第2回 神戸:1975

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

1975年初夏、私は母とともに阪神電鉄の御影駅で三宮行きの特急電車を待っていた。

月に一度、連れ立って向かう先は、いまは沖合いの人工島ポートアイランドに移転した中央市民病院だ。母は全身性エリテマトーデスという難病を患っていた。

30度もあれば猛暑といわれていた時代だったとはいえ、母子そろって紫外線に弱く、次第に影も濃くなる季節の到来に憂鬱という言葉を被せることも5歳の私はまだ知らなかった。ただ日を追って加わる体のだるさに、白茶けた日差しが連れ立ってきた夏とはそういうものだという合点をしていたように思う。

電車は軋みながらホームに滑り込む。クリームと赤に塗られた車体は平面に見えても、外板には波打った歪みが見られた。板金の打ち出しによる作りのせいか。それとも風雨による経年劣化のせいか。無機質な工業製品でありながら、歪みはどことなく人手を介したものづくりの味わいを感じさせはしたものの、そこにぬくもりを見出す感性に乏しかった。かえって人間の手になるものの定め、滅びの徴を認めてしまうのだ。あらゆるところに潰えと綻びの前兆を見出す癖を私は早々に身につけていた。

母に対しても、握った感触の心もとなさについ手を離したくなってしまう。そんな気持ちを見透かされないように、ホームと電車の隙間の広さを怖がる態でつないだ手にぎゅっと力を入れ、身を車内に滑り込ませた。

 

発車ベルは乗客をそう急かす時代ではなかった。

ベンチに座りスポーツ新聞を読んでいた男は足元に痰を吐くとおもむろに立ち上がり、こちらに向かってきた。妙にてかてかと光る「餃子靴」を履き、ねずみ色した丈の短いスラックスの裾からは臑毛が顔を覗かせていた。男を車内に引き入れ、電車は走り始めた。

天井に据えられた扇風機は、滑らかとは言い難い動きで首をめぐらせ、生ぬるい風を送っていた。冷房が完全に普及されたのはいつのことだったか思い出せない。代わりにはっきりと覚えているのは、車内で煙草を喫むのはあたり前で、灰皿が備え付けてあったこと。そして衆人の中、母親が胸をはだけ、赤ん坊に乳を含ませる光景もごくふつうに見られたことだ。

どういう風に煙草を吸っていたか。乳を吸う赤ん坊の表情はどうだったかと目にした出来事のひとつひとつに焦点を合わせ細かく思い起こそうとすると、脳裡に浮かぶ像はたちまち曖昧になる。一方、記憶に向ける角度を俯瞰にすると解像度は下がっても、鮮やかに蘇るのは「餃子靴」の男を筆頭に、乗客らの服装の独特の色使いと車内の人いきれ。そして鉄錆を含む酸い匂いだ。

 

ニッカポッカを履いた、赤銅色した肌の鳶や、阪神タイガースの帽子を被り、カップ酒片手に賑やかにひとりしゃべる人、原色の重ね着やアニマルプリントを施した服を着る女性は、阪神電車にこそ似つかわしい。

マルーンと呼ばれる落ち着いた塗色の阪急電車ではそうそう見かけない。 

神戸は南北に狭く、海と山の間が2キロに満たないところもある。電車は東西に走っており北から阪急、国鉄(現JR)、阪神の順に敷かれている。沿線はそのまま所得の差となり、山手の阪急と海側の阪神とでは住人の色合いはまるで異なった。

 

当時、私たち一家の住まいは進学校で有名な灘高校に近い、山と海の中間に位置する魚崎北町にあり、最寄りは1キロ南下した阪神線の魚崎駅だった。

父にとって住宅街に家を建てること。しかも、それが鉄筋であることは格別な意味を持っていた。頑丈な鉄筋の家が誇らしい響きを持つに至ったのは、底をさらうような生活が背景にあった。

父方の祖父母は別々に韓国から渡って来、京都の北大路近辺の被差別部落と隣り合う朝鮮人部落に流れ着いた。そこで夫婦は所帯を構えたものの、借りた長屋にはまともに壁と呼べるものはなく、障子張りだった。吹けば飛ぶようなあばら家の六畳一間に一家7人が住んでいた。腹を満たすために水を飲むといった、地べたを這うようなかつての日々を思えば、魚崎の暮らしは夢のようなものであったろう。

だが父はさらに上を目指した。9年後、私たちは山手の岡本に引っ越し、家からいつも眺めていた山上に梁の太い居を構えた。神戸を見る際のアングルをぐるりと変えたわけだ。

 

しかし、いまは先を急がす、1975年の夏に話を戻す。

 

臥せがちな日の多い母の不調は、気分の不安定さを招いた。

それがあらかじめわかっていただけに、母を煩わせることをなるべく避けるようになっていた。いつしか人からは「聞き分けのいい子」と誉められるようになると、私はそのたびに恥じ入り、母のスカートの影に隠れた。

聞き分けの良さとは、本当のことを言い出さないままに済ませる態度でもあった。気遣いではなく、顔色をうかがっているにすぎないことは当人が一番よく知っていた。だが物分かりの良さが習い性となり、私は家でも外でも静かに絵を描いたり、空想するなどひとり遊びをもっぱらとするようになっていた。

 

その日、乗り合わせた特急でいつものように行儀よく座っていると、何とはなしに見たはずの、向かいのドアと座席の間に貼られた広告に目が釘付けになってしまった。

そうなると、もうそこから目が離せなくなってしまう。

これは、横断歩道の白い線しか歩けなくて足を踏み外すとやり直すだとか、戸締りをしたのに何度も確かめてしまうとか、自分なりのセオリー通りにいかないと不穏になる例のヤツだった。それはいつも脈絡なく訪れては、ひとしきり私を振り回して去っていく。幼い頃にありがちな神経症ではあるのだろう。だが、渦中にいる人間にとってその説明は何の解決にもなりはしない。

過度に集中すると、まばたきが増えて挙動不審な行動に移ってしまいそうになる。その前に広告の何に引っかかるのか。その訳を探ろうと必死に目を凝らした。広告は中元の贈答品を勧めるコピーとともに果実入りのゼリーの写真が掲載されている、何の変哲のないものだ。

だが、ひとつひとつの要素を追っていく中にみかんを認めたとき、私は震撼した。ああと声が漏れそうになった。

この世から、旬というものが本当になくなってしまったのだ。

そのことがわかってしまった。

 

「旬」という概念をはっきりと理解していたわけではない。ただ母に代わり、お使いで向かう先の八百屋は露地栽培の野菜を扱っており、夏はキュウリ、冬は大根か白菜といった具合に、店頭に並ぶ品は季節ごとに決まりきっていた。

また春のいかなご、夏に鱧、秋に松茸、冬にはみかんが食卓を飾りと、折に触れて「旬のもの」を目にする機会は多かった。時節にふさわしい食べ物の並ぶ様子から、「旬」の指すところを飲み込んでいた。

広告を見て狼狽したのは、旬がなくなってしまった後では、時と場所の釣り合いは崩れ、ふさわしい時に起こるべきことは起こらず、世界はズレていくしかない、とわかったからだ。

それはとても不自然なことに感じられた。

ただ、こうして電車に揺られ、三宮へと運ばれていく最中にも転轍器は切り替えられ、異なった線路を進むことに違和感は覚えようもない。それと同様にズレた世界に自然と入り込んでしまっているとしたら。

車窓からは通過する駅が左から右へと流れていく。もうさっきまでの世界に戻ることは決してないのだ。

 

広告は商品を宣伝しているように見えながら、「すでに食い違った時間で生きてしまっている」というメッセージを伝えていた。私は知り得た驚くべき事実を隣に座った母に伝えようとして見上げたものの、いざとなるとそれをどう伝えていいかわからなくなった。

言葉が見つからないだけではない。

母に連れられたとはいえ、この日、この時、この電車に乗ることを選んだのは、他ならない私であった。無理強いされて乗ったわけではない。誰かのせいにすることはできなかった。旬のあった世界と枝分かれした別の時間の流れにつながることを私は自らに許可したのではないか?  では他の人はどうなのだろう。そう思い周囲を見渡してみた。

時間はズレてしまったのに、とりたてて騒ぎ立てる人は見当たらなかった。何も気づかないふりをしているのではなく、やはり私と同様にそのような新たな世界の到来に密かに合意をしていたのかもしれない。何も起きていなかったように見せかけた電車はしばらくして三宮駅に着いた。

 

その後の私たちの暮らしの調子は何事もなくズレ続けた。

すべてがズレている世界では、もはや齟齬が何かもわからなくなる。おかしさに気づけなくなる。

注意深く見れば、乖離した時間の進み具合にほつれを見出すこともできたろうが、裂け目はしっかりと縫い合わせられていった。行き違いへの違和感はいずれ社会の進歩や技術の向上という文言によって塗り込められ、取るに足らない感傷のように扱われた。

たとえば広告にもあった果物だ。

1975年当時、イチゴもりんごも甘酸っぱい果実で、味わいは甘さよりも酸っぱさの方に傾きがちだった。だからイチゴはミルクに浸して潰しながら食べ、りんごはポテトサラダに混ぜて食べた。

酸味でいえば柑橘類は抜きん出ており、八朔(はっさく)にいたっては――小さな一房も食べられなかった。柑橘類の好きな父にしても、そのままでは酸っぱすぎて食べる気がしないらしく、果肉を取り出すとそこにブランデーと砂糖をかけて食べていた。

いつしか旬に関係なく果物を食べられるようになると、種類を問わずなんであれ、甘くて当然のものになっていた。その季節でしか食べられなかったものの味は、もはや「昔は酸っぱかった」と表すほかなく、品種改良であるとか農業技術の進歩向上のかなわない時代の遺物でしかなかった。

 

旬からズレた果実が孕む時間の狂いは、それを口にした途端に感じる「甘い」という味覚の刺激によって補正されたため、何も問題はないといった顔つきで当たり前に世の中に出回るようになった。果物に限らず、肉に魚に野菜と「甘みが旨味だ」と評価されるような、のっぺりとした感覚の席巻が始まろうとしていた。

 

食べ物の糖度の高まりは、暮らしを一変させるような激震を走らせたわけではない。ただ都会にしか住んだことのない私であっても、食べ物は自然を感じられる頼みの綱だった。自然の運行が刻む時よりも、人間の都合による時間のリズムが上回ったとき、人はただ起きている現象を味わうことを止めた。ズレをズレとして感じるだけのバランス感覚もなくなり、それも当たり前だと受け入れたときには生活はすっかり形を変えていた。

 

人の暮らしの外側に広がる自然に注意を向けるとき、ひとつところを凝視しては「木を見て森を見ず」となり、それでは時と場所の全体を見ることにはならない。自然は包括的な存在であるから、焦点を定めて見ることは本当はできない。

だが、私たちの住む人為の世界では眼差しは限定的だ。

注目の対象はおおむね未来と過去になる。「あれもしたい」「ああすればよかった」と私たちは希望と後悔を絶えず抱いている。

甘い果実を求めようという素朴な思いもそうだ。「これまで」よりも「これから」を欲し、さらに良いものを求めた結果、時間は静かにズレ、私たちの感覚も考えも知らぬ間に一変した。

その変わりようを人々は「明日は今日よりもすばらしい」というマジックワードにすり替えた。明日の変革を望むことは、古い世界からの決別、覚醒を意味していたようであるが、実態は深い眠りに就くことではなかったか。

催眠に自らかかることを諾なった瞬間が誰しも身に覚えがあるのではないか。私の経験したような1975年の夏のある日を過ごしたのではないか。

 

いま生きているとはズレてしまった後の世界を生きていることなのかもしれない。そういう見立てをもとに、かつて私の住んでいた神戸を見てみようと思う。

1970年4月16日生まれ。フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原Jr氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、ダンサーの田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。著作に『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)など多数。