私たちが思うよりも人生はずっと無意味なのだ

まもなく小社から刊行が予定されているペイントアーティスト・チョーヒカルのエッセイ集より、一部の内容を先行公開! 恋愛、モテ、差別やコンプレックス―――現代社会の不条理さや日常やり過ごしてしまいがちな違和感と戦えるようになるまでの成長譚。

どこに旅行に行くときも、無理をしてまで持っていくものがある。ゲーム機だ。PlayStation4かNintendo Switch、どんなにスーツケースの容量を占めようともどちらかは絶対に詰めていく。大学院に行く前は、1日4時間は確実にゲームをしていたし、ことあるごとにリアル脱出ゲームやボードゲーム会の予定を立て、アメリカに住んでいる間も、ほぼ毎週末オンラインでゲームナイトを友だちとやっている。それくらいゲームが好きだ。

中学受験のため塾に通っていた頃、私は発売されたばかりのDSゲーム、「おいでよ どうぶつの森」にハマっていた。宿題の合間に必死で化石を掘り、魚を釣り、虫を捕まえた。それだけではどうしても時間が足りず、夜、布団に潜って最小音量で真っ暗な中、村を駆けずり回って住人に挨拶をした。そんなことを続けていたものだから当然成績は落ちていき、真っ暗な中で画面を見つめすぎたせいか1・5あった視力は一気に0・4に落ちた。似合わないのに何故か赤縁のメガネを買い、あだ名はしばらく「ザマス」になった。

そんな苦い経験があったので、私はつい最近まで自分にゲーム禁止を課していた。特に絵に打ち込み出してからは、ゲームは時間の無駄だと疑わなかった。何時間も仮想の世界で過ごして、そこで何かスキルを得たとしても現実世界では何にもならない。生産性がない。手探りすぎる将来探しに忙しくて、ゲームに興味すら湧かなかったし、ゲームに夢中な友だちを不思議な気持ちで眺めていた。一生ゲームにハマらないのだろうと思っていた中で、いきなり状況が変わることになる。

それは大学を卒業して少し経った頃、大学時代の友だちとお酒を飲んだときだった。ちょうどニンテンドースイッチが発売されて少し経った頃で、みんなその話で持ちきりだった。私はフリーランスを始めたばかりで日々不安に苛まれていた。周りは就職をしたばかりで慣れない職場に四苦八苦していたが、私は何に四苦八苦していいのかも分からず、ずっと真っ暗な中で手探りをしているような気持ちだった。上司の愚痴が言える仲間たちが羨ましかった。仕事も忙しいほどない中、パソコンの前にボーっと座って頭の中で自分の状況を責め続ける、そんな時間が何時間もあった。
「チョーさんも一緒にスイッチでスプラトゥーンやろうよ!」
「いや〜今更ゲーム始めるのもなあ」
「なんでよ、楽しいよ」
「う〜ん」
「忙しい?」
「いや、全然忙しくはない」
「じゃあ暇な時間、何してるの?」

ハッとした。暇な時間、私はただひたすらに無駄なことで悩んでいる。ゲームは時間の無駄だとか言っておきながら、空き時間を少しも有効活用していないじゃないか。じゃあ私はなんのために楽しいことを節約しているんだ?

みんなと別れて家に帰る電車の中で、品薄のスイッチをAmazonで購入した。数日後に届いたスイッチで「スプラトゥーン」を始めると、それはそれは見事な沼だった。スプラトゥーンは端的に説明すると、かわいくデフォルメされたイカとタコのキャラクターが銃や絵画の道具(筆やローラー)から発せられるインクで敵を倒すというゲームで、デザインのかわいさもさることながら、バトルの爽快感が秀逸だ。死んでもすぐに生き返るし、1ゲーム自体が割と短いため永久に繰り返し楽しめる。久々に溢れるアドレナリンに脳が高揚しすぎて、正気を少し失った。

具体的な例を出すと、ゲームを始めたばかりの頃、私は画面の前から3日間、ほとんど動かなかった。水は飲んだし最低限トイレには行ったが、それ以外は睡眠もご飯も風呂もなしで、三日三晩ゲームをプレイし続けた。結果5キロ痩せた。ちなみに同じく沼にハマった友だちはご飯を食べずにプレイし続けたせいで栄養失調になり、体が動かなくなって救急車一歩手前までいった。類友ここに極まれりである。同じ体制で座り続けたせいでギシギシの体で、私はめちゃめちゃ幸せだった。

いつの頃からか、自分の糧にならないものは無駄だと思っていた。ただの現実逃避だと。楽しいことに時間を割くよりもスキルを身につけるべきだと。自分はまだまだ足りていないから、何も達成できていないから、幸せになる権利がないのだと、どこかで思っていたのだ。でも、気づいたのである。人生って私たちが思うよりずっと無意味なのだ。全てを「有意義に」使うなんて無理なのだ。なんだか絶望的な気付きだが、そんな絶望を経て私はようやく自分に楽しみを許すことができるようになった。

ゲームを再び楽しめるようになってからの毎日は、確実に少し楽しくなった。依存しやすい性格ゆえにやり過ぎてしまうことも多々あるけれど、息をしているだけで結構大変なのだから、娯楽がないとやっていけない。逃避であってもいいじゃないか。人生は大して素晴らしくなくて、だからこそ私たちは好き勝手楽しく生きるべきなのである。今は「Apex Legends」というFPSゲーム(シューティングゲーム)の沼にズブズブにハマっている。

1993年東京生まれ。2016年武蔵野美術大学・視覚伝達デザイン学科卒業。体や物にリアルなペイントをする作品で注目され、衣服やCDジャケットのデザイン、イラストレーション、立体、映像作品なども手がける。多数のメディア出演に加え、企業とのコラボレーションや国内外での個展など多岐にわたって活動する。著書に『じゃない!』(フレーベル館)、『絶滅生物図誌』(雷鳥社)などがある。

女は細くあってこそ美しいの呪縛

まもなく小社から刊行が予定されているペイントアーティスト・チョーヒカルのエッセイ集より、一部の内容を先行公開!
恋愛、モテ、差別やコンプレックス―――社会の不条理さや日常やり過ごしてしまいがちな違和感と戦えるようになるまでの成長譚。「いつも心に忍ばせてきた金属バット、振り抜くチャンスがなかなかこなくていつも不条理やモヤモヤに直面していたときに隠し持っていた。けれど多くの人々との出会いや、自分を許せるようになってから、私はそうした現状と戦って壁をぶち壊したいと気づくようになった。だから今日も心に秘めた金属バットを振おう。私を、そして私以外の誰かを守るために。」
書籍タイトル別のものになります。

「MUKBANG(モクバン)」という言葉をご存知だろうか。韓国から流行り始めた、「大量の食べ物を消費するのをオンラインで放送すること」を指す言葉である。顔の前に大量の料理を並べ、総合カロリーや量を大文字で書いたYouTubeなどのサムネイルを見た人も多いのではないだろうか。私は少し前からこれにハマっている。画面の中の、大抵細いそのユーチューバーが、大量のハイカロリーな食べ物を、口周りや手をベトベトに汚しながら飲み込む様を、何も考えずに消費している。レシピを知れるわけでもない、何らかの知識を得るわけでもない、ただ空腹が加速するだけで、得るものがないどころかむしろマイナスだ。それでもただじっと、食べ物が噛み砕かれて誰かの体に吸収されていくところから目を離すことができない。

昔はもっと食に関するものが好きだった。クッキングママなどの食べ物ゲームや食品サンプルをこよなく愛していたし(今も結構好きだ)、漫画も食べ物がテーマのものは多少ストーリーの出来が悪くても買い続けてしまうし、このテーマ自体に何か直接的に刺激されている部分がある。ずっとただ好きなのだと思っていたが、アメリカに来て食品サンプルが日本特有のものだと知り、まして、それに対してフェチだということがとても不思議がられることを知り、私自身でもなんでなのだろうと初心に立ち返った。

なぜ私は食べ物のコンテンツにこんなにも惹かれてしまうのだろうか。それこそ実際の食べ物以上に、食べられない食べ物たちに惹かれているのだ。そして唯一たどり着いた結論は「食べ物へのジレンマによる執着」だった。

思えば、私が食品サンプルや食べ物漫画に一番傾倒していたのは高校生くらいの時だった。それは奇しくも、私が一番自分の体重を気にし、細くなければ死ぬほうがマシだという精神で生きていた頃だった。全ての理由がそうだとは言わない。食べ物は単純に欲求を刺激するものだから、惹かれるのは当たり前だ。だけどこの「食べたくても食べてはいけない」というジレンマが、食べずに食べ物を消費できるコンテンツへと、異常なまでに私を誘った一つの大きな要因なのではないかと思う。

だって、その頃の私のダイエットへの執着は異常だった。顔に自信のない私の唯一の取り柄は細さだったのだ。1日に何度もトイレに入り、鏡で太って見えないかを確認していた。100キロカロリーを超えるものを全て敵だと思って、コンビニではよくわからない海藻サラダみたいなものばかり買ってお昼にしていた。人と食べるときにはそれだけだと心配されるので菓子パンも買って、でもそれは食べるふりをしながら小さくちぎってビニール袋に隠して、後でこっそり捨てていた。食べすぎた嫌悪感で吐いたこともある。初めて吐いた時は顔の毛細血管が切れて目の周りに赤い斑点がでた。どうにも吐くのが下手で運よく癖にはならなかったが、今振り返るとなんとも異常である。

一度、友だちと帰り道に買い食いをしようという話になり、コンビニで肉まんを買ったことがあったのだが、ビルのガラス窓に映る自分の足の太さを見て自己嫌悪に襲われ、どうしても肉まんを食べたくなってしまった。かといって、そんなことを気にしているとも思われたくない。でも、隠せるビニール袋ももらっていない。パニックになった私は友人がどこかに視点を逸らした瞬間に、二口齧った後の肉まんを、道路の脇の植木に力一杯投げたのだった。想像では肉まんが植木に完全にめり込み、隠れてくれると思ったのだがそうはいかず、枝に刺さった肉まんはほぼ100%、植木から露出して、不気味なオブジェみたいになっていた。

振り返った友人の視線の先を気にしながら、私はまるでものすごい早さで肉まんを食べたみたいな顔をした。きっと彼女は気づいていただろうな。食べ物無駄にしてすいません。ポイ捨てしてすいません。

とにかく、当時の痩せることに対しての執着は度を超えていて、本当に精神が少しやられてしまっていたように思う。痩せないと、痩せないと、と日々食べ物のことを考えてしまう。食べられないが故に食べ物への執着は強まり、それと時を同じくして合羽橋まで食品サンプルを買いに行くような女子高生に私は成り果てていた。

高校生の時からは全然マシになったものの、今はもう、太ることへの恐怖がないですか? と問われたら、それは真っ赤な嘘である。もう肉まんは投げないけど、晩御飯のご飯は時たま抜いてみたりする。健康の基準で言えば全く肥満ではない。本当は気にしなくたっていいのだ。だけど頭のどこかで「ガリガリになりたい」と言う声が消えてくれない。私はまだ私以外に作られた基準に抗うことができないでいる。実にカッコ悪いが現実だ。社会に刷り込まれた「女は細くあってこそ美しい」という制約にいまだ縛られている。他人の体に対しては何も思わないのに、自分の体には時々嫌悪してしまうのだ。

パソコンで観ていた動画の中で、10人前のラーメンを平らげた細い女の子が、笑顔で完食を宣言した。心の中に不思議な充足感と虚無感が同居している。私はいつ、この食べ物のジレンマから解放されるのだろうか。呪縛から解放されて曇りのない心で食べるハイカロリーな食べ物は、さぞ美味しいだろうな。

 

1993年東京生まれ。2016年武蔵野美術大学・視覚伝達デザイン学科卒業。体や物にリアルなペイントをする作品で注目され、衣服やCDジャケットのデザイン、イラストレーション、立体、映像作品なども手がける。多数のメディア出演に加え、企業とのコラボレーションや国内外での個展など多岐にわたって活動する。著書に『じゃない!』(フレーベル館)、『絶滅生物図誌』(雷鳥社)などがある。