第13回 発表します。資本主義の正体について

ロックとはなんだったのか? 情熱的に語られがちなロックを、冷静に、理性的に、「縁側で渋茶をすするお爺さんのように」語る連作エッセイ。ロックの時代が終わったいま、ロックの正体が明かされる!?

英国の批評家であり、ロックの評論でも知られたマーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』は哀しい本である。フィッシャーはフレドリック・ジェイムソンとスラヴォイ・ジジェクの言葉として「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい」というフレーズを紹介する。言いたいことはわからなくはない。ただしここには一つ大きな誤謬があってですね、人類は、それこそヨハネ黙示録あたりからずっと色んなパターンの世界の終わりを想像し続けてきたのである。世界の終末を描いたエンタメは星の数ほどある。日本だと『デビルマン』とかですね。人類が滅亡した未来を舞台にした『猿の惑星』がカウンターカルチャー真っ盛りの1968年の作品で、人類が今とは違う方向に進化することを暗示した(ようにも思える)『2001年宇宙の旅』と同じ年の映画なのは非常に象徴的である。世界の終わりを想像するのと、人類が生まれ変わって今とは違う存在になるのを想像するのは基本的には同じ種類の想像力に支えられている。世界の終わりを夢想するのは裏返しのユートピア願望なのである。だから、ヒトにとって、世界の終わりを想像するのは動物としての習性に近いので、「世界の終わりを想像するほうがたやすい」のは当たり前なのだ。かてて加えてフィッシャーが生まれ育った20世紀の後半は核戦争に対する危機感が全ての先進国で共有された時代である。そして、資本主義というのも実は動物としてのホモ・サピエンスの習性と深く結びついているのだが、フィッシャーはそれを知らないまま48歳で自らの命を絶った。カート・コベインと似たような死に様だ。彼らの死を無駄にしないためにも、今こそ我々は資本主義とは本当は何なのか? という話をするべきなのだ。資本主義については19世紀に深く深く考えた人がいて、カール・マルクスという。彼は産業革命によって工業化した西欧社会が労働者を抑圧し搾取するのを見て、これは大きな問題だと思ったわけだ。彼が書いた本とその考え方は、印刷され製本され、翻訳されて世界中の人々に影響を与えた。この印刷と製本というのもグーテンベルクによる技術革新であり、後の産業革命と同じイノベーションである。マルクスは19世紀の人なので、今では通用しないようなことも書いているのだが、今読んでも値打ちのあるようなことも書いているので、使える部分を大事にしましょうというのが現代の正しいマルクス研究者なわけだ。はい、ここでマルクス好きな人たちは二手に分かれるわけです。かなり雑な説明になりますが、マルクスの書いたものを聖典として崇める派と、マルクスの書いたものを科学的に分析して、間違っている部分があれば適切に批判をする派、に分かれるわけですね。マルクス自身は科学的に、論理的にやるぞ! という人だったので、自説の一部が科学的に、もしくは論理的におかしいと証明された場合には、それを否定しなかったはず、なのである。マルクスの意図をちゃんとリスペクトし、継承するのならば、マルクスを尊敬しながら細部については随時批判するような人の方が、ただひたすらマルクスを信奉する人よりもマルクス的には正しいわけですわ。そう考えるとマルクスという人は、人類に対して何らかの結論を出したのではなく、大きな問いかけを残した人だったということがわかる。本人は人類の歴史に一つのゴールを提供するつもりで『資本論』を書いていたのだが、彼が人類に提供したのは一つのスタート地点だったのである。彼は基本的にアジテーターであったので、その文章は熱い言葉で紡がれている。熱い言葉はえてして論理性から離れがちになるのだがマルクスは科学的、論理的であることを良しとした。結果的に、マルクスの意図を正しく受け継いだ人たちは、非常に高いハードルに挑むことになる。歴史家ホブズボームやヤン・エルスターはマルクスから出でて、さらに遠くまで考えを広げた人たちである。マルクスの教えを本当に理解した人ほど、ちゃんとマルクスを批判できるわけです。経済学に関していえばハンガリーのコルナイ・ヤーノシュがいる。マルクス以降、最も資本主義について考えたのがコルナイで、80年代に『不足の経済学』を書いて、旧ソ連の計画経済では駄目なことを指摘した。さらに晩年の『資本主義の本質について』では根源的な答にたどりついている。この本でコルナイは、共産主義・社会主義国家は不足経済であり、資本主義国家は余剰経済だと語る。これは難しい話なので、とにかくコルナイを読んでもらうしかないのだが、共産主義国家と資本主義国家では何が違うかというと、資本主義ではイノベーションがばんばん起きるのに、共産主義、社会主義ではイノベーションが起きないのだ。イノベーションが起きないからソ連は衰退するしかなくて崩壊したという話である。アメリカにはジョブズやビル・ゲイツのような人が現れてイノベーションをばんばんおこすから繁栄し、旧ソ連にはジョブズやゲイツのような人が出てこなかったから衰退した、わけである。それでは、アメリカ人は旧ソ連の人たちよりも優秀なのだろうか。そうではないのである。たとえば19世紀のロシア文学は同じ時代のアメリカ文学に全く劣らないし、英仏といったヨーロッパ先進国の文学にも負けてはいない。ソ連の時代にも優秀な作家はいたのだが、弾圧を受けたり粛清されたりして、それがロシア文化の衰退の一因にはなっているだろう。当たり前の話ですがイノベーションが起きるのは人類にとって良きことである。コロナ禍において、mRNAワクチンがかなり良い仕事をしたのは周知の事実だと思われるが、こういった医療技術はイノベーションとは何なのかを考える上でかなり役に立つ。人類の歴史を医療という側面から見ると、とにかくテクノロジーが進歩した方が少しでも多くの命を救うことができるから、イノベーションは大歓迎である。ヒトはイノベーションに依存した動物なのだ。そのイノベーションが旧ソ連、共産圏では起きなかったのは何故だろう?

競争がなかったからである。アメリカ人であれロシア人であれ、ホモ・サピエンスの個々人のスペックというのはそんなには変わらないのである。ヒトには向き不向きというものがあって、誰しも得意な分野と不得意な分野があるのはご存じの通り。子供の頃から、駆けっこが苦手だった人が陸上競技の選手になることはあまりない。陸上競技を選んだ人たちも、自分の資質と相談するような形で、ある者は短距離走の選手になり、ある者は長距離走を選ぶ。生まれつき太りにくい体質の人は、相撲の力士やプロレスラーになろうとは思わないだろう。ヒトが何かの分野で成功する時には、個人の資質と環境が上手く噛み合っている場合が多いのだ。ジョブズやゲイツが大きな成功をおさめたのは、環境とタイミングが彼らの資質と上手くマッチしたからだ。ジョブズとゲイツは古い友達であり、競争相手でもあった。彼らはお互いに、ライバルに負けたくないから切磋琢磨し、結果的に人類の文化を大幅にアップデートしたわけである。たとえば町内にパン屋さんが一軒しかなかった場合、我々は自動的にそのお店でパンを買うことになるわけだが、パン屋さんが二軒あった場合には、どちらのお店で買うか悩むことになる。片方のお店の方が圧倒的に美味しい場合には、そちらのお店ばかり利用するから、あまり美味しくないお店はすぐに潰れてしまうだろう。自分のお店を潰したい人はいないので、あまり美味しくないお店の人は、今よりも美味しいパンを焼くために努力、工夫をするだろう。それで、そのお店のパンがいきなり美味しくなった場合、もう片方の美味しいパン屋さんはさらに美味しいパンを目指して努力と工夫をするだろう。結果的に得をするのは、どちらのお店でも美味しいパンが手に入るようになった町内の人びとである。ライバルと何かを競い合う精神は、両者を共に成長させるだけでなく、社会を活性化させるのだ。アメリカは一貫して自由競争の国だったから成長したわけだが、ロシア革命以降のソ連は、競争によって個々人のスペックがアップデートされるような社会を作れなかったようなのだ。

たとえば20世紀の宇宙開発において、旧ソ連は優秀だった。これは冷戦の相手であるアメリカと猛烈な競争をしていたからで、だからこそ世界初の人工衛星スプートニクの打ち上げに成功したのである。オリンピックにおいても、旧ソ連邦の選手たちは目覚ましい活躍を残したが、これも競争が発生していたからだ。旧共産圏の人たちはオリンピックで金メダルを取ると、本人だけではなくその家族やコーチ陣も豊かな生活ができた。なので、どの選手も必死で記録を伸ばすこととなったわけである。このように、ヒトは競争になると個々人のスペックを爆上げさせる動物なのだ。競争と協力、この2つが上手く組み合わさった時に、各々の分野においてホモ・サピエンスは最高のパフォーマンスを発揮する。この度のコロナ禍において、あまり時間をかけずに比較的効果のあるワクチンを生み出すことができたのも、ファイザーやモデルナといった製薬会社が過去に蓄積されたデータを駆使しながら競争したからである。ところが旧共産圏においては、市場経済を否定していたので日常生活の中での競争が上手く機能しなかった。ソ連崩壊後、中国は1992年に市場経済を導入し社会主義市場経済を目指すと方向転換した。それから30年、中国の経済が目覚ましい発展を遂げたのはご存じの通りである。ただし、今の中国が本当に社会主義、共産主義なのかについては疑問が残る。市場経済を導入した帝国主義に見えるからである。旧ソ連もまた、実態は帝国であった。これについて、一部のマルクス研究家は、レーニンとスターリンのソ連も、毛沢東の中国も本当の共産主義ではなかったのだという説を唱えている。だとしたら、人類は今のところ本当の意味で共産主義を実現したことはないという話になる。マルクスの熱烈なフォロワーであった歴史家カール・カウツキーに『中世の共産主義』という本があって、共産主義という思想、アイデアが実は古くからあるものだという話をしている。プラトンの国家論やキリスト教の古い考え方に、共産主義の源流を見るカウツキーはおそらく正しい。キリスト教でいう神の王国というのは人類が皆幸せな世界だろう。ヒトは互恵的利他主義の動物であり、赤ちゃんの頃から、不公平を憎む傾向がある。これはヒトの習性だと言って良いだろう。だとしたら、ヒトは常に共産主義を思いついてしまう動物だともいえる。ここが本当にヒトという動物のややこしいところである。資本主義は格差を生むから良くない、というのを我々は理解できるし納得もするのだけれども、それでは共産主義にして私有財産を否定しましょうと言われると、これはこれで困ってしまうのである。我々は、常に何らかの形で競争をしていないと社会が活性化しないのである。個人においても、何か人と競い合っていた方が生き生きとするのである。だから子供たちは自然発生的に駆けっこをするし、ロックバンドにおいては他所のバンドよりもデカい音を出すのである。共産主義的な思想というのは、確かにキリスト教由来のユートピア思想の影響を受けている。キリスト教的な神の王国というのは、神の王国が実現したらそこがゴールであり、その先はないのだ。その先があるとしたら終末なのである。共産主義もまた、時間はかかるけど世界中の国が全部共産主義になるだろう、という歴史にゴールがあるような世界観を有している。しかしながらおそらく、歴史には(それこそ人類の滅亡を別にすれば)ゴールはなく、そこから変化する必要のない完成された社会形態というのはないのである。我々の常識や道徳、幸福といったものが常に変化しているので、それに合わせての微調整、つまりは永遠に軌道修正し続けるような姿勢でないとより良い社会を作れないことは、環境問題を見ればわかるのではないか。環境問題にゴールはなく、持続的な取り組みを続けながら次の世代にバトンを渡すしかない。ここでノイラートの船という考え方を紹介する。これは、オーストリアの哲学者オットー・ノイラートが言い出した比喩で、クワインが好んで使ったものである。

我々は広い海を漂う大きな船に乗り合わせている。航海の途中で、船の一部が壊れたりしても、どこかの港に寄って船を修理することはできない。かといって別の船に乗り換えることもできない。航海を続けながら、壊れたところを随時修理しながら進むしかない(ノイラートの船について、さらに詳しく知りたい方には植原亮『自然主義入門』(勁草書房)をお薦めする)。

ヒトの人生は限られているので、我々は随時、暫定的に自分にとってのゴールを想定する。受験とか就職とか結婚とかをミニマムで個人的なゴールと想定して、ゴールを目指すのは生きていく上で効果的なことだ。しかしながら、受験が人生のゴールであるわけがないことは、受験生だってわかっている。自分の人生を、バーチャルなゲームのようなものとして捉えて、そのゲームの中で受験をゴールと想定して頑張るわけだ。これはとても知的な作業だし、思考のツールとしても優れている。しかしながら、実際問題として人生にゴールがあるとしたら、それは死だけだし、社会にもゴールはない。社会にゴールがあるとしたら滅亡である。ヒトは次の世代に遺伝子を残し、ミームを残す。ホモ・サピエンスの誕生以来、20万年もの間、我々はノイラートの船に乗っていたと考えるのが妥当なところだろう。ちなみにノイラートがこの比喩を使ったのはロシア革命より5年ほど後のことだ。フランス革命をやった人たちや、ロシア革命をやった人たちは、革命が成就されればゴールだ! と思っていたわけである。実際には、どちらも恐怖政治と独裁を招いたのであるが、それは彼らがノイラートの船に乗っていながら、ノイラートの船に乗っていることを知らなかったからである。ヒトという動物はヒトがどんな習性を持っているかに対して、今ひとつよくわかっていない。ヒトの社会にゴールはないのだ。ヒトが理想を求める動物であることは素晴らしいことなのだが、理想を達成すれば万事解決するという発想は間違っていたわけであるし、資本主義か? それとも共産主義か? という2択問題も間違っていたのである。そもそも、それは2択問題ではなかったのだ。この問題に関して、明快で明確な答を誰も出せなかったので、多くの人が問題を引きずったのである。資本主義が格差を生むから良くないというのは誰でも気がつく話であるが、そこからの展開がヒトにとっては難問なのだ。たとえばカート・コベインは、自分が商業的な成功をおさめたのを、悪いことをしてしまったように捉えてしまった。マーク・フィッシャーは資本主義から逃げられないことを、絶望的なこととして受け止めてしまった。資本主義とは、そんなに悪いものなのだろうか? 今こそ、資本主義の正体について語るときが来た、わけであります。60年代カウンターカルチャー以降、ロックを巡る言説において頻繁に語られてきた商業主義批判、コマーシャリズム批判、それらに伴う根源的な資本主義嫌悪にはシステム批判という側面があった。カウンターカルチャーの時代にはルールをぶち壊せ的な物言いが広く見受けられた、わけである。ルールというのはシステムの、制度の構成要素である。システムが皆を苦しめるという発想はマルクスにもあった。資本家に搾取される労働者だけではなく、資本家の方も資本主義のシステムのせいで決して幸せにはなれない、てなことをマルクスは考えていたわけだ。頭いいな。資本主義というのは、無政府主義や共産主義のようなイデオロギーではない。単なるシステムだ。だから資本主義ではなく資本制と呼ぶべきだという人もいる。しかも、このシステムはイデオロギーとは違って、誰かが思いついて始めたわけではなく、自然発生的に成立し世界に広まったのである。何者だこいつは? と思う人もいるだろう。そして、フィッシャーの場合は、このシステムから逃れられないと思ったので絶望して死んでしまったのである。だがしかし、現代においてはヒトはシステム無しでは生きられないことははっきりしている。ヒトは社会的動物なので、共有される規範、ルールによって構成された制度の中でしか生存できない。たとえば無政府主義、アナーキズムというのがあって、それはそれで魅力的に見えたりもするのだがアナーキズムには人類が全員ウルトラマンとかラッキーマンでない限り実現不可能という欠点がある。つまり絵に描いた美しい餅なのだ。否定はしないが実現するようなものでもない。それでは、システムとは一体どういうものなのだろうか。

たとえば、花が美しく咲き誇るのは何故だろうか? それはもちろん、蜜蜂を誘っているからである。世の中には美しいものが沢山あるわけだが、たとえば大自然の景観が美しいのは問答無用である。我々は単なる山や川を見て美しいと思う。そこに損得はない。次に、孔雀の羽根が美しいのは何故だろう。あれは、雌の孔雀に対して見せびらかしているのだ。美しい羽根の雄の孔雀は、雌の孔雀と交尾する際に有利なのである。わかりやすく言うとモテるわけです。ただし、羽根が派手派手になるほどに、肉食獣から襲われるリスクは高まる。ビジュアル系のバンドマンが、ヤンキーにからまれるところをイメージするとわかりやすいかもしれない。バンドマンはあまり喧嘩が強くない、わけであるがヤンキーよりはモテるわけです。それでは、花が美しく咲き誇るのは何故かというと、あれは宣伝、広告なのですね。派手な広告で蜜蜂や蝶といった顧客を勧誘しているのだ。花は美味しい蜜を提供しながら、蜜蜂や蝶に花粉を運んでもらい遺伝子を残す。つまり商取引である。たとえば町を歩けば牛丼屋やラーメン屋の看板が目につくが、あれは花が咲いているのだ。牛丼屋の看板は牛丼を好むホモ・サピエンスを誘い、ラーメン屋の暖簾はラーメン好きなホモ・サピエンスを誘っている、わけである。自然に咲いた花ほど美しく見えないのは、牛丼屋にとっての我々がダイレクトな顧客であり、花にとっての蜜蜂だからである。蜜蜂はもちろん、花を愛でているわけではなく、蜜を採取するための目印として花を目がけて飛んで行くのだ。ということは、孔雀のメスもまたオスの見事な羽根を見て、まあ美しいわ! と感心するよりも先に、これは健康で優秀なオスだから交尾しようではないか、という判断材料としてとらえているのだ。我々ヒトは、おそらく文化を進化させたので芸術という概念を生み出し、孔雀の羽根や蜜蜂を勧誘する花を美しいものとして鑑賞するように適応し、進化したのである。自然界に美の基準があるわけではない。我々ホモ・サピエンスが勝手に大自然の景観を前にして、その美しさに感動し言葉を失ったりしているわけだ。そういう意味では珍しい動物である。それはそうと、我々は犬や猫にも感情があることを知っておりますよね。感情というのは進化の過程で獲得されたものなのだ。たとえば、サバンナでライオンに遭遇した時に、ライオンに対して恐怖を抱かないシマウマがいたとして、そのシマウマは簡単にライオンに食べられてしまうわけです。なので結果的にライオンに対して恐怖を抱くシマウマと、その子孫が生き延びて繁栄したわけですね。それが適応だ。我々ホモ・サピエンスが持っている恐怖という感情はシマウマのそれと基本的には同じものである。何故ならば我々の先祖もシマウマと同じようにライオンの先祖のご飯だったからである。そして、ホモ・サピエンスの子供は、一人で行動できるようになるまで何年もかかるから、大人が保護してあげないといけない。我々の多くが、よちよち歩きの子供を見て無条件で可愛いと思ってしまうのは、これまた進化の過程で獲得した感情なのですね。赤ちゃんや幼児が、可愛いから保護したくなるのには明白なエビデンスがあったのだ。ヒトの子供が可愛いのと並行して、家畜化された動物もまた野生の状態よりはファンシーで可愛くなっているのが重要で(代表例が猪と豚で、豚は猪よりファンシーで可愛い。家畜化された犬の中には耳が垂れた種も多いが、我々の多くはそれを見て可愛いと思う)我々はヒトの子供を見ても可愛いと思うし、他の動物の赤ちゃんを見ても可愛いと思うわけだが、その際に沸き立つ感情は進化の過程で獲得されたものである。なのでヒトにおいては、可愛いは正義、ちいかわ、なのであるが、それとは真逆の感情である嫌悪感なども、また我々の本能と結びついている。我々は、自分のお尻から出た排泄物を嫌悪する。特に臭いを嫌う。これは、我々の排泄物つまりウンコが、我々にとって衛生的な面で危険だからである。ウンコにたかる昆虫がいるのはご存じの通りで、彼らにとってヒトのウンコは危険なものではなくて有益なものだから臭いを察知して寄ってくるわけです。ヒトにとってヒトの排泄物は、直接的には有益ではないので日常生活においては出来るだけ接触を避けるわけだが、農作業の肥料としては有益な面があるので、農耕生活を始めたヒトは自らの排泄物を畑の肥やしとして二次的に利用した。その一方で、ハエにとってはダイレクトに有益な物体なので、すぐに飛んでくる。つまり、地球上にいる様々な生き物の活動は、基本的に生き延びるための経済的な行動なわけですが、ヒトは進化の過程で不公平を嫌い他人に親切にする利他主義を獲得したので、自分だけが得をするような経済的活動、簡単にいうとお金儲けには嫌悪感を抱いてしまうのだ。しかしながら経済的活動というのは生物学的な行動なのである。そう、以前に紹介したバイオロジカルマーケット理論である。市場経済における商取引というのは、生命活動そのものの反映なのだ。だとすると、資本主義を「格差を生み出す悪」として倒すのは無理な話ではないか。ヒトに最も近い親戚であるチンパンジーはヒト以上の格差社会を作るのだが、ヒトは文明のない状態においては彼らよりも平等な社会を作る動物なのである。それが社会集団を拡大させて国家を作ると格差のある社会を作ってしまうのである。社会集団の拡大はおそらく農耕と定住がきっかけである。穀物は備蓄できるので財産という概念が生まれ、領土という概念も生まれますわな。それ以前の、最大で150人程度の集団にも規範はあったはずだが、規模の大きな集団つまり国家になると細かい制度と法が必要になる。そこから奴隷制度が生まれたのである。それでは、やはり文明を発展させたのが間違いだったのかというとそうでもなくて、文明の発達により餓死は減り病気で死ぬ人も大幅に減ったからこそ平均寿命は伸び続けているのである。トータルで見るとやはり文明が発達して良かった。文明が発達しなくても音楽はあったが、電気がなければロックも誕生しなかったわけである。ヒトは言葉は持っていたろうが、文化の進化による文明の発達がなければ文字を発明できなかった。バイオロジカルマーケットに従って生きる動物が、文化の進化を加速させ、文明を発展させればピタゴラスイッチ的に市場経済を生み出し、やがて産業革命を起こして工業社会が到来し近代的な資本主義が生まれてしまう、のである。これは文化進化だ、そして進化というものは常に良い方向に向かうわけでもない。ヒトの互恵的利他主義から来る共産主義を求める思考は、赤ちゃんの頃から公平さを求めるヒトの本能に結びついているわけだが、バイオロジカルマーケット理論の視点から見ると、資本主義もまたヒトの本能と結びついている。だとしたら、共産主義か資本主義か? という2択を問題視したのは、歴史的なミスだったのではないだろうか。どちらも本能と結びついているのなら、どちらかを選ぶという姿勢では、いつまで経ってもより良い答にたどり着けないだろう。人類は馬鹿なようでいて賢い動物なので、妥協とか適当なところで手を打つという選択肢がある。我々は妥協という言葉をあまり良くないニュアンスで使うことが多いが、妥協こそはヒトの叡智なのだ。マルクスが見た19世紀の工業化社会で搾取された労働者たちが苦しんでいたのは、色んな要因が重なっているのだが、一つには産業革命からの工業化というコンボが迅速になされてしまったからである。産業革命自体は確実に良いことであったが、ヒトは「これは良いものだ!」と思うと、それに全力投資してしまうところがある。文化のラチェットを全力で回すのである。その結果、社会の形態が短期間で大きく変化してしまうと、多くのヒトがそれに対応できないといったミスマッチな事態に陥る。ヒトは常に道徳を進化させる動物だが、19世紀の工業化社会においては道徳の進化が追いつかない程の速度で社会が変化したのだ。西欧でギルドが誕生したのは中世だと言われる。労働者と労働者のつながりが、個々人の労働者を守る労働組合的なシステムが自然発生的に生まれていたのだ。ところが、産業革命から工業化社会というコンボは、あまりにも迅速に行われたので中世以降のギルドが持っていたような労働者個々人に対する福利厚生が置き去りにされてしまった。ヒトは道徳を含めた文化を進化させることで前に進んできた。基本的に後戻りはできないと思っていただきたい。ヒトの幸せは、その時その時の社会の状態によって変化する。ヒトは自分たちの都合で、幸せや道徳のゴールポストを動かす動物なのである。昭和の時代には路上で煙草を踏み潰しても誰も文句を言わなかったわけだが、今はそういうわけにはいかないし、そもそも煙草が吸える場所も限られている。これは、公衆道徳や健康面において前向きで良い変化なのだが、ゴールポストはかなり動いている、わけである。我々は常にゴールポストを動かすのである。だとしたら、やはり我々にゴールはないのだ。人類が皆幸せに生きられる世界を理想としつつ、ノイラートの船でもって少しずつ昨日より少しマシな世界にするしかない。幸いなことに、現代では道徳的な消費という概念がある。燃費が悪くて大きな車に乗ることをステイタスにしていたアメリカ人が、今では地球に優しいエコな車を選ぶようになった。道徳の進化はお金持ちも変えてしまったのだ。たとえば現代を代表するお金持ちであるビル・ゲイツやイーロン・マスクは、環境問題や富の再分配について前向きである。たとえば彼らが昔のお金持ちのように私服を肥やすことに専念していたら、SNSでボコボコに叩かれてしまうだろう。彼らはそれをよく知っているのだ。理想的な共産主義を実現できていない以上、格差を筆頭とした資本主義が生み出す様々な問題に対しては、我々庶民がSNSを通じてお金持ちの尻を叩くのがベストだろう。

ともあれマーク・フィッシャーやカート・コベインを殺したのは資本主義ではない。それでは、一体何が彼らを殺したのだろう?


〈おもな参考文献〉
マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』セバスチャン・ブロイ、河南瑠莉訳、堀之内出版、2016
コルナイ・ヤーノシュ『資本主義の本質について――イノベーションと余剰経済』溝端佐登史、堀林巧、林裕明、里上三保子訳、NTT出版、2016

映画監督・脚本家・文筆家。一九六四大阪生まれ。大阪芸大在学中に海洋堂に関わり、完成見本の組立や宣伝などを手がけた後、脚本家から映画監督に。監督作に『美女濡れ酒場』、脚本作に『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説』など。著作に『海洋堂創世記』『「痴人の愛」を歩く』(白水社)、『帝都公園物語』(幻戯書房)がある。
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