第11回 消費される夫人 前編

真珠夫人、感傷夫人に黄昏夫人……明治以来、数多く発表されてきた「夫人小説」。はたして「夫人」とは誰のことか? そして私たちにとって「夫人」とは? 夫人像から浮かび上がる近代日本の姿!

作品名:『夫人と運転手心中するまで:小説』徳田春風 1917(大正6)年
『伯爵夫人:千葉情話』青木緑園 1917(大正6)年

今回は、小説そのものよりも元凶となった実際の事件とその反応におもに焦点を当てていきたい。

本連載は、第1回でも謳ったとおり「「夫人小説」に現れた夫人(女性)、世相、風俗描写を通して読者に求められ、受け入れられてきた近現代日本の夫人像の変遷」を辿るというものなので、本邦の夫人史(そんなものがあるとして)に大きな爪痕を残したこの椿事を扱わないわけにはいかない。

まず、あらましから見ていこう。

それが起こったのは1917(大正6)年3月7日18時55分のこと。

省線(国鉄)千葉駅発本千葉駅行き列車が県立女子師範学校(現千葉市中央区富士見1-11)横を進行中、線路脇で抱き合って蹲っていた男女が立ち上がり、上着を脱ぎ捨てて飛び込んだ。

ふたりともはね飛ばされたが、顔面を強打して血まみれの女性に対し男性は軽傷のようで、すぐさま女性に駆け寄った。

驚いた機関士が汽車を停めると、男性は女性の耳元で「あなた一人殺しはしません、私も必ず死にます」などと叫んでいたが、人が集まって騒ぎになったため土手に行き、持っていた短刀で首を突いて自死した。

女性は病院に搬送され、左頭部に重症を負いながらも死は免れた。

ふたりは、伯爵家の娘、芳川鎌子※(27)とお抱え運転手の倉持陸助(24)。

陸助は独身だったが、鎌子には夫の寛治と4歳の娘があった。

事件の詳細をすっぱ抜いたのは大阪朝日新聞で、都新聞が「千葉県の心中 東京の男女らし」(3月8日付)などと報じるなか、翌朝にはいち早く二人の素性と写真を大きく掲げ、その関係性や前日の行動を詳報した。

高貴な家柄の女性と雇い人の心中事件はただでさえスキャンダラスだが、大朝に出し抜かれたことで他のマスコミにも火が点き報道合戦が加熱、「千葉心中」という呼称までついて一大センセーションを巻き起こした。

流行語が生まれ(「鎌子式」「鎌子病」「鎌子コンプレックス」「運転手になるのだっけ」「運転手にご注意」など)、小説が書かれ(『伯爵夫人 恋の仇夢』『伯爵夫人 後の仇夢』『小説 生別死別』など)、芝居になり(『千葉心中』『長澤兼子』など)、映画になり(『玉子夫人』)、流行歌ができ(『千葉心中』『伯爵夫人 千葉情死』など)、講談(『千葉情話 浜子夫人』)や浪花節(『鉄道情死 千葉心中」)になり、そのうち浄瑠璃ができるだろうと嘲罵された。
また、平塚らいてう、与謝野晶子、近松秋江、山川菊栄、下田歌子、矢島楫子など、さまざまな知識人が是非論を展開した。

というのも、この件には勘案すべき点が多々あったためだ。

芳川鎌子は1891(明治24)年に芳川顕正伯爵の四女として生まれ、学習院女学部時代には「非常な高襟〈ハイカラ〉の跳ねっ返り」だったが、父の一番のお気に入りで甘やかされて育ったという。

学習院卒業後に曾根荒助子爵の次男寛治を婿に取り、四女の身ながら家督を継いだ。

これは六人兄弟中男子二名が早世し、長女と次女は縁付いたあとに出戻っていたためである。

運転手の倉持陸助は1894(明治27)年に栃木県佐野市に生まれ、中学を退学していくつか職を変えた後に三井物産株式会社に入り、自動車の運転免許を取得して運転手となった。

同じく三井物産に勤務する鎌子の夫の寛治の運転担当となった関係で、事件の前年に芳川家で自動車を購入してからはお抱え運転手として邸内に住み込んでいた。

鎌子の父、顕正は1842(天保12)年生まれ、阿波国(現徳島県)の藩士から官僚となり、山懸有朋の右腕として司法、文部、内務、逓信大臣を歴任し、東京府知事、枢密院副議長を務めた大物。

1896(明治29)年に子爵に、1900(明治40)年には伯爵に叙された、いわゆる新華族である。

また、長女以外すべて正妻の子どもではなくそれぞれ別で、そのうえ元芸者の妾を囲うなど女性関係が乱れていた。

鎌子の夫の寛治は1882(明治15)年生まれで鎌子の9歳上、三井物産に勤務していたが、これまた遊び人で花柳界に入り浸るほか妾宅も持っていた。

事件の後には、鎌子の姉(芳川家次女)とも通じているという噂がまことしやかに囁かれた。

華族にありがちな爛れた環境だったといえる。

出戻り娘の姉二人は本来であれば再婚してしかるべきだが(とくに長女は惣領として婿をとるのが自然である)、独身のまま実家にいる点から、父が娘たちに強く言えなかったことが透けて見える。

なぜか四女の鎌子が跡取りをすること、その鎌子は権妻(妾)の子どもで、長女は正妻の子どもであることを考えると、家のなかで密かな権力争いがあったことも想像に難くない。

次女が鎌子の夫の寛治と通じていたのも家督を狙ってのことだったのではという邪推も働く。

さらに言えば、寛治の実家は子爵であり、伯爵である芳川家のなかでなんとなく軽んじられていたという話もある。

どの角度から見ても家庭内はバランスを欠いていた。

鎌子は、買い物に行く際に車を出させたり、上野精養軒での食事に付き合わせたりと陸助と何かと行動を共にしていた。

事件の4日前の3月3日、姉たちはふたりの関係が怪しいと言い立て、陸助を解雇し、鎌子を軟禁状態に置いた。

寛治は入婿の立場で強く言えず、ますます外で憂さ晴らしをする悪循環に陥っていた。

それから心中に至るまでに何があったかは不明である。

ただ、ふたりが午前0時に邸を抜け出して千葉町に向かい、陸助の親戚が営む宿屋で紹介された旅館で一晩を過ごし、翌朝また親戚の宿屋に引き返したことはわかっている。

そこで朝食を摂った後に巻紙、絵葉書、封筒、硯箱を取り寄せて何事かをしたため、午後三時に出発、死に場所をさがして数時間彷徨って線路に行き着いたと考えられた。

マスコミは当事者に話を聞けないため周辺情報を探ったが、芳川家は前警保局長の岡喜七郎をスポークスマンに立てて対抗、ふたりの遺書は小使い(雑用係)が破棄したと言ったり(その後、12日付都新聞に遺書らしきものが出たが「やったやった 倉持はやった、三面記事をよごしてくれ」など真贋のわからないものだった)、鎌子退院の際にも囮の車を出してマスコミとカーチェイスを繰り広げるなどしたため、芳川家の対応が高慢だと世間のさらなる反感を買った。

退院後の鎌子は姉の家や別邸に身を隠したが、板塀に「姦婦鎌子ここにあり」と書かれるなど、行く先々で嫌がらせに遭った。

結局、寛治とは離婚したが、養子の寛治が芳川家を継ぎ実子の鎌子が分家することになった。

父は事件の一週間後に枢密院副議長の座を辞して隠遁、それでも可愛い娘を突き放すのに忍びなく、寛治に妹と思って面倒をみてくれと頼んだという。

事件のおおまかな説明をするだけで一回分に達してしまったが、複雑な事情が絡み合っていることがおわかりいただけたかと思う。

実はこの後も成り行きが二転三転するのだが、ひとまず経緯を追うのはここまでとする。

次回はこの事件に関する著名人の見解から、当時の受け止めや考え方を探っていこうと考える。

※戸籍上は「鎌」だが、報道などに倣ってここでは「鎌子」とした。

 


 

〈おもな参考文献〉
無記名「千葉県の心中 東京の男女らし」(『都新聞』大正6年3月8日)
菅野聡美『消費される恋愛論 大正知識人と性』(青弓社、平成13年)
千田稔『明治・大正・昭和 華族事件録』(新潮文庫、平成18年)
長谷川時雨『近代美人伝(上)』(岩波文庫、平成13年)
杉本苑子「伯爵夫人の肖像」(『杉本苑子全集 第12巻』(中央公論社、平成10年)
秋山清『秋山清著作集 第7巻 自由おんな論争』(ぱる出版、平成18年)
朝日新聞社編『朝日新聞100年の記事に見る恋愛と結婚〔明治〕〔大正〕』(朝日文庫、平成9年)
西沢爽『日本近代歌謡史(下)』(おうふう、平成元年)
末國善己『夜の日本史』(辰巳出版、平成26年)
岩井良衛『女藝者の時代』(青蛙房、昭和49年)
菅原孝雄『狭間に立つ近代文学者たち』(沖積社、平成12年)
村上信彦『大正女性史(上)市民生活』(理論社、昭和57年)
城北童子「情死した鎌子夫人」(帝京社『東京』1(4)、大正6年)

 

兵庫県生まれ、東京育ち。文筆家、デザイナー、挿話蒐集家。著書『20世紀破天荒セレブ――ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝――莫蓮女と少女ギャング団』(河出書房新社)、近刊に『戦前尖端語辞典』(左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)。2022年3月に『明治大正昭和 不良少女伝』がちくま文庫となる。唄のユニット「2525稼業」所属。
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