第8回 PTSDを材料とする創作(最終回)

アーティスト、イ・ランによる世界初(?)のAI翻訳日記。韓国語で書いた日記をPapago翻訳機で日本語に翻訳する。誰かに会えなくなってしまうきっかけは日常に溢れている。今すぐ会えない誰かとつながるために「あまり役に立たないチング(友達)」を使ってつづられる、人間とAIの二人三脚連載。

最近最も多く、長い間考えていることは、私の話の根源はPTSD [Post Traumatic Stress Disorder:心的外傷後ストレス障害]だということだ。 私がどうしてこんなに絶えず話を作るのか、話に興奮して狂奔して執着するのか。 その上、なぜ他人の話まで引き出したくてやきもきしているのか、ずっとその理由を探していた。 もしかしたら、私は抜け出したい怖い瞬間、その瞬間から話を作り出し、その話の中で安堵したかったのではないか。 そして、その始まりは新生児の時からだと思う。 私はインキュベーターベイビーだ。

「ランは3週間くらい早く出たと思う。
破水して、自然分娩ができないので、帝王切開をするしかなかった。
ランはインキュベーターにいた。2800gだったと思う。
後で家に連れてきたら毎晩たくさん泣くから 背中におんぶして寝た」 - お母さん

もちろん、あの時私が置かれていた環境は全く覚えていない。母親の話は一日に一度病院に面会に来てみると、育ちが良くない子供が背を向けて死んだように横になってばかりいたという。ガラスドアの外で私を見守っていた母親と他の大人たちは「あの子が果たして生きていくのか?」という話を交わしたという。私を愛してくれる、私と親密になる可能性を持った人々がいくつかのガラスの外側にいた時、私は何も知らずに一人で話を作り出していたのではないか。新生児が作り出せる話とは何だろうか。もしかしたらこんな考えから始めたのではないか。

「ここはどこ? これはなんかとっても大きな間違いのようだ」

 

新生児に「間違い」という概念があったかは分からないが、8〜9ヶ月間過ごした空間(母親の中)と違う空間に置かれた後、きっと何か「違う」という感覚はあったはずだ。その違いを感知した後、不慣れさ、恐怖、回避、抵抗感のような多様な感情が急速に進化しただろう。それらは物語を作る上で非常に重要な材料となっている(現在も同様)。
赤ちゃんは子宮の中で子宮外の生活を夢見るだろうか。 それともその他の人生に何の興味もないだろうか。赤ちゃんはなぜ体を動かして産婦のお腹の外でも簡単に気づくほど自分の存在を知らせてくるのだろうか。赤ちゃんが小さな足でお腹を蹴ると大人たちは「赤ちゃんが早く出たくて」と言っていたが、もしかしたら赤ちゃんは外に出るつもりは全くないのに、ただ狭いからではないだろうか。

私が泊まる空間はいつも狭かった。それで私は時々すっきりとした大きな空間に行くのが好きだった。 誰もいない大劇場の練習室のように天井が高くて涼しい場所。 普段、私の空間が狭いという感覚を持っているからか、私は家の中に秘密のドアを発見する夢をよく見た。夢の中の秘密のドアを開けると、突然家の中に隠されていた非常に広い秘密空間が出てきた。幼い頃、私の家族は引っ越しをたくさんした方だが(少なくとも10回)、17歳で独立して以来、私一人でも10回以上引っ越した。 数えてみると、計20回以上引っ越した。 幼い頃から引越しを一度もしたことのない人がいることを知った時はかなり衝撃だった。

 

幼い頃は死ぬ想像をたくさんした。母親とショッピングモールに行けば、母親が買い物をする間、ベンチに座って待ちながらショッピングモールの建物が崩れる想像をした。人々が建物の残骸に下敷きになり、様々な姿で死を迎えるそんな想像をしながら一人で静かに涙を流した。 その時、私の目の前の風景と私の頭の中に浮かぶ風景に乖離感があり、まるで水中にいるかのように周辺の空気の重さが変わる感じだった。私はおそらく自分が愛されていることを確認したくて死についてよく想像していたようだ。私の死を悲しむ人々を想像すると、いつも涙が出た。 実際、今でもよくそうだ。日常の中で絶えず私が死ぬ場面を想像する。 自転車に乗っている途中、車にはねられて倒れたら、その知らせが誰に一番先に届くだろうか。逆に「バイバイ、また会おう」と手を振って消える人々を見てもそうだ。人々が死に、去る想像をあまりにも多くしているため、このような効果もある。 今誰かに会いたければすぐ見に行く。 運転をするようになってからはもっと簡単に動く。 食べたいものを思い出す時も早く食べる。

 

私は即興で歌を作って歌う子供だった。 名節に集まった親戚の大人たちの前で歌を始めれば、私の歌がいつ終わるか分からなくて大人たちが少し戸惑った。姉と他の従弟たちは結び目が確実な「童謡」を歌った。 私より2歳年上の姉がよく歌っていた童謡は< 丈の低いの花>だ。歌だけでなく話もたくさん作った。私が幼い頃に書いた童話がどれだけ多かったのか、その童話でどれだけ多くの賞をもらったのか分からない。作文賞状を飽きるほどもらったが、残念ながらどんな童話を書いたのかは覚えていない(資料もない)。しかし、赤い四角形のある200字原稿用紙を鉛筆で早く埋めていったその感じはよく覚えている。 背が伸び続ける花の話を書いたのをかすかにも思い出す。 他の花の友達とは違って、一人だけ背が伸び続け、友達とあまりにも離れてしまった花の話。育つのを止めてほしいと祈り、最後は背を捨てて友達を得る話だったようだ。

どうしてこんなにいつも寂しいんだろう。解消されないこの寂しさのせいで、これからもずっと話を作り出すことになるだろうか、私は。想像力があって寂しいのか、寂しいから想像力が生まれたのか。 鶏が先か卵が先か。

 

※ご愛読いただきありがとうございました。本連載「あまり役に立たないチング」は今回で終了し、単行本の制作に入ります。どうぞお楽しみに。

 


(このページはPapago翻訳で翻訳されました。機械翻訳は完璧性が保障されていないので、翻訳者の翻訳の代わりにはなりません)

1986年ソウル生まれ。ミュージシャン、エッセイスト、作家、イラストレーター、映像作家。16歳で高校中退、家出、独立後、イラストレーター、漫画家として仕事を始める。その後、韓国芸術総合学校で映画の演出を専攻。日記代わりに録りためた自作曲が話題となり、歌手デビュー。2ndアルバム『神様ごっこ』(国内盤はスウィート・ドリームス・プレスより)で、2017年韓国大衆音楽賞「最優秀フォーク楽曲賞」を受賞。3rdアルバム『オオカミが現れた』で2022年韓国大衆音楽賞「今年のアルバム賞」を受賞。最新著作はいがらしみきお氏との往復書簡『何卒よろしくお願いいたします』(甘栗舎訳、タバブックス)。そのほかの著作に『話し足りなかった日』(呉永雅訳、リトル・モア)、『アヒル命名会議』(斎藤真理子訳、河出書房新社)、『悲しくてかっこいい人』(呉永雅訳、リトル・モア)、『私が30代になった』(中村友紀/廣川毅訳、タバブックス)。ストリート出身17歳の猫、ジュンイチの保護者でもある。

第7回 姉は死に向かっていった。私は泣きながら生きていく。

アーティスト、イ・ランによる世界初(?)のAI翻訳日記。韓国語で書いた日記をPapago翻訳機で日本語に翻訳する。誰かに会えなくなってしまうきっかけは日常に溢れている。今すぐ会えない誰かとつながるために「あまり役に立たないチング(友達)」を使ってつづられる、人間とAIの二人三脚連載。

2021年12月10日午前。 姉が死んだ。 姉が死亡した。 姉が天国に行った。 姉がこの世を去った。来た所に帰った。何と書けばいいのだろうか。このことについてこの事件についてこの死について姉は遺書を書いた。動画も残した。映像の中の演技に満ちた真っ暗な部屋の中で姉は泣いていた。誰に向ているのか分からないが、敬語で話していた。

「私の話を聞いてみますか?」

姉は途中で酔っ払った人のように言った。途中で酒も薬も飲む姿が見えた。「飲んでいるお酒がおいしい」とも話した。 突然泣き出したりもした。

「ランちゃん、私寝たい、死にたい。 どうすれば死ぬことができるの?」

姉は泣いていた。鼻水を流して涙を流しながら泣く姿がとても痛かった。 姉が死に向かって熱心に進んでいる姿が誇らしかったりもした。それで私は泣けなかった。姉の意志を、選択を尊重したかった。 姉のいない人生を生きていかなければならない時間については知らないまま、この時は泣かなかった。 葬式が終わった直後に見た夢では、いや夢から覚まそうとした時姉の声が聞こえたようだった。 それとも私の意識の中で姉が言いそうな言葉だったかもしれない。

「私は自由だよ、私は大丈夫だよ」

 

でもお姉さん、私はかわいそう。 私はもっとかわいそうになった

姉の夫は何度も「私は滅びた」と言った。 葬儀場でもメッセンジャーでも、今日一週間ぶりに再び会った時も「私は終わった」と言った。 姉の夫がかわいそうだった。私もかわいそう。姉の犬のマルもかわいそうだ。母のいないマル。マルは本当にかわいい。動画の中の姉はマルの話を持ち出す度に「マルはかわいい!」と叫んだ。しかし、かわいいマルを置いて姉は死に向かった。マルは姉の部屋の外にいた。マル姉の夫が退勤する前まで7〜8時間をどのように過ごしたのだろうか。煙がもやもや漏れる部屋のドアを(しかも部屋のドアはまともに閉まっていなかった)頭で押し込むつもりはなかったのか。マルはとても臆病で、姉も臆病だ。姉は死ぬのが怖いと言った。そのため、頻繁に試みて失敗した。 姉が憂鬱な人であることもがあまりにも昔からのことで私も忘れていた。姉がどれほど死にたがっていたかを。私があまりにも死にたかった時は、周りの誰も思い浮かばなかった。それでも姉は遺書を残した。遺書にはお母さん、お父さん、私、ワン(弟)、ソンハン(姉の夫)、マルの名前だけ書いてあった。私はなぜ姉の面倒をもっと見ることができなかったのか。私はなぜ姉が私の人生に入ろうとする時間を阻んだのか。

 

近くにいるとの深い悲しみに耐えられなくて大変だったけど。姉はあまりにも心が弱くて愛が多い人だった。姉は私が一人で自立する姿が嬉しかったので、友達にたくさん自慢したようだ。 障害があって面倒を見なければならなかった弟の存在について、葬儀場で会った姉の友人たちはよく知らないようだった。弟がいたという事実自体をだ。とにかく姉が私の自慢をたくさんしたためか、姉の友達は私を見てセレブを見たように喜んだ。「さすが、やっぱりスルの妹」という話をたくさんした。

葬儀2日目、喪屋の隣の小さな部屋についた浴室でシャワーを浴びながら「姉は私をどう思っただろうか」という考えを止めることができなかったもし。もし姉が私に残念なことがあったんじゃないか気になったんだけど、シャワーを終えて姉の友達に話を聞きながら何かやりがいがあった。私がお姉さんにとって誇らしい妹だったんだなって。姉の自慢なので、私は最後まで姉が誇らしくなれるように姉が喜ぶように、葬儀場で喪主の役割を最善を尽くしてやり遂げた。私はなぜ姉の面倒をもっと見ることができなかったのか。

 

いつからか姉に文を書いてみなさいと言いたかった。次に作る本に姉の文を載せたかった。同じ家族を共有した家庭内暴力被害者同志として、お互いが記憶する記憶について記録してみたかった。その話をお姉さんに先にすればよかったかな。前もって文を書けと言えばよかった。どんな目標があったら、お姉さんがもっと生きることができただろうか。どんなものが姉をもっと生きさせたのだろうか。考えて考えても、姉の人生を延長するようなものが特に思い浮かばない。私にも必要ない明日が姉だって必要だったろうか。私が強要できない明日は、私が生きている以上、必ず来てしまう。 とうとうひょっこり現れる。日が暮れて、日が昇って、いや、地球が回って、時間が過ぎ、明日が来てしまう。

 

今日の考えが昨日の考えになり、人々が死んでいく。 それなのに私は生きている。ジュンイチも生きている。 お金を稼がなければならず、お金を使わなければならない。 区役所に行って自動車も登録しなければならない(姉から自動車を相続した)。ダイエットもしなければならないし、服も新しく買わなければならない。パンツも買わなければならないし、ズボンも買わなければならない(太ってズボンが合わない)。長く着ない服を捨てなければならず、本もそうだ。 読む本が多すぎて、一日読むニュースも多すぎる。 連絡する人、会う人も多く会いたい人も多いが、それでも明日は来なくてもいい。明日来なくてもジュンイチに会えなくても、愛する友達に会えなくても私は大丈夫だ。明日が来なかったらいいな。 今日、世の中が終わってほしい。

 

姉は死に向かっていった。泣きながら行った。私は泣きながら生きていく。友人が付けてくれた「泣き虫戦士」というニックネームを持って泣きながら生きていく。姉のいない一日を生きていく。街を歩きながら特に派手な服がかかっている服屋を見たりアクセサリーを見る度に「これは姉のスタイルだね」と繰り返していた習慣なくなるだろうか。 いや、なくならないと思う。

久しぶりにピアノを弾いた。指が痛かった。ギターを弾くと指が痛くてピアノに変えてみたが、ピアノも指が痛いことを知って挫折した。

 


(このページはPapago翻訳で翻訳されました。機械翻訳は完璧性が保障されていないので、翻訳者の翻訳の代わりにはなりません)

1986年ソウル生まれ。ミュージシャン、エッセイスト、作家、イラストレーター、映像作家。16歳で高校中退、家出、独立後、イラストレーター、漫画家として仕事を始める。その後、韓国芸術総合学校で映画の演出を専攻。日記代わりに録りためた自作曲が話題となり、歌手デビュー。2ndアルバム『神様ごっこ』(国内盤はスウィート・ドリームス・プレスより)で、2017年韓国大衆音楽賞「最優秀フォーク楽曲賞」を受賞。3rdアルバム『オオカミが現れた』で2022年韓国大衆音楽賞「今年のアルバム賞」を受賞。最新著作はいがらしみきお氏との往復書簡『何卒よろしくお願いいたします』(甘栗舎訳、タバブックス)。そのほかの著作に『話し足りなかった日』(呉永雅訳、リトル・モア)、『アヒル命名会議』(斎藤真理子訳、河出書房新社)、『悲しくてかっこいい人』(呉永雅訳、リトル・モア)、『私が30代になった』(中村友紀/廣川毅訳、タバブックス)。ストリート出身17歳の猫、ジュンイチの保護者でもある。