第13回 消費される夫人 後編

真珠夫人、感傷夫人に黄昏夫人……明治以来、数多く発表されてきた「夫人小説」。はたして「夫人」とは誰のことか? そして私たちにとって「夫人」とは? 夫人像から浮かび上がる近代日本の姿!

作品名:『夫人と運転手心中するまで:小説』徳田春風 1917(大正6)年
『伯爵夫人:千葉情話』青木緑園 1917(大正6)年

前編、中編では、1917年(大正6年)3月7日に起こった伯爵夫人芳川鎌子が自邸の運転手と心中した通称「千葉心中」事件と、それに関する当時の知識人、一般人の反応について見てきた。

後編では「夫人小説」であるところの徳田春風『夫人と運転手心中するまで:小説』(以下『夫人と』)と青木緑園『伯爵夫人:千葉情話』(以下『千葉情話』)を紐解いていく。

といっても、近代小説論などではまず顧みられないようなブームに乗ったやっつけ小説である。

しかし、そこをほじくるのが本連載の醍醐味である。

驚くべきは、両作品とも事件から3週間と経たずに刊行されている点だ。

『夫人と』は3月27日印刷、4月1日発行、『千葉情話』は3月25日印刷、3月30日発行(国会図書館所蔵のものは日付が手書きになっている)。また、『夫人と』はご丁寧にも巻頭に「序」として

此小説は普通の小説ではない、某伯爵家の家庭を忌憚なく描写した大胆な告白書であるこれで、初めて若夫人の心中の真相が了解される、夫人の死なねばならぬ理由、相手に運転手を選んだ理由が初めて得心の出来る、小説である、私は二度繰返して二度とも泣かされた、そして若夫人の満腔の同情を注ぐようになった、結構な小説である、私は一般の婦女子には勿論有髯の男子にも此小説は是非読で置いて貰いたいと思う、それは若夫人の心中の真相を伝えたのみでなく、各自家庭の好材料たるに背かぬからである、敢て推奨する所以である。

大正六年三月 日 菊池

としている。

そもそも「菊池」とは誰なのかよくわからない。家庭小説の大家、菊池幽芳にミスリードしたものだろうか(菊池寛はこの当時まだ無名)、胡散臭さ満点である。

小説の内容も虚実ない混ぜで「忌憚なく描写した大胆な告白書」は真っ赤な嘘。

ここまで臆面もないとむしろ感心してしまう。

『夫人と』は仮名子こと鎌子の祖母の話から始まる。

祖母のお霜は相州萩野(現神奈川県厚木市)の旧家に生まれ、色白美人で有名だった。お霜は呉服屋の跡取りと結婚が決まっていたが、山でうたた寝をしているときに浮浪者に暴行されてしまう。間もなく嫁ぎ先で生まれたのが鎌子の母、お村であった。

そのうち呉服屋が傾いてしまい母子は帰郷、お村はひとり横浜に奉公に出る。が、そこも傾き、奉公先の奥様と一緒に東京に出ることになった。実は奥様、元は小澄という芸者で稼業に戻るというのでお村も待合に預けられたのだ。しかし生母譲りの色白のお村は周囲に芸者になれと薦められるのが嫌で、お屋敷に奉公に出ることになる。そのお屋敷こそが星川家こと芳川家。美貌のお村は予想通り旦那に手をつけられ、生まれたのが仮名子(鎌子)だった(以下()内は実際の名前)。

正妻の哲子と三人の子ども、品子、節子、久夫は恐慌に陥った。だが、旦那が仮名子を可愛がるため無碍にはできず、生母のお村だけを追い払って仮名子を家に入れた。そして四人は仮名子をいじめ抜いたが、天罰が降ったのか久生は病死、品子と節子も嫁に行き、品子は離縁されて出戻ってきた。病に倒れた正妻の哲子は子どもたちに決して家を仮名子に取られるなと遺言して死去するが、願い虚しく鎌子が養子をとって跡目を継ぐことになる。

せめて結婚相手は姉妹が決めようと節子の義弟の敏夫をあてがおうとし敏夫も乗り気だったが、父の決めた司江子爵の賢二(寛治)が養子に入った。

かくて一つの敷地内に日本家屋の母屋、西洋館、離れの3棟が建ち、それぞれ旦那、仮名子と賢二、品子が住むことになる。女中たちは派閥闘争を繰り広げていた。

ある日、賢二が自動車を買い、運転手草地利助(倉持陸助)を連れてきた。姉たちは贅沢だと憤ったが、賢二は意に介さず仮名子と娘、運転手の4人で鎌倉の別邸に出かける。翌朝、草地に呼ばれた仮名子はお村が密かに会いにきたことを聞かされる。会ってみるとハンセン病で容貌が変わっていた。実はお村の母お霜を乱暴した浮浪者も同じ病いを患っていた。つまり仮名子は浮浪者の孫であることが暗に示唆されるのである(*1)。仮名子はショックを受けたが、その時夫の賢二が来たために慌ててお村を匿った。

その頃、姉たちが仮名子との結婚を唆した敏夫が留学先から帰ってきて、仮名子を脅迫にやってきた。後に妻の狼狽を不審に思った賢二が問いただすが、仮名子はお村のことも敏夫のことも言えない。それがかえって賢二の疑惑を深めてしまう。姉たちも仮名子と草地が怪しいと騒ぎ立て、親戚一同が集まった場で仮名子と敏夫、仮名子と草地が夫に隠れてこそこそしていると暴露。絶望した仮名子は死場所を探す旅に出、草地もついてくる。やがてふたりはやってきた鉄道に飛び込み最期を遂げた。

本連載の前編を読んだ読者はお分かりの通り、これらは事実ではない。芳川家の家族構成や姉たちの境遇、鎌子と倉地を疑って追い詰めたことなどは事実らしいが、ハンセン病だの浮浪者に暴行されるなどはどの資料にも載っていない。また、二人の姉はそれぞれ母親が違うこと、長女と鎌子(仮名子)の夫寛治(賢二)とが不倫関係にあったことなど、作者が知っていたら取り入れてもおかしくないような事実が書かれていない。

だが、嘘であることはこの際どうでもいい。

話の内容がどこかで聞いた展開であることに注意されたい。

主人公の夫人に一方的に横恋慕して噂を吹聴する男性、そのことを夫に言えないがために夫の信頼を失って破滅する夫人の図式は本連載第8回から10回で取り上げた田口掬汀『伯爵夫人』とそっくりなのである。

つまり、千葉心中に題材をとりながら、小説『伯爵夫人』に重ね合わせたのが本作というわけだ。

さて、『千葉情話』の方はといえば、これに輪をかけて事実から乖離している。ただし、こちらは「千葉心中」事件を元にしているとはどこにも書いていない。あくまでフィクションという体裁である。

伯爵夫人である梅由住子(芳川鎌子)と運転手の花柳助六(倉持陸助)とが千葉で心中するラストシーンこそあるものの、住子が独身時代から助六と知り合いであったり、住子の実家が騙されて土地を取り上げられたりと紆余曲折がある。なお、住子が陸助の子どもを妊娠していることが心中の大きな要因になっているが、これは3月10日付『都新聞』に出たガセネタ「其の後の鎌子 妊娠四ヶ月の身」をもとにしているのだろう。

ところで登場人物の名前が「梅由住子」、「花柳助六」と時代がかっていることに違和感を覚えないだろうか。その種明かし(?)が最後の一ページに記されている。曰く、

記せよ、時に大正六年四月一日、柳桜を混交〈こまま〉ぜし都の春は妖艶に、市村座にて『助六』と『梅由』を出し、これに対抗して帝国劇場にても又『助六』劇を演ずるのとき、一代の色男、花柳助六と梅由伯爵家の住子夫人が浮名を流す、必ずや満都の人気は此の書〈ほん〉と市村座と帝国劇場の「三つ巴」に集中すべく、此の書〈ほん〉は忽ち売り切れ、両劇場は大入り満員客留にてホクホクもの、縁起良し評判々々大評判……

どうも歌舞伎の演目である「助六」、「梅由」の興行に合わせて話題の事件を小説化したということらしい。が、「千葉心中」事件とは筋立て含めて何の関係もなく、どんな意図があったのかよくわからない。

著者の青木緑園は劇作家で、いわゆる「悲惨小説」をいくつもものした人物。

「悲惨小説」の名手として出版社からご指名を受けて事件の小説化を図ったものの事件自体に興味はなく、いっそ趣味に走ったということだろうか……?

それにしても、当時の鎌子に対する世間のイメージは「彼女を不倫呼ばわりをして、そういう女のあったのを、女性全体の恥辱でもあるように言ってやまなかった」(「芳川鎌子」長谷川時雨『新編 近代美人伝(上)』)とあるように嫌われ者である。大衆小説のセオリーに乗せるために悲恋の夫人に仕立ててみたところで現実とはかけ離れている。著者の思う通り「忽ち売り切れ」になったとしても内容は期待外れだったのではないか。と思うのだが、実は鎌子の死後に評価は大きく変化する。それについて触れる前に事件のその後を追ってみよう。

心中騒動の後、ひとり助かった鎌子は3ヶ月後に退院し渋谷の別邸に身を置いたが、住人たちに「姦婦鎌子ここにあり」と落書きされるなど嫌がらせを受けたことは前編に書いた通り。

仕方なく麻布の自邸に戻るが家族の監視の目に苦しめられる。一時、天理教の尼になるという噂がまことしやかに囁かれたが本人は否定。そして事件から一年後の秋に、なんと倉持陸助の後釜に入った運転手の出沢佐太郎とまたもや出奔するのだ。ふたりは向島、取手、大阪、横浜と転々した。その間も鎌子を庇い、密かに仕送りをしていた父が1920(大正9)年1月に死去。出沢は職を求め歩いたが、有名になりすぎたためになかなか雇われなかったという。そして父逝去の翌年、1921(大正10)年4月17日に鎌子が腹膜炎を拗らせて死去したというニュースが出た(*2)。事件のたった4年後にも関わらず新聞での扱いは思いのほか小さかった。

戒名は玉容院謙室惠譲大姉、遺骨は中野龍興寺に納められた(7月10日付読売新聞)。鎌子の祖母や姉が墓参するのと対照的に、爵位を継いで再婚した夫の寛治は一度も姿を見せなかった。内縁の夫の佐太郎は月命日に必ずやってきたという。

ところがここで驚くべきことが起こる。女学生たちの間で鎌子の墓参りは恋が叶うとして人気になったというのだ。また、売却された芳川家の自動車はハイヤーに転身、花柳界で縁結びの象徴としてもてはやされたらしい。何か新事実が判明したわけでもないのに、死後にまったく別の評価を得たことはとても興味深い。

考えてみれば、事件が起こった1917(大正6)年に鎌子を謗ったのは知識人や華族など一部の特権階級か、長家のおかみさんたちだった。それに対し亡くなった1921(大正10)年に鎌子をロマンティックに捉えたのは新時代のモラトリアム階級とも言える大正芸者や女学生である。たった4年の間に声が大きい階層が推移していった様が見て取れる。

そのなかで、夫人小説だけが相変わらず大袈裟な悲恋ものに足踏みして、時代に取り残されている感があるのであった。

(*1)ハンセン病は遺伝性ではないが本作ではそのように設定されている。これは誤りである。
(*2)なお、芳川鎌子が戦後まで生きていたとする資料がいくつかある。例えば紀田順一郎氏はエッセイに鎌子のことを書いたところ「芳川鎌子は戦時中まで、能登和倉で温泉旅館を経営していたと」指摘があったとしている(「討論 私たちがつくりたい「日本の記憶〈ジャパニーズ・メモリー〉」コレクション」『季刊 本とコンピュータ』2003春号)。


〈おもな参考文献〉
徳田春風『夫人と運転手心中するまで:小説』(贅六堂、1917年)
青木緑園『伯爵夫人:千葉情話』(文芸社、1917年)
「其の後の鎌子 妊娠四ヶ月の身」1917年3月10日付都新聞
長谷川時雨『近代美人伝(上)』(岩波文庫、2001年)
「新盆の三人の女の墓」1921年7月10日付読売新聞
「鎌子のかた身縁結びの自動車 花柳界で大歓迎」1922年7月1日付読売新聞
大串夏身、細馬宏通、松下眞也、森まゆみ、紀田順一郎「討論 私たちがつくりたい「日本の記憶〈ジャパニーズ・メモリー〉」コレクション」『季刊 本とコンピュータ』(7)、2003年)

 

兵庫県生まれ、東京育ち。文筆家、デザイナー、挿話蒐集家。著書『20世紀破天荒セレブ――ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝――莫蓮女と少女ギャング団』(河出書房新社)、近刊に『戦前尖端語辞典』(左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)。2022年3月に『明治大正昭和 不良少女伝』がちくま文庫となる。唄のユニット「2525稼業」所属。
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第12回 消費される夫人 中編

真珠夫人、感傷夫人に黄昏夫人……明治以来、数多く発表されてきた「夫人小説」。はたして「夫人」とは誰のことか? そして私たちにとって「夫人」とは? 夫人像から浮かび上がる近代日本の姿!

作品名:『夫人と運転手心中するまで:小説』徳田春風 1917(大正6)年
『伯爵夫人:千葉情話』青木緑園 1917(大正6)年

さて、前回は伯爵家の家付き娘で夫も子もある芳川鎌子が自邸の運転手と心中事件を起こした、そのあらまし(の前半部分ではあるのだが)を見てきた。加えて、事件は「千葉心中」と名付けられて報道合戦が過熱し、流行語が生まれ、小説が書かれ、芝居、映画、流行歌、講談、浪花節になるなど話題沸騰となったことも記した。

本連載のテーマ「夫人小説」であるところの徳田春風『夫人と運転手心中するまで:小説』、青木緑園『伯爵夫人:千葉情話』の話になかなか辿り着かないが、寄り道ついでに今回は事件に対する当時の女性知識人たちの反応を浚ってみよう。

まずは、平塚らいてう、与謝野晶子、山川菊栄、山田わかの4名から。この一年後にいわゆる「母性保護論争」を巻き起こすメンバーである。なお、4人が同人だった日本初の女性文芸誌『青鞜』は事件の前年に廃刊している。

まずは平塚らいてう。自身も作家の森田草平と「煤煙事件」とよばれる心中未遂事件を起こしバッシングされた過去がある。らいてうは今回の事件に際し上流家庭の目を覚まさせたとして「痛快にさえ感じ」たという(以下、「茅ヶ崎より」)。そして親に決められた結婚をした鎌子は「その結婚に対して責任をもって居ないのでありますから」恋愛結婚の末の不義よりは罪が軽いと説く。恋愛至上主義の「新しい女」としては、本人たちを差し置いた家同士の結婚の失敗に、そら見たことかと言いたいところだろう。また、「男女間の愛とさえ言えばすぐ劣情とか痴情とか言って暗黙の裡に非難の声と共に葬り去ろうとする私共の社会の習慣をたまらなく不快に思って居ます」「併し夫人が折角その愛を肯定するところまで乗り出しながら、愛の肯定は即ち情死であるというより以上の思案を見出されなかったことは何より残念な、腑甲斐ないことでした」とするのは自身の過去への思いもありそうだ。最後に、鎌子の母校である学習院女学部の主事が「私は何かの間違いだと思って居ますなどとしらばっくれた末」徳育にさらに力を入れていくと語った記事について「ああ、彼等の無知をいつまで続けようとするのでありましょう」と嘆く。

らいてうは今回の事件の責任は「上流階級の結婚制度と教育」と見ている。

では、与謝野晶子の意見はどうか。『東京朝日新聞』では「もともと素質の良くない女が倫理的に猥雑である家庭で我儘に育ち、其上に愛情の尠い良人の下に冷たく暮して居ると云うような境遇にあれば(中略)自然にこう云う過失と破滅とに向かう危険が醸されます」(「芳川鎌子さんの情死」)とにべもない。その後『横浜貿易新報』に寄せた原稿では「ここに少しく別の所感を述べてみたいと思います」として、鎌子の遺伝的素質(父が浮気性であること、母が元芸者であることを指す)が良くないと書く(以下、引用は「芳川鎌子さんの情死(再び)」)。晶子は実家の老舗和菓子屋が傾いたときに弱冠12、3歳で経営に携わり、22、3歳までに一人で建て直したという自負がある。「母性保護論争」でも「貧しい階級の者の中には怠惰な稟性のために此境遇に停滞して居る者も尠く無いのです」と書くなど、自己責任論にしがちである。とはいえ、「親はたとい親たらずとも、良人は其愛情と聡明とを以て、妻に対し、良人としての熱愛と保護とを加える人でありはせぬか」と夫を責める。この辺りは、妻子ある鉄幹を体当たりでもぎ取ったロマンチック・ラブ派ならではの意見である。また、「其れ程久しく夫婦の愛情の睽離〈けいり〉して居るのを知りながら、なぜ男らしく離別して伯爵家から身を退かなかったか」という夫寛治への疑問は現代の感覚に近い。そもそも伯爵は鎌子の身分であり夫は入婿であったのに、事件以降は鎌子が廃嫡され寛治が襲爵、再婚までしている。いかに女性の地位が低いかわかろうというものだ。

ともあれ、晶子の考える事件の責任は「周囲の不良(おもに夫)」ということになる。

山川菊栄は鎌子の行動を上流階級の空虚な生活に対する「消極的反抗」と見る(「女と消極的反抗」)。菊栄自身、進歩的な母のもとで育ったインテリ女性でかなりのリアリストとあって、とにかく筆が辛辣である。鎌子の意志薄弱ぶり、健全な反抗のできない態度は下等な労働者と同じで「社会の最上層と最下層とその属する階級こそ違え(中略)現代の生活が生んだ一種の劣敗者」とまで書く(以下、「芳川鎌子と九条武子と伊藤白蓮……新聞紙に呪われたる彼女の愛子」)。さらに返す刀で「同じ貴婦人でも、九条武子とか、伊藤白蓮とかいう高慢チキな、そのくせ臆病な体裁屋、もったいぶり屋、虚飾屋とちがって、赤裸々で厭味がなく、はるかに人間らしく思われます」と実名を出してぶった斬る。「無能は同点だとしたら、鎌子と彼らとの相違は、前者は恋ゆえに富を捨て、爵位を捨て、世間を捨てたに引きかえて、後者は金ゆえに恋を葬り、肉を売ったという点であります」という理屈である。

伊藤白蓮の本名は伊藤燁子、伯爵家の娘である。父の取り決めで14歳で知的障害のある子爵の息子と結婚、一児をもうけ20歳で離婚したが、25歳で父親ほどの年齢の炭鉱王伊藤伝兵衛と再婚させられた。上流階級の娘と労働者上りの成金との結婚は当時としてもあまりに露骨で「華族の令嬢が売りに出た」と話題になった。燁子の兄はこの結婚について「(燁子は)出戻りですからな」と答えたというが、家に逆らった者への意趣返しの意味もあったのだろう。伝兵衛は不身持な男で、虚しい気持ちを持て余した燁子は白蓮と名乗って短歌を詠み始める。山川菊栄が「高慢チキ」と書いたのはこの頃のことである。しかし、四年後の1919(大正10)年に燁子は社会運動家の宮崎龍介と駆け落ちし、新聞紙上に伝兵衛宛ての絶縁状を発表する、いわゆる「白蓮事件」を起こす。つまり鎌子と同じように「恋ゆえに富を捨て、爵位を捨て、世間を捨てた」のである。山川菊栄の断罪は少し早計だったといえる。

九条武子は京都西本願寺の令嬢で同じく伯爵家出身の歌人である。夫の九条良致は天文学を学ぶためにロンドンに在住し結婚一年目で別居、十数年もの間武子はひとりで暮らしていた。社会事業家、歌人として活動しながら夫を待ち続けた武子の姿は良妻の鑑とされたが、実際には夫婦ともに恋人がいたとも言われている。「体裁屋」という悪口はこの辺りからきているのかもしれない。

山川菊栄の見る今回の事件の責任は「上流社会の自堕落な風潮」、そして「本人」である。

山田わかは異色の経歴の持ち主である。16歳で結婚するも実家が傾き、助けてくれない夫に見切りをつけて18歳で渡米する。が、騙されてシアトルで3年間セックスワーカーとなるなど苦労を重ねる。サンフランシスコに逃れ、キリスト教に入信して社会学者山田嘉吉と知り合い結婚、帰国後は福祉活動に従事するかたわら、英語力を活かして翻訳をしたり使節としてファーストレディに会見するなど活躍した。

事件に関する見解は、昔からよくあることで、他人がふたりについてとやかく言う権利はないとする。そのうえで、「家庭が健全であれば如何なる似非議論も這入って行く隙間はない」「真の意味の貞淑は百万意をつくして性欲道徳の神聖を実行し、夫にも其れを実行させる事によって始めて〈ママ〉価値があるのである」と言い、女性にばかり貞淑を求めて男性に求めない世間に憤る。ただし鎌子については「一切を私事として取扱おうとした事は真の恋愛を解せず、盲目な本能に翻弄された奴隷である。其の無知は憐れむべきも其の無責任は許す事が出来ない」と書く(以下、「芳川鎌子夫人の情死沙汰を如何に観るか」)。また、本能は社会を進歩させるが本能の標準(基準のことか)が必要でそれを無視するものは亡びるしかなく「鎌子夫人の死は何にもならぬこの亡びである」とする(鎌子は死んではいないが、死亡の誤報が出たときかもしくは社会的な死を指しているのか)。山田わかの見る事件の責任は「本人の無知」と「性欲道徳の不健全な社会」である。

それぞれの生い立ちや立場の違いで意見が割れるところもあるが、男性中心社会や上流階級の腐敗への異議が中心となっている。

同時代のその他の女性の意見はどうか。

女子教育家で婦人矯風会を立ち上げた矢島楫子は、一夫一婦制の大切さを男性にも徹底する必要があり、事件の責任はそれができない「教育者にある」(「芳川伯爵気の若夫人は何故情死したか 上流子弟の憐むべき状態」)と言い、作家、編集者の長谷川時雨は「私は知らないことを、分明〈はっきり〉と言うだけの勇気は持っていない。またその代りに、独断で彼女を悪い女としてしまうことも忍び得ない」「ことに複雑した心理の、近代人の、しかも気の変りやすい、動きやすい女性の心の解剖は、とても、不可能であると思っている」(「芳川鎌子」)とあくまで新聞報道や世間の白眼視を諌める。なお、長谷川時雨は当時の一般人の受け止め方についても記している。「因習にとらわれ、不遇に泣いているような細君たちまでも、無智から来る、他人の欠点〈あら〉を罵しれば我身が高くでもなるような眺めかたで、彼女を不倫呼ばわりをして、そういう女のあったのを、女性全体の恥辱でもあるように言ってやまなかった。けれどもそういう女たちのなかには、卑屈な服従も美徳であると思い違え、恋愛は絶対に罪悪だと信じられているからでもある」「立派な紳士でさえ「沙汰〈さた〉のかぎりだ」という言葉で眉根〈まゆね〉をひそめただけで、彼女に対する一切を取片附けてしまったのが多かった」。ただでさえ評判の悪い上流階級のそれも女性が醜聞を起こすということは嘲罵されても仕方がないという雰囲気だったのだ。

最後に、毛色の変わった意見をふたつ紹介して中編の幕を閉じよう。

雑誌『法治国』には無記名の法律家が、鎌子は姦通罪、または自殺教唆の罪で6ヶ月以上3年以下の懲役に処されるべき立場だが、その責任は家庭や社会制度にもあると書いており、鎌子のみを裁くのにはしのびないという心情が垣間見える。

また、これも無記名だが雑誌『東京』の記事「芳川家若夫人の事件 より以上の事が カフェーの夜話」には、カフェーで耳にしたとある男爵家の男と新聞記者らしき男の会話を記している。曰く、華族夫人の醜聞などはよくあることで鎌子は心中未遂をしたから暴露されたが、発表されずに済んだ者たちに罪はないのか、マスコミの権威を疑うと男爵が言えば、記者は芳川家がマスコミ対応を元警視総監の岡喜七郎に頼んだのが間違いだと意外なことを言う。「岡は警察の事だって碌すっぽ知ってやしない、芳川家から急報に接した時に、岡は確かにノロマの新聞屋なんぞに未だ此の事件を嗅ぎ付け得やしまいと考えたのが大間違いさ。否や岡の馬鹿野郎と言えば、彼の芳川家の事が新聞に出てから三日ばかり経つと急に狼狽して各新聞社の社会部長とやら云うものを招待し、萬望〈どうぞ〉此の上深く芳川家の内情を突込んで書いて呉れるなと叩頭百拝して頼んだそうです。間抜けも此位だと警保局長も勤まりますね」と驚きの暴露に及んだ。確かに、ふたりの遺言の存在を隠したり、新聞記者をまくために囮の車を出したりと、芳川家が木で鼻を括ったような対応をしたことも世人の反感を買った。これらの指示を岡喜七郎がしていたとしたら、風向きを読み誤ったと言うしかない。一握りの権力者よりも大衆の声が次第に大きくなった大正らしい挿話ではある。

 


 

〈おもな参考文献〉
平塚らいてう「茅ヶ崎より」(『現代の男女へ:らいてう第三文集』南北社、大正6年)
与謝野晶子「芳川鎌子さんの情死」「芳川鎌子さんの情死(再び)」(『鉄幹晶子全集18』青弓社、平成13年)
山川菊栄「女と消極的反抗」(『山川菊栄集 評論篇 第一巻 女の立場から』岩波書店、平成18年)
山川菊栄「芳川鎌子と九条武子と伊藤白蓮……新聞紙に呪われたる彼女の愛子」(『山川菊栄集 評論篇 第二巻 女性の反逆』岩波書店、平成13年)
山田わか「芳川鎌子夫人の情死沙汰を如何に観るか」(『第三帝国』(83)第三帝国社、大正6年4月)
長谷川時雨「芳川鎌子」(『新編 近代美人伝(上)』岩波文庫、昭和60年)
「芳川伯爵気の若夫人は何故情死したか 上流子弟の憐むべき状態」大正6年3月10日付東京朝日新聞
無記名「法律時評」『法治国』(30)(東京法律事務所、大正6年4月)
「芳川家若夫人の事件 より以上の事が カフェーの夜話」(『東京』1(4)帝京社、大正6年4月)

 

兵庫県生まれ、東京育ち。文筆家、デザイナー、挿話蒐集家。著書『20世紀破天荒セレブ――ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝――莫蓮女と少女ギャング団』(河出書房新社)、近刊に『戦前尖端語辞典』(左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)。2022年3月に『明治大正昭和 不良少女伝』がちくま文庫となる。唄のユニット「2525稼業」所属。
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