第16回(最終回) 「本物の詐欺を見せてやるぜ」@ジョン・ライドン

ロックとはなんだったのか? 情熱的に語られがちなロックを、冷静に、理性的に、「縁側で渋茶をすするお爺さんのように」語る連作エッセイ。ロックの時代が終わったいま、ロックの正体が明かされる!?

ピンカーの『暴力の人類史』によるとアメリカでは90年代に暴力事件が減少したという。これはおそらく、80年代の初頭からミック・ジャガーを筆頭にロックスターたちが道徳化していったことと並走している。何故に、ゆっくりだったかというとロックンロールの誕生からこのかた、反道徳的であることを売りにしてきた音楽なので、いきなり率先的に道徳性を打ち出すわけにもいかなかった、わけである。ロックスターたちは反抗のための言葉、反逆のための文脈を持っていたが、道徳を推奨するための語彙がかなり不足していたのである。だからミックは、ドラッグを辞めたことを宣言してジョギングを始めた。それから40年ほどの月日が経過したわけだが、この度のコロナ禍においてローリング・ストーンズと、そのフロントマンであるミックは、ネットを通じて適切なメッセージを発信している。ミックは反ワクチン運動を否定し、陰謀論者とは対話すべきではないと言う。こういったメッセージがネットを通して世界中に届くことを、彼自身深く理解しているのだ。最早、音楽業界において最年長の部類に属する彼は、年長者としての自覚を持った上で社会の役に立つ情報を発信しているわけだ。80年頃に道徳化が始まったとはいえ、その効果が如実に現れるのは90年代になってからである。道徳化には時間がかかるわけだが、時間がかかること自体は決して悪いことではない。たとえば70年代にデビューして、かなり売れたエアロスミスはキャリアの早い段階からドラッグ漬けであった。成功したバンドにはお金が入ってくるので、ドラッグの消費量が増えるのと、利益を巡ってメンバー間のいざこざが増えるという現象が並行して起きるようである。エアロスミスのギタリストであるジョー・ペリーは80年にバンドを脱退してソロプロジェクトを立ち上げ、数年活動した後にバンドに復帰した。この間、本体のエアロスミスは低迷期であった。エアロスミスはアメリカのハードロックバンドだが、黒人音楽へのリスペクトは強く、少し上の世代のブリティッシュ・インヴェイジョンの影響を受けたバンドである。ボーカルのタイラーとギターのペリーがソングライティングを行い、ステージでも前面に出るという点でローリング・ストーンズのミックとキースに似たアプローチで売れたバンドである。そのエアロスミスからペリーが脱退したのだから低迷するのは当然ではあった。ところが、80年代の中頃になってボーカルのスティーブン・タイラーが脱ドラッグの治療を受ける。そして、ペリーとの間に話し合いがもたれて、バンドに復帰。80年代の後半にこのバンドは劇的な復活を遂げる。エアロスミスの最初の全盛期は1976年から77年辺りである。そして復活するのは87年のアルバム『パーマネント・バケーション』だ。ドラッグを抜いて完全復活するまでに10年かかったわけですよ。ここで面倒なのは、ドラッグ漬けであった時期、76年から77年にかけてのアルバムも出来は悪くないのである。脱ドラッグをしてからのアルバムの方が安定した品質になっているのだが、メンバー全員がドラッグにハマっていた時期の作品には刹那的な魅力が溢れている。とはいえ、ドラッグをやりながら名作を作れた時期はあまりにも短かった。それは基本的に継続不可能なのである。60年代後半のジム・モリソンはドラッグをやるにあたって、意識の変容、意識の解放といった目的があったわけだが、後の時代になるほどに、単に危険度の高い嗜好品に過ぎないのではないかということがわかってきたから、多くのロックスターが時間をかけてドラッグから距離を置くようになったわけだ。何故、ドラッグを使って意識を解放しようという考え方が60年代にはあったのだろう。おそらく、デフォルトの状態において現代人は抑圧されているのだという考え方が広く共有されていたからである。人間性の解放などという言い回しも好んで使われた時代である。普段から抑圧されている人間性を解放するためのツールとして、フリーセックスやドラッグ、そしてロックンロールが賞賛されたのである。近代において、最も抑圧について論じた人はおそらくフロイトであるが、マルクスが注目した疎外も、これとかなり近い線にある。現代においても、生きることは色々な面において苦しさ、辛さを伴うわけだが、フロイトの場合はこの辛さを抑圧という観点から注目し、マルクスにおいては疎外という視点を重視したわけである。この辺は19世紀の段階で、現代人ですら悩み続けている生き辛さを解剖し解釈しようとした彼らの仕事は賞賛に値するだろう。フロイトもマルクスも、ナチュラルでデフォルトの状態のヒトの姿を想定した上で、そんな自然状態のヒトを苦しめるのは何なのか? という問題を追究したわけである。ただし、ナチュラルでデフォルトな状態のホモ・サピエンス、つまり本来の人間の姿というのはどのようなものであるのかを、19世紀のホモ・サピエンスは知らなかったし、21世紀の現代においてもまだ完全にはわかっていないのである。とはいえ、19世紀の昔よりはかなりわかってきたのである。これは、それこそ考古学から神経科学まで、ありとあらゆる部門において学問が前に進んだからである。当たり前の話であるが、チンパンジーはチンパンジーがどのような動物であるのかを、詳しく理解しているわけではない。アリもハチも、自分たちがどのような生物であるかを理解していないが、それで困るアリはいない。今のところヒトだけが、自分たちがどのような動物であるのか? という謎に挑戦した動物なのだ。これは、とんでもなくハードルの高い難問であった。というのも、自分たちがどのような生物であるのか? を考えなくてもハチはハチとしての生活ができる。ハチは、自分が今やっている作業にはどういう意味があるのだろう? と考えることなく、巨大な巣を作れるわけです。シロアリを捕まえるために木の枝を使うチンパンジーはかなり賢い動物であり、木の枝を使うのは立派な文化なのだが、便利な木の枝を使ってシロアリを捕まえながら、自分自身に対して自分が今行っている行動の意味を問うようなチンパンジーはいないのである。もしも、そんなチンパンジーがいたとしたら、シロアリを獲るための道具をもっと便利なものに文化進化させていたろう。ヒトが他の動物より突出しているのは、自分が今やっている行動を客観視して、更に上手くやる方法はないものか? と考えるためのメタな視点を持っていることだ。ヒト以外の動物は、自分たちが本当は何者なのか? どんな動物なのか? を考える必要がないし、自分たちがどのような動物なのかを知る必要もなかった。ヒトは、今あるテクノロジーを文化的に進化させるともっと便利になるという知見を(これは本当に進化の過程におけるラッキーアイテムであった)得たために、絶え間なくイノベーションを行う動物になり、なおかつ自分たちは本当はどのような動物であるのかを客観的な視点で捉えようとする唯一の動物になった。とはいえ、自分たちが客観的に見て、どのような習性に動かされる動物であるのかを把握するのは、桁外れに困難な作業なのである。20世紀の後半から今世紀にかけて、人間とはどういう動物なのかということが、かなりわかってきて心理学なども相当に進歩している最中なのだが、それには脳科学や神経科学の発展が一役買っている。昔から哲学者や心理学者は、人間の心の中はどうなっているのだろう? という謎について考えてきたわけだが、その謎を追求するためには、MRIのような医療テクノロジーの発達によって、脳の働きをダイレクトに観測する必要があった。ヒトは昔から、人間の精神でもって人間の精神について考えてきたわけだが(これを内観という。自分自身の心の中を見つめることによって、心の働きとはどういうことなのかを考えるわけである。テクノロジーが発達する以前の哲学者や心理学者は、この内観と他人の状態の観察だけで、人間の精神とはどういうものか? を深く考察し、それなりの結果を得ていたわけで、それはそれでかなり凄いことなのである)人間の精神活動が主に内臓である脳の中で起きている以上、医療機器が発達しないことには脳の働きがどのようなものであるか、深いところまではわからないのである。我々は、たとえば下痢をしたら自分の腸に異変が起きていることを察知できる。胃が痛くなったら、とりあえず胃が不調を訴えていることはわかる。軽い下痢ならドラッグストアに行って整腸剤を買うし、軽い胃痛ならコーヒーやアルコールの摂取を控えて、ランチをお粥や雑炊にするだけで良くなる場合もある。それでもダメなら胃薬を飲むか医者にかかるわけだ。我々は誰もがそれなりに、累積された文化的な知識を持っているから、体が不調になった際には、自分が知っている範囲での対策を講じる。現代ならスマホで検索するという方法もある。たとえば喉が痛くなった時には、内科に行くべきか耳鼻咽喉科に行くべきか悩みますよね。胃が痛くなった時には、何らかのストレスを感じている場合が多いことを現代人である我々の多くは知っている。だから、胃が痛くなった時にはストレスの原因を解決するか、とりあえず胃薬を飲むか、それとも内科に行くか、心療内科に行くか、てな具合に複数の選択肢が浮上する。一番良くないのは、胃痛を我慢することである。賢明な現代人であれば、近所のドラッグストアで胃薬を購入し、心療内科の予約をするかもしれないし、胃痛が酷ければ救急車を呼ぶだろう。選択肢が複数あるのは、我々の文明が豊かな証拠である。胃のような、普段からお世話になっている器官であっても、一旦トラブルが生じるとなかなかに面倒なことになり、ドラッグストアや医者、緊急の場合には救急車といった専門家に頼るしかないのだから、精神に不調をきたした場合には、やはり精神の専門家や脳の専門家に頼るしかないわけだが、そういうことがわかってきたのは、比較的に近年の話なのだ。我々は様々な悩みを抱えてきた動物である。悩みというのは精神の不調であり、それは要するに内臓の一つである脳の不調なのだが、我々は脳が不調になった場合に、胃や腸が不調になった時と同じようなスタンスで対応するのが下手なのだ。

そういった視点でもって、ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』を今読むと冒頭からかなり興味深い。ルソーが考えていた人間の、あるがままの姿というのが、近年わかってきたホモ・サピエンスの生態とは微妙に違うのである。ルソーは言う。「人は自由なものとして生まれたのに、至る所で鎖につながれている」と。更に彼は「すべての社会のうちでもっとも古い社会は家族であり、これだけが自然なものである」と書いている。ルソーの考えでは、子供たちが父親との絆を維持するのは、生きるために親の庇護が必要な時期だけで、父親の保護が不要になれば、この自然の絆は解消されるという。ルソーは更に「そもそも親子ともに自由な存在なのであり、この自由は人間の本性によって生まれたものである」と書き、そこから父親を政治的な支配者に、子供の方を支配される人民に見立てる。このへんの論旨は流石に上手いものであるが、ルソーは何しろ18世紀の人なので、その時代に支配的であった考え方に大きく囚われている。確かにヒトの子供は、いつかは親離れをするものではあるが、ホモ・サピエンスの親子関係というのは子供が育ったらそこで親子の縁が切れてしまうようなものではないのだ。ホモ・サピエンスは誕生した段階で社会性のある動物であった。親と子だけでなく、親族集団で生活していた。これはどういうことかと言うと、ヒトの子育てはその親だけが行うわけではないのである。まず、その子のお婆ちゃんや、同じ集団の仲間達も子育てを手伝っていた。文字のない時代において、老人の知恵、知識はその集団が生き延びる為の重要な情報だった。現代の我々は紙の本やペンとメモ、パソコン、スマホといった便利なデバイスを駆使して生活に必要な情報を記録しておけるが、文字の発明以前にはヒトの脳が必要な情報を保存するためのストレージとして機能していたわけだ。ご存知のように、ヒトの女性は子供が産めない年齢に達してからもかなり長く生きる。こんな哺乳類はかなり珍しいのであるが、これはどうやらヒトの子育てにおいて、お婆ちゃんの知恵袋が役に立ったからなのである。ヒトの出産とその後の育児は、母親にとっては大変な重労働であり、出産時にお母さんが死んでしまうことすらあったから、母親の母親であるお婆ちゃんは出産を助け育児も手伝ったのである(これをお婆ちゃん仮説という)。男性の老人も、女性ほどではないが長生きする。年老いた男性は、石器などの道具を造るための知識を持っていたから、これまた有り難がられる存在であったようだ。更に、ヒトにおいては父親も育児にリソースを割くし、集団で生活するのが大前提であるから、近所のオバちゃん的な人も育児を手伝ったのである。初めて子供を産む若いお母さんは、なにかと経験値が足りないから、周りの人たちが寄ってたかって助け合ったわけである。近所のオバちゃん同士が井戸端会議で噂話を語り合うのは、それが共同体の中で必要な情報を共有するためのメディアとして非常に重要な機能を果たしていたからだ。だがしかし、ルソーの時代には既に文字があり社会的インフラも確立されていたから、こういうことがわからなかった。まさかオバちゃんたちの井戸端会議や、お節介な行為が人類をサスティナブルな存在とするための必須メディアであったとは、いくらルソーが頭の良い人であったとしても気がつかない。ヒトは、社会的インフラに依存する動物であるが、最初のインフラは同じ集団で生活する仲間達であった。おそらくだが、デフォルトの状態のホモ・サピエンスは、両親と子供たちという最小限のユニット、家族だけでは生きてゆけなかったのである。なにしろホモ・サピエンスが誕生した頃、彼らの生活圏にはライオンの先祖がいたので、両親と子供たちという最小限のユニットでは、簡単に食べられてしまっただろうし、核家族のような小さな集団ではヒトより大きな動物を狩猟することができない。複数の家族から構成されたそれなりに大きな集団でないと、ヒトは生活できなかったし、出産や子育ても出来ない動物なのである。ヒトは徹底的に社会的な動物であり、自分たちで作ったネットワーク、もっと言うと制度に依存している。その点で社会契約と一般意志という制度的な考え方にたどり着いたルソーはかなり鋭い。ただ彼の時代にはまだダーウィンがいなかったので、進化論的な視点を得ることができなかったのである。

親子の関係に、政治的な支配者と支配される市民の関係を見出してしまうルソーの考え方は、少しばかり人類という動物への理解が足りなかったが故の誤謬だが、これは後々の西欧的な考え方にかなりの影響を与えたのではないか。ルソーの考えがフランス革命に影響を与えたことはご存じの通りである。もちろん、ルソーが生きた時代においては、封建社会や絶対王政が大きな問題であったので、彼の主張は西欧が近代化する過程においては必要なものだった。ただし、親子の関係性に権力構造を見出す彼の思考は、たとえばフロイトの考えに影響を与えているし、マルクスの階級闘争史観にも影響を与えているのではないか。フロイトがエディプスコンプレックスのような、抑圧という概念をやたらと気にしていた理由も、ルソーの親子観に影響を受けていたのだとすれば納得が行くし、集合的無意識を提唱したユングもまたルソーの一般意志に影響を受けているように見える。マルクスの疎外も、直接的にはヘーゲルからヒントを得たものだが、ルソーからの影響も大きかろう。ちなみにルソーはプロテスタントからカトリックに改宗し、またプロテスタントに戻ったというややこしい経歴の人で、いずれにせよ彼の考え方は当時のキリスト教の影響は受けていただろう。てか、西欧文明そのものがキリスト教文化なしには成立し得ないわけで、1950年代にロックンロールで踊り狂ったアメリカの若者たちが『社会契約論』を読んでいたかどうかは定かではないが、抑圧的な親に対する(理由なき)反抗という文脈は、明らかにルソーの思想と似ているわけだが、その背後にはおそらくキリスト教文化がある。50年代のロックンロールの、口うるさい親に対するティーンの反抗は、60年代のロックにおいてはベトナム戦争をやめないアメリカの帝国主義に対する反逆、という形に文化進化した。これは、ロックンロールが日本で言うところの中高生の文化であったのに対して、60年代アメリカのフォークソングが大学生くらいの文化であったことが大きい。中高生は今すぐ兵隊に行くことはないけれども、大学生にとってはそうではない。自分が徴兵されてベトナムの戦場に行かされるのが嫌だったからこそ、インテリの大学生ほどフォークソングを歌ってベトナム戦争に反対したのである。そしてそのフォーク代表たるボブ・ディランがエレキギターを持ったので、60年代後半のロックは政治的なプロテストのツールに変化したのである。これもまた文化進化だ。結果的にカウンターカルチャーの時代のロックと、ロックを巡る言説はフランス革命を準備したルソーの精神に近づいていったとも言える。ルソーの思想はフランス革命と民主主義を準備したという点においてかなり凄いのだが、その反面、ルソーの思想は全体主義に繋がるという批判もある。有名なところではハンナ・アーレントのルソー批判があるわけだが、ここでルソーが正しいのか? それともアーレントが正しいのか? という二項対立に話を転がしてはいけないのである。それをやると、永久に話が終わらず言論的な戦争になってしまうのだが、それは愚か者のやること、なのである。我々はそこそこお利口さんな猿なので、幾分かの優柔不断さを含ませながら、ルソーも偉かったし、それを批判したアーレントにも一理ある。どっちも偉かったですねぇ、という、いささかグダグダとした姿勢で妥協点を見出すのが最も賢明な選択肢なのだ。何故かというとですね、ルソーの言うておることは大筋では悪くないのだが、それを急いで厳密にやると大惨事になる可能性が高いのである。これこそがヒトという動物にとって最大のアポリアなのであります。我々の遥かな祖先は、いつも飢えていたので美味しい食べ物を見つけると全力で食べたわけである。そこから転じて、我々は、これは良いものだ! と思った場合には全力でアクセルを踏みラチェットを回す動物なのである。その結果、我々は理想的なことを思いつくと、全力でそれに集中してしまい、マイナス要因を大量に派生させてしまう動物になった。つまりは加減を知らない動物なのだ。産業革命により、世の中が便利になったと思ったら、それに全振りするから労働者は搾取され疎外される社会になり、なおかつ公害まで生み出してしまう。我々は美味しいものに目がない動物なので、社会の良き変化をほどほどに嗜むというセンスに欠けているのだ。実際問題として、人類の歴史は良かれと思って無茶をしたら大惨事になった、というケースが多い。我々が常に進歩する動物なのは素晴らしいことなのだが、進歩する際についつい急いでしまうのがマイナスポイントなのである。たとえばイエス・キリストが十字架に磔にされたのは、彼がラディカルな活動家だったからだ。当時の政権、ローマ帝国から見て危険だと思われたから処刑されたわけだ。これに対してキリスト教は、処刑された後にキリストが復活したという物語を用意した。磔にされた人間が生き返る訳はないのだが、このストーリーはかなり魅力的であったので、大勢の人たちを魅了した。その結果、キリスト教というコミュニティはローマ帝国よりも息の長い共同体になり、今も健在である。ここで注目すべきは、イエス・キリストが生きていた当時のキリスト教は、ローマ帝国に対してラディカルな存在であったし、その後の西欧文化において、キリスト教がメジャーな存在になった頃には、植民地を侵略するためのツールとして機能していた点である。たとえば南米の歴史や、中世の十字軍の歴史を顧みれば、昔のキリスト教がかなり血生臭いものであったことがわかるのだが、その当時に血生臭かったのはキリスト教だけではない。皆が皆、血生臭かったのだ。それこそキリストの磔のように、昔は色んな国において罪人の処刑を見世物として公開していたわけである。現在の我々は長い時間をかけて道徳化が進んだので処刑をエンタメとして楽しむことは出来ないのだが、死刑を楽しめなくなったことを残念に思う人はあまりいないでしょ。基本的に、皆が道徳化して良かったのだが、実はここにも落とし穴があって、本来なら歓迎すべきである道徳化もあまり急いで進めると危険なことになる。我々は、処刑をエンタメとして楽しんでいた動物の子孫なのである。道徳化を焦るあまりに過激化すると、自分たちの道徳規範に沿わない人たちに対して激しい怒りを覚え、吊し上げて公開処刑したくなってしまうのである。我々の道徳心や正義感には、基本的なところで欠陥があり、ヒトの集団が「我々」と「あいつら」に分断されると、いくらでも「あいつら」に対して攻撃的になってしまえる。これは動物としての習性なので、簡単に無くすことはできない。しかし対処方法はあって、それは社会の分断を深刻なレベルではなく、軽めで低レベルなものにするのである。コカコーラか、それともペプシコーラか。お好み焼きは関西風が正しいのか、それとも広島風が正しいのか。巨人か阪神か。と、この程度の分断と闘争であれば、滅多なことで殺し合いにはならないし、たとえば、もんじゃ焼きを食べる際に土手を作るか作らないかで揉め事が起きたとして、それが殺し合いにまで発展したとしたら、それは社会の問題ではなくて当事者たちに問題があったと判断して良いわけである。実のところ、我々は日常生活において軽めの分断を発生させては闘争を楽しんでいるのである。身近なところでいうと、Windows派かMac派か。ヘヴィメタルか、それともパンクか。目玉焼きには何が一番合うかで、色んな派閥が派生することもある。ちなみに、この文章を書いている人間は圧倒的にMac派でありApple信者なのだが、Appleにおいては教祖たるジョブズが非常識な人間であったために、Windows派よりもMac派の方が頭のおかしな人が多いことを承知しているので、日常生活においてWindowsを愛用する人と出会った際にも、彼らを殲滅するしかない、とは思わないのである。むしろ、世間一般においてはApple信者が常に少数派であった方が平和なのではないかとまで思う。Apple信者は原理主義的になりやすいので、危険だという自覚があるわけです。と、ここで、何故に原理主義が危険なのかという話をしなければならない。我々は普段から頭の中に無数のテンプレを持っている。ヒトを殺してはいけないとか、近親相姦をしてはいけないとか、全裸でコンビニに行ってはいけないとか、みだりに他人に肛門を見せてはいけないとか、テンプレの多くは「やってはいけないリスト」である。食べたことのないラーメン屋を見かけたら問答無用で入店するとか、綺麗な女の人がいたら必ず声をかけるとか、「やるリスト」を持っている人もいるけれども基本的には「やらないリスト」の方が多い。我々は普段から自分の行動に縛りをかけているのである。これは普遍的なものなので、西欧においては社会が個人を抑圧したり疎外するという発想が生まれたわけだが、実際のところは、自らの行動に縛りをかけた方が生きやすいのである。いくら親しい友人であったとしても、肛門は見せない方がサスティナブルな関係を築けるだろう。その反面、性的な嗜好から肛門を見せ合うようなコミュニティはあっても良いのである。他人に肛門を見せないというテンプレは基本的には正しいのだが、たとえば貴方が痔を患った時には、テンプレを変更して肛門科医に肛門を見てもらうのが正しい行動である。サンデルが有名にしたトロッコ問題を思い出してほしい。人を殺してはいけないというテンプレは、かなり強固で正しいものだが、時と場合によってはテンプレを変更する必要があるわけだ。面倒くさいな人類。しかし、面倒くさいからこそ人類には値打ちがあるのだ。テンプレを重視するのは良いことなのだが、切羽詰まった状況化においてはフレキシブルにテンプレを変更できる方が賢明なのだ。原理主義とはつまり、デフォルトで入力されたテンプレを絶対死守する姿勢である。しかしながら、ヒトが直面する問題の多くは原理主義では解決できないものが多い。日和見主義的に、物事に対応した方がおおむね良い結果を招く。宗教的な信念やイデオロギー、個人的な生活心情といったものは、無数のテンプレの集合体である。それは、元々はそのテンプレを好んで導入した人たちが快適に生きるためのツールであったが、テンプレが絶対的なものになった瞬間にその人の行動を縛る、わけである。テンプレに縛られた人間は、えてして自縄自縛に気がつかないので良かれと思ってやったことが時として大惨事になったりするのである。基本的にヒトはずっと、今よりもより良い社会を築こうとしてきた動物である。そして、それはある程度は成功している。チンパンジーの先祖と別れてからの700万年の間に、累積された文化によって平均寿命は伸び続けているし、様々な疾病、つまりは病気も克服されつつある。テクノロジーの発展と並行して道徳化が進んだので、今世紀に至っては凶悪な殺人事件は減少しつつあり、戦争も減っている。この度のロシアのように無茶振りな戦争を起こす国が現れたとしても、そう簡単に第三次世界大戦にはならず、先進各国はロシアに戦争を止めるように働きかけている。ヒトの歴史はまんざら悪いものではなく、人類は常に前に進むことで昨日より少しだけマシな明日を作ろうとする動物である。少しずつ進歩を重ねて、イノベーションを積み重ね、より良い社会を作ってきたし、これからもそうするわけであるが、そういったスケールの大きな進歩がいつ頃始まったかというと、やはり農耕を始めてからではないか。

シドニー大学のウォルター・ヴェイトと南アフリカのクワズール・ナタール大学のデビッド・スプレット(どちらも認知科学系の哲学者である)が近年発表した論文「進化する決意」は『進化の弟子』を書いた哲学者キム・ステレルニーと『誘惑される意志』を書いた心理学者・行動経済学者ジョージ・エインズリー、この両者の考えを上手く組み合わせたもので、ヒトが現在のような大いなる発展を遂げた、そのスタート地点はこうではなかったかと思わせる説得力がある。まず、エインズリーは双曲割引という難しい話について書いた人で、ステレルニーは人類が進歩するのには師匠と弟子の師弟関係が必要だったという論旨である。これらを組み合わせた「進化する決意」を参考にすれば、遂にロックの正体が突き止められるはずなのだが残念なことに文字数……

 


〈おもな参考文献〉
ルソー『社会契約論』桑原武夫、前川貞次郎、岩波文庫、1954
Veit, W., & Spurrett, D. (2021). Evolving resolve. Behavioral and Brain Sciences, 44, E56. doi:10.1017/S0140525X20001041 

 

※ご愛読まことにありがとうございました。本連載は結論部の追記と本文の改訂を施したうえで小社より単行本として刊行予定です。どうぞお楽しみに。(晶文社編集部)

 

映画監督・脚本家・文筆家。一九六四大阪生まれ。大阪芸大在学中に海洋堂に関わり、完成見本の組立や宣伝などを手がけた後、脚本家から映画監督に。監督作に『美女濡れ酒場』、脚本作に『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説』など。著作に『海洋堂創世記』『「痴人の愛」を歩く』(白水社)、『帝都公園物語』(幻戯書房)がある。
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第15回 文明化と道徳化のロックンロール

ロックとはなんだったのか? 情熱的に語られがちなロックを、冷静に、理性的に、「縁側で渋茶をすするお爺さんのように」語る連作エッセイ。ロックの時代が終わったいま、ロックの正体が明かされる!?

リヴィング・カラーのヴァーノン・リードが近年のインタビューにおいて非常に興味深いことを述べている。かいつまんで言うと、ロックの歴史において黒人のミュージシャンは不当な扱いを受けてきた、という異議申し立てである。1950年代の半ばにロックンロールが誕生した時には、黒人アーティストと白人のアーティストが入り乱れてノリの良い音楽を奏でた。ところが、ロックがカウンターカルチャーと結びついた60年代の後半になると、ロックはラブ&ピースを主張しながら白人中心の文化になってしまう。映画『ウッドストック』を観ればわかるけれども、あの映画で目立っている黒人はジミ・ヘンドリックスだけである。彼はもちろんアメリカで生まれてブルースやR&Bのバンドでキャリアを経たギタリストだが、一旦イギリスに渡ることでキャリアをロンダリングした。ビートルズの登場とブリティッシュ・インヴェイジョンは明確に文化の分水嶺である。ヘンドリックスはもちろん、それ以前から個性的なギターを弾いていたわけだがタイミングよくイギリスに渡って、英国から発信したアフロアメリカンのギタリストとして唯一無二の地位を築く。ところが、それ以降の70年代ロックにおいては黒人ミュージシャンの活躍があまり評価されない歴史が続くのである。マイケル・ジャクソンやプリンスが世界的な規模で音楽市場を塗り替えるのは、1980年代になってからだ。つまり、長い間ロックは白人中心の文化であり、イギリスから現れたジミ・ヘンドリックスだけは特別枠で賞賛されていたのだ。創世記のロックンロールは黒人アーティストと白人アーティストがどちらも大活躍していたのに、ラブ&ピースとカウンターカルチャーの60年代後半を経て、ロックは白人中心の文化になってしまい、マーケットにおいては黒人音楽との間に障壁を作ってしまった。リードはアイズレー・ブラザーズやシスター・ロゼッタ・サープといったロックの歴史に決定的な影響を与えたアーティストたちが、白人のロックという文脈では無視されてきたと訴える。アイズレー・ブラザーズにはジミ・ヘンドリックスも参加していたし、チャック・ベリーよりもひと回り上で戦前からゴスペル、ジャズ、ブルースと幅広い活躍をしたロゼッタ・サープのギタープレイを今聴くと、これは確かにチャック・ベリーのサウンドの源流と言うべきか、更に言うならばサープこそがロックンロールの発明者だったのではないか? と思えるくらい、後のロックンロールがやったようなことを1940年代に既にやっていたのである。1964年に彼女がマディ・ウォーターズと共にヨーロッパツアーを行った際には、客席に若き日のエリック・クラプトンやジェフ・ベック、キース・リチャーズ、ブライアン・ジョーンズたちがいた。ロバート・プラントに至ってはソープの楽屋に忍び込んだという。そんなソープは2018年にロックの殿堂入りをした。つい最近ではないか。多くのロックレジェンドから尊敬されていたにも関わらず、本格的な再評価の波が始まったのは21世紀になってからなのだ。英米の白人によるロックが黒人のブルース、R&Bの物真似から始まったことは明らかである。たとえばローリング・ストーンズのファンになった中学生が、バンド名の由来となったマディ・ウォーターズを聴くと、割とそのまんまそっくりではないかと思う、わけである。続けてエルモア・ジェイムズを聴くと、これがもう明らかにロックなギターサウンドである。なので60年代から70年代にかけてのロックに魅了された人たちの多くは、ロックの源流、ルーツを辿るようになり、戦前のブルースにハマる人も多かった。にも関わらず、サープが評価されたのはつい最近なのである。リードは続いてファンカデリックとそのギタリストであるエディ・ヘイゼルの名前を挙げ、彼らが紛れもないロックバンドであり、素晴らしい傑作を残しているのにも関わらずロックの文脈では評価されてこなかったことを指摘する。R&Bの歌手としてキャリアを始めた、Pファンクの総帥ジョージ・クリントンは、サンフランシスコに移住してヒッピー・ムーブメントの洗礼を受け、ピンク・フロイドのライブを観て、自分の手で黒人のためのピンク・フロイドを作ろうと思い立った。リードはこのエピソードをクリントンから直接聞かされたという。クリントンとヘイゼルは、堂々たる黒人によるロックを作り上げたが、ロックバンドとして認められることはなかった。だから彼らはファンク・R&B色を強めていったのではないかと、後進の黒人ロックギタリストであるリードは語る。そもそもの問題は黒人音楽と白人音楽のマーケットが分かれていたことにあるのは間違いない。だからこそアラン・フリードがラジオを通じて、白人の若者たちに黒人音楽を聴かせたことがロックという文化の誕生に繋がったのである。ただし、黒人音楽の市場と白人音楽の市場が融合したわけではなかったのだ。60年代後半のカウンターカルチャーは公民権運動、黒人解放運動、女性解放運動といったマイノリティのための運動と連動していたために、大きな流れになったが、各々の運動がきちんと連動していたわけではない。

白人主体のロックフェスであるウッドストックが行われた1969年の夏、ニューヨークでは黒人音楽の祭典ハーレム・カルチュラル・フェスティヴァルが行われていた。合わせて30万人が参加したというから規模的にもウッドストックに引けをとらないこのイベントは黒いウッドストックとも呼ばれているが、2021年に『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』というタイトルのドキュメンタリー映画が公開され、注目を集めた。イベントの翌年には映画が公開されていたウッドストックとはえらい違いではないか。69年の時点で黒人たちは、アフリカ系アメリカ人の音楽としての黒人音楽を確立しており、マーケットも存在していたわけだが、だからこそ黒人音楽と白人音楽のマーケットが融合するまでに時間がかかったという面もあるだろう。なので黒人音楽から出たものであり、白人のロックが黒人に影響を与えることもあったにも関わらず、白人は白人で、黒人は黒人でという歪な形で発展してしまった。ちなみに、アメリカの音楽事情は今でも複雑で、黒人が主体で演奏するブルースフェスティバルの観客の9割が白人というような状況がある。その場合、白人の聴衆は黒人音楽を明らかにリスペクトしているわけではあるが、なんとも複雑な気分にはなる。ちなみに黒人の聴衆が少ないのは、若い世代の黒人にとってブルースはお爺さんやお父さんの世代の音楽で、古臭いものに聞こえるからだという。

70年代に何があったのかを駆足で見てみよう。70年代の前半にはハードロックとプログレッシヴロックが隆盛し産業として拡大化の一途を辿ったわけだが、1976年には「アナーキー・イン・ザ・UK」でセックス・ピストルズが登場し、77年には『勝手にしやがれ‼︎』でアルバムデビュー。パンクの時代が到来してしまう。彼らはレッド・ツェッペリン(いわばハードロック代表だろうか)やピンク・フロイド(こちらはプログレッシヴロック代表だろう)といった先達(年齢的にはセックス・ピストルズの面々より一回り上くらいになる)を時代遅れであると口悪く貶し、「私はピンク・フロイドが嫌いだ」と書かれたTシャツを堂々と着ていた。パンクはゆるくてヌルいヒッピーの文化を批判し(もう、ヒッピーなんて限られた場所にしかいなかったのに)もっと過激にやるのだという姿勢であった。現代の視点から見るとパンクは、50年代ロックンロールへの原点回帰にも見えるわけだが、これはこれで説明しだすとややこしいのである。何がややこしいかというとですね、パンクというのは元々はアメリカはニューヨークの文化である。ヴェルベット・アンダーグラウンドやイギー・ポップがルーツとされ、パティ・スミスやテレヴィジョンがいた。ヴェルベット・アンダーグラウンドのルー・リードやパティ・スミスはレッド・ツェッペリンやピンク・フロイドのメンバーたちと概ね同世代にあたる。彼らの中でパティ・スミス、テレヴィジョンのトム・ヴァーレインが、若くして亡くなったドアーズのジム・モリソンのフォロワーであることはかなり重要なポイントだろう。言うまでもなくモリソンはロマン主義的であり象徴主義的な文学者である。パティ・スミスやヴァーレインの作品というのは、アメリカの西海岸から出たモリソンに対しての、東海岸からの文学的なレスポンスであったわけだ。セックス・ピストルズ以降のロンドンパンクに影響を与えたと思われるのはイギー・ポップだろうか。ところでイギー・ポップのワイルドな行動は、彼がビートニクの流れを継承しているからだ。つまり、ニューヨークパンクというのは、文学性の強いサブカルチャーのムーブメントであり、現代アートに理解のある都会の、幾分かはスノッブな文化だったわけだ。パティ・スミスもテレヴィジョンも高く評価されているが、ロンドンパンクのように若者のファッションに大きな影響を与えるタイプの作家ではない。彼らの文学性は、聴き手のパーソナルな心情に訴えかけるものであり、ロックがそのような表現を生み出したことは素直に賞賛すべきである。20世紀のロックの多様性は大したもので、大勢でノリノリになって騒ぐタイプの音楽とは違う文化も生み出しているのだ。アシッドフォークのようなものまで、ロックという言葉の範疇にあるのは、かなり凄いことである。ヒトは猿なので、皆と盛り上がるのは大好きだけれど、自分だけの時間も大切にしたいのである。面倒くさい動物なのは間違いないのだが、ロックは短い期間で文化進化を繰り返し、ホモ・サピエンスの多様なニーズに応えたわけである。とはいえ、ニューヨークパンクだけなら、狭い地域での先鋭的な文化として歴史に残っただけだろう。このパンクというアメリカの中でも都会でしか成立しづらい文化を、イギリス人が加工して輸入したわけである。マルコム・マクラーレンという一種のテキ屋と、デザイナーでファッションブランド、ブティックを経営していたヴィヴィアン・ウェストウッドが結託してセックス・ピストルズをプロデュースしたというのは有名な話である。ロックの歴史を1950年代半ばからだとして、飛躍的に革新的であった出来事というのは実はそんなには多くない。ボブ・ディランがエレキギターを持ったのと、ブリティッシュ・インヴェイジョンより大きな出来事は起きていない。むしろ、規模の小さなイノベーションが頻繁に起きるのがロックの良いところなのだ。セックス・ピストルズは確かに革命的であったが、音楽的にはむしろ、当時としては比較的保守的なパブロックを、意図的にラウドに演奏したわけで、音楽的な革新性はあまりなかった。むしろ当時としては目新しくもないロックンロールで、政治的にラディカルなことを歌ったのが効果的だったのである。セックス・ピストルズは、言ってみればヴィヴィアン・ウェストウッドという服屋のキャンペーンのために作られたバンドである。それが、圧倒的な影響力を持ち得たのはブリティッシュ・インヴェイジョンの時と同じように、アメリカで生まれた文化をイギリスに持ってきて加工したからである。今あるパンクのイメージを決定づけたのはジョニー・ロットンの過激な言葉と、シド・ヴィシャスの過激な生き様ないし死に様である。本来はアメリカで誕生したパンクだが、セックス・ピストルズ以降、アメリカのパンクバンドもロンドンパンクを意識せざるを得なくなった。『反逆の神話』のジョセフ・ヒースは、少年時代の自分がパンクスであったと書いているが、カナダ人であるヒースのパンクはニューヨークから直輸入されたものではなく、ロンドンパンクを経由したものである。ヒースの文章に時折見られる皮肉や諧謔は、ジョニー・ロットン改めジョン・ライドンの言動のようである。そして、10代のヒースがそうであったように、パンクファッションは基本的に安くつくから若者にとっては真似しやすかったのである。かくしてセックス・ピストルズ以降のパンクは、世界中の若者にインパクトを与えた。元々は作られたアイドルのようなものであったが、ジョニー・ロットンは馬鹿ではなかった。彼がロックの歴史上、屈指のイデオローグになったのは元から頭の良い人が、特殊な環境に置かれたからだろう。セックス・ピストルズが登場する以前に、セックス・ピストルズのメンバーのような経験をした人はいなかったのである。2代目のベーシストとしてバンドに参加したシド・ヴィシャスはロットンの友人だったが、ドラッグに耽溺しておりセックス・ピストルズの解散後はソロとして活動したものの薬物の影響でまともにステージをこなせないような状態で恋人のナンシー・スパンゲンと共に破滅的な生活を送り、78年にナンシーは滞在していたニューヨークのチェルシーホテルのバスルームで何者かに刺殺される。犯人はシドかとも思われたが、本人は無罪を主張、ナンシーが死んだ4ヶ月後にはヘロインのオーバードーズで死んでしまった。ナンシーの死因は永遠の謎となり、後には悲劇のみが残ったわけである。ヴィシャスがナンシー殺害容疑で逮捕された際に、彼のためにいち早く弁護士を用意し、その費用も全て支払ったのが誰かというとミック・ジャガーなのである。バンドの元メンバーがドラッグで不審死を遂げたり、自分が歌っている場所で警備員が観客を刺殺してしまうという経験のある人である。そして、どちらの件に関しても法律的な責任はともかくとしてミック・ジャガーにも何らかの責任はあったのである。だからこそ、業界の年長者として迅速に行動したのだろう。69年にブライアン・ジョーンズが亡くなってからシド・ヴィシャスが亡くなるまでに、ほぼ10年の月日が流れている。この10年はロックにとって、最も華々しい時代であったわけだが、ヒッピーたちのフラワームーブメントという夢が早い段階で潰えた上に、後からやってきた世代のセックス・ピストルズからは唾を吐きかけるように否定され、そのメンバーであったシド・ヴィシャスは恋人と共に悲惨な死を遂げた。ロックの歴史は死屍累々であった。セックス・ピストルズのデビューと、イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』が、ほぼ同時期であったことはロックの歴史を語る上でかなり重要なことである。「ホテル・カリフォルニア」の歌詞は象徴的で、様々な解釈が可能ではあるが、明るくて楽しい歌ではないことだけは誰が聴いてもわかる。アメリカンロックが生み出した怨歌のようなものである。後ろ向きな歌である。かつて、何らかの夢を抱いた人たちがいたとして、その夢は終わったんですよと告げるような歌である。つまり60年代後半のアメリカにおけるヒッピーたちのフラワームーブメントは、イギリスの若僧からは唾を吐きかけるように否定され、アメリカの少し下の世代からは、夢は終わったんですよ、と言われてしまったのである。ローリング・ストーン誌のヤン・ウェナーはイーグルスに否定的だったというがその気持ちはわからないでもない。イーグルスはウェナーが愛した文化を終わらせるためにやってきたような存在だったのである。そして皮肉なことに、セックス・ピストルズもイーグルスも滅茶苦茶に売れた。方向性は真逆に見える両者だったが、どちらも聴衆の支持を得た。資本主義において勝利したのである。ロックと資本主義に関して、最も誠実であったのはジョニー・ロットンから改名したジョン・ライドンである。1978年の解散から20年近い時を経た1996年、ライドンはセックス・ピストルズを再結成しツアーを行った。その理由は「金が必要だから」である。再結成ライブを収録したアルバム『勝手に来やがれ』は画期的なアルバムになった。観客たちが全力で大合唱しているのである。収録曲はお馴染みの「ゴッド・セイブ・ザ ・クイーン」や「アナーキー・イン・ザ・UK」である。これらは皆で楽しく合唱するような歌ではないだろう。この時のライドン師はビール腹で贅肉がたぷたぷしていた。そんな見苦しい肉体を見せびらかすように、彼は「お前らに本物の詐欺を見せてやる」と言った。つまり、セックス・ピストルズの再結成とは、セックス・ピストルズの完全否定だったわけである。ロックの歴史上、ここまで完璧に伏線回収したバンドはおそらくない。見事である。歴史上、ロックは死んだという発言をした人は何人かいるのだが、ライドンは具体的にロックが死ぬところを演劇的に再現し、それをワールドツアーで公演して回ったのである。この時のツアーでは、もちろん日本公演も行われ、セックス・ピストルズのナンバーが懐メロのごとく演奏され、日本の観客たちも懐メロとして大合唱した。パンクが持っていたラディカルな要素を、戦車で踏み潰すかのような出来事であったが、それをやっているのがパンクの総本家たるライドンである。彼が資本主義を肯定することで、ロックの資本主義、商業主義批判は、一種の空念仏であることがはっきりしたのでたる。

ナンシーの死に際してミックはシドを助けようとしたわけだが、シド自身はナンシーの後を追うようにドラッグ死してしまう。この時のミックが何を思ったからわからないが、この少し後の時期から彼はジョギングを始め、健康的なアピールをするようになる。1981年のツアーは『スティル・ライフ』というライブアルバムになり、『夜をぶっとばせ』という映画にもなっている。映画の監督はヒッピー世代のハル・アシュビーだ。この時点でミックはドラッグをやめジョギングをして健康アピールをするようになっていた。成功したミュージシャンほど、ドラッグの売人が寄ってくる、というのはわかる。たとえばジム・モリソンに致死量のドラッグを融通したのはマリアンヌ・フェイスフルの恋人だったという。ミック・ジャガー自身、70年代の中頃まではドラッグに耽溺していたし、キースも耽溺していた。60年代においてはセックスとドラッグとロックンロールを体現したような人であったミックが、ジョギングと脱ドラッグアピールで業界の革新を画策したのである。シド・ヴィシャスの死に様はブライアン・ジョーンズの死に様よりも性急であった。こんなことが続いたら、ロックという業界に未来はないと思ったのではないか。

ロックの黄金時代であった70年代において、パンクと同じくらいに重要なのがディスコである。大きな声では言えないけれども、70年代がロックの黄金時代であったと思っているのはロックンロールが好きな白人と、その文化に魅了された日本人くらいである。実際の70年代はディスコの時代であった。実際にはディスコとロックの時代であったと言うのが妥当なところなのだろうが、これがなかなかに難しい話なのだ。ロックンロールもディスコも、後に登場するヒップホップも、基本的には若者たちが踊るための音楽である。集まってドンドコ踊るのを好むのはホモ・サピエンスの習性であるが、ローリング・ストーン誌によってロックジャーナリズムが登場し、ロックにおいてはロックを語る文化が重要になった。カウンターカルチャーが衰退した後も、政治的なアピールはロックの重要な要素であったし、ロックを語ることでその時代の文化を語ったり、自分語りをすることも可能になった。もちろん政治的なメッセージ性の強い踊る音楽というのは他にもあって、ジャマイカのレゲエや後のヒップホップがそうなのだが、白人のロックはロックを語ることと巨大な産業に成長することが深く結びついていた(だから面倒くさいロックおじさんが生まれてしまう)ために、ロックファンの多くは自分の好きなバンドのメンバーの名前を全員覚えていたり、出したアルバムは全て揃えなおかつそのアーティストに影響を与えたアーティストの音楽まで聴くようになったりする。ローリング・ストーンズのファンからマディ・ウォーターズやエルモア・ジェイムズを聴くようになり、更には戦前のブルースにたどり着いた人はゴロゴロいる。しかしながら、ディスコミュージックというのは別にアーティスト名を知らなくても良いし、極端なことをいうと曲名すら知らなくても別にかまわないのである。もちろんディスコミュージックにもバンドの歴代メンバーの名前を覚えアルバムを揃えるようなファンはいるわけだが、基本的に踊ることに特化した音楽である。ロックで重視されるような、そのアーティストの音楽を鑑賞するという姿勢がはなからないような人たちも聴くわけである。だから、やたらと裾野が広いのである。ディスコという文化は70年代の前半からあったが、最初のうちは黒人向けやゲイの人たちが集まる場所であった。それが78年に映画『サタデー・ナイト・フィーバー』によって世界的なブームとなる。この映画のサントラを担当したビージーズは63年にオーストラリアでデビューした息の長いバンドだが、70年代の半ばから試行錯誤の末にディスコミュージックに挑戦していた。古いファンからは、売れるために音楽性を変えたという批判もあったようだが、結果的には大成功であった。黒人音楽であるディスコを白人が吸収した上で自分たちのものにするというのは、白人が黒人の物真似をしたという点でロックンロールの誕生とよく似ている。白人によるディスコは、言わばロックンロールの再発明である。実は、ブリティッシュロックの老舗であるローリング・ストーンズやロッド・スチュアートも、この時代には積極的にディスコに挑戦している。ロッドの「アイム・セクシー」が78年。ローリング・ストーンズの「ミス・ユー」が同じ78年だが、この人たちは黒人音楽に関しては濃厚なオタクなので76年の『ブラック・アンド・ブルー』からディスコ的なアプローチを始めており、80年の『エモーショナル・レスキュー』を経て83年の『アンダーカバー』ではヒップホップをやっている。KISSは79年の「ラビン・ユー・ベイビー」で、クイーンは80年に「地獄へ道連れ」で、デヴィッド・ボウイは83年のアルバム『レッツ・ダンス』でディスコ的なアプローチを試みている。大御所ほど、時代の変化には敏感なようである。しかしながら、ディスコはあまりにも売れたので、そんなディスコという文化を敵視する人たちもいたのだ。1979年のことである。デトロイトのラジオDJであったスティーブ・ダールはdisco sucks(ディスコは最低!)というキャンペーンを始めた。ラジオ局のプレイリストから彼が愛していたローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンの曲に変わってヴィレッジ・ピープルやドナ・サマー、シックなどのディスコミュージックばかりが重宝されるようになったからである。ラジオDJのやったことなので、基本的にはトークの中のおふざけから始まったようなものなのだが、ディスコの台頭に対してダールは本気で危機感を持っていたらしく、「中西部の人たちにとってディスコの音楽は威圧的だったから嫌われた」と語った。ディスコ最低キャンペーンでは、リスナーからディスコミュージックのリクエストを募り、放送しながら爆発的な効果音を流して、それを破壊する、てなことをやっていたらしい。現代の我々には、今ひとつ事態を把握し難いところがあるのだが、ロックのことが大好きなおじさんが、ディスコミュージックを破壊すべし! という活動を始めたわけである。ダールにはスティーブ・ビークという売れないギタリストの知り合いがいた。ビークの父親はシカゴ・ホワイトソックスの本拠地であるコミスキーパークを所有していた。そして、ホワイトソックスはこの頃、不人気で観客が少なかった。上手く話をつけたダールは、ディスコのレコードを持ってきたら次のホワイトソックスのホームゲームに格安で入場できると発表した。その結果、普段は1万6千人しか集まらないホワイトソックスの試合に5万9千人もの観客がやってきた。もちろん、そのうちの1万6千人はダールの反ディスコキャンペーンなど知らない単なる野球ファンだったと思われるが、我々も良く知っているように不人気な球団のファンというのは、普段は理知的な人であっても球場に来ると理性を放棄してしまう動物である。なので、この時は一般の野球好きなおっさんたちも一緒になってディスコのレコードを叩き割り火をつけて燃やしたという。改めて書くけれども、この時点でのディスコは黒人とゲイが主体の文化であった。ダールたちは、それを叩き割って燃やしたのである。酷い話である。野蛮人かお前ら。このエピソードが79年であったことは象徴的である。端的に言うと70年代までのロックは理想主義的な側面を持ちながらも、いささか野蛮な文化であったのだ。歴史を顧みると人類は常に文明化する方向で歩んできた。アリストテレスやプラトンは、現代の我々から見ても理知的であるが、20世紀の半ばで第二次世界大戦が終わるまでは、誰もが戦争を絶対悪とは思わない程度に野獣だったのである。ヒトは、戦争は良くない! と言いながら、必要に応じて戦争をする動物だったのである。第二次世界大戦があまりにも酷い結果に終わったので、我々はようやく「戦争は全部ダメ!」という境地にたどり着けたのである。この度のウクライナ侵攻でロシアが幾多の先進国から責められているのは、せっかく長い時間をかけて文明化した社会にたどりついたのに、それをひっくり返すようなことをしたからである。文明化には、とにかく時間がかかるのであるが、基本的に文明化は止まることがない。70年代のディスコに対するヘイトは、黒人差別、ゲイ差別という側面を持っていたが故に現代の我々から見るとかなり野蛮であったが、半世紀近く前の話である。二度にわたる世界大戦を経た社会は、戦前と比べるとかなり文明化していたがそれでもまだマイノリティに対して無理解の多い野蛮な社会であったと言える。ロックとカウンターカルチャーの時代にアメリカでは暴力事件が増加したが、90年代にはかなり平和になる。81年のツアーにおいてローリング・ストーンズのミック・ジャガーは脱ドラッグと禁煙を打ち出し、ジョギングしている姿をメディアに載せた。あれほどドラッグとセックスとロックンロールだった人が健康アピールを始めたのだ(時期的にはシド・ヴィシャスの死の少し後になる)。そう、80年代に入った頃から不道徳の権化であったロックミュージシャンたちの道徳化が始まったのである。84年にデビューしたジョン・ボン・ジョヴィはドラッグをやらない。何故なら、自分を見ている若者たちに悪い影響を与えたくないからだと言う。生き延びたロックスターの多くは健康的になり、道徳を重んじるようになった。ジーン・シモンズが夭折したロックスターについての本を書くようになったのも道徳化の一環である。また、81年にはローリング・ストーンズはマディ・ウォーターズと共演している(もっと早い時期に共演する機会はあったろうに)。この頃から、ロックスターたちは自分に影響を与えたレジェンドたちを感謝の念を込めて顕彰するようになる。かくしてセックスとドラッグとロックンロールの蜜月時代は終わったのである。

 

映画監督・脚本家・文筆家。一九六四大阪生まれ。大阪芸大在学中に海洋堂に関わり、完成見本の組立や宣伝などを手がけた後、脚本家から映画監督に。監督作に『美女濡れ酒場』、脚本作に『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説』など。著作に『海洋堂創世記』『「痴人の愛」を歩く』(白水社)、『帝都公園物語』(幻戯書房)がある。
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