第1回 あともう少しで

海の中での潜水のごとく、ひとつのテーマについて皆が深く考え込み話し合う哲学対話。小学校、会社、お寺、路上、カフェ……様々な場で哲学対話のファシリテーターを務める著者は、自らも深く潜りつつ「もっと普遍的で、美しくて、圧倒的な何か」を追いかけてきた。当たり前のものだった世界が、当たり前でなくなる瞬間、哲学現在進行中。「え? どういう意味? もっかい言って。どういうこと、どういう意味?」……世界の訳のわからなさを、わからないまま伝える、前のめりの哲学エッセイ。

ネットで注文した商品を開封したら、折りたたまれたつるつるの紙が入っていた。

静かにひらいていくと、商品の説明が書いてあり、一行目はこのような文で始まっている。

弊社の製品をご選別においでになって、ようこそいらっしゃいませ。

めちゃくちゃだ。

「弊社」というハイレベルな単語が扱えるにもかかわらず、「ご選別においでになって」は、バカな小学生が考えた敬語のようである。「ようこそいらっしゃいませ」に至っては、そう来るか、と思わせるエネルギーを備えている。

だが二行目以降は、何食わぬ顔で、秩序だった文章が続く。この商品はこんな製品でございます、何かありましたらこちらまでご連絡下さいませ。

ところどころ妙な敬語はあるものの、文章はわたしを乗せてなめらかに進む。しかし終わりにさしかかると、再び文はガタガタと揺れ始め、ところどころにぶつかりながらこのように言う。

ご配慮をいただければ、この世界の美しさをさらに信じます。

今後弊社の製品をお使いいただければ幸いです、というような文章を書きたかったのだろうか。それとも全く別の意図があるのだろうか。どうしてこんな文体なのか分からない。

わたしは、なんてめちゃくちゃで、ばかばかしくて、美しいんだ、と思った。

世界は一見まともなようで、実はかなりすっとぼけている。

ひとは生まれるけど死にます、とか、地球というものがあって回転しています、とか、わたしが考えていることが誰かに完全に伝わることはありません、とか。色んな仕方で合理化はできるかもしれないが、よくよく考えてみると訳が分からないことばかりだ。

たとえば水。高校生の頃、お風呂に入っていて、突然思った。なんだこれは?水を手ですくって触ってみる。奇妙だ。めちゃくちゃだ。手からするすると水はこぼれ落ちる。意味がわからない。呆然と手を見つめる。いや、ちょっと待って、なんだ手って。なんだこの形は。どういうつもりなのか。見慣れたもの全てがぐにゃりと歪み始める。世界が崩れてしまう。いや、目の前に広がるこのまるごと、世界ってなんだ。なんであるんだ。ある、ってなんだ。答えてくれ、世界。

世界はわたしから目をそらし、すました顔でとぼけている。

おそろしくなったわたしは、どうやらこの奇妙な世界の「正体」が書かれているらしい、哲学書を手に取ってみた。きっと哲学者なら、めちゃくちゃな世界に一発食らわしてくれるだろう。手始めに、サルトルという名前の哲学者が書いた『存在と無』という本をひらいてみる。

存在とはばばばばばびぶぶべべぼ、あるところのものびびびばば、ではないところばばっええじゃややえあくうしたわかちこわかちこ。ぽぽびえばららららりる無、おわあああいいががのえしすこらぎばばびび、じつぞんしゅぎ。

本を閉じた。

脳が爆発してしまう、と思った。

爆発をおそれたわたしは、ほぼ哲学書に手をつけないまま、哲学科に進学することになる。

大学では語学を学んだり、哲学史を勉強したり、がんばって哲学書を読んだりしたが、ある時、先輩に「哲学対話」なるものの会に連れて行かれた。

哲学対話とは簡単に言えば、哲学的なテーマについて、人と一緒にじっくり考え、聴き合うというものだ。普段当たり前だと思っていることを改めて問い直し、じりじり考えて話してみたり、人の考えを聴いてびっくりしたりする。人や団体によって様々なスタイルがあるが、先輩に連れてこられて以来、いまに至るまでこの活動をつづけている。

哲学対話は場所を選ばない。小学校、美術館、お寺、公民館、路上、会社、カフェ、色んなところですぐに出来る。参加者は誰でもいい。知識も特に必要ではない。自分が思ったことを、自分の言葉で素直に言えばいい。それを馬鹿にする人は誰もいない。だからといって言いっ放しでもない。誰かの考えと違っていたら、なんで違っているのか、どういうところが違っているのか、本当に違っているのか、考える。あなたがその主張をすることによって、どんな前提をもっているのかを考える。考えて、考えて、いつの間にか対話の時間は終わる。

何かを深く考えることは、しばしば水中に深く潜ることに例えられる。哲学対話は、ひとと一緒に考えるから、みんなで潜る。哲学対話の参加を重ねたわたしはいつの間にか、ファシリテーターをするようになっていた。だからといってわたしだけが陸にいるわけではない。わたしもまた、一緒に潜り、考える。

哲学対話では、理路整然と自分の考えについて話せるひともたくさんいる。対話のあとで、書いてもらう感想に、しっかりと今日は明確に答えを導き出せました、と記してくれるひともいる。とてもすばらしいことだ。だがわたしは、対話の中での人々の、よどみ、つっかえ、言葉にならなさ、奇怪な論理、分かりづらさに惹かれる。

「約束は守らなければならないのか」というテーマで話したいつかの高校生は、長い時間をかけて、水中でもがくように言葉を絞り出していた。えっと、他者というのは、そのひとがすごく・・・いや・・・他者は、他者は、他者だから、尊重しなければならないっていうか、尊重したい・・・そうだ、でも、尊重するのは他者だからなんです。もたもたと言葉を重ねて、話は遠回りし、関係ないようなことを口走り、いややっぱり違いますごめんなさい、と顔をしかめて、他者は、他者だから、他者だから尊重すべきなんです、と繰り返す。みんなは、え?どういう意味?もっかい言って、どういうこと、どういう意味?と身を乗り出して、彼女と共に考えようとしている。

それを見たわたしはふと思う。むかし読んだ訳のわからない哲学書。彼は、世界の訳のわからなさを、わからないまま伝えるしかなかったんじゃないか。

だからわたしは愛する。奮闘した結果、わかりづらくなってしまった言葉も、何を意図しているのかすら全く分からなくなってしまった言葉も。訳のわからないへんてこな世界を、純粋にそのままうつしだしているように見えるからだ。彼女のからだや言葉はガラスよりも透き通って、世界をそのままうつしだす。言葉は、世界そのものである。

だが同時に、哲学対話をしているとき、あともう少しで「分かる」ということにたどり着けそうな感覚に陥ることがある。それは「最適解」のような暫定的なものでもなく、「共通合意」というような、その場だけの取り決めでもない。

もっと普遍的で、美しくて、圧倒的な何かだ。

それに到達するということはない。その予感がするだけ。

にもかかわらず、その予感はひどく甘美で、決定的なのである。

小学校で「夢と現実のちがいは?」というテーマで哲学対話をした。子どもたちはあっという間に深く潜って、ああだこうだと議論している。何か答えが出そうになっても、誰かが「いや、こうじゃないか」と言ったり「でもそれってなんでそうなの」などと言って再吟味されていく。わたしもまた、息をするのも忘れて夢中になる。考えが出ては覆されるが、確実に何かが進んでいる。前進している。だが、終わりの時間は来る。「じゃあ終わりの挨拶をしましょう」と担任の先生が声をかけてくれる。子どもたちはわたしに懇願する。

待って!!もうすこしで分かりそうなのに、待って!!終わらないで!!!おねがい!

彼らに世界の正体がすぐそこに迫っている。だが、次の音楽の授業も迫っている。わたしは苦笑して、まだ深く潜っている何人かを、なんとか陸に引っ張り上げる。また明日も来てね、と女の子が小さな指をわたしの小指にからませて、音楽室へ走って行く。

わたしの授業は一回きりだから、もう彼らに会うことはできない。

「もう少しで分かりそう」という感覚は、「もう少しで思い出せそう」という感覚に似ている。

たとえば、誰かの名前を思い出すとき。あの、美大出てて、何かよくわかんない仕事している…ほらユウカの友達で、あの、忘年会の時に変な帽子被ってた、あのあれ…誰かを指し示す情報が、吸い寄せられるようにこちらへやってきては分散する。それぞれの情景はぼんやりとしていて、うまく見えない。だからなのか、思い出そうとしている人は、近眼の人が遠くのものを見ようと目を細めるような、眉間に皺をよせた表情をする。

思い出せない経験はかなりもどかしい。

だが、確かに思い出す対象はこの世に存在する。

そのことだけが記憶の中で溺れているわたしを励ましてくれる。

何かを思い出そうとするとき、ひとはもどかしさの苦痛に顔をゆがめつつも、その「何か」に、いとおしさを感じている。かつてわたしの中にいて、わたしのものだった「何か」。たまたまそれはどこかへ飛翔してしまったが、たしかにわたしが所有していたのだ。

だがもはやそれはひとかけらの姿もわたしには見せてくれない。

その代わりわたしは、それに途方もないなつかしさを感じている。

かつてわたしのものであった何か、そしてそれを失ってしまった深いかなしみ。

探究とは、想起することに似ているのだ。

同じことを考えた哲学者がいる。

紀元前の哲学者、プラトンである。倫理の授業を受けたことがあるひとは「想起説(アナムネーシス)」という言葉を少しはおぼえているだろうか。

アナムネーシス。古代ギリシャ語。まずこの言葉を想起することが難しい。

先日も哲学研究者の先輩が「想起説ってギリシャ語ってなんだっけ」と言ったのに対し「アムネスティですね」と答えてしまった。それは人権問題のNGOだ。「そうだったな」と先輩は言った。適当なものだ。

プラトンを読めば分かるが、想起説とはなかなかドラマチックだ。理論立てもしっかりしていて、わくわくさせられる。だが、わたしが言っているのは、もう少し感覚的なものだろう。

気配。なつかしい、何かを思い出しそうな、ずっとずっとむかしに、わたしは「それ」を知っていたような感覚。確かに存在する「それ」の予感。そしてそれがいま手元にないことの喪失感と苦痛。分かったぞ、とそれをつかみ取ったと思っても、それが後々違うと分かったときの、失望と気恥ずかしさと、可笑しさ。

それは、見上げたはるか遠くのどこかにあるのではなくて、わたしのふかいふかい魂の井戸の底に、ぽとりと頼りなく落ちているのかもしれない。

帰宅したアパートで、今日子どもたちと話した「夢と現実の違い」について考える。

哲学書が参考になるかもしれない、と本棚から引っ張り出す。やっぱり難しい。がんばって意味を読み取り、自分や誰かが言った考えとぶつけてみる。眉間に皺をよせて、思考の中に潜り込む。誰かの意見と、わたしの考えがうまく溶け合わずに、もたもたとつかみ合っている。どっちかが倒れるか、和解して抱き合うかしてほしい。かと思ったら、新しく哲学者が出てきて、つかみ合いに参加しようとしている。困る、これ以上の参加者は。大乱闘だ。

それをなぜか母が見ている。

 

若かった頃のなつかしい母だ。幼稚園の頃のわたしが好きだった、ベージュのシャツを着て笑っている。誰を応援しているのだろう。

 

 

ふと我に返ると、隣の部屋に母がいる気がした。

 

ぼんやりした頭で扉を開けると、汚い食器がそのままの狭い6畳の部屋がある。

母はいない。なつかしさだけが魂に沈んでいる。

 

陽はすっかり傾いて、青みがかった空気が部屋いっぱいに充満している。

まるで水中のようだ。

 

なんて美しいんだ、と私は言った。

 

*イラストも著者