ育ったせいだろう。平地だとどうにも落ち着きがなくなる。
 新宿・歌舞伎町から千駄木に移ったのは以前から街並みが気に入っていたのに加え、当時付き合っていた人が千駄木から歩いて数分ほどの本駒込に住んでいたからだ。私の住まいは団子坂と武者小路千家のある狸坂に挟まれたごく細い大給坂――この変哲もない坂をタモリが好きだという――を上りきった先のマンションだった。ここから彼女のマンションまでは800メートルほどの距離。
 しかし、この物理的な近さが感情の結びつきを必ずしも深くへとは導かないと後々知ることになった。彼女との2年に渡る交際は、人と人とがわかり合うプロセスを阻む隔たりは何がもたらしているのか。そして、それを埋めるにはどうすればいいのかといった謎の解明に当てられた。
 私は自分の感情や気持ちを言葉にする経験がほとんどなかったことに、彼女と交際するまで気づけなかった。いわば生まれて初めて情操教育を自らに施すことになったわけだ。千駄木で暮らした10年余りは感情のリハビリを行った期間でもあった。

越した直後、知り合って長い友人とご飯を食べていた。
 彼女とは定期的に会う仲だった。ひとしきり話した後、彼女は不意に箸を置くと「知り合って長いのにいつも初めて会ったばかりでそこから打ち解けていくみたいな、この距離感を詰めていく感じ。全然変わらないよね!」と言った。彼女は私を詰っているわけではなかった。また実際に私の態度は冷淡というのでもない(と思う)。ちゃんと話には答える。しかし、彼女にとっては答えてくれることがかえって面妖に思えるらしい。というのは「透明度の高いガラス越しに話しかけてくる感じ」が拭えないからだそうだ。
 会話というのはテニスのラリーみたいなものだとして、親しくなると近い間合いで時にダイレクトにボレーしたりするのだろう。私の場合は打ち合っていたつもりなのに、気づいたら相手に「ひとりでガラス窓に壁打ちしていた」といった感覚へと陥らせるようだ。でも相手もガラス越しに私の姿を認めはする。
 間柄が近しくなるほど互いを理解し合えるという期待を無意識に持っているがゆえに、この関係ではそれを裏切り、むしろどんどん不穏な空気をたたえ始める。相手からはこちらの気持ちや心が見えないからだ。

当時は、「人の心がわからないこと」が問題だと思っていた。そう漏らすと「いや、人の心なんて誰しもわからないものだよ」と諭す人はたくさんいた。だが、そういう人ですら、「どうして君は人の心がわからないのか? インタビュアーなんでしょ?」と、先に自分がいったセリフも忘れて口にするのを覚えている。単に鈍感というレベルではないらしいのは日常会話は問題ないからだ。ただ、ちょっと距離を縮め始めた途端にどうにも話の通じようのないコミュニケーションの捻れを体験をさせるらしい。
 私にとっては自然に行っていることなので、相手が抱く違和感を説明するのは骨が折れるのだが、例えて言うなら陸上競技のハードルだ。アフォーダンスの観点からすれば、ハードルを見ると跨ぐなり飛び越える動作を誘われるはずだ。だが、私にとって目の前に現れたハードルはリンボーダンスのように下を潜っていくことをアフォードしている。その妙な独自性を発揮すると、漏れなく他人との会話がギクシャクする。「はて、いったい何を話していたのだったか」といったように、話が行方不明になってしまう。

今どきは広汎性発達障害や自閉症スペクトラム傾向が強いと言われるのだろう。
 けれども起きている現象そのものを受け止めるのではなく、出来合いの言葉に言い換えて安心する一連の行為はひどく退屈だ。名前が腑に落ちたところで、自分のあり方に何も変化が生じないのではないかと思うからだ。とはいえ、私にとってもコミュニケーションがうまくいかないというのは不具合を感じることが多いので、いつか相手に徒労感を与えるような自分のあり方を変えたかった。
 かと言って具体的な取り組みはいつも事後策でしかなく、トラブルが起きるたびに「ここを抑えておけばとりあえず人間関係は破綻しない」と人の心の忖度の仕方や気持ちのあわい、情緒に関する考えを獲得していった。それではいつまで経っても「弱いロボット」のままで、その時その場で生じた出来事に応じた最適な振る舞いをするには至らない。すでに学習した内容以上の事態が起きるとやっぱり混乱していた。

特に動揺したのは、怒りの感情に触れる時だった。私にとって長らく怒りという感情は謎だった。背景には活火山の如く常に怒っていた父がいる。彼には自分以外の人間の一挙手一投足が怒りの対象だった。
 たとえば横断歩道の信号が青に変わった瞬間に歩き出さなかったという理由でひどく怒られたことがある。「なぜ人に先んじて歩き出さない。そこにおまえの甘さが現れている」云々と一事が万事、この調子であり、幼い頃から理不尽な怒りをぶつけられた結果、身をすくませることを覚えた。反論してはさらに怒られるため「自分は無力だ」と思うことが唯一怒鳴られてる時間をやり過ごす方法だと体得してしまった。
「本当に感じていることを言っては怒られる」という身の内に巣食ってしまった恐怖が人間関係を結ぶ上でのベースになっていた。そうなると人との関わりは決して親密になりはしない。相手に深く踏み込んでしまっては怒らせるかもしれないからだ。
 怒りを異様に怖れた結果、ついには本当に自分が思っていることを口にせず、自身が誰かに怒ることも躊躇うようになった。喜怒哀楽の感情を心置きなく表せるのが深い交わりとすれば、私はそれを徹底して避けた。

交際していた彼女と出会ったのは、今のように怒りと親密さのメカニズムを知るずいぶん前のことで、だからまだ感情に関する学習は始まっておらず、「弱いロボット」っぽさがむき出しだった。
 彼女はよく怒っていた。それは私が彼女を怒らせていたからだ。かといって、「恋人だったらご飯をつくってくれるのが当然」とかくだらない束縛とか、そういうことで怒らせたのではない。うまく気持ちを類推できない時に「どうしてあなたはわからないのか」と怒った。後年、彼女の怒りの中に悲しみがあり、それは「わかって欲しい」という切実さが含まれていたと知るのだが、その頃は怒りはただ怒りとしてしか受け取ることができなかった。
 普通であれば「そうやって言うけれど、自分の気持ちをわかって欲しいばっかりじゃないか」とか「わからないものは仕方ないだろ。君だって完璧じゃないんだろう」と感情的な反発というものがあるだろうし、彼女も当然そういうリアクションがあると思っていたようだ。ところが私の場合はそういうことにならない。そうした期待にはまったく応えない。

まず彼女が怒ると「なんか悪いことしたのかな」と反省モードに入ってしまう。あるいは「君が怒っているのは、カクカクシカジカの理由からなのだろうか?」と分析して、しかも口にしてしまう。どちらもさらに怒らせる。備長炭くらい燃え盛る。
 当時は心底わからなかったのだが、反省モードとは自分の内に引きこもってしまうことで、それは相手と関係なくなり自己完結してしまうことだ。そうなってしまうと、彼女の中では「勝手に反省してるけどさ、それだと私関係なくない?」ということになっていたのだと時間が経ってから理解した。
 次いで分析は言わずもがなで、相手が感情的になっているのに一方が冷静だと「バカにされている」感覚を与える、らしい。
 私としては誤解を解きたいし、相手を理解したい一心の発言だった。
だが、この考えも曲者で「誤解を解きたい」という構えには、「相手のほうが間違っている」が初期設定としてあることに気づけなかった。加えて「理解したい」も相手の行動の軌跡であって、今起きている事柄ではない。これもまた目の前にいる人を無視した行為だ。というのを新たなプログラムとして自分に叩き込んでいたのだった。
 一度、「怒りに怒りで返したらさらに怒るんでしょう?」と聞いたら、「当たり前でしょうが!」と言われて、キョトンとした。意味がまったくわからなかったのだが、しばらくして「そうか!人は感情の応酬自体を理解のプロセスとみなしているのだ」と発見して感動した。ユリイカ!と叫びたいくらいの気持ちだった。

事の顛末はもう覚えていないが、彼女にとってひどく腹立たしく、そして悲しいことを私がしでかしたことがあった。それから一週間ばかり電話をしてもいつも留守番メッセージに切り替わり、連絡がとれなくなったことがあった。さらに数日経って連絡したらようやく電話に出てくれた。「ひさしぶり。元気にしてた?」といった、これまたよそよそしい切り出しで話をした。
 何だかわからないままに謝るというのはよくないのだろうけれど、そんなにまでして怒るというからには相当の理由があるはずだ。そう思いはしても、付き合いの中でそれなりに学んだのは「なんで怒ったの?」と尋ねてもどうやら逆効果だということは理解するようになっていたので、「とにかく会いませんか」と言って、彼女の部屋に向かった。
 ドアを開けた彼女は最後に会った日に比べたら清々しい顔をしていたから、ホッとしたのも束の間。部屋に上がると大きなビニール袋が動線を遮るように置いてあり、中を見るや「アー!」と思わず大声をあげてしまった。それは彼女の部屋に置いていた、私の大のお気に入りのライダーズジャケットだった。あまりにも気に入りすぎてほとんど袖を通したことがない(気に入って買った服や靴下は10年以上保つのだが、その訳はほとんど身につけないからである)。
 そのライダーズジャケットはコットン製でも遠目にはレザーに見えるような光沢があり、しっかりとした生地で撥水も抜群でとにかくかっこいいものだった。それがズタズタに破かれ、ビニール袋に無残に放り込まれていた。
 アーッ!!!と叫んだ後、ごく自然にこう続けた。
「服がかわいそう」

それを聞いた彼女はヘナヘナと崩れ落ち、ハァーと落胆の溜息を漏らした。人間の眉があんなにもハの字になるのを初めて見た。
「あれ、なんかやらかした?」と思い、「いや、ほら、ほとんど着てないしさ」と言ったのだけど、彼女は「そうか」と言うとタバコに火をつけ、また「そうか」と言うと、ふふふと笑い出した。

これだけを読むと、彼女はひどいことをしていると思うかもしれない。実際、彼女は後に「ひどいことをしているとわかっていた」と言っていた。なぜなら私がすごく大切にしていると知って破っていたからだ。表面上の“ひどい”の底に何があるかというと、暖簾に腕押し、糠に釘の私に少しは自分の怒りや悲しみをわかって欲しくてやったのだ。「それほどまでに悲しかったのか」という私のリアクションを期待していたのに第一声が「服がかわいそう」と来たものだ。
「なに? それじゃ私の気持ちはどうでもいいの?」と彼女が思うのも当然だ、とこれまた後に考えてわかったものの、その場では彼女の心の機微がわからない。
 ひどくややこしいことには、「よくもオレが大切にしている服を切り裂いたな!」と怒ったわけでもなく、彼女に「なんでこんなことをしたんだ!」と怒りをぶつけたわけでもないことだ。怒りは一切ない。
 万物に生命は宿るではないけれど、服としての命をまっとうさせてあげられなかったことに「かわいそう」と思ってしまった。服の命を感じても恋人の感情には気づかないのは、やっぱりどうかしているのかもしれない。

この事件を機に「私も“人の心なんてわからない”と普段から言っていたけれど、自分も期待していたんだってことがわかった。だから本当にあなたには期待しても仕方がないんだと諦めがついた」と彼女は思ったそうだ。
 それからは確かにあまり怒らなくなった。その代わり似たような発言をして、彼女が「それ、どういうこと」と言って私が困った顔をすると、「レトリーバーみたいな顔するな」と突っ込むようになった。

「レトリーバーはいたずらをして飼い主に叱られても『僕、わかんない』って顔するでしょ。それにそっくりなんだよね」

情操教育のおかげでコミュニケーションの段階はロボットからレトリーバーに昇格したようだ。

Profile

1970年4月16日生まれ。フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原Jr氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、ダンサーの田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。著作に『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)など多数。