内田樹先生と三砂ちづる先生の往復書簡による、旧くてあたらしい子育て論。ともに離婚により、男手で女の子を育てあげた内田先生と、女手で男の子を育てあげた三砂先生。その経験知をふまえた、一見保守的に見えるけれども、実はいまの時代にあわせてアップデートされた、これから男の子・女の子の育て方。あたらしい世代を育てる親たちへのあたたかなエール。
第8便・A
母性に活性化スチッチが入るとき
内田先生
こんにちは。お便りありがとうございます。少子化が社会問題になって、その対策をすればするほど少子化が進む、という最後のお話がずっしり、胸に残っています。
「それはたぶん「子どもを産む」という本来人為の及ばない、自然との共同で行う営みを社会的な「効用」と相関させて、人為に従わせようとする態度そのものが母性の活性化を傷つけるからではないでしょうか。」と書かれていました。本当にそうです。
「母性の活性化」、という言い方、いいですね。
以前のお便りでは、男性性、女性性、というものは、あるいは「父性」、「母性」というものは、性別に関わらず、全ての人たちが持っている、と書いてくださっていました。ある条件の元では「母性」が活性化する。例えば、内田先生は父子家庭になってから自分の中に豊かな母性が存在することを「発見」なさったのだという。母性とは、「活性化」したり、「発見」されたりするものなんですね。もちろん父性もそのように、活性化したり、発見されたりする。今、ここに、あるか、ないか、ではなく、あれ、知らなかったけど、こういうことが自分のうちにあったんだ、と気付かされるようなもの。
「母性」なんか、ないんだ、そのように、ない「母性」を押し付けられて、女性たちが抑圧されてきたんだ、という文脈で、長いこと語られてきました。人文科学、社会科学の分野では「母性」ということを口にするだけで、顰蹙を買うような雰囲気がありました。今もあると思います。私が仕事をしてきた、公衆衛生や地域保健、国際保健、といった医療の関わる分野では、「母性」という言葉は、よく使われていました。母子保健、つまりはお母さんと赤ちゃんの保健に関する分野のことは、英語でMaternal and Child Health、と言います。MCHと略されたりします。Child Healthの方は、小児保健、Maternal Health の方は母性保健、と言われていて、「母性衛生学会」とか学会の名前にもなっています。だからあんまりタブーじゃないと思います。といっても、だから、なんなの?という感じですよね。たかが学会の名前、されど、学会の名前、80年以上続いてきた「民族衛生学会」はさすがに時代錯誤であるいうことになり、「健康学会」と名前を変えました。だから「母性衛生」も変わるかもしれませんが、少なくともここまででは、話題になってきませんでした。ともかく、医療の分野は別にしても、「母性」は押し付けられることで、女性を苦しめているもの、ということになっています。
でも、「母性」って、もともとなくても、ないと思っていても、「活性化」されたり、「発見」されたりするものなんですよね。そもそも、自分のありよう、って不変のものじゃなくて、いつも移ろっているもので、一体どれが本当の自分か、なんて、わかりません。今の時点でできないからといって、将来の自分もできない、ということではない。人間が変わっていって、キャパシティーが大きくなること、違う方向に成長していくことって、いつ何どきでも起こりうることですから。学生さんが、「今、自分一人だけでも大変なのに、これで結婚して結婚相手ができたり、子どもができたりしたら一体どうしたらいいのかわからない」とかいうので、いやいや、心配ないです、結婚したり、子どもができたりしたら、自分のフェーズが変わり、今の自分と同じではないですから、今の自分と同じだと思わなくていいです、みたいに返事してきました。一人で仕事をしていた時には、3時間かかっていた書類作りの仕事が、子どもが産まれると、なぜか30分くらいでさっとできるようになった、みたいなことって、誰でも経験しているのではないでしょうか。人間って変わるのです。
だから、「母性」が今、なくても、いい。でも、今、なくても、今後、発見されるかもしれないし、活性化されるかもしれない。「母性」は女性にも男性にも全ての人にあるけれど、やはり女性の体を持っていると、「母性」は発現しやすい仕組みになっている。「母性」にはスイッチみたいなものがあって、今まで全く考えたこともなくて、子どもの育て方なんてさっぱりわからなかったけれど、ある出来事で、まるでスイッチが入ったように、子どもが育てられる親になったりする。これは、スイッチによって母性が「活性化」されたんですね。内田先生も、お子さんと「二人世帯」になった時点で、あるいはなんらかのきっかけがあって、あるいは、徐々に、「活性化」スイッチオン、となった、というわけです。
私はずっと出産にこだわってきたんですけれど、それは、やっぱり出産というのが、ものすごく重要な「母性活性化スイッチ」であり得るからなんですね。いわば、スイッチNo.1。助産婦さんの話を聞いていると、お産した女性は一瞬で変わる、っていうんですね。妊娠中は大丈夫かなあ、この人、みたいに思っていても、出産を経て、がらっと変わって、しっかりしたお母さんになる、ということが、よく、ある。いくつも助産院や産院の手記を読んできましたが、出産直後に書かれた文章は、まさに、踊っています。「痛いけど、気持ちよかった」、とか、「こんなに人に受け止められた、と感じられることは初めてだった」とか、「陣痛の合間には、引き込まれるように眠たくなった」とか、「宇宙の塵になったみたいに感じた」とか。理性では理解できないようなインパクトの高い経験がいくつも記されている。そして、急に社会性が出てきたりするのです。「日本の皆さん、この素晴らしい助産婦さんを次の世代に残すために学生実習は受け入れてあげてください」、とか、「私の産んだこの子が生きていく世界をより良いものにしたい」とか話が大きくなっていきます。また、「子どもがかわいくてかわいくてしかたない」、「ああ、またすぐもう一人産みたい」みたいな感じにも、なる。自然なお産、というか、自分の体を使って、赤ちゃんの力を信じて産んだお産、というのは、とにかく「母性が活性化する」。その言葉がぴったりです。
活性化した母性を使って子育てすると、ラクなんです。そりゃそうです、今までなかったもの、ないと思ってたもの、が急に活性化したんだから、その活性化モードに乗っていればいい。日本の助産師さん、とりわけ開業助産師さんたちはそういうことがよくわかっているから、できるだけ女性にそういう、自分の体を使い、赤ちゃんの能力を生かしたお産の経験をさせてあげられるように尽力なさっておられるわけです。そうはいっても、今は、出産とは、できるだけ医療管理された場で行うことこそが良いお産、という理解が広がっているし、産む側にも、自分の力で産む、とかあまり考えない人も増えてきたので、自分の力と赤ちゃんの力を最大限活かしてスイッチNo.1をオンにできないまま赤ちゃんを迎えることになる人だって少なくない。そこでまた、助産師さんたちが、できるだけスイッチオンになるように、あれこれがんばってくださっている。助産師、っていう職業は、「母性活性化」職能集団なのかもしれない。
そこでスイッチNo.2、母乳輔育です。ああ、でも、「母乳」、っていうだけで、これまた「母性」みたいな拒否反応が広がるこの国は、本当に大変です。母乳の、健康上、母子関係上のアドバンテージはあまりにも明確で、ゆるぎはありません。当たり前です、哺乳類ですから。でも生まれたばかりの赤ちゃんを、新生児室とかに連れて行って、お母さんと物理的に離すと、母乳は出なくなる。だから世界中で、生まれたての赤ちゃんはお母さんと「母子同室」なんですけど、日本は、なんの科学的根拠もない新生児室がどこにでもある、という奇妙な国で、それこそ世界中では、小児科医のドクターたちが粉ミルクの商業主義に反対して、母乳輔育推進にがんばってきたものですが、そういう話も日本ではあまり聞かないですね。大体、母乳で育てると、本当にラク。ミルクを買う必要も、哺乳瓶を消毒する必要もないし、何があっても母親さえいれば赤ちゃんは大丈夫、という状況は、この災害の多い国にあって、安心を提供してくれます。完全母乳で育てていると、出産でオンにならなかった人も、夜中におっぱいを吸う赤ちゃんと二人で時間を過ごしていると、「母性活性化スイッチ」No.2が入って、何の理性的な理由もないのに、赤ちゃんが可愛くてたまらなくなったりして、それで、またそういう状態になると赤ちゃんといる時間が愛おしくて、楽しくなって、子育てがラクになり得る。結構パワフルなスイッチです。
出産でもオンにならなくて、母乳でも育てられなくて、という時には、母性活性化スイッチNo.3、「おむつなし育児」の出番があると思います。スイッチNo.1もNo.2も女性の体に根ざしたことですが、No.3は、違います。そしておそらく、No.1とNo.2はパワフルだけど、そこが機能しなくても、「おむつなし育児」をはじめとしてきっといろいろ隠れたスイッチがあるのです。おむつなし育児って、別に私の発見でも発明でもなく、人類が昔からやっていたことなのですが、これに、おむつなし育児、という名前をつけて、改めて母子保健研究の俎上に載せ、トヨタ財団とか文部科研とかから助成してもらって2009年ころから研究しまして、そのシンポジウムで内田先生にもお話ししていただいたことがありますね。その節は、本当にありがとうございました。
おむつなし育児、とは、おむつを全く使わない育児、ではなくて、「赤ちゃんがおしっこ、うんち、したそうなことに気づいたら、おむつを外して、おむつの外でおしっこ、うんちさせてあげる」ことです。世界人口の3分の2くらいがいまだにこうやって子どもを育てしていると言われるし、日本もふた世代前まで、ごく普通にやっていたことで、「しーしーとーとー」とか、縁側で赤ちゃんをささげておしっこさせてあげることに既視感がある世代もまだ生きております。大体、この「気づいた時にはなるべくおむつの外で」排泄させるようにしないと、布おむつの洗濯は大変過ぎますから、紙おむつのなかった頃の親は、できるだけ、おむつを汚さないように、おむつの外で排泄させていたものなのです。これがね、男女を問わず、結構、「母性を活性化」させるところがあるようなんですね。だから母性活性化スイッチ、No.3。
野生の菌を使ってパンやビールを作っておられるタルマーリーの渡邊格さんは、赤ちゃんが朝起きた時、おむつを外して庭に連れて行ってシャーっとおしっこしたのを見て、うわー、おもしろい!と思った、ウンチしたそうな時にオマルに座らせると、ウンチしてくれた、この瞬間に感動が湧き起こって、すごい、おもしろい、育児が楽しい、と思えた、と、おむつなし育児で「母性活性化スイッチ」がオンになった瞬間について、著書「菌の声を聴け」[i]で、的確に描写してくださっております。
タルマーリーさんのことを最初に伺ったのは、隣町珈琲で平川さんと3人でおしゃべりしていたときに、内田先生が「タルマーリーのパンレスキュー」の話をなさった時のことでした。新型コロナパンデミックの影響で、丹精込めて作られたタルマーリのパンがどうしても売れ残りそうな時に、「うちに送ってもいいよ」と登録しておくのが「パンレスキュー制度」らしくて、内田先生はそれに入っておられて、パンを受け取った、という話をされていました。それなら私も入ろう、と思って、タルマーリーのパンレスキューを申し込んだら、渡邊麻里子さんから電話がかかってきて、「三砂先生!おむつなし育児の本、読んでます!」って、言ってくださって、そこからタルマーリーさんたちが今活動なさっている鳥取県智頭町とのご縁の糸が、さささ、と伸びてきたのです。2021年は10月11月と続けて智頭町に行って4回も講演会やったり、町が場所を提供された助産院に泊まったりすることになりました。「森のようちえん」、「サドベリースクール」のある智頭町には、移住して母性活性化スイッチオンになった男女がたくさんいて、なんだか楽しそうに暮らしてらっしゃいます。お子さんが3人、は普通で、4人、5人といる方もおられる。そういうところですから、ぜひ、生まれるところからこの街で……ということで助産院もできたのです。なんだかとてもおもしろいことがあれこれ、進みつつあって、目がはなせません。春には、タルマーリーさんがカフェや宿泊できるところをオープンされるそうで、楽しみですね。
でもね、スイッチ1も2も3も、パワフルではありますが、別に、なくてもいいし、必要不可欠でもない。それぞれの人にはそれぞれの別の活性化スイッチがあり、それはスイッチとして意識すらされていなかったかもしれない。スイッチ、という言い方のようにパッとついたりするものではなくて、段々に活性化して行ったのかもしれない。だからこれらのスイッチにこだわらなくてもいいのですが、でもやっぱり経験的にスイッチになってるものは、使えればラクなんですよね。
今は逆です。女性にとって負担だ、という言い方で、自然なお産も、母乳哺育も、おむつなし育児も、「一層手間がかかって女性に負担をかける」ということになっている。で、結果としてどうなるかというと、母性のスイッチが入らないままでの子育てを女性と家族がやることになって、それこそが本当にしんどいことなのではないか、と思うのですね。
ついつい、こういうことだとやっぱり饒舌になってしまうのですが、ひとまずここで筆をおきますね。
三砂ちづる 拝
[i] 渡邊格・麻里子「菌の声を聴け」ミシマ社、2021年.
第8便・B
「〈それ〉を何と呼ぶか」よりも、「〈それ〉をどう扱うか」
三砂先生
こんにちは。内田樹です。お手紙ありがとうございました。
母性の話は三砂先生と最初に知り合った時から、ずっと続いている話題ですね。僕と三砂先生はこの件についてはだいたい同意見だと思いますけれど、それでも「母性」について発言すると、三砂先生がお書きになっている通り、しばしば論争的なことになります。なにしろ「母性などというものは存在しない」と断言する人たちが一方にいて、「母性を実体化して語ること自体が臆断である」と言われてしまうと、対話がなかなか成り立ちません。
でも、僕はどんなことについても「それは原理の問題ではなくて、むしろ程度の問題ではないのか」というふうに吟味することを習慣にしていますので、「母性問題」についても同じように接近してみたいと思います。つまり「母性なるもの」が実体としてあるかどうかは確定できないけれど、「母性」の機能というものは経験的には存在する。だから、「母性なるもの」が何であるかを論じるよりも、「母性の機能」のどういうところが危険で、どういうところが有用なのか、どういうところが不毛で、どういうところが豊穣なのかについて、経験的にわかっていることをていねいに腑分けしてゆく。そういう作業の方が生産的なのではないかと考えています。
問題になっている概念をまず一意的に定義してから話を始めようという人がいますけれど、僕はそういう人とはうまく話が噛み合いません。無理だと思うんです。だいたいある概念が「問題になっている」という事実から推して、その概念については複数の「氷炭相容れざる」定義がすでに並立しているわけですよね。それについて「まず概念を一意的に定義してから」というわけにはゆきません。それは「結論を出してから、議論を始めよう」というようなことなんですから。
僕は学校教育について論じる時に「学校教育の目的は子どもたちの成熟を支援することである」という定義から出発しますけれど、この定義はまだ一般性を獲得していません。だから、「あなたの『学校教育』の定義は間違っている」という人も当然います。そういう人と教育を論じる時に(あまりそういう機会は訪れませんが)「一意的な定義をしてから」というわけにはゆきません。
母性もそれと同じだと思うんです。僕にも母性とは「こんなふうなものだ」という考えがあります。でも、それは僕の個人的なとらえ方ですから、一般性を獲得していない。それがある程度の広がりを獲得するまでにはまだまだずいぶん時間がかかるだろうし、もしかしたら、まったく広がりを得られないかも知れません。でも、だからといって諦めるわけにはゆきません。実際に母性の危険と生産性についてはともに経験知があるわけですから。それを語ることを「止めろ」と言われても困る。いろいろな人のいろいろな経験知を「パブリック・ドメイン」に並べておいて、必要な人はいつでもどれにでもアクセスできるという状態を達成するというのがとりあえず望みうる割とましな事態ではないかと思います。
アルベール・カミュの『ペスト』はパンデミックになってからずいぶんたくさん読まれました。僕もこの間に出た新訳を二つ読んで(中条省平先生と三野博司先生の訳)、改めて「深い物語だなあ」と思いました。
その中に感染初期に、この感染症はペストか否かについて専門家たちが議論する場面があります。行政官はもちろん判定に慎重です。都市封鎖になるわけですから、判定をつい先延ばしにしがちになる。法に定めた感染症対策を発動するためには、この流行り病がペストであるかどうかを確定することが必要だと人々は主張します。その中にあって、物語の語り手である医師リウーだけはただちに防疫対策を講じることを提案します。
「君はこれがペストだということに確信があるのか?」と問われたリウーはこう答えます。
「それは問題の立て方が間違っています。これは言葉の問題ではなくて、時間の問題なのです。」(Albert Camus, La Peste, in Théâtre,Récits,Nouvelles, Gallimard, 1962,p.1258)
「これは言葉の問題ではなく、時間の問題なのだ(Ce n’est pas une question de vocabulaire, c’est une question de temps)」。
言い換えると「これは原理の問題ではなく、程度の問題なのだ」ということです。自分たちが直面している疫病が「何であるか」を確定するよりも、その疫病に感染する死者を「一人でも減らす」方が優先する。
今回のパンデミックでも、何人かの医師から「私たちは病気を相手にしているのではない。患者を相手にしているのだ」という言葉を聴きました。
母性の問題も、それと同じ筆法で論じるべきではないかという気がします。「〈それ〉を何と呼ぶか」ということよりも、「〈それ〉をとりあえずどう扱うか」の方が優先する。現実に〈それ〉で苦しんでいる人/それで救われている人がいる以上、その苦しみを軽減し、悦びをもたらす手立てを実践する方が時間的には優先する。
目の前にある現実をどう呼ぶのかというのは、恣意的な記号操作です。例えば、虹のスペクトルを日本人は7色に分節しますが、これを3色に分節する言語集団も存在します。日本語でも、「青」という色は自存するわけではありません。僕たちは「青」と「緑」を厳密には切り分けていません。交通信号は「緑」色でも「青信号」と呼ぶし、木が茂っている状態を「青々と茂っている」と言います。
男性と女性、父性と母性も、それに似ていると思います。現実には、ジェンダーというのはアナログ的な連続体であって、それを二項対立的に切り分けているのは、あくまで「便宜的に」です。性差は現実そのものであるのではなく、現実を記述し、解釈し、変成するための記号だということです。
「ペストだ」と命名すれば、法律が適用されて都市封鎖がされる。命名しなければ都市は封鎖されない。でも、人間が名づけようと名づけまいと疫病がそこに存在して、人を殺し続けることに変わりはありません。ペスト菌は法律も行政区分も認識しませんから。だったら、名前をつけることよりも患者を救う方が先だろうと僕も思います。
僕が「原理主義者」ではなく、「程度問題主義者」であるのは、要するに虹のスペクトルなんて、いくらでも好きに分節すればいいと思っているからです。虹を2色に切り分けたいという人がいたら、「好きにしたら」と言います。でも、色彩名詞について言えば、分節の仕方が複雑で豊かな言語集団の方が、わずかの色彩名詞しか持たない集団よりも文化的に「豊か」であるということは間違いありません。もちろん色彩名詞が多いと面倒です。「浅葱(あさぎ)色」とか「瑠璃(るり)色」とか「茄子紺(なすこん)」とかは文字の画数も多いし、色を同定するのにもそれなりの経験が要ります。でも、「面倒だからいやだ。『浅葱色』なんか『青』でいいじゃないか」というような「合理主義者」の言い分にうっかり頷くわけにはゆきません。
ジェンダーについても僕は同じように「文化的な豊かさ」を配慮したいと思っています。前便でも書きましたけれども、僕は一人の人間の中においても、ひとりひとりに個性的な、異なるジェンダー・バランスが「配剤」されているような気がするんです。
僕は子どもの頃、平川君と親友になるまでは、親しい友だちは女の子ばかりでした。そのあと自分の男性性を意図的に強化しようと努力しましたけれど、父子家庭になって「母親」を演じるようになったら、自分が「母であること」を楽しんでいることを発見しました。
ですから、同じように、自分の社会的な高い能力を最大限に発揮して、競争社会で男たちと戦って、のしあがることに高揚感や幸福を感じる女性もきっといると思います。家族や下僚に対して家父長的にふるまうと「気分が落ち着く」という女性だってきっといると思います。それでいいと思うんです。要するに「いろいろあるよね」ということで。
でも、それがなかなか許されない。どれか一つに「型」を選んで決めろとせっつかれる。僕はそれ嫌なんです。僕たちの文化において、性差、特に女性性がことさらに記号的に強調されるのは、それが記号だからだと思います。男たちの多くは、現実に目の前にいる女性ではなくて、その女性が記号的に表象する「意味」を欲望したり、所有したり、格付けしたりする。そういうふうに記号的にふるまうことが「男性性」の記号だからであるという「入れ子構造」になっている。ややこしいですね。
性に関しては、しばしば記号の方が現実よりリアルです。記号の方が強い「現実変成力」を発揮することがある。それは記号作用を介在させないと、性差というものが複雑すぎて手に負えないからだと僕は思います。複雑な現実を複雑なままに扱うことができないので、しかたなく話を簡単にする。あらゆる場合に僕たちがしていることです。それと同じことをジェンダーの場合でも適用している。
でも、僕は経験的には、複雑な現実は複雑なままに扱う方が話は早いと信じています。これはカミュが言う通り「時間の問題」なんです。
娘と二人暮らしが始まった時に、まず三食を僕が作らなければならなくなりました。その時に「男が家事をするとは、どういうことなのか」というような意味づけとかどうでもいいわけですよね。現に目の前にお腹を減らせている子どもがいるわけですから。美味しいものをさっさと作って食べてもらうことが最優先する。「言葉の問題じゃなくて、時間の問題なんだ」というのは、すごく平たく言うとそういうことじゃないかと思います。
プラトンが『饗宴』の中で、太古男女は「三種類いた」という話をしています。男男・男女・女女の三種類いたんだそうです。顔が二つ、手足が八本、性器が二つで単体を形成する。図像的にはかなり想像しにくいですけど。この生き物はたいへん力が強く、傲慢にも神々に対して挑発的であったためにゼウスはそれを懲らしめて、これを二つに切り分けた。そのせいで、すべての人間はかつての自分の半身を求めるようになった、という話です。もとが男男の場合は男と男が求め合い、もとが女女では女と女が求め合い、もとが男女では男と女が求め合う。プラトンはこの切り裂かれた半身が残る半身を求める激しい欲望を「エロス」と名づけました。
果たしてプラトンの時代に、この神話がどれほどのリアリティーをもって語り継がれてきたのか、僕には想像もつきません。でも、「男性女性の二種類しかない」という性差についての見方よりも、この話の方がなんだか開放感があると思いませんか。僕はプラトンはこの話をしながら、ジェンダーを過度に二項対立的に、つまり記号的にとらえる態度を諫めていたのではないかという気がちょっとするんです。
ああ、今日もまた話がひどくとっちらかってしまいました。すみません。でも、お返しに三砂先生も、もっともっと話を散らかしてくださって結構ですよ。あとで二人でのんびり回収しましょう。
ではまた。
内田樹 拝
内田樹(うちだ・たつる)
1950年東京生まれ。凱風館館長。神戸女学院大学文学部教授。専門はフランス現代思想、映画論、武道論。著書に『「おじさん」的思考』『こんな日本でよかったね』『コモンの再生』『日本習合論』など多数。『私家版・ユダヤ文化論』で第六回小林秀雄賞を、『日本辺境論』で2009年新書大賞を受賞。
三砂ちづる(みさご・ちづる)
1958年山口県生まれ。京都薬科大学卒業。ロンドン大学Ph.D.(疫学)。津田塾大学多文化・国際協力学科教授。著書に『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『オニババ化する女たち』『死にゆく人のかたわらで』『自分と他人の許し方、あるいは愛し方』『少女のための性の話』など多数。