4 バロウズとフーコー(中編)──デスバレー、1975年

1984年6月29日早朝、太陽はまだ姿を見せていない。だがサルペトリエール病院の裏手にある小さな庭には、すでに数百名の人々が短い別れの儀式のために集まっていた。長い沈黙のあと、ジル・ドゥルーズのかすれた声が、『快楽の活用』の序文の一節を朗読しはじめる[1]

私を駆り立てた動機はというと、それに反して、ごく単純であった。ある人々にとっては、私はその動機だけで充分であってくれればよいと思っている。それは好奇心だ――ともかく、いくらか執拗に実行に移してみる価値はある唯一の種類の好奇心である。つまり、知るのが望ましい事柄を自分のものにしようと努めるていの好奇心ではなく、自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心なのだ。もしも知への執拗さというものが、もっぱら知識の獲得のみを保証すべきだとするならば、そして、知る人間の迷いを、ある種のやり方で、しかも可能なかぎり容認するはずのものであってはならないとするならば、そうした執拗さにどれほどの価値があろうか? はたして自分は、いつもの思索とは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか、そのことを知る問題が、熟視や思索をつづけるために不可欠である、そのような機会が人生には生じるのだ。自分自身とのこのような戯れは舞台裏に隠されてさえいればいい、とか、結果が出てしまえばおのずから消え去る準備作業の、せいぜい一部分なのだ、とかいずれ言い出す人もあるにちがいない。しかし、哲学――哲学の活動、という意味での――が思索の思索自体への批判作業でないとすれば、今日、哲学とはいったい何であろう? 自分がすでに知っていることを正当化するかわりに、別の方法で思索することが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとする企てに哲学が存立していないとすれば、哲学とは何であろう?[2]

それから数時間が経ち、フーコーの遺体はヴァンドゥーヴル・デュ・ポワトゥーに運ばれ、近親者と村人の見守るなか埋葬された[3]。棺の上には一束の薔薇の花が置かれていた[4]

バロウズはタンジールに滞在する過程において、権力の〈外部〉は存在しない、ということをその肌身で感じ取ったはずだった。しかし、そのことはバロウズにとっては造作もなく理解できた。

「第二回」で見たように、バロウズが「コントロール」と呼ぶ図式は、常に「関係」、たとえば麻薬の密売人と常習者との関係であって、それも一方的な関係というよりは、常習者側の欲望=需要が供給を生み出し、その供給が翻って常習者の欲望を再帰的に増幅させることで主体化=従属化させるという、すなわち麻薬におけるディマンドサイド経済学のフィードバック・ネットワークが形成されているのであって、だから本当に問題なのは「上=支配者」ではない。いみじくも、バロウズは『裸のランチ』の序文で次のように書いていた。

もし一連の数字のピラミッドを破壊しようと思ったら、底の数字を変えるか破壊すること。もし麻薬ピラミッドを破壊したければ、ピラミッドの底辺からはじめなくてはならない。つまり、街頭の麻薬中毒者から。英雄気取りで「てっぺんの連中」をつつきまわすのはやめることだ。そんな連中はすぐにでも首をすげ替えられるのだから。麻薬方程式において、唯一すげ替えることができない項は、生きるのに麻薬がどうしても必要な街頭の中毒者なのだ。麻薬を買う中毒者がいなくなれば、麻薬の密売もとまる。麻薬のニーズがある限り、誰かがそれを供給する。[5]

フーコーも同様に、権力の外に出ることはできない、とにべもなく主張する。権力は遍在する。権力は下からやってくる、等々……。権力は、〈否〉を言う権力、何かを禁止し、抑圧し、否定する力だけではない。それどころか、権力は何かを生産し、〈肯定〉し、行動や選択の可能性を作り出し、主体を生成する。それは自由が行使される際の諸条件さえ作り出す。よって、権力は自由と対立しない。自由は権力の生む効果の一つにすぎない[6]。麻薬中毒者はどこまでも自由である。自身が麻薬と売人によって主体化=従属化されていることに気づくまでは――。

従って、フーコーにおける対抗政治のモデルは、「解放」ではなく「抵抗」となる。遍在する権力の網の目のネットワークの只中に抵抗拠点を見出すこと。

――権力のある所には抵抗があること、そして、それにもかかわらず、というかむしろまさにその故に、抵抗は権力に対して外側に位するものでは決してないということ。人は必然的に権力の「中に」いて、権力から「逃れる」ことはなく、権力に対する絶対的外部というものはない。(中略)権力の関係は、無数の多様な抵抗点との関係においてしか存在し得ない。後者は、権力の関係において、勝負の相手の、標的の、支えの、捕獲のための突出部の役割を演じる。これらの抵抗点は、権力の網の目の中には至る所に現前している。権力に対して、偉大な〈拒絶〉の場が一つ――反抗の魂、すべての反乱の中心、革命家の純粋な掟といったもの――があるわけではない。そうではなくて、複数の抵抗があって、それらがすべて特殊事件なのである。可能であり、必然的であるかと思えば、起こりそうもなく、自然発生的であり、統御を拒否し、孤独であるかと思えば共謀している。這って進むかと思えば暴力的、妥協不可能かと思えば、取引に素早い、利害に敏感かと思えば、自己犠牲的である。本質的に、抵抗は権力の関係の戦略的場においてしか存在し得ない。[7]

それでは、遍在する権力に対する有力な抵抗とは具体的にどのようなものがあり得るのか。デイヴィッド・M・ハルプリンは、いくつかの例を挙げている。たとえば、「創造的な盗用と再記号化」、「盗用と演劇化」、「暴露と脱神秘化」など[8]。深くは立ち入らないが、これらは、いずれも言語や記号のコードをパロディや転用によって意味内容を異化させたり機能不全に陥らせることを目的としている。

たとえば「クィア」(変態)といった本来は侮蔑的な意味内容を持つ記号に対して、もう一つの対抗的な記号を持ち出してくるのではなく、それに寄生して、ハッキングを仕掛け、本来のコードを異化させるという初期クィア理論に顕著であった戦略も、これらに含まれるだろう。この点についても、フーコーは正しく以下のように述べる。

一方に権力の言説があり、それに対峙して、他方に権力に対抗するもう一つの言説があるのではない。言説は、力関係の場における戦術的な要素あるいは塊である。同じ一つの戦略の内部で、相異なる、いや矛盾する言説すらあり得る。反対に、それらの言説は、相対立する戦略の間で姿を変えることなく循環することもあり得る。[9]

権力の只中にこそ抵抗拠点を探し求めなければならない。バロウズにとっては、ヘロイン中毒から脱するために受けた麻薬治療――アポモルフィン療法がそれであったかもしれない。

ロンドンのジョン・ヤーバリー・デント医師は長年アルコール依存症の治療に携わってきた専門家で、四十年にわたる経験からアポモルフィンという薬が依存症の治療に有効であることを突き止めていた。アポモルフィンは、モルヒネから派生して作られるモルヒネ化合物で、これが体の代謝システムに関わっているらしいことを発見したデント医師は、アポモルフィンをヘロイン依存症患者の治療に応用しはじめた。[10]

治療法はシンプルである。禁断症状を抑えるためのモルヒネの投与量を急激に減らしていく一方で、モルヒネと分子構造がきわめて似通った大量のアポモルフィンを投与して代替していくのである。脳のモルヒネ受容体に、きわめて似通った構造をもつアポモルフィンをあたえることで脳をだまし、受容体をアポモルフィンでふさいでしまう。しかしアポモルフィンはモルヒネと異なり快楽をもたらさず、かわりに依存性もない。そして脳がモルヒネをもらったと勘違いしている間に体の代謝システムは、二週間ほどかけて徐々にモルヒネなしで機能する状態にもどっていく[11]

毒をもって毒を制す、ではないが、このモルヒネをハッキングすることで得られる異化されたモルヒネ化合物によって依存症に「抵抗」するというアポモルフィン治療法がバロウズに劇的に機能したのだ。結果、見事に麻薬中毒から足を洗うことに成功したバロウズは、タンジールに戻るやいなや猛烈な勢いで小説の執筆をはじめる。それは後に『裸のランチ』として日の目を見ることになる。

抵抗としての言説は、異化と現実に対する反作用を、――効果(エフェクト)を引き起こす。筆者は「第二回」でバロウズの戦略として、「武器としてのテクスト」を採り上げた。念の為、再度確認しておこう。

バロウズはポストモダニズムにおける表象的リアリズムからどこまでも逸脱していくだろう。というのも、彼はテクストではなく武器を作っていたのだから。テクスト内の物語に武器が現れるということではない。それは武器の表象であって武器それ自体ではない。そうではなく、バロウズはまさしく武器それ自体をタイプライターを用いて製造していたのだ。それは世界に介在し、そして世界を変容させる。変容させることができなければ、武器に意味などない。バロウズはどこまでもプラグマティックな作家だった。[12]

これは正しくフーコーも採用していた戦略であった。フーコーはみずからのテクストを「爆弾」と呼び、みずからを「花火師」と呼ぶことに躊躇しなかった。

わたしのディスクールは一つの道具のようなもの、むしろ一つの武器のようなものなのです。あるいは火薬の詰まった袋のようなもの、火炎瓶のようなものなのです。最初の譬えに戻るならば、これはある花火師(アルティフィシェ)の物語なのですから……。[13]

爆弾は、真理のゲームの中に投げ込まれ、それ自体を現実化させるフィクションとして炸裂する。フーコーは、「私はこれまでに虚構以外のものはいっさい書いたことはありません」とまで発言している。

虚構(フィクション)の問題についていいますと、これは私にとって非常にたいせつな問題です。私はこれまでに虚構以外のものはいっさい書いたことはありません。はっきりとそう自覚しております。が、だからといってそれが真理の外にある、というつもりはない。虚構を真理の中で働かせ、虚構の言説をもって真理の効果をもたらす可能性はあると思っています。いまだ存在しない何ものかを真理の言説が誘発し、つくりあげ、したがって「虚構をつくりだす」、そういう可能性はあると思います。歴史に真理をあたえる政治的現実から出発して歴史を「つくりだし」、歴史的真理から出発して、いまだ存在しないひとつの政治を「つくりだす」のです。[14]

フーコーのこうした態度を、単なるポストモダン的言辞を連ねた相対主義的戦略と批判する向きもあるかもしれない。現にこうした戦略は、今ではポスト・トゥルースとして、虚構の言説の反乱を招いているではないか、と。

すべてが真理を巡る言語ゲームに過ぎないのであれば、何が真で何が偽かを分かつ超越的な審級は存在しないということになる。それは抵抗を生む代わりに、一種の閉塞感をも生み出していく。とりわけ、トランプ政権の誕生を見た現在にあってはとくに。

すべては権力関係(権力は遍在する)であり、すべては真理を巡る言語ゲームにすぎないとしたら、我々に出口は残されていないということになる。もちろん、フーコーも再三そのように言ってきた。だが、やはりそこには袋小路しかなかったのではないか、と問うのはやはりジル・ドゥルーズである。

『知への意志』に続く長い沈黙のあいだに一体何が起こったのだろうか。たぶんフーコーは、この本に結びついたある種の誤解を感じていた。彼は、権力関係の中に閉じこもってしまったのではないか。彼は自分自身に、次のような反論をむける。「私たちは、一線を越えること、別の側に移動することがやはりできないままでいる……相変わらず同じ選択、権力の側に、権力が言うこと、言わせることの側にある……」。[15]

いかに「線を越える」か。そして、いかに外の力としての生に到達するか。ドゥルーズは、フーコーの八年に及ぶ沈黙の中に、決定的な転回の音を聞き取ろうとした。ドゥルーズにとって、『快楽の活用』以降の、生の技法と身体の快楽をテーマとしたフーコーの一連の仕事は、まさに「線を越えること」、すなわち外の力としての生に関わってくるものとして捉えられた。

だが、このことは『知への意志』の最終章においてすでに部分的に予告されていた、とも言える。そのある箇所で、フーコーは次のように書き付けている。

もし権力による掌握に対して、性的欲望の様々なメカニズムの戦術的逆転によって、身体を、快楽を、知を、それらの多様性と抵抗の可能性において価値あらしめようとするなら、性という決定機関からこそ自由にならなければならない。性的欲望の装置に対抗する反撃の拠点は、〈欲望である性〉ではなくて、身体と快楽である。[16]

もはや権力に対する抵抗の拠点は、虚構の言説でも爆弾としてのディスクールでも、あるいは創造的な盗用と再記号化でも、盗用と演劇化でも、暴露と脱神秘化でもない。権力に対する抵抗の拠点、それは身体と快楽である。

そして、今や冒頭のフーコーの葬儀に戻る。ドゥルーズが朗読する『快楽の活用』。「はたして自分は、いつもの思索とは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか」。「自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心」。そう、たしかにフーコーは「外の力としての生」にアクセスしていたのだ。しかし、それはどのようになされたのか? 言い方を変えれば、転回はフーコーの内部においてどのように行われたのか? 手がかりは意外なところから現れた。

2019年3月、唐突に一冊の書物がアメリカで出版された。題名は『Foucault in California』。著者はSimeon Wade。1975年におけるカリフォルニアはデスバレーでのフーコーのLSD体験を同行者の著者がレポートした書物である。これの元となった121ページにおよぶタイプ原稿は、ジェイムズ・ミラーによる評伝『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』(1993)の中でその内容の一部がすでに明らかにされていたが、それ以降さほど顧みられることもなかった。たとえば、1993年に出版された伝記『The Lives of Michel Foucault』では、著者のDavid Maceyはフーコーのデスバレー・トリップについてはっきりと懐疑的な姿勢を示している[17]。だが現在では、デスバレーでの出来事が「本当」に起こった事実であったことは、数々の証拠(フーコーの手紙、デスバレーで撮られた写真、等々)によって立証されている。よって、残された問題は、フーコーのLSD体験が、彼のその後の思想形成にどのような(直接的/間接的)影響を与えたのか、という点である(ちなみに、フーコーはデスバレーでの体験を「わが人生最大の経験」とまで言っていた)。

我々は向かわなければならない。あの場所へ。あの砂漠へ。デスバレー、ザブリスキー・ポイント、1975年。

[1] 『ミシェル・フーコー伝』D・エリボン、田村俶訳
[2] 『性の歴史Ⅱ 快楽の活用』ミシェル・フーコー、田村俶訳
[3] 『ミシェル・フーコー思考集成Ⅰ』所収、「年譜」ダニエル・ドフェール、石田英敬訳
[4] 前掲書、エリボン
[5] 『裸のランチ』河出文庫、W・バロウズ、鮎川信夫訳
[6] 『聖フーコー―ゲイの聖人伝に向けて』デイヴィッド・M. ハルプリン、村山敏勝訳
[7] 『性の歴史Ⅰ 知への意志』ミシェル・フーコー、渡辺守章訳
[8] 前掲書、ハルプリン
[9] 前掲書、『性の歴史Ⅰ 知への意志』ミシェル・フーコー
[10] 『ライティング・マシーン――ウィリアム・S・バロウズ』旦敬介
[11] 前掲書、旦
[12] http://s-scrap.com/3033
[13] 『わたしは花火師です―フーコーは語る』ちくま文庫、ミシェル・フーコー、中山元
[14] 『ミシェル・フーコー思考集成Ⅵ』所収「197 身体をつらぬく権力」
[15] 『フーコー』河出文庫、G・ドゥルーズ、宇野邦一訳
[16] 前掲書、『性の歴史Ⅰ 知への意志』ミシェル・フーコー
[17] Blowing the Philosopher’s Fuses: Michel Foucault’s LSD Trip in the Valley of Death By James Penner. https://lareviewofbooks.org/article/blowing-the-philosophers-fuses-michel-foucaults-lsd-trip-in-the-valley-of-death