5 バロウズとフーコー(後編その1)――コレージュ・ド・フランス、1975年

一九七五年一月八日、この年ミシェル・フーコーはコレージュ・ド・フランスにおいて『異常者たち』と題する、同年三月一九日にかけて全十一回にわたって行われることになる講義を開始する。彼が砂漠に赴く半年前のことである。

精神医学と司法の交差=連続体から形成される規律と「正常化=規範化」(ノルマリザシオン)のプロセス、そしてそれに結びついた形で作動する諸々の権力メカニズムに対する分析にあてられたこの講義。そこにおいて選択されたトピック群は、一九六一年に刊行された『狂気の歴史』を一見想起させつつも、だが「狂気」(十七世紀~十八世紀)から「異常」(十九世紀)へと探求の重心をシフトさせることで、フーコーが本講義と同年の一九七五年に発表した『監獄の誕生』における規律権力のテーマとも深く共鳴しだす。また同時に、同年三月以降の講義で集中的に扱われることになる、十九世紀に出現する子供の性的身体という主題、および告白とセクシャリティという問題系は、翌年一九七六年の著作『性の歴史』第一巻『知への意志』で展開されることになる問題系、すなわち規律権力論を発展させた形式としての生権力のテーマを部分的に先取りするものでもあった、とさしあたりは言えるだろう(さらに付言しておけば、本講義で言及される「自然/本性」や「本能」といった優生学や種とも関わってくるキーワードは、『知への意志』最終章において規律権力と区別される形で唐突に導入される生政治とも直接的に接続されうる)。

十九世紀の半ばから後半にかけて、規律による「正常化=規範化」の効果と関わるかたちで浮上してきた異常性の領域=異常者たちと呼ばれるカテゴリーが、どのようにして精神医学によって特権化の対象となり、また同時にそれがどのようにして主権とも司法権力とも異なる真理という一つの審級=知を形成することに貢献したのか、と一九七五年の『異常者たち』講義のアウトラインをいささか乱暴に要約すれば以上のようになるだろうが、たとえば本講義の前半部が『監獄の誕生』、後半部が『知への意志』とそれぞれ対応関係にあると仮定すれば、本講義のいわばハイライトに位置する二月二六日の講義において、突如フーコーが悪魔憑きについて語り出すのは、まことに意味深長と言わなければならないだろう。

悪魔憑き、そしてそこにおいて前景化する「肉の痙攣」という主題。私達はここに至って、これまでのフーコー読者にとって馴染み深くあった「知」でもなく「権力」でもない、「痙攣する肉」という、一種異様な形象を目の前に投げ出されることとなる。だが、この「痙攣する肉」という主題は、以降の講義においては、さながら(規律権力と生権力を接続させる)「消えゆく媒介」のように(?)、子供のセクシャリティという新たに登場するトピックの影に即座に隠れてしまい、以降前景化することは遂になくなってしまう。驚くべきことに、この悪魔憑き、そして痙攣する肉という主題は、フーコー自身の手による「講義要旨」においてもまったく触れられていない[1]。まるで、フーコー本人も意図しないままに、講義の只中において突如噴出してしまったかのような痙攣する肉という主題、さながらエラーや瞬間的な錯乱としてしか記録されえないものとしての――。だが、ここには単なるエラーや媒介以上のものの蠢動を感じることができないだろうか。はたして、フーコーにとって「肉」とは何か、「痙攣」とは何か。そしてそれはフーコーにおける後期の思想変遷とどのように関わってくるのだろうか。

一九七五年二月二六日のコレージュ・ド・フランスでのフーコーの講義は、以下のように開幕される。

前回、私は、欲望と快楽の身体が――十六世紀以来発達していく悔悛の実践および良心の指導的技術の核心に――どのようにして現れるのかを示そうと試みました。一言で言えば、次のようになります。すなわち、精神の指導に対して、肉の動揺が、そうした指導のための言説の領域、介入の領野、認識の対象として現れる、ということです。肉という、複雑であると同時に不安定な領域、権力の行使と知の対象の形式とに同時にかかわる領域が、中世の神学と悔悛の実践において単に罪の起源として措定されていた身体の物質性から解き放たれ始めます。今後問題となるのは、「誘惑」、「疼き」などと呼ばれる一連のメカニズムによって貫かれた身体であり、快楽と悦楽の多様な強度の座としての身体であり、合意しなかったり、満足しなかったりする意志によって、煽られ、支えられ、場合によっては抑制されるものとしての身体であり、要するに、色欲にかかわる感覚的で複雑な身体です。私が思うに、こうした身体こそ、精神の指導という新たな権力技術の相関物です。そして、私が前回示したいと思ったのはまさしくそのことでした。身体に肉としての性質が与えられると同時に、身体は肉としての価値を剥奪されるということ。[2]

この冒頭からも明らかなように、この日の講義は前回の講義の議論を引き継ぐものであり、「肉」にかかわるトピックも正確には前回の時点ですでに登場している。そこで、まずは本講義におけるフーコーの問題系について改めて簡単に確認しておこう。

フーコーによれば、十九世紀半ば頃を堺に精神医学によって開かれた異常性という領野は、「非常に早く、それもほとんど最初からいきなり」セクシュアリティの問題によって貫かれることになった、という[3]。現代にまで影響力を及ぼす性的異常性にまつわるカテゴリー、そのほとんどは十九世紀半ばから後半にかけて精神医学によって整備されているのだ。たとえば、ドイツではグリージンガーが、フランスではバイヤルジェの精神医学がそれぞれ登場し、さらに一八八六年にはクラフト=エビングが『性的精神病理』を刊行し、性的倒錯や同性愛についての理論を用意する。これはつまり、「異常性という領野が誕生する日付、あるいはそれが出現し開かれる日付と、その領野がセクシュアリティの問題によって網羅され、貫かれる日付とは、ほとんど同じである」[4]ということになる。

したがって、ここでの目下の問いは次のようになる。すなわち、異常性の領野が精神医学によって可視化=領土化される際に、どうしてセクシュアリティが精神医学のなかで突然問題となり始めたのか。

フーコーはこの問いに対して、意外とも思えるところから回答を引き出してくる。フーコーはここに至って、突如時代を遡り、中世後半の教会権力における「告解」という、高度にコード化され制度化されたセクシュアリティの告白のメカニズムにその起源=端緒を求めるのである。

一八五〇年頃に起こるのは、実際には、ある一つの手続きがその姿を変えたということにすぎません。それも、検閲や抑圧や偽善にかかわる手続きではなく、強制的で義務的な告白にかかわる非常にポジティヴな手続きが、その姿を変えたということです。一般的に、以下のように言うことができるでしょう。すなわち、西欧において、セクシュアリティとは、黙されるものでも黙されるべきものでもなく、逆に、告白すべきものである、と。[5]

よく知られているように、ポジティヴな権力のメカニズムとしての「告白」の制度とセクシュアリティの関係については、本講義の翌年に出版される『知への意志』の中心的なテーマとなる。フーコーによれば、西洋では中世以来、「告白」が真理産出のテクノロジーとして、「否」、「禁止」、「排除」にもとづくネガティヴな権力であるところの主権権力や司法権力と並行しながら、あるいは互いが互いを部分的に取り込んだり取り込まれたりしながら一貫して主要な位置を占めてきたのだという。そして、こうした告白の伝統と実践においては、性にまつわる題材、性にかかわる罪の告白が常に特権的な役割を担ってきた。フーコーの企図は、この古くから存在する告白およびセクシュアリティの産出のメカニズムが、十九世紀後半に至って精神医学や法医学といった科学的知と権力の領域と接続しながら、それがどのように権力の戦略=真理のゲームのなかで作動しているのか、という見取り図を描くことにあった、とひとまずは言えるだろう。『知への意志』におけるフーコーの探求は、生権力論から生政治論へと飛躍し、以降、生政治論は統治性および司牧権力論へと発展していくことになるが、ここではひとまず措く。

言うまでもなく、こうしたフーコーの探求は同時に、本講義の同年に刊行された『監獄の誕生』における規律権力の問題系を引き継ぐものでもあった。というのも、そこでの告白とセクシュアリティは、言ってみれば近代的個人の産出=個人化を焦点としているという意味で、まず何よりも個人の身体を目標にし、可視化するテクノロジーとされているからである。ここで働いているメカニズム、すなわち人間の身体を一種の機械として捉えつつ、それを規律の手続きによって個別に教育し、調教し、矯正する形態、言い換えれば人間の「服従=主体―化」にかかわる形態は、『知への意志』のなかでは「解剖学的政治学」と名付けられている[6]

そして本講義『異常者たち』では、そうした個人化=可視化する規律権力が社会に介入する表面としての「異常性」の領野が、十九世紀半ばから後半にかけて、告白とセクシュアリティのテクノロジーが精神医学や法医学と連結していく過程で形成されていくさまが描き出される、と。

ついでにやや急ぎ足で付け加えておけば、この「異常性」の領野が形成される過程において重要なキーワードとなるのが、本講義においてフーコーが提示している「正常化=規範化」(ノルマリザシオン)のテクノロジーである。

まずフーコーは一月八日の開幕講義において、刑事精神鑑定書を紹介しながら、「精神鑑定は、法律によって規定されたものとしての犯罪に、犯罪とは別のものを重ね合わせることを可能」[7]にすると述べる。犯罪とは別のもの、それは一連の行動や存在様式、すなわち犯罪の原因、その起源、その動機、その出発点として提示されるもの、等々。精神鑑定の言説は、これらのファクターを司法的実践において犯罪に重ね合わせることで「二重化」するのだ。念を押しておけば、ここで起こっていることは、司法の実践における何か根本的な変革や置き換えの作用――別の舞台を作り出すこと――ではない。そうではなく、それは相次ぐ分身の導入、言い換えれば同じ舞台の上での諸々の要素の二重化なのである[8]

フーコーは続ける。十八世紀末以来の刑法によれば、処罰されるのは法律によって定義された違反行為のみであり、同時に法律は問題の行為より以前に制定されたものでなければならない(刑法の不遡及の原則)。しかし精神鑑定によって新たなタイプの対象が出現する。それは、「心理的未熟性」、「ほとんど構造化されていない人格」、「現実に対する不適格な判断」などといった存在様式を備えた一人の個人である。ここにおいて現れているのは「犯罪者」ではない。というのも、それらの存在様式は法律に違反するものではないからだ。代わりにここに現れているのは、「非行者」、「異常者」、「危険人物」といった諸々の逸脱者から成るタイプなのである。

要するに、精神鑑定は、犯罪の心理学的かつ倫理的な分身の構成を可能にする、ということです。つまり、精神鑑定は、法典に明記されたものとしての違反行為をそれとして認めず、その背後に、弟あるいは妹のようにそれに似ている分身を、もはや法律が定める違反行為としてではなく、生理学的、心理学的、ないしは道徳的ないくつかの規則からの逸脱として、出現させるのです。[9]

彼らは、責任ある法的主体ではなく、リスクという観点から、すなわち社会にとって「危険」な人間であるか否かという観点から分析と解釈の対象となるのである[10]。社会は異常者たちから防衛されなければならない。かくして、「正常化=規範化」の権力は、潜在的な「危険」という次元に介入する権力として、司法的権力とも医学的権力とも区別される。そして、この「正常化=規範化」の権力にセクシュアリティが適用されたとき、そこに倒錯者というカテゴリーが新たに登場してくることになる。

十九世紀の同性愛者は、一個の登場人物となった。一つの過去と一つの歴史と一つの少年期であり、一つの性格、一つの生の形態なのだ。一つの形態学(モルフォロジー)でもあって、そこには一つの露骨な解剖学と、ひょっとして一つの神秘的な生理学が伴っている。[11]

潜在的な「危険」と結びつく形で個人の身体に登録されたセクシャリティは、彼のあらゆる行動様式にとっての「神秘的な」原理=基質として書き込まれる。それは彼自身からはどこまでも隠されている存在論的な「秘密」、だが同時に彼の基質と分かちがたく結びつくことで、あらゆる機会に自らを露呈してしまうような一つの「秘密」なのである。「秘密」、それは異形の、危険な、当人には如何ともし難い自動的な「自然/本性」(nature)であると同時に、主体に向かって一つの真理=知を産出する。個人は今やセクシャリティという真理陳述の審級に向かって投げ返される存在となる。権力、司法、真理が構成する三角形の内側に私達は閉じ込められる。

かくして、「秘密」は他者によって徹底的に解釈されなければならないもの=徴(しるし)となる。精神医学によって、精神分析学によって、生物学によって、解剖学によって、生理学によって、優生学によって、等々。「真理は、語る者においては確かに現前しているが不完全であり、自分自身に対して盲目であって、それが完成し得るのは、ただそれを受け取る者においてのみである。」[12]

解剖政治学は、自己の放棄と他者による解釈というエコノミーのもとで作動する。そう、ここにはフーコー晩年のキータームである「パレーシア」の問題系が既に見え隠れしている。

だが、いささか道草を食いすぎたようだ。そろそろ今回の本筋であった(はずの)「肉」の主題に向かって急ぎ足で旋回し直すこととしよう。

 

[1] 『ミシェル・フーコー講義集成〈5〉異常者たち (コレージュ・ド・フランス講義1974‐75)』ミシェル・フーコー、慎改 康之 (翻訳)、357頁~363頁

[2] 同上、221頁~222頁

[3] 同上、183頁

[4] 同上、184頁

[5] 同上、185頁

[6] 『知への意志 (性の歴史)』ミシェル・フーコー、渡辺守章(訳)、176頁

[7] 『ミシェル・フーコー講義集成〈5〉異常者たち (コレージュ・ド・フランス講義1974‐75)』、前掲書、17頁

[8] 同上、17頁

[9] 同上、19頁

[10] 同上、131頁

[11] 『知への意志 (性の歴史)』、前掲書、55頁

[12] 同上、87頁