第3回 元恋人の結婚式を回避するために海外逃亡──『レス』アンドリュー・ショーン・グリア

信じられないくらい優柔不断、単に運が悪い、欲望に勝てない、決断を間違える……。文学ではキーパーソンとして読者に強烈な印象を残すことが多い「ダメ人間」。どうして、作家はダメな人を描くのだろう?
文学に登場するダメ人間たちに時に苛立ち、時に愛でながら、様々な生に目を向ける「人間讃歌」連載。

 

連載3回目にして、はっきり言って行き詰まっている。どんな人が「ダメ」なのか、よくよく考えるとわからなくなってしまった。何も思い浮かばない。貧乏ゆすりが止まらない。机ががたついて、そばにいた猫がびっくりしている。それでも引き受けたのだから書かなければ。逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ……。
……逃げる人、というのはどうだろう。

アンドリュー・ショーン・グリアの『レス』(上岡伸雄訳、早川書房)は、2018年度のピュリッツァー賞を受賞した長編小説だ。
主人公のアーサー・レスは、サンフランシスコに住む49歳の小説家。ある日、レスのもとにフレディの結婚式の招待状が届く。フレディは15歳年下の英語教師で、レスと9年間付き合っていた。別れて数ヶ月しか経っていない。どんなことがあっても出席するのは無理! というわけで、レスは旅の計画を立てる。ニューヨーク、メキシコ、イタリア、ドイツ、サハラ砂漠、インドから日本へ。レスの逃避行が描かれていく。

わざわざ外国に行かなくても、結婚式の招待なんて断ればいいじゃん? と思う。でも、レスは単純に断るわけにはいかないと考える。フレディの法律上の父はレスにとって長年の宿敵であり、結婚式には古くからの悪友たちが集う。みんなレスとフレディの関係を知っていた。家にいるのに欠席すれば、笑いものになるに違いない。結婚式の日は国外にいるから出席できないという言い訳をするために、レスは移動をともなう仕事の依頼やイベントの招待をすべて受け入れるのだ。やけっぱちになるにもほどがある。

ちなみに、レスもフレディも、フレディの結婚相手も男性だ。レスが暮らすサンフランシスコは、ガス・ヴァン・サント監督の映画『ミルク』の舞台。1970年代後半、アメリカで初めて同性愛者であることを明言して市政委員という公職に就き、凶弾に倒れたハーヴェイ・ミルクがいた街だ。ミルクは同性愛者の権利獲得や地位向上に尽力した。そんな歴史もあってか、同性婚の合法化も早かった。これはかつて禁じられていた男同士の結婚が当たり前になったコミュニティの話なのだ。
レスは本文中の記述から計算すると1966年生まれ。エイズが猛威をふるった80年代に青春時代を過ごし、〈歳を取った最初の同性愛者〉を自任している。かなり誇張した表現ではあるけれど、生き延びたという実感があるのだろう。

で、記念すべき50歳の誕生日をサハラ砂漠で迎えるべく、レスは出発する。各地で彼を待ち受けている出来事のトホホ加減が、この小説の大きな魅力だ。センチメンタル・ジャーニーなのに、感傷に浸らせてくれないのである。
例えば、最初の滞在先であるニューヨーク。人気作家の対談相手を務める予定のレスは、なぜか宇宙飛行士のヘルメットを探すはめに陥る。昔の恋人と偶然出くわし気まずい思いをして、自信作の長編『スウィフト』はボツにされてしまう。
エージェントは『スウィフト』をボツした理由をこんなふうに説明する。

「せつなすぎる。辛辣すぎる。こうした歩き回る男の小説、人生の一日の物語っていうのはね、作家たちが好きなのはわかるんだ。でも、このスウィフトってやつに同情するのは難しい。だって、彼は誰もが望むような生活をしているじゃないか」

 

本書の後半でも、レスは初対面の女性に『スウィフト』の話をして、〈白人で中年のアメリカ人の男が、白人で中年のアメリカ人の悲しみを抱えて歩き回るわけ?〉〈そういう男って、ちょっと同情しにくいのよ〉と言われている。
ここで俄然、レスの味方をしたくなった。同情しにくくて何が悪いのか。主人公がかわいそうじゃないと、読者はついてこないとでも?

『スウィフト』は私小説的な要素がある作品のようだ。確かに、レスはわかりやすく同情を誘うタイプではない。お金はないけれども、若いころ同棲していた天才詩人ロバートにもらった家がある。お気に入りの青いオーダーメイドスーツも持っている。性的マイノリティだけれども、住んでいるのは一年中レインボーフラッグが掲げられている街サンフランシスコ。身体の衰えは意識しているけれども、健康状態に問題はなさそう。知り合いの作家に〈駄目なゲイ〉呼ばわりされるけれども、旅先でアバンチュールを楽しめる程度にはモテる。書いていたら、なんだか羨ましくなってきた。

ただ、傍から見て恵まれているからといって、その人の抱えている悲しみをとるに足らないものとして扱うのは間違っている。
レスが抱えている悲しみ、レスが逃げ回っている現実は、愛が終わるということだ。レスがかつて付き合っていたロバートは25歳年上だった。ふたりの関係が始まったころ、レスは歳の差なんて何の意味もないと思っていた。しかし時は流れ、レスは何度も浮気をして、それを知ってか知らずかロバートは妻のもとへ戻った。
そのときの痛みを忘れていないからだろう。レスはフレディと気楽な関係でいようとした。他に恋人も作った。別れを告げられた日にフレディに〈ここでずっと一緒に暮らしてほしいの?〉と訊かれてもイエスと答えなかった。ほんとはフレディのことがめちゃくちゃ好きなくせに。平気なふりをして。

イエスと答えられなかった悲しみを抱えて、レスは世界を彷徨う。現実逃避のための旅なのに、あちこちで愛の終わりを目の当たりにするところも悲しい。
悲しいけれども、砂丘に座ったふたりのラクダ使いの少年が肩を抱き合って夕陽を眺めているくだりなど、美しいシーンもある。レスのドジっ子気質が幸いして、笑える場面も多い。

旅の終着点にたどりつき、語りの仕掛けも明らかになると、つらかったら逃げて時間を稼いでもいいんじゃないかな、と思える。

 

 

第2回 とにかく尽くし暴走する、エクストリーム片思い──『愛がなんだ』角田光代

信じられないくらい優柔不断、単に運が悪い、欲望に勝てない、決断を間違える……。文学ではキーパーソンとして読者に強烈な印象を残すことが多い「ダメ人間」。どうして、作家はダメな人を描くのだろう?
文学に登場するダメ人間たちに時に苛立ち、時に愛でながら、様々な生に目を向ける「人間讃歌」連載。

 

実はこの連載、当初は「ダメ男小説」について書いてほしいと依頼された。が、性別を問わない「ダメ人間」をテーマにしたのは、ずっと前から不思議だったからだ。

「ダメ男小説」はたくさんあって、ひとつのジャンルとして確立している感があるのに、なぜ「ダメ女小説」はあまり見かけないのか。『ボヴァリー夫人』のエンマなど、ダメな女主人公もいることはいる。けれども、世界はダメ男よりもダメ女に厳しいのでは、と思う。

たとえば、インターネットで「ダメ男」を検索すると、「ダメ男の見分け方」という女性向けの記事が多くヒットする。一方、「ダメ女」で検索すると、男性に愛されるためにダメな部分をなおそうという女性向けの記事が上位に並ぶのだ。「ダメ男」はありのまま変わらないでいられるが、「ダメ女」は存在自体が許されていない気がする。前回取り上げた『ヴィヨンの妻』の大谷は浮気しても金を盗んでも有耶無耶になったのに、恋に溺れ浪費する『ボヴァリー夫人』のエンマの末路は悲惨だったではないか。

女は堅実かつ利他的であれ、と圧をかけてくる小説もある。山本周五郎の直木賞受賞辞退作として知られる『日本婦道記』。武家の女たちを描いた短編集だ。家のために節約を徹底しながら明るくおっとりした顔だけ夫に見せて死んだ妻、裕福な生みの親と一緒に暮らすチャンスを捨てて貧しい養父のもとへ帰る娘、障害者になったふりまでして窮乏した主人を助ける「婢(はしため)」(※女の召使い)……。登場人物は揃いも揃って頑張り屋で、すすんで自己犠牲の道を選び、苦労をむしろ幸福に感じる。そんな生き方が物語を通じて賛美されている。太平洋戦争中に執筆されたということもあるだろう。当時の国家が求めていた女性像を反映しているのだ。しかし令和の今、これが日本の女の生きる道と言われても無理。ほんとうに無理。

 銃後なんかで絶対役に立たない、ダメな女でいたい。

 

というわけで、前置きが長くなったけれども、今回は角田光代の『愛がなんだ』(2003年3月、メディアファクトリーより単行本刊行。2006年2月、角川文庫)を推す。

主人公の山田テルコは28歳。毎日膨大な量のアンケート回答を気の遠くなるほど延々とデータベースに入力するのが仕事だ。契約社員から正社員に昇格したが、職場では浮いている。テルコは就業中でも会議中でも携帯電話の電源を切らず、呼び出し音が鳴ればすぐ飛びついて話し込む。用もないのに残業している日もあれば、定時前に姿をくらます日もある。遅刻は数限りなく、化粧もしないし、何日も同じ服を着ていたりする。同僚に食事に誘われてもドタキャンを繰り返す。その日の予定がどうだろうと、マモちゃんこと田中守を最優先するためだ。

 

マモちゃんと会って、それまで単一色だった私の世界はきれいに二分した。「好きである」と「どうでもいい」とに。そうしてみると、仕事も、女の子たちも、私自身の評価というものも、どうでもいいほうに分類された。そうしたくてしたわけではない。「好きである」ものを優先しようとすると、ほかのことは自動的に「好きなものより好きではない」に変換され、つまりはどうでもよくなってしまうのだった。

 

と、テルコは思っている。仕事や人間関係がおろそかになるほど恋に夢中になる人は珍しくないが、会社をクビになってもかまわない、友達がいなくなってもかまわないというレベルまで、どうでもよくなる人はなかなかいない。しかも、マモちゃんは風邪を引いて寝込んでいる自分のアパートまでわざわざ食べ物を届けてくれたテルコに、終電がなくなる時間であるにもかかわらず、〈帰ってくれるかな?〉と言うのだ。気まぐれに電話をかけてきて、食事して酒を飲んで時には性交もするが、恋人にはなってくれない。33歳になったら仕事を辞めるというのが口癖で、指がきれいという以外、これといった特徴はない。そんな男のそばにいたい一心で、テルコは失業してしまう。

いつでもどこでもマモちゃんに合わせ、頼まれたことは何でも聞く。テルコは一見、都合のいい女だ。でも、読み進めていくうちに、ほんとうにそうか? という疑問がわいてくる。

テルコはマモちゃんが寝込んでいると知ったとき、〈今すぐそこに駆けつけて、風邪に効く料理をこしらえてあげるよ〉と、のどまで出かかった言葉をのみこむ。〈求められてもいないことをみずから提言するのはよくない。押しつけがましい。ときに相手をびびらせる〉とわかっているからだ。わかっていながら、実際にマモちゃんのアパートへ行くと、コンビニの鍋焼きうどんでいいと言われたのにスーパーで買いものをして温サラダと味噌煮込みうどんを作り、風呂場を掃除して、ゴミの仕分けまでする。マモちゃんに嫌われたくないと思いつつ、自分のしたいことをせずにはいられない。この味噌煮込みうどんの回にかぎらず、テルコの尽くし方は過剰。少しでも長く一緒にいたくて、マモちゃんにとって都合のいいラインを踏み越えて暴走するのだ。

マモちゃんはテルコが一線を越えると急に態度を変える。自分本位で冷たく感じることもあるけれど、放っておいたらいつまでも居座りかねないテルコに帰ってほしいと思う気持ちはわからなくもない。なんといってもふたりは付き合っていないのだし。

テルコがすごいのは、マモちゃんに雑に扱われても、避けられても、他の女にあげるためのチョコレートを買いに行かされても、彼に会えるならどうでもいい、自分の感情が愛であるかどうかすらどうでもいい、という領域まで到達するところだ。エクストリームな片思いは、切なさを通りこして笑えるし、恐ろしくもある。

何があってもマモちゃんから離れない、一途なテルコに潜む地獄のようなものを象徴するのが、過去の恋の記憶と結びついている〈中国の王さまの話〉だ。退屈を紛らわすために、家臣に対して残虐な行為をする幼い王さまの話。どのような行為も認められ、肯定されていくうちに、王さまは何かを残酷だと思う心が麻痺していって、残虐さはどんどんエスカレートしていく。テルコは浮気を繰り返していた元恋人と、何度ひどい仕打ちをされても別れなかった自分、どちらが王さまだったのかと問いかけるのだ。

マモちゃんもテルコに甘やかされているうちに、どんどんダメになっていく。登場したときはクールなのに、終盤はとてつもなくかっこわるい。もしテルコが『日本婦道記』の世界に生まれて、武士マモちゃんの妻になっていたら、家は滅びるだろうなと思う。

 

わたしは、テルコが大好きだ。何事もやりすぎてしまうテルコが。隠しても隠しても、男にとって都合の悪い何かがむき出しになってしまうテルコが。

テルコの数少ない女友達は、好意を向けてくる男をコントロールして、自分が優位にたてる関係を築こうとする。都合のいい女にならないように、受け身でいることで傷つかないように。どちらかといえば、テルコより彼女たちのほうが共感しやすい。

けれども、自分をどうでもいいと思っている男に対する巨大感情を制御できないテルコだからこそ、ダメな恋を輝かせることができる。他人の評価に左右されず〈どこにもサンプルのない関係〉を作ろうという境地にたどりつくことができる。どうでもいいを突き詰めて、唯一無二の存在になっているのだ。

 

『愛がなんだ』は、2018年、今泉力哉監督によって映画化された。岸井ゆきの演じるテルコと成田凌演じるマモちゃんがチャーミングで、恋愛のままならなさを繊細に描いている。原作よりも、ほんのりやさしい世界になっているので、未見の人はぜひあわせて観てみていただきたい。小説も映画も傑作です。