第5回 ぜんぜんわからない

海の中での潜水のごとく、ひとつのテーマについて皆が深く考え込み話し合う哲学対話。小学校、会社、お寺、路上、カフェ……様々な場で哲学対話のファシリテーターを務める著者は、自らも深く潜りつつ「もっと普遍的で、美しくて、圧倒的な何か」を追いかけてきた。当たり前のものだった世界が、当たり前でなくなる瞬間、哲学現在進行中。「え? どういう意味? もっかい言って。どういうこと、どういう意味?」……世界の訳のわからなさを、わからないまま伝える、前のめりの哲学エッセイ。

夜道をふたりで歩いていたとき。

わたしは耳にしたばかりの「VUCA(ブーカ)」という概念について、隣を歩くひとに説明していた。ブーカとは、変動性、不確実性、複雑性、曖昧性のアルファベット頭文字を並べたもので、グローバル化した現代のぐちゃぐちゃした状態を指し示す単語だ。2010年代頃から注目され始め、ビジネスの世界はもちろん、教育界でも「ブーカの時代」である今をどう生き抜くか、ということがしばしば主題となる。

ちょうど彼は教員をやっていたし、そのキーワードを紹介し意見を聞きたかった。一通り説明し終え、これから自分の意見を述べようとすっと息継ぎをした途端、今まで静かに聞いていた彼が、突如目を見開き、暗く静かな夜道に向かって叫んだ。

「人生はいつだってブーカや!!!!!」

ちりんちりん、と間の抜けたベルを鳴らした自転車が、のろのろと私たちを追い抜かす。普段はおだやかでおとなしい彼が、突然謎の関西弁で暗闇に叫んだ言葉を、今でもたまに思い出す。

わかる、はわからない。

わからないことはわからない。わかることもわからない。わかろうとしてわからなくて、どうしたらいいのかもわからない。

社会のしくみがわからない。他者がわからない。親も、友だちも、先生も、何なのかよくわからない。言葉もわからないし、世界がよくわからない。自分もよくわからない。

とにかく生まれて、とにかく言葉を覚えて、とにかく働いている。たまに考えたり、話したり、聞いたりして、そして混乱している。

哲学科に入って、修士号まで取って、それからまた何年か研究して、ちょっとは「わかる」と思ったら、別にわからない。だいいち、わかる、ということが何なのかもわからない。風邪の引き始めの時みたいに骨のつなぎ目がふわふわして、残像で出来た世界でまどろんでいる。

熱が出ているのかもしれない。熱が出ると、世界はゆらぐくせに、わたしとの境界線ははっきりとするのがむかつく。身体がわたしと世界を明確に区切っていることが意識されるからだ。

 

身体が弱かったわたしは、よく学校を休んで、午後の曇天をけむりを見て過ごした。マンションの窓から見下ろすと、いつも隣のおじいさんが何かを燃やしていて、けむりがもくもくと立ち昇っていた。遠くを見やると、ゴミ焼却場があって、それはまるでわたしを見張る塔のようだった。午後。けむり。曇天。小学校ではいまごろ、図工の時間だろうか。みんなはわたしのこと、忘れただろうか。ずっとわたしはこのままなんだろうか。

ぶぶぶぶぶぶぶぶぶ、と郵便局のバイクが走っているのが見える。わたしもバイクに乗せてほしいなあと思う。おじさんの後ろにまたがって、びゅんびゅん風景が通り過ぎていくのを眺めながら、次の家の住所を耳元にささやいてあげよう。しっかり捕まってなさい、と諭すおじさんの口からは、缶コーヒーの匂いがするだろう。

午後、けむり、曇天。

わたしはこの時間が嫌いだった。

10代になって、もっとわかることよりもわからないことの方が増えた。

自分を閉じ込める考えしか思い浮かばなくて、どうしたらいいのかもわからず、ほとほと困り果て、哲学科に入った。

哲学科は同じように困っている人が何人かいて、困ったねえ、とか言い合いながらカフェオレを飲んで午後を過ごした。大学の授業では、哲学史や哲学者については教えてくれたけど、世界が何なのか、何かをわかるとはどういうことなのかは教えてくれなかった。何人かの友人たちは、わからなかったな、とつぶやいて「社会」に出て行った。

わたしだけがぐずぐずと大学に残って、困ったなあ、と言い続けた。でもその代わりに、一緒にカフェオレを飲んでくれるひとは増えた。その人たちは大学に在籍しているわけではなかったが、同じように、困りましたねえ、と言って目の前に座ってくれた。

そうやってまた何年か過ぎた。

だがやっぱり哲学が何を教えてくれたのかはわからない。

 

哲学書をひらく。強そうな言葉が並んでるな、と思う。学生がやってきて、「これってどういう意味ですか」と聞いてくる。わからない、と思いながら、説明をする。学生が「なるほど、わかりました」と言う。わかるのか、すごいな、と思う。

哲学対話をしに出かける。参加者のひとの言っていることがよくわからない。でも、わからないとは言えない。なんか悪いな、と思う。わかりません、って、相手を拒絶するようで言いたくない。代わりに「それってこういうことですか」なんて聞いてみる。他の参加者の人が「いや、違うんじゃないですか」「そうではなくて」と言う。ごめん、と思う。

哲学をやるとどんな良いことがありますか、と聞かれる。よくわからない。それなりの、ぽいことを適当に言ってしまう。相手は納得しているようだけど、実際の所はよく分からない。哲学は救いになりますか、とも聞かれる。わからない。なる人もいるだろう。だけどそれが哲学のおかげなのかもよくわからない。哲学で救われたんじゃなくて、自分で自分を救ったんじゃないだろうか。わからない。

ながいさんは哲学に救われたんですね、とも言われる。そうなのかな。わからない。

でも、哲学があってよかったなとは思う。

 

救いという言葉は、人の気持ちをあやうくさせ、ぞわぞわさせ、いたたまれなくさせる。「救済」なんて言い換えれば、もっとそれは妖しくぎらぎら光って、わたしたちをどぎまぎさせる。超越的なものや、精神的なものとのつながりを、予感させるからだろうか。

哲学で救われるとかうえーって感じ、とむかし研究室で誰かが言っていた。周りも同調するようにワハハハハと笑っていた。ちょっとわかるような気もするし、やっぱりわからないような気もする。

 

だけど、思い出すことがある。

色んなことをよく相談される友だちがいる。厳しい家庭環境を生き抜いてきたひと、つらいことをたった一人で背負い込んでいるひと、しんどい病気を抱えているひと、とにかく世界のわけのわからなさにのみ込まれながら、なんとか顔だけは出している状態のひとたちの傍に、彼女はいる。彼女は色んなひとのことを、よくわかっているようだった。

もちろんわたしもまた、彼女に自分ではどうにもできない、だがべったりと自分の人生に張り付いてしまっていることについて話したことがあった。彼女は大きな目をぱちぱちさせて、真剣な顔でそれを聞いた。

ある時、何かのパーティーで一緒になった彼女は、ずいずいと近づいて、大きな目をくりくりさせ「あのさ」と話しかけてきた。パーティーで何かあったのかと思い、うん、と応える。彼女の顔は真面目そのものである。

「わたしね、色んな大変なひとの話を聞くんだけど」と彼女は言う。突然何の話だ、と笑いそうになる。

「実は、ぜんぜん、わかんないの。」

彼女は、秘密をささやく声で、眉間に皺を寄せている。

長いまつげが、頬に影を作っている。

意外なことかもしれないが、それを聞いて、なんだかわたしは救われた気になったのだった。

 

わたしたちは、お互いの話をわからないからこそ聞くことができる。わたしたちがお互いに似ていて、境遇を共有していて、双子のようであったら、わたしたちは話すことができないだろう。わからないからこそ、耳を傾けて、よく聞いて、しつこく考えることができる。無責任な共感などいらない。彼女のわからなさこそが、わたしたちにものごとを語らせる。

 

それは哲学対話の現場でもよく起こる。誰かが何かを言う度に、皆が「めっちゃわかる!」と言い合う女子校に行ったことがあった。わたしはこうだと思う。めっちゃわかる!わたしはこうかも。そうそうわかる!何を言っても、彼女たちは互いに共感して、深くうなずいている。

だが、よくよくしつこく理由を聞いてみると、実は全然違う前提に立っていたことがわかる。あれ?と誰かが不思議な顔をして、どういうこと?と問い始める。意見が全然異なると思われていた二人が、同じ理由を共有していることも。言葉の使い方、とらえ方がそもそも全く違うことも。

彼女たちの王国が少しずつ壊れていく。だが、彼女たちの表情は、むしろほっとして、穏やかになる。何人かにとって、いや、おそらく全員にとって、その王国は虚構だったのだ。むしろ彼女たちを閉じ込める檻だったのかもしれない。そんな予感を持ちながら、とにかく一緒に辛抱強く考える。「この話、簡単だと思ってたけど、そんなことなかったな」。誰かがぽつりと呟く。この呟きで、救われたひとがきっといる。

世界へのわからなさに立ち向かっているときに孤独を感じるのは、おそらく、自分だけが仲間はずれだと感じるからだろう。自分以外のひとがみんな怪物に見えて、自分だけが馴染めない。怪物たちが追いかけてくる。わたしを追い詰める。袋小路に追い込まれて、道に倒れ伏し、自分の手のひらを見ると、恐ろしい獣のツメを持っていてぎょっとする。怪物なのはわたしの方だったのだ。周りはみんなちゃんと人間だった。ずっとこうで、わたしだけで、これからもそうなのか。

 

だがおそらく、世界はそんなに単純ではない。

ひとは時に、周りはみんな同じで、みんなわかりあっていて、共感していて、自分だけがそこに馴染めないと思っている。だが本当は、世界は曖昧で、不確実で、複雑で、そこに人々は、なんだかんださみしかったりわからなかったりイライラしたり笑ったりしながら、生きている。「わたしだけ」がこの世には無数にあって、それぞれさみしくて、バラバラで、めちゃめちゃで、そういう意味でわたしたちは、平等である。

哲学対話をしていて、対話が居心地の悪い同調や、いたたまれない孤独につつまれているとき、わたしは願う。もっともっとバラバラになろう。バラバラになって、ちゃんと絶望しよう。もともと世界はいつだって、多様で、複雑で、曖昧で、不確実だ。その意味でわたしたちはみんなみじめで、みんな平等にひとりぼっちだ。

 

でもだからこそ、わたしたちは困ったねえ、と笑いながらカフェオレを飲むことができる。

 

ある企業で、「はたらくとは何か」というテーマで哲学対話をしたとき。参加者のある女性が、話しながらぽろぽろと涙をこぼした。自分のこれまでの思いや、わからなさや、さみしさが、どっと溢れ出たのだ。だが誰も「わかる」とは言わない。わたしたちは互いに、誰一人わかりあうことはできない。そのことを、誰もがわかっている。その事実が、わたしたちをやわらかくつなぐ。

わたしはあなたの苦しみを理解しない。あなたの悲しみを永遠に理解しない。

だから、共に考えることができる。

彼女の涙が、しんしんと降り注いで、気がつけばわたしたちは水中にいる。

共に息を止めて、深く潜って、集中する。

わたしたちはバラバラで、同じ海の中でつながっている。

 

*イラストも著者