第1回 はじめに

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

幼い頃、書棚にささっていた『出雲国風土記』が気になって仕方なかった。

じっと見れば「出雲国」と「風土記」という言葉にわかれるらしいと理解しても、ひとつひとつの文字の主張がひどく強く感じられ、油断するとそれぞれが別々に目に飛び込んで来て、まとまりを持たなくなる。

 文字が表そうとしている「念」めいた何かが頭の中で巡り始めると、それはびょうびょうと風が吹くような音を立てた。

私は慌てて背伸びして、本を手に取って開いて見る。すると音は止むのだが、読み進めたところで書いてあることはまるでわからない。そしてまた元に戻しては数日経って頁をめくる。そんなことをくり返していた。

 幾度となくその反復を続ける中で、うごめく文字がたたえる表情が何とはなしに伝わってきたのか。出雲の山川草木の光景が浮かぶようになった。国ぶりを記した書なのだ、ということを知ったのは後のことだ。

 

 書物を眺めるうちに像を結んだ出雲は、今はもう失われ、誰の記憶にもとどまってはいない。けれども、そこには連綿と宿り続けている何かがあるのだと思っていた。

風が吹き渡ることを止めたことも、土が絶えたこともない。いま感じる風土はかつてとは違うにせよ、そこに突然現れたわけではない。

 土地の記憶、そこで暮らした人たちの記憶。

いまはもう去っていったものたちの声や息遣いを、それぞれの土地は微かであっても伝えているのではないか。

 

 銅鑼や鉦を叩くような、国ぶりを大仰に語る言葉が徘徊している。見知っていたかのような顔つきでやって来る。私はそっぽを向く。それらが罷り通る道そのものを知りたいから。

 道はアスファルトで敷き詰められても小さな亀裂は走り、いくぶん隆起もしている。そこに時間の積み重ねが口籠る様子を見る。

 濁った空気しかもう渡ってはいなくても、そこで息をして生きている人がいる。

そこでしか語られない言葉がある。

風土を記すとは、表に現れないところを感じることではないか。そんな想像を手掛かりに私が暮らした、歩いた土地について記してみたい。

1970年4月16日生まれ。フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原Jr氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、ダンサーの田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。著作に『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)など多数。