第15回 文明化と道徳化のロックンロール

ロックとはなんだったのか? 情熱的に語られがちなロックを、冷静に、理性的に、「縁側で渋茶をすするお爺さんのように」語る連作エッセイ。ロックの時代が終わったいま、ロックの正体が明かされる!?

リヴィング・カラーのヴァーノン・リードが近年のインタビューにおいて非常に興味深いことを述べている。かいつまんで言うと、ロックの歴史において黒人のミュージシャンは不当な扱いを受けてきた、という異議申し立てである。1950年代の半ばにロックンロールが誕生した時には、黒人アーティストと白人のアーティストが入り乱れてノリの良い音楽を奏でた。ところが、ロックがカウンターカルチャーと結びついた60年代の後半になると、ロックはラブ&ピースを主張しながら白人中心の文化になってしまう。映画『ウッドストック』を観ればわかるけれども、あの映画で目立っている黒人はジミ・ヘンドリックスだけである。彼はもちろんアメリカで生まれてブルースやR&Bのバンドでキャリアを経たギタリストだが、一旦イギリスに渡ることでキャリアをロンダリングした。ビートルズの登場とブリティッシュ・インヴェイジョンは明確に文化の分水嶺である。ヘンドリックスはもちろん、それ以前から個性的なギターを弾いていたわけだがタイミングよくイギリスに渡って、英国から発信したアフロアメリカンのギタリストとして唯一無二の地位を築く。ところが、それ以降の70年代ロックにおいては黒人ミュージシャンの活躍があまり評価されない歴史が続くのである。マイケル・ジャクソンやプリンスが世界的な規模で音楽市場を塗り替えるのは、1980年代になってからだ。つまり、長い間ロックは白人中心の文化であり、イギリスから現れたジミ・ヘンドリックスだけは特別枠で賞賛されていたのだ。創世記のロックンロールは黒人アーティストと白人アーティストがどちらも大活躍していたのに、ラブ&ピースとカウンターカルチャーの60年代後半を経て、ロックは白人中心の文化になってしまい、マーケットにおいては黒人音楽との間に障壁を作ってしまった。リードはアイズレー・ブラザーズやシスター・ロゼッタ・サープといったロックの歴史に決定的な影響を与えたアーティストたちが、白人のロックという文脈では無視されてきたと訴える。アイズレー・ブラザーズにはジミ・ヘンドリックスも参加していたし、チャック・ベリーよりもひと回り上で戦前からゴスペル、ジャズ、ブルースと幅広い活躍をしたロゼッタ・サープのギタープレイを今聴くと、これは確かにチャック・ベリーのサウンドの源流と言うべきか、更に言うならばサープこそがロックンロールの発明者だったのではないか? と思えるくらい、後のロックンロールがやったようなことを1940年代に既にやっていたのである。1964年に彼女がマディ・ウォーターズと共にヨーロッパツアーを行った際には、客席に若き日のエリック・クラプトンやジェフ・ベック、キース・リチャーズ、ブライアン・ジョーンズたちがいた。ロバート・プラントに至ってはソープの楽屋に忍び込んだという。そんなソープは2018年にロックの殿堂入りをした。つい最近ではないか。多くのロックレジェンドから尊敬されていたにも関わらず、本格的な再評価の波が始まったのは21世紀になってからなのだ。英米の白人によるロックが黒人のブルース、R&Bの物真似から始まったことは明らかである。たとえばローリング・ストーンズのファンになった中学生が、バンド名の由来となったマディ・ウォーターズを聴くと、割とそのまんまそっくりではないかと思う、わけである。続けてエルモア・ジェイムズを聴くと、これがもう明らかにロックなギターサウンドである。なので60年代から70年代にかけてのロックに魅了された人たちの多くは、ロックの源流、ルーツを辿るようになり、戦前のブルースにハマる人も多かった。にも関わらず、サープが評価されたのはつい最近なのである。リードは続いてファンカデリックとそのギタリストであるエディ・ヘイゼルの名前を挙げ、彼らが紛れもないロックバンドであり、素晴らしい傑作を残しているのにも関わらずロックの文脈では評価されてこなかったことを指摘する。R&Bの歌手としてキャリアを始めた、Pファンクの総帥ジョージ・クリントンは、サンフランシスコに移住してヒッピー・ムーブメントの洗礼を受け、ピンク・フロイドのライブを観て、自分の手で黒人のためのピンク・フロイドを作ろうと思い立った。リードはこのエピソードをクリントンから直接聞かされたという。クリントンとヘイゼルは、堂々たる黒人によるロックを作り上げたが、ロックバンドとして認められることはなかった。だから彼らはファンク・R&B色を強めていったのではないかと、後進の黒人ロックギタリストであるリードは語る。そもそもの問題は黒人音楽と白人音楽のマーケットが分かれていたことにあるのは間違いない。だからこそアラン・フリードがラジオを通じて、白人の若者たちに黒人音楽を聴かせたことがロックという文化の誕生に繋がったのである。ただし、黒人音楽の市場と白人音楽の市場が融合したわけではなかったのだ。60年代後半のカウンターカルチャーは公民権運動、黒人解放運動、女性解放運動といったマイノリティのための運動と連動していたために、大きな流れになったが、各々の運動がきちんと連動していたわけではない。

白人主体のロックフェスであるウッドストックが行われた1969年の夏、ニューヨークでは黒人音楽の祭典ハーレム・カルチュラル・フェスティヴァルが行われていた。合わせて30万人が参加したというから規模的にもウッドストックに引けをとらないこのイベントは黒いウッドストックとも呼ばれているが、2021年に『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』というタイトルのドキュメンタリー映画が公開され、注目を集めた。イベントの翌年には映画が公開されていたウッドストックとはえらい違いではないか。69年の時点で黒人たちは、アフリカ系アメリカ人の音楽としての黒人音楽を確立しており、マーケットも存在していたわけだが、だからこそ黒人音楽と白人音楽のマーケットが融合するまでに時間がかかったという面もあるだろう。なので黒人音楽から出たものであり、白人のロックが黒人に影響を与えることもあったにも関わらず、白人は白人で、黒人は黒人でという歪な形で発展してしまった。ちなみに、アメリカの音楽事情は今でも複雑で、黒人が主体で演奏するブルースフェスティバルの観客の9割が白人というような状況がある。その場合、白人の聴衆は黒人音楽を明らかにリスペクトしているわけではあるが、なんとも複雑な気分にはなる。ちなみに黒人の聴衆が少ないのは、若い世代の黒人にとってブルースはお爺さんやお父さんの世代の音楽で、古臭いものに聞こえるからだという。

70年代に何があったのかを駆足で見てみよう。70年代の前半にはハードロックとプログレッシヴロックが隆盛し産業として拡大化の一途を辿ったわけだが、1976年には「アナーキー・イン・ザ・UK」でセックス・ピストルズが登場し、77年には『勝手にしやがれ‼︎』でアルバムデビュー。パンクの時代が到来してしまう。彼らはレッド・ツェッペリン(いわばハードロック代表だろうか)やピンク・フロイド(こちらはプログレッシヴロック代表だろう)といった先達(年齢的にはセックス・ピストルズの面々より一回り上くらいになる)を時代遅れであると口悪く貶し、「私はピンク・フロイドが嫌いだ」と書かれたTシャツを堂々と着ていた。パンクはゆるくてヌルいヒッピーの文化を批判し(もう、ヒッピーなんて限られた場所にしかいなかったのに)もっと過激にやるのだという姿勢であった。現代の視点から見るとパンクは、50年代ロックンロールへの原点回帰にも見えるわけだが、これはこれで説明しだすとややこしいのである。何がややこしいかというとですね、パンクというのは元々はアメリカはニューヨークの文化である。ヴェルベット・アンダーグラウンドやイギー・ポップがルーツとされ、パティ・スミスやテレヴィジョンがいた。ヴェルベット・アンダーグラウンドのルー・リードやパティ・スミスはレッド・ツェッペリンやピンク・フロイドのメンバーたちと概ね同世代にあたる。彼らの中でパティ・スミス、テレヴィジョンのトム・ヴァーレインが、若くして亡くなったドアーズのジム・モリソンのフォロワーであることはかなり重要なポイントだろう。言うまでもなくモリソンはロマン主義的であり象徴主義的な文学者である。パティ・スミスやヴァーレインの作品というのは、アメリカの西海岸から出たモリソンに対しての、東海岸からの文学的なレスポンスであったわけだ。セックス・ピストルズ以降のロンドンパンクに影響を与えたと思われるのはイギー・ポップだろうか。ところでイギー・ポップのワイルドな行動は、彼がビートニクの流れを継承しているからだ。つまり、ニューヨークパンクというのは、文学性の強いサブカルチャーのムーブメントであり、現代アートに理解のある都会の、幾分かはスノッブな文化だったわけだ。パティ・スミスもテレヴィジョンも高く評価されているが、ロンドンパンクのように若者のファッションに大きな影響を与えるタイプの作家ではない。彼らの文学性は、聴き手のパーソナルな心情に訴えかけるものであり、ロックがそのような表現を生み出したことは素直に賞賛すべきである。20世紀のロックの多様性は大したもので、大勢でノリノリになって騒ぐタイプの音楽とは違う文化も生み出しているのだ。アシッドフォークのようなものまで、ロックという言葉の範疇にあるのは、かなり凄いことである。ヒトは猿なので、皆と盛り上がるのは大好きだけれど、自分だけの時間も大切にしたいのである。面倒くさい動物なのは間違いないのだが、ロックは短い期間で文化進化を繰り返し、ホモ・サピエンスの多様なニーズに応えたわけである。とはいえ、ニューヨークパンクだけなら、狭い地域での先鋭的な文化として歴史に残っただけだろう。このパンクというアメリカの中でも都会でしか成立しづらい文化を、イギリス人が加工して輸入したわけである。マルコム・マクラーレンという一種のテキ屋と、デザイナーでファッションブランド、ブティックを経営していたヴィヴィアン・ウェストウッドが結託してセックス・ピストルズをプロデュースしたというのは有名な話である。ロックの歴史を1950年代半ばからだとして、飛躍的に革新的であった出来事というのは実はそんなには多くない。ボブ・ディランがエレキギターを持ったのと、ブリティッシュ・インヴェイジョンより大きな出来事は起きていない。むしろ、規模の小さなイノベーションが頻繁に起きるのがロックの良いところなのだ。セックス・ピストルズは確かに革命的であったが、音楽的にはむしろ、当時としては比較的保守的なパブロックを、意図的にラウドに演奏したわけで、音楽的な革新性はあまりなかった。むしろ当時としては目新しくもないロックンロールで、政治的にラディカルなことを歌ったのが効果的だったのである。セックス・ピストルズは、言ってみればヴィヴィアン・ウェストウッドという服屋のキャンペーンのために作られたバンドである。それが、圧倒的な影響力を持ち得たのはブリティッシュ・インヴェイジョンの時と同じように、アメリカで生まれた文化をイギリスに持ってきて加工したからである。今あるパンクのイメージを決定づけたのはジョニー・ロットンの過激な言葉と、シド・ヴィシャスの過激な生き様ないし死に様である。本来はアメリカで誕生したパンクだが、セックス・ピストルズ以降、アメリカのパンクバンドもロンドンパンクを意識せざるを得なくなった。『反逆の神話』のジョセフ・ヒースは、少年時代の自分がパンクスであったと書いているが、カナダ人であるヒースのパンクはニューヨークから直輸入されたものではなく、ロンドンパンクを経由したものである。ヒースの文章に時折見られる皮肉や諧謔は、ジョニー・ロットン改めジョン・ライドンの言動のようである。そして、10代のヒースがそうであったように、パンクファッションは基本的に安くつくから若者にとっては真似しやすかったのである。かくしてセックス・ピストルズ以降のパンクは、世界中の若者にインパクトを与えた。元々は作られたアイドルのようなものであったが、ジョニー・ロットンは馬鹿ではなかった。彼がロックの歴史上、屈指のイデオローグになったのは元から頭の良い人が、特殊な環境に置かれたからだろう。セックス・ピストルズが登場する以前に、セックス・ピストルズのメンバーのような経験をした人はいなかったのである。2代目のベーシストとしてバンドに参加したシド・ヴィシャスはロットンの友人だったが、ドラッグに耽溺しておりセックス・ピストルズの解散後はソロとして活動したものの薬物の影響でまともにステージをこなせないような状態で恋人のナンシー・スパンゲンと共に破滅的な生活を送り、78年にナンシーは滞在していたニューヨークのチェルシーホテルのバスルームで何者かに刺殺される。犯人はシドかとも思われたが、本人は無罪を主張、ナンシーが死んだ4ヶ月後にはヘロインのオーバードーズで死んでしまった。ナンシーの死因は永遠の謎となり、後には悲劇のみが残ったわけである。ヴィシャスがナンシー殺害容疑で逮捕された際に、彼のためにいち早く弁護士を用意し、その費用も全て支払ったのが誰かというとミック・ジャガーなのである。バンドの元メンバーがドラッグで不審死を遂げたり、自分が歌っている場所で警備員が観客を刺殺してしまうという経験のある人である。そして、どちらの件に関しても法律的な責任はともかくとしてミック・ジャガーにも何らかの責任はあったのである。だからこそ、業界の年長者として迅速に行動したのだろう。69年にブライアン・ジョーンズが亡くなってからシド・ヴィシャスが亡くなるまでに、ほぼ10年の月日が流れている。この10年はロックにとって、最も華々しい時代であったわけだが、ヒッピーたちのフラワームーブメントという夢が早い段階で潰えた上に、後からやってきた世代のセックス・ピストルズからは唾を吐きかけるように否定され、そのメンバーであったシド・ヴィシャスは恋人と共に悲惨な死を遂げた。ロックの歴史は死屍累々であった。セックス・ピストルズのデビューと、イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』が、ほぼ同時期であったことはロックの歴史を語る上でかなり重要なことである。「ホテル・カリフォルニア」の歌詞は象徴的で、様々な解釈が可能ではあるが、明るくて楽しい歌ではないことだけは誰が聴いてもわかる。アメリカンロックが生み出した怨歌のようなものである。後ろ向きな歌である。かつて、何らかの夢を抱いた人たちがいたとして、その夢は終わったんですよと告げるような歌である。つまり60年代後半のアメリカにおけるヒッピーたちのフラワームーブメントは、イギリスの若僧からは唾を吐きかけるように否定され、アメリカの少し下の世代からは、夢は終わったんですよ、と言われてしまったのである。ローリング・ストーン誌のヤン・ウェナーはイーグルスに否定的だったというがその気持ちはわからないでもない。イーグルスはウェナーが愛した文化を終わらせるためにやってきたような存在だったのである。そして皮肉なことに、セックス・ピストルズもイーグルスも滅茶苦茶に売れた。方向性は真逆に見える両者だったが、どちらも聴衆の支持を得た。資本主義において勝利したのである。ロックと資本主義に関して、最も誠実であったのはジョニー・ロットンから改名したジョン・ライドンである。1978年の解散から20年近い時を経た1996年、ライドンはセックス・ピストルズを再結成しツアーを行った。その理由は「金が必要だから」である。再結成ライブを収録したアルバム『勝手に来やがれ』は画期的なアルバムになった。観客たちが全力で大合唱しているのである。収録曲はお馴染みの「ゴッド・セイブ・ザ ・クイーン」や「アナーキー・イン・ザ・UK」である。これらは皆で楽しく合唱するような歌ではないだろう。この時のライドン師はビール腹で贅肉がたぷたぷしていた。そんな見苦しい肉体を見せびらかすように、彼は「お前らに本物の詐欺を見せてやる」と言った。つまり、セックス・ピストルズの再結成とは、セックス・ピストルズの完全否定だったわけである。ロックの歴史上、ここまで完璧に伏線回収したバンドはおそらくない。見事である。歴史上、ロックは死んだという発言をした人は何人かいるのだが、ライドンは具体的にロックが死ぬところを演劇的に再現し、それをワールドツアーで公演して回ったのである。この時のツアーでは、もちろん日本公演も行われ、セックス・ピストルズのナンバーが懐メロのごとく演奏され、日本の観客たちも懐メロとして大合唱した。パンクが持っていたラディカルな要素を、戦車で踏み潰すかのような出来事であったが、それをやっているのがパンクの総本家たるライドンである。彼が資本主義を肯定することで、ロックの資本主義、商業主義批判は、一種の空念仏であることがはっきりしたのでたる。

ナンシーの死に際してミックはシドを助けようとしたわけだが、シド自身はナンシーの後を追うようにドラッグ死してしまう。この時のミックが何を思ったからわからないが、この少し後の時期から彼はジョギングを始め、健康的なアピールをするようになる。1981年のツアーは『スティル・ライフ』というライブアルバムになり、『夜をぶっとばせ』という映画にもなっている。映画の監督はヒッピー世代のハル・アシュビーだ。この時点でミックはドラッグをやめジョギングをして健康アピールをするようになっていた。成功したミュージシャンほど、ドラッグの売人が寄ってくる、というのはわかる。たとえばジム・モリソンに致死量のドラッグを融通したのはマリアンヌ・フェイスフルの恋人だったという。ミック・ジャガー自身、70年代の中頃まではドラッグに耽溺していたし、キースも耽溺していた。60年代においてはセックスとドラッグとロックンロールを体現したような人であったミックが、ジョギングと脱ドラッグアピールで業界の革新を画策したのである。シド・ヴィシャスの死に様はブライアン・ジョーンズの死に様よりも性急であった。こんなことが続いたら、ロックという業界に未来はないと思ったのではないか。

ロックの黄金時代であった70年代において、パンクと同じくらいに重要なのがディスコである。大きな声では言えないけれども、70年代がロックの黄金時代であったと思っているのはロックンロールが好きな白人と、その文化に魅了された日本人くらいである。実際の70年代はディスコの時代であった。実際にはディスコとロックの時代であったと言うのが妥当なところなのだろうが、これがなかなかに難しい話なのだ。ロックンロールもディスコも、後に登場するヒップホップも、基本的には若者たちが踊るための音楽である。集まってドンドコ踊るのを好むのはホモ・サピエンスの習性であるが、ローリング・ストーン誌によってロックジャーナリズムが登場し、ロックにおいてはロックを語る文化が重要になった。カウンターカルチャーが衰退した後も、政治的なアピールはロックの重要な要素であったし、ロックを語ることでその時代の文化を語ったり、自分語りをすることも可能になった。もちろん政治的なメッセージ性の強い踊る音楽というのは他にもあって、ジャマイカのレゲエや後のヒップホップがそうなのだが、白人のロックはロックを語ることと巨大な産業に成長することが深く結びついていた(だから面倒くさいロックおじさんが生まれてしまう)ために、ロックファンの多くは自分の好きなバンドのメンバーの名前を全員覚えていたり、出したアルバムは全て揃えなおかつそのアーティストに影響を与えたアーティストの音楽まで聴くようになったりする。ローリング・ストーンズのファンからマディ・ウォーターズやエルモア・ジェイムズを聴くようになり、更には戦前のブルースにたどり着いた人はゴロゴロいる。しかしながら、ディスコミュージックというのは別にアーティスト名を知らなくても良いし、極端なことをいうと曲名すら知らなくても別にかまわないのである。もちろんディスコミュージックにもバンドの歴代メンバーの名前を覚えアルバムを揃えるようなファンはいるわけだが、基本的に踊ることに特化した音楽である。ロックで重視されるような、そのアーティストの音楽を鑑賞するという姿勢がはなからないような人たちも聴くわけである。だから、やたらと裾野が広いのである。ディスコという文化は70年代の前半からあったが、最初のうちは黒人向けやゲイの人たちが集まる場所であった。それが78年に映画『サタデー・ナイト・フィーバー』によって世界的なブームとなる。この映画のサントラを担当したビージーズは63年にオーストラリアでデビューした息の長いバンドだが、70年代の半ばから試行錯誤の末にディスコミュージックに挑戦していた。古いファンからは、売れるために音楽性を変えたという批判もあったようだが、結果的には大成功であった。黒人音楽であるディスコを白人が吸収した上で自分たちのものにするというのは、白人が黒人の物真似をしたという点でロックンロールの誕生とよく似ている。白人によるディスコは、言わばロックンロールの再発明である。実は、ブリティッシュロックの老舗であるローリング・ストーンズやロッド・スチュアートも、この時代には積極的にディスコに挑戦している。ロッドの「アイム・セクシー」が78年。ローリング・ストーンズの「ミス・ユー」が同じ78年だが、この人たちは黒人音楽に関しては濃厚なオタクなので76年の『ブラック・アンド・ブルー』からディスコ的なアプローチを始めており、80年の『エモーショナル・レスキュー』を経て83年の『アンダーカバー』ではヒップホップをやっている。KISSは79年の「ラビン・ユー・ベイビー」で、クイーンは80年に「地獄へ道連れ」で、デヴィッド・ボウイは83年のアルバム『レッツ・ダンス』でディスコ的なアプローチを試みている。大御所ほど、時代の変化には敏感なようである。しかしながら、ディスコはあまりにも売れたので、そんなディスコという文化を敵視する人たちもいたのだ。1979年のことである。デトロイトのラジオDJであったスティーブ・ダールはdisco sucks(ディスコは最低!)というキャンペーンを始めた。ラジオ局のプレイリストから彼が愛していたローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンの曲に変わってヴィレッジ・ピープルやドナ・サマー、シックなどのディスコミュージックばかりが重宝されるようになったからである。ラジオDJのやったことなので、基本的にはトークの中のおふざけから始まったようなものなのだが、ディスコの台頭に対してダールは本気で危機感を持っていたらしく、「中西部の人たちにとってディスコの音楽は威圧的だったから嫌われた」と語った。ディスコ最低キャンペーンでは、リスナーからディスコミュージックのリクエストを募り、放送しながら爆発的な効果音を流して、それを破壊する、てなことをやっていたらしい。現代の我々には、今ひとつ事態を把握し難いところがあるのだが、ロックのことが大好きなおじさんが、ディスコミュージックを破壊すべし! という活動を始めたわけである。ダールにはスティーブ・ビークという売れないギタリストの知り合いがいた。ビークの父親はシカゴ・ホワイトソックスの本拠地であるコミスキーパークを所有していた。そして、ホワイトソックスはこの頃、不人気で観客が少なかった。上手く話をつけたダールは、ディスコのレコードを持ってきたら次のホワイトソックスのホームゲームに格安で入場できると発表した。その結果、普段は1万6千人しか集まらないホワイトソックスの試合に5万9千人もの観客がやってきた。もちろん、そのうちの1万6千人はダールの反ディスコキャンペーンなど知らない単なる野球ファンだったと思われるが、我々も良く知っているように不人気な球団のファンというのは、普段は理知的な人であっても球場に来ると理性を放棄してしまう動物である。なので、この時は一般の野球好きなおっさんたちも一緒になってディスコのレコードを叩き割り火をつけて燃やしたという。改めて書くけれども、この時点でのディスコは黒人とゲイが主体の文化であった。ダールたちは、それを叩き割って燃やしたのである。酷い話である。野蛮人かお前ら。このエピソードが79年であったことは象徴的である。端的に言うと70年代までのロックは理想主義的な側面を持ちながらも、いささか野蛮な文化であったのだ。歴史を顧みると人類は常に文明化する方向で歩んできた。アリストテレスやプラトンは、現代の我々から見ても理知的であるが、20世紀の半ばで第二次世界大戦が終わるまでは、誰もが戦争を絶対悪とは思わない程度に野獣だったのである。ヒトは、戦争は良くない! と言いながら、必要に応じて戦争をする動物だったのである。第二次世界大戦があまりにも酷い結果に終わったので、我々はようやく「戦争は全部ダメ!」という境地にたどり着けたのである。この度のウクライナ侵攻でロシアが幾多の先進国から責められているのは、せっかく長い時間をかけて文明化した社会にたどりついたのに、それをひっくり返すようなことをしたからである。文明化には、とにかく時間がかかるのであるが、基本的に文明化は止まることがない。70年代のディスコに対するヘイトは、黒人差別、ゲイ差別という側面を持っていたが故に現代の我々から見るとかなり野蛮であったが、半世紀近く前の話である。二度にわたる世界大戦を経た社会は、戦前と比べるとかなり文明化していたがそれでもまだマイノリティに対して無理解の多い野蛮な社会であったと言える。ロックとカウンターカルチャーの時代にアメリカでは暴力事件が増加したが、90年代にはかなり平和になる。81年のツアーにおいてローリング・ストーンズのミック・ジャガーは脱ドラッグと禁煙を打ち出し、ジョギングしている姿をメディアに載せた。あれほどドラッグとセックスとロックンロールだった人が健康アピールを始めたのだ(時期的にはシド・ヴィシャスの死の少し後になる)。そう、80年代に入った頃から不道徳の権化であったロックミュージシャンたちの道徳化が始まったのである。84年にデビューしたジョン・ボン・ジョヴィはドラッグをやらない。何故なら、自分を見ている若者たちに悪い影響を与えたくないからだと言う。生き延びたロックスターの多くは健康的になり、道徳を重んじるようになった。ジーン・シモンズが夭折したロックスターについての本を書くようになったのも道徳化の一環である。また、81年にはローリング・ストーンズはマディ・ウォーターズと共演している(もっと早い時期に共演する機会はあったろうに)。この頃から、ロックスターたちは自分に影響を与えたレジェンドたちを感謝の念を込めて顕彰するようになる。かくしてセックスとドラッグとロックンロールの蜜月時代は終わったのである。

 

映画監督・脚本家・文筆家。一九六四大阪生まれ。大阪芸大在学中に海洋堂に関わり、完成見本の組立や宣伝などを手がけた後、脚本家から映画監督に。監督作に『美女濡れ酒場』、脚本作に『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説』など。著作に『海洋堂創世記』『「痴人の愛」を歩く』(白水社)、『帝都公園物語』(幻戯書房)がある。
twitter

第14回 ミスマッチにより青年は荒野を目指す

ロックとはなんだったのか? 情熱的に語られがちなロックを、冷静に、理性的に、「縁側で渋茶をすするお爺さんのように」語る連作エッセイ。ロックの時代が終わったいま、ロックの正体が明かされる!?

キッスのジーン・シモンズが近年になって出した著作『才能のあるヤツはなぜ27歳で死んでしまうのか?』は色んな意味で興味深い本である。シモンズはイスラエル出身の苦労人で、子供の頃に母親に連れられて渡米。70年代に結成したキッスのド派手なメイクとステージ演出で成功した。バンドの中では文字通りのCEO的な存在で、キッス関連商品の版権なども管理している実業家である。長いキャリアの中では浮き沈みも経験した彼が、老人となった今になって書いた本が、若くして死んでしまったロックスターたちの死の要因を追究したものなのだ。本人は狂乱の70年代を生き延びたサバイバーである。1969年から1971年にかけてブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンそしてジム・モリソンが亡くなった。4人とも27歳だった。それから四半世紀ほど後、カート・コベインが同じく27歳で亡くなる。この辺りから、ファンやメディアの間で、27クラブというあまり喜ばしいとは思えない言葉が囁かれはじめた。そう、シモンズの著名そのままに「才能のあるヤツはなぜ27歳で死んでしまうのか?」という話である。もちろん27歳以外で若くして亡くなったミュージシャンもいる。セックス・ピストルズのシド・ヴィシャスは21歳であった。ジーン・シモンズはデビュー前に一人のリスナーとしてブライアン・ジョーンズやジム・モリソンの死を知り、キッスとしてデビューした後にシド・ヴィシャスが死ぬのを見、さらに後にずっと年少のコベインが亡くなるのを見たわけだ。歳をとって分別のある大人になればなるほど、自分より若い人が先に死ぬのはメンタルに堪えるものである。シモンズは苦境を跳ね除けて成功したポジティブな人間だったから、若くしてロックで成功したのにメンタルを病んで自滅的に夭逝した人たちの気持ちが理解できなかった。だから、自分が老人になった時に、このような本を書いたのだ。夭折したロックスターの多くは、ドラッグと酒の併用で死んだケースが多いが、そもそも彼らがドラッグに耽溺したのはメンタルを病んでいたからだ。メンタルを病んだ人ほどドラッグに耽溺するのは、ビリー・ホリデイの時代からあった現象である。ジャズにしろロックにしろ、若くして音楽で身を立てるということは、時として普通に働くよりも大きな成功をもたらす。世界的に成功したミュージシャンは、世界中から祝福される存在である。なのに、世界から祝福されている若者が、メンタルを病んで自傷行為的にドラッグに耽溺し死んでしまったわけである。これが連載第1回でも触れたロックのジレンマである。シモンズは心理学者にも取材して、世界中から注目されることで精神を病む場合もあるのだと書いている。確かに、我々の大半は何十万人、何百万人の他人から注目されるという経験がないために、何百万人、何千万人から注目されてしまった人の気持ちなど、なかなかわかるわけがない。そもそもヒトは150人くらいの集団で生活するのに適応した動物である。大勢の人から注目され褒められるのは本来なら嬉しいことではあるが、それが何万人という単位になった場合、脳が何らかのバグを起こしてもおかしくはない。

20世紀においてロックは主に若者の音楽であった。多くのミュージシャンは思春期にロックと出会い、仲間とバンドを組んで青年期にプロになる。それを聴く層も似たようなものである。二次性徴が起きる思春期にメンタルが不安定になるのはしょうがない。それ以前の、小学生時代というのはもっぱら成長と学習に費やされる。体は時間をかけてゆっくりと大きくなるが、根本的な変化ではない。それに比べて思春期の変化は急速に起きる。だから我々の多くは、思春期の少年少女が時として神経過敏になることを理解しているし、納得もしている。ところがだ、肉体的には安定した青年期に入ってもヒトの脳はまだ成長の途中なのである。つまり、思春期に始まった肉体の変化は、二十歳を過ぎてもまだ終わってはいないのだ。脳だって肉体の一部であり、さらに言うと肉体のコントローセンターである脳は二十歳を過ぎてもまだ成長の途中なのである。脳が安定するのは、なんと27歳頃で(27クラブ!)人によっては30代の前半に至るまで安定しない。そう、若くして死んだロックスターたちは、脳の成長が止まり、安定した時期に入る前にメンタルを病み、ドラッグやアルコールを濫用して死んでしまったのだ。ちなみに、この27歳から30代の前半というのはサルトルが『嘔吐』を書いていた時期にあたる。思春期から青年期において、メンタルが安定しないのはヒトだけではない。ハーバード大学の人類進化生物学客員教授のバーバラ・N・ホロウィッツと科学ジャーナリストのキャスリン・バウアーズが書いた『WILDHOOD野生の青年期』によれば、大半の哺乳類や鳥類、さらにいうと大抵の脊椎動物においては青年期があり、青年期の動物たちはメンタルを病むことが多く、さらには好んで無鉄砲な行動を行うことがあるのだという。ここでいう無鉄砲な行動というのは、たとえばチキンレースである。チキンレースというのは、お互いの車が向かい合った状態で車をスタートさせる、もしくは崖などに向かった状態で同時に車をスタートさせて、先にブレーキを踏んだ者がチキン(臆病者)と認定されるゲームである。ある程度、歳をとった大人ならば、最初からこんなことをやろうと思わないわけだが、青年期の動物たちは、しばしばチキンレース的な行動を行う。たとえば青年期のラッコは、そこが危険な場所であることをわかっていながら、ホオジロザメのいる海域に泳いで行く。そして何割かのラッコの若者は、そこでホオジロザメに食べられてしまう、のである。これはラッコのチキンレースだ。ただし、チキンレースを上手く生き延びたラッコは老獪に生き延びて子孫を残す。青春の通過儀礼か。ヒトは極端に学習に依存した動物なのだけれども、それ以外の脊椎動物の多くも、大人になるまでの過程においてチキンレース的なギャンブルで生存と危険についてのノウハウを学習するようなのだ。草食獣が肉食獣から逃げ延びるためには、単に足が速いだけではなく、なんらかのタクティクスが必要となる。それは遺伝子だけで伝えられるものではないので、青年期に学習する必要があるのだろう。たとえばシマウマが、ライオンから逃げるためのコツ、ノウハウみたいなものをテキストとして残せれば、次の世代のシマウマをかなり助けることになっただろうが、個人の経験値をデータ化して次世代に残すなんてことができるようになったのは今のところヒト科の動物だけである(ただし、親鳥が子鳥にエサの獲り方をティーチングしたりするように、年長者から年少者へ技術的な情報を伝える文化はヒト以外の動物たちにもある)。だからこそ野生動物たちは、その青年期に生存のための経験値を上げるために、未成熟なメンタルでチキンレース的な行動を行うわけだ。メンタルが不安定な思春期から青年期をワイルドフッドと称するのだが、これはそれぞれの動物の寿命によって違う。ヒトの場合は11歳頃から30代前半、カリフォルニアラッコは生後9ヶ月から4.5歳、アフリカ象は10歳でこの時期に突入し25歳くらいで落ち着く。ザトウクジラは4歳から20歳だ。400年生きるとされるニシオンデンザメの場合、130歳で思春期が始まり180歳で青年期が終わる、らしい。もしも貴方の知り合いに150歳のニシオンデンザメがいて、ことあるごとにナーバスになったり、反社会的な発言をしたりしていた場合には、温かい目で見守ってほしい。そのニシオンデンザメはそういうお年頃なのだ。しかしまあ、アフリカ象やクジラでさえ、青年期にはメンタルが過敏になると考えたら、ヒトのようなひ弱な猿が青年期にメンタル弱々になるのもしょうがない話ではないか。それに加えて、ヒトはもう一つの弱点を持っている。現生人類たるホモ・サピエンスが誕生したのは、およそ20万年前だとされているわけだが、旧石器文明はそれ以前から始まっている。石斧を使い狩猟をして得た獲物の毛皮で服を作るような文化は、ホモ・サピエンス誕生以前からあったわけだ。ホモ・サピエンスよりも古い時代にいたヒト属の先祖、ホモ・ハビリスやホモ・エルガスターといった旧石器時代のヒト達が、石斧のような石器を使い始め、おそらくある時期からは毛皮で作った衣服を着るようになっていた。つまり、ホモ・サピエンスは誕生した時点で既に、それなりに洗練された石器をはじめとする道具を使い、毛皮や植物で作った服を着ていたのである。これに関してはネアンデルタール人やデニソワ人もほぼ同じで、我々との違いはほとんどない。実際のところ、アフリカ以外の土地に住むヒトの遺伝子のうち何パーセントかはネアンデルタール人やデニソワ人から受け継いだものである。最初に石器を作り始めたのが誰なのかはわからないけれども、旧石器時代が始まったのは250万年ほど前のことである。今のところ見つかっている化石からはホモ・ハビリス、ホモ・エレクトスといった種族がいた。彼らが文化進化を始めたのである。石斧はとても便利な道具で、狩の時に獲物を倒すのに使えるし、倒した獲物の皮を剥ぎ、骨を割って肉を切り出すのにも使えた。初期の狩猟生活においてはオール・イン・ワンだったのである。現代社会において、旧石器時代の石斧に最も似た道具は何かというとスマホでしょうな。片手で持てるオール・イン・ワンですからね。ジョブズ、石斧の再発明をしたのか。少なくとも250万年前の石斧がなかったら、我々はiPhoneやAndroidにたどり着いていない、のである。そして、最初に石斧を作った人たちは、我々の同時代人であるネアンデルタール人やデニソワ人と比べると、遥かにチンパンジーに似ていただろう(我々の目から見て、の話です)。今の我々は、ご存知のように常時二足歩行を行い頭部にしか長い毛が生えていない霊長類なわけですが、チンパンジーと共通の祖先から分岐したのが700万年前である。20万年前にホモ・サピエンスが誕生した時には、既に二足歩行だったし、頭髪以外の体毛はほとんどなかった。遺伝子の変化による進化というのは、基本的にそれくらい時間をかけてゆっくりと進む。キリンの首やゾウの鼻だって、気が遠くなるくらいの時間をかけて長くなったのである(ただし、目に見えないような小さな進化は、さほど時間をかけずに起きる場合もある。たとえば欧米人の多くは海藻を消化できないが、海産物を消費する生活に適応した日本人は海藻を消化できる。逆に、ユーラシア大陸に住んでいる人の一部は乳糖を消化できるが、日本人の多くは消化できない)。

ヒトの仲間は、長い時間をかけて完全な二足歩行になり、無毛になったわけだが、その過程の途中で文化進化の力を手に入れた。基本的に集団で道具を使って狩を行う動物なので、使いにくい道具よりは使いやすい道具の方が重宝されるだろう。そして、もっと使いやすい道具を作ろうとする、わけである。スマホのアプリが更新されるように、全ての道具はアップデートされることによってさらに使いやすくなる。文化進化とはそういうものである。だから、アップデートが当たり前の我々にとって文化進化という概念は理解しやすいのだが、旧石器時代に生きたヒトたちにとってはそうではなかった。原始的な石器である石斧は、石を使って石を割り、さらに細かく削って使いやすい形に整えていく。現代の研究者で同じ工程で石斧を作るのに挑んだ人たちがいて、これがそう簡単にできるものではないことが判明している。石斧の製作はかなりの経験と知識を必要とするのだ。石斧は、何万年もかけて洗練され、種類も増えていった。ということは、昔の人たち、具体的にいうとホモ・エレクトスとかはテクノロジーを使っていたけれども、自分が生きているうちにそのテクノロジーがアップデートされるところを見ることがなかったわけだ。20世紀に生まれた人たちは、モノクロテレビがカラーテレビに進化するところを自分の目で見たのでアップデートという概念を理解しやすいわけだが、旧石器時代のヒトたちにとって、それはとても難しく容易には理解し難い概念だったのである。旧石器時代のヒトたちも、明確にテクノロジーに依存した生活を送っていたわけだが、それを客観的にとらえる視点はおそらく持っていなかった。文化進化はテクノロジーのアップデートを急速に促すわけだが、それでも旧石器時代においてはアップデートには数十万年単位の長い時間が必要だった。ホモ・サピエンスは誕生した時点で、おそらくは既に滅んでいた古い種族のヒトが積み重ねてきたテクノロジーの恩恵を受けていた、わけであるが、我々ホモ・サピエンスの時代になってからも、テクノロジーはそう簡単にはアップデートしなかった。偶然、それまで使われていた石器よりも便利で使いやすい石器を発明した個体はどの時代にもいただろうけれども、その石器を作るためのノウハウや、上手な使い方が他の個体と共有されなかったら、その石器は一代限りで途絶えてしまう。たとえば火の使用に関しても、ヒトの先祖はかなり昔から火を使っていたのだが、自力で火を起こせるようになったのはかなり後の時代だと思われる。

少し整理しよう。遺伝子の変化による進化は基本的に時間がかかるわけだが、ヒトの先祖は文化を進化させるという方法を手に入れたので、進化の速度が少し早くなった。ヒト以外の動物にも文化はあるけれども、文化進化が起きないのでヒト以外の動物の社会は基本的に数万年くらいの時間経過では変化しないのである。たいていの動物の生活に変化が起きるとしたら、それは環境が変化した時である。およそ6550万年前に巨大な隕石が落下したために地球の環境が大幅に変化して、それについていけなかった生物は絶滅してしまった。あんなに栄えていた大型の恐竜たちもいなくなってしまった。これを地質年代区分の用語でK-Pg境界と呼ぶのだが、この時には地球上の動植物の75パーセントが絶滅した。恐竜はデカくて見栄えがするので、恐竜絶滅の時代と思われがちなのだが、恐竜以外の生物も壮大なスケールで絶滅したのである。急激な環境の変化は、全ての生物にとってとても危険なものなのだ。基本的に地球と、地球を取り巻く宇宙は全ての生命に対して優しいわけではない。全ての生物は、自然環境に適応してきたので生命と自然は調和しているように見えるわけだが、実際には生物の方が必死で地球にしがみついているのである。だから、大抵の生物にとって環境の急な変化は好ましくない。ヒトは文化を進化させる動物なので積極的に環境を変化させるようになったわけだが、農地を整備、灌漑したりする農業土木は基本的にはビーバーがダムを作るのと変わらない。鳥の巣も環境改変作業ではあるし、蟻や鉢の営巣も同じようなもんではあるから、環境を変化させることが悪いわけではないのだが、どのような場合にせよ急激な変化は好ましくないのだ。ところが17世紀あたりから、ヒトが行う文化進化の速度が徐々に加速してきた。それに至る段階を説明すると、まず旧石器時代の何百万年も前からヒトの先祖は遺伝子の変化と文化進化を両輪として動かしてきたが、それは長い時間をかけて石器の形状が洗練されるようなゆっくりとしたものだった。そして約20万年前にホモ・サピエンスが誕生した。彼らは、彼らの先祖よりも文化のある生活に適応していたから繁栄したが、それでも文化進化の速度はゆっくりだった。ホモ・サピエンスは1万2000年ほど前から、農耕と定住の生活を始め、文化進化が加速する。火薬や車輪の発明はこれ以降のことである。そして数千年前には文字が発明される。他の動物たちと比べれば早い変化だったものの、それでも19万年ほどの間はゆっくりとした変化だったわけだ。それがこの1万2000年で加速し、それが17世紀あたりの科学革命で更に加速し、19世紀の産業革命で更に更に加速、水道、ガス、電気といったインフラが整備され、電報、電話、ラジオにテレビが普及したことで情報革命が起きた20世紀の終盤に至ってIT革命が起きた。つまり、時代が後になればなるほど加速したのである。60年代から70年代のリスナーたちは、ラジオやレコードでロックを聴きながら動いているロックスターの姿を見る機会は少なかった。そのため、昔はフィルムコンサートと称して、ロックバンドの演奏風景やライブシーンのあるドキュメンタリー映画を、映画館ではなくコンサートホールなどでフィルム上映したものだ。ロックスターの動く姿を日常的に見られるようになったのは80年代になって家庭用ビデオが普及し、MTVの時代に突入してからの話である。当時を生きていた人々にとって、それは途轍もなく大きな変化であったが、テクノロジーの変化、文化進化は更に加速し、今ではスマホで、しかも出先で、お手軽に前世紀のロックスターが歌い踊る姿を観ることができる。ジーン・シモンズにしろミック・ジャガーにしろ、その全盛期は基本的に前世紀なのである。彼らは、驚くほどの速度で社会が変化するのを見てきたのである。ローリング・ストーンズなどは現役なので、今ひとつわかりにくいのだが、時代が後になるほど社会の変化は加速するという事実を考慮すると21世紀の若者が70年代のロックを聴くという行為は、20世紀の若者が19世紀の文学作品を読むという行為に近い。時代を超えて共感できる部分もあれば、時代が違うが故に理解しにくいところもあるだろう。社会が変化する速度が尋常ではないから、理解しがたい部分は加速度的に増えてゆく。それくらい、社会は大きく、かつ速く変化をし続けている。我々ホモ・サピエンスが乗ったノイラートの船は、今や激流を航海している最中なのである。テクノロジーの進化が、我々のライフスタイルや道徳心を変化させているわけだが、我々の肉体はというと新石器時代とそんなには変わっていないのだ。ここでいう「肉体」には「脳」も含まれる。脳はもちろん、我々の精神を生み出す臓器で、精神と肉体は繋がっているから、我々の精神もまた新石器時代とそんなには変わっていない。もちろん、環境の変化に対してはそれなりに適応するわけだが、人類の農耕生活が始まってから環境変化の速度が加速しているのは既に書いた通り、近々でいうと19世紀の人たちの何割かは「今ほどの速さで社会が変化する時代は過去にはなかったぞ!」と思ったはずなのである。そして、それ以降の時代に生きた人たちの何割かは「今の社会の変化は19世紀よりずっと速い」と思ったのではないか。何故に社会の変化が加速するかというと、ヒトは常に今よりもより良い未来を求めているからだ。今よりも、より良い未来にたどり着くための可能性が少しでもあると、それに向けて全力でアクセルを踏みラチェットを回す。産業革命から工業化社会へのコンボが、豊かでより良い未来を築くと思えたからこそヒトは全力で工業化を進めたわけだが、その結果、公害は発生するし、労働者は資本家に搾取されるような社会になってしまう。革命を起こせば誰もが平等で幸せな社会を作れるぞ!と思ってロシア革命をやったら、帝国主義のコピーバージョンであるソ連邦を築いてしまう。なんでやねん、痛いな人類。心のコントロールセンターたる脳を含めたホモ属ヒトの動物の肉体は、ホモ・サピエンスがまだいなかった旧石器時代と比べるとそれなりに変化したけれども、ホモ・サピエンスが様々な道具を使用して狩猟生活を送っていた頃と比べるとほとんど変化していない。何が変化したかというとユーラシア大陸の一部の人たちは乳製品をたくさん食べていたので成人してからも乳糖を消化できるようになったとか、海藻を消化できるようになったとかである。他にも色々あるはずなのだが、些細な変化が多いので目立たないのだ。海産物大好きなアジア人も今では乳製品をたくさん食べているし、乳製品で育ったヨーロッパの人たちも海苔巻きのお寿司を食べ、ワカメの味噌汁を飲んだりしている。ヒトが甘いものや油っこいものを好むのは、それらが高カロリーで、狩猟生活をしていた頃には甘いもの、油っこいものを食べた方が生き延びる確率が高くなったからだ。全ての野生動物にとって、生き延びるとは食糧の確保なのですね。百獣の王たるライオンも、毎日のようにシマウマやガゼルといったご馳走を食べているわけではなくて、普段はバッタとかを食べている。もちろん、バッタだけでは物足りないので、たまには高カロリーなシマウマを食べたいと思うだろう。ヒトが給料日に焼肉屋さんやステーキハウスに行くようなものだ。今の先進国においては、日常的に飢えるという経験があまりないから、非常にわかりにくいのだが、地球で生命が誕生してこのかた全ての生命にとって最重要な案件はご飯を食べることだった、わけである。極端なことを言うと、全ての動物はご飯を食べて生きながらえ、セックスをして子供を作り育てる。それだけなのである。我々は、それ以外に楽しいことをたくさん知っているので、食事と子作りが動物の本懐であることを忘れがちなのだ。野生の状態において我々は甘い果実や脂っこい肉が手に入ったら、飛びつくようにすぐに食べたわけである。何しろ冷蔵庫がなかったので、果実も肉もすぐに腐ってしまう。保存方法といえば干して干物にするしかなかった。だから我々は今でも甘いものや脂っこいものがあると、ついつい食べ過ぎてしまう。少なくとも現代の先進国においては、食糧が手に入らなくなって餓えるということがまずないので、食べ過ぎて肥満し生活習慣病になってしまう。ヒトは、より快適に暮らすことを求めて環境を変化させてきたわけだが、自分たちのために変化させた環境がヒトを苦しめるという現象が起きたのである。進化心理学では、これをダイレクトにミスマッチと呼んでいる。エルヴィス・プレスリーがドーナツの食べ過ぎで死んだというのは有名な噂話で、42歳で彼が亡くなった際に死因は不整脈だと発表されたが、酒も煙草もやらなかったエルヴィスが甘くて高脂肪な食べ物を好んでいたのは事実で、それ以前から肥満に悩んでいたらしい。ストレスから過食症になったという説もあり、また肥満解消のために複数の薬を服用していたという説もある。それが正しいとすれば、エルヴィスこそは進化上のミスマッチ病により亡くなった、おそらく最初のロックスターではないか。彼が貧しい白人の生まれであったことは重要だろう。ミスマッチによって起きる病は2型糖尿病や肝硬変といった、いかにも生活習慣病ばかりではなく、鬱病のような精神疾患も含まれる。近年、注目されるようになった発達障害なども、おそらくミスマッチと深く関わっている。つまり、現代人を悩ませるメンタルな病の多くも何割かはミスマッチの産物なのだ。脳を含む我々の肉体は、新石器時代からほとんど変化していない。現代社会は病んでおり、そのせいで人間の精神が病むようになってしまった、というのはそれこそ60年代カウンターカルチャーの時代からよく言われていた話である。だからこそ、ヒッピー世代においては「自然に帰れ」というメッセージが好まれたわけだが、これはそう簡単な話ではない。我々ホモ・サピエンスは、地球が誕生してからこのかた、最も繁栄した哺乳類であり霊長類なのだが、繁栄の原動力が何かというと文化進化の力である。文化そのものは鳥やビーバー、チンパンジーにもあるのだが、文化を進化させ、更に更にと加速することができたのはヒトの仲間の中でもホモ・サピエンスだけなのだ。我々の先祖は、ネアンデルタール人とほとんど変わらない動物でありながら、ネアンデルタールにはできないような文化進化の速度をブーストさせる便利な道具を生み出したのである。それは何かというと、言語と文字であります。我々現代人は言語と文字を同時に使っているので、同じような枠だと思ってしまうわけだが、これが実は厄介なのだ。言語の誕生に関しては(何しろ記録が残っていないもので)はっきりとしたことはわからないのだが、おそらく10万年前から5万年ほど前のことだと考えられている。それに対して、文字の発明はおよそ6000年から5000年ほど前だと思われる。つまり、言葉が誕生してから文字を生み出すまでに、少なくとも4万数千年ほどの時間が必要だったのでありますね。我々の脳は非常に高性能な情報処理マシーンであるが、リソースは限られている。これはスマホのストレージにたとえるとわかりやすい。自分が使っているスマホのストレージを確認すると、かなりの容量がOSとアプリに費やされていることがわかるだろう。5万年前のヒトにとって、言語は滅茶苦茶に便利なアプリだったのである。だから言語は当時のホモ・サピエンスの間で爆発的に普及した、わけですよ。ところが、このアプリは、かなりのストレージを必要とする。そして、ヒトの脳はストレージを増やすことができない。今使っているスマホよりも大容量のスマホに機種変したりできないのである。しかしながら言語というアプリは、あまりにも便利だったのでストレージが足りないからといってアンインストールすることはできなかった。それから数万年、人類は遂に文字を発明した。ボイド&リチャーソンによると、文化というのは脳の中にある情報である。文字の発明は、脳の中にある情報を脳の外部で保存することを可能にした。そのおかげで、21世紀の中学生が岩波文庫というデバイスを使ってプラトンやアリストテレスが残した叡智にアクセスできたりするのである。これはもう、とんでもないことなのだが、文字を認識するための能力=文字認識アプリは、これまたかなりのストレージを必要とする。ヒトにはそもそも、空の色合いから今後の天候を推測する能力や、繁茂する樹木の様子から美味しい果実を見つけるための推察能力があったはずなのだが、現代の我々はその能力をもっぱら文字を読むことに費やしているわけだ。言語の発明から文字の発明という、数万年がかりのコンボは情報の伝達を容易にし、情報の保存を容易にした。鳥類や哺乳類は親が子供にエサの採り方を教えたりするわけだが、あれは親鳥が自分の親から教わった技術=データを子供に教えることで、子供の脳がデータを保存するためのストレージとして機能している、わけである。ヒトは言語を発明したので親から子へ、はたまた師匠から弟子へと伝えられるデータの量が爆上げしたのである。ヒッピー世代の、自然に帰れというメッセージには一理あるのだが、ヒトが言語や文字を手放すことは無理だろう。原始時代には戻れないのだ。我々は哺乳類なので、他の哺乳類と同じく青年期には不安定なメンタルで刹那的になり無鉄砲な行動を行う。その上に、文化を急激に進化させたので常時ストレージが足りない脳を持つようになった。だから我々の脳は頻繁にバグる。マーク・フィッシャーやカート・コベインが若くして亡くなったのは、おそらくこれら複数の要素が重なって彼らのメンタルを苛んだからだろう。

 


 

〈おもな参考文献〉
ジーン・シモンズ『才能のあるヤツはなぜ27歳で死んでしまうのか?』森田義信訳、星海社新書、2021
バーバラ・N・ホロウィッツ、キャスリン・バウアーズ『WILDHOOD 野生の青年期――人間も動物も波乱を乗り越えおとなになる』土屋晶子訳、白揚社、2021

 

映画監督・脚本家・文筆家。一九六四大阪生まれ。大阪芸大在学中に海洋堂に関わり、完成見本の組立や宣伝などを手がけた後、脚本家から映画監督に。監督作に『美女濡れ酒場』、脚本作に『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説』など。著作に『海洋堂創世記』『「痴人の愛」を歩く』(白水社)、『帝都公園物語』(幻戯書房)がある。
twitter