第15回 「自意識過剰」の夫人 中編

真珠夫人、感傷夫人に黄昏夫人……明治以来、数多く発表されてきた「夫人小説」。はたして「夫人」とは誰のことか? そして私たちにとって「夫人」とは? 夫人像から浮かび上がる近代日本の姿!

作品名:『真珠夫人』菊池寛 1920(大正9)年

今回は、『真珠夫人』のプロットがどこから来たのかを見ていこう。

作者本人は「その頃、私はバルザックの小説を愛読していたので、其処から多少のヒントを得た」(『半自叙伝』)と書いているが、どうしてどうして。

菊池寛は初の長編連載小説を書く際、国内外の通俗小説を大量に読破していた。

当時は邦訳される前の原書からストーリーやモチーフを借りてくるのは珍しいことではなく、ある意味、外国語が読める者の特権とも言えた。

『真珠夫人』の後に手がけた新聞小説『第二の接吻』(東京朝日新聞)の際にはさらにこの手法を拡大し、約300冊を片っ端から読んだのみならず、「しまいには、新聞広告で、英語の小説の読み手を募集し、数十冊の海外の大衆小説を読ませて、そのストリイを訳させて読んだ」「中には大学の英文科を出て、このような“小説読み”をやり、のちに、文春系の文士と結婚したりしたような女性もあった」(『新聞小説史 大正篇』)というから、驚きである。

では具体的に見つかっている元ネタはなにかといえば、冒頭の事故からの探偵小説的展開はバルザックの「ことづけ」から(但し「ことづけ」は自動車ではなく馬車)、同じくバルザック『ランジェ侯爵夫人』、アナトール・フランス『赤い百合』からは男性を翻弄するサロンの女王像を、メリメ『カルメン』からは男女を結び付ける小道具としての時計を、尾崎紅葉『三人妻』からは、成りあがりの実業家が恋人のいる芸者を金と策略で手に入れるというプロットを、それぞれ借りてきたと思われる。

また、イタリア映画『王家の虎』(原題Tigre reale、ピエロ・フォスコ監督、1916年製作)から着想を得ていると証言したのは久米正雄で、「兎に角、僕と菊池と、ローヤルタイグレス『王家の虎』というのを見て、あれに影響されて菊池は『真珠夫人』を書き、僕は『不死鳥』を書いた。菊池の『真珠夫人』の方が評判はよかったが、明かに『王家の虎』の影響なんだ」(「映画漫談会―第六十二回新潮合評会―」『新潮』1928年)としている。

社交界の花である伯爵夫人に翻弄される青年外交官という図式、また途中で回想シーンが挟まれたり、伯爵夫人の初恋の破局や恋人の自殺など『真珠夫人』との共通点は多い。

興味深いことに、菊池自身が『真珠夫人』のなかでネタバレをしている箇所が二つある。

ひとつめは、主人公であり狂言回しでもある渥美信一郎が瑠璃子と二度目に会ったときの会話である。

「仏蘭西文学が大好きですの。」という瑠璃子はモーパッサンを嫌いと言い、「一等好きなのは、メリメですわ。それからアナトール・フランス、オクターヴ・ミルボーなども嫌いではありませんわ。」と話している。

メリメ、アナトール・フランスの名がみえるが、この伝でいけばミルボーも元ネタのひとつかもしれない。

ふたつめは、瑠璃子のサロンで白熱する文学論争だ。

明治を代表する文豪は誰かという議論が起こり、瑠璃子が国木田独歩を推し、他の者はそうじゃないと言うなか意見を求められた信一郎は、「やはり、月並ですが、明治の文学は紅葉などに代表させたいと思うのです」「過去の作品を論ずるのには、時代と云うことを考えなければ駄目です。『金色夜叉』は今読めば通俗小説かも知れませんが、明治時代の文学としては、立派な代表的作品です」と言い、その場の者に一笑に付される。

そこから通俗小説論争が始まり、信一郎は躍起になって「『金色夜叉』が通俗化しているからと云って、あの小説の芸術的価値を否定することは出来ませんよ。僕は芸術的に秀〈すぐ〉れていればこそ、民衆の教養が進むに従って、段々通俗化して行ったのだと思うのです。紅葉の考え方や、観方はいかにも常識的かも知れません。が、然し作品全体の味とかその表現などにこそ、却って芸術的な価値があるのじゃありませんか」と一席ぶつ。

すると、途中から現れた新進作家の秋山正雄という男が、「紅葉を第一の小説家として、許すことは僕には出来ませんね。文学史的に見れば、紅葉山人などは、明治文学の代表者と云うよりも、徳川時代文学の殿将ですね。あの人の考え方にも、観方にも描き方にも、徳川時代文学の殼が、こびりついているじゃありませんか」と鼻で笑い、明治を代表する作家は樋口一葉だと言い切る。

結局、信一郎は意見が出るたびに寝返る瑠璃子に不快さを覚え、立ち去る。

菊池自身は、一葉、独歩を評価している。

「近世の文人達」には「明治の小説では、自分は「たけくらべ」を、最高の作品だと思う。(中略)自然主義など云う声をきかない時代の作品でありながら、しかも真実の世界が描かれている。その他作品は、たいしたものはないが、「たけくらべ」だけで、明治の文壇に独特の位置を占めていると思う」「明治の小説で、一葉に次ぐものは、独歩だと思うが、これはいくらか稚拙である。(中略)田山花袋等の自然主義の作家よりも、独歩の作品が清純であり高雅である。そこには、詩があり詠嘆があるからである」としている。

紅葉については「紅葉の「金色夜叉」を、何十年目かに読んで見た。この小説は純然たる通俗小説である。(中略)文章は古いけれど、会話が、なかなか新しいところがあり、文学的価値はないにしても、明治文学の中では尤も永く読まれているのも尤もだと云う気がした」(「話の芥籠」1935年3月)とする。

一見あまり評価していないようにも読めるが「純文学でも大衆文学でも、人に沢山読まれるのが、肝心である。読まれない文芸などは、純文学だろうが何だろうが、結局飛べない飛行機と同じものである」(「話の屑籠」1934年10月)という菊池の思想からすれば太鼓判である。

菊池寛は当時流行していた自然主義文学には違和感を覚えていた。

彼らが大事にするリアリズムについて「実際生活を描いて、本当らしく見せる位の事は、小説家でなくても誰にでも出来る。小説家が、そんな安逸を貪って何うなるか。作ったことを描いて本当らしく見せることが、小説家の腕である」「とにかく、プロットもテーマもない、自叙伝的な、長篇でもなければ短篇でもなく、日記でもなければ小説でもないと云ったような、妙な小説が流行して居るのは、確かに自然主義と露西亜文学の悪影響である」(「とりとめなき」1920年9月『新潮』)との思いがあった。
「芸術に階級なし」をモットーとしていた菊池は、一部の人間の特権である文壇文学は唾棄すべきものだった。

「真珠夫人」執筆の15年後、数々の新聞小説をものした後に書いた「連載小説論」(『新文芸思想講座』文藝春秋社、1934年)には「誇張して言えば、上は一国の宰相から下は路傍のルムペンに至るまで新聞小説を読んでいると思ってよい。この広大無辺の読者層に対って作者が、あらゆる階級の人々の興味を沸き立たせようと試みるのは不可能に近いかも知れぬが、少くともあらゆる階級の人々にとって通読できるような小説を書く事を努力するのが至当であると思う」「此処で自分の事を言えば、私は文芸批評家諸君から菊池寛の書く新聞小説は愚劣だと言われる分には、如何ほど罵倒されてもビクともしない。しかし義務教育程度の読者諸君から菊池寛の新聞小説は難しくって自分には読んでも解らないと言われたとしたら、私は作家としてその手腕の至らなぬ点を恥辱と考えてもよい」と書いている。

持ち前の勘の鋭さから大衆の時代が来ると気がついた菊池の、新聞小説に対する並々ならぬ気構えが伝わる文章である。

それにしても、大舞台の新聞連載にあたって通俗小説の登場人物たちが通俗小説について語るというメタフィクショナルな仕掛けを施すとはいかにも大胆である。

さらにいえば、「カルメンなんか、日本では通俗な名前になってしまいましたが、原作はほんとうにいいじゃありませんか」とか、「例えば『三人妻』など云う作品だって如何にも三人の妻の性格を描き分けてあるけれども」などと元ネタの作品名まで出したり、瑠璃子に「何うも日本の文壇などで、仏蘭西文学とか露西亜文学だとか申しましても、英語の廉価版のある作家ばかりが、流行っているようでございますわね」とまで言わせるあたりは、大胆を通り越して茶目っけ、もしくは読者への挑戦状とすら見える。

菊池寛の考える通俗小説の概念の幅の広さ、そして読者(マス)への圧倒的な信頼を感じずにはいられない。

さて、数多の海外文学を参照しながら準備した『真珠夫人』は、では最初から最後までストーリーを決めて書いたかといえばさにあらず。

早くも連載開始2か月で「困っちゃった、もう書くことがないんだよ。どういう風に筋を運んでいいか、まるで見当がつかない」(藤森淳三「菊池寛の一面」)とこぼしていたと言われている。

それを裏付けるように、連載開始前に新聞に告知された文章はこうだ。

清麗高雅真珠の如き美貌と、復讐の女神の如き激しき性格と、近づく舟人を亡し盡す人魚の如き魅感とを持てる女が傷けられたる初恋の記憶の為に、触るる者悉く刺さずんば止まざる毒を蔵するに至る経路を描きたる長編にして作者が新聞小説に筆を下す最初の作として、最善の努力と苦心とを傾倒したる雄編なり
起稿に際して作者の感想に曰く「筋の面白い小説は偽〈うそ〉らしく、偽らしくない小説は面白くない。興味と真実性とを一致させる為に自分は力を盡したい。面白くてしかも本当らしい小説をかいてみたい」と、以って作者の企図の一端を知るべしである。(「新小説」1920年5月26日付東京日日新聞、大阪毎日新聞)

美しい主人公が復讐するということ以外、詳しいことはわからない。

これからいかようにも転がせられそうだ。

しかし、しかしである。

驚くことに、このあやふやな文章を読んで、自分をモデルにしたと怒り出したある名流夫人がいたのだ。

実はこれが本題なのだが、長くなったので次回に譲る。

 


〈おもな参考文献〉
菊池寛『半自叙伝・無名作家の日記』(岩波文庫、2008年)
高木建夫『新聞小説史 大正篇』(国書刊行会,、1974年)
「映画漫談会―第六十二回新潮合評会―」『新潮』25(9)(新潮社、1928年9月号)
田中眞澄「『真珠夫人』のルーツ」『文藝春秋』81(8)(文藝春秋、2003年8月号)
「新小説」1920年5月26日付東京日日新聞
鹿島茂「第十二回 『真珠夫人』創作秘話」『菊池寛アンド・カンパニー』『文藝春秋』100(12)(文藝春秋、2022年12月号)
小林幹也「誰の視点で眺めるか ー菊池寛『真珠夫人』の視点人物」『文学・芸術・文化: 近畿大学文芸学部論集』18(2)(2002年3月)
『菊池寛全集 第二十二巻』(文藝春秋、1995年)
『菊池寛全集 第二十四巻』(文藝春秋、1995年)
金子勝昭『たいまつ新書50 菊池寛の時代』(たいまつ社、1979年)

 

兵庫県生まれ、東京育ち。文筆家、デザイナー、挿話蒐集家。著書『20世紀破天荒セレブ――ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝――莫蓮女と少女ギャング団』(河出書房新社)、近刊に『戦前尖端語辞典』(左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)。2022年3月に『明治大正昭和 不良少女伝』がちくま文庫となる。唄のユニット「2525稼業」所属。
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第14回 「自意識過剰」の夫人 前編

真珠夫人、感傷夫人に黄昏夫人……明治以来、数多く発表されてきた「夫人小説」。はたして「夫人」とは誰のことか? そして私たちにとって「夫人」とは? 夫人像から浮かび上がる近代日本の姿!

作品名:『真珠夫人』菊池寛 1920(大正9)年

さて、『真珠夫人』である。

本連載を人に説明する際によく「『真珠夫人』とか『武蔵野夫人』のようにタイトルに夫人とつく小説を時代順に読んで、当時のフィクションと現実の夫人像に迫る」のように言い、ある種「夫人小説」の代名詞としていた。

それだけ有名なこの小説に関する評論やエッセイは浜の真砂ほどもあり、通俗小説のエポックメイキングな作品として、またメディアミックスを含めた「現象」として、作者菊池寛の作家人生に於ける位置づけとして、もしくは読者個人の思い出や衝撃として、さんざん語られてきた。

今さらこの有名な作品と著者に付け加えることは何もない。かもしれない。

が、冒頭に示した主旨の連載であるならば、『真珠夫人』を軸にした虚実の夫人、いわゆるモデル問題をメインにしてみるのが筋かもしれない。

またモデルか、と思う向きにお伝えしたいのはこの小説、モデルではないのにモデルにされたと思い込んだ当時を代表するいわゆる名流夫人がいたのである。

ともあれ、まずは『真珠夫人』にまつわる事実の確認をしておこう。

それはつまり冒頭にひいた「さんざん語られてきた」ことのおさらいになる。

本作は1920年(大正9年)6月9日から12月22日まで全196回、『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』(現『毎日新聞』の大阪本社、東京本社にあたる)に同時連載された、菊池寛にとって初の長編小説であり朝刊連載である。

当時の菊池は一般には無名で「作者を知らない読者は、掲載紙が「東日、大毎」であるために、菊池幽芳氏が本名で書き出したとばかり思っていた。そして本名の小説の方が面白いという評判までが立った程」(鈴木氏亭『菊池寛伝』)だった。前年に「大阪毎日新聞夕刊」で連載していた「藤十郎の恋」は舞台化もされているが、それでも一世を風靡したわけではない。

言ってみれば大抜擢だったわけで、これはひとえに「大毎」の学芸部長だった薄田泣菫の目利きによるものだ。

といっても、芥川龍之介の推薦があってのことであるし、一度の交渉ですんなり話が進んだわけでもない。が、森鴎外や志賀直哉らのハイブロウな作品が「大毎」読者(泣菫が「低級だからそのつもりで」と志賀宛の手紙に書いた、そんな読者)と嚙み合わなかった後に登板し、その任務に十分すぎるほど応えたのは事実である。

では、具体的にどれほど人気だったのか。

まず「『大阪毎日』だけで、之が為め五万以上の読者が殖えたそうだ」(『新潮』34〈11〉)とか「『大毎』の読者を一日に一万人ずつふやしたという伝説をもつ」(「新聞独占の形成道程」『思想』〈368〉)などの言説がある。さすがに後者は大袈裟ではないかと思うがいずれにしても類例のない流行り方で、連載中にもかかわらず前編として単行本が発売され、数え切れないほどの芝居にもなり、映画化は最終的に4回を数えた。芝居は河合武雄一座と伊井蓉峰、喜多村緑郎一座が競って公演したが、芥川龍之介、久米正雄、宇野浩二、菊池寛らが講演のために来阪した折には5、6箇所の劇場で芝居がかかり、菊池の風呂を芸者が覗きに来たという逸話がある(「文壇風聞記」)。また、志賀直哉は連載から7年後の昭和2年に信州の山間部で車掌や若者が熱心にあらすじを話しているところに居合わせ、「菊池寛が一とういいわ」という娘に「菊池寛は私の知人だよ」とか「(登場人物の一人杉野直也について)ナオヤというのは私の事だ」と言ったらみんな驚くだろうと想像したと書いている(『豊年蟲』)。

熱狂は文学者を目指す青年たちにも及んだ。「新聞小説など、軽蔑してい」た学生の林房雄が「第一回から読んで、非常に驚き魅きつけられ、最後迄見通した」(「真珠夫人を読んだ頃」)り、「既に文学青年で、通俗小説、大衆小説を単純に軽蔑して居」た倉島竹二郎が「すっかり魅入られて、毎日、新聞が来るのが待ち遠しいほどになってしまった」(「真実の人菊池寛」)。なお、帝大の学生だった川端康成は連載当時に菊池寛宅に上がっているが『真珠夫人』は「熱心に読んだのは必然」「新聞小説として新鮮で生彩ある感じだったという以上に、詳しい印象はおぼえていない」としている(川端康成「解説」)。

ではその「生彩」さのありかをさぐるために、簡単にあらすじを見ていこう。

実際に読んでみたい人は青空文庫に無料公開されているので参照されたい。

会社員、渥美信一郎はタクシー事故に遭い、たまたま乗り合わせた青木淳という青年から鞄の中のノートを捨てて欲しい、そして時計を渡して欲しいという遺言を受け取る。慎一郎はノートを手がかりに荘田瑠璃子の屋敷に赴き、彼女が財産家の未亡人であり、その美貌で男性たちを翻弄していることを知る。

もともと瑠璃子は男爵の娘で、同じ華族の杉野直也という恋人がいた。ふたりは荘田勝平という船成金の園遊会に招かれた際、密かに荘田の悪口を言っていたところを本人に聞かれてしまう。荘田は瑠璃子の美しさと華族の傲慢さに腹をたて、瑠璃子を妻にしようと目論んだ。瑠璃子の父は貴族院の議員で清廉潔白な人物だが家は抵当に入っていた。そこに目をつけた荘田は縁談を持ちかける。父は抵抗したが荘田の奸計で万策尽きたとき、瑠璃子は「ユーディット」(旧約聖書外典『ユディト記』に出てくる女性。故郷を守るために自ら敵陣に入って敵将の寝首を掻く)として結婚すると宣言。それはつまり結婚はしても貞操は守ることで荘田を生涯苦しめるという計画だった。

宣言通り瑠璃子は荘田と寝室を共にしなかったが、とうとう逃げられなくなったある日、知的障害のある荘田の長男が父を殺してしまう。

あっけなく未亡人となった瑠璃子は空虚な気持ちからサロンに男性たちを集めて恋愛遊戯にふける荒んだ生活に陥る。

ノートを託された信一郎も瑠璃子に魅了されサロンに出入りするようになるが、そこに死んだ青木淳の弟、稔がいることを知る。稔は兄同様に瑠璃子に惹かれており、実は瑠璃子も同じだったのだが、荘田の遺児、美奈子が稔を慕っていることを知り、母として潔く身を引く決心をする。ところが稔は瑠璃子を逆恨みし、彼女を刺して自殺。瑠璃子は今際の際に駆け付けた恋人の杉野直也に両親がいなくなった美奈子を託して絶命した。

それからしばらくして、画家を目指して家を飛び出した瑠璃子の兄が描いた一枚の絵が二科展に現れた。「真珠夫人」と題された瑠璃子の肖像画で、この絵は世人の称賛を浴びたのだった。

まず、主人公の渥美信一郎がいわゆる新中間層と呼ばれるエリートサラリーマンであることが今までになく新しい。そして、のっけから人が亡くなり、謎の遺言を手がかりに探偵小説ばりの展開が始まるのも斬新だ。さらに、自動車、白金(プラチナ)製の女性用時計、サロン、二科展などの道具立てもモダンである。園遊会も田口掬汀辺りが書けばどことなく明治初期かと思うような古臭いものになりがちだが、菊池は「丘の上には、数本の大きい八重桜が、爛漫と咲乱れて、移り逝く春の名残りを止めていた。其処から見渡される広い庭園には、晩春の日が、うら/\と射している。五万坪に近い庭には、幾つもの小山があり芝生があり、芝生が緩やかな勾配を作って、落ち込んで行ったところには、美しい水の湧く泉水があった」のように生き生きと描く(これは菊池寛にしては珍しかったため友人たちが「おい、菊池が自然描写をする」と囃し立てたとは小島政二郎の言)。さらに瑠璃子のサロンで通俗小説論が繰広げられるなど、メタな仕掛けもある。

とかく新聞小説といえばジェットコースター的展開が必須だが、今までの家庭小説のように狭い人間関係のいざこざやお涙頂戴で引っ張るのではなく、多様な人物たちの無理のない心理描写で次を期待させる。人を逸さぬストーリー展開は2002年に再ドラマ化してあらためて大ブームになるくらいに今でも通用する巧さである。

なにより美しい瑠璃子が「明治時代の美人のように(中略)人形のような美しさ」ではなく、皮肉も言えば本音も言う理性的且つ能動的な女性であることが画期的だった。「妾〈わたくし〉、男性がしてもよいことは、女性がしてもよいと云うことを、男性に思い知らしてやりたいと思いますの。男性が平気で女性を弄ぶのなら、女性も平気で男性を弄び得ることを示してやりたいと思いますの。妾〈わたくし〉一身を賭して男性の暴虐と我儘とを懲らしてやりたいと思いますの。男性に弄ばれて、綿々の恨みを懐いている女性の生きた死骸のために復讐をしてやりたいと思いますの」などと言い放つ女主人公。誰もが読む新聞というメディアで、建前ではなく本音を語る瑠璃子のような女性が登場する小説が載ること自体、瞠目に値したのだった。

それにしても、長編小説が初めての菊池寛がなぜここまで万人を熱狂させるほどの作品を書けたのか。

次回は本作の着想やモデルについて、またモデルにされたと勘違いした自意識過剰の名流夫人について掘り下げる。

 


〈おもな参考文献〉
鈴木氏亭「新聞小説に革命を齎した『真珠夫人』」『菊池寛伝』(実業之日本社、1937年)
澤木知彦「『大阪毎日新聞』と菊池寛の入社前後をめぐって――薄田泣菫の役割を中心に」『日本大学大学院国文学専攻論集』12(2015年)
「真珠夫人の後編」『新潮』34(11)(新潮社、1921年)
「文壇風聞記」「真珠夫人の後編」『新潮』34(1)(新潮社、1921年)
荒瀬豊「新聞独占の形成道程」『思想』(368)(岩波書店、1955年)
志賀直哉「豊年蟲」『近代日本文学21 志賀直哉集』(筑摩書房、1978年)
川端康成「解説」『菊池寛文学全集』第八巻(文藝春秋新社、1960年)
小島政二郎「「真珠夫人」思い出話」、林房雄「真珠夫人を読んだ頃」、倉島竹二郎「真実の人菊池寛」『菊池寛全集』第六巻〈第六回配本〉付録「菊池寛全集通信・3」(高松市菊池寛記念館、1994年)
鹿島茂「菊池寛アンド・カンパニー 第十二回『真珠夫人』創作秘話」『文藝春秋』(文藝春秋社、2022年)
篠田太郎「真珠夫人」『国語と国文学』12(10)(至文堂、1935年)

 

兵庫県生まれ、東京育ち。文筆家、デザイナー、挿話蒐集家。著書『20世紀破天荒セレブ――ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝――莫蓮女と少女ギャング団』(河出書房新社)、近刊に『戦前尖端語辞典』(左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)。2022年3月に『明治大正昭和 不良少女伝』がちくま文庫となる。唄のユニット「2525稼業」所属。
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