第12回 長い時間軸の中で考える

内田樹先生と三砂ちづる先生の往復書簡による、旧くてあたらしい子育て論。ともに離婚により、男手で女の子を育てあげた内田先生と、女手で男の子を育てあげた三砂先生。その経験知をふまえた、一見保守的に見えるけれども、実はいまの時代にあわせてアップデートされた、これから男の子・女の子の育て方。あたらしい世代を育てる親たちへのあたたかなエール。

第12便・A

無条件に愛されること、無条件に見守られること

内田先生、こんにちは。

ごめんなさい、お返事遅くなってしまいました。すっかり季節がかわってしまいました。パソコンの目の前にあるお隣の大きな桜の木、ほとんど葉が落ちてしまっています。2022年も終わりに向かいますね。お変わりありませんか。

四月から全面対面授業に戻った勤め先の女子大も今年度最終タームに突入しました。ここでは、一年生から、ゼミの練習をするためのゼミ、というのをやっています。少人数で話をしたり、レジュメを作って発表をしたり、司会をしたりして、大学での勉強の仕方を一年かけて学びます。

先日、「ポル・ポト政権時代の仏教徒弾圧について」発表をしてくれた学生がいました。まだ10代半ばの頃にカンボジアを訪問して、キリング・フィールドとかツールスレン収容所跡などを訪ね、彼の国の歴史に深く思いを馳せることがあったようです。カンボジアの現代史について知っている学生もいれば、知らない学生もいますが、カンボジアのポル・ポト政権の時代って、あなたたちには世界史に書いてある「事項」かもしれないけれど、私自身がちょうど大学生くらいだった時にあったことですよ、というと、みんな、呆然としています。彼女たちにとって昭和の出来事、は、明治、大正、が歴史上の大昔……であるのとほとんど変わらない昔々あるところに……の話で、自分の目の前でそこそこ元気そうにしゃべっている人が、しっかり記憶のある青年時代に経験してきたこと、というふうにはとらえられないんですよね。

ソ連の崩壊、冷戦の終結とか、私が子どもを産んで育てていた、ほんの30年ほど前の出来事で、私くらいの年齢の人間にとっては、起きるはずがないと思うことが起こった、ということだったんですよ、というと、もっと片付かないような顔をしています。「歴史」ってね、思ったより身近なところで、「歴史」になっていっているわけですよ、というと、しん、とします。

今の大学生の祖父母世代である私たちは、自分の若い頃生きてきた頃のあれこれをその前の戦中戦後世代と比べて、どうやら語るに値しないこと、と思っているふうがありますよね。少なくとも大人になってから、食べるものに困る、死んでいく人が周りにたくさんいる、戦時状態である、とか、そういう前の世代のようなドラマティックなことを経験したわけではなくて、高度成長期から今まで、生活スタイルは通信、デジタル関係では様変わりしたものの、ずっと似たような、お金稼いでお金使って生活を豊かにもっと自由に、というエトスの中で生きてきたから、次世代に語るべきことなんてあんまりないよな、と思っているような気がします。内田先生が、「古老に聞く」タイプのお仕事に追われているということ、そして、「リアルタイムでその出来事があったときに同時代の人たちが何を感じ、どういう表情やどういう言葉づかいでそれについて語ったのかは、その場にいた人間しか記憶していません。そういう「現代史の生き証人であるところの古老」というポジション」で語る必要性があるんだ、とおっしゃることが、まことに腑に落ちていく感じです。語ることはないわけではなく、語っていい、と思っていなかったのですが、語る必要はないわけではありませんよね。

さらに1950年代後半生まれの私たちは、強大で影響力の強かった団塊の世代に遅れること10年、何をか語らん、何もいうことない、みたいな時代の雰囲気で20代をアパシーと共に過ごした年代ですから、自分が「古老」になれるはずない、と思っているところがあるのですが、どんどん年齢的にはそうなっていくわけで、自らの経験の細かなディーテイルにこそ、現代史があるのだ、と思って、語り始めるしかありません。

冒頭のゼミ生、高校生の頃に訪問したカンボジアに興味を持ち続けており、大学に入ったら、またすぐ再訪できると思っていたのに、できなくなってしまった・・・と話していました。2020年初頭からのCOVID-19パンデミックであっという間に世界の人の動きは止まってしまい、2022年も終わろうとする今、検疫の水際対策自体は緩和されてきていますけれど、移動する人の数はそれほどは戻っていません。それほどの人が移動していないところに、燃料も高騰しているわけですから、チケット自体がものすごく高い。びっくりするような燃料サーチャージがかるようです。ヨーロッパ往復はチケットを別にして、燃料サーチャージだけで12万とか13万とか・・・ちょっと前までチケット自体がその値段(あるいはもっと安く)で買えたものですけれども。輪をかけての円安。気軽に海外に出かけられる時代は、あっという間に終わってしまいましたね。

グローバリゼーション、とか浮かれて、いつでも好きな時に外国に行って、帰ってきて、やりたければどこでなんでもできるように見えていた時代は、もう過去のものです。その最中にいる時には、なんだか永遠に続くように思われるあれこれも、あっという間に変わってしまう。あの、能天気にみんなが世界を巡っていた時代のことも、また、語られることがあるでしょうか。

このところ、東京から沖縄、石垣に向かう便をよく使っています。どの曜日に乗っても、いつも若いカップルと家族で、飛行機はほぼ満員です。海外旅行があまりに高額なのと、円安なのと、まだまだパンデミックの余波で海外に気楽に出かけられないのと、全国旅行支援も始まったのと・・・などなどが相まって、海外の代わりに行く旅行先は本土復帰五十周年の沖縄、なのでしょうかね。

若いカップルはともかく、幼い子ども連れがとても多い。乳児、幼児、さらに、明らかに学齢期の子どもたち連れの家族がたくさん搭乗しておられる。学校の休みでもない時期の平日です。学校が休みでもない、平日に旅行する。親が休みさえ取れれば、それは、いいですよね、安いし。混まないし。で、親御さんたちはそういう決定をするようになったみたいです。ちょっと前まで、あまりこういうことはしませんでしたよね。親が子連れで田舎に帰ったり、旅行をしたり(だいたい親と「田舎に帰る」以外の旅行をする、ということが始まったのも、実はごく最近のことである気もしますが)するのは、学校が休みの時期であり、週休二日になってからは土日であり、少々重要な家族の行事があっても、子どもが学校に行っている時期なら、彼らの学校登校が優先していて、家族で子どもと出かける、とか考えることもなかったように思います。

十年暮らして、子どもを育てていたブラジルの学校のことを思い出します。学校は大した“力”を家族に対して、持っていませんでした。何があろうが、家族が優先でした。そのように見えていました。ブラジルの、普通の、小中高校は、ほとんどが二部制であり、午前中か午後か、どちらかにしか学校に行きません。朝7−12時か、午後1−6時か、希望して登校する時間を選ぶことができました。

小学生くらいですと、親の都合で子どもを午前登校か、午後登校か、親が適当に決めるのです。ああ、我が家は飲食業で親が夜遅い生活だから、子どもの学校は午後にしておこうとか、親の仕事に出かける時間が早いから(結構、7時代に仕事が始まったりしていました)、子どもの学校は午前中にしておこう、とかそういう感じ。世の中の子どもというものは、朝、早起きさせて、ご飯食べさせて送り出すもの、と思っていた私は、「午後登校」組の友人宅に遊びに行って、子どもたちが朝10時ごろぼやーっと起き出してきて、親も、うち、ほら、夜遅いからねえ、とか言っているのを見て、衝撃を受けました。それでいいのだ、と。

半日しか行かないブラジルの学校は、国語算数理科社会といういわゆる基礎教科だけを勉強するところであり、それだけ勉強するくらいの時間しか取れないから、音楽や体育という科目も本格的なものは何もなく、学級活動、にあたるようなものも、まったくありません。

そもそも午前と午後に違う生徒が来て教室をつかいますから、ホームルームもないので子どもにとって「自分の机」、「自分の場所」のような、親密な空間、というものも学校に出現しません。大きめの「学習塾」をイメージしてもらえばいいような空間でした。親のほうも、子どもの性格とか、集団での協調性とか、そういうことに対して学校なんかに口を出してもらいたいと思っていなくて、そういうのは家庭の領域だと思っていた(ように見えました)。要するに子どもの生活に占める学校の割合が日本に比べて極端に低い。

だから、家族の旅行や家族の都合で学校を平気で休ませていました。ああ、今日はね、休みが終わって初日だから、学校何にもないから、行かせなかったわよ、とか、家族でサンパウロ行くからね、とか、平気で学校を休ませていた。当時の私は、そんなものかな、それでいいんだな、と思っていたのは既に四半世紀前のことですが、日本もそうなりつつあるのでしょう。保育士や教員など子どもに関わる仕事をしている友人に聞くと、今の親御さんたちは、親側の都合で子どもの学校を休ませることは、ありだ、という雰囲気が確かにあるらしく、家族で旅行するから、とお休みする子も決して珍しいことではなくなっているそうです。東京―石垣便にたくさんの子どもが乗っていることも、さもありなん、なようです。

小中学生の不登校が25万人に近くなり、そうなると一クラスに一人か二人は学校に来ない子がいる、ということになるでしょうから、名実ともに「学校に行かない」ということがそんなに珍しいことではなくなりつつあります。「学校に行きたくない」、「学校はつらいところ」、「学校は行かなくてもいいなら行きたくないところ」、「学校は自分が行って楽しいところ」では、もはや、ない。というかそんなふうに学校が楽しい、なんて思っていた子どもは元々そんなにたくさんいなかったのかもしれませんね。私自身のことを思い起こしてみても、学校は少しも楽しいところではありませんでした。

元々今となっては親に申し訳なかったと思うくらい、不機嫌な子どもで、当然人と交わるのは苦手、外に出て遊ぶのもきらい。それは、小児喘息で体が弱いせいだ、と思われていたので、ずーっと家にいて、字が読めるようになったら、というか字を読むくらいしかやることがないために、早々に字を覚え、ひたすら何か読んでいた活字中毒の内向的な幼児が、幼稚園とか小学校とかに馴染めるはずもありません。

幼稚園は私の世代は行っている人が多かったので私も一年行きましたが、毎月休んでばかり。小学校に行っても、50分の授業に座っていることができず、トイレに行く、保健室に行く、と途中で何度も教室を出て行っては、人気のない学校の踊り場で呆然としながら、なんでこんなところにいなければならないのかなあ、と思っていました。学校は、自分にとって、決して居心地の良いところでも、安心できるところでもなかったのですが、行かねばならないから行っていた、というだけです。中学生になって、自分の意見の一つも言えるようになり、高校生になって何もかも言われる通りにやらなければならないわけではなくなり、立派な図書館の書庫の隅に自分の好きな場所を見つけることができるようになり、なんとかかんとか、小中高を終えた、と思います。

学校が嫌だったから、家が居心地がよかったのか、というと、後になって思えば、そんなに居心地がよかったわけではないんですね。前回のお手紙で内田先生が書いておられたように、「自分は、子どもの頃に、父と母と兄から深く愛されて育った、見守ってもらっていた」、と、そういうふうに長く自信を持って言えなかったのは、同居している祖父母が仲が悪く、また、自らの父と母も仲が悪く、祖母と母も、仲が悪く、そんな中で、子どもは長く私一人、という状況で育ったからだと思います。

子どもは一人しかいないのだから、みんな、子どもに愛情が行ってもいいはずなのに、今思うと、みんな、自分のことで結構大変だったんだな、と思います。家にいる対の関係が穏やかである、ということは全ての家庭生活を穏やかに推移していくための重要な条件でしょう。たとえ、それが対の片方が、一方的に忍従を求められていたとしても、家の中を穏やかにするために、それが必要だと思えば、それを意志をもって選び取られていたのではないか、と思われるくらいです。

祖母が祖父に声を荒げていた日々、単身赴任している父が家に帰ってくるたびに母と言い争いをしている日々がその家に住んでいる唯一の子どもである私に快適ではなかったのではないかな、と気づいたのは、大学生になって家を出て、一人で住み始めてからでした。子どもである、とは、自らの置かれている状況を客観的に捉えることはできない、ということですから。

それでも、私は、祖父母や父母の、彼らのとても大変な日常の中で、彼らのそういった時代と個人的状況の制限の中で、私のことを愛していてくれたんだな、それを私が十分に感じられなかったことも、彼らにとってはとても残念に思うことだっただろうな、と今は思います。

彼らに「無条件に愛された」という自信をもらい損ねたように見える私も、内田先生がおっしゃっている、もう片方の家族からの贈り物、「見守られていた」は、確実に、豊かに享受していたのです。毎日気持ちの良い暖かいお布団で眠り、洗濯されたきれいな服を着て、朝昼晩、とご飯を作ってもらい、帰宅すれば母がいた、祖父母がいた、という暮らし自体によって私が得ていた安定感は、何にも増して大きなものでした。そう思えば、子どもには「無条件に愛された」あるいは「無条件に見守られた」のどちらかを提供することができれば、「子育て」している親としては満点、なんじゃないか、とか思ってしまいますね。

内田先生の「できるだけ個人的な、偏頗なことを書いて、「子育て」についてのできあいの物語を混乱させ」ようという試み、自分のことも少し書きたくなりました。今日はこの辺りで。寒くなりますが、どうか、ご自愛くださいませ。

三砂ちづる 拝

 

第11便・B

大人たちから子どもを守るために学校は生まれた

 

三砂先生

こんにちは。内田樹です。

今回は頂いてから10日ほどでご返事を書き始めることができました。ようやく大きな仕事のうちの一つ(「アメリカ論」)が片づいて、ちょっとだけ肩の荷をおろしたところです。少しだけ気持ちの余裕が出てきました。

前便でも書いたように、他の仕事は(資本論も農本主義もこの子育て論も)すぐに出さないと速報性を失って価値がなくなるというような種類の話ではないのですが、アメリカ論だけは国際関係がこの先激変してしまうと、リーダビリティを失う部分があるかも知れないので、ちょっと急いでいたのです。ウクライナ戦争の帰趨次第ではNATOとロシアの間で戦端が開かれるかも知れません。第三次世界大戦が始まってしまったあとになって、「世界はこれからどうなる」というようなことをのんびり書いた本を出すのもあまり意味がないかも知れないと思って急いでいたのです。でも、よく考えたら、それは子育て論だって同じですね。

それくらいに世界は激動のうちにあるわけですけれども、それでも僕がなんとなく「第三次世界大戦は起こらないんじゃないかな」と無根拠の楽観のうちにいられるのは、「第三次世界大戦が起きる」という不安のうちに少年時代を送り、そのうちにその不安に「慣れてしまった」という1950年生まれの「古老」の、これもまた特殊な経験のせいかも知れません。

僕が中学生の頃(1962年から65年)はSFが一気に人気ジャンルになった時代でした。SFという文学ジャンルがアメリカで発祥したのは、「人類が発明したテクノロジーによって人類が滅亡する」という、それまでの文学では扱うことのなかった主題がアメリカ人の目の前につきつけられたからです。映画でも「核戦争で人類滅亡」という人類の愚行が繰り返し描かれました。『博士の異常な愛情』も『渚にて』も、50年代に生産され消費された「人類滅亡物語」の膨大な蓄積の上に開花した「傑作」でした。

三砂先生は「世界終末時計」をご記憶だと思います。「世界滅亡まであと何分」を表示した時計ですが、1952年に米ソが水爆実験に成功した年に11時58分(滅亡まであと2分)を記録しました。実際に1962年のキューバ危機のときには「第三次世界大戦寸前」まで行きました。

ですから僕の少年時代はずっと「もうすぐ世界は滅びるかもしれない」という潜在的な不安のうちにありました。「終末観がデフォルト」という感じは、その時代の空気を吸っていない世代にはうまく伝えられないかも知れません。

敗戦国日本はとにかく生き延びるのに精一杯で、国際政治に関与して、地球の危機を救うような国力はありません。何かしたくても、何もできない。だから、もう「なるようになれ」と居直るしかない。その底の抜けた感じが、50-60年代の日本社会のワイルドで、アナーキーで、妙に明るい文化を生み出したと僕は思っています。

そういう時代を生きてきたので、いま「第三次世界大戦が起きるかも知れません」と言われても、あまりびっくりしない。「いつか見た風景」なので、なんとなく「あ、そうなんだ。でも、今度もなんとかなるんじゃないかな」とつい思ってしまう。人類は一度愚行を回避できたから、二度目も回避できるはずだという推論は成立しないんですけれども、それでも。

未来に対する不安を構成している大きな部分は「何が起きるかわからない」という情報の欠如だと思うんです。ですから、過去に「似たようなものを見た」という経験があると、未来への不安はいくぶんか軽減する。「過去の経験」というのは僕が個人的に見聞きしたことに限られません。人から聴いた話でも、本で読んだことでも、映画で見たことでも、「前にも同じようなことがあったよ」と教えてもらえると、なんとなくほっとして、ただ不安で思考停止して、フリーズしてしまうよりは多少知恵も働くし、手も動く。「古老」の仕事って、そうやって年下の人たちの不安を取り除いて、「そんなに怖がることないよ」と背中を押してあげることじゃないかなと最近思うようになりました。

例えば、いま学校に対して恐怖や嫌悪に近いものを感じている子どもの数が増えています。不登校25万人というような数字を見ると、不登校の子どもを持つ親も、子ども自身もずいぶん気鬱だろうなと気の毒になります。そういうときに「どうすれば他の子どもたちと同じように学校に行かせることができるか」というふうに問題を立てると、たぶんうまくゆかない。「同時代の、同学齢の、他の子どもたち」しか参照する当てがなくて、そのマジョリティと比較すると、不登校は「病的」で「異常」なふるまいに見えてしまうからです。

でも、もっと長いタイムスパンの中で「そもそも学校に通うというのは、何のために始まったことなのか」というふうに問いを立てると、「学校にゆかない」というのが病的でも異常でもなく、「それがふつう」だった時代もあるということがわかります。「学校にゆかないのがふつう」から「学校にゆくのがふつう」に社会は変化したのですけれど、その変化を衝き動かした動因は何かということを考えると、不登校ということの意味もまったく違ったものに見えてきます。

フィリップ・アリエスの『子供の誕生』やエリザベート・バダンテールの『母性という神話』を読むと、「子ども」や「母性」といったものが歴史的な条件によって構築されたものであることがわかります。それはかなり流動的なもので、ゆっくりとですけれども、ずっと変化し続けている。ですから、「子ども」が僕たちの考える子どもではなく、「母」が僕たちの知っている母とはほとんど別物であるような社会が過去にはいくつも存在していたことになります。でも、別にそれはそれらの社会が「未開」で、僕らの社会における「子ども」や「母」がより完全に近いものだということではなく、いつの時代のいつの社会も、それなりの合理性に基づいて「子ども」や「母」はその役割を演じていたのだと思います。

アリエスによると、現代の「子ども」概念に近いものがヨーロッパに生まれたのは15世紀以降のことだそうです。それまでは七歳までは親の手元に置くけれども、それ以後は7年から9年に他の家に徒弟奉公に出します。委託された子どもの主な仕事は「主人に仕えること」です。そこで修業して、実務経験を身につけて一人前になる。子どもを教育するのは、委託契約を結んだ他家の主人ですから、実の親子の親密な感情的つながりというものは期し難い。アリエスの文章を一つ引いておきます。

「こうした状況のもとで、子供はごく早期に自分の生まれた家族のもとをはなれていたのであり、後に大人になってそこに戻ることがあったにしても、それも常にそうだとは限らなかったのである。したがって、この時代に家族は、親子の間で深い実存的な感情を培うことはできなかったであろう。」(P.アリエス、『〈子供〉の誕生』、杉山光信他訳、みすず書房、1980年、346頁)

中世のヨーロッパの話ですけれども、「そんな遠いところの話なら、現代日本と関係ないじゃん」というわけにはゆきません。というのは、まさにこの「親子の間に深い実存的な関係が欠けている」社会で「学校」が登場してきて、親子関係を一変させるからです。

アリエスによれば、15世紀から家族のあり方と、家族意識が変容してゆきますが、その際立った兆候が「子どもを学校に通わせる」という習慣が定着してきたことです。それまでは他家に見習い奉公に出すことが教育でした。それが学校という独立した教育機関ができて、そこに通わせることになった。

ここで重要なことは、必ずしも学校は親たちの要請でできたわけではないということです。ヨーロッパで学校教育を先導したのはイエズス会士たちですけれども、彼らが子どもを学校に通わせるべきだというキャンペーンを展開したのは「若者を生まれたばかりの無垢のなかにとどめておくために、大人たちの穢れた世界から隔離しようという配慮」からです。何よりも親たちの非道な権力行使から子どもを守るためでした。

バダンテールの『母性という神話』は前近代ヨーロッパの子どもたちの無権利状態について、こう書いています。

「アンリ二世の布告(1556年)は、親の意志にそむいて結婚するものは永久に相続権を剥奪される、と宣言した。(…)アンリ三世の新しい布告は、親が同意しない未成年者の結婚は誘拐と同類と見なし、未成年者を『誘拐』したものは、いっさい容赦なく死刑に処すと宣言した。」(E.バダンテール、『母性という神話』、鈴木晶訳、1998年、55頁)

死刑ですよ。すごいですね。18世紀の後半になっても、「家庭の名誉と平安を危険にさらす可能性のある行動」をした若い男女への処罰は厳しいものでした。そう宣告された子どもたちは西インド諸島の流刑地に送られました。

「流刑地に送られた子どもたちは、厳重に監視され、ろくな食事も与えられず、過酷な労働を強いられた。」(同書、56頁)

これらの法律は、その時代において父親の子どもに対する権力がいかに強大なものであり、子どもには服従以外の選択肢がなかったことを示しています。だとしたら、「これほどの社会的圧力があったため、その他いっさいの感情が割り込むすきがなかった」のも当然です。

親子の愛情というものを僕たちは誰のうちにでも自存する、ごく自然な感情だと思っていますけれど、そんなものが「割り込むすきがない」ような親子関係がフランス革命前にはデフォルトだったのでした。

『母性という神話』は次のような印象深い逸話から始まりますが、僕はこれを読んでずいぶん驚かされたことを思い出します。これは1780年のパリの話です。

「毎年パリに生まれる二万一千人の子どものうち、母親の手で育てられるものはたかだか千人にすぎない。他の千人は―特権階級であるが―住み込みの乳母に育てられる。その他の子どもはすべて、母親の乳房を離れ、多かれ少なかれ遠く離れた、雇われ乳母のもとに里子に出されるのである。
多くの子は自分の母親の眼差しに一度も浴することなく死ぬことであろう。何年か後に家族のもとに帰った子どもは、見たこともない女に出会うだろう。それが彼らを生んだ女なのだ。」(同書、25頁)

アリエスについても、バダンテールについても、その所論についてはさまざま異論はあると思います。でも、前近代の家族は僕たちが思い込んでいるようなタイプの家族愛に基づいたものではなくて、もっと手触りのざらついたものだったということ、子どもたちがそういう冷たい家庭で精神的・肉体的に傷つけられるリスクを回避するために、彼らを大人から守るために「学校」という制度が作られたということは、たぶん事実だろうと思います。

近代において学校が作られたことの目的が「大人たちから子ども守る」ことだと聞いたら、いまの日本人はびっくりすると思います。でも、この本義は揺るがすべきではないと僕は思います。ここでいう「大人たち」には「世間」も「親」も含まれます。子どもを労働力として利用しようとする大人たち、子どもを自分に服従させようとする大人たち、その両方から子どもは守られるべきだという考え方を僕は適切だと思います。

アリエスの言うように「子ども」という観念は歴史的な発明品ですけれども、それは「子ども」というのは幻想だと言い切って終わりにできる話ではなくて、「子どもという観念」を発明したことで人類は少しだけ進歩し、この世界は少しだけ暮らしやすくなったというふうに解釈してよいと思います。せっかく「子どもという観念」が「誕生」したわけですから、それをできるだけ有用なものとして活用したい。

というところで話は戻りますけれども、不登校というのは、だから、ほんとうはあり得ないことなんだと思います。学校が子どもを守る場所であったら、子どもたちは、保護と支援を求めて、止められても、学校に行くはずですから。

でも、そうなっていない。それは家庭と学校を比べると、学校の方が、子どもにとってはより服従を強いられ、より自尊感情を傷つけられ、心身により深い傷を与えられる場になっているということです。学校の誕生の歴史的意味から考えれば、そうなります。家庭だって、それほど居心地がよいわけではないけれども、それでも家庭内では執拗ないじめとか、教師への服従の強制が求められることはありません。三砂先生が書かれているように、仮にそこが「愛のない家庭」であっても、子どもたちにとって生理的に快適な環境を整えるという気づかいはなされている。もちろん、それさえない「ネグレクト」された子どももいますけれど、それがデフォルトではなくなっている。それは「不適切」であるということについての社会的合意は存在する。

子どもたちの虐待ということが話題になると、僕がまっさきに思い出すのは、意外と思われるでしょうけれども、マルクスの『資本論』です。『資本論』というと、ほとんどの方は最初の方の「商品と貨幣」のところを読んでいるうちに、話があまりに抽象的なので、うんざりして止めてしまったと思います(僕もそうでした)。でも、がんばって読み進めると第六章「労働日」のあたりから、いきなり話が生々しくなるのですが、それは児童労働のところです。マルクスはこの辺からあとは当時のジャーナリストや学者が書いたプロレタリアの非道な収奪の実情を引用して頁を埋めてゆきますが、それがほんとうにすごいんです。

「夜中の二時、三時、四時に、九歳から十歳の子供たちが汚いベッドからたたき起こされ、ただ露命をつなぐためだけに夜の十時、十一時、十二時までむりやり働かされる。彼らの手足はやせ細り、体躯は縮み、顔の表情は鈍磨し、その人格はまったく石のような無感覚のなかで硬直し、見るも無残な様相を呈している。」(カール・マルクス、『資本論第一巻上』、今村仁司他訳、筑摩書房、2005年、357頁)

これはマルクスの書いた文章ではなく、1860年1月のロンドン『デイリー・テレグラフ』の記事です。もっとすごかったのはマッチ製造業についての記事です。マッチ製造は材料であるリンに暴露されることで「リン中毒性顎骨壊死」が起きることがマルクスの時代にはすでに知られていました。この病気は歯痛と歯肉の腫れから始まり、やがて膿が出て、歯が抜け落ち、最後には顎骨が壊死するという書き写すだけで悲惨な病気です。マルクスはこう書いています。

「マッチ製造業は、その不衛生さと不快さのためにきわめて評判が悪く、飢餓に瀕した寡婦等、労働者階級でもっとも零落した層しかわが子を送り込まないようなところだった。送られてくるのは『ぼろをまとい飢え死にしかけた、まったく放擲され教育を受けていない子供たち』である。ホワイト委員が聞き取りを行った証人のうち二七〇人が十八歳未満、四〇人が一〇歳未満、そのうち一〇人はわずか八歳、五人はわずか六歳だった。労働日は十二時間から十四、五時間にわたり、夜勤、不規則な食事、しかもほとんどがリン毒に汚染された作業場内での食事である。」(同書、361頁)

マルクスが資本主義の廃絶を強く望んだのは、このような非人道的な児童労働から利益を上げている資本家たちへのはげしい憤りからでした。これが160年前の文明国での出来事でした。いまも、非道な児童労働が行われているところはありますけれども、総じて子どもたちの権利や健康はこの時代に比べるとずいぶん保護されるようになってきていると言ってよいと思います。なにしろ、マルクスの時代のマンチェスターの労働者の平均寿命は17歳、リバプールでは15歳だったのですから。

アリエス、バダンテール、マルクスと、ふだん日本の教育論ではまず名前が出てこない人たちを引用したのは、学校と子どもについて考える時に、できるだけ長いタイムスパンの中で今起きている問題をとらえる方が、僕たちが「どこに向かっているのか」がわかるだろうと思ったからです。

マルクスが報告している19世紀英国の児童労働者たちは学校についに行くことなく生涯を終えました。ですから、たとえ一年に数週間でもいいから、子どもたちに「学校に通って欲しい」というのは、心ある大人たちの悲願だったと思います。

これも昔の話になりますが、すでに公教育が導入されていた19世紀末のアメリカでも子どもたちは農業労働の重要な働き手でしたから、親は子どもを学校に通わせることを嫌いましたので、開講されていたのは感謝祭が終わってから春までの農閑期の12週間だけでした。

でも、それでも「来ないよりはまし」だったと思います。ですから、その時代の教師たちが子どもに向かって告げたかった言葉は何よりもまず「お願いだから学校に来て」だったと思います。「ここは君たちのための場所だ。ここでは誰も君たちを苦しめたり、君たちを怒鳴りつけたり、君たちを殴ったりはしない。ここには親もいないし、雇い主もいない。ここでは君たちは守られている。」そう言ったと思います。教師は子どもたちに向かって「君がここに来ることを私たちは願っている」と懇願したと思います。

僕はそれが学校の原型だと思います。子どもたちを歓待し、保護し、承認すること。それが近代における学校の本務だったはずです。

年に12週の就学期間で子どもたちにどれほどの学力がついたのか、僕にはわかりませんが、教師たちは「この世には君たちを歓待する学校という制度が存在する」ということを子どもたちに知らしめるということが何よりもたいせつだと思っていた。読み書きができる、四則計算ができる、歴史や地理を学ぶこともたいせつだけれど、それ以上に「学ぶことを支援する制度がこの世には存在する」という情報それ自体を子どもに伝えることがたいせつだった。

もちろん、その時代にも「不登校」の子どもたちはいたでしょうけれども、たぶんその多くは親が「学校に行く暇があれば、仕事をしろ」と言って通学を妨害されたのだと思います。あるいは、「学ぶことを支援する制度が存在する」ということが最後まで理解できなかったのかも知れません。

でも、いまの不登校は違います。学校に行くことを拒否している子どもたちの多くは「学校が私を歓待していない。学校に私のための場所がない。学校が私の学びを支援してくれない」と感じている。学校はもう子どもたちを歓待することを主務とする場所ではなくなっている。子どもたちはそこで「値踏み」されたり、「格付け」されたり、「役割演技」を強いられたりして、ある条件を満たさない限りお前を受け入れないという査定的なまなざしにさらされている。

どこで掛け違ってしまったんでしょう。学校はその原点に戻って、いったい何のためにこんな制度を人類は創り出したのか、それを深く思量すべきだと思います。

またまたえらく長くなってしまいました。すみません。今日はここまでにしておきます。

ではまた来年。よいお年をお迎えください。

内田樹拝

内田樹(うちだ・たつる)
1950年東京生まれ。凱風館館長。神戸女学院大学文学部教授。専門はフランス現代思想、映画論、武道論。著書に『「おじさん」的思考』『こんな日本でよかったね』『コモンの再生』『日本習合論』など多数。『私家版・ユダヤ文化論』で第六回小林秀雄賞を、『日本辺境論』で2009年新書大賞を受賞。

三砂ちづる(みさご・ちづる)
1958年山口県生まれ。京都薬科大学卒業。ロンドン大学Ph.D.(疫学)。津田塾大学多文化・国際協力学科教授。著書に『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『オニババ化する女たち』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』など多数。

第11回 没入すること、10歳前後であること

内田樹先生と三砂ちづる先生の往復書簡による、旧くてあたらしい子育て論。ともに離婚により、男手で女の子を育てあげた内田先生と、女手で男の子を育てあげた三砂先生。その経験知をふまえた、一見保守的に見えるけれども、実はいまの時代にあわせてアップデートされた、これから男の子・女の子の育て方。あたらしい世代を育てる親たちへのあたたかなエール。

第11便・A

当時の女の子たちは失神していた

 

内田先生

お便りありがとうございます。ご無沙汰してしまいました。今年、2022年の夏も暑いですねえ。38度とか40度とか・・・体温より高くなってきました。この夏、沖縄、八重山によく行っていますが、そちらでは大体30度前後、32、3度より上がることはないですから、日差しは強いものの、風が吹きますし、東京より涼しい感じがしますね。沖縄県はまさに避暑地の様相を呈してきました。

ゲームやガジェット。おもしろいんですけどねえ、子どもたちが夢中になるのも、わかるんですけどねえ。e-スポーツの時代ですから、子どものみならず、若者も大人も夢中だし、世間的にもみとめられているわけです。世間の母親たち(父親もですが)どうやって小学生、中学生くらいの子どものゲーム時間を制限するか、に苦慮するというか、一体どの年齢でこどもをこういうことに曝露させていいのか迷う、というか、そんな感じだったと思うんですが、いまや、親たち自身もゲーマーですからね。新型コロナパンデミックで小学校でもタブレットが供給されるようになりましたし、もう、次世代は生まれた時からこういう世界にすっかり親和性のある形で育っていきます。どうしようもない。それでも、なお、親たちにためらいが残るのも、この世界が、耽溺するほどに魅惑的であり、その世界に没入してしまうことが、わかっているからですね。

その耽溺が、いわゆる「没我」の世界、「ゾーンに入る」世界か、と言われるとね、それはやっぱり、なんだかね、ちがう、と思いますよね。前回のお便りの最後に書いてくださっているように、身体的に「ゾーンに入る」ものすごく気持ちの良い経験、というのとは、おそらく異なる。ゲームの世界で「限界を超え」、「自我をつきぬける」経験自体は、できるのかもしれないけれど。おっしゃるように、私たちが少年少女だった頃にゲームやガジェットはありませんでしたが、すでにマンガや映画、音楽に小説、そういったものはありましたし、十分に魅力的でした。活字の小説より、さらに、マンガ、生演奏の音楽より、さらに、レコードやカセットに録音された音楽、そういった、もう、一手間かかったもの、あるいは視覚的に強調されたもの、繰り返せるもの、の方が、ずっと「没入させる力」は強かった、と思い出します。

1950年代生まれの私の世代は、黎明期にあった少女マンガと共に育ってきたので、マンガへの没入感は子どもの頃から親しみのあるものでした。普通の本もかなり読んでいましたが、いわゆる小説などとは、没入感が異なることは、初めから意識できました。小学校に入る頃から「少女フレンド」を読み始め、「なかよし」、「りぼん」、「マーガレット」、「少女コミック」と、成長とともに精緻化されていく少女マンガの世界に耽溺していったのは、この時代を生きた女の子たちの喜びでしたね。少年ジャンプが創刊されたのは小学校4年生の時でしたから、マンガ界は活気付き始めていました。大島弓子のデビューにも萩尾望都のデビューにもリアルタイムで立ち会ったことは幸運でしたし、中学校の部活をテニス部にしたのも志賀公江の「スマッシュをきめろ!」(「エースをねらえ!」の大ヒットで日本中の中学生がテニス部に入るようになる少し前のことです)を読んでいたせい、寝ても覚めてもこのマンガの世界に生きていて、初めてラケットを手にした時の喜びを忘れることがありません。「ポーの一族」、「トーマの心臓」は、のち、没入し過ぎて、勉強にならないため、高校時代の受験前には、単行本を新聞紙で包んだ上に、紐をかけて、簡単には出せないようにして、ベッドの奥におしこみました。やることがあまりに原始的で、かわいいものです。受験が終わった後、まっすぐ向かったのは、当時マンガ立ち読みし放題だった大阪の駸々堂書店で、竹宮惠子の「ファラオの墓」を立ち読みで読破しました。まだ、マンガ喫茶とか、なかった頃の話です。何時間、いたんだろう。それこそ没入しすぎて覚えていません。なんと、寛容だった駸々堂さん、ありがとうございます。ごめんなさい、竹宮先生、全部立ち読みしてしまって・・・。その後、精華大学学長になられた竹宮先生に(内田先生、素敵な対談本を出しておられますね)、B L(ボーイズラブですが)を卒業論文のテーマにした4年ゼミの学生が、長い質問の手紙を出したところ、とんでもなく丁寧、かつ、内容の濃いお返事をくださって、一学部生にここまでおつきあくださる竹宮先生に感服しました。再度、心の中で、「ファラオの墓」立ち読みしてごめんなさい、と謝ることでした。

音楽も、まことに忘我の経験。そういえば、当時の女の子たちは、失神していました。きっとよくおぼえてらっしゃいますよね。1960年代から、そうですねえ、80年代ころまででしょうか。世界中のロックコンサートで、日本のグループサウンズのコンサートで、女の子たちは、きゃーっと言って、失神していたのです。プレスリーが踊れば失神し(これは50年代末かも)、ビートルズが日本に来た、と言っては失神し。マイケル・ジャクソン(同い年です)のコンサート映像では、失神する女の子をカメラで追ったりしていました。それがひとりやふたりではないのですよね。同時代の世界中の女の子が同じような音楽を聴いて失神していた。それが、ある時から、失神しなくなった。90年代くらいからは失神しなくなったんじゃないでしょうか。コンサートでの熱狂は今も変わらず続いていて、ある意味ずっと大規模にもなったと思いますし、小さなライブハウスでの熱狂も、ファン心理も、以前より重層的で深いものになっているようですが、でも、いまどき、誰も失神しません。あるとき、これはなんだろうなあ、なにがかわったんだろうなあ、と考えたことがありますが、よくわかりません。調べてみたことがありますが、誰もこういうことを研究している方は見つかりませんでしたし、私もわからない。当時の音楽やグループが特別だった、ということもないように思います。音楽は当時の流れを引き継いで、ずっと進化しているのですからね。これって、ひょっとしたら、内田先生の言われる、幼い頃の「ゾーンに入る」とか「フロー体験」と、なんらかの関わりがあったのではないか、とふと、思ったりしましたが、おそらく違うな、と、書きながら、思っている。「忘我」の「フロー体験」と、「失神」とは、方向性が違います。

前回のお便りで、私たちが例としてあげている幼い頃の「忘我」の経験は、サンゴ礁の海で海に溶けてしまったり、道端の植物にこころうばわれてじっとみいってしまったり、夏の日差しのもと、冷たい川の流れの中で100%の気持ちよさを経験したり、風の中、竹と同化したり・・・それはすべて、なんらかの形で、人間がつくりあげたものではない環境、というか、自然のなにかに接することで、起こってきていることでした。音楽やマンガやゲームに没入すること、あるいは、アカデミックハイ。あるいは、書くこと、創作活動における、先が見えてくるような、ハイな経験。それらは全て、人間の記号的な知的作業のうちに営まれていることです。ところが私たちが例に挙げている子どもの頃に経験する「ものすごく気持ちの良いこと」は、人間の記号的な知的作業とほぼ関係ないところで、突然、その世界に“ほうり込まれた”ようになって、その世界と一体化する、という形で立ち現れていますね。ありていな言い方をすれば、“自然”に同化させられている。

これらの幼い時の身体感覚は、ゲーム、ガジェット、音楽、マンガ、映画、アカデミックな作業、執筆・・・なんでもいいのですが、人間の“知的営み”に入るようなものへ没入感よりも、「先駆的に」、あるもののような気がします。母親のおなかのなかで育ち、この世に生まれてきて、いったんは、きりはなされたような状態にありながら、それでも生まれてきた人の感覚は完璧で、幼い人はおそらくこの世界と全て繋がっていることを全身で理解している。おそらく乳幼児は、すべてこれ「フロー体験」みたいな感じで生きているのではないかと思います。産む側の女性の経験を私はずいぶん聞き取りしてきていますが、文字通りの「フロー体験」、つまりは、ものすごく気持ちがよくて、時間の感覚がないような、自分が周囲に溶けてしまったような感覚をよく語ってくれます。お産の時にそういう感覚を持つ女性は少なくないのです。こういう母親と生まれてくる子どもの感覚はおそらく一致しているのだと思います。その感覚を、科学的には証明せよ、といわれても、することの難しい事案ですから、なんとも言えないのですが。

「フロー体験」そのもののような赤ちゃんは、その後の人生を生きていくために、首がすわり、腰がすわり、立ち上がり、言語を獲得し、周囲と言語や身体的な身振りでコミュニケーションをとるようになり、五感が分化していき、その五感で扱えるものに対処するようになっていくプロセスの中で、その「フロー体験」のようなものは薄れていき、それこそ「人間社会」に適応できるようになっていく。でもそういう中でも、自分とは異なる存在を感じられるような状況に、ゆったりとおかれると、不意に、その「一体感」というか「フロー体験」みたいなものが、自分に戻ってくる。それは、おそらく幼いうちは何度も体験されているものだと思いますが、それを明確に思い出すことができ反芻できる経験として意識できるようになるのは、少し大きくなってからのことだろうと思います。意識的にそれと感知できて、それを言語で表現できて、のちの人生でも思い起こせるもの、である必要があるとすれば、それはやはり10歳まで、くらいまでに体感されることではないか、と思えます。逆にいえば、言語獲得を経たのち、生まれた頃の「フロー体験」とそれが同一のものだ、という絶対的な感覚を、感じやすいとともに、それを記憶することもでき、言葉で反芻できる年齢が、10歳くらい、と言えるのかもしれません。

もちろん10歳前後以降でも、人間はそういう経験に開かれています。つまりは、身体的な没我の経験というのは大人になった人間にも訪れるものであり、とりわけ、女性は出産時にそういう経験をする人が少なくないものですから、私自身はそういう経験を「原身体経験」と呼んで、出産経験のスケール化、など記号化の極みみたいな疫学研究をしたこともあります。後の年齢でも開かれてはいるものの、この10歳頃までの、人間が生殖期に向かう前の、明瞭な体験、というのは、具体的に人間にとって大きな転換期である思春期、そしてのちの成人期の困難をうまく乗り越えやすくするきっかけを提供するようのではないでしょうか。

それらの身体的な経験が10歳前後までに先駆的にあると、内田先生がお書きになっているように、「必要な時にはいつでもそこにもどる」ことができるようになる。そのような経験をしていることが、その後のマンガや、本や、音楽や・・さらに現代ではゲームなどの記号的な没入感を、より深く愉快にもし、また、そこから抜け出すことにも、愉悦を感じられるようになるのではないでしょうか。あくまで仮説ですがね。

そう思えば、先の世代としては、どうやって子どもたちが10歳までに身体的な没入感を感じられるような経験を提供できるのか、という話になります。でも、それって、そういう経験がいいですから、できるだけ子どもにそういう経験をさせてあげましょう、といった、新しいお稽古ごととか、サマーキャンプにもっと参加させて、より自然な環境に子どもをおいてあげましょう、とか、そういうお膳立てができるようなこととは、違うような気がします。

経済学者、内田義彦の書いたトンボ釣りの話が思い出されます。今は、トンボ釣り、という言葉自体、もう、わからない人が増えているのかもしれませんが、要するに、トンボを捕まえることです。ご飯を食べるより、何をするより、トンボを釣るのが大好きな子どもがいて、喜んでトンボ釣りに熱中している。これをやめさせようと思うと、それは簡単で、大人が、毎日、毎日、命令して、「トンボを釣ってこい」といえば良い、「やれ」と言われると、楽しみであることが楽しみでなくなり、苦痛になってくる、と。

大人がお膳立てして環境を提供する、というのは、なんだか少し、このトンボ釣りの話と似ているような気がしてなりません。子どもたちに「フロー体験」を10歳前後くらいまでにしてもらいたいのですが、そのために、何かをする、というは、どうも本末転倒な気がするのはそのためです。できそうなことは、とにかく、子どもがぼうっとできる静かな時間、大人からすると意味のないような時間がたくさんあること、そして、ゲームやガジェットへの曝露を少しでも後ろ倒しにする、くらいしか思い至りませんが、このことは具体的な次世代へのアドバイスとして、もう少し考えを深める必要がある気がします。

立秋も過ぎたのに、今日も暑い日になりそうです。どうかご自愛ください。

三砂ちづる 拝

 

 

第11便・B

師に全幅の信頼を置く

 

三砂先生

こんにちは。内田樹です。

お手紙頂いてから1月近くご返事できずにすみませんでした。

この夏休みは7冊本を抱えていて、うち1冊だけは何とか仕上げて出版社にゲラを戻しましたけれど、残り6冊は今同時並行で書いています。これもその一冊なんです。『資本論』解説、カミュ論、権藤成卿の復刻本の解説、米中論、勇気について、そしてこの子育て論を並行して書いています。支離滅裂なラインナップですね。

どうしてこんなになんでもかんでも引き受けてしまうんでしょうね。自分が苦しい思いをするだけなんですけれど、それでも面白そうな企画を持ち込まれると、つい「やります」と言ってしまうんです。

でも、その時点では書きたいことが頭の中にあるわけじゃないんです。頭の中にはまだ何もないんです。でも、何となく「書くことをこれから思いつくかもしれない」という予感がする。まだアイディアにはなっていないのだけれど、「アイディアの予兆」のようなものがそのオファーを受けた時にふっと目の端をよぎる。そんな感じです。実際に書き始めてみると、たしかにその「予兆」から何かが浮かび上がって来る。さざえのつぼ焼きをつまようじで引き出すとき、ていねいにひっぱりだすと「つるっ」と中味が出てきますね。あんな感じ。

それに、僕が書いているものって、どれもネタが古いんです。なにしろ『資本論』にアルベール・カミュに農本主義者・大アジア主義者ですから。いったいいつの時代の話をしているんだよと言われそうです。でも、気がついたら、僕のところに来るのって、そういう企画ばかりなんです。いつの間にか、「古老に聴く」というタイプの取材がほんとうに増えました。

最初に来たのは「1969年の三島由紀夫VS東大全共闘の行われた時の時代の空気はどんなものでしたか」と訊かれたとき。そういうタイトルのドキュメンタリー映画に「時代の証人」としてちょっとだけ登場しました。そしたら、次は「1968年の第一次羽田闘争の山崎博昭君の死にどんな衝撃を受けましたか」を訊かれ、次は「1972年の早稲田大学内ゲバ殺人によって以後の学生運動はどう変質しましたか」を訊かれました。

ある出来事がどういう文脈で起きたのか、その出来事がのちの時代にどんな影響を及ぼしたのかといったことは、研究書を読めばわかりますが、リアルタイムでその出来事があったときに同時代の人たちが何を感じ、どういう表情やどういう言葉づかいでそれについて語ったのかは、その場にいた人間しか記憶していません。そういう「現代史の生き証人であるところの古老」というポジションに気がついたら立っていました。

この「男の子を育てる話」もある意味では、そうだと思うんです。僕に求められているのは、一般論ではなくて、「昔、男の子はこういうふうに育てられた」という個人的な見聞の証言ではないかという気がするのです。

「そんなのはあなた一人の個人的な経験や知見であって、一般性を要求できないよ」と言われたらその通りなんですけどね。でも、「証言」というのはもともと一般性を要求するものじゃない。むしろ「一般性を揺るがすもの」です。

よくドキュメンタリーに「昔の出来事を遠い目をして語る古老」が出てきますね。でも、彼らはすわりのよい結論を述べたり、わかりやすい教訓に落とし込んでくれたりはしてくれない。むしろ、そういう(ディレクターがあらかじめ仕込んでおいた)予定調和的なシナリオにはないことを呟いて物語を「脱臼」させる。

ですから、僕たちもその「古老」に倣ってはいかがかと思うのです。ここはできるだけ個人的な、偏頗なことを書いて、「子育て」についてのできあいの物語を混乱させる。混乱させるだけさせて、さっと逃げ出す。なんだかその方が誰にでも同意してもらえるような面白みのない「一般論」を語るより楽しそうだと思いませんか。

というところまでが前置きです。前便で三砂先生が振ってくださったトピックについて書きます。一つは「没入」ということ、もう一つは「10歳前後」ということです。論脈上はつながりのないこの二つ言葉に僕はつい強く反応してしまいました。それはその二つについて別のところに書いたばかりだったからです。その話をしますね。

先日、知り合いから大学でのセクシャルハラスメントの被害者女性の裁判闘争の支援を頼まれました。もしかしたら三砂先生もご存知かもしれませんが、早稲田の大学院で、文芸評論家としても高名な人物が、女性院生に対して研究指導に際して、繰り返し暴言を吐き、自尊心を傷つけただけでなく、指導や卒後の世話の代償に性的関係を求めてきた事件です。そのせいで女性は退学を余儀なくされ、心に深い傷を負うことになりました。教員は退職し、大学は事件の隠蔽をはかった教職員を訓戒しましたが、被害者に対する謝罪も補償もありませんでした。この女性は、大学がハラスメントが多発している事実を認め、それに適切に対処できる仕組みを作るように訴えを起こしています。

僕が彼女が書いているこの経緯を読んで、強い怒りを感じました。それは、師弟関係というのが、本来は弟子の側に「自己放棄」と師への「全幅の信頼」を求めることで成立するものだからです。自分についてくる人に「自分を手放すこと」を求めるからです。それを悪用したことを許し難く思ったのです。

たしかに中等教育や大学でも学部レベルでは、そこまでの「没入」は求められません。でも、大学院レベルになると、一人の教師と一人の院生が一つのことについて、余人の入り込む余地のないほど密度の高いやり取りをすることが起きます。研究職というのはある種の「ギルド」ですから、独特のジャルゴンが行き交い、世間の常識がしばしば通らない。でも、入会しようとする者は「清水の舞台から飛び降りる」つもりで、自分の手持ちの価値観や判断基準をいったん「かっこに入れて」、「メンター」の指示に黙って従う。そうしないと「ギルド」に入れてもらえないと思うからです。

その時、学ぶ者は一時的に非常に無防備になります。自己刷新のためには、それまで身にまとってきた「鎧」を脱ぎ捨てることが必要だからです。一時的にではあれ、とても脆く、傷つきやすい状態を過ごさなければならない。

この脆弱で、傷つきやすいプロセスにある人が外傷的な経験を受けないように気遣うことはメンターのとてもたいせつな仕事だと僕は思います。ほんとうに教え子の知的成熟を望んでいるなら、教師は教え子が「自分を手放す」プロセスを無事に通過できるように、じっと見守って、適切な指示を与え、励ましてあげるのが仕事だと思います。

でも、このセクハラ教師は、教え子がそれまで生き方を律していた個人的な規範を手放して、メンターの言に黙って従うことを決意したことにつけ込んで、おのれのせこい欲望を満たそうとした。これは単にこの人物の属人的な卑しさということ止まらない罪深いものだったと思います。彼がこの女性の「学び」への開かれを傷つけたからです。

これから先、彼女はもう新しいことを学ぶために無防備になるということができなくなったと思います。誰かを信じて心を開くということができなくなる。「謎めいたこと」を言う人間には興味を持つより先に嫌悪と不快を感じるようになる。忍耐強く相手の話を聴くよりも、「ひとりがたり」をしている方が落ち着くようになる。そうやって、自分に居着いてしまう。でも、これはお分かりでしょうけれど、知性的、感情的な成熟にとってはほとんど致命的なことです。

学びの場で受けた外傷的経験は単に「セクハラされて不愉快だった」ということでは済まされません。それは当事者の「学ぶ能力」そのものに深い傷を残すからです。

そんなのはもう過ぎたことなんだから、早く忘れた方がいいというような賢しらな助言をする人がいますが、それは傷の深さを理解していない人の言葉だと思います。学ぶ人がメンターから受けた傷は、遠く未来にも影響を及ぼすからです。

この女性が最近書いたものを読んで、僕はなんだか悲しくなりました。とても文章の上手な人なのです。論理的できちんとした、説得力のある文章を書くのです。でも、硬直しているのです。自分に触れてくる異物に対する不安と嫌悪で、文章の皮膚がかちかちに堅くなっている。彼女が、この事件以前にどんなものを書いていたのかを僕は知りません。でも、おそらくこれよりはもっと手触りの暖かい、風通しのよい文章を書いていたのではないかと思います。この人はある意味で「自分の声」まで奪われてしまったのです。

子どもたちが「没入」できることはとてもたいせつだ。このことについては僕たちはもうよく了解し合っていると思います。そうできるように支援するために、傍らにいる大人に何ができるでしょう。それは「自分を手放して、没入しても大丈夫だよ。怖いことないよ。誰も君を傷つけないから」という保証をしてあげることだと思うのです。

小さい子どもが大人の手をぎゅっと握って「放しちゃだめだよ」と言う時がありますね。あれは、彼らが「冒険」をしようとする時なんです。そういう時はしっかり握ってあげる。もし小さい時に、「放しちゃだめだよ」と大人に頼んだのに、手を放されたという経験をした子どもは、それからあと「冒険」することに対してずいぶん臆病になると思います。ですから、子どもたちが10歳くらいになるまでは、親はどんなことがあっても「手を放してはいけない」と思います。それくらいの年齢までに「自分を手放しても怖いことはない」「人を無防備に信じても裏切られることはない」という確信を子どもが持つことがとてもたいせつだからです。

前に講演のあとの質疑応答で、フロアから「内田さんのその根拠のない自信はどこから来るんですか?」というたいへん本質的な質問を頂いたことがあります(会場は爆笑していました)。「子どもの頃に内田家の人たち、父と母と兄から深く愛されて育ったからだと思います」とその時にはお答えしました。「愛されていた」というのは、言葉が足りなかったかも知れません。「愛されていた」というよりは「いつも見守ってもらっていた」という方が正確だと思います。子どもの頃に、自分が手をつかんだ時に、親から手を振り切られたという記憶がないのです。その体験のせいか、人に自分を委ねることが別に怖くない。信じることが怖くない。おかげで、僕は武道と哲学というふたつの分野で、「師に全幅の信頼を置く」という得難い経験をすることができました。以前、兄に「どうして樹はそれほど無防備に人を『先生』と言って後についてゆくことができるのか」としみじみ言われたことがありました。「お前は、『弟子上手』だな」と。その通りかも知れないと思います。兄は的確に見ていたと思います。そして、僕が「弟子上手」なのには、小さい頃に(この兄も含めて、家族から)「握っていた手を振りほどかれた」という外傷的経験がなかったことが大きく与っていると思います。

でも、それってやっぱり「10歳前後」までなんだと思います。その次の段階では「世の中には決して心を許してはいけない人間がいる」ということを大人は教えなければいけない。

僕の父親は僕が8~9歳の頃に、僕を前に座らせて「信用できる人間かどうかは、その人物の地位や学歴とは関係がない。哲学を持っていない人間を信用するな」と申し渡しました。子どもに向けて語る言葉にしては、あまりに堅苦しい言葉でしたし、父親の表情も真剣でしたので、忘れがたい思い出になっています。

父は満州事変の年に19歳で満州に渡り、敗戦の翌年に北京から帰国しました。15年間大陸にいて、大日本帝国の消長をつぶさに見てきた人です。驕った日本人たちが朝鮮半島や中国大陸で何をしてきたのかも見たし、帝国が瓦解するのにも立ち会った。その混乱の中で、父は「信用できる人間」と「信用できない人間」を見分けることは死活的に重要だということを思い知らされたのだと思います。

父が子どもの僕に「哲学を持っている人間」という言葉で言おうとしていたのは、「世間の人々」がどう言おうと、どうふるまおうと、ことの筋目を通す人のことだと思います。自分なりの条理を維持していて、損得勘定や私利私欲で言動がぶれない人間。おそらくそういう人に父は窮地を救われたことがあり、逆に学歴も地位も申し分ないが、平気で人を裏切る人間に煮え湯を飲まされたという個人的な経験があったのだろうと思います。

父が小学生の僕に教えようとしたのは、「世の中には決して信用してはいけないタイプの人間が存在する」という経験知でした。それを父は子どもがある年齢に達した時には「教えておかなければならないこと」だと思ったのです。「ある年齢に達したとき」という条件がつくのは、あまり幼いときから「世の中には信用してはいけない人間がいる」ということを口うるさく言うと、それは子どもの成長の妨げになるからです。

幼い子どもはまず「学ぶ」ことから始めなければならない。まずは心を開いて他者に接する無防備さを身につける。ある種の無垢さです。子どもたちの成熟を願うなら、まず人を信じること、人に身を預けることを教えなければならない。「誰も君の手を放さない」「誰も君を傷つけない」という保証を与えるところから始める。

でも、そんな子どもたちもいつか「世間」に踏み出してゆかなければなりません。そして、世間に出ればいつか必ず「決して信用してはいけないタイプの人間」に出会う。イノセントな向上心につけこみ、彼らから収奪し、致命的な傷を負わせて立ち去る人間に出会います。そういう人間はこの世間にはたくさんいます。だからこそ大学や職場でハラスメントがあれだけ起きるのです。そういう人間を見分けて、決して近づかない知恵が死活的に重要になります。

僕たちは子どもたちを育てる時に「信じろ」ということと「信じてはいけない」ということを二つ教えなければならない。時間順としては、まず「人を信じること」を教え、次に「信じてはいけない人がいる」ということを教える。そういう順序になると思います。そして、その二つのモードの切り替えが「10歳前後」ではないかというのが僕の仮説なんです。

「人を信じなさい」ということを教えてくれる心優しい親は多くいると思います。でも、子どもがある年齢に達した時に、子どもを前に座らせて「よく聞きなさい。世の中には決して信じてはいけない人間がいる。これからそれを見分ける方法を教えるから、よく聞いて忘れないように」と教えてくれる親はそれほど多くはない。

それは親の経験知でよいと思うのです。限定的な経験から絞り出したような言葉で十分だと思うのです。子どもが第一に知るべきなのは「どういう人間を信じてはいけないか」という識別法ではなくて、「世の中には決して信用してはいけない人間がいる」という事実の方だからです。

「ねえ、いったいどうすればいいの? 人を信じていいの? それとも信じちゃいけないの?」と子どもは泣訴するかも知れませんけれど、それに対しては「信じたり、信じなかったりするんだ」と答えるしかありません。「人間は葛藤のうちでしか成長しないのだから、それくらいは成熟のコストとして引き受けなさい」というところまで口に出して言っても、子どもには難し過ぎてわからないかも知れませんけれど。

長くなり過ぎたので、今日はここまでにしておきます。では。

内田樹 拝

内田樹(うちだ・たつる)
1950年東京生まれ。凱風館館長。神戸女学院大学文学部教授。専門はフランス現代思想、映画論、武道論。著書に『「おじさん」的思考』『こんな日本でよかったね』『コモンの再生』『日本習合論』など多数。『私家版・ユダヤ文化論』で第六回小林秀雄賞を、『日本辺境論』で2009年新書大賞を受賞。

三砂ちづる(みさご・ちづる)
1958年山口県生まれ。京都薬科大学卒業。ロンドン大学Ph.D.(疫学)。津田塾大学多文化・国際協力学科教授。著書に『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『オニババ化する女たち』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』など多数。