10 もうひとつの現実世界――ポスト・トゥルース時代の共同幻想(後編)

代替現実ゲーム(ARG)やネット探偵コミュニティは、プレイヤーたちが自発的にコミュニティを形成し、その中でひとつの目的に向かって集合的に知識を生み出していく、という点において、参加型文化の一種であるコンヴァージェンス・カルチャーに含めることができるだろう。『コンヴァージェンス・カルチャー』の著者ヘンリー・ジェンキンズによれば、コンヴァージェンス・カルチャーは以下のように定義される。

 私のいうコンヴァージェンスとは①多数のメディア・プラットフォームにわたってコンテンツが流通すること、②多数のメディア業界が協力すること、③ オーディエンスが自分の求めるエンターテイメント体験を求めてほとんどどこにでも渡り歩くこと、という三つの要素を含むものをいう。[1]

ジェンキンスは、自身のコンヴァージェンス・カルチャーの概念を練り上げる上で、フランスの哲学者ピエール・レヴィがサイバースペースの特性として与えた「集合的知性」というタームに多くを依拠している。レヴィによれば、インターネット上では人々は共有された目標や目的のために個々人の専門知を活用している。私たちはすべてを知り尽くすことはできないし、そんなことは不可能だ。ただ、私たち一人ひとりは何かを知っている。集合的知性とは、ヴァーチャル・コミュニティが各メンバーの所有している知識を組み合わせて活用する能力を指す[2]

ジェンキンスがコンヴァージェンス・カルチャーとして挙げている例のひとつに、CBSの人気リアリティ番組『サバイバー』(二〇〇〇)のネタバレコミュニティがある。『サバイバー』は、ジャングルなどの僻地に隔離された十数人の参加者たちが「トライブ」と呼ばれるグループに別れサバイバル生活を行いながら、最後のひとり「最強のサバイバー」を目指していくという、台本や筋書きのない(ことになっている)リアリティ番組。インターネット上には、番組の展開、具体的には誰が「勝者」になるのかをいち早く知ろうとするファンたちによるコミュニティが存在する。とりわけ「ネタバレ師(spoiler)」と呼ばれる者たちは、撮影クルーのベースキャンプを見つけるために衛星写真を使ったり、録画されたエピソードを一コマずつ分析して隠された情報を探すなど、結末を知ろうとするオブセッションに取り憑かれている。彼らは集合的知性によって番組より先に結末に到達しようと並外れた努力を行う。番組のエグゼクティブ・プロデューサーは、番組制作者とファンの間のこの競争が『サバイバー』の神秘性を生み出すと認めた上で、「『サバイバー』はいわばファンたちが解読をしようと挑戦する暗号コードのようなものでしょう」と指摘する[3]

実際、番組にはヒントとなる情報や、逆にネタバレ師を煙に巻くための偽の手がかりが散りばめられていた。番組自体が、推理と分析を促すように作られていたわけだ。さらに、番組制作者側がコミュニティの存在を認知しており、そこに積極的に働きかけを行っている可能性すら示唆されていた。たとえば、チルワンというユーザー名の、内部の人間にしかわからないはずの情報をリークするユーザーの登場は、コミュニティに活気と動揺をもたらした。チルワンの正体を巡って議論が争われたが、なかには内部関係者説やディレクター説も存在した。チルワンはコミュニティを活気づけるために番組側が送り込んだ人形遣いだったのだろうか。インサイダー情報を直接的あるいは間接的に入手する行為は「ソーシング(sourcing)」と呼ばれ、それが情報への特権的なアクセス権を有する一部のユーザーにしか不可能であるがゆえに議論の対象となっていた[4]

ジェンキンスは『サバイバー』のネタバレコミュニティを集合的知性の実践のひとつに位置づける。レヴィは集合的知性を、ネット時代における新たな民主主義の形態として称揚していた。彼にとって、知識コミュニティは民主的な市民の復権という課題の中心に据えられる。そこでジェンキンスは次のように問いかける。たとえば、こうした集合的知性が、テレビ番組ではなく政府を「ネタバレする」とすれば、どのような種類の情報を収集できるか想像してほしい、と[5]

もっとも、コンヴァージェンス・カルチャーには(当然といえば当然だが)ポジティブな面もあればネガティブな面もある。たとえば、Qアノンの人形遣いであるQは、まさに政府を「ネタバレする」ネタバレ師として匿名掲示板に現れたのだった。そう、彼は政府のインサイダー情報を握っていると主張していた。そもそもQというユーザーネームは、国家機密情報にアクセスするために必要とされる、アメリカ合衆国エネルギー省(DOE)のアクセス権限であるQクリアランスに由来する。つまりQは、みずからが最高機密情報にアクセス可能な連邦政府内のインサイダーであることをこの名前によって仄めかしていたわけである。Qは「ソーシング」行為によってみずからをコミュニティ内における特権的な位置に置く。

Qアノンの陰謀論は、その構造自体が代替現実ゲーム的であり、さらに言えばネットにおける参加文化、すなわちコンヴァージェンス・カルチャーを半ば意図的にハックしたものだった、とさしあたりは言えるだろう。Qの投稿の形式的特徴としてまず挙げられるのは、断片的で暗号化された文章、また情報を直接伝えるのではなく、「なぜ~なのか?」といった疑問形を多用した、オーディエンスに問いかけるようなスタイルだ。こうした、きわめて断片的、かつ暗号的で著しく解像度が低い投稿スタイルを、Q自身がいみじくも「パンくず」(crumbs)と表現している。断片的な「パンくず」の集合は、それを解釈する者たちによって「パン生地」へと生成されていく。Qアノンという陰謀論コミュニティに参加するプレイヤーたちは、Qの暗号的なメッセージ=「パンくず」を共同でひとつひとつリサーチして解き明かしていく。すると、点と点とが線で繋がり、その背後にある「大きな物語」、合衆国を脅かす巨大な陰謀が立ち現れてくる。その陰謀とは、ディープ・ステイト、すなわち合衆国政府を影で操り、ユダヤ系グローバルエリートが支配する新世界秩序(NWO)の構築を企む反キリストたる闇の勢力と、それと闘う光の戦士たるドナルド・トランプ、という壮大(epic)な善悪二元論的ドラマトゥルギーである。つまりQアノン陰謀論は、プレイヤーの能動的な参加と協力によって、すなわち集合的知性によって政府を「ネタバレする」ことを目的とした参加型陰謀論とみなすことができるわけである。

レヴィは、やがて全世界が単一の知識文化として機能する、知識の交換と審議のコミュニケーションにもとづく新しいユートピア的デジタル民主主義の到来を予期していた。レヴィがこうした集合的知性によるデジタル民主主義を提唱したのは九〇年代の後半だったわけだが、結局彼のサイバースペース・ユートピアは今に至るまで実現していないし、その気配すらない。集合的知性はそれと相反する集団極性化によって阻まれ、再コード化されてしまっているように思われる。インターネットは、レヴィのヴィジョンを裏切るように、サイバーカスケードとフィルターバブルによる集団極性化を加速させてきた。その末に到来したのが、A.R.ホックシールドが『壁の向こうの住人たち』で描き出したような、人々が「異なる地域に住んでいるだけなく、異なる真実を生きている」かのような情況[6]、すなわち現在における出口の見えないポスト・トゥルース的情況なのである。

百木漠の『嘘と政治: ポスト真実とアーレントの思想』によれば、ハンナ・アーレントは、政治における伝統的な嘘と現代的な嘘を画然と区別していたという。

 伝統的な嘘は、為政者が真実を隠蔽するというかたちで行われるものであって、その嘘は「敵に向けられており、敵のみを欺こうと意図していた」。それに対して、現代的な嘘の特徴は、それが敵に向けられるのではなくて、自国民および自分自身に向けられるという点にある。だからその嘘は、敵よりも嘘をつくもの自身を騙すものでなければならず、自分たち自身を騙すことに成功すればするほど、その嘘は効果を発揮することになる。[7]

現代的な嘘は、それまでの嘘と異なり、「事実からなる織地に穴を開ける」のではなく、「事実の織物全体の完全な編み直し」を狙いとする。すなわち、「現代(リアル)の世界を否定し、それに代わる虚構(フィクション)、あるいは<別のリアリティ>」を創り出そうとする」[8]。それはいわば、現実世界にもうひとつの別の現実を重ね合わせることで、現実それ自体を書き換えることを目的とする。アーレントのいう現代的な嘘は、対象(=真実)の否定ではなく、むしろそれに代わるオルタナティヴな対象(=真実)を生成させるという点において「構成的」であり、現代におけるQアノン的な陰謀論とも親和的であるといえよう。

アーレントによれば、大衆は複雑性と偶然性に満ちた理不尽な現実に耐えきれず、それよりも論理的に首尾一貫した虚構の統一的体系のほうを好む[9]。事実、陰謀論には「偶然」というファクターは存在しない。すべての事象は厳密な因果関係決定論の網の目によって決定される。そう、すべては繋がっている。すべては必然なのである。たとえば、陰謀論者にとっては、コロナウィルスの出現は決して偶然などではなく、何者かによって、何らかの意図によって、必然的に生み出されたのである。ウィルスの出現という事象の背後には、覆い隠された不可視の因果関係のネットワークがひしめいている。

かつて新たな「公共空間」として夢見られたサイバースペースは、しかしGAFAをはじめとする寡占企業によって市場化が進められ、今では各企業のプラットフォームとアーキテクチャによる統制と区画整理の下にある。かつてのノマド的空間は、各プラットフォームのタイムラインに定住民が住まうスタティックな空間となった。

現在の、各人が「異なる真実を生きている」かのような情況、とりわけインターネットにおけるフィルターバブルの瓶詰地獄は、自分の思想や嗜好を同じくする者同士の閉じたクラスタを醸成させてやまない。こうした分極化、交通が閉ざされた島宇宙、トライブの群れがインターネット上に生み出される現象を、キャス・サンスティーンは「サイバーカスケード」(集団極性化)と呼んだのだった。断絶は他者との対話や偶然的な出会いを阻み、当然ながら「公共空間」は成立しえない。私的領域と公的領域の区分は意味を喪い、アーレントのいう「活動」のための空間、共通世界としての公的領域は消失する。言い換えれば、アーレント的な意味での「政治」はそこでは遂に否定されざるをえない。その帰結のひとつが、二〇二一年一月に起きた、Qアノン信奉者らによる議事堂襲撃事件であることは論を俟たないだろう。

現在、共通世界としての公的領域は存在しないどころか、もはや必要とされてすらいない。たとえば新反動主義者らは「自由と民主主義は両立しない」と決然と主張し、公的領域の一切を私的領域に還元しようとする。彼らは公的領域から一斉にイグジットし、海上にリバタリアンの独立国家を建設しようと試みる。

もっとも、共通世界の喪失は、アーレントが彼女の生きた同時代に対して下した診断でもあり、その意味では目新しい問題ではない。むしろ、共通世界の喪失は「近代」に常に取り憑いてきた「世界疎外」の問題としてアーレントの前に立ち現れていた。アーレントは「世界疎外」の情況を砂漠になぞらえる。私たちは砂漠に生きている。砂漠にあって個人は「誰でもない者」と化し、砂嵐の脅威、すなわち全体主義の危険に見舞われている。それゆえに、意味を喪失した砂漠と化していく世界の只中に共通の空間としてのオアシスが建設されねばらない。しかし、ともすればオアシスは消滅し、砂漠が復活し、そこに砂嵐がふたたび接近する。その意味で、オアシスは決して安定した堅牢なものではない。オアシスは「休息」の場とはなりえない。それは干上がり砂漠に飲み込まれる可能性に常に曝されている。この点について小野紀明は、「要するに、アーレントの政治哲学の核心は、砂漠とオアシスの緊張関係のなかに身を持することにある」と断言している[10]

共通世界の喪失をノスタルジックに嘆くことに意味はない。それは今に至るまで喪失を不断に繰り返してきた。共通世界、それはアドホックに、そのつど新たに形成される仮初の領域にすぎない。それは、(時間的ないし空間的に)同一のものでも普遍的なものでも、さらに言えばカント的な意味での「超越論的」なものでもない(よって、逆説的ながら、共通世界には、同一性にもとづいて予め「共有されたもの」など存在していない、と言わなければならない)。となれば問題となるのは、未来に向けて、いかにして共通世界を創造=想像するか、である。過去は問題とならない。この点についても参考になるのは、「政治における嘘」を批判しながら、にも関わらず「活動する能力」と「嘘をつく能力」の間には親和的な連関があり、しかもそれらは「想像力」という共通の源泉を持っている、と述べるアーレントのテクストに注目する百木による以下の記述であろう。

 「活動」によってなにか新しいことを始めるためには、「以前からあったものが取り除かれるか、壊されなければなら」ず、「さまざまな事物がいま現にあるのとは異なるものであるかもしれないことを想像すること」ができなければならない。つまり、この世界に新たな「始まり」をもたらすためには、現状の世界を変革するためには、現在の世界のあり方に「ノー」を突きつける必要がある。そして現在とは異なる「別の世界」を想像(構想)し、それに向けて世界を変えていかなければならない。[11]

「活動」によって新たな「始まり」を、言い換えれば共通の空間をこの世界にもたらすためには、今この現実とは異なるもうひとつの世界を「想像=創造」する必要性がある。共通世界は、未来を先取りする行為遂行的(パフォーマティヴ)な「活動」によって打ち立てられる虚構(フィクション)を常に土台としている、という意味でそれはユートピア的ですらある。そして、アーレントの思想とSF的な想像力とがマーク・フィッシャーを媒介として結びつくのも、ここにおいてなのである。以下は、「路傍のピクニック」と題された、テッド・チャン、ケン・リュウ、エルヴィア・ウィルク、ユージーン・リムの四者による座談の中で、チャンがフィッシャーを引きながらSFの使命について述べている箇所からの引用である。

SFに元型的なストーリーがあるとしたら、こういう感じだろう。初め、世界は馴染みのある場所として登場する。やがて新しいイノベーションなり発見なりが大々的な影響をもたらして、その世界は永久に変わってしまう。これは、伝統的な「善vs悪」のストーリーとは根本的に違う。後者では、悪に対する勝利は物事が平常に戻ることを意味するから。大雑把に言うと、善玉が悪玉をやっつける物語は現状の維持がテーマであり、SFは現状の転覆がテーマだ。だからこそ、SFは潜在的に政治性を帯びている。SFは変化についての物語だから。

昨年、批評家のマーク・フィッシャーの言葉をたまたま読んだ。「解放の政治は、これまで不可能だとみなされてきたものを達成可能に見えるようにすることがその使命であるのと同じく、常に『自然律』という見せかけを打破せねばならない。必要かつ必然だとされるものが、実は単なる偶然にすぎないことを暴かねばならない」。これこそSFの目指すところだ。[12]

「活動の能力」とSFは、さながら自然法則であるかのように振る舞う現状が、実は単なる偶然的なものでしかないことを暴き立てる。それは同時に、すべての事象が体系的な因果関係決定論に規定される、「すべては必然である」とする陰謀論的虚構にも「否」を突きつけるだろう。私たちは、非線形的なカオスの流動性が律する砂漠に生きざるをえないのだ。そこにあっては、オアシスは、未来は、「予測」することではなく「創造」することによってしかもたらされない[13]。未来は無限遠点に位置する接近不可能な対象などではない。未来とは、異なる視点で見られた現在の名であって、それは常に既に現在の中に埋めこまれている。未来とは潜在的なものに与えられた名であり、言い換えれば未だ現実化されていない「すべて」である。潜在性の領野から複数の未来を、「ここではないどこか」を掴み取ること、それだけがこの砂漠の世界に新たな「始まり」をもたらすことができる。


[1] ヘンリー・ジェンキンズ『コンヴァージェンス・カルチャー: ファンとメディアがつくる参加型文化』渡部宏樹、北村紗衣 、阿部康人訳、晶文社、二〇二一、二四頁
[2] 同上、六五頁
[3] 同上、六二〜六三頁
[4] 同上、九五〜一〇三頁
[5] 同上、六八頁
[6] A.R.ホックシールド『壁の向こうの住人たち――アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』布施由紀子訳、岩波書店、二〇一八、三六〇頁
[7] 百木漠『嘘と政治: ポスト真実とアーレントの思想』、青土社、二〇二一、四四頁
[8] 同上、四四〜四五頁
[9] 同上、五四頁
[10] 小野紀明『二十世紀の政治思想』岩波書店、一九九六、一四二頁
[11] 前掲書、『嘘と政治』、九三頁
[12] https://www.ssense.com/ja-jp/editorial/culture-ja/roadside-picnic
[13] 樋口恭介『未来は予測するものではなく創造するものである: 考える自由を取り戻すための〈SF思考〉』筑摩書房、二〇二一