教会のなかで出遭う人。教会の外で不意打ちのように出遭う人。一時は精神を病み、閉鎖病棟にも入った牧師が経験した、忘れえぬ人びととの出遭いと別れ。いま、本気で死にたいと願う、そんな人びとと対話を重ねてきた牧師が語る、人との出遭いなおしの物語。いのりは、いのちとつながっている。
わたしのもとには現在、先の見えないコロナ禍ということもあり、以前より相談の連絡が増えている。例えば、若い人であれば将来が見えないという不安。中高年の人であれば、これまでの人生の意味への問い。コロナ以前は当たり前だったさまざまなものが制限や中断や停止を余儀なくされるなかで、それまで考えもしなかった抽象的な考え、極論すれば「自分はなぜ生きているのか」が頭をもたげてくるのである。その問い方は一人ひとり異なる。その人ごとに固有の、しかし普遍性をもった問いに耳を傾けながら、わたしもまた「自分はなぜ生きて、この目の前の人と向きあっているのか」を問うことになる。
ところで、よそでそういう話をすると「沼田先生のところにはいろんな人が相談に来られるのですね。沼田先生は頼りにされていますね」と言ってもらえる。そんなふうに言ってもらえるのは嬉しいことだが、わたしは牧師としての失敗もたくさんしてきている。今もしているし、これからもするだろう。なにしろ相手は人間である。そんなにうまくいくわけがない。美談になりそうな出来事など、ほとんどないといってもいいくらいだ。
以前、ツイッターで、「かわいそうランキング」という言葉を知った。今では多くの人が使っているネットスラングであるが、もとは白饅頭こと御田寺圭氏が提唱した概念であるという。彼の著作『矛盾社会序説』の冒頭には、彼の実体験として、こんなエピソードが紹介されている。
彼は学生時代、あるホームレスと親しくなった。そこで、彼は友人との会話のなかでそのホームレスのことや、ホームレスたちが売っている雑誌『ビッグイシュー』のことを話題にした。ところが彼の友人は『ビッグイシュー』のことをまったく知らず、見たこともないと答えたのである。そのとき御田寺氏は実感したという。人はたとえ視界内にホームレスが映ったとしても、そのホームレスが見えていないのだと。『ビッグイシュー』を売るホームレスは都市部であれば(とくに彼と友人が暮らしていた生活圏では)それなりに見かけるはずだし、その友人も見ているはずなのだが、視界に入っても見えていない。すなわちホームレスは不可視化されているのだと。御田寺氏はこの原体験を契機として、人が「かわいそう」と感じる対象は限られているという事実を、さまざまなデータを用いて語るのである。
御田寺圭氏の見解には反論も多い。わたしもときに、彼のフェミニズムやリベラリズムへの厳しい批判にはついていけないこともある。しかしたしかに彼が言うとおり、ホームレスといわずとも、「かわいそう」という感覚をまったく刺激しない、だがじつは追い詰められている人々は存在する。不可視化された存在として彼がおもに指摘するのは中高年男性である。わたしはそこに中高年女性も含めたい。ツイッターでの議論は、フェミニズムにしてもアンチフェミニズムにしても、若い男女のことが話題になっているケースが多いからである。いずれにせよ、わたしは彼から、自分が微塵も気にかけていない人々がいる可能性を教わったのである。
そこで話は教会に戻ってくる。すなわち、わたしが「こんな人、教会に来て欲しくない」と、思わず拒絶反応を示してしまうような人がいるし、そういう人としばしばトラブルになってしまうという話である。冒頭の悩み相談一つとってもそうである。聖書には、ぎくっとしてしまう言葉がある。
‟あなたがたの集会に、金の指輪をはめ、きらびやかな服を着た人が入って来、また、汚れた服を着た貧しい人が入って来たとします。きらびやかな服を着た人に目を留めて、「どうぞ、あなたはこちらにお座りください」と言い、貧しい人には、「あなたは、立っているか、そちらで私の足元に座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、悪い考えに基づいて裁く者になったのではありませんか。“(ヤコブの手紙2章2~4節 聖書協会共同訳)
聖書にはすでに「かわいそうランキング」が言及されているのだ。そして、ここにはもう一つ大事な事実が隠されている。その‟貧しい人“がすなわち通俗的な意味での‟いい人”とは限らない、ということである。わたしたちはドラマなどの影響により、貧しく虐げられた人を、無垢で純粋な人、あるいは貧しさから抜けだそう、夢を追いかけようと努力している人としてイメージしがちである。そして、そういう‟貧しい人“を支援したいと思う。ここに落とし穴がある。
わたしのもとにやってくる人のなかには、複雑な生い立ちを背負わされた人もいる。なかには幼少時からつねに、まわりの大人たちから裏切られ続けてきた人もいる。ニュースになるような、警察が逮捕できる暴力だけが子どもを傷つけるのではない。小さな裏切りの、膨大な積み重ね。そんな裏切りを浴び続けてきた人はときに、「世界のすべては自分の敵である」と思っている。いや、思っているというのは正確ではない。野良猫があなたの目の前で寝ているところを思い浮かべて欲しい。あなたがわずかでも近づけば、猫は飛び起きる。飼い猫とは違って、野良猫は熟睡することがない。つねに世界に対して警戒を怠らない野良猫は、寿命も短い。世界のすべてが敵であるという、いっときの安心も許されない、つねに緊張を強いられる生活。そんな生活を何十年も続けていれば、疲弊してしまう。疲れきり、「もう生きていられない」と感じた人が、この孤立状態からなんとか抜け出したい、牧師ならなにか教えてくれるかもしれないと、わたしのもとへやってくる。だが、そもそもその人は、誰かから無条件に愛されたり、誰かを無条件に信頼したりした経験がない。わたしを信用しようとしても、信用とはなにかが、そもそも分からない。
そういう人のなかには──もちろん、そういう条件にある人すべてがそうだというのでは決してない──わたしに高い理想を見いだし、わたしを絶賛し、頻繁に連絡してくるなど急に距離を詰めてくるが、わたしがその理想からわずかでも逸脱した言動をするや一転、わたしを激しく憎み罵るようになる、そんな人もいる。なかには「沼田牧師に傷つけられた!」とふれてまわったりする人もいる。
そういう人と向きあったとき、わたしもまた怒りに駆られてしまう──勝手にそっちから来ておいてなんだその態度は。昼夜かまわずさんざん話につきあって、感謝されるならまだしも、なんでこんなにめちゃくちゃ言われなきゃならないんだ。そんなことだからあなたは、けっきょく誰のところに行ってもまともに相手にされないんだよ──そこまで毒づいて、はっと気づく。これこそ「かわいそうランキング」そのものではないか。たとえば教会に相談に来た人が、とても礼儀正しくて、なんだったら「些少ですが献げさせてください」とばかりに、教会に高額な献金までしてくれて。じっさい、そういう人もおられたのだが、その人を相手にしたときのわたしの態度はどうだった?今回の人と、向きあうわたしの表情も声色も、ぜんぜん違うよね?
ある性産業に従事している女性と話すことがあった。彼女は自分の仕事を誇りに思っており、慈善家が「性産業の犠牲になっている女性たちを救うためには、性産業そのものがない世界を築かなければならない」と主張することに怒っていた。
「わたしのことを『かわいそうだ』と言う前に、店に来てみろってんだ。わたしのフェラチオがどれだけうまいか、味わってから『かわいそう』かどうか判断したらいい」
彼女の凛としたもの言いに、わたしは共感した。ふと、彼女のノースリーブから露出した腕が目に留まった。肩から上腕にかけて、偶然ついたとは思えない幾つもの傷痕が刻まれていたのである。精神科医で嗜癖の専門家である松本俊彦氏の著作で読んだことがある。自傷は、つかみどころがない苦しみを現前化する行為でもあると。この人が自分の仕事に誇りを持ち、喜びを感じながら従事していることに、おそらく偽りはないだろう。それは彼女の口調からもいきいきと伝わってくる。だが彼女もまた、わたしには到底分かり得ない苦しみを抱えているのかもしれない。このときもわたしは聖書のある一節を思い出していた。
‟あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残して、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。よく言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。“(マタイによる福音書18章12-13節 同訳)
わたしはこの聖書の箇所を、園長をしていた折には幼稚園児たちに、そして卒園生の子どもたちにも、何度もしたものである。
「イエスさまはね、迷子になったかわいそうな仔羊を、いっしょけんめいさがしてくれるんだよ。仔羊はきみたちだ。きみたちがひとりぼっちになって泣いていたら、すぐにイエスさまがさがしにきてくれるんだ」
だがわたしはその話をする際に、自動的に脳内変換していた。羊の群れから迷い出た一匹の羊を、かわいらしい仔羊としてイメージしていたのである。まるで捨てられた仔猫のように、心細そうに鳴いている一匹の仔羊。そこに雄々しく姿を現す、頼もしい羊飼いすなわちイエス・キリスト……。
わたしの話には、羊を探す羊飼いからの視点しかない。探される羊の側からの視点がないのである。群れから迷い出た羊は、ほんとうに「かわいい仔羊」だったのか? そもそも羊が「迷い出た」というのも、羊飼いからはそう見えたということである。わたしは幼稚園の園長をしていたときのことを思い出す。子どもたちのなかでときおり、朝礼や終礼時に、なにがなんでも集まらないで、独りで遊んでいる子どもがいた。「さあ、こっちにおいで」と子どもたちが集まっているほうへ促そうとすると、とたんに機嫌が悪くなって、ものすごい力で抵抗したり、大声で泣き叫んだりした。クラス担当の先生は慣れたもので、そういう子は無理に動かそうとしない。独り遊びをさせつつ、目の前の子どもたちと、その一人飛び出した子どもとの両方に目配せしながら、見事に仕事をやってのける。
先の女性と羊を重ねて考える。「迷い出た」と羊飼いに思われた羊は、発見した羊飼いの喜びをよそに
「また見つけてくれちゃって。もう放っておいてくれないかな。群れるのがいやなんだよ」
と、ため息の鳴き声を鳴いているかもしれない。一方で、羊飼いの側はどうだろう。こんなトラブルが一度きりなら、羊を見つけられて嬉しいと感じるかもしれない。だが、捕まえても捕まえても、繰り返し群れから脱走する厄介な羊だったとしたら?
「もう知らん! 勝手に野犬にでも喰われちまえばいいんだ」
本気ではないにせよ、思わず愚痴をこぼしたくもなろう。ただでさえ重労働のなか、それに加えて行方不明の羊を探して回らねばならないのだから。そんなことを繰り返された日には、羊飼いも堪忍袋の緒が切れてもおかしくはない。
関わられることを拒む人。そういう人を前にしたとき、「そっとしておこう」。「人それぞれなのだから」。そう考えるほうがずっと理にかなっているのかもしれない。かわいそうだ? 余計なお世話だ! こっちは誇りをもって生きているんだよ!──だが、もしもその人が心で血を流しているのだとしたら? でも、その人に関わっても「ありがとうございます。沼田先生のおかげで助かりました」とは決して言ってもらえず、むしろ罵倒されるのだとしたら。それでも、わたしは関わろうとするのだろうか。パターナリズムと批判されようが、その人に余計なお節介をしてしまうのだろうか。
わたしは相手の話を聴く。基本は傾聴することが、相談者を前にしてわたしのなすべき第一の仕事である。だが、聴くということは、動かされるということである。相手の話が深刻であればあるほど、「そうですね、たいへんですね」と頷いておしまいとはいかなくなる。背中がむずむずしてくるのである。はらわたの据わりが悪くなってくるのである。なにかをせずにはおれなくなるのである。それは具体的には専門家の窓口に繋いだり、その窓口へ向かう本人に同行したりすることなのであるが、問題は、相手がそんなことを求めているか否かである。
わたしが具体的に行動を起こすのは、相手との信頼関係ができたと思うときである。なぜなら、わたしが行動することによって生じるなんらかの変化を、相手が恐れることもあるからだ。今、つらい。つらいから牧師に話しに来た。だけど、現状を今すぐ変えたいわけではない。ただ話を聴いてもらいたかっただけ。今はなにかを変えることさえしんどい。どんな方向に変わることができるのか、イメージする気力もない……。そんな状態の人に対してこちらが勝手に動いてしまったら、相手の不信を招き、むしろ傷つけてしまうだけである。とはいえ、こういうこともあるのだ。すなわち、信頼できたと思っていたのはわたしだけで、相手はまだわたしを信頼に値するか試していた、そういうことが。
パラリンピックのニュースを毎日なんとなく観ていた。障害を乗り越えて、あるいは障害を生きる力そのものとして、スポーツに漲る命のすばらしさ。街頭インタビューでは、
「共生社会について考えた」
「障害なんて関係ないと思った」
といった生き生きとした意見が聞かれた。一方で、わたしが出遭う人のなかには、幾重もの壁に阻まれ、そもそも頑張るとはなにかという問いさえなく、つねに不機嫌で、漲るなにかというイメージからは程遠い人もいる。そういう人が、あなたのそばにもいませんか。共生について考えるなら、まずはその人とどうやって生きていくか、考えてみませんか。わたし独りでは、よい知恵が浮かばないのです。
日本基督教団 牧師。1972年、兵庫県神戸市生まれ。高校を中退、引きこもる。その後、大検を経て受験浪人中、1995年、灘区にて阪神淡路大震災に遭遇。かろうじて入った大学も中退、再び引きこもるなどの紆余曲折を経た1998年、関西学院大学神学部に入学。2004年、同大学院神学研究科博士課程前期課程修了。そして伝道者の道へ。しかし2015年の初夏、職場でトラブルを起こし、精神科病院の閉鎖病棟に入院する。現在は東京都の小さな教会で再び牧師をしている。
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