第16回 「自意識過剰」の夫人 後編

真珠夫人、感傷夫人に黄昏夫人……明治以来、数多く発表されてきた「夫人小説」。はたして「夫人」とは誰のことか? そして私たちにとって「夫人」とは? 夫人像から浮かび上がる近代日本の姿!

作品名:『真珠夫人』菊池寛 1920(大正9)年

さてさてさて。

前編、中編の前置きが長くなったが、本題の「『真珠夫人』の連載告知文を見て、モデルにされたと誤解した名流婦人の話」に移ろう。

前回見た通り、連載開始前の新聞告知文は「清麗高雅真珠の如き美貌と、復讐の女神の如き激しき性格と、近づく舟人を亡〈ほろぼ〉し盡〈つく〉す人魚の如き魅感とを持てる女が(後略)」(「新小説」1920年5月26日付東京日日新聞、大阪毎日新聞)である。

つまりこれらの美徳を自らをもって任じている夫人ということになるが、何を隠そうそれは柳原白蓮燁子である。

『真珠夫人』といえば白蓮がモデルであるとする史料も多いが(慎重に「と言われた」としているものもある)、実際のところ菊池寛はさまざまな海外小説を下敷きにして書いている。

しかしこの件、どうも複雑な要素が絡み合っているのだ。

柳原白蓮は大正三美人(あとのふたりは九条武子、江木欣々または林きむ子)の一人といわれ、時代を象徴する夫人である。

第12回 消費される夫人 中編」に経歴などを書いたので多くを繰り返さないが、14歳で知的障害のある子爵の息子と結婚させられ、一児をもうけて離婚した後、25歳年上の炭鉱王と再婚、豪華な暮らしをしながら孤独や懊悩を短歌として発表し「筑紫の女王」と呼びならわされていた。

夫は学のない叩き上げの炭鉱王とはいえうなるほどの大金持ち、庶民から見れば懊悩なんてブルジョア夫人の贅沢な悩みである。

実際には、夫伝兵衛には妾が数名おり、そのうちのひとりの女中頭が家を取り仕切っていたり、子どもがいないという話も嘘、白蓮が華族の出だからとわざと人前で叱り飛ばされたり、金を使わせなかったりと言うに言われぬ苦労があったのだが、それは離婚後に明かされたこと。

それまでは、山川菊枝が書いたように「高慢チキな、そのくせ臆病な体裁屋、もったいぶり屋、虚飾屋」(「芳川鎌子と九条武子と伊藤白蓮……新聞紙に呪われたる彼女の愛子」)というのがネガティブに捉えたときのひとつのイメージであろうし、菊池寛もそう考えていたのかもしれない。

白蓮が『真珠夫人』のモデルにするのはやめてほしいと手紙に書いてきたことに対し、翌年になって菊池は『婦女界』誌上で公然と反論した。

ちなみにこの年、白蓮は10年の結婚生活の後に社会主義者の宮崎龍介と駆け落ちするが、その際、夫に宛てた絶縁状を本人の手に渡る前に新聞紙上に発表、「白蓮事件」としてセンセーションを起こしたのだが、菊池はそのことも手厳しく評する。

自惚れ強い彼女は嘗て私が、大阪毎日新聞と東京日日新聞紙上に小説「真珠夫人」を連載するに先だち、その予告を出しました処、その予告文を見たのみで、燁子さんは「真珠夫人」の女主人である瑠璃子のモデルに、自分を使うのではないかというような手紙を寄越しました。勿論私の書いた「真珠夫人」は、燁子さんをモデルにしたのではなかったのです。(中略)同じ家出でも「人形の家」のノラが、過去の人形のような生活を悔いた瞬間決然として夫の家を去ったあの行為は、人間としての尊き理智が働いての覚醒でありますから、心から賛成出来ますが、燁子さんの家出には相手があるので、極めて不純なものです。(「「真珠夫人」のモデルと自認せし白蓮女史」『婦女界』1921年12月号)

この菊池の反論を読み、予告だけで自分だと思い込む白蓮の自意識過剰ぶりに筆者も同じくあきれたひとりである。

ところがこの話、少し混乱が生じていたらしい。

それを解き明かすのは、同じく『婦女界』における6年後の記事「一問一答 柳原白蓮夫人と菊池寬氏」(1927年)である。

このときふたりは初めて対面している。

柳原 あの時私は福岡に居りましたが、大阪毎日に『真珠夫人』の予告が出ました時、それをお読みになった、私のお友達の久保さんの奥様が「『真珠夫人』はあなたのことを書くのではないでしょうか、似ていますよ」と仰いました。すると又私の家の隣りに住んでいた大阪毎日新聞の北尾という人が来て、「本社の画家から、あなたの写真を送って呉れといって来たから、本当にあなたをモデルにするのでしょう。挿絵を描く都合があるのでしょう」といいました。それでも私は半信半疑でしたが、その中〈うち〉に北尾さんが勝手に、あなたへ手紙を出したのです。その後あなたから来たというお返事を見せて呉れましたが、何だか私のことを己惚れてる生意気なことをいう女――さも憎らしそうなお手紙でした。全く思いも寄らぬ誤解なので……久保さんの奥様は、菊池さんに手紙を出して、私の立場を明かにして上げるともいって下さいましたが、それを止めて頂きました。何れお目にかかることがあったら、その時に私の気持ちを申し上げればと思っていたのです。

久保さんの奥様と言われても誰が誰やらだが、いずれにしても手紙は白蓮を騙った北尾という記者のものだったらしい。

菊池は北尾が話題作りのためにそうしたのだろうと言い、白蓮は画家が勝手にモデルにしようとしただけだろうと想像している。

では一件落着かと思いきや、話は驚きの展開を見せる。

柳原 (前略)……あの『真珠夫人』には、何かモデルがおありでしたのでしょうか。
菊池 まあ幾らかはね……
柳原 何かありそうに考えられますもの。
菊池 あなたなんかもモデルの一部にはなっているのです。あなたの実生活を知らないけれど、あなたという人が、僕の思い付きの一部になっているのは事実です。

なんと、やはり白蓮をモデル「の一部」にしたというのだ。

よく考えてみれば、知的障害のある登場人物が瑠璃子を思慕している設定は偶然にしては似すぎている。

それにしても、「勿論私の書いた「真珠夫人」は、燁子さんをモデルにしたのではなかったのです」とはなんだったのか。

これだから作家の言葉は信用がならない。

しかし白蓮は

柳原 併〈しか〉しああいうようなことは、世間には例が沢山あるのですからね。

と大人の対応をしている。

確かにその言葉通り、1917(大正6)年ごろから華族と平民実業家の結婚は社会現象となっていた。「成金に狙われたお公家さんの姫君」(1917年10月14日付大阪毎日新聞)という記事にはなんと婚期にある狙われそうな華族の子女30人の名前と年齢を列記している。まるで彼女たちがどこに嫁ぐか注視しろと言わんばかりである。

また『真珠夫人』内にはとある実在の騒動を「小林幸子事件」として引用している箇所がある。1909(明治42)年、60代半ばの宮内大臣の田中光顕伯爵が20歳の書店の娘の小林孝子と結婚。しかも孝子は某医師の愛人で田中伯爵が医師に斡旋料を払ったとか払わないとかの話が暴露され、世間の非難を浴びた伯爵は職を辞するに至った(その後、孝子の父親が伯に莫大な借金を申し込んだために離婚したとか)。また、その5年前にはモルガンお雪の結婚(「第11回 消費される夫人 前編」)があった。

金があるが名誉のない実業家と、名誉だけはあるが財産のない貴族の打算的な結婚が頻発し、世間はその度にバッシングしたのだった。

対談中、白蓮が伝兵衛への離縁状を新聞に発表したことについて

菊池 あの際でも理解のある人には、あなたに同情したでしょう。唯〈ただ〉離縁状を朝日新聞に公開なすったことに就いては、多少非難する点もありますが……
柳原 色々間に立った人があったりしましてね、それであんなことになりました。

という会話がある。

「白蓮事件」への非難の幾分かは、離縁状を伝兵衛に見せる前に新聞に公開したことにあった。「私は今あなたの妻として最後の手紙を差しあげます。今私がこの手紙を差しあげるということはあなたにとって突然であるかもしれませんが、私としては当然の結果に外ならないのでございます」「私は金力を以って女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護り且培う為めに貴方の許を離れます」という自覚的な文章も衝撃をもって迎えられた。

実はこの文面、白蓮の書いたものに恋人の宮崎とその友人らが朱入れしたもの。彼らは大阪朝日新聞の新人記者と相談し、白蓮失踪をスクープにして人権問題として世論を動かそうと考えた。というのも当時白蓮は妊娠しており姦通罪を避ける必要があったためだ。その際、失踪してから報道という段取りだったが、朝日の別の記者に探知されたために離縁状公開を条件に一日遅らせてもらった経緯があった。

それにしても、世論がどう動くか予想がつかない大博打である。

実際、発表されると新聞社には500通近い手紙が来て、右翼からの脅迫もあった。燁子は大正天皇の姪であり、事は皇室にも関わる。結局二人が一緒になれたのは関東大震災のどさくさまで2年待つことになる。

なお、離縁状に対し朝日のライバル、大阪毎日新聞は2日後から伝兵衛の談話「絶縁状を読みて燁子に与ふ」を全四回として連載するが、その筆を執ったのは何を隠そう例の北尾鐐之助である。実は北尾、大阪毎日新聞福岡支局時代に白蓮の隣りに住んでいて懇意にしており、伝兵衛に対する愚痴やその他の男性関係、また白蓮から北尾宛の「十数通に及ぶ」手紙をも受け取る仲だった(とすれば白蓮の「北尾という人」という表現はまたずいぶん他人行儀である)。さらに家出の前日に白蓮と電話で話し数日後に大阪で会おうと約束もしていたが、肝心の家出については蚊帳の外だった。北尾からすれば、友人としても記者としても裏切られた気持ちだっただろう。朝日のスクープがあったときですら、何かの間違いだと社内でがんばった。いよいよ事実だとわかって辞表を出そうかとも思ったが、自分の使命を思い白蓮に連絡するも面会を断られ、急遽伝右衛門の談話を取ったという。それらを踏まえると「真珠夫人白蓮モデル説」の流布は北尾の意趣返しだったのかもしれない。

この時代、渦中の本人が自分の言葉で発信するSNSのようなツールはない。しかし雑誌や新聞などのメディアは現代と同じくらい発達していて常に読者の取り合いをしていた。過当競争からスクープ合戦が生まれ、誤報や歪曲が他人の人生を簡単に狂わせる。ある意味で現代よりも恐ろしい時代なのである。

思えばこの「白蓮事件」は夫人が世論を動かそうと自ら(影に新恋人がいたとはいえ)メディアを利用した、新しい事件であった。つまりここでも、男性が描く『真珠夫人』の瑠璃子より現実の夫人の方がずっと進んでいたのだ。

菊池寛はその後、堂々白蓮と九条武子をモデルにした小説をものするが、その話は他日に譲ろう。

 


〈おもな参考文献〉

「「真珠夫人」のモデルと自認せし白蓮女史」『婦女界』(婦女界出版社、1921年)
山川菊栄「芳川鎌子と九条武子と伊藤白蓮……新聞紙に呪われたる彼女の愛子」(『山川菊栄集 評論篇 第二巻 女性の反逆』岩波書店、2001年)
「一問一答 柳原白蓮夫人と菊池寬氏」『婦女界』35(3)(婦女界出版社、1927年)
長谷川虎次郎『竹南文集 第1冊』(東奥日報社印刷部、1923〜26年)
高木建夫「真珠夫人の誕生」『新聞小説史 大正篇』(国書刊行会、1974年)
菊池寛研究会 編、片山宏行 監修『真珠夫人 : 注解・考説 注解・考説編』(翰林書房、2003年)
泉斜汀「田中光顯とおかう」『名流情話(蜻蛉館、1917年)
千田稔『明治・大正・昭和 華族事件簿』(新潮文庫、2006年)
永畑道子『恋の華・白蓮事件』(新評論、1983年)
北尾鐐之助「その前後の白蓮女史」『婦人公論』7(2)(中央公論社、1922年2月)

兵庫県生まれ、東京育ち。文筆家、デザイナー、挿話蒐集家。著書『20世紀破天荒セレブ――ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝――莫蓮女と少女ギャング団』(河出書房新社)、近刊に『戦前尖端語辞典』(左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)。2022年3月に『明治大正昭和 不良少女伝』がちくま文庫となる。唄のユニット「2525稼業」所属。
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第15回 「自意識過剰」の夫人 中編

真珠夫人、感傷夫人に黄昏夫人……明治以来、数多く発表されてきた「夫人小説」。はたして「夫人」とは誰のことか? そして私たちにとって「夫人」とは? 夫人像から浮かび上がる近代日本の姿!

作品名:『真珠夫人』菊池寛 1920(大正9)年

今回は、『真珠夫人』のプロットがどこから来たのかを見ていこう。

作者本人は「その頃、私はバルザックの小説を愛読していたので、其処から多少のヒントを得た」(『半自叙伝』)と書いているが、どうしてどうして。

菊池寛は初の長編連載小説を書く際、国内外の通俗小説を大量に読破していた。

当時は邦訳される前の原書からストーリーやモチーフを借りてくるのは珍しいことではなく、ある意味、外国語が読める者の特権とも言えた。

『真珠夫人』の後に手がけた新聞小説『第二の接吻』(東京朝日新聞)の際にはさらにこの手法を拡大し、約300冊を片っ端から読んだのみならず、「しまいには、新聞広告で、英語の小説の読み手を募集し、数十冊の海外の大衆小説を読ませて、そのストリイを訳させて読んだ」「中には大学の英文科を出て、このような“小説読み”をやり、のちに、文春系の文士と結婚したりしたような女性もあった」(『新聞小説史 大正篇』)というから、驚きである。

では具体的に見つかっている元ネタはなにかといえば、冒頭の事故からの探偵小説的展開はバルザックの「ことづけ」から(但し「ことづけ」は自動車ではなく馬車)、同じくバルザック『ランジェ侯爵夫人』、アナトール・フランス『赤い百合』からは男性を翻弄するサロンの女王像を、メリメ『カルメン』からは男女を結び付ける小道具としての時計を、尾崎紅葉『三人妻』からは、成りあがりの実業家が恋人のいる芸者を金と策略で手に入れるというプロットを、それぞれ借りてきたと思われる。

また、イタリア映画『王家の虎』(原題Tigre reale、ピエロ・フォスコ監督、1916年製作)から着想を得ていると証言したのは久米正雄で、「兎に角、僕と菊池と、ローヤルタイグレス『王家の虎』というのを見て、あれに影響されて菊池は『真珠夫人』を書き、僕は『不死鳥』を書いた。菊池の『真珠夫人』の方が評判はよかったが、明かに『王家の虎』の影響なんだ」(「映画漫談会―第六十二回新潮合評会―」『新潮』1928年)としている。

社交界の花である伯爵夫人に翻弄される青年外交官という図式、また途中で回想シーンが挟まれたり、伯爵夫人の初恋の破局や恋人の自殺など『真珠夫人』との共通点は多い。

興味深いことに、菊池自身が『真珠夫人』のなかでネタバレをしている箇所が二つある。

ひとつめは、主人公であり狂言回しでもある渥美信一郎が瑠璃子と二度目に会ったときの会話である。

「仏蘭西文学が大好きですの。」という瑠璃子はモーパッサンを嫌いと言い、「一等好きなのは、メリメですわ。それからアナトール・フランス、オクターヴ・ミルボーなども嫌いではありませんわ。」と話している。

メリメ、アナトール・フランスの名がみえるが、この伝でいけばミルボーも元ネタのひとつかもしれない。

ふたつめは、瑠璃子のサロンで白熱する文学論争だ。

明治を代表する文豪は誰かという議論が起こり、瑠璃子が国木田独歩を推し、他の者はそうじゃないと言うなか意見を求められた信一郎は、「やはり、月並ですが、明治の文学は紅葉などに代表させたいと思うのです」「過去の作品を論ずるのには、時代と云うことを考えなければ駄目です。『金色夜叉』は今読めば通俗小説かも知れませんが、明治時代の文学としては、立派な代表的作品です」と言い、その場の者に一笑に付される。

そこから通俗小説論争が始まり、信一郎は躍起になって「『金色夜叉』が通俗化しているからと云って、あの小説の芸術的価値を否定することは出来ませんよ。僕は芸術的に秀〈すぐ〉れていればこそ、民衆の教養が進むに従って、段々通俗化して行ったのだと思うのです。紅葉の考え方や、観方はいかにも常識的かも知れません。が、然し作品全体の味とかその表現などにこそ、却って芸術的な価値があるのじゃありませんか」と一席ぶつ。

すると、途中から現れた新進作家の秋山正雄という男が、「紅葉を第一の小説家として、許すことは僕には出来ませんね。文学史的に見れば、紅葉山人などは、明治文学の代表者と云うよりも、徳川時代文学の殿将ですね。あの人の考え方にも、観方にも描き方にも、徳川時代文学の殼が、こびりついているじゃありませんか」と鼻で笑い、明治を代表する作家は樋口一葉だと言い切る。

結局、信一郎は意見が出るたびに寝返る瑠璃子に不快さを覚え、立ち去る。

菊池自身は、一葉、独歩を評価している。

「近世の文人達」には「明治の小説では、自分は「たけくらべ」を、最高の作品だと思う。(中略)自然主義など云う声をきかない時代の作品でありながら、しかも真実の世界が描かれている。その他作品は、たいしたものはないが、「たけくらべ」だけで、明治の文壇に独特の位置を占めていると思う」「明治の小説で、一葉に次ぐものは、独歩だと思うが、これはいくらか稚拙である。(中略)田山花袋等の自然主義の作家よりも、独歩の作品が清純であり高雅である。そこには、詩があり詠嘆があるからである」としている。

紅葉については「紅葉の「金色夜叉」を、何十年目かに読んで見た。この小説は純然たる通俗小説である。(中略)文章は古いけれど、会話が、なかなか新しいところがあり、文学的価値はないにしても、明治文学の中では尤も永く読まれているのも尤もだと云う気がした」(「話の芥籠」1935年3月)とする。

一見あまり評価していないようにも読めるが「純文学でも大衆文学でも、人に沢山読まれるのが、肝心である。読まれない文芸などは、純文学だろうが何だろうが、結局飛べない飛行機と同じものである」(「話の屑籠」1934年10月)という菊池の思想からすれば太鼓判である。

菊池寛は当時流行していた自然主義文学には違和感を覚えていた。

彼らが大事にするリアリズムについて「実際生活を描いて、本当らしく見せる位の事は、小説家でなくても誰にでも出来る。小説家が、そんな安逸を貪って何うなるか。作ったことを描いて本当らしく見せることが、小説家の腕である」「とにかく、プロットもテーマもない、自叙伝的な、長篇でもなければ短篇でもなく、日記でもなければ小説でもないと云ったような、妙な小説が流行して居るのは、確かに自然主義と露西亜文学の悪影響である」(「とりとめなき」1920年9月『新潮』)との思いがあった。
「芸術に階級なし」をモットーとしていた菊池は、一部の人間の特権である文壇文学は唾棄すべきものだった。

「真珠夫人」執筆の15年後、数々の新聞小説をものした後に書いた「連載小説論」(『新文芸思想講座』文藝春秋社、1934年)には「誇張して言えば、上は一国の宰相から下は路傍のルムペンに至るまで新聞小説を読んでいると思ってよい。この広大無辺の読者層に対って作者が、あらゆる階級の人々の興味を沸き立たせようと試みるのは不可能に近いかも知れぬが、少くともあらゆる階級の人々にとって通読できるような小説を書く事を努力するのが至当であると思う」「此処で自分の事を言えば、私は文芸批評家諸君から菊池寛の書く新聞小説は愚劣だと言われる分には、如何ほど罵倒されてもビクともしない。しかし義務教育程度の読者諸君から菊池寛の新聞小説は難しくって自分には読んでも解らないと言われたとしたら、私は作家としてその手腕の至らなぬ点を恥辱と考えてもよい」と書いている。

持ち前の勘の鋭さから大衆の時代が来ると気がついた菊池の、新聞小説に対する並々ならぬ気構えが伝わる文章である。

それにしても、大舞台の新聞連載にあたって通俗小説の登場人物たちが通俗小説について語るというメタフィクショナルな仕掛けを施すとはいかにも大胆である。

さらにいえば、「カルメンなんか、日本では通俗な名前になってしまいましたが、原作はほんとうにいいじゃありませんか」とか、「例えば『三人妻』など云う作品だって如何にも三人の妻の性格を描き分けてあるけれども」などと元ネタの作品名まで出したり、瑠璃子に「何うも日本の文壇などで、仏蘭西文学とか露西亜文学だとか申しましても、英語の廉価版のある作家ばかりが、流行っているようでございますわね」とまで言わせるあたりは、大胆を通り越して茶目っけ、もしくは読者への挑戦状とすら見える。

菊池寛の考える通俗小説の概念の幅の広さ、そして読者(マス)への圧倒的な信頼を感じずにはいられない。

さて、数多の海外文学を参照しながら準備した『真珠夫人』は、では最初から最後までストーリーを決めて書いたかといえばさにあらず。

早くも連載開始2か月で「困っちゃった、もう書くことがないんだよ。どういう風に筋を運んでいいか、まるで見当がつかない」(藤森淳三「菊池寛の一面」)とこぼしていたと言われている。

それを裏付けるように、連載開始前に新聞に告知された文章はこうだ。

清麗高雅真珠の如き美貌と、復讐の女神の如き激しき性格と、近づく舟人を亡し盡す人魚の如き魅感とを持てる女が傷けられたる初恋の記憶の為に、触るる者悉く刺さずんば止まざる毒を蔵するに至る経路を描きたる長編にして作者が新聞小説に筆を下す最初の作として、最善の努力と苦心とを傾倒したる雄編なり
起稿に際して作者の感想に曰く「筋の面白い小説は偽〈うそ〉らしく、偽らしくない小説は面白くない。興味と真実性とを一致させる為に自分は力を盡したい。面白くてしかも本当らしい小説をかいてみたい」と、以って作者の企図の一端を知るべしである。(「新小説」1920年5月26日付東京日日新聞、大阪毎日新聞)

美しい主人公が復讐するということ以外、詳しいことはわからない。

これからいかようにも転がせられそうだ。

しかし、しかしである。

驚くことに、このあやふやな文章を読んで、自分をモデルにしたと怒り出したある名流夫人がいたのだ。

実はこれが本題なのだが、長くなったので次回に譲る。

 


〈おもな参考文献〉
菊池寛『半自叙伝・無名作家の日記』(岩波文庫、2008年)
高木建夫『新聞小説史 大正篇』(国書刊行会,、1974年)
「映画漫談会―第六十二回新潮合評会―」『新潮』25(9)(新潮社、1928年9月号)
田中眞澄「『真珠夫人』のルーツ」『文藝春秋』81(8)(文藝春秋、2003年8月号)
「新小説」1920年5月26日付東京日日新聞
鹿島茂「第十二回 『真珠夫人』創作秘話」『菊池寛アンド・カンパニー』『文藝春秋』100(12)(文藝春秋、2022年12月号)
小林幹也「誰の視点で眺めるか ー菊池寛『真珠夫人』の視点人物」『文学・芸術・文化: 近畿大学文芸学部論集』18(2)(2002年3月)
『菊池寛全集 第二十二巻』(文藝春秋、1995年)
『菊池寛全集 第二十四巻』(文藝春秋、1995年)
金子勝昭『たいまつ新書50 菊池寛の時代』(たいまつ社、1979年)

 

兵庫県生まれ、東京育ち。文筆家、デザイナー、挿話蒐集家。著書『20世紀破天荒セレブ――ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝――莫蓮女と少女ギャング団』(河出書房新社)、近刊に『戦前尖端語辞典』(左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)。2022年3月に『明治大正昭和 不良少女伝』がちくま文庫となる。唄のユニット「2525稼業」所属。
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