第4回 私は限界を感じたら別の道を行く

アーティスト、イ・ランによる世界初(?)のAI翻訳日記。韓国語で書いた日記をPapago翻訳機で日本語に翻訳する。誰かに会えなくなってしまうきっかけは日常に溢れている。今すぐ会えない誰かとつながるために「あまり役に立たないチング(友達)」を使ってつづられる、人間とAIの二人三脚連載。

私がしている数多くの仕事の中で私が一番したくてすることは、
1.日記を書く
2.いがらしみきおさんに手紙を送る
3.小説(あるいはシナリオ)書くこと だ。

歌を作るのも、歌うのも好きだが、普段はただ頭の中でさまざまな物語を思い出しながら「この物語をつくりたい、あの物語をつくりたい」そういうことばかり考えている。歌は自転車に乗る度に歌うんだけど、 そのくらいがちょうどいい。

日記を書くことは鏡を見る行動のように「私が生きている」と再び考えることができるので、欠かさずに書きたいのに、本当に日記を書く時間がない。最近は特に、韓国で8月23日に5年ぶりの正規アルバムを発表するので、それを控えてやることがあまりにも多い。初めて会社なしに自主的に製作したアルバムなので、今回多くの制作過程がわかってきている。そして自分のアルバムを自分で作ってみたら、これからは他の人のアルバムを作りたいという気がし始めた。

 

今日の夜11時頃、私と同い年の友達で大好きなミュージシャンのピュア・キム(Puer Kim)と1時間ぐらい通話をした。私がピョル(ピュア・キムの本名だ)のアルバムを制作したいと話をしたら、ピョルもいいと言った。ピョルは2012年に私の初アルバムショーケースにゲストとしてステージに立ってくれた義理堅い友達だ。ほぼ同じ時期にピョルもピュア・キムファーストアルバムを発表していい反応を得て、2013年に有名なメジャー会社に入った。でも残念なことに、その会社でこれといった作品活動もなく、2018年に静かに出ることになり、今10年ぶりに2枚目のアルバムを作りたいという時点だ。インディーズシーンでファーストアルバムを質素に作ってすぐに大きな会社に入ったため、ピョルはアルバム制作過程について全く知らないと言った。お金がいくらかかるのか、どんな過程を経なければならないのか。ただピアノを弾きながら歌うデモ曲だけ持っているだけだった。私は一人でシングルも出して、今度正規アルバムも出すからできることが多くて、たくさんの人脈も持っているから、ピュア・キムの2枚目のアルバムを成功させることができるという確信を持った。とにかく早く私のアルバムを発表して、ピュア・キムのアルバム作業に移りたい。参考にピョルは、私を「泣き虫戦士」と呼ぶ。 私は実際に泣きながら何でもやってのける。

 

今まで生きてきた年齢の中で最も高い年齢(35歳)で2021年を生きながら、だんだん自分の話ではない話に関心が湧いてくる。そのせいか、今月発表するアルバムに私が歌う人ではない曲がいくつかある。1枚目のアルバムと2枚目のアルバムでは、どうしても私と恋人、私と家族、私と社会、私と仕事、私と映画のような話をすらすら詠んだが、今は他の人がどんな話をしているのかがとても気になる。この文を書きながら私の新しいアルバムの曲を再び流してみたら、計10曲のうち私が歌う人ではない曲が一、二、三、四つあることを数えてみた。あ、どうも5曲らしい(1番、2番、5番、8番、9番トラックです)。
最近は曲を作る時、私ではない他のある人を想像しながら、その人が言いそうな言葉や行動を思い浮かべ歌詞を書く。これは映画やドラマのシナリオ、あるいは小説を書く時によくやってきたことなので、それほど新しくはないが、これまで歌に関してだけは私を慰めるために日記を書くように作ってきたので、私の歌に対する態度の変化が一味違う。今ではそれこそ「創作作業」として歌に接しているようだ。

 

それでは私が今、私を慰めるためにすることは何だろうか?
最近は夜に運動場に行ってサッカーをしている。うーん、サッカーというよりは……サッカーシューズを履いて、サッカー靴下を履いて、サッカーボールを蹴りながら走り回ること。本当に汗をかいて楽しい。20代前半から30代前半までは、さまざまな舞踊(主に現代舞踊)ワークショップに参加して即興的に踊るのが一番好きだったが、最近はダンスより運動がもっと面白い。なぜならダンスもしきりに踊ると、私はいつも似た動作をすることが分かって、その限界がちょっとつまらなくなったからだ。

 

私は限界を感じたら面白くなくなる性格のようだ。
最大の例として、ギターを弾きたくないのがそれだ。私はギターのメジャーコードだけを覚えているが、それもバンドのメンバーたちが教えてくれて知ったことで、その前に一人でいた時はコードが分からないまま指の形で記憶しながら作曲をした。他のミュージシャンの友達は本当にいろんな方法でギターを弾いていたのに、私はメジャーコード7つを覚えてから、その後ギターを楽しむことができなかった。メジャーコード7つ後はそれこそ「限界」だが、別にその限界を超えたくなかった。私が弾ける7つのコードだけで作曲してもいいからだ(たまにバンドのメンバーたちが教えてくれる不思議なコードを1、2回書いたりもするけど……)。

 

2018年に仙台のバンドyumboとの共演を準備しながら「鬼火」という曲を歌うことになったので、日本へ旅立つ前に家で一人でその歌の練習をしてみようと思ったが、教えてくれたコードがとても複雑で一言も弾けなかった。というわけで、私は結局その歌をギターで弾くことはあきらめて、私の楽なメジャーコードをざっくりと弾きながら「鬼火」のようなメロディーでyumboの澁谷さんに送る歌を作った。実は、あの歌を歌いながら映像を撮って澁谷さんに送ろうとしたんだけど、その時はあんまり親しくなかったので、もしかして怒らないかと思って送らなかった。あの時作った歌の歌詞は「澁谷さんはかっこよく見せたいんだね、こんなに難しいコードで歌を作るなんて〜澁谷さんはどうしてこんなに難しいコードを使うんだろう? ただこうやってメジャーコードだけで歌を作ることはできないのかな〜」そんな歌詞だった……。

今では澁谷さんとだいぶ仲良くなってその映像を送れそうだが、どうやらその映像を私が消してしまったみたいだ。そしていざ仙台で会って知り合ってわかったことは澁谷さんはピアノで作曲するからコードが複雑なのだった。自分勝手に「かっこよく見せようとする」と判断したのがすまなかった。

澁谷さんは本当にいい曲をたくさん作る天才作曲家だ。私はもう作曲するのもあまり面白くなくて、できれば次のアルバムの全曲を澁谷さんに作曲してもらいたい。歌はいくらでも歌えるので、澁谷さんが作曲さえしてくれれば私がかっこよく歌えると思う。歌詞もいくらでも上手に書ける。

澁谷さん、もしこの文を読んで私に曲をくださる気があればぜひ連絡してください。 あらかじめ、よろしくお願いします。

 


(このページはPapago翻訳で翻訳されました。機械翻訳は完璧性が保障されていないので、翻訳者の翻訳の代わりにはなりません)

1986年ソウル生まれ。ミュージシャン、エッセイスト、作家、イラストレーター、映像作家。16歳で高校中退、家出、独立後、イラストレーター、漫画家として仕事を始める。その後、韓国芸術総合学校で映画の演出を専攻。日記代わりに録りためた自作曲が話題となり、歌手デビュー。セカンド・アルバム『神様ごっこ』(国内盤はスウィート・ドリームス・プレスより)で、2017年に韓国大衆音楽賞最優秀フォーク楽曲賞を受賞。最新著作は短編小説集『アヒル命名会議』(斎藤真理子訳、河出書房新社)。その他の著書に『悲しくてかっこいい人』(呉永雅訳、リトルモア)、『私が30代になった』(中村友紀/廣川毅訳、タバブックス)。ストリート出身16歳の猫、ジュンイチの保護者でもある。

第3回 声のでかい朝鮮人、ハン・トンヒョンオンニ(お姉さん)へ

アーティスト、イ・ランによる世界初(?)のAI翻訳日記。韓国語で書いた日記をPapago翻訳機で日本語に翻訳する。誰かに会えなくなってしまうきっかけは日常に溢れている。今すぐ会えない誰かとつながるために「あまり役に立たないチング(友達)」を使ってつづられる、人間とAIの二人三脚連載。

オンニを思い浮かべると、いつも一緒に思い浮かぶセリフがあります。

「オンニとして、当然おごる」

オンニが難関をくぐって訪問したソウルで会った時も、コロナ以前に私が東京に訪問して会った時も、オンニは「オンニとして、当然」おいしいご飯とお酒をおごってくれました。初めてオンニに会った時は、日本ではあまり聞こえなかった大きなボリュームの声と不慣れな朝鮮語の話し方がただ面白いと思いました。オンニと東京のカフェや飲み屋で会話をしている時、周りのチラチラ見る視線たちを思い出しますね。それはオンニと私の大きな声のせいでしょうか、朝鮮語と韓国語の話し方のせいでしょうか。

 

恥ずかしながら私はオンニに会う前までは在日コリアンについて何も知らない人でした。朝鮮学校が登場する1本の劇映画、ドキュメンタリー映画を1本観たのがすべてでした。映画に出てきた朝鮮学校の生徒らがなぜ「朝鮮民主主義人民共和国」風の言葉を使うのか考えながら、映画を観た記憶があります。2017年に「イムジン河」という歌を初めて知り、2018年1月に日本語と韓国手話で歌った「イムジン河」MVを発表した後、東京に住んでいるオンニから連絡がありましたね。オンニは「イムジン河」の曲の歴史と私のMVに対する感想などをヤフージャパンに記事で書き、以後私が公演のため日本を訪問した時、インタビューをして追加記事を書きました。あの時、在日コリアンについて何も知らない私が、いかに多くの失言をしたかと思うと頭から汗が出てくるようですが、オンニは一度も私を非難したり、教えようとしたりすることはありませんでした。私が自然に質問することを探すために「オンニとして、当然」手伝ってくれました。

 

私が一番好きな、思考を拡張する方法は「友達を作る」ことです。そんな面で日本に行き交いながらオンニを含む在日コリアンの友達に会ったことが私にはとても嬉しいことです。在日朝鮮人2世のオンニを含め、在日3世、4世の友達、そして日本帰化者、韓国国籍者、朝鮮籍保有者など、在日の中でも様々なアイデンティティの友達に会い、私が三十何年間、どれだけ狭い世の中で暮らしていたのかを知りました。朝鮮籍のオンニにパスポートがないことも、それで韓国に訪問することが難しいことも遅くに知りました。それも知らずに「今度、ソウルで一緒に遊ぼう~」と簡単に言ったことをお詫びします。

「朝鮮籍」が何なのか初めて知った時、「移動の便宜のために国籍を変える気はないか」とオンニに聞いたことがあります。そんな失礼な質問をしたことも恥ずかしいですが、その時オンニはとても堂々と「なぜ私が変える?」と答えました。答えを聞いて 「え? そうだね!」と頭ががんがんしました。国籍を変えなくても自由に移動できる権利を得るのが当然だということをあの時分かりました。

 

私が在日朝鮮人として生まれていたらどうだったか想像してみました。生まれた国の名前は日本だが、親の国籍は朝鮮で、調べてみたら朝鮮という国は私が生まれる前に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に分断されて久しいし、生まれて一度も日本国外に出たことがないが、日本では投票権を含めて多くの権利を主張することは難しい。それこそ混乱のカオスだったかもしれません。私はいつか国籍を変えたのでしょうか。海外の行きたい所に行ってみるために、日本に帰化したり、大韓民国国籍を取得したのでしょうか。朝鮮民主主義人民共和国の国籍を取得して、その国に向かったのでしょうか。小・中・高ともに朝鮮学校に通い、朝鮮籍を維持したのでしょうか。しかし、何を変えても在日朝鮮人として生まれたという事実のために差別は続いたのでしょうか。

 

先日『在日朝鮮人ってどんな人?』という本を書いた徐京植(ソ・キョンシク)さんの講演映像を見ました。 講演内容の中にこういうのがありました。在日朝鮮人のある方が、学生時代に親しくなった日本人友達に自分が在日朝鮮人だと勇気を出して話した時、このような答えを聞いたという話。

「ああ、そう? 全然知らなかった。日本人と同じだから気にするな」

ソ・キョンシクさんはその日本人の答えから「問題がないのに気を使うあなたが問題だ」という意味が読み取れると言いました。社会的な差別が確かに存在するのに「気にするな」という言葉で、問題をきちんと見ようとしないのがもっと大きな問題でしょう。

 

以前、会ったことがある在日コリアンの方から、子供の頃、学校で差別を受ける理由で両親に自分の名前を日本式に変えてくれと泣きわめいた話を聞きました。両親は「朝鮮人としてプライドを守りながら生きろ」と名前を変えてくれなかったそうです。その時あの方は、あまりにも幼い頃なので、「プライド」という見慣れない言葉の意味も知らなかったのですが、両親の断固たる勢いに「プライド」というものは何かとてつもなく大切なものだと感じ、その後も、名前のせいで経験する差別に出くわすたびに、「私はプライドを守らなきゃ」と思って我慢したそうです。その時もそうでしたが、私はオンニが「なぜ私が変える?」と言った時も、ものすごいプライドを感じました。特定の国家や民族に対するプライドではなく、一人の人間の尊厳そのものを感じるプライドを。

 

最近、私はソウル文化財団の青年芸術家支援事業審議委員懇談会に出席しました。去年も似たような事業の審議委員として参加したんですが、去年と今年の懇談会の雰囲気がずいぶん違って驚きました。当日懇談会で特別に要請されたのは「一人の性別、障害、年齢、言語、職業、人種、国籍、出身地域、婚姻の有無、妊娠または出産、家族形態、宗教、外見、ジェンダーアイデンティティ、性的指向、学歴、健康状態などを理由に審査に差別を置くべきではない」というものでした。 韓国の「差別禁止法」制定を促すために、この前、仲間のミュージシャンたちと一緒に宣言文を読みながら見た文句を、あそこで見てとても嬉しかったです。しかし、1986年に生まれた私が「2」が二度も入るあまりにも未来的な2021年に生きながら、上のような差別禁止文を相変らず何度も要求されるのが少し悲しかったです。ふと、199n年に参加した「未来の姿を描くコンテスト」で私が描いた自律走行水陸両用電気自動車が思い出されました。水陸両用はともかく、半自律走行電気自動車が実在する今の時代に、まだ差別禁止法がないとは想像できなかったです。タイムマシンに乗って「未来の姿を描くコンテスト」に帰ったら、自動車より先に「(慶)差別禁止法制定(祝)」の垂れ幕がなびく姿を描きたいですね。

 

オンニとLINEでたびたびメッセージを取り交わしていたのを今日この手紙を書きながら探して読んでみました。その中にとても心に残る文章がありました。多分オンニは恥ずかしいと思うけど、ここに書き写してみますね。

「正確なものとは常に相対的なもので、しかし正確なものを探求する過程が重要で、その過程自体が正しいと言えるだろう。諦めたら終わりだ。ランよ、生きてまた会おう」

ハン・トンヒョンオンニ、生きてまた会いましょう。会って大声で東京のどこかの酒屋に響き渡るように朝鮮語と韓国語で話しましょう。とても会いたいです。

 

2021年7月

ソウルから、ランより

 


*日本居住朝鮮半島出身の人々を呼ぶ呼び方は在日、在日同胞、在日韓国人、在日朝鮮人、在日コリアンなど多様です。 「在日」という言葉の中にも朝鮮籍、韓国籍、日本籍など、様々な集団が存在します。そして自身のアイデンティティをどのように確立したかによって、当事者が使う呼称が国籍と異なることもあります。この手紙ではハン・トンヒョンさんを「在日朝鮮人」、その他は現在最も広い意味で使われている「在日コリアン」という呼称を主に使いました。
(このページはPapago翻訳で翻訳されました。機械翻訳は完璧性が保障されていないので、翻訳者の翻訳の代わりにはなりません)

1986年ソウル生まれ。ミュージシャン、エッセイスト、作家、イラストレーター、映像作家。16歳で高校中退、家出、独立後、イラストレーター、漫画家として仕事を始める。その後、韓国芸術総合学校で映画の演出を専攻。日記代わりに録りためた自作曲が話題となり、歌手デビュー。セカンド・アルバム『神様ごっこ』(国内盤はスウィート・ドリームス・プレスより)で、2017年に韓国大衆音楽賞最優秀フォーク楽曲賞を受賞。最新著作は短編小説集『アヒル命名会議』(斎藤真理子訳、河出書房新社)。その他の著書に『悲しくてかっこいい人』(呉永雅訳、リトルモア)、『私が30代になった』(中村友紀/廣川毅訳、タバブックス)。ストリート出身16歳の猫、ジュンイチの保護者でもある。