2 加速主義はオルタナティブな近代を志向する

テオドール・アドルノは、1941年に発表したエッセイ「「没落」後のシュペングラー」の中で、一時期ヨーロッパで注目されたオスヴァルト・シュペングラーの著作『西洋の没落』は、その後急速に忘れられていったと述べている[1]

『西洋の没落』第一巻は、第一次世界大戦終結の年である1918年に刊行された。総計2000万人の死者をヨーロッパにもたらしたこの戦争は、ときの教皇ベネディクト15世をして「文明ヨーロッパの自殺」と言わしめた。シュペングラーの『西洋の没落』は、この「文明ヨーロッパの自殺」を解明してくれる書として盛んに読まれ、はからずも当時の大ベストセラーとなった[2]

シュペングラーがこの書で示した西洋文明の未来についての予言とは、一言でいえば不可避的な崩落である。彼は従来の直進的な歴史観、つまりヨーロッパ文明は啓蒙の光に導かれながら絶えることなく発展していく、といった進歩史観に対して、循環的な歴史観を提示する。

歴史はさながら植物が花を咲かせ、そして枯れていくように、すなわち春(誕生)―夏(発展)―秋(成熟)―冬(死)の循環があるように、諸文化もこの循環の「運命」から逃れることはできない。歴史を「生きた自然」と捉えるシュペングラーは、ここから直ちに西欧文明の差し迫った破局=カタストロフィを声高に予言したのだった[3]

しかし、冒頭のアドルノの言によれば、シュペングラーは「その破局の到来する速度でもって忘れられた」[4]。西洋は急速に『西洋の没落』から目を背けた。

もっとも、この情況は日本も例外ではなかったようである。「「没落」後のシュペングラー」を訳した渡辺裕邦によれば、シュペングラーの名は第二次世界大戦前の日本でも一時期かなり有名だったが(村松正俊訳の『西洋の没落』の初版は1926年に出版されている[5])、敗戦後に古書店で売られているのをよく見かけた記憶があるという。

その頃にはたいていの日本人は英米撃滅の悪夢から醒めて、西欧文明の技術的成果のおとなしい受益者になるか、ソヴィエトも含めた欧米社会の文化的卓越性を説く説教者になりすますかのどちらかだったから、西欧文化の没落を予言するシュペングラーの著作を詳細に検討してみようと思う者はもう一人もいなかった[6]

たしかにシュペングラーは「一度」忘れ去られた。だが、近年の欧米では「西洋の没落」というフレーズ乃至テーマは一種のヒット・チューンと化している。書店に行けば『西洋の自死』や『綻びゆくアメリカ』、『民主主義の死に方』といったタイトルの翻訳書が並んでいるのを見かけるだろう。日本においても、村松正俊訳の『西洋の没落』が2017年に中公クラシックスに入り見事(?)復刊を遂げた。

この、アドルノも予想しえなかったであろう一種のシュペングラーの「回帰」とも言える現象は、もちろん西洋が近年被った二つのトラウマ的出来事――すなわち9・11と世界金融危機にその原因の一端を求めることができる(もちろん、白人出生率の低下や移民の増加などの問題も根深くあるが)。

2004年、ピーター・ティールは、ルネ・ジラールを囲んで開かれたスタンフォード大学のシンポジウム「政治と黙示録」において、「シュトラウス主義の時代」と題した発表を行った。

このシンポジウムは9・11以後におけるアメリカ政治の再検討をテーマにしていたが、ティールは自身の発表の中で、9・11という出来事は西洋がそれまで培ってきた近代の遺産であるところの「啓蒙」の完全な失効を決定づけるものであった、という診断を下した。一言で言えば、「啓蒙」とそれに伴う「民主主義」というプログラムは、西洋にグローバル市場という覇権をもたらしたが、それは翻ってイスラームという西洋の<外部>からの脅威を回帰させる結果ともなった。ここにおいて、西洋近代はひとつのジレンマに直面する。ティールからすれば、「西洋の没落」は近代に内在する矛盾から導かれる必然的な帰結と映っていた。

ここから、西洋を「没落」から救うための処方箋として、「啓蒙」というプログラムに組み込まれていた価値観――すなわち「ヒューマニズム」や「平等」といった偽善的普遍主義の一時的な停止としての「例外状態」(シュミット)における「決断主義」をティールは称揚することになるだろう。

「自由と民主主義がもはや両立するとは私は信じていない」――ティールによるこのテーゼは、西洋自身による「近代の超克」の試みを象徴するものとして受け止められる必要がある。西洋が没落から救われるには、西洋自身が「近代」を超克しなければならない。

かつて日本において、より具体的には太平洋戦争勃発直後の昭和17年、雑誌『文學界』が「近代の超克」座談会を開き、当時の日本を代表する知識人たちが「近代」を超克しようと試みたことがあったが、新反動主義はさながら西洋自身が「近代」を精算し、そこからの「超克」を目指すプロジェクトであると言える。西洋が覇権を取り戻すためには「近代」それ自体を乗り越えなければならない。言い換えれば、「近代」の遺産から何を捨て、何を受け継げば西洋は立ち直れるのか。だから彼らにとって、問いは常に「近代」そのものに立ち返っていく。

したがって、新反動主義、または後述する加速主義にとって問題になるのは「近代の終わり」(ポストモダン)ではなく「近代の再構築」(オルトモダン)である。あるいは、仲山ひふみ氏の表現を借りれば「ポストモダンからのイグジット」[7]の試みである。

加速主義が推し進めようとしているものは、より近代的な未来――いいかえれば、新自由主義が生み出すことのできない別の[=オルタナティブな]近代性なのである[8]

加速主義には「大きな物語」の復権への志向性が明らかに存在する。現在という「近代の終わり」(ただし彼らからすれば「近代の終わり」とは「近代の末期的状態」の謂いに他ならないのだが)からイグジットし、あり得たはずのもう一つの「近代」=「未来」を取り戻すこと。この「失われた未来」という加速主義の試みに必然的に伴うノスタルジーの気配は、スルニチェクのテキストに独特の切迫した楽観的ヴィジョンをもたらすだろう。

たとえば、スルニチェクは現在ヘゲモニーを握っている新自由主義に対して、20世紀半ばの社会主義を乗り越えるオルタナティブを推進する必要性を訴える。カウンター・ヘゲモニーとしてのオルタナティブな「大きな物語」を構築すること。それは同時に彼らにとって、未来そのものの「取り戻し」でなければならなかった。

新たな左翼のグローバルなヘゲモニーを生み出すためには、今日では失われてしまっている可能なる未来の数々を取り戻すこと、もっとはっきりいえば、未来そのものを取り戻すことがぜひとも必要なのである[9]

またスルニチェクは、マルクスは近代性に抵抗した思想家ではなく、(資本主義という)近代性の内側で分析と介入を試みた思想家であったと述べている。マルクスにとって、資本主義は腐敗と搾取にまみれたシステムであったが、彼は同時にその時代のもっとも進んだ経済システムとしてそれを捉えていた。したがって、資本主義の成果は抹消されるべきでなく、むしろそれを保ったまま、しかし資本主義的価値形態の拘束や制約を超えて、未来=もう一つの近代に向けて加速されなければならないのである[10]

さて、この「もう一つの近代」(オルトモダン)であるが、これをどのようにイメージするかという点において、新反動主義と(左派)加速主義はお互いの袂を分かつだろう。さしあたり、新反動主義も加速主義も近代の「超克」を同じく志向する。しかし、超克された近代をその後どのように「再構築」するかという段になると、それぞれが全く異なるヴィジョンを描くのである。たとえば、新反動主義においては、それはCEOが統治する企業国家が乱立するポスト封建主義的世界として幻視される。それに対して、スルニチェクらの左派加速主義は、資本主義によって制限されてきたテクノロジーの潜勢力に注目する。スルニチェクらは未邦訳『未来を発明する』の中で、スピノザのテーゼをパラフレーズしながら、「私達はいまだに社会技術的身体(sociotechnical body)が何を成しうるのかを知らない」と述べてみせた[11]

ところで、彼らが「近代の超克」を試みる際に近代テクノロジーというファクターにとりわけ着目したのは示唆的に思える。加速主義が登場するほぼ100年前の20世紀初頭、ということはシュペングラーが『西洋の没落』を脇目も振らず執筆していたのとほぼ同時期ということになるが、世界の三つの異なる地域において、同じく「近代」を乗り越えんと試みる異様な思想が蠢動を始めていたのである。

そのひとつは、言うまでもなくイタリア未来派である。絵画、彫刻、詩、音楽、建築など多様な分野にまたがって展開されたこの芸術運動は、スピードと流線形、そして大衆と流動性と情報速度とテクノロジーの強度を芸術に持ち込んだ。未来派による無知とロマンティックな陶酔を伴う近代テクノロジーに対する礼賛と人間性の拡大=超人の誕生に対する予言的期待は、やがて「戦争――世界で唯一の健康法」というスローガンとともに第一次世界大戦の狂乱の渦に溶解していった。彼らにとって戦争は閉塞した古臭い近代の遺産を一掃する絶好の機会として映ったのだった。以降、未来派はムッソリーニのファシスト党へ接近していくことになる[12]

こうした未来派による「政治の美学化」を批判したのがヴァルター・ベンヤミンであったことはよく知られている。

人類の自己疎外の進行は、人類が自分自身の絶滅を第一級の美的享楽として体験するほどになっている。これがファシズムが進めている政治の耽美主義化[美的知覚化]の実情である。このファシズムに対してコミュニズムは、芸術の政治化をもって答えるのだ[13]

だが一方で、未来派を代表する詩人であるマリネッティを評価するコミュニストもいた。それはアントニオ・グラムシである。グラムシは、『革命家マリネッティ?』と題した論文において、マリネッティをある意味ではボリシェヴィキ党員よりも優れた革命家として称賛している。というのも、マリネッティは誰にもましてブルジョワ文化=文明の破壊を試みたからだった。グラムシにとって、この破壊は革命の第一段階であった。グラムシは言う。「未来主義者たちは彼らの領域、つまり文化の領域において、革命的である」[14]

文化的ヘゲモニーという概念を練り上げ、現在におけるスルニチェクら左派加速主義や、あるいはシャンタル・ムフら左派ポピュリズムにも多大な霊感を与えているグラムシが未来派を評価していたという事実は興味深い。このことについての詳細な検討は今は措くが、しかしこのことは取りも直さず20世紀初頭に世界各地で胚胎した「近代の超克」プロジェクトの二つ目とも関わってくるだろう。

二つ目、それはすなわちロシア宇宙主義とそれに続くボリシェヴィズムである。ロシア宇宙主義については拙著『ニック・ランドと新反動主義』の中で概略的な紹介を試みたので、このテキストではボリシェヴィズムに焦点を当てる。

佐藤正則は『ボリシェヴィズムと<新しい人間> 20世紀ロシアの宇宙進化論』の中で、20世紀初頭のボリシェヴィキによる独自の世界観の構築を、いみじくも彼らなりの「近代の超克」の試みであったとする見方を提起している[15]。佐藤によれば、ボリシェヴィズムは当時の西欧に生じた最先端の哲学(たとえばエルンスト・マッハの主客一元論)、科学、社会思想を取り込みながら、しかしそこから明らかに逸脱するような特異な世界観を構築した。たとえばその内のひとつに、人間を生物学的に作り変えることで新たな人間を誕生させようとする実験を挙げることができる[16]

ボリシェヴィズムは、当時における近代的な知の閉塞状況を見て取り、デカルトの物心二元論、カントの現象主義、そして近代的な自我の概念に端を発する「個人主義」の克服を目指した。わけても近代的個人主義に対する最大の批判者であったボリシェヴィキの理論家アレクサンドル・ボグダーノフは、人間を人間たらしめているのは、自然の支配とみずからの身体の拡張の志向、そしてそのための能動的な実践にほかならないと主張した[17]

個人主義と物心二元論を克服するために、ボグダーノフは物理的世界は社会的に組織化された経験であるという、共同主観的な社会的プロセスとして認識作用を捉え直してみせた。物理的世界は社会と集団の協働によってつくられる。そこにおいては、個人の自我も社会的な構築物とされる。さらにボグダーノフは、調和的組織化されるのは同時代の人々の経験だけではなく、これまでに存在した全人類の協働と経験を包含していると主張する。彼の理路を逐一追うことは紙幅の都合上避けるが、乱暴にまとめればボグダーノフにとっては、時間、空間、因果律を含めた物理的世界の総体はすべて社会的かつ歴史的構築物となる。そしてそれは、確固とした普遍的法則などではなく、人々の能動的かつ協働的な労働によって変更可能なものとみなされた[18]

ボグダーノフの途方もない思弁は、やがて社会を共同性の意識によって結ばれたひとつの有機的なシステム――すなわち生命体の一種とみなす発想にいたる。ダーウィンから影響を受けていたボグダーノフは、社会それ自体に生存闘争としての「淘汰」の法則を適応させる。つまり、社会もまたひとつの生命体である以上、それはさながら生物のように段階的に「進化」を遂げていくのだ。ここに至って、ボグダーノフの誇大妄想的な構想は、物質界も精神界も含めた全宇宙を一元論的に包括した宇宙進化論へとまとめ上げられる[19]

したがって(?)、ボグダーノフが1904年の著書『新しい世界』において、ニーチェの「人間は超人の架け橋である」というエピグラフを掲げながら、人類が生物としてさらに進化し、人間の意志と労働が外的自然を完全に支配するというヴィジョンを打ち出していてもまったく不思議ではない。生命と宇宙は美しき調和的発展という最終目的に向かって進んでいく。惑星規模の機械化と生産ならびに伝達手段のオートメーション化によって、階級は消滅する。いまや人類は外的自然を支配下に置くが、それはもちろん自身の身体にも及ぶ。すなわち、実質的な「不死」の獲得である[20]

ボグダーノフは自身が執筆した1908年のユートピア小説『赤い星』の中で、地球人よりも早く共産主義社会を実現させた火星人社会について描写している。火星人は「集団的身体」と呼ぶべきものを獲得し、「生命の更新」と呼ばれる互いの血液交換=遺伝子交換によって生命力を伝えあっている。やがて、全人類が文字通りの血縁関係となり、真の同志的関係にもとづく社会が完成するという。

このヴィジョンを実現化させるためであろう、ボグダーノフは晩年、輸血研究所の所長として、この血液交換の実験に没頭し、ついにみずからの身体を人体実験に捧げて死んでいった[21]

余談だが、ピーター・ティールは自身の寿命を延ばすために若者の血を輸血するパラビオシス(Parabiosis)治療に関心を抱いてるという。周知のように、ティールはさまざまなバイオテック系のスタートアップに出資を行っている。なお、ティールは(万が一の)死に備えて、人体冷凍保存してくれるようアルコー延命財団と契約を結んでいる[22]

念の為もうひとり、プロレタリア詩人を代表する人物アレクセイ・ガスチェフの世界観を確認しておこう。アメリカ式のテイラーシステムをボリシェヴィズムに取り入れた功績も讃えられるガスチェフは、プロレタリアートの感情を同質化させ集団的な自我を生み出すための重要な要素として、工場における機械的なリズムに着目していた[23]

また、機械をきわめて美的なものと捉えていたガスチェフは、「われらはともに」という詩の中で、次のように書いている。

どこに機械があるのか、どこに人間がいるのかわからない。われらは自分たちの鉄の同志と溶けあい、ひとつとなって歌い、ともに新しい運動の魂をつくりあげ、そこでは人間と機械とは分かつことはできない[24]

この詩で描かれた人間と機械が融合するヴィジョンは、佐藤も指摘するようにあたかもサイボーグのそれである。しかし、そこでの機械と人間の融合は、決してひとつの個体にとどまらず工場全体、さらにはそこから発展して惑星を覆い尽くす巨大な人間―機械の複合体(!)を形成するであろう。人間=機械=惑星の誕生……。ガスチェフは続ける。「世界の果てから果てまで数多くの心理的な流れがめぐっており、そうした流れにとってはもはや頭は何百万もあるのではなく、ただひとつの世界大の頭しか存在しない」[25]

ボグダーノフやガスチェフらのヴィジョンを荒唐無稽なものとして斥けるのは容易である。しかし、さしあたりイタリア未来派とロシア・ボリシェヴィズムが、近代の中にあってもうひとつの奇形的な(?)近代(=オルトモダン)の構築を志向する運動体であったことは押さえておく必要性があるだろう。彼らが生み出したもう一つの近代がどれだけ異形のものであろうとも、それもまた近代の内部から生まれてきたものであることに変わりはない。その意味では、これらの「近代の超克」から出てきた彼らの思想は、近代の望まれざる鬼子としてあった。

20世紀初頭に胚胎した「近代の超克」プロジェクトの三つ目は、ドイツにおける反動的モダニズムである。念のために確認しておくと、「反動的モダニズム」というタームは『保守革命とモダニズム』の著者ジェフリー・ハーフに拠る。

ハーフは、ワイマール共和国とナチ第三帝国期において、保守革命の文筆家やエンジニアの言説の間で、近代主義=モダニズム(啓蒙的理性、実証主義、科学、自由主義、議会主義、資本主義)を拒絶しながら、他方においてモダニズムの一産物である近代テクノロジーは礼賛しつつ受け入れる、という一見矛盾した主張が多く見られることに着目した。この彼らの言説に見られるパラドックスを説明するためにハーフが案出したのが「反動的モダニズム」というタームである[26]

ハーフの目下の狙いは、ホルクハイマーとアドルノによる『啓蒙の弁証法』の批判的乗り越えである。ホルクハイマーとアドルノによれば、「啓蒙」は必然的に神話に退化する。つまり、ドイツにおけるナチズムの台頭は、啓蒙主義に内在した必然的なプロセスであるとする見方を提示した。

それに対してハーフは、ドイツは決して「完全に」啓蒙されたわけではなく、部分的に啓蒙された状態にとどまっていた、と指摘する。ドイツ・ナショナリズムは、近代から「啓蒙」を選択的に排除していた。その代り、近代テクノロジーは選択的に受け入れた。ここに反動的モダニズムが胚胎する土台が存在する[27]

たとえば、ハーフが反動的モダニストの一人とみなすシュペングラーは、ニーチェの権力への意志に基礎を求めながら、ドイツのナショナリズムとロマン主義を近代テクノロジーと和解させることに貢献した。シュペングラーによれば、自然界の目に見えない過程を把握する科学理論は、宗教と同じような神秘的かつ魔術的な局面を備えているのだという。この「ファウスト的テクノロジー」は、自然を支配する力に到達しようとする意志を示している。人々は、物質的世界における観察と知覚からなる受動的立場から、物質的世界に対して能動的に変換と管理を行う立場に転じる[28]

やや余談になるが、上述した戦時期日本における「近代の超克」座談会において、下村寅太郎は近代科学における「実験」の魔術的な性格について発言している。

魔術といふものは自然的に存在しないものを現出せしめることを意図して居るもので、これが実験的方法の精神に連なるといふのは、実験といふのは自然を単にありのままに、純粋に客観的に観察することではなくて、自然に存在しないものを、人間の手を加へて実現させて見る。自然をそれの存在性に於て見るのではなく、それの可能性に於て見る。自然の内部を外化せしめて見る、さういふものが実験的方法の根本的精神であると思ひます。このやうな意味での実験的方法とマジックの精神が相結びついたと思ふのです[29]

下村によれば、近代科学の認識は客観的な観察、事物の直観ではなく、いわば「技術形成的認識」であるという。こうした世界に対して能動的に働きかけていく魔術的性格を基礎に置く下村の近代科学観は、シュペングラーをはじめとする反動的モダニストの近代テクノロジー観とも近い。

なお、こうしたテクノロジーにおける「魔術」的な力を文学の領域に転用してみせたのがウィリアム・バロウズのカットアップであることは論を俟たない。そもそも「テクノロジー」とは、古代ギリシアにおいては文法の体系的な知識を意味する言葉だった。文法の体系的な知識は、人が他人と関わるための「技術=政治」であり、すなわち言語を介して外界と関わるためのテクノロジーが文法だったのだ[30]

バロウズは、この外界と関わるためのテクノロジーとしての文法の魔術的な力を解放しようとする。90年代のCCRUはバロウズから霊感を受けてハイパースティションという「実験」を開始した。先の下村の発言の中の「自然に存在しないものを、人間の手を加へて実現させて見る。自然をそれの存在性に於て見るのではなく、それの可能性に於て見る」とは、まさしくハイパースティションの定義そのものに当てはまる。「それ自身を現実化させるフィクション」としてのハイパースティションは、「自然に存在しないものを、人間の手を加えて実現させて見る」魔術的な実験の層に関わっている。

閑話休題。ハーフは、他にも反動的モダニストの系譜として、エルンスト・ユンガー、カール・シュミット、ハンス・フライヤー、マルティン・ハイデガーなどを検証しているが、紙幅の関係上ここでは割愛する。いずれにせよ、ヒトラーの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスによる「鋼鉄のロマン主義」というキャッチフレーズにも現れているように、ナチズムはロマン主義もテクノロジーも拒絶しなかった。反対に、テクノロジーの魔術化によってこの二つは神秘的な結合を果たしたのだった。

余滴として、トマス・ピンチョンが『重力の虹』のエピグラフに掲げている、ナチスドイツのロケット開発者ヴェルナー・フォン・ブラウンの言葉を引いておこう。

自然は消滅を知らず、変換を続けるのみ。過去・現在を通じて、科学が私に教えてくれるすべてのことは、霊的な生が死後も継続するという考えを強めるばかりである[31]

ブラウン博士は、敗戦後にアメリカに渡りアポロ計画を主導することになる。ブラウン博士とV2ロケットの「霊的な生」は今も生き続けている。だが、それはまた別の話。

最後に、冒頭のアドルノのエッセイに戻ろう。シュペングラーによれば、文明は植物のように繁茂してやがて衰滅に至る。その後のすべての形態があらかじめ胚珠の内部に書き込まれているように、歴史は常に没落を宿命づけられている。この歴史に内在する決定論的かつ不条理な力を、シュペングラーは簡潔に「霊性」と名付ける。あらゆる徹底的な霊化と生命化によって歴史は逆説的に「非人間化」される。シュペングラーの黙示録的世界においては、人間もまた始原の胚珠に書き込まれた植物の一種に過ぎない。

アドルノはそのような世界観に抗って、人間の「自由」を取り戻そうとするだろう。頽廃した荒野のなかで自由を求めるさまざまな力。

西洋の没落に対立するものは、復活した文化ではない。そうではなく、没落してゆく文化像のなかに言葉なく問いかけながら、しまい込まれているユートピアである[32]

【了】

[1] アドルノ『プリズメン』(ちくま学芸文庫)所収「「没落」後のシュペングラー」

[2] シュペングラー『西洋の没落Ⅰ』(中公クラシックス)所収「時代が生んだ奇書」板橋拓己

[3] シュペングラー、前掲書

[4] アドルノ、前掲書

[5] https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001778155-00

[6] アドルノ、前掲書所収「訳者解説」

[7] https://twitter.com/sensualempire/status/1137939471796543488

[8] 『現代思想 2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018』所収「加速派政治宣言」スルニチェク+ウィリアムズ、水島一憲+渡邉雄介訳

[9] 前掲書、スルニチェク+ウィリアムズ

[10] 前掲書、スルニチェク+ウィリアムズ

[11] Inventing the Future: Postcapitalism and a World Without Work, Nick Srnicek & Alex Williams

[12] 『未来派―Futurism』キャロライン・ティズダル + アンジェロ・ボッツォーラ

[13] 『ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味』 (ちくま学芸文庫)所収「複製技術時代の芸術作品」

[14] 前掲書、キャロライン・ティズダル + アンジェロ・ボッツォーラ

[15] 佐藤正則『ボリシェヴィズムと<新しい人間> 20世紀ロシアの宇宙進化論』

[16] 前掲書、佐藤

[17] 前掲書、佐藤

[18] 前掲書、佐藤

[19] 前掲書、佐藤

[20] 前掲書、佐藤

[21] 前掲書、佐藤

[22] https://www.vanityfair.com/news/2016/08/peter-thiel-wants-to-inject-himself-with-young-peoples-blood

[23] 前掲書、佐藤

[24] 前掲書、佐藤

[25] 前掲書、佐藤

[26] ジェフリー・ハーフ『保守革命とモダニズム』

[27] 前掲書、ハーフ

[28] 前掲書、ハーフ

[29] 『近代の超克』(富士房百科文庫)

[30] 福田和也『イデオロギーズ』

[31] トマス・ピンチョン『重力の虹』(新潮社)

[32] 前掲書、アドルノ