第4回 親を許すこと、親から許されること

内田樹先生と三砂ちづる先生の往復書簡による、旧くてあたらしい子育て論。ともに離婚により、男手で女の子を育てあげた内田先生と、女手で男の子を育てあげた三砂先生。その経験知をふまえた、一見保守的に見えるけれども、実はいまの時代にあわせてアップデートされた、これから男の子・女の子の育て方。あたらしい世代を育てる親たちへのあたたかなエール。

第4便・A

ぼんやりの効用

 

内田先生

こんにちは。お便りありがとうございます。

そうでしたね、先日、平川克美さんの隣町珈琲でばったりお会いする前に、内田先生にお目にかかったのは、2年前、これまた隣町珈琲の2019年の新年会でしたね。あの頃の隣町珈琲はとっても狭くて、とっても狭いとわかっているのに、平川さんとその周りの人に会いたくて、ひしめき合いながら、お正月を寿いで、山村若静紀さんの踊りがみたくて、それでなくても狭いのに、みんな、いっそう身を寄せ合って、1メートル四方の空間をなんとか作り、若静紀さんが踊られたのでした。密集して、密接して、がやがやとみんなでおしゃべりして、お酒を飲んで、あんなふうに人に会うことができたこともあったんだなあ、というふうに思いおこす日が、こんなに早く来るとは思っていませんでした。

思えば内田先生と平川さんと三人でお話ししたのは、今回が初めてでした。一対一ではお話しする機会も対談する機会もありましたが、お二人がおしゃべりなさっているのをわたしがひとりでみている、という機会はあのように偶然にしか訪れませんね。自慢の兄たちを、いいなあ、すてきだなあ、と思って話をきいている状況をいただいて、勝手に「妹」ポジションを自分のものとしてしまったわたしは、大変幸せにおふたりをながめました。妹の役割はもちろん、「妹の力」を日々、精励して養い、兄たちの安寧を願い、無事を祈ることです。

映画の話、韓流ドラマの話をしておられたときに「平川くん、映画みたあと、批判とかしないよね、わるくいわないよね、かならず、なにかいいこというよね」っておっしゃっていましたね。平川さんは、おもしろくないものは最後までみないんだよ、最後までみるものはなにかいいところがあるんだから、みたいなことを答えておられました。

おお。

最後までみるものには、なにかよきところがある。みるべきところのないものはスルー。そして目の前にあるものは大切にする。特別な人です。平川文化圏のここちよさをもとめて、ああやって新年会に密集していたのだと思います。なにをやってもほめてもらえる。わるくいわない。平川さんはいつも自分の気がついていないいいことをみつけてくれるし、ほめてくれる。それは内田先生も同じです。ちがうところをあげつらうのではなく、そうか、この人はこんなふうにいうのか、と理解してくださる。

それって大事ですよね。学生は、批判的態度を身につけて、批判的な読み方をせよ、と教えられると思うんですけど、教師としては、ものごとを批判する前に、まず自分が好きな書き手をみつけなさい、っていうんです。この人の書いているものが、理由はまだうまく言えないけれど、好きだ、気に入っている。ならば、その人のものを全部読みなさい、そして自分の思っていることを他人が上手にあらわしてくれている、と思えるものをみつけなさい。そうして自分の思いが言葉になることを経験し、自分の思考の軸を作っていき、言語化して行く。そういうプロセスを経て、その上で初めて、なにかを批判する、ということができると思うんですね。

しかも、批判するのではなく、まずどうしてそう考えることになったのかな、というアプローチ、まさに内田先生がなさっているようなことをしていく。「彼がそう思うに至ったことにはおそらく必然性があるのであろう」。そういうふうに考えていく基礎が、幼い頃からの平川さんとの人間関係でつくられていった、とはなんとすばらしいことでしょう。それは双方向の関係で、お互いを大切にする中でつくられていったものですね。

親子関係も、また。

「親がそう思い至ったことには、あるいは、親がそうするに至ったことには、おそらく必然性があったのであろう」、子どもの側がこの認識を持てるようになることが、子どもが大人になる、ということなのだろう、と思います。多くの場合は、自分自身が親になったときになんとなく気づきはじめるのかとおもいます。聡明な人は、もっと早くにわかるのでしょうけれども。

マイケル・ジャクソンは、同い年の1958年生まれで、誕生日も近いので、勝手に同じ時代を生きてきたという思いを抱いていました。マルティン・ルーサー・キングが有名な“I have a dream” の演説をしたのは1963年、アメリカで法の上での人種差別が終りを告げることになった公民権法が制定されたのが1964年。そういう時代が彼の幼少時で、ジャクソン5の“I want you back” で全米チャート1位になったのは1969年。MTVネットワークに初めて登場した黒人歌手となったのが1980年代。50歳の角を曲がれずに、マイケルが逝ってしまってもう十年以上経ちます。彼が、「子どもと親」について、オクスフォード大学でスピーチをした文章や音声で残っています。2001年3月のことだから彼は43歳です。彼は、「無償の愛とは、子どもから親に捧げるものだ」、と話しているんですね。

マイケルは、自分が親になって、自分の子どもたちのことを考えている時、この子どもたちが大きくなったら、自分のことをどんなふうに思うんだろう、と考え始める。自分がこういう仕事をしていたから、いつもパパラッチに追いかけられたりしてしまっていて、公園に行ったり、映画に行ったり、普通のこどもたちができることができなかったから、大きくなってからわたしを恨んだりするかな、でもどうか自分のことを許してほしい、お父さんはちょっと難しい環境にいたけど、まあ僕たちにたくさんの愛をくれてあたたかい人だったよな、と思いかえしてくれるといいんだけどなあ、と言います。

そして、そうやって、自分の子どもたちに、自分の至らなかったことをなんとか許してほしい、と思うにつけて、考えるのは、自分の父親のことだった、というんですね。マイケルの父は、息子たちがジャクソン5として活躍するために、虐待に近い厳しさで子ども達を育てたというし、実際にマイケルは父に虐待されていた、と言っていたこともあった。マイケルの父は、アメリカ南部の貧しい黒人家庭に生まれ育ち、30年代の大不況期に思春期を過ごすのですから、誇りを奪われ、希望をないがしろにされていく世界で男として成熟していくことをもとめられた。そんな彼が、自らの感情を表に出すことを困難だ、ということに何の不思議があるだろうか、感情に壁を張り巡らせなければならないような環境で育って、自らの心をどんどん閉ざしていったことは仕方のないことだった、とマイケルは思うようになる。差別され厳しい環境で育っていくことは、感情に壁を作り、感情を表せなくなり、自らへの感情教育も困難になる。マイケルは、父の感情についてそんなふうに考えている。

そしてスピーチの最後に、親との間にどんなことがあったとしても、どうか親を許してほしい、親を許して、親に、今一度、愛する、とはどういうことか教えてあげてほしい、親にひどい目に遭わされたと思っている人も、親に手を述べてほしい、と語りかけます。あなたたちにお願いすると同時に、わたし自身にも願う、わたしたちの親に、無償の愛、をとどけられるように、と。子どもに無償の愛をとどけられてこそ、親はどうやって人を愛したらいいのか学び直せるのだ、と。

初めて読んだとき、ううむ、とうなってしまいました。子どもが親を許す。子どもが自らの親に愛情を注ぐ。わたしたちすべては、誰かの子どもです。誰かの親ではない人もいるかもしれないけれど、全ての人は誰かの子ども、そしてわたしたちにできるのは、自分の親を許すこと。自らが親となって、自分の子どもをどうやって育てるのか、ということにむきあうとき、自分ができるのは、子どもにどうするのか、というより、自分の親を許し、自分の親を愛することだ、というのは、親になる自らの感情教育の大変重要な部分を形作るような気がします。親になる私たちは、不可避的に間違う。子どもには、許してもらうしかないのだと・・・。

ちょっと、考えるにはしんどいことになってきました。

いまいちど、平川さんの話題に戻ります。内田先生に最初にお会いしたのは2003年のことですが、平川さんにお目にかかったのは、ずっと後のことでした。書き手としても、内田先生のお友達ということでも、「平川克美」のことは存じ上げていましたが、会う機会もなく、内田先生に直接ご紹介いただく機会も特にないまま、時間が過ぎていました。何年くらい前かなあ、今ほど、日本で話題になる前のエマニュエル・トッドが来日した時に、藤原書店でのトッドを囲む会で平川さんに初めて会いました。お互い、なんで、この人がここにいるの、なんで、トッドなの、と思ったんですが、内田先生からお話を聞いていたのでなんとなく以前から知っているような気がして、すぐ打ち解けてお話しすることができまして、その後、親しくお話しさせていただくようになったのです。ですから、トッド、がきっかけでした。トッドご本人はもちろん知る由もないことです。

トッドについては、昨年、勤め先の大学の講義で、彼の人口論について、話すことになりました。サバティカルをとる同僚の人口学の先生の代わりに、人口論について2ターム分、講義することになり、1ターム目を人口学の概論、2ターム目を人口学の特論として、トッドを取り上げたのです。専門としてきた疫学と、トッドの専門の人口論はコインの裏表みたいなところがある分野です。日本から離れていた間の10年くらいロンドン大学衛生熱帯医学校というところで働いていたのですが、所属していた部局はDepartment of Epidemiology and Population Sciencesと言いました。つまり「疫学人口科学部」です。集団の健康を扱う公衆衛生という分野の最もパワフルな計測道具である疫学と、人口の数とか分布とか構造や変化を問題として人口現象を分析する人口学は、重なるところも多いのです。とはいえ、人口学は専門ではありませんから、授業しようと思うと、かなりしっかり自分で勉強しないと授業になりません。昨年、全てオンライン講義になったことは大変だったのですが、自分としては、突然オンライン講義に移行したのが大変だったのか、この人口論をはじめとしてたくさん初めてやる講義ばかりを担当したのが大変だったのか、よく分からなかったのですが、それはともかく。

授業をするのですから、彼の書いたものは、今一度読み直しました。彼の理論そのものも、ですが、インタビューなどもたくさん読みました。その中で、彼が自分の子どものころ、若い頃を振り返って、「時間がたくさんあること」こそが、創造性に何より大切なことだと言っていたことが印象的でした。トッドはフランスで育ちますがイギリス仕込みの人口学者でもあり、とてもユニークで、経済よりも人口動態を軸に歴史を捉え、結果としてソ連崩壊やイギリスのEU離脱、アメリカでのトランプ政権誕生を予言してきたことで世界に知られていきます。人口動態を注視していれば、こんなことがわかるのか、と目を開かれる思いがするのですが、彼のオリジナルな着想、視点は、とにかく、ヒマでやることがなくて、ぼうっとしていたころの生活によっている、というのですね。

人が育つ過程で、ぼんやりする時間がたくさんある、というのは、本当に大切なことです。わたしは学齢期前の子どもと大学生は、とにかくぼんやりする時間がたくさんあって欲しい、と思うんですよね。柳田國男が子供の遊びを分類していて、軒遊び、というのを定義していました。柳田が自分で作った言葉だ、と言っていますが、親に抱かれている時期と、外で活発に友達と遊び始める前に、いわば、家の軒先で親か誰かの目の届くところでぼんやりして一人遊びしている、というような時期の遊び、のことです。吉本隆明はこれを、母親によって育てられている時間と、学童期に始まる優勝劣敗の世界の入り口との間に、弱肉強食になじまないような世界が可能かもしれなくて、軒遊びの世界は、その可能性を暗示しているのだ、というふうに言っていました。意識するしないは別として、そういう中間、つまりは、赤ちゃんである時期と、学童期の中間にあるこのぼんやりした時間を持つことが人間の力の特性にかかわるのではないか、と。

大学生という多くの人にとって二十歳前後の時期も、少し似ていると思います。生徒として守られていた時期と、まさに弱肉強食の社会にさらされる中間としての時間を提供するのが大学生、という時期なのかもしれない。その中間の時期を経験することをゆるされた人は、そこでぼんやりすることによって得た力を、世界のために使えるのかもしれないと。パンデミックの中、人に会う機会が減っている大学生が、ぼんやりする時間がたくさんとれているといいな、とか思ったりするのでした。

平川さん話題が続きました。くしゃみしておられるかもしれないですね。それではまた。どうかご自愛ください。

三砂ちづる 拝

第4便・B

生きているなら、それでいい

 

三砂先生

こんにちは。内田樹です。お手紙ありがとうございます。

結構早くにお手紙をいただきながら、返事が遅れて済みません。

三砂先生への手紙は、書き出したら、数時間で書き上げちゃうだろうということがわかっているので、あまり「締め切り」を気にしないでぼおっとしているので、安藤さんを心配させてしまいます。申し訳ありません。

さきほど、今年4冊目の単著のゲラのリタッチが終わったので、ようやくご返事に取りかかれます。

今年だけで単著が4冊って、多すぎますよね。まだ7月ですよ。

この他に共著、対談本がありますから、秋ごろはまたも一時的に「週刊ウチダ」状態になりそうです。

どれも編集者がブログ記事やあちこちの媒体に書いたものを蒐集して、編集してくれた「ありものコンピレーション」なので、手を入れずにそのまま出してもいいんですけれど、ゲラを見ていると、どうしても推敲したくなってしまうんです。どんどん書き足し、どんどん削っているうちに、いつの間にか原形をとどめぬものになっています。

そういう性分なんです。自分の原稿に手を入れる作業がけっこう好きなんです。少しでも読みやすくなると、すごくうれしい。

「読みやすい」というより、「声に出しやすい」という方がいいかも知れません。

僕の場合、自分の文章を推敲するときの基準は「音読に耐えるかどうか」がなんです。意味とかメッセージよりも、声に出してすらすら読めるかどうかということが僕にとってはたいせつなんです。どうしてなんでしょうね。

すごくロジカルで、術語も一義的に用いられて、丁寧に書かれているのだけれど、なんだか泥濘に足をとられたようにもたついて、なかなか先へ読み進められないという文章があります。その一方で、へんてこな話が、よくわからないロジックに導かれて、うねうねと書かれているんだけれど、なんとなく読み出したら止まらない文章というものがあります。僕はたぶんそういう文章をめざしているんだと思います。

それって、「面白い文章」というのとはちょっと違うんです。

「面白い」と「止まらない」は違う。かっぱえびせんだってそれほど「美味しい」わけじゃないけど(メーカーさん、すみません)、食べ出すときりがないでしょ。

というのは、たぶん僕が書こうとしていることは非常に「共感されにくいこと」だからだと思うんです。「ああ、わかるよ、その感じ。オレも前からそう思っていたんだ」というリアクションがあまり期待できない。

たしかに、そういう「打てば響く」リアクションをしてくれる人を想定読者にして書くという書き方はあります。内輪にだけ通じる固有名詞やほのめかしによって、読者たちに「これがわかる私たちはselected fewだ」というエリート意識をもたらすような書き方ってあります。僕もそういう書き方に影響されて、そういう書き方をしていたことがありますから、わかるんです。

でも、今僕がしているのはそれとは違うんです。僕は「打てば響くようにわかる人」に向けて書いているわけじゃない。「何言ってんだよ、こいつは・・・」と頭上に疑問符を点じながらも読むのを止められないという読者に向けて書いている。

だから、「音読に耐える」ことが必須の条件になるなんです。

「すらすら読める」というのは「わかりやすい」とは違います。「意味がわからないけれど、すらすら読める」ということはあるんです。音がシームレスに続き、ある種のリズムがあって、息をつくところが、ちゃんと用意されていると、すらすら読める。

今書いていることだって、かなり意味がわかりにくい話だと思いますけれど、たぶん三砂先生はすらすら読んでくれていると思います。

最初にゼロから文章を起こすときは、自分が何を考えているのかを自分に説明しようとして書いています。だから、話はくどくなる。同じところをぐるぐる回るし、行き止まりにぶつかると、分岐点まで戻る。ブログにはその「ラフ」の状態の文章をだいたいそのまま、推敲しないで上げているので、本にするときには、手を入れないと「すらすら」にならない。

最初に書いているときは自分のアイディアを自分に説明しようとしています。変な言い方ですけれども、そうなんです。

橋本治さんは本を書くことについてこんなふうに書いています。

「分かってて書くんじゃない。分かんないから書く。体が分かることを欲していて、その体がメンドくさがりの頭に命令する──『分かれ』と。」

僕が書くときのスタンスもかなりこれに近いです。体の方は何かを先駆的にわかっている。でも、それを言葉にするのは頭の仕事です。

昔、NHKのテレビ番組で『ジェスチャー』ってあったの覚えてますか? たぶんこの本の読者で「ああ、あれね」という人はきわめて少ないでしょうけれども、一人のプレイヤーにある単語が教えられます。その人はその語が何であるかをチームメイトに向かってジェスチャーだけで示すんです。チームメイトはその所作から、その人がどういう語を表現しているのかを言い当てる・・・というゲームを二チーム対抗でやるんです。これが結構難しいんです。「負うた子に教えられ」とか「二兎を追うもの一兎を得ず」とか、ジェスチャーでどうやって示したらいいか、お暇なときにやってみてください。

閑話休題。体が頭に向かって「分かれ!」というのはこの『ジェスチャー』みたいな感じなんです。体が「こういう感じのことってあるでしょ!」と頭に伝えるんだけれど、わかってるのは「感じ」だけで「言葉」じゃないから、頭はけっこうとんちんかんな回答をする。頭が「え~と、それはこういうことですか?」というふうに変換候補を出してくるのを、体の方が「あ、惜しい。近い!」とか「ぜんぜん方向違い」とか反応して、そのやりとりの中でだんだん言葉がかたちを整えてくる。

最初に文章をゼロから書き出すときって、そんな感じです。

でも、推敲しているときはそれとは違います。まったく違う。推敲段階では、一応僕の体と頭は合意ができています。実感と言葉が一応はセットになっている。だから、「こういうことがわかった」ということについては、とりあえず自分の中では齟齬はありません。でも、「自分の中では齟齬がない」ということと「他人に分かってもらえる」というのは別の話です。

今度は体に仮説的に「他人」になってもらう。そして、頭が次々と「わかったこと」をあれこれと言い換えて体に向かって差し出すんです。今度は言葉はもうだいたい出来上がっている。だいじなのは止まらずに読み続けてもらうことだけです。さいわい体は頭と違って、理屈っぽくないですから、シームレスに言葉がつながっていて、話がぽんぽんとリズミカルに進み、音読しても呼吸が楽だと「するする」と言葉を吞み込んでくれる。

つまり、定式的に言うと、ゼロから書き起こすときは、「体」が自分で、「頭」が他人役。ゲラを直しているときは、「頭」が自分で、「体」が他人役。そういう役回りみたいです。

あ、最初からまた逸脱してしまいました。ごめんなさい。でも、まあいいですよね。こういう文章を書くときにも実は二段階あるというバックステージの打ち明け話をしているわけですから。「ぐるぐる」と「するする」。

前回のお手紙で「親を許すこと」という言葉がずしんと胸にしみました。

「親を許す」ことは自分の決断でできますけれど、「子に許される」ことは先方の専管事項ですから、こちらは手が出せない。もじもじと下を向いていることしかできません。だから、「子に許される」関係のことは娘に考えもらって、僕は「親を許す」というのがどういうことか考えてみたいと思います。

というのは、僕は「親に許された」ことの経験はあるのですけれども、「親を許した」という経験がないのです。

僕は父親とはあまり話さない父子でした。世の息子たちはおおかたそうでしょうけれども、父親と親しくて、よくおしゃべりをする息子って、まずいませんよね。

二人兄弟ですから、小さいとき、父の関心はもっぱら兄に向かっていて、僕に対する関心はかなり低かったです。ただし、「関心が向かう」というのは「期待する」ということで、兄はその期待にあまりまじめに応えていないので、実情は「兄はひんぱんに叱られるが、弟は何も言われない」ということでした。次男というのは、わりとそういうものですよね。のちに下村胡人の『次郎物語』を読んで、「次男への父親の無関心」がかなりの程度まで制度的なものだということを知って、「なるほど、そういうものか」と思いました。ですから、父親にあまり期待されないことを僕はとくに不満には思っていませんでした。それより「親の期待」を一身に担わされた兄が気の毒だなと思いました。その経験はもしかするとかなり大きな影響を与えたのかも知れません。「子どもにあまり期待をかけると、子どもはけっこうつらい」というのを兄の横顔を見ながら感じていましたから。

弟の方はもともとあまり期待されていない上に、6歳で大病をして、「生き延びても、心臓に重篤な後遺症が残ります」と医師に宣言されたキャリアでしたから、親からすれば「とにかく生きていれば、それでいい」ということになります。

これはものすごく楽でしたね。生きているだけで、親が満足してくれるんですから。僕が長じて娘に対して「生きていてくれさえすれば、それでいい」というずいぶんとゆるい育児方針を取るようになったのは、その体験があるせいだと思います。

父とは差し向かいで話すということがほとんどありませんでした。ですから、たまに二人きりになるとどぎまぎしました。1950年代のふつうの家には電話なんかありませんから、「今日は遅くなるよ」というような日程変更は事実上ありません。サラリーマンは朝家を出る時間も、夕方家に帰る時刻も決まっています。乗る電車も決まっている。だから、夕方になって雨が降ってきたりすると、駅は傘を持って勤め帰りの父親を迎えにくる子どもたちが何人もいました。僕もときどき駅に父を迎えに行きました。すると、いつもの電車の、いつもの車両から父親が降りてきます。改札口で手を振ると、僕に気づいて、にっこり笑ってくれる。父親が大きな傘をさし、僕は小さな傘をさし、並んで家まで帰ります。迎えに行って、父の役に立てるのはたのしいのですけれど、父と二人でいても話すことがない。父も「最近、勉強しているか」とか訊くだけで、「うん」と答えると、話のあとが続かない。でも、僕はその「話題がなくて、手持無沙汰のまま、家に向かって歩いている」というのがけっこう好きでした。

そういうことってあると思うんです。「話すことがない」で無言のままでいるというのは、僕の子どもの頃は家庭の基本だったように思います。家族というのは、別にのべつおしゃべりして、笑っていたわけじゃない。食事のときも、母親がなんとなく世間話をして、それにみんなが気のない返事をするくらいで、ほとんど無言だったと思います。僕はそういう淡泊で、微妙に疎遠な感じが好きでした。

家族というのはあまりべたべたしない方がいい、好き嫌いの熱量が薄い方がいいという僕の今日にいたる家族観はたぶんその時期の内田家で形成されたのだと思います。ほんとうに「家風」というのはいろいろなところに顔を出すものですね。

ですから、僕には今回三砂先生が提示された「親を許す」ということを主題として真剣に考えたことがありません。逆に親には何度か許してもらいました。

僕は親に対してかなりひどいことをしましたけれど、僕が「許せない」と思うようなことを親は僕に一度もしたことがありません。

僕が親にした「ひどいこと」の一つは、高校を中退して、家を出たことです。せっかく進学校に入って、受験生として順調に仕上がっていたはずの息子が、いきなり「自立」すると言い出して、学校辞めて、家出しちゃったんですから、親は驚きますよね。でも、これはまったく親が悪かったわけじゃなくて、1967年という時代のせいなんです。

世界中で若者が体制に反抗していた時代ですから、僕も反抗しないと時代に遅れてしまうと思っただけなんです。そういう点ではまことに時代の風儀に忠実な高校生でした。内田家は子どもにあまり干渉しないのんきな家でしたし、通っていた日比谷高校も当時としてはずいぶんと自由な校風の学校でしたけれど、そういうこととは関係ないんです。こういうふうに俗情と結託して気楽に受験勉強すること自体が許しがたいプチブル的退廃だと定義してしまったんですから、どうしようもない。

高校を辞めて、家も出て半年してから、素行不良でアパートを追い出され、無一文になって、がりがりに痩せこけて、家に戻って「また家に置いてください」と懇願しました。そしたら、親たちは黙って受け入れてくれました。さんざんえらそうなことを言って家を飛び出した息子が尾羽打ち枯らして親の前に手をついたときに、「だから言っただろう」というようなことを親たちはひとことも言いませんでした。僕に屈辱感を与える言葉をひとことも口にしなかった。これにはほんとうに感謝しています。そういう言葉があるいは喉元まで出かかったのかも知れませんが、そんなところで息子に要らぬ屈辱感を経験させても、溝が深まるだけで、何の意味もないということを親たちは分かっていたのだと思います。

もう一つの「ひどいこと」は、結婚した後、妻が両親とはげしいいさかいをして、内田家と絶縁すると言い出した時に、僕が妻の側についたことです。そのせいで、生まれてすぐの娘は6歳になるまで、両親と会うことができませんでした。一番かわいらしい頃の孫を見ることも抱くこともできなかったのです。それについては、ほんとうに両親には言い訳ができないくらいひどいことをしたと思っています。数年後に離婚したあとに、僕の方から親に詫びを入れて、関係を修復してもらいました。その時も僕を責めるようなことは親たちは言いませんでした。また黙って受け入れてくれました。

考えると、ずいぶん「ひどいこと」を親に向かってしたものだと思います。でも、二度とも、親たちは黙って僕を許して、受け入れてくれた。あるいは、6歳の時に一度は「死んだ」と思って諦めた息子なので、「生きているなら、それでいい」というオープンマインドでずっと接してくれていたからかも知れません。

ですから、僕には「親に許してもらった」経験はあっても、「親を許す」というようなことが主題になることはなかったのです。

娘は僕の育て方にはずいぶん不満があると思います。とくに離婚したことは彼女にとっては最大の「許しがたいこと」だと思います。これについては娘が「許す」と言ってくれるまで黙って待つしかありません(最後まで許してくれない可能性もあります)。

そう考えると、僕は親にも子どもにも「許しを請う」という双方的に謝るだけというずいぶん情けないポジションにいることになります。つまり、親にも子にも、双方的に「ひどいこと」をしてきたということです。とんでもない男ですね。

僕の育児は「ふつうじゃない」と前に書きましたけれど、こういう家族史的背景もそれには関与しているのかも知れないと思います。そういう人の書く育児論が果たして世の人の参考になるのかどうかわかりませんけれど、「世の中には変な家族もあるものだ」という情報もそれなりに生産的だからということで、読者のお許しを願うことにします。

それから、「暇にすること」の効用というお話をトッドについて書かれていましたけれど、僕もそれには100%賛成です。そういうお前は多動で「暇にしたこと」なんかないじゃないかとすぐにつっこまれると思いますけれど。たしかに、平川君と僕は現在の診断基準なら間違いなく「多動症」の子どもでした。とにかく「暇にして」「ぼおっとしている」ことがまったくできない子どもでしたから(それは大人になってからも変わりません)。

平川君は学生時代に渋谷のライオンで現代詩をノートに書き写したり、いまだと銭湯めぐりをしていることを「閑人のわざ」だと称しているかも知れませんけれど、そんなの信じちゃダメですよ。あの人は僕と同じで根っからの多動症なんですから。あれは「必死になって、寸暇を惜しんで現代詩を書き写し」「必死になって、寸暇を惜しんで銭湯に入っている」です。一見すると生産性がないというだけで、今していることに集中しているという点では「仕事をしている人間」をはるかに凌駕しています。

僕だってそうです。日々こんなふうに「心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく」書きつづっているわけですけれど、「そこはかとなく」というのは「無計画に」ということであって、「無計画」であることは「尋常ならざる集中力を以て」ということと矛盾するわけじゃないんです。だから、傍目には「世の役に立たないことをよくあれだけ書くよ。よほどの閑なのかね」と呆れられるかも知れませんけれど、やってることは平川君と変わらない。必死になって、寸暇を惜しんで、驚異的な集中力を発揮して「何の役に立つのかわからないこと」をやっている。

三砂先生が「軒遊び」という言葉で言おうとしていることも、それに近いような気がします。遊びって、それなりに高い集中力を求める活動ですよね。でも、その社会有用性や経済的生産性は考量不能です。ふつうは「ゼロ査定」される。でも、違うんです。何なんだろう、遊びっていうのは、いろいろな外的制約を全部外してもらって、とりわけ「そんなことをして何の役に立つのだ」というタイプの小うるさい干渉をきっぱりと排して、ある一点に集中する、「集中の修業」のことではないかという気がするんです。

限りある生命資源を、ある瞬間、ある一点に集中しないと生き延びることができないというクリティカルな瞬間が生き物には必ず訪れます。「遊び」というのは、すべての生命資源を一点に集中して、他が見えなくなるという機制を自分の中に手作りする基礎訓練じゃないかというような気が僕にはします。

「若い時に遊んだ子は強い」というのは人類の経験則なのだと思いますが、それは「いきなりスイッチが入って、高度の集中状態に入ることができる」かどうかが生死にかかわるということを意味しているのではないかと思います。

おお、また長くなってしまいました。今日はここまでにしておきます。

Covid-19の感染爆発はなんだかひどいことになっておりますけれど、どうぞご自愛ください。

内田樹 拝

内田樹(うちだ・たつる)
1950年東京生まれ。凱風館館長。神戸女学院大学文学部教授。専門はフランス現代思想、映画論、武道論。著書に『「おじさん」的思考』『こんな日本でよかったね』『コモンの再生』『日本習合論』など多数。『私家版・ユダヤ文化論』で第六回小林秀雄賞を、『日本辺境論』で2009年新書大賞を受賞。

三砂ちづる(みさご・ちづる)
1958年山口県生まれ。京都薬科大学卒業。ロンドン大学Ph.D.(疫学)。津田塾大学多文化・国際協力学科教授。著書に『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『オニババ化する女たち』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』など多数。