第7回 野生と文明のあわいにて

内田樹先生と三砂ちづる先生の往復書簡による、旧くてあたらしい子育て論。ともに離婚により、男手で女の子を育てあげた内田先生と、女手で男の子を育てあげた三砂先生。その経験知をふまえた、一見保守的に見えるけれども、実はいまの時代にあわせてアップデートされた、これから男の子・女の子の育て方。あたらしい世代を育てる親たちへのあたたかなエール。

第7便・A

女性の身体性は取り戻せたか?

 

内田先生、こんにちは。

お便りありがとうございます。

内田先生の離婚してからの子育てのお話は、何度も伺っていますし、読んでもいますが聞くたびに、いつも、ぐっときます。落語とか、歌舞伎とか、ここはこうなる、とわかっていても、その場面になると、どきどきしちゃうように、何回でも、内田先生の違う言葉で、聞きたいんですね。そして、何度聞いても、なんというか、しみじみとうれしくなって、励まされます。一人の人間の成熟に関わる逸話って、何度きいても、いいものなんです。内田先生が、やむを得ない環境で「お母さん」モードになって、洗濯したりお掃除したりご飯作ったり、子どもと過ごしたり。その合間に翻訳とか、研究なさっていた、と言う話。そして、結果として、その間に、今の「内田樹」として表に出ていることの多くのことがゆっくりと時間をかけて醸成されていった、と言うこと。内田樹の本当の意味でのご活躍は、お子さんが家を出られてから、五十代以降の仕事である、と言うことは、それだけで、人生100年時代の一つのロルモデルを提示している、と言うこと。

それはとりもなおさず、おっしゃっておられるような「「男の社会」のヒエラルヒーの頂点をめざす戦いにコミットする」ことを、人生、ずーっとやらなくてもいい、むしろ、そう言うことをやらないで、一旦降りる時期があったほうが、豊かに生きられるし、結果として、仕事の上でも実り多いことになり得る、と言うことに他なりません。

そう言う、男社会の競争モードに入ることが好きな人もいるし、一人の人間の中でも、そう言うことをやりたいフェーズもあるかもしれないけれど、生涯、それだけやっていると、ほんと、疲弊してくる。だってそう言う闘いにずっとコミットし続けていることは、おっしゃるように、「「男の社会」に軸足を置き続けて、「家事労働に費消していなければ研究に使えた時間」を「損失」に計上」することですからね。そのメンタリティ、つまりは、「私は、子育てや家事などということに使っていなければ、もっと「生産的」なことができた」、つまりは、「もっと稼ぐことができた」、とか「もっとその仕事を通じて評価を高めることができた」、とか、「もっと昇進することができた」と考える、家事育児介護に邪魔された、と考える。それは、関わる人間の心を荒ぶれたものとし、徹底的に荒ませてしまいます。それって、「子ども」とか「家族」がいなければ、私はもっと生産的であれたのに、彼らのせいで、できなかった、と思うわけですから、彼らが恨みや不満の対象となってしまう。荒んでしまうって、そういう荒みかた、は、ちょっと、ほかの荒み方とはちがう。そんなふうに荒んでしまうことが、人間が賃労働の奴隷になるって言うことそのものなのではないでしょうか。

最近、少し、言われなくなりましたけれども、だからと言って問題の深刻さが減ったわけでもなく、一層深刻化している「少子化」問題、ですが、全国で行われてきた少子化対策、って、なんで、イコール「保育所を増やすこと」なんだろう、と思っていました。少子化って、要するに、子どもを産んだり、育てたりすることを少しも楽しいと思えなくなっていることが、どう考えても一番の問題なんだと思うのですが、なんで保育所を増やすと、それが解決すると言えるのだろうか。いったい、何を根拠に、保育所増設が少子化対策の要、と言うことになっているのか、調べてみると、なんと、1960年代の経済学研究が根拠なんですね。少子化対策としての保育政策拡大の効果について、つまりは保育政策と出生行動に関する経済学の研究、と言うのは、1960年代(って、私が幼児の頃です)に、Beckerによって提起された出産の意志決定を説明する理論が多く用いられています[i]

それぞれの家族は与えられた所得と時間のもとで、その効用を最大化するために、育児コストと子どもから得られる効用を比較して、最適な子どもの数を決定するのだ、とBecker 先生は言うのですが、だいたい、この辺りから、え?なに、これ、おかしくない?と思ってしまいます。どの家庭が、子どもを持つときに給料と時間とコストを考えて、冷静に子どもの数を決定したりしますかね?おおよその家庭では、あれ?妊娠しちゃった、子ども、生まれちゃった、と言う感じで、産んで育てて、と言う感じが、それこそ1960年代ごろには主流だったと思うのですが。

で、「与えられた所得と時間のもとで、その効用を最大化するために、育児コストと子どもから得られる効用を比較して、最適な子どもの数を決定する」家族では、親、とりわけ母親が育児をすることで、所得を失うことを嫌がるだろう、と、想定するわけです。経済学では、親が育児をすることによって、働きに行けなくなって生じる賃金の損失を育児の機会費用、と呼ぶそうです。「機会費用」とは、ある行動を選択することで失われ、他の行動を選択した場合に得られたであろう利益、のことらしいです。すなわちこの場合、妊娠・出産・育児を選ぶ、と言うことは、そう言うことをしていなければ、その間、労働することができて得られていたであろう所得を失うことである、と論じる。

そこで、保育サービスが充実していれば、女性が育児期間中に働き続けることが容易になり、育児期間中だけど、働くことができれば、それによって出産・育児の機会費用の減少につながるから、結果として女性の出生行動を促進させる効果を持つと考えられている、と言うのです。それが、少子化対策=保育所増設、の理論的根拠だそうです。

ほんとでしょうか?女の人が子どもを産まないのは、子どもを産んだら、産んだり育てたりしている間にお金が稼げなくなるから?ここで想定されている親、ってほんとに、なんというか、資本の論理を徹底して内面化していますよね。そういう「モデル」をホモ・エコノミクスと呼んだのでしたか。でも、本当にこんなふうに考えて子どもを作ったり作らなかったり、男と女は、そう言う、妙に理性的な判断はしないんじゃないかと思うのですが。でも、よく考えたら、現代は、まさに、この60年代のBecker先生の思った通りの人間になってきているとも、思いますけれどもね。その辺りが、理論の恐ろしいところで、最初はこんなことに当てはまる人間、いるものか、と思っていても、ずっと言われていると、なんだか人間そんなふうになって来てしまうんですね。

「保育所を増やせば少子化の解決になる」という議論は、「経済学」の理論をベースとした、あくまで、「予測」です。出産・育児の機会費用が減ったら、女性はもっと子どもを産んでくれるであろう、と言う予測。「予測」ですから、はずれることもあるでしょう。どんどん出生率の低くなっていく日本の現状を考えると、この「経済学」の「予測」はあたっていないのではないでしょうか。そもそも、経済学は既存のデータから予測を行うのですが、公衆衛生分野のデータ分析は「予測」ではなく、現実のデータからexposureとoutcome、つまりは原因と結果、を設定します。現実に、保育所がたくさんあれば、女性は子どもを産んでいるのでしょうか。若い公衆衛生の同僚は、平成17年度から平成25年度における、東京都の市区町村別の合計特殊出生率と保育所関連のデータ(保育所の利用がない御蔵島村と青ヶ島村以外の計60市区町村のデータ)を用いて、少子化対策としての保育政策の有効性、つまりは「保育所がふえれば子どもはたくさん生まれるのか」についていろいろ検討してみたのだけれど、はっきりした関連がある、と言う結果、つまりは、「保育所を作れば少子化が解決」という結論は、出せなかった、と言っていました。

親の立場としては、働きにいきたいから、子どもを預けたいとは、思います。内田先生も、私も、保育所、というところのお世話には、なっています。でも、預けられる子どもの立場にも、やっぱり立ちたい。子どもの立場に立ったら、生まれたばかりなのに、ぬくぬくしていられる家を出て、保育所に行きたいでしょうか?子どもの立場に立ったら,病気の時、いつもとはちがう保育所で、「病児保育児」として、預けられたいでしょうか?子どもって、親が忙しかったり、親のアテンションが足りなくなると、病気になりがちです。私の沖縄の友人は、子どもたちが小学生の頃、「抱っこが足りないと病気になる」、「子どもが一万円札持つと熱が出る」という名言を残していき、それがあまりに印象的だったため、その二つはそのまま我が家の“家訓”みたいになっていきました。具合が悪くなると、子どもたちは抱っこが足りないと信じ、抱っこをせがみに、来たものです。つまり子どもが具合悪くなる時って、親の側の理由で「抱っこが足りない」状態にしてしまうことが多いのです。親のアテンションが足りなくて、なんとなく具合悪くなっているのに、家にもいられず、いつもと同じ保育所にも行けず、あろうことか、行ったこともない病児保育所に行かされる、とか、あまりに子供が気の毒すぎます。子どもが具合が悪いのに、仕事が休めない、ということこそ、話題にされるべきなのに。

日々、子どもを観察している、保育所の「現場」の方は保育所をベストと考えない人も少なくなくて、保育所を「必要悪」だという方も少なくありません。とにかく保育所を増やすことが少子化を解決する、という根拠もないままに、さらに、わからないことは多いままに保育所増設の議論が少子化対策としてどんどん先行していったので、良かったのだったか、と思います。

「二つの価値観に片足ずつ乗せて生きるというのは、それほど悪いことじゃない」、本当にそうですよね。二つの世界で引き裂かれる、というのは、たいへんつらいこと、と言われますし、実際にご本人はご苦労があることだ、とは思うのですが、二つの価値観に片足ずつのせ、どちらの価値観をも理解しながら、そのはざまで生きていく、というやり方は、間違いなく、その人を成熟させます。

ふたつの世界に軸足を置くやり方を、なんとか楽しめるようになるといいですね。そもそも人間は、「いろいろな自分」を演じることが楽しいのでね。娘とか母とか妻とか・・・。

日本はフェミニズムをまじめにやりすぎました。妻とか母として生きることに肯定的な目を向けるどころか、冷たい目が向けられたので、女性が「働く女性」としてしか生きられないような雰囲気にしてしまった。雰囲気ですよ、雰囲気。みんなフェミニズムのことをよくわかっていたわけではない。なんとなく「女は損している」「女は抑圧されている」という雰囲気になって、家事なんか、まじめにやるのは遅れている、子どもを育てるだけなのは遅れている、となってしまった。男を愛するなんて、自分が損をする。そういう雰囲気。「働く女性」モードで家事育児をすると悲惨なことになります。家事ポイント制とか作ってしまったりして。できるはずないじゃないですか。で、ぎすぎすする。だって、家事って「誰の仕事でもないもの」が必ず出てくるのでそれを自分が引き受けることは「女性の抑圧だ」と思うと、本当につらいことになります。

日本のフェミニズムが女性性の全否定につながったことは悲劇であった、と、そろそろ気づいていいような気がします。女が強くなる、とは、男が作ってきたこの競争社会で勝ち抜くということだけではなく、男が息抜き、女が求め、そのようにしている中で男も疲弊し女も疲れ子どももつらくなっているところで、みんな、そんなことだけが大事じゃないんだよ、見てごらん、今って素敵じゃない、美味しいもの食べて嬉しいじゃない、子どもはかわいいじゃない、という、違う価値を提示することです。女の世界、男の世界、がある。どちらも同時並行でいいんだよ、ということになりませんか。今の女性たちがしんどいのは、子ども達が不安になるのは、そこに一つの原理、つまりは競争原理しかないからではないですか。

日本のフェミニズムは妊娠、出産に女性の身体性を取り戻す、という運動と全く繋がりを持つことができませんでした。これは致命的なことで、日本の女性を、結果として分断することになったと思います。ブラジルに10年いましたし、イギリスにも5年いましたし、アメリカのことはよくわかりませんが、ヨーロッパやラテンアメリカのことはいろいろ肌で感じられることも多かった。彼の地では、例えば、「女性が医療に管理されず、自分のお産を選ぶ」ことは、フェミニズムの課題でした。男性論理が産科医療を作り上げている、と。

日本でも自然な、つまりは生理学的な出産を擁護し、女性たちに安易に医療介入を行わせない、ということをサポートする女性たちのグループは、ありました。世界で一番優秀な助産婦のいる国ですから。しかしそういう動きと、フェミニストの皆様方の興味関心は一致したことがない。むしろ「妊娠出産を称揚すると国家に利用される」という言葉が何度も使われ、妊娠、出産を話題にすること自体が忌避されました。私自身も何度もそう言われてきました。国家が産めよ増やせよ、と女性たちの妊娠出産を称揚した時代は確かに存在し、その時代の反省のもとに私たちの世代が生きているのは確かですが、だからと言って、女性の妊娠、出産の話題を避けることは、話が逆でしょう。「国家に利用されたりしないような、妊娠出産の姿を作り上げていく」ことこそに、力を注ぎたいものです。もちろんそれは、女でも男でも、逃げ込めるアジールにひっそりと築き上げられるものです。

長くなってしまいました。この辺にしますね。お便り本当にありがとうございました。

三砂ちづる 拝


[i] Becker, G.S.(1960), “An Economic Analysis of Fertility,” in Demographic and Economic Change in Developed Countries, Princeton University Press, Princeton.
Becker, G.S. (1973) “A Theory of Marriage: Part 1,” Journal of Political Economy, vol.81, pp.813-846.
Becker, G. S. (1974) “A Theory of Marriage: Part 2,” Journal of Political Economy, vol.82, pp.11-26. など。

 

第7便・B

「産めよ殖やせよ」の逆説

 

三砂先生

こんにちは。内田樹です。

第七信拝受しました。人口減少の問題についてはこのところずっと考えたり、書いたりしているので、三砂先生のご意見には深く頷きました。

「それぞれの家族は与えられた所得と時間のもとで、その効用を最大化するために、育児コストと子どもから得られる効用を比較して、最適な子どもの数を決定するのだ、とBecker 先生は言うのですが、だいたい、この辺りから、え?なに、これ、おかしくない?と思ってしまいます。」

ほんとうにその通りだと思います。第一、「効用」という言葉がいくらなんでも粗雑すぎます。戦争が終わったあと、敗戦国を含めて世界中でベビーブームが起きました。「産めよ殖やせよ」という政治的誘導があった戦時中よりも、食糧難で、子どもがいたらむしろ生活が苦しくなる時期により多くの子どもが生まれたことをBeckerさんはどう説明する気なんでしょう。

親たちが出産を歓迎した最大の理由は「今生まれてももう戦争で殺されずに済む」と思ったからでしょう。それを口に出すことについては社会的禁圧が働いていたとしても、無意識にはそう感じていたと思います。生まれた子どもたちを国家が「利用」しようとしていると感じると、母たちは子どもを産む気がなくなる。そういうことって、あると思います。

女性に対して社会が「お願いだから子どもを産んでくれ」と懇願すると、産む気がなくなり、「産んでも産まなくても、どうでもいいです。好きにしてください」という涼しい無関心で接していると子どもは自然に産まれる。なんだか、そんな気がします。

子どもが産まれることを社会的な損得とリンクさせるという態度そのものが出生率を押し下げる。そういうことってないでしょうか。妊娠と出産というのは「自然と人為」がたぶん6:4から7:3くらいの比率でかかわっていることだと思うんです。人間が完全に統御できるプロセスではない。その「人間が完全に統御できないし、すべきでもないプロセス」に人間がうるさく関与してくること自体が、このプロセスの適切な働きを妨げる。なんだかそんな気がします。

現に、これは僕の印象ですけれども、「少子化が問題になる国ではさらに出生率が下がる」という仮説が成り立ちそうな気がするからです。「出生率が下がったので少子化が問題になってきた」というよりも「少子化が問題になってきて、『産めよ殖やせよ』ということを社会全体が言い出したら、さらに出生率が下がった」ということがあるのではないでしょうか。

日本でも、韓国でも、中国でも、これから急激な人口減少が始まる国では、どこも30年前からこうなることは分かっていました。だから、ある意味でずっと「少子化対策」はしてきたのです。でも、対策をすればするほど出生数は減った。日本は合計特殊出生率が1.36,韓国に至っては0.84という危機的な数値です。でも、日本でも韓国でもこの数字はこれから後もさらに下がり続けるような気がします。

変な話ですよね。「少子化が社会問題になり、少子化対策がなされるほど、少子化が進む」というのは。それはたぶん「子どもを産む」という本来人為の及ばない、自然との共同で行う営みを社会的な「効用」と相関させて、人為に従わせようとする態度そのものが母性の活性化を傷つけるからではないでしょうか。

だから、逆説的ですけれども、「もう少子化については諦めました。みんな好きにしてください。こうなったら人口がどれだけ減っても、みんながなんとか幸せに暮らせるように、社会制度を作り直しましょう」という方に頭を切り替えたら、気がつくと子どもが増え始めた…というようなことがあるような気がします。ほんとに。

日本の人口減少はご存じの通りで、予測では中位推計で2100年の日本の人口は4770万人です。今が1億2600万人ですから、80年間で7830万人減る計算になります。年平均98万人。秋田県一つ分の人口が毎年消えてゆきます。でも、政府部内には人口減少についての政策センターが存在しません。先日の衆院選でも、人口減対策を主要論点に掲げた政党はありませんでした。メディアも報道しない。

僕はこれを深刻な社会問題に対して、日本人が思考停止していると思っていましたけれども、もしかしたら、もう無意識のさらに深いところで、日本人全体が「『子どもが減ると困る』という話をすればするほど子どもが減るので、その話はしないようにしよう」という呪術的思考をしているのかも知れません。自分たちがそんな呪術的思考をしているとは気づかぬままにしているということは実際にはよくあることですからね。

三砂先生は少子化対策として、「保育所がふえれば子どもはたくさん生まれる」という仮説について、保育所の数と出生数には有意な相関はなかったということをご指摘されていますけれど、僕もそうだろうと思います。ですから、今仮に政府が「子どもを産んだら報奨金を出す」と言い出しても、さしたる効果はないだろうと思います。そういう功利的な文脈で結婚とか出産とか育児について考えさせられること自体が人間の本性に反しているからです。

中国は2027年に人口がピークアウトして、以後、年間500万人というペースでの人口減局面に入ります。2040年までに生産年齢人口が1億人減り、逆に65歳以上の高齢者人口が3億2500万人増えると予測されています。

ですから、今中国政府は必死の少子化対策をしています。「一人っ子政策」は2015年に終わり、3人までの出産が認められましたが、その他にもさまざまな出産奨励策を練っています。その代表が教育コストの低減です。今の中国は「全国統一大学入試の点差が人生を左右する」と激烈な受験競争社会で、ペーパーテストの上位者に権力も財貨も文化資本も集中するという「科挙」的な仕組みになっています。そして、塾や家庭教師や海外とのオンライン授業が受けられるだけの金がある家庭の子どもたちが受験競争においては大きなアドバンテージを有する。教育にものすごくお金がかかる。だから、貧しい親たちは経済的負担を恐れて子どもを作ることをためらう。それが少子化の主因であるというのが中国政府の診立てでした。この事態を改善するために、なんとこの夏に学習塾の非営利化、海外の教育機関のオンライン受講の禁止、授業料の引き下げ、授業コマ数の抑制、宿題の抑制などという大胆な政策を採りました。さすがに中国はやることが過激です。

でも、これで少子化に歯止めがかかるでしょうか。僕は無理なんじゃないかと思います。中国政府は女性国民に向かって「あなたがたが子どもを産まなくなったのは、金がないからでしょう?金目の話なら、こちらがなんとかしますから子ども産んでください」と提案したわけです。僕は「こういう話の持って行き方そのもの」が少子化の主因ではないかという気がするのです。

子どもは「授かりもの」であるというのは「人為が及ばない」ということです。子どもは人間たちの管理統御が及ばないところから「到来する」。その出産という営みに対する畏怖の念があまりに欠如している。それこそが人口減の最大の理由ではないかと僕は思います。

先日、凱風館の寺子屋ゼミで産婦人科医のゼミ生が優生学についての発表をしてくれました。その中で遺伝子技術の発展によって、出生前・着床前診断が簡単な検査でできるようになり、その結果、母体保護という名目で「不良子孫の出生防止」という優生学的な診療が産婦人科で広がりつつあるという怖い話を伺いました。たしかに母体保護はたいせつだし、障害者の子どもを育てることは親にとっては負荷になるかも知れませんけれど、それは障害者の生存権の否定にはならないのかと、その産婦人科の先生(若い女性です)はとても苦しんでいました。

もちろん、この問題に対して、僕の側にクリアカットな「解答」があるわけではありませんが、考えるきっかけとして、ゼミでは子どもというのは「野生の世界」と「人間の世界」の中間にいるものだという古来の「童」観をご紹介しました。

子どもをある年齢になるまで「聖なるもの」として遇するという習慣を持っている集団は世界中にあります。それと裏返しの、「聖なるもの」「不可触のもの」を童形にしつらえ、童名で呼ぶということは日本にも中世からの伝統として存在します。

刀がそうです。「蜘蛛切丸」とか「小狐丸」とか愛刀に童名をつけるのは、それが人間によって完全に統御できるものではないという日本の伝統的な刀剣観をふまえています。刀剣というのは、人間が統御できるものではなく、それを通じて野生の巨大なエネルギーが流れ出るものであり、人間はただ良導体として、ある種の「通り道」として、刀剣を通じて発動するエネルギーの働きの「邪魔にならない」ことを心がけるというのが、伝統的な刀法の思想です。

牛飼いが童形、童名である理由は網野善彦さんが書いていました。中世の日本列島で牛は最大の獣でしたから、これを操ることができる職能民は「野生と文明のあわい」にいるものとみなされた。だから、髭面の大男であっても、牛飼いは子どもの服を着て、子どもの名前で呼ばれた。

京童もそうです。彼らは別に子どもじゃありません。大の大人なんですけれども、法秩序に従わずに暴れまわった「まつろわぬもの」です。「世界内部的秩序に従わないもの」だから「童」と呼ばれた。

酒呑童子も茨木童子も子どもではありません。物語では、人間と鬼のハイブリッドのようなものとして表象されています。八瀬童子もそうです。彼らは天皇の棺を運ぶということだけに特化した職能民です。そのような「外部」と「人間世界」を架橋する仕事は「童子」が担う。あるいは「野生と人為のあわいにあるもの」を「童」と呼んだ。

こういう「童」をめぐる態度のうちに日本古来の「子ども」観は端的に示されているように思います。子どもは「人間の手が届き切らない」ということです。本質的には「異形のもの」だということです。だから、子どもには人間世界の価値観や判断をあてはめてはならない。そういう子どもに対する節度というものが生活文化の中に深く根を下ろしていたのではないかと思います。

幕末や明治初年に日本を訪れた外国人が日本では子どもがたいへんたいせつにされていることに驚愕したという記事はたしかに渡辺京二さんの『逝きし世の面影』にも書かれていたと思います。でも、これは「子どもを可愛がる」ということとはちょっと違うような気がするのです。そうではなくて、「子どもを『聖なるもの』と見なす」ということではないかと思います。

そういう子ども観が広く受け入れられていた時期の日本列島では人口がほぼ定常状態でした。江戸時代は300年近く列島の人口は3000万人前後で安定していましたけれど、それは子どもを産むこと、育てることに「人為」をあまり介在させてはならないという自制の働きの効果ではないかという気がします。

というようなことを悩める産婦人科医にお話ししました。役に立ったかどうか分かりませんけれど、妊娠・出産・育児をできるだけ管理統御することが端的に善であるという文明の驕りに対して、「それだと人間は滅びるぞ」と野生の力が伝えてきているということはないのでしょうか。

先日、牛窓に想田和弘・柏木規与子ご夫妻を訪ねたおりに、山の上から牛窓の絶景を眺める機会がありました。南側はすばらしい瀬戸内海の景観なのですが、北を向くと、そこには絶句しそうな自然破壊の情景がありました。

かつて美しい浅海だった錦海湾がそこには広がっているはずだったのですが、錦海湾は1950年代後半に塩田にするために干拓され、10年間ほど塩田として使われていましたが、製塩業の衰退によって、跡地は工場や産廃処分場に転用され、2018年に日本最大のメガソーラーの操業が始まり、湾のかたちそのままに黒い太陽光パネルが敷き詰められているのです。「湾のかたちそのまま」に海が真っ黒に塗りつぶされている。寒気がしました。

こんなことをしたら罰が当たるぞと思いました。

美しく豊かな海を製塩業という目先の換金事業のために埋め立て、それが儲からないとなると、今度はゴミ捨て場と太陽光パネルを並べる。目先の小銭のために、自然を回復不能なまでに破壊してしまう人間たちの愚かしさをこれほど鮮やかに可視化した風景は見たことがありません。牛窓の南の海の風景があまりに美しいために、人間の愚かしさが一層際立ちました。人間たちは「自然」を完全管理しようという愚かしい欲望がどれほど有害なものかに、いつになったら気づくのでしょう。

 

だいぶ長くなってしまいましたけれど、最後にフェミニズムについて一言だけ。

三砂先生はこう書かれていました。

「日本のフェミニズムが女性性の全否定につながったことは悲劇であった、と、そろそろ気づいていいような気がします。女が強くなる、とは、男が作ってきたこの競争社会で勝ち抜くということだけではなく、男が息抜き、女が求め、そのようにしている中で男も疲弊し女も疲れ子どももつらくなっているところで、みんな、そんなことだけが大事じゃないんだよ、見てごらん、今って素敵じゃない、美味しいもの食べて嬉しいじゃない、子どもはかわいいじゃない、という、違う価値を提示することです。女の世界、男の世界、がある。どちらも同時並行でいいんだよ、ということになりませんか。」

三砂先生が「女の世界」「男の世界」と書かれている二項対立は、「身体と脳」にも、「自然と人為」にも置き換えられるような気がします。そこまで言うと「言い過ぎ」ですけれども、原理的にはそういうことではないかと思います。二つの原理が拮抗して、葛藤して、なんとかそのつど折り合いをつけてゆくという状態が、人間にとっては生きやすいし、風遠しがいいし、豊かであるのではないでしょうか。どちらかに「片づける」ということはしない方がいい。「同時並行」でいい、「同時並行」がいいんだと思います。

男も女も、一人一人ジェンダー要素の構成のされ方はかなり違っていると思います。だから、まずは一人一人が自分の中での「ジェンダー・バランス」をよくモニターするところから始めたらいいんじゃないでしょうか。僕は自分の中にかなり豊かな「母性」が存在することを父子家庭になって発見しました。同じように、競争社会で戦っている女性たちの中には自分の中に家父長制や位階制や能力主義を好む「父性」があることを感知している人もいると思います。それは別に悪いことじゃない。一人一人について、さまざまな「ジェンダー要素の配分比」があって当然だと思います。その「配分比」によってセクシュアリティも違ってくるし、配偶者に求めるものも違ってくるし、政治イデオロギーや市場でのふるまいも変わって来る。

実際に僕たちはその事実をよくわかっていて、自分自身のジェンダー・バランスに合ったパートナーや仲間を探し出して、日々をそれなりに愉快に過ごしているんじゃないでしょうか。ただ、その心的傾向を自分の内部における「ジェンダー・バランス」という言い方では表現しないだけで。

切りがないので、今日はこの辺にしておきますね。ではまた。

内田樹 拝

 

内田樹(うちだ・たつる)
1950年東京生まれ。凱風館館長。神戸女学院大学文学部教授。専門はフランス現代思想、映画論、武道論。著書に『「おじさん」的思考』『こんな日本でよかったね』『コモンの再生』『日本習合論』など多数。『私家版・ユダヤ文化論』で第六回小林秀雄賞を、『日本辺境論』で2009年新書大賞を受賞。

三砂ちづる(みさご・ちづる)
1958年山口県生まれ。京都薬科大学卒業。ロンドン大学Ph.D.(疫学)。津田塾大学多文化・国際協力学科教授。著書に『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『オニババ化する女たち』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』など多数。