第15回 わたしの綱

「ムーミンはふたつ前の誕生日の前日、とつぜんうちにやってきた。身ひとつで。インターホンを鳴らして」……。水があふれる寸前のコップの如く、あやういバランスで保たれていた日常が、突然の訪問者でさざ波がたちはじめる。歌人にして国語科教員、初の著書『せいいっぱいの悪口』で注目を集める著者による、希望と不安、孤独と安堵が交錯する日々を綴るエッセイ。「カバでも妖精でもなく、今ここにこうして生きているもの」  

子どもを寝かしつけた後、真っ暗な寝室でそのまま、夫と寝転びながらぽつぽつ話す。今日出かけたスーパーで日曜日を過ごす人々の往来を見ながら、なんだかずっと夢みたいだと思ったこと。ほんとはずっとわたしたちは並行世界を生きてるんじゃないか。

先頃、コロナに罹った妊婦が自宅出産し、新生児が亡くなった。搬送先が見つかっていれば助かった命だ。そのニュースが頭から離れない。コロナなんてなかったら。現にこのパソコンに「コロナ」は予測変換されない。横浜に住む家族が心配だ。早くワクチンを打ってほしい。もしも、と思うだけで喉がぐっと狭くなって苦しい。もうずっと、ほんとうは心がめちゃくちゃだ。

もしも病気がなかったら、という可能性を二人で考えて、しかしそうなれば睡眠も必須ではなくなるかもしれない、働きづめになるかもしれないと夫が言う。じゃあ病気になることは滅多にない、とか。死ぬ年齢がみんな百歳、とか。偶然のない世界。不条理は嫌だが偶然はどうか。

でも、と夫が言う。すべてに理由や原因があればそれは自己責任論に簡単に結びつくよね。たしかにそうだ。でもわたしはずっと死ぬのがこわいのに。ちゃんと手に綱は摑んでいるはずで、自分の分と、家族の分。大丈夫と言い聞かせて実家にもこまめにメールをして。子どもの写真も添えて。守れるものを気持ちで守っているはずで。何かがさっと通り過ぎて、あえなく死んでしまうかもしれないと思うだけで、また喉が苦しい。

夫は骨髄バンクのドナー登録をしている。

白血球抗原(HLA)が患者と適合すればドナー候補になったことが告げられ、問診や検査など問題なく進むとドナーになる。夫は過去にも三度、候補になったことがあった。そして最近、四度目の〈ドナー候補のお知らせ〉が届いた。ちょうど育休中なこともあり、時間の融通も効く。今度こそなれたらいいなと意気込んでいた。

以前中止になってしまった要因の腰痛についても今回は丁寧に状態を説明してクリアし、クリニックでの検査へと進んだ。ほんとうにドナーになる、なれるかもしれない、と親へも事情を話し、承諾を得、二人でその場合の家事や育児の分担、シュミレーションなども具体的に考えていた矢先だった。コーディネーターから「ドナー打ち切りが決定しました」と連絡が入った。

検査時に体調面の確認をした際、何度か失神したことがあると話したことがどうも原因らしい。しかし原因不明のものではない。「迷走神経反射」と診断もついて、こちらとしては深刻に捉えていなかったものだった。それでだめになるのか、なら黙っていればよかったか、でもそれはそれで何かあったときに大問題にもなりかねない。それでもすぐに呑みこめるわけではなかった。

コーディネーターは「ドナーの健康第一ですから」と繰り返した。途中から断ってスピーカーオンにした夫のスマホから聞こえる顔の知らないその人の声に泣きそうになる。

わたしが思い出していたのは、前回夫がドナー候補になったときのことだった。数ヶ月後に自分たちの結婚式を控えていた。一度きりの大事なときにもし夫になにかあったらと思うと、わたしはどうしても、頷けなかった。

ドナーになるには、家族の同意が必須である。患者にはドナー候補が見つかったことは既に知らされている。しかしこちらは、自分のほかに候補が他に何人いるのかは明かされない。つまり、自分だけが候補の可能性もある。もしもこの綱を離してしまったら――。そのときもわたしは泣いていた。夫の表情は覚えていない。自分のことしか考えられないのが情けなかった、ふり返ればそう思える。なぜ、あのときわたしは泣いたのだろう。

ドナー打ち切りの連絡を受け、夫は拍子抜けのぽかんとした顔になる。こちらとしては懸念されていた自分の体調や体質も問題ないと理解している。病院で検査にあたった医師も平気でしょうと言っていたのに。こんな大事になるとは思っていなかった。

もう一度コーディネーターに掛け合ってみようと二人で話し合って、翌日改めて臨んだ場。「妻も実は今このやりとりを聞いているんです。話したいみたいなのでいいですか」と夫が言って、わたしが話したのは、先の件なのだった。話し出すまで、自分が何を言うかわからなかった。

あのとき以来、夫にも話していない。一度自分の都合でドナーを断ってしまったこと、そのときの後悔がずっと胸にあること、だから今回こそは、と強く思っていること。そんなつもりはもちろんなく、けれど話せばそのうちに涙が頭の後ろのほうからやってくる。知らない人との、声だけのやりとりのなかで泣いている。あのとき助けられなかった人は、今回助けられるかもしれない人と、関係がない。そもそも助けるなんてわたしが思うことではない。助けることができるかもしれないのは夫だ。わたしは、わたしの都合だけで気持ちを楽にしたいと思っているだけなのに。「奥さまのお気持ちはよくわかりました。もう一度、お二人の思いをスタッフに共有します」とコーディネーターは言った。

ずらっと並んだコーラのペットボトルのなかから、躊躇いなくその一番奥のひとつを取っていく人がいる。スーパーに行くたびに必ず目にする光景なのに、それでも毎度怯む。その人が去った後、ついコーラを確認してしまう。一番手前のものでも賞味期限は来年の十月。今選ばれたコーラは半年後に飲んでも大丈夫なものなのに、そんなところで未来への保険を当たり前にこちらへぐいと引き寄せようとする手つきに勝手に傷ついている。夫は「ただ冷えたものが欲しかっただけかもよ」と言うけれど、そうだとしてもあまり変わらない。

意識すらしない自分の生への執着が、ときにこんなに見苦しい。みんなきちんと間隔をあけてレジに並んで、清算の順番を待つ。そこにマスクをしていない人などいない。帰り道でも交通ルールを守って、わたしは日々運転する人々の、そのアクセルを踏むときの右足の慎重であんなに繊細な踏み込みと、しかし一番賞味期限の遠いコーラを得ようとする乱暴すぎる心とが、同じであることが信じられない。もちろん、それらの行為が同一人物のうちに一致するわけではないが、それでも。そして角度を変えればわたしだって知らぬ間に生きることの執着心を剥きだしにしてだれかにゾッとされているかもしれない。気づいていないだけで。

いや、生というよりただ欲望のままに、ただ一点すこし未来の自分が困らないためだけに、他者の生を冒したのはだれでもなく、わたしだったのに。

実家に暮らしていた頃、最寄り駅前の交番に「県内の事故数 昨日の死亡者」という看板があって、それは嫌でも目に入った。特に「昨日の死亡者」はどうしても確認せずにはいられずに、だいたいが毎日0と1か2を繰り返すのだった。0の日は安堵する。1や2の日はそのとき一瞬間、鋭くかなしくて、しかし改札を通り一分後に発車する電車に乗るために走って扉が閉まってタオルハンカチで汗を押さえる頃にはわたしはその数字のことを忘れている。運よく乗れた急行電車に運ばれながら、バイトや学校、遊びのことをあかるく想像しているのだった。

震災だってコロナだって、一年間の自殺者数だって、こう羅列してしまえることがしんそこ厭なのだ。そこにわたしの知るだれかがいないことと、たくさんの死者の数字。数字で知るだれかの死に、あるいはもっと経緯まで知る凄惨な事件・事故の死に、それでもわたしは明くる日にはもう涙を流さない。ただそこにわずかに残るほんのすこしの悲観的な空気はだんだん湿り気を帯びて、何かが兆す。ふいに頭が痛くなる。呼吸がうっすらしづらくなっていく。何もせず、安全な場所にいながら所在なく、ただかなしめる自分が醜いと思う。

匂いから懐かしさを何度でも手繰り寄せて、雲はこんなに奥行きがあるし、風がなまぬるい。「息抜きしておいで」と言われてコメダ珈琲に行った帰り道、黄色い点字ブロックと並走しながら、このまま一本道を行けばじき家に着く。思春期の延長線上をどこまで行くのだろうわたしは。かなしいこともうれしいこともどんどん均されて、自己愛だけが膨張していく。

この前まであった整骨院はいつの間にかなくなって、移転のお知らせがちらと見えた。母親にしがみついて両手で母親を揺さぶっている男の子。こうして立ち止まっては書き継いでいくからいつまでも信号が渡れない。でも目にした瞬間に書いておかないと忘れてしまう。忘れてしまっていけないことなどあるだろうか。ましてやこんな瑣末な風景。夫が乗っていた自転車はサドルの位置がいやに高く、片足のつま先立ちで信号を待つ。スマホから目を離した遠近法の視界には等間隔に幹のなめらかな木が立って、ところどころ今は百日紅が見えている。あかるい色だ。

結局、夫は今回もドナーになれなかった。それどころか、失神の一件でドナー登録も抹消されることになってしまった。まあ、それならこれからも献血をつづけるしかないや、と言って夫はかなり沈んでいる。わたしは今のところ思い当たる疾患はないが、腎臓は一つしかないからやはりドナーになれないかもしれない。己の剥き出しの不安に蓋をするように、だれかを助けたいと衝動的に思う。

わたしがドナー登録のためにはじめて献血に行ってから、数えればちょうど一年半になる。職場で親しくしてくれた同僚の娘さんが白血病だと聞いた。しかしとても遠い。わたしが助けられるのはその娘さんではない。何も言葉を返せずに、勝手に苦しくなってそれでいて、他者へはこんなにも及ばない。ぎゅっと自分の綱を握り直す。自分の分と、家族の分。もっとたくさん、友だちや大切な人はまだいるのに、両手はふさがっている。綱ははてしなく長い。とき折、ものすごい力で引っ張られることがある。そのようにして運動会の綱引きを思い出す。

ぐっと摑んで踏ん張らないとすぐにずるずると引き込まれてしまう。手のひらに指に、ごわごわした綱が喰い込む。砂埃が立つ。みんな、こうしてそれぞれがそれぞれを守っている。偶然はこわい。やっぱりみんな、百歳まで生きて死ぬのがいいんじゃないか。いっそ、碇ゲンドウの人類補完計画は成功すべきだったのではないだろうか。ふり向いて、家族は友だちは、自分の綱をちゃんと力いっぱい引いているだろうか。砂埃でよく見えない。

ただ冷たい風がここを通り過ぎて、驟雨に身体が濡れている。わたしはわたしを、大切な人を、ほんとうには守れない。自分が生きてずっと、必死に摑んできたそのロープの先には、しんじつ何もない。じゃあなんでこんなに、この綱は重いんだろう。何がこの綱を引いているのだろう。わたしが助けられるのはだれだろう。死ぬのはずっとこわい。でもやっぱり、わたしはこの綱を諦めることができない。

 

第14回 朝が来るなら

「ムーミンはふたつ前の誕生日の前日、とつぜんうちにやってきた。身ひとつで。インターホンを鳴らして」……。水があふれる寸前のコップの如く、あやういバランスで保たれていた日常が、突然の訪問者でさざ波がたちはじめる。歌人にして国語科教員、初の著書『せいいっぱいの悪口』で注目を集める著者による、希望と不安、孤独と安堵が交錯する日々を綴るエッセイ。「カバでも妖精でもなく、今ここにこうして生きているもの」  

わたしには、どうやら腎臓が一つしかないらしい。

らしい、というより事実そうなのだが、CTを撮ってその結果を医師から電話で聞いただけなので心情として「どうやらそうらしい」としか言いようがない感じがある。

いったい、腎臓一つ疑惑が立ち上がったのは産後、腎機能がかなり低下しているとかでエコーを当ててみたところ、いくらその辺りを滑らせても片方の腎臓が見当たらない。そこで改めてCTで検査した、といういきさつからなのだった。

だれかに「わたしは腎臓が一つなのです」と話す機会などおそらくないだろうけれど、もしそんなことを聞かされたとしても「お気の毒」と言うしかなく、かといって、じゃあわたしは腎臓が一つでこれまで不自由したかというとそんなこともない。生まれたときから、いや生まれる前から腎臓一個でやってきたのだ。威張ることではないがポンと胸でも叩きたくなるここち。

医師には「まあ結果やはり一個だったんですが、ないものをこれからどうにもできないので、ひとつの腎臓を大切に、交通事故には気をつけてくださいね」と言われて、それはみんな気をつけたほうがいいのだろうけど、「はぁ、ええ、はぁ」とむにゃむにゃ言って電話を切った。

腎臓が一つしかない、というのは字義としてはただ端的に悲劇であるが、なんだか選ばれし者という主人公感もにわかにやってきては威勢よくわたしの肩を叩くようで、勝手に煽てられてすこしニヤニヤしてしまった。母には「製造者としてなんか悪いね」と言われ、夫には「三人合わせて五つの腎臓でがんばろう」と励まされた。私と夫と赤ん坊、秘密の石のようにそれぞれが持ち寄って掲げ、するとたちまち光りだす、わたしたちのまばゆい腎臓――。

母とはそのままLINEで話がつづいていて、「そういえば昨日おばあちゃんと電話した?」とふいに聞かれる。

祖母と話したのは、もう何週間も前だ。卒寿のお祝いに花を送った。お礼の電話がかかってきたのがたぶん、三週間以上は前。一緒に送った子どもの写真を何度も見返している、と言っていた。祖母は九十を過ぎても週に三日はプールに通い、毎日二度、欠かさず犬を散歩に連れ出す。電話の向こうからこちらへ届く声はいつも明るい。変わりない、おばあちゃんはいつも、ずっと元気、と思っていた。

電話したのはかなり前。テンポよくつづいていた母とのLINEが止まった。「そっかぁ」と返事が来て、時間にすれば一分もなかったが、遠く離れていても、そこには沈黙があった。風呂が沸いたことを知らせるメロディがいつもより大きく響いて、夜はしかし昨日と同じように静かで暗い。祖母の話はそれきり、母から猫の写真がつづけて届く。実家の玄関の隅に置かれた段ボールのうえに手足を折り畳んで自分も箱のようになって、目を瞑っている。尻尾がまっすぐに垂れている。

「こうやって一人になりたいときもあるみたい」と母は言った。

はじめてのCT検査は思っていたより大仰なものではなかった。わたしの場合は造影剤も必要ない単純検査というもので、ただ息を止めて大きな輪っかを何度か潜るだけで済んだ。

出産時入院したのが大学病院だったので、検査も同じ、なんというか大きな病院は大掛かりで、人も多い。

生まれてくる子どもについて、成長曲線を下回っているという不安はありながら、それでもわたしは希望をもって子を産むために入院した。けれどもここは、それぞれがおそらくいささか厄介な病気を抱えて、つまりはひとりには持ち切れない不安を携えて訪ずれる人もたくさんいる場所なのだということ。生まれる命以上に、人が亡くなる、それが日ごと繰り返される場所なのだ。

病室のベッドで、眠れないときには仕切りのカーテンの襞を見つめながらそう、ぼんやり考えた。それだって、眠れるときには考えないほど、生まれた子どもの世話で忙しくしていれば目を背けることなどやすいことだった。

通された待合室には午後一番の検査を待つ人でいっぱいで、無音の情報番組をぼんやり眺めながら、どのくらい時間がかかるものかと気を揉んでいた。技師と思われる男性が順に撮影する部位の確認などして回っている。

聞こえてくるそれぞれのすこし不安げな声のなかに、父と同じくらいの、声だけで父なのではないかと思う男性の、造影剤を入れる注射についての質問がこちらまで届く。首を捻ってそちらを向けば、その人は父よりかなり上に見える。でもなんだか、泣きたくなる。なんでだろう。父はいまも元気で、たまにメールのやりとりをする。一回目のコロナワクチンを打ったらしい。満月の日には写真を送ってくる。画素数が粗くぼやけていて、満ちているのか欠けているのか、よく分からない。子どもの写真を送り返すと、今にも喋りだしそうだ、などと言う。でも声は長いこと、聞いていない。

 

「でも知らなければ知らないまま、ということですね」とムーミンが言う。

「だって、見えないのだし、見たこともないのだし」そうつづけて、お茶を注いでくれる。

たしかにそうだ。まあ、全然気にしてないんだけどね、と言うとムーミンはまだ同情のまなざしをこちらに向けている。

「わたしの中身は、なんなのでしょう」ムーミンがお腹の辺りを撫で、軽くひと叩きすると、ぽふ、とかなしい音がする。「見えないのであれば、わたしはなにも知らないことと、それは同じなのですね」

 

その日は近所のミスドで夫と子と、子はベビーカーに乗せたままそれぞれが読書をしたり、わたしは締切に追われて文章を直していた。すると視界の端に認めていたおばあさんが隣の席に荷物を置いた。

おばあさんは全身、上から下まで身にまとうアイテムのすべてが赤い。気づけばするりと至近距離までやってきて、赤ん坊を見つめ、かわいいね、何ヶ月かね、あんよだして寒くないかね、などこちらに話しかけるというよりは独り言のようにつぶやいて、その声はだからこちらに届くよりも小さく、うまく聞きとれない。

夫が(知り合い?)と目線を送ってくる。小刻みに首を振って二人で手を止めたままおばあさんを見上げる。とりとめもなく、どこか歌声のようで、ただおばあさんの口のなかで言葉が回っている。しかもなぜかマスクを外している。遠まわしにこちらに文句があるのでもなく、かといって何か伝えたいことがあるようにも見えない。これはコミュニケーションなのか、分からないまま「ええ」とか「はあ」とかぞんざいな返事をしながら、合間には「ごめんなさいね」とおばあさんは何度も謝るのだった。

おそらく、昔の話をしている。あそこの大学の先生なんかは、とか固有名を挟みながら聞き返すタイミングがつかめない。店員や、周囲がわたしたちの困り顔を見ている。生返事を繰り返しておばあさんはやっとわたしたちを解放してくれた。半ば逃げるように席を立ち、ミスドを後にした。本当は原稿を仕上げてしまいたかった。もっと集中して、有意義に過ごしたかったのに、というおばあさんへのちょっとした苛立ちが登り、けれどそういう自分の了見には苦味がある。

おばあさんを異質なものとして、取り合おうとしなかったこと。周りに見られていたこと。赤ん坊の足をつついたおばあさんの指の細さを、覚えていない。顔も、思い出せない。わたしはおばあさんのことをただその異質さとしてしか把握していなかった。

そのとき「すみません、聞こえません、もうすこしだけ大きな声で話してくれますか」とも「その前にマスクをつけてくれませんか」とも言うことができた。あるいは「いまは忙しくてごめんなさい」と断ることだってできた。でも、わたしたちはそれすらしなかった。

くだんのミスドに行くたびに、いるかな、とちょっと身構える。以来目にしていないが、あのおばあさんは、もしかしてわたしの祖母ではなかったか。病院の待合室で聞こえた声は、父のそれではなかったか。

わたしは、祖母にそれきり電話を掛けていない。祖母は今日もスイミングに行き、犬を散歩へ連れて出る。もしもし、ごめんなさいね、そう知らないだれかに話しかけては煙たがられる、それはわたしの祖母ではなかったか。いや。もしかして変わってしまったかもしれない、祖母を知ってしまうことを避けながら、わたしのなかでそうすれば祖母はいつまでも快活だ。相手に聞こえるかどうか分からずにしゃべりつづけていた人に相対しないことは、いまを歩く祖母を見ないままで追い越すことではないか。

あるいは、きっとこれからどんどん老いてしまう父を置いて、わたしは真実、何をかなしんでいるのだろう。自分の大切な人に元気でいてほしい、というただどうしても切実なねがいは、それだけで随意に果たされるものではけっしてないことをわたしはまだ知らないのだ。

どこからか水が漏れだして、水位の下がったプールにいつまでも浮かんでいるように、気分だけがほんの少し、湿ったままで乾き切らない。ただ新しい朝などない。いや、そう思う向きにただ、いまは寄っている。感じる風やその匂いなど、ほんとうにわたしに新しいものはひとつもなく、思い出のそれを繰り返し取り出しているだけ。目覚めてうれしい朝なんて、そんなのこれまであったんだっけ。七月の、朝はまだ風が涼しい。

もうすこしだけ目を閉じて、自転車で誰もいない広いなめらかな歩道をゆけば、わたしは解放感を覚える。ハンドルから両手をちょっとの間、離してみる。自転車に乗っているときぐらいしか、直によろこびを感じない。ブレーキをかけずに目の前と、その次の信号が青になって、その先は見えないからわからない。どこまで待たずに渡れるだろうか。

自由は目に見えず、腎臓も目に見えない。ムーミンがなんとなく言いそうだ。なんじゃそりゃ、と思う。通り過ぎる床屋のサインポールの回転の速さは、どこも同じなのか。メタセコイアはなぜあんなに、等しくてっぺんが尖っているのだろう。蝉の声がする。平らな夏を生きている。だれと、何と。均された夏を見送って、自分だけが変わらないと信じている。そんなことはない、と言ってくれる人はいるだろうか。