第3回 ガシャン

海の中での潜水のごとく、ひとつのテーマについて皆が深く考え込み話し合う哲学対話。小学校、会社、お寺、路上、カフェ……様々な場で哲学対話のファシリテーターを務める著者は、自らも深く潜りつつ「もっと普遍的で、美しくて、圧倒的な何か」を追いかけてきた。当たり前のものだった世界が、当たり前でなくなる瞬間、哲学現在進行中。「え? どういう意味? もっかい言って。どういうこと、どういう意味?」……世界の訳のわからなさを、わからないまま伝える、前のめりの哲学エッセイ。

考えごとをしていると、いろいろな音が聞こえてくる。

パキパキパキパキという、考えが組み上がる音。おわああああああんという、果てしない問いを前にして深淵が鳴く音。ばちばちばちという、頭の中で火花が散るように思考が加速する音。

誰かと一緒に考えているときは、もっといろんな音がする。ゴポゴポゴポゴポと、共に深い思考の海に潜っている音。ヒュッと、誰かの鋭い意見が矢となって風を切る音。とりわけ、ガシャン、と何かが壊れるような音はよく聞こえてくる。繊細なガラスが割れる音というよりは、重い陶器が砕けるような音だ。

誰かが自分の考えを話している。ガシャン、と音がする。何の音だろう、とわたしは不思議に思う。別の誰かが考えを話し始める。またガシャン、と音がする。後ろを振り返るが、特に何かが落ちている訳ではない。わたしの頭の中だけで鳴っている音なのだ。目の前のひとが「永井さんは、さっきなんでああ言ったんですか」と不意に問いを投げかけてくる。どきどきしながら、何とか先ほど自分が言った考えについて説明する。目の前のひとは、うなずいてみせたあと「さらに質問したいんですけど」とわたしに言う。ガシャン、と音がする。

人々と集まって哲学の時間を持つとき、事前に話すためのルールを設定することが多い。いきなりテーマについて対話を始めてもいいのだが、わたしたちはひとと集まって話すことが苦手だ。うまく考えられたとしても、それを適切に人に伝えたり、話を聞いたりすることが本当に下手だ。考えを闘わせて、誰が一番強いのかを決めることが好きで、人と協力して意見を練り上げていくことがとても嫌いだ。だからルールを紹介して、会を始めることになる。だが、これは方向付けや制約というよりも、わたしたちが普段いかにうまくコミュニケーションできていないかを思い出すセルフケアの促しでもある。

わたしがよく用いるルールは「ひとの話をよくきく」「自分の言葉で話す」「「結局人それぞれ」にしない」である。状況や場合によって「理由を挙げて話す」「変わることをおそれない」「ゆっくり考える」などが付け加わることもあるが、基本的にこの3つだ。

ある小学校で「死んだらどうなる」というテーマで哲学対話をした。

彼らは生まれ変わりについて議論を始め、生まれ変わったと言えるためには、どんな条件が揃っていなければならないか、言い合っている。

「きく」というのは便利な言葉だ。相手が何を言いたいのかじっと「耳を澄ませる」という意味もあるし、何を言おうとしているのか「尋ねる」という意味も、そして、相手が誰であっても「耳を傾ける」という意味もある。こうして、「話す」ことよりも「きく」ことに集中してみると、ひとの言葉がずるりと直にわたしの中に入ってくるようになる。わたしの奥底に一瞬で入り込んで、わたしの実存をスリリングに脅かす。

小学生たちは、生きるとは何か、どのように生きるべきかについても言及し始めた。生きて、死んで、そして生まれ変わって、また生きる。そうするには、どのような状況や条件が考えられるのか。議論がゆらゆらと揺れている中、ずっと眉間に皺をよせて考えていたある女の子が、はいと手を挙げた。

「みんなは、生きるということがメインで、そのために死んだり生まれ変わったりするって言っているような気がするんだけど、そもそも、生まれ変わるということ自体が目的で、そのために死んだり生きてるだけだったらどうする。」

それはまったく新しい視点で、そしてわたしも含めて、輪の中の誰も考えたことのない論点だった。彼女の提案は、一見「来世」や「輪廻」のことを言っているようだが、生でも死でもなくその転換自体が目的であるというものだ。生まれ変わること自体が「めっちゃ気持ちいい」なんてくだらない理由だったらいいなと想像する。魂だけとなった存在が、風呂上がりのビールを飲み干すひとのように、「この一回のために生きてる!」と快感に身を震わせる情景が目に浮かぶ。「枠組みを変えるんだよ」と女の子は続けて言った。

またどこかでガシャンと、壊れるような音がした。

わたしたちはわけのわからない世界に、意味づけをしたりレッテルを貼ったり、ヴェールで覆ったりして、何とか生き延びている。何年もかけて信念を構築し、それを前提にした上で世界を解釈したり、何かを創造したりする。にもかかわらず、哲学はあっという間に「前提を問い直す」などといって、積み上げたレンガを粉々にしてしまうし、他者はわたしの大切な意味づけを、デリカシーの欠片もなく剥がしてしまう。そう考えると、哲学対話とはわたしたちを自由にするどころか、立っている場所を脅かす兵器でもある。

だからこそ、哲学や他者によって問い直しを迫られたとき、わたしたちは自分自身が壊れるような感覚を抱く。街場で行った哲学対話で、持論を展開させている50代の男性がいた。満足そうに話し終えた男性に対して、中学生だと言っていた女の子が、不思議そうに手を挙げた。彼女は「なんでそう思うんですか」と言った。哲学対話の時間では、何てことのない質問だ。だが、男性は「なんで・・・」と呟いたまま、黙り込んでしまった。彼は、機能不全をおこしたロボットのように目を見開いて、呆然と宙を見つめていた。

しかも、哲学はわたしたちの目を見えるようにするどころか、より見えなくする。近眼のひとが眼鏡を外して見るように、ぐねぐねと境界が混ざり合い、わけのわからない世界が露わになる。こんなところで自分は生きていたのかとびっくりする。だがたまに、ぐにゃりとした秩序のない世界を、平気な顔をして歩き回っているひとがいる。彼らにはレッテルや意味づけ、もっと言えば世界に対する偏見がなく、ただただ自然に、穏やかな表情で仕事をしたり、コーヒーを飲んだり、眠ったりして、生活を営んでいる。

ある夜、知人四人で食事をしていたとき、その中に福岡出身のひとがいた。彼にあれこれと質問をし、あそこは良いとこだよね、あそこは何かおいしいの、などと九州の話で盛り上がる。すると、ずっとにこにこと黙って話を聞いていた一人が、このあとの予定を尋ねるような気軽さで自然に問いかけた。

「九州って四国?」

思わず絶句してしまう。「ちがう」と言うので精一杯だ。このひとはそれを知らずにどうやって生きてきたんだろう。焦るわたしたちと対照的に、彼はふむふむ、と興味深そうに話を聞いている。違う。もっと深刻に受け止めて欲しい。福岡出身の知人は、とうとう「古事記をもとに考えれば、「四国」と表現することも可能かもしれない」など、合理化を試み始めた。絶対違う。無茶をしすぎだ。

だが考えてみれば、九州や四国、東北などの区分は、わたしたち人間が後から勝手に決めたものである。そしてそれを「知っていなければならない」と勝手に思い込んでいるものである。わたしは、自分の前提に気づかされると共に、彼の無垢な世界との関わり方に憧れた。「福岡って四国?」ではなく「九州って」という問い方もいい。彼は普段から、ジンジャーエールを自分で買ってきて、飲んだあと驚いた顔で「ジンジャーエールの味がする」と言うひとなのだ。

世間ではそういったひとたちのことを「天然」などと名付けて、何とか型に当てはめようとする。しかし彼らはその言葉からもするりと抜け出して、楽しそうに走り回っている。わたしがぐにょぐにょした世界で身動きを取れずにおろおろしている間に、気にせず前にずんずん進んで、こちらにおーいと手を振っている。凝り固まったわたしを粉々に打ち砕いておいて、けらけらと笑っている。そしてそれがわたしには、なぜだかとても嬉しいのだ。

哲学対話をしているときも、同じような喜びがある。わたしの硬直してしまった信念を誰かがあっけなく壊してしまう。こわくて、危なくて、うれしくて、気持ちがいい。どきどきしながらも、素肌に風が当たるかのような感触がある。わたしは世界に身一つで佇まざるを得ない。

だが、そんなわたしが、わたしであることを確認することができるのもまた、他者の言葉によってなのである。他者の考えや言葉がざわざわとわたしの素肌をなでるとき、わたしははじめて自分がどこにいるのかが分かる。真っ暗闇の中、誰かに腕をつかんでもらえたときのように。そうしてまたわたしたちは、新しくまた何かをつくりはじめる。

ガシャンという音は、わたしが壊れる音である。だが実はそれだけじゃなくて、わたしができあがっていく音でもあるかもしれない。崩れてしまったわたしの部分に、他者の考えや言葉が、パーツとなって飛んできて、わたしの身体にフィットする姿を想像する。ガシャンと音がする。気持ちがいい。

そうか、これは、生まれ変わりの音だ。

 

ああ。

この一回のために生きてる。

 

*イラストも著者