第4回 神は酸素である、と彼女は言った

海の中での潜水のごとく、ひとつのテーマについて皆が深く考え込み話し合う哲学対話。小学校、会社、お寺、路上、カフェ……様々な場で哲学対話のファシリテーターを務める著者は、自らも深く潜りつつ「もっと普遍的で、美しくて、圧倒的な何か」を追いかけてきた。当たり前のものだった世界が、当たり前でなくなる瞬間、哲学現在進行中。「え? どういう意味? もっかい言って。どういうこと、どういう意味?」……世界の訳のわからなさを、わからないまま伝える、前のめりの哲学エッセイ。

10代のころ、毎晩布団に入ると「神さま、今日一日わたしはとても幸せでした、全て神さまのおかげです」とお祈りした。信心深かったわけではない。誰かに言われてやっていたのでもない。ただ、神にいい子ぶっていたのである。

神は定義上、全知全能だ。わたしの猫かぶりなんて、神はあっという間に見抜いてしまうはずである。わたしは神に出し抜かれることを恐れながら空虚ないい子を続けた。

中高はカトリック系の学校だったので、朝礼前には必ずお祈りの時間があった。とはいえ、ほとんどの人が上の空で、放送から流れてくる言葉に合わせて虚ろに口を動かすだけだ。生活の中の、ただの習慣の一つ。だがわたしは、クラスメイトがうつむいて祈りの言葉を唱えているとき必ず、ちょっとだけアゴをしゃくれさせていた。神が全てを見通すならば、不真面目なわたしを見つけるだろうと思ったからである。

神を信じたかったのか、信じたくないのか、信じていたのか、信じていないのか、真剣なのか、ふざけているのか、よく分からない。きっとその全てなのだろう。くだらないお祈りと孤独な賭けを続けて、神に見つけてもらえないままわたしは卒業した。

強い負荷がかけられた言葉が好きだ。ギャル語、言い間違い、特殊用語、過剰敬語。変形した言葉を見たり聞いたりすると、うっとりする。

たとえば先週。カフェで仕事をしていると、隣で若いサラリーマンが電話をしていた。彼は、びしょびしょになったアイスコーヒーに口もつけずに、ぺこぺこと電話の先にお辞儀をしている。ひどく恐縮している様子だった。仕事が大変なのだろう。

「はい、はい、そうですね、はい。そのように仰ってらっしゃるのを聞かせていただきました!」

おお、と思ってつい隣を見てしまう。真面目そうな彼は、心の底から自分の誠意を相手に伝えようと、尊敬語と謙譲語をどろどろのバターにして、言葉に塗りたくっているみたいだ。甘ったるいバターの熱にやられて、言葉は密やかにとろけている。

別の日、ある紳士服販売チェーン店へビジネスバックを買いに行った。ほんの数回しか使わないものだったので、一番安い商品を手に取り、適当な気持ちでレジへ持っていく。デザインも利便性も気にしない。わたしにとっては、どうでもいい買い物だ。素敵な眼鏡をかけたレジの女性は、わたしからバッグを丁寧に受け取ると、こう言った。

「おクーポンはございますか?」

おクーポン。

わたしは感動で目を開く。ネット上で「おデバイス」や「ごPDF化」という言葉を見たことはあるが、おクーポンは初体験だ。響きも抜群にいい。群を抜いている。声に出して読みたい日本語だ。

 

いつの時代でも、様々な番組や本、有識者の口から「日本語の乱れ」という嘆きの声を聞く。あるシンポジウムにパネラーとして登壇したら、アンケートに「司会者の敬語がなっていない」という感想だけ書かれていたこともあった。司会はわたしの友人だったから、何だかいたたまれない気持ちになった。

だが過剰敬語とは、言葉の使用法の無知というよりは、不自然さを犠牲にして、相手に誠意を見せようとする力業ではないだろうか。こんなにも言葉を痛めつけてまで、わたしはあなたに篤実であるということを伝える行為だ。そして、その行為の是非は別にして、わたしは負荷をかけられてしまった言葉の生命力が好きである。この言葉はむしろ、生きている。打撃をとことん加えれば加えるほど、その言葉はびちびちと奇怪に生命力を誇示してくるようだ。

以前、わかりづらくなってしまった言葉や、何を意図しているのか全く分からなくなってしまった言葉を愛していると書いた。訳のわからないへんてこな世界そのものを、そのままうつしだしているように見えるからだ。彼らの葛藤や矛盾、引き裂かれた思いが、言葉に正しくない形で現れる。用法として間違っている。正しくない。

だが、やっぱりそれはどこか正しいのである。

「生徒がとんでもないことを言ってしまったらどうするんですか?」

子どもと哲学対話をやろうとすると、ほとんど必ず聞かれることだ。哲学は、あらゆるものを疑い問うことがゆるされるから、時に子どもは「何で学校に行かなくちゃいけないのか」「なんで年上に敬語を使わなきゃいけないのか」なんて問いを持ち始めるし、「何を言ってもいい」というルールがあるから、めちゃくちゃな論理やまとまっていない言葉で自分の考えを語り出すこともある。そしてそれを嫌がる大人も多いし、生徒の哲学対話の様子を外から眺めて「生徒はとんでもないことを言っている」と苦笑する教員も多い。期待が裏切られた、というよりも、やっぱりね、という表情だ。「生徒に自由に考えさせるよりも、まずはしっかりとした哲学の知識を教える方がいいのでは」と言う人もいる。

哲学対話の授業に同行していた哲学教授であり哲学対話の実践家が、いつもと同じ質問を受け取ったとき、うんざりした顔でこう言ったことがあった。

「あのですね、哲学者の方がよっぽどとんでもないこと言ってます」

たしかに、子どもたちは意外と「とんでもないこと」は言わない。どこかで聞いたことのある優等生的な答え、親から受け継いだであろう思想、社会に流通している常識を口にする。問いに対して「答え」ではなく「正解」を言おうとするからだ。

それに対し、哲学者は変なことばかり言っている。新プラトン主義の流出説とか。ニーチェの永劫回帰とか。ハイデガーの四方界とか。倫理学者だって、トロッコ問題やらサバイバルロッタリーやら、相当ぶっ飛んだ思考実験を試している。大学の授業で巡り会う哲学史に登場する哲学者たちは、臆することなく常識外れな考えを連発していて、その軽快さに引き込まれた。彼らは正解を目指しているというよりは、彼らの「答え」を求めているような気にさせられる。

「とんでもないこと」はなぜ嫌われるのだろう。なぜ「哲学」ではないと思われるのだろう。なぜ、子どもたちがこの世の正解を探すことを止め、自分の矛盾を抱えた思いをおずおずと表現したり、冗長な言い回しやめちゃくちゃな文法であっても何とか考えを口にしたり、負荷をかけながらも言葉を探す姿を見て、「なんか、とんでもないことばかり言っちゃってましたね」と簡単にまとめてしまうのだろう。子どもたちは世界を切実にまなざすからこそ、自由な発想を自らにゆるしたというのに。

哲学者は「とんでもないこと」を言うが、突拍子がないわけではない。彼らにはしっかりとした理由がある。動機付けがあり、その主張を支える基盤がある。同じように子どもたちにも理由がある。彼らのための、彼らだけの細く見えづらい道があって、その入り口にぽつんと頼りなさげに子どもたちは立っている。

授業中勇気を持って発言した生徒が、終わったあとにわたしのところにやってきて「とんでもないことを言ってごめんなさい、先生のことを困らせたかもしれない」と申し訳なさそうに言いに来ることがある。なぜそんな風に思うのだろう。なぜ自分の考えが、場に貢献していないと思うのだろう。なぜあなたが苦しんで産んだたあなただけの道を恥じるのだろう。

とんでもないことを言ってごめんなさい。

わたしはこの言葉を聞くたびに泣きたくなる。

ある女子校の中学で「神は存在するか?」という問いが生徒から提起された。普段はおとなしいという生徒たちが、熱心にこの壮大な問いに取り組んでいる。どのようにして、未だ経験していないように思われる神を証明するのか、という哲学史的にもアツい展開へなだれ込み、休憩時間になった。椅子にまだ座り議論を続けている子たちを眺めていると、一人の生徒が近づいてきて「ずっと考えてたんですけど」と真剣な顔で言った。

「神さまって、酸素だと思うんです」

心から「なんで」と聞いてしまう。授業の中で、皆の口から語られていた神の像は、絶対的な父のようであり、気むずかしく奔放な神話の神々のようであり、おとぎ話に出てくる寛容な老人のようであった。どれもどこか想像のしやすい神さま像である。道理が分かる。だが、彼女の考えは突拍子がなく、それこそとんでもない発想だ。

「神さまって見えないじゃないですか。酸素も見えない。てことは、神は酸素なんじゃないかって」

面白い意見だ。彼女は、神が作った宇宙になぜ酸素がないのか不思議に思ったようだ。神がわれわれを見守っているとするならば、神は地球にいる。地球には酸素がある。ということは、神は酸素なのだ。

 

じゃあ神さまはそこら中にいるね、とわたしが言うと、彼女は「でも、吐いたら出て行っちゃう」とはにかんで笑った。

数年前の彼女の言葉が、今でもわたしの魂に沈んでいる。なぜだか、10代のころのわたしに聞かせたかったな、と思う。神を信じたくて、信じたくなくて、よく分からなくて、とにかく混乱して、おかしな賭けをしていたわたしに。別にそれで何かが変わるわけではない。でも、なんだかそんな考えを聞きたかった。わたしはただ、さみしかったのかもしれない。

彼女の言葉は、理由を背負っている。とんでもなくて、めちゃくちゃで、ゆるゆるの論理で、ちょっと笑えて、そしてとても伝わる。彼女の頭で煮込まれた、彼女だけの言葉だ。汗を光らせたサラリーマンが叫んだ「仰ってらっしゃるのを聞かせていただきました」も、わたしのバッグを受け取ったレジの女性の「おクーポン」もそうだ。どこかで「間違い」や「失敗」を予感しながらも、自分に正直に、世界に切実に立ち向かって投げる決死の言葉。

これも一つの孤独な賭けである。

ある昼下がり。大学図書館のカウンターに哲学研究室の鍵を預けに行く。カウンターの女性は顔見知りではあるが、話したことも名前を明かしたこともない。ただ「哲学」と書かれた鍵を預けたり預かったりするだけの関係である。いつものように鍵を返し立ち去ろうとしたら、何か不備があったのだろうか、女性が背後からわたしを呼び止めようとこう叫んだ。

「あ、あの、哲学さま!!!」

彼女も賭けに出たのだろう。

わたしは振り返る。

*イラストも著者