II-5 「思想と討論の自由」が守られなければならない理由

いまわたしたちが直面している社会的諸問題の裏には、「心理学や進化生物学から見た、動物としての人間」と「哲学や社会や経済の担い手としての人間」のあいだにある「乖離」の存在がある。そこに横たわるギャップを埋めるにはどうしたらよいのか? ポリティカル・コレクトネス、優生思想、道徳、人種、ジェンダーなどにかかわる様々な難問に対する回答を、アカデミアや論壇で埋もれがちで、ときに不愉快で不都合でもある書物を紹介しながら探る論考、そのシーズン2の開始です。  

「上」からではなく「下」からの制限

アメリカやヨーロッパでは、ポリティカル・コレクトネスやキャンセル・カルチャーの勢力が増していると同時に、その風潮に対する懸念や反対を表明する議論もなされている。そのなかでも特に目立つのが、ポリティカル・コレクトネスの風潮が学問の自由を侵害していることを批判する議論だ。

日本では、学問の自由に対する制限は「上」からやってくるというイメージが強いかもしれない。つまり、政府や省庁といった国家権力が大学に介入して、研究の内容や人事をコントロールする、というものだ。2020年9月に起こった、日本学術会議に推薦された会員の任命を菅義偉元首相が拒否した事件などを思い起こすと、本邦において学問に対する「上」からの制限を危惧することには充分な理由があるとはいえるだろう。また、中国のような権威主義的国家では国の体制や権力者を批判するような研究が弾圧されていることは、公然の事実である。民主主義国家でもあるアメリカにおいても、ドナルド・トランプ元大統領が気候変動や科学関連の研究予算を大幅に削減してそれに反対する科学者が抗議運動を行なった事例をはじめとして、学問の自由が「上」から制限されることが問題視される場合はある。

しかし、昨今のアカデミアで起こっているキャンセル・カルチャーで問題となっているのは、学者たちが他の学者を糾弾するという「横」からの制限、または学部生や院生などの学生たちが学者に対して集団的に抗議するという「下」からの制限によって、学問の自由が危機に晒されることだ。

たとえば、2020年7月、認知心理学者のスティーブン・ピンカーに対して、彼をアメリカ言語学会の「アカデミック・フェロー」および「メディア・エキスパート」の立場から除名することを請願するオープン・レターが、同学会の会員たちによって発表された。このレターには、博士課程の学生や助教授・教授を中心とした600名以上の会員たちの署名が付けられていた。

オープン・レターのなかで主に問題視されていたのは、アメリカの警官による黒人の射殺問題やアメリカの警察制度に関してピンカーがツイッターに投稿してきた意見の内容であった。黒人射殺の問題については、多くの学者が「アメリカの社会には制度的なレイシズムが存在しており、警官による黒人の射殺問題も制度的なレイシズムのあらわれである」という理論を提唱しており、ブラック・ライヴズ・マター運動の活動家たちもこの理論に同意している。ピンカーはこの理論に賛同しておらず、彼の投稿は、黒人射殺の問題の原因が他にある(アメリカの警官は他の国の警官に比べて銃を発砲する機会が多すぎること、黒人のほうが白人よりも警察に通報される機会が多くて警察が犯罪現場で遭遇する可能性が高いことなど)という意見をピンカーが持っていることを示唆していた。これに対して、オープン・レターは、ピンカーの投稿は「制度的なレイシズム」の存在を否定して「人種差別の暴力に苦しむ人々が挙げてきた声をかき消す」ものであると批判したのである。

上記の事例においては、ピンカーの専門となる研究の内容が直接的に批判されたわけではなく、専門外の分野も含めた事象に関して彼の抱いている意見が批判されたことに留意しておこう。また、オープン・レターで訴えられているのはあくまで学会内での特別な地位からピンカーを除名することであり、ピンカーの研究そのものを制限したり学問の世界から彼を追放したりすることを目的としているわけではない。これらのことから、「オープン・レターはピンカーの学問の自由を制限しようとするものではなかった」と擁護する声もある。

しかし、ある学者が社会や政治に関わる問題について特定の意見を発表したことを理由にして、その学者に認められた何らかの地位を奪うというペナルティを課そうとする行為は、かなり危険なものだ。ピンカーが「人種差別の問題を矮小化している」と非難されて地位を奪われようとしたことは、アメリカ言語学会に所属する他の学者たちや、ネットやメディアを通じて騒動を見聞していた別分野の学者たちにも強い印象を与えたはずだ。彼らのなかには、「制度的なレイシズムが存在するという言説には疑いを抱いており、警官による黒人射殺事件の原因は他にあると考えているけど、その意見を表明したら自分もピンカーのように非難されてアカデミックなキャリアに支障が生じるかもしれないから、黙っておこう」と思った人もいるはずである。

この事態は、警官による黒人の射殺問題に対処するうえでも有害となる。この問題の原因は「制度的なレイシズム」であるという理論は、あくまでひとつの仮説や意見に過ぎない。「制度的なレイシズム」という理論の真偽を確かめて、理論の正確さや妥当さがどれくらいであるかを測るためには、この理論と対立する別の意見を表明する自由が保証されなければならない。もし「制度的なレイシズム」が存在しなかったり、その影響力が実際以上に過大視されていたりしたら、黒人の射殺問題の背景に存在する他の原因を発見して対処する必要があるだろう。しかし、「問題の原因は制度的なレイシズムではない」という意見を非難したり弾圧したりすればするほど、見逃されている原因の発見や対処が遅れることになるのだ。

焦点になっているトランスジェンダーをめぐる問題

ピンカーの事例に限らず、特定の意見を発表した学者が、論文などの撤回を要求されたり、講演や討論会などに登壇する機会を奪われたり、学会や大学での地位や研究するためのポストを剥奪されたりするという事態は、欧米では多々起こっている。ある学問分野やアカデミアの内部で少数派である意見に対して、論文などによって反論するのではなく、多数派がオープン・レターや抗議運動などの手段を用いてペナルティを与えることで意見を取り下げさせようとする事態は、すっかりお馴染みのものになってしまっているのだ。

そのなかでも近年になって特に目立っているのが、トランスジェンダーの人々に関連する意見をめぐる問題だ。

イギリスの哲学者であるキャスリーン・ストックは、「法律や制度を設計する際には、生物学的性別よりも性自認のほうが基準とされるべきである」という考え方を批判する議論をおこなうなど、生物学的性別を重要視する主張を続けてきた。そのために、彼女はトランスジェンダーの人々に対して差別的であると問題視されてきた。たとえば、2021年に大英帝国勲章がストックに授与されたが、それに対抗するかたちで、600名以上の哲学者の署名が付けられた「哲学におけるトランスフォビア」を懸念するオープン・レターが発表されたのだ[1]。また、ストックに対する学生や活動家からの抗議活動は激しく、脅迫的なものにまで発展して警察による身辺の警護が必要となり、彼女は勤めていたサセックス大学を辞職することを余儀なくされたのである。

2017年にはカナダの哲学者レベッカ・トゥベルがフェミニスト哲学誌『Hypatia』に「トランスレイシャリズムを擁護する(In Defense of Transracialism)」という論文を発表した。この論文では「ジェンダーが社会的に構築されているなら人種も同様に社会的に構築されていると言えるのであり、“自分の人種を変えたい”という主張は“自分のジェンダーを変えたい”という主張と同様に認められなければならない、ということになるのか?」というトピックに関する議論が展開されていた。これに対してソーシャルメディアを中心として非難が起こり、トゥベルの論文の撤回を『Hypatia』に求めるオープン・レターが発表された。そのレターには多くの学者の署名がなされており、賛同者は830人にも上ったのだ。

『自由論』でスチュアート・ミルが問題視していること

思想の自由や意見の自由を含む「表現の自由」を擁護した議論のなかでも古典的なものが、ジョン・スチュアート・ミルによる『自由論』だ。

表現の自由については「国家や権力による弾圧や検閲から表現を守るためのものであり、市民間の批判によって表現が萎縮することまでを防ぐためのものではない」といった主張がなされることも多い。そのような主張では、問題ある表現について多数派が批判を浴びせることでその表現が取り下げられたり、社会の規範や良識に反する表現が市場や学問で流通することが自主的に規制されたりすることは、国家や権力による弾圧とはまったく種類が異なる問題であるとされる。むしろ、意見や表現に対して自由な批判が行われることは民主主義の社会では当然の営みであり、批判の結果として特定の表現が発表されることがなくなるのも民主主義の帰結である、と論じられるのだ。

しかし、『自由論』やその他の著作でミルが問題視しているのは、国家や権力による弾圧や検閲だけではない。彼は「世間」や「多数派」によって「異端」や「少数派」の意見や表現が封殺されることについても、大いに危惧している。そして、ミルの議論のポイントは、少数派の意見が発表される場が守られることは少数派にとってだけでなく多数派や社会全体にとっても利益をもたらすから必要である、ということにある。

トゥベルの論文に対して反駁する論文を提出するのではなく、オープン・レターによって撤回が求められたことは、多数派による少数派の意見の抑圧の典型的な事例だと言えるだろう。オープン・レターが効力を発揮するのは、そこに書かれている内容の説得力や妥当性によってではなく、数百人の署名が付けられることによってだ。また、哲学という学問では他の分野に比べると「異端」とされる意見や世間では人気のない意見が取り上げられることが多い。難しいトピックやセンシティブなテーマについても論理的に突きつめて考えたうえで自由な議論が展開されることにこそ、哲学という分野の価値がある。だからこそ、哲学者たちが数を頼りにするオープン・レターという手段に訴えたことやそのレターが受け入れられてしまったことは、哲学業界やアカデミアの内外にとって衝撃的な事態であったようだ。

たとえば、ジャーナリストのジェシー・シンガルによると、オープン・レターのなかでトゥベルの論文に対してなされている指摘はいずれも的外れであり、レターの執筆者たちが「トゥベルの論文はトランス女性に対して差別的なものに決まっている」と決めてかかったことにより誤読したとしか考えられないものである[2]。そして、オープン・レターに署名した哲学者たちの全員がトゥベルの論文を読んでいたとも考えづらい。批判者たちの誤読に基づいた要約や「差別的な論文が掲載された」というネット上のうわさ話に惑わされて署名した人も相当数いることだろう。シンガルは、トゥベルに対する糾弾は「魔女狩り」のような有様になっていたと指摘する。

社会心理学者のジョナサン・ハイトは、トゥベルの論文に対する哲学者たちの反応は、特定の意見だけを受け入れてそうでない意見を排除する権威主義がアカデミアのなかで横行している事態の典型例だと論じている[3]。彼が危惧しているのは、いちど差別的なものと見なされた意見や保守的なものだと見なされた意見に対して、(論文による反論ではなく)憤慨した集団による糾弾が行われるのが当たり前になっていることだ。また、ハイトが以前から問題視しているのが、アメリカの大学で人文学や(経済学以外の)社会科学や専攻する研究者のなかで保守主義的な意見を持つ人やリバタリアニズム的な意見を持つ人の数が年々減っており、文系の学問がリベラルな意見を持つ人だけに独占されるようになっている、という事態だ。それに伴い、意見が「差別的」と見なされる範囲もどんどん拡大している。

「動機づけられた推論」と「制度的反証」

ある学問をする人たちの間で政治的な意見の多様性が失われると、その学問の内における議論のプロセスが不公平で偏向したものになる、とハイトは主張する。彼はカール・マルクスとミルの主張を対比させながら、大学の目的について以下のように論じる[4]

マルクスは、私が“社会正義大学”と呼ぶ大学にとっての守護聖人だ。社会正義大学は権力構造や特権を転覆させて世界を変革することを目的としている。社会正義大学にとって、政治的な多様性は行動の障害である。ミルは“真実大学”の守護聖人である。真実大学は、誤りのある個人たちがお互いのバイアスや不完全な推論を指摘して挑戦し合うプロセスに真実を見出している。このプロセスは全ての人を賢くする。そこにいる人々の知的傾向が均一になったり、そこが政治的な正当さを主張する場所になったりした時に、真実大学は滅んでしまう。

心理学者であるハイトは、個人がひとりで行う思考は「動機づけられた推論」になりがちであることを指摘する。人の思考は「物事はこうなっている」ということを偏見なく客観的に判断するために機能するとは限らない。むしろ、まず「物事がこうであったらいいな」「もし物事がこうであったら自分にとって都合が良い」といった動機が存在したうえで、その動機に基づいて「物事はこうである」と自分に信じさせるための主張を形成したり、その主張にとって有利な証拠を探したりするように機能することのほうが一般的だ。

動機づけられた推論を行う傾向は、一般人だけでなく研究者にも存在する。しかし、通常の学問においては「制度的反証」が保証されている。ある研究者が論文で展開した議論が動機づけられた推論に基づくものであったとしても、その動機を共有していない別の研究者が論文の内容を査読したり別の論文を書いて反証したりすることで、最初に論文を発表した研究者は自分の間違いや偏向に気がつくことができる。このプロセスが繰り返されることで、ひとりで動機づけられた推論を行なっていてはたどり着くことのできないような知識や真理に近づくことを、学問は可能にするのだ。

しかし、ある学問に関わる研究者たちの間の政治的見解が均一になったら、その研究者たちは政治に関して同じような動機を共有してしまうことになる。自分と同じ政治的動機を持っている研究者が論文を書いたときに、間違いや偏向を査読で指摘したり論文で反証したりすることは難しい。「物事がこうであったらいいな」という願望を共有している人たちの間では、その願望を補強してくれるような主張や証拠を否定するという動機ははたらかない。そのため、知識や真実に近づくどころか、謝った理解や虚偽の主張がその学問の研究者たちの間で伝播してしまうおそれもあるのだ。それを防ぐためには、「物事はそうではない」ときっぱり言える、他の人たちとは違う政治的見解を持っている研究者の存在が必要になる。

特定の意見を持つ研究者を排除して同じような意見を持つ研究者ばかりが集まった学問では、制度的反証は機能しない。そして、制度的反証が機能していない状態にある学問から生み出された知見は、その知見が真理であると立証するプロセスに集団的な歪みがあって信頼が担保されていないために、その学問の外側にいる人たちがその知見を真理と認めて受け入れる根拠はなにも存在しなくなってしまう。

言うまでもなく、オープン・レターによって論文を批判することは、制度的反証とは正反対である。学術誌に掲載された論文が後から多数派の要求によって撤回されることは、論文による反証というプロセスを怠るだけでなく、査読というプロセスの意義を踏みにじるものでもあるからだ。また、学界のなかでは少数派である意見を論文に書くと査読や反証ではなくオープン・レターによって批判されるリスクがあるという状況では、その学会の多数派と動機を共有しない研究者は、自分の主張を論文で展開することにも尻込みするようになるだろう。オープン・レターによって論文の撤回を迫られたり個人名を挙げて非難されたりすることは、精神的に多大なプレッシャーがかかるばかりでなく、アカデミックなキャリアや社会的な評判にも影響する可能性が高いからだ。結果として、少数派の意見はますます封殺されて、多数派による「動機づけられた推論」の間違いが訂正される機会はなくなり、制度的反証の機能は崩壊する。そのような状態になった学問は、外側にいる人たちにとって何の価値もないものとなるだろう。

自分たちのものと異なる意見を査読や反証ではなく制裁やペナルティによって退けようとすることは、それだけ危険な行為なのである。

「危害原則」と「意見の自由」

ミルが『自由論』で提出したトピックのなかでも、最も有名であり現在でもよく持ち出されているのが「個人の自由は、他人に危害を与えない範囲内において最大限に認められるべきだ」とする、「危害原則」である。

この原則は人間の行う諸々の活動や表現、信じる宗教や実践する生き方などの幅広い領域に適用できるものだが、本稿では、「意見の自由」という範囲に絞って扱おう。……この自由に危害原則を適用すると、以下のようになる:意見を発表する自由が存在することは、その意見が正しいか間違っているかを問わず意見を発表する本人にとっても他の人たちにとっても有益である。したがって、他人に危害を加えない限りにおいて、意見を発表する自由は最大限に認められるべきだ。

逆に言えば、それが他人に危害を加えるものであれば、意見を発表する自由を制限することは認められる。たとえば、ミルによると「穀物商は貧しい人から略奪している」という意見を公の場で言うことは通常は認められるべきだが、興奮した群衆が穀物商の家の前に集まっているときにその意見を連呼すると、暴動を引き起こして穀物商に危害を与える可能性が高いだろう。後者のような事例では意見の自由を制限することも許容され得る。

哲学者のジョセフ・ヒースは、危害原則には「危害」という概念がきちんと定義されていないという問題があることを指摘する[5]。ミルが挙げている事例ですら、意見を言っている人が穀物商に対して直接に「危害」をもたらしているわけではない。穀物商に対して危害を与えるのは、あくまで、意見によって扇動された群衆だ。そして、意見を言っても群衆が扇動されない可能性も存在する。この事例において意見がもたらす危害は間接的なものであるし、実際に危害が生じるかどうかはあくまで可能性の問題なのだ。

広がる「危害原則」の乱用

ヒースを含む多くの論者が指摘しているのは、現代では「危害」の範囲が拡大解釈されており、それによって危害原則も乱用されていることだ。

基本的に、「その表現によって不快になった」とか「その行動のせいで心が不安になった」ということは、危害原則における「危害」にはあたらない。不快感や不安はだれのどんな表現や行動にも感じ得られるものであり、それだけで自由が制限されるとなると、実質的にどんな表現や行動も禁止することができてしまうからだ。

しかし、最近の左派や進歩派は、「意見や表現によって不安にさせられることは、メンタルヘルスに影響を与えてうつ病や自傷行為などに結び付く」などと論じることで、不快感や不安を「危害」に直結させるロジックを発展させた。さらに、「マイクロアグレッション」や「ステレオタイプ」がマイノリティに危害をもたらしているという主張が普及したことで、過去に比べてはるかに多くの行為や表現を「危害」であると解釈することが可能になったのだ。そして、これらの拡大解釈は、マジョリティのものとされる意見を危害原則によって排除することに利用されている。

シンガルは以下のように書いている。

…ある種の議論を「暴力」と呼ぶことが一部の学界でいくら流行しようとも、少し立ち止まって、[議論のことを]このように捉えるのがいかに見当外れで逆効果であるかを考えることは大切だ。トランスの人々は、アメリカや世界中の大半の部分で、毎日のように現実の物理的な暴力の脅威にさらされている。[だが、]マニアックな哲学論文でアイデンティティとアイデンティティ移行についての詳細をはっきりさせようとすることは、暴力的な行為ではない。この種の「言論は暴力だ」という物言いが定着してしまったのは実に残念なことだ。トランスの権利(または他の周縁化された集団の権利)に反対する人にとっては、暴力に対する正当な抗議までをも「ヒステリーだ」と一蹴することがかなり簡単になってしまうからである。

ヒースによる批判はさらに具体的で辛辣だ。

トゥベルの論文の場合、撤回を要求する論拠が存在しなかった以上、ネットの陳情の目的は明らかに懲罰的なものだった。陳情が要求しているのは明らかに[論文の]検閲であったのに(それ自体はリベラリズムに反している)、撤回を要求する(こちらはリベラリズムに反しない)という体裁をとっていたのである。

陳情書における、論文の撤回を求めるための中心的な議論は、トゥベルの論文が生じさせた「危害」に関する問題や、論文の掲載が「危険」であるという主張によって構成されていた。多くの人は「フェミニスト学術誌に掲載された、アイデンティティと社会的構築に関するまったく抽象的な議論を扱っている論文が、どんな危害を生じさせられるというのだろう?」と訝しがった。一部の署名者はトランスジェンダーの自殺率の高さを指摘して、「トランスジェンダーの人々の[アイデンティティに関する]主張に疑問を投げかけたり議論をけしかけたりする者はトランスジェンダーの人々を自傷行為に追いやっている」と主張することで、陳情書を擁護しようとした。

この主張が間違っていることは明らかだ。自殺率の高い社会的グループに属する人を動揺させることが「危害」と見なされるべきであり、言論を撤回させることを正当化するのに十分な理由となる、という考え方における「危害」の解釈は擁護できるものではない。銃を所有する若い白人のアメリカ人男性の自殺率も非常に高いが、彼らの気持ちを傷つけることを懸念する人はいないだろう。より一般的に言うと、このようなかたちで「危害」が適用される範囲を拡げていくと、実質的には、あらゆる行為について「危害が含まれる」と解釈できるほどに「危害」の範囲が拡がってしまうのだ。そうなると、表現の自由は徹底的に弱められてしまう。署名者たちの主張では、明らかに、一部の人々が不快に感じる特定の意見を禁止するために「危害」という概念が恣意的に改変されているのだ。

ヒースやハイトは多くのトピックについて相反する意見を持っている。しかし、学問や言論の自由という問題については、両者ともがミルの『自由論』に言及している。

1859年に書かれた『自由論』は、現在に至るまで、表現の自由を支持する主張の支柱となっている。昨今における学問の自由や意見の自由(とその自由に迫っている危機)について考えるうえでも、ミルの議論に立ち戻ることは避けられない。

以下では、『自由論』の第二章「思想と討論の自由」を参考にしながら、「思想の自由市場」論と呼称されることも多いミルの主張について、その概要を解説しよう。

「思想の自由市場」論のあらまし

「思想の自由市場」論の考え方を簡単にまとめると、以下のようになる:ある物事についての事実や真理とはなにかを知ったり、なんらかの論点についての妥当な解答とはどういうものであるかを理解したりするためには、どんな意見でも発表できて、異なる意見を持つ者同士が議論できる場所が不可欠だ。

ある人が持つ意見や少数派の意見を多数派が「間違っているはずだ」と決めつけて、議論の俎上に載せもせずに排除することは認められない。わたしたちが真理にたどり着くためには、対立する意見をぶつかり合わせることで、より真理に近い意見はどちらかということを判断する必要がある。したがって、どんな意見を持つ人であっても、議論の場に参加できるようにするべきだ。異端である意見を排除すればするほど、わたしたちは真理から遠ざかってしまうからだ。

多数派の意見と少数派の意見のどちらが正しいか、あるいはどちらにも正しさがあるかどうかということ自体が、そもそも議論を経なければ判明しないことである。そして、実際の事態が以下の三つのうちのいずれであったとしても、少数派の意見を弾圧したり制限したりしてはならない、とミルは論じる。

一・多数派の意見が間違っていて、少数派の意見が正しい場合

二・多数派と少数派のどちらの意見にも、それぞれに正しさがある場合

三・多数派の意見が正しく、少数派の意見が間違っている場合

このうち、ひとつめとふたつめの場合については、少数派が意見を言う自由が守られるべき理由を理解するのは簡単であるだろう。

まず、そもそも、現時点で多数派である意見のほうが誤りであって、少数派の意見のほうが真理だということがあるかもしれない。天動説と地動説との論争をはじめとして、このような事態は歴史上に多々存在してきた。現時点で多数派である意見のほうが誤っているとすれば、少数派の意見を排除し続ける限り、わたしたちは永遠に真理にたどり着くことができなくなってしまう。

また、実際の議論においては、「片方の意見は完全に正解であり、もう片方の意見は完全に間違っている」という状況のほうが珍しい。多数派の意見はおおむね正しいが一部の誤りが含まれており、少数派の意見は基本的には間違っているが一部の真理を含んでいる(あるいはその逆)、という状況も多々あるだろう。このような場合には、意見をぶつかり合わせることで、多数派の意見のどこがどう間違っていて、どのように修正すればいいかが明確になる。逆に言えば、一見すると完全に間違っているような意見であっても、その意見を提示することが許されないような状況では、一見すると正しいように思える意見に含まれている一部の誤りが気付かれないままになってしまうのだ。

では、「多数派の意見が正しく、少数派の意見が間違っている場合」はどうだろうか?現時点の意見が正しいと確信が得られていて、少数派の意見が間違っていると判断することが可能である場合には、少数派の意見をわざわざ取り上げて相手にする必要がないのではないか?

ミルによると、「世間で受け入れられている意見は正しいが、その正しさをはっきりと理解し、深く実感するために、反対意見の誤りと闘うことが不可欠な場合」が存在する(ミル、p.112)。また、彼は以下のようにも書いている。

…どんなに正しい意見でも、十分に、たびたび、そして大胆に議論されることがないならば、人はそれを生きた真理としてではなく、死んだドグマ[教条]として抱いているにすぎない。(ミル、p.87)

現時点で世間に受け入れられている意見が誤りを含まない真理であったとしても、議論が存在しない場では、わたしたちはその真理が「なぜ正しいのか」を示す根拠を知ることができない。ある意見の「正しさ」を知るための最善の手段とは、反論をぶつけて、反論に対して矛盾なく解答されるかどうかを判断することである。議論を経ることなく、「この意見は正しい」と言い張られているだけでは、わたしたちはその意見の正しさを理解することも信頼することもできない。「正しいと言われているのだから正しいのだ」と無批判に受け入れてしまうか、「正しいと言われているが、ほんとうに正しいのか?」という不安を抱いたままになってしまうことになるだろう。

創造論の支持者がなくならない理由

哲学者のジョナサン・ウルフは、「多数派の意見が正しく、少数派の意見が間違っている場合」の具体的な事例として、進化論に関する問題を挙げている。

ウルフによるとダーウィンの理論にはおおむね正しいながらもいくつかの欠点があり、知性的で科学の訓練を受けた人であっても、ダーウィニズムを認めずに生物の起源に関する他の仮説を支持する、ということは有り得てきた。しかし、進化論を支持する生物学者たちは、「知性のある人ならみんなダーウィニズムを認めるだろう」と考えて、進化論に対する反論をまともに取り扱うことをしてこなかった。そのため、宗教的原理主義者がダーウィニズムに対する洗練された反論を提出したときに、生物学者たちはその反論に答えることができなかったのである。結果として、宗教的原理主義者は「ダーウィニズムは反論にも答えられない虚偽の理論だぞ」と喧伝して、自分たちの唱える「創造科学」の支持者を増やすことができてしまった。

創造論の科学的な価値は「ゼロ」であり、実際には進化論に釣り合うものではないことは、ウルフも認めている。だが、反論を相手にしてこなかった進化論は、ミルが言うところの「死んだドグマ」になっていたために、本来得られるべき支持者を失っていたのかもしれない。

……とはいえ、とくに科学や歴史などなんらかの形での「事実」を取り扱う学問において、正しい意見に対する反論を取り上げることについては、危惧を抱く人も多い。

現代の社会ではわたしたちは子供の頃から学校で科学的な思考の方法を教えられており、生物学や化学などについても基本的な知識は学ばせられるとはいえ、すべての人が成人した後にも科学的な思考方法や知識を保持しているとは限らない。わたし自身がいわゆる典型的な「文系」の人間であるからわかるのだが、多くの人にとっては、自然科学(や社会科学)には「ブラックボックス」のようなところがある。

わたしが科学的な知識を「事実」だと原則として受け止めているのは、たとえば生物学や天文学や薬品化学などの理論や研究の積み重ねを科学者のように理解しているからではなく、「科学的な学問である以上は厳密な議論や査読などのプロセスが存在しているはずであり、そこから生み出された知識は信頼に値するだろう」という、ある種の権威主義に基づいている。

とくに現代ではミルが生きた時代に比べても科学という制度が発展しており、幅広い分野の科学に関して骨子となる理論や最新の研究成果をすべての市民が理解するということは、そもそも不可能である。したがって、「この科学的知識は正しい」という了解が広く社会に行き渡るためには、「権威」に対する信頼という要素はどうしても必要になってくる。

しかし、たとえば、生物学者が創造論者の意見を取り扱って議論がはじまった段階で、生物学に詳しくない人たちからは進化論と創造論が「対等」な理論に見えてしまうかもしれない。生物学者たちは普段からの研究やこれまでの勉強を通じて進化論の科学的な厳密さを理解しており、創造論の間違いを理解できているとしても、第三者は進化論について生物学者のように厳密な理解をしているわけではない。そのため、創造論のように的外れな理論にも「もっともらしさ」を感じてしまう可能性がある。そして、進化論について反論がされているというだけで、その反論の質や妥当さとは関係なく「反論がされているんだから、進化論が真理だというわけではないんだな」と思ってしまうかもしれない。結果として、創造論者の意見を取り扱って反論するだけでも、「進化論は生物の起源に関する正確な理論だ」という世間の了承が揺らいでしまうおそれがあるのだ。

歴史修正主義は無視すべきなのか?

アメリカなどの国に比べると、日本では創造論の影響はそれほど強くない。しかし、主流派である意見と異端である意見が対等に扱われるだけでも問題が起こる分野は、他にもある。たとえば、医学や公衆衛生などにおいては、主流派とは異なる(そして、科学的にも間違っている)意見が流通するだけでも個人や社会にとって危害を及ぼすおそれがある。このような意見になんらかのかたちで制限を加えることは、「危害原則」によって認められるだろう。

具体例を挙げると、Twitterは新型コロナウイルスやそれを予防するためのワクチンに関して誤解を招く情報を発信することについて警告やアカウント凍結などのペナルティを課している[6]。とくに医学に関する情報について、プラットフォームやメディアは異端の意見を取り上げたり流通させたりすることに慎重になるべきだという点については、多くの人が同意するはずだ。

歴史学においても、異端である意見の扱いには慎重になるべきかもしれない。多くの歴史学者は、ホロコーストや南京大虐殺の存在を否定する「歴史修正主義者」の主張をまともに取り扱うべきではないと考えている。歴史修正主義者は歴史学の学位を持たない素人の著作家であることが多く、その主張は通常の歴史学の議論に求められるような厳密さや手続きに欠けていることが大半だ。また、歴史に関して正しく把握することを目的にするのではなく、個人的な利害や政治的なイデオロギーのために結論ありきの主張をしているとしか思えないような事例もある。さらに、すでに否定された議論が何度も繰り返し主張されることもある。そのような議論が歴史学者によって取り上げられて反論の対象にされること自体に、外側にいる人たちに「ホロコーストや南京大虐殺が存在したかどうかはまだ議論の対象になっているんだから、存在しなかった可能性もあるんだな」と思わせてしまう危険性があるだろう。

「歴史修正主義は無視するべきである」と歴史学者が考える理由について、武井彩佳は著書『歴史修正主義』のなかで以下のように解説している。

多くの人は無視するのが一番だと考えた。ホロコースト否定論に注目すること自体が、否定論者の宣伝になるからだ。歴史家ヴィダル=ナケは、ホロコースト否定論者について「月がチーズでできている」と主張するような人と譬えて、彼らと天文物理学者は議論できないと言った。ホロコースト否定論者は学術レベルを満たしておらず、対話自体を拒否すべきだということである。つまり、彼らを同じ土俵に上げてはならないということだ。

しかし、ホロコースト否定論者は月がチーズでできていると確信しているから、主張するのではない。月がチーズでできている「可能性」を繰り返すことで、人々の認識の揺らぎを呼び起こすことを意図している。真(ファクト)と偽(フェイク)のあいだの境界が曖昧になれば、当然視されているあらゆることの土台が緩み、その上にある社会制度が軋み出す。こちらの方がより深刻なのだ。(武井、p.113-114)

上記のような危惧があるために、歴史修正主義者の主張を取り扱う際にも、彼らの主張が主流派の歴史学の主張と「対等」ではないことを強調する必要がある、と言われることは多い。

2000年、ホロコーストを否認したイギリス人作家のジョン・アーヴィングと、彼を批判する本を出版したアメリカ人歴史学者のデボラ・リップシュタットおよび出版社のペンギン・ブックスとの間での裁判が開廷した。2016年には、この裁判を題材にしたイギリス・アメリカ合作の映画が公開された。この映画の原題は『Denial(否定)』であったが、邦題が『否定と肯定』となったことについては、国内で批判が起こった。この邦題は、ホロコーストの事実に関する「否定論」と「肯定論」の主張が対等に並び立つものであるかのような印象を与えてしまうからだ。

ホロコーストの否定を法律で禁じるべきか?

前節で示した、歴史修正主義に対する歴史学者の危惧はもっともなものだ。

しかし、歴史修正主義者や反ワクチン論者などの主張を無視することや、主流派の意見と対等のものとして扱わないこと、彼らが意見を発表する自由を制限することにも、危険は存在する。

オーストリアではホロコーストの否定が法律によって禁止されており、これに違反したアーヴィングは2005年に逮捕されて2006年から3年間の服役を受けることになった。倫理学者のピーター・シンガーは、当時に発表した記事のなかで『自由論』を引用しながらオーストリアの法律や裁判所の判決を批判している[7]。シンガーが指摘するのは、アーヴィングを投獄することは、彼以外の否定派が抱いている「ホロコーストはなかった」という(誤った)信念を弱めるどころか強化してしまうことだ。アーヴィングの意見に少しでも賛同している人は「ホロコーストの事実の肯定派は、証拠や議論によってアーヴィングの主張に反論することができなかったから、逮捕や投獄という手段で彼の口を塞いだのだ」と考える可能性が高いだろう。

第二次世界大戦直後のオーストリアが民主主義を確立する過程においてはナチスの理念やプロパガンダを支持する言論を制限する措置も妥当であったが、現代のオーストリアでは既に民主主義が普及しておりナチズムが復活する危険は現実的なものでないから、言論の自由という理念を優先することのほうが重要である、とシンガーは論じる。ホロコーストの否認を禁止する法律はオーストリアのほかにもドイツ・イタリア・フランス・ポーランドに存在するが、この法律はどの国でも廃止されるべきだ。その代わりに、ホロコーストが起こったという事実や、その背景にある人種差別的なイデオロギーがなぜ否定されるべきかということについては、国家が責任をもって市民に教示しなければならない……というのが、シンガーの主張だ。

歴史修正主義に限らず、ワクチンに関する議論においても、異端の意見が主流派と対等に扱われなかったりメディアやプラットフォームで制限されたりすることを根拠として、異端の意見を抱いている人たちが「自分たちの意見は正しいものであるからこそ、証拠や議論によって反論することができない主流派は不当な手段によって自分たちの意見を制限しているのだ」と主張することはある。

とくに「事実」に関する問題については、多数派の意見が正しく少数派の意見が間違っている場合に論争が起きることにも起きないことにも、それぞれ特有の問題が存在する。論争を行うこと自体が誤った意見の宣伝になるかもしれないが、議論を制限することは誤った意見をより強固なものとするだろう。結局のところ、ある意見の誤りは、対立する意見を持っている人との議論によってしか示されないものだからだ。……しかし、誤りであると自分でわかっていながら「月がチーズでできている」と繰り返す人には、議論も無意味である。

この問題はかなり難しく、簡単に結論が出るようなものではない。たとえば、反駁された議論を何度も繰り返すような人の主張を主流派の議論に比べて格下げして扱うことや、事実について正しく認識することよりも個人的な利害やイデオロギーを目的として主張していると疑われる主張についてはその「疑わしさ」を周知するという措置は必要であるように思われる。一方で、シンガーが指摘しているように、特定の意見について刑事罰の対象にするなどの苛烈なペナルティを課すことは逆効果となる危険がある。問題となっている事実の種類や深刻さによって、適切な対処方法は異なってくるだろう。「危害原則」などを指針としながら、個別の事例ごとに最良のバランスを探していくしかなさそうだ。

「規範」に関する問題にはより公正な議論が必要となる

わたしが思うに、「思想と討論の自由」や「意見の自由」がとくに重要になるのは、「事実」よりも「規範」に関する問題だ。

世間の人々は、ある物事についてどう扱うべきか、ある問題についてどう対応するべきか、ある人たちと別の人たちの利害が対立しているときにどう解決するべきか、といった「〜べき」(規範)が関わるトピックについて、各々に異なる意見を抱いていることがある。このとき、事実についてのトピックのように、「多数派の意見が正しく、少数派の意見が間違っている」または「小数派の意見が正しく、多数派の意見が間違っている」ときっぱり判断できることはほとんどない。規範に関して人々が抱いている意見の大半には、それがどんなものであっても、なんらかの正しさや「理」が含まれている。そのため、規範に関して二つ以上の意見が対立しているときには、それらの意見のどれをも排除せずに公正な議論を行うことが必要とされるのだ。

アカデミアの世界に目を向けると、規範に関する学問では事実に関する学問のように「主流」と「異端」がはっきり分かれていないことに気づくだろう。

たとえば、倫理学や政治哲学の教科書では、功利主義やカント主義や共同体主義やフェミニズムなどの対立する理論が、いずれも並び立つ対等なものとして扱われている。

倫理学者や政治哲学者は、対立する様々な理論について学んだり検討したりしたのちに、論理や証拠や直観に基づきながら判断して、ひとつ(または複数)の理論について「この理論は他の理論に比べても正しいものだ」と結論づけて、その理論を支持することになる。彼は、自分が支持する理論の正しさを主張して、他の人たちも自分と同じ理論を支持すべきだと説得するだろう。……とはいえ、他の理論を支持している学者たちが自分と同じような過程を経たうえで「この理論は他の理論に比べても正しいものだ」と結論づけていることも、倫理学者や政治哲学者は織り込み済みだ。

基本的に、規範が関わる学問で行われる議論ではどちらかの主張が「正解」や「真理」であると客観的に判定されることは期待できない。さらに、「不正解」や「誤り」が確定するとも限らない。明らかに筋が通っていない理論や他の人たちから賛同される見込みがほとんどない理論、客観性や中立性のない恣意的な理論や自己中心的な理論は論駁されて退けられるだろう。だが、一定の妥当性や説得力があっていちど支持を得た理論は、その後も残り続ける(たとえば功利主義は20世紀の後半に勢力を失ったが、その支持者は残りつづけたし、21世紀になってからは勢いを取り戻している)。

規範に関する学問で行われる議論の意義は、道徳や政治といった物事についてとり得る考え方や、具体的な問題について抱き得る意見が明晰になることだ。考え方や意見を明確なかたちで主張して、他の立場からの批判や反論がなされることで、その考え方や意見の問題点や特徴が浮き彫りにされていく。あまりに筋が通っていない考え方や理に適っていない意見は反論に耐えられず、説得力がないことが周知されて支持者を失っていくだろう。一定以上の強度を持った考え方や意見についても、批判を受けて修正されたり、再反論のために考え方や意見の強みをよりはっきりとさせることが必要になったりする。この過程を通じて、議論に参加している人々は、自分自身と相手が抱いている考え方や意見についての理解を深めていくことができる。

そして、規範に関する議論で哲学者たちが提唱する理論や主張の大半は、世間において人々抱いている考え方や意見から乖離したものではない。哲学者の議論で行われているのは、世間の人々には見当もつかないような正解や真理をどこかから引っ張り出して教示することではない。哲学者たちが行っているのは、世間の人々が抱いている見解の矛盾を整えて論理的なものにしたり、その見解の背景にある前提や推論の構造を明示したり、その見解を他の物事に適用するとどんな判断になるのかを提示したりすることなのだ。

わたしたちは様々な考え方や意見を心の内に抱いていたり他人に言ったりSNSに書いたりするが、それらの意見は自分でもうまくまとめられていなかったり、論理がきちんとつながっていなかったり、本題とはあまり関係のない余計な主張が混ざっていたりすることが多い。しかし、書物や講義を通じて哲学者たちの議論に触れることによって、雑味を取り除いてクリアにまとめられた「説明」を得られて、自分の考え方や意見(とそれに対立する他人の考え方や意見)についてより明晰に理解できるようになるのだ。

なお、議論がうまく進行するためには、異なる立場の人たちが議論の場に参加することが必要になる。わたしたちが論敵の意見を自分の頭のなかで想像するときには、それを「論破」しやすいように相手の意見を非論理的なものや間違ったものとして想像する誘惑から逃れることは困難であるからだ。たとえば功利主義者しかいない場所でカント主義に対して反論しようとしても、功利主義者たちが「カント主義者たちの考え方はこのような議論に基づいており、カント主義者ならこの問題についてはこのような意見を主張するだろう」と想定するものは、カント主義者たちが実際に行なっている議論や主張からは必ずズレたものとなるだろう。一方で、議論の場にカント主義者が参加していれば、彼の主張を最善のかたちで聞くことができる。

人の意見は、それをほんとうに信じている人から直接聞くことができなければならない。本人なら自分の意見を熱心に語るし、なるべくこちらにわかってもらえるよう精一杯努力するはずだ。

つまり、人の意見はもっとも納得できる形で、そしてもっとも説得力のある形で受けとめなければならない。その問題を正しく眺めようとするときに遭遇し、対応せざるをえない難事が、どれぐらい手強いものなのか、きちんと実感しなければならない。それを避けていたら、自分がいだいている心理のうちにある、その難事に対応してそれを除去してくれる部分を、けっしてほんとうには把握できないであろう。(ミル、p.91 – 92)

シンガーの「障害者差別」問題

上述したことは、倫理学や政治哲学の理論に関してだけでなく、規範が関わる具体的な問題についても当てはまる。

たとえば、シンガーが『実践の倫理』などの著書で行なった主張は様々な批判の対象となってきた。そのなかでもとくに問題となったのが、「両親の同意があるなどの条件が満たされるとき、重度の障害を持つ新生児を安楽死させることは許容されるべきだ」という主張だ。

新生児の安楽死に関するシンガーの議論を詳しく紹介することは本稿の目的ではないが、彼の主張のポイントを簡単に紹介すると、以下のようになる。

まず、新生児は意識や自己認識に関する能力が未発達であり、「自分とはこういう人間だ」「自分はこれからこう生きたい」という信念や選好を持っていない。このような存在が自分自身の「生」について利益を持っているとは言いがたいから、新生児を殺害することは、成長した子供や成人を殺害することのようには不当ではない。むしろ、意識や自己認識に関する能力という点では、新生児は成人や子供よりも胎児のほうにはるかに近い。したがって、新生児を殺害することの不当さは、妊娠中絶によって胎児を殺害することの不当さとほぼ同等である。だから、特定の条件で胎児の殺害が許容されるなら、同じ条件で新生児の殺害も許容されるべきだ。

また、一部の親は、重度の障害を持った子供を産んで育てることに不安やプレッシャーを感じて、その子供の代わりに健常な子供を新たに妊娠して育てることを望む。そして、重度の障害を持つ子供よりも健常な子供のほうが、本人がその人生で幸福を感じられる見込みは高いだろう。これらの理由から、出生前診断によって胎児に重度の障害があると判明したとき、妊娠中絶によってその胎児を殺害することは許容されると考えられる。それならば、重度の障害がある胎児と同じように、重度の障害を持つ新生児を安楽死させることも認められるべきである。(シンガーの主張を要約)

言うまでもないだろうが、この主張は「障害者差別」であるとして、アカデミアの内外から批判されてきた

倫理学や社会学や障害学などのアカデミックな領域においては、シンガーの議論に反論する論文や書籍は多数発表されている。また、その主張が原因で、シンガーが公的なイベントで自身の意見を発表することはたびたび中止に追い込まれている。たとえば、1991年にドイツの哲学シンポジウムで行われる予定だった講演は学者や市民グループによるボイコットのために中止されて、2015年にも同じくドイツの哲学イベントに招待されていたのが取り消されてしまった[8]。また、2020年にも、ニュージーランドで行われる予定だった講演が現地の市民やメディアによる批判のために中止されたのだ[9](なお、このように抗議運動によって講演を取り止めさせて、問題があるとされている意見を持つ人が公の場で発言することを妨げる活動は、「ノー・プラットフォーム」と呼称されている)。

しかし、仮にシンガーの主張が障害者差別であるとしても、その議論は現時点の社会で一定以上に受け入れられている意見を洗練させたものであることには留意すべきだ。結局のところ、出生前診断によって障害があると判明した胎児を中絶させること(選択的中絶)は、現在の社会でも許容されているのだ。シンガーの主張は選択的中絶の背景にある論理を一歩進めて、胎児だけでなく新生児もこの行為の対象にされるべきである、と論じるものである。

もちろん、現在の社会で認められている選択的中絶についても「障害者差別」や「生命の選別」であると批判されているし、選択的中絶を禁止するために法律や社会のルールを変えるべきだという声もある。しかし、差別であるかないかに関わらず、医療関係者や市井の人々の一部は「出生前診断に基づく障害児の選択的中絶は許容される」という意見を抱いている。この時点で、選択的中絶の問題は議論の対象にならざるを得ない。選択的中絶を否定する側にも肯定する側のどちらにもそれぞれの「理」や「正しさ」があるだろうから、両者の主張について論点や前提や議論の筋道を明示したうえで、それぞれの主張の良し悪しについて考える必要がある。

そして、シンガーが著書や論文で行っている主張は、選択的中絶を肯定する側にとっては自分たちの主張を明確に認識するために役立つし、選択的中絶を否定する側にとっては相手の主張を明確に認識するために役立つであろう。つまり、シンガー(や他の生命倫理学者たち)が「重度の障害を持つ新生児の殺害は許容されるべきだ」という主張を展開する自由が保証されていることは、わたしたちのだれにとっても有益であるのだ。

自分が言いたいことしか知らない人は、ほとんど無知にひとしい。彼の言い分は正しいかもしれないし、誰も論駁できなかったかもしれない。けれども、彼もまた反対側の言い分を論駁できず、あるいは相手の言い分の中身も知らないなら、彼がどちらの言い分を選ぶにせよ、その根拠はゼロである。(ミル、p.91-92)

また、シンガーの主張は「国家や社会の利益のために障害者は殺害するべきだ」というナチズム的な思想に結び付けられることも多い。2016年に起こった相模原障害者施設殺傷事件に関しても、犯人の植松聖とシンガーの思想は類似していると主張する議論は国内や海外で散見された[10]

しかし、シンガーが主張しているのは「障害を持って生まれてくる当人」「生まれてくる障害者の両親」「障害を持った人を中絶・安楽死した場合に代わりに生まれてくるであろう存在」それぞれの幸福や利害を考慮したうえで障害を持つ胎児や新生児の殺害が許容される(場合がある)ということであり、「国家や社会の利益のため」に殺害することを認めるものではない。

この違いがシンガーの議論では明示されていることも、選択的中絶の肯定派と否定派の双方にとって有益だ。肯定派は、選択的中絶を認めながらもナチズム的な思想に反対するという考え方が存在し得るのを知ることができる。もし彼がシンガーの主張を知る機会がなければ、自分自身で誤った前提や推論に基づく主張を展開して、「選択的中絶を認めるなら、国家や社会の利益のために障害者を殺害することも認めるべきだ」という信念を抱くようになってしまっていたかもしれない。

否定派は、ナチズム的な思想に基づかずに選択的中絶を擁護する考え方が存在し得るのを知ることで、自分たちが批判している意見の実体についてより深い理解を得られる。もし否定派がシンガーの議論に触れずに「ナチズム的な思想を論駁すれば選択的中絶を許容する議論も否定できる」と考えていたなら、ナチズム的な思想とは異なる理路によって選択的中絶を許容している人々の意見に反論することができず、有効な主張を展開できなくなるだろう。そうすると、「選択的中絶は禁止されるべきだ」という彼らの意見の説得力も失われて、その意見が社会的に認められる可能性は低くなってしまう。

意見の弾圧は「地下に潜らせる」結果をもたらす

ミルは、「真理は常に迫害に打ち勝つから、迫害は真理が通過すべき試練である」という意見に対して、以下のように反論している。

真理は迫害されて傷つけられるようなものではないから、真理への迫害は不当なことではない、と主張する理論である。われわれは、この理論が新しい真理の受け入れに積極的に敵対するものだと批判することはできない。しかし、人類に新しい真理をもたらした人への迫害を許容する点は賛成できない。(ミル、71)

シンガーが意見を発表したことについて、講演を中止に追い込むなどの手段でペナルティを課すことは無益だ。彼が論文や著作で意見が発表される自由は守られているとしても、講演によってそれをさらに広く知らしめる権利は失われてしまう。それ以上に、アカデミックな手続きを経た反論ではなく非正式的な抗議によって意見や人格が非難されることは、その意見を発表し続けるモチベーションを彼から失わせるかもしれない。さらに、シンガーがキャンセルの対象になっているのを目にした彼よりも立場の弱い学者や若い学者は、「障害者差別」と批判される部分のある意見を持っていたとしても、その意見を論文などのかたちで発表するのを尻込みするようになるはずだ。

とくに規範に関する意見を弾圧することは、その意見を抹消すると言うよりも、意見を「地下に潜らせる」という結果をもたらす。もしシンガーや他の生命倫理学者たちが障害を持つ新生児の安楽死や出生前診断に基づく選択的中絶を擁護する議論を発表しないようになったとしても、それらの主張と類似していたり共通していたりする意見は世間に残り続けるだろう。アーヴィングが逮捕されたのを見たホロコースト否認論者と同じように、彼らは自分たちの意見をますます強めるかもしれない。「選択的中絶を批判する人たちと議論しようとしても、人格非難をされたり不当な方法で黙らせられたりしてしまうのだ」と考えた人たちは、表向きに意見を発表することを控えるようになるかもしれない。だが、自分たちの意見に基づいた行動は粛々と実践し続けるだろう。

これは、選択的中絶に限らず、人々の意見が割れていて議論の対象となっているどんな問題にも起こり得ることだ。

たとえば、トランスジェンダー女性の利害とシスジェンダー女性の利害をどう調整するか、両者の権利が対立しそうな場合にはどう調停すればいいか、という問題に関する議論が現代の社会で必要になっていることは明らかだ。言うまでもなくトランスジェンダー女性はマイノリティであり、自身のアイデンティティが社会的・制度的に承認されていないことで、さまざまな不利益を被っている。その一方で、シスジェンダー女性のなかには、トイレや更衣室や刑務所などの女性専用スペースに身体的には男性である人が入れるようになることで自分たちに危険が及ぶことや、トランスジェンダー女性が女子スポーツに参加することで身体的には女性である人が活躍する機会が奪われることを懸念する人がいる。

トランスジェンダー女性やその支持者は、シスジェンダー女性の抱いている懸念が誇張されたものであることを指摘したり、その懸念は差別的な偏見に基づいたものであると論じたりすることもある。……しかし、仮に差別的な偏見に基づいたものであるとしても、実際にかなり多くのシスジェンダー女性がその懸念を抱いているという事実は無視することができない。

シスジェンダー男性であるわたしの目から見ても、この問題は選択的中絶の問題と同じように未解決だ。どちらの側の意見にも「理」や正しさが存在しているようであり、どちらの意見が正しいかを判断したり利害を調停する落としどころを見つけたりするためには議論が必要になる。

だからこそ、トゥベルやストックの論文や主張をオープン・レターによって非難して、彼女たちの意見にペナルティを与えることは無益なのである。懸念を抱いているシスジェンダー女性たちは、「自分たちの意見は哲学者にすら反論できないものであるから、非正式的な手段で黙らせられたのだ」と思うようになるだろう。彼女たちはもはやアカデミックな議論に期待を抱けなくなり、自分たちだけで練り上げた議論を喧伝するようになる。だが、その議論はアカデミックなものとは異なり反論や批判を受ける過程を経ていない独善的なものだ。また、事実に関する問題で彼女たちが参照する情報も、一方の側によった信頼性の薄いものとなるだろう。そうなると、トランスジェンダー女性に対して彼女たちが抱いている懸念は消えるどころか増してしまい、危うく過激なものに変化する可能性のほうが高い。

論争の片方の側に「自分たちの意見は相手側の意見と比べて対等に扱われておらず、不利で不公平な状況で議論を強いられている」と思わせてしまうのは、もう片方の側にとっても有害なことなのだ。

議論につきまとう「報酬」の問題

ここまでは、主に大学やアカデミアにおける「思想と討論の自由」について扱ってきた。

ミルが『自由論』で扱っている対象はアカデミアに限らず、市井の議論やメディアにおける議論についても想定されているだろう。……とはいえ、昨今の状況を見ると、全てのメディアにおいて「思想と討論の自由」が無制限に擁護されるべきだと言いづらいこともたしかだ。

たとえば、TwitterをはじめとしたSNSで行われる「議論」が有害なものとなりやすいことは、いまや誰の目にも明らかである。プラットフォームの構造のために、Twitterでの議論や極端なものになりやすく、特定の個人の人格を非難する攻撃も引き起こしやすい。妥協点を探ったり相手の主張を理解したりしようとする穏当で前向きな態度よりも、勢いのいい言葉で相手の主張を切り捨てたり妥協することなく自分たちの側の要望を押し通したりする態度のほうが、リツイートや「いいね」やフォロワー数の増加などの「報酬」を得られやすいからだ。

結果として、Twitterでの議論の大半は、議論の相手ではなく「自分たち」のほうを見ながら行われることになる。また、公益のことを考えながら長期的に利害の妥協や調整を測ることよりも、相手を「論破」することで短期的に「自分たち」が気持ち良くなることのほうを優先してしまう。これらの現象には「集団的分極化」や「フィルター・バブル」などの名前も与えられてきた。「ハッシュタグ・アクティビズムが世の中を変える」などと騒がれることもあるが、いまや、見識ある人にとって「Twitterやその他のSNSでの議論が公益に資する」という主張はとても信じられないものになっているだろう。

とはいえ、主張には「報酬」が伴うために、客観的な事実に基づいた議論を行うことや自分の意見を真摯に表現することよりも、より多くの「報酬」を得るために本人も本気で思っていない主張を展開する……という問題は、インターネット以前から存在していた。原稿料や印税を得たり読者数を増やしたりするために過激な意見を発表したり虚偽を伝えたりするという問題は、著作家やジャーナリストという職業には宿命的につきまとっている。

たとえば、著作家であると同時にブロガーであるわたしにとっても、「報酬」のことは常に頭の片隅にある。ブログを書くときにはSNSでシェアされてPVが付いたほうがそうでないよりもうれしいが、そうなると、「極端な主張や人々の感情を煽る文章を書いたほうが話題になるぞ」という誘惑が生じるのだ。いちおう自分としてはその誘惑を振り切っているつもりであるが、それができるのは、わたしのブログにはアフィリエイトがほとんど貼られてなくて金銭的な「報酬」が発生しないからだ。広告収入を得ることや知名度を上げることを目的としてブログを書いている人は、より多くシェアされてPVが付くことを目的にして書かざるを得ないだろう。このとき、自分の書いている内容が事実や堅実な論理に基づいているかどうかは後回しにされてしまう危険がある。

SNSやブログほどではないにせよ、同様の問題は論壇誌やその他の雑誌にも付きまとう。大半の論壇誌には左翼的であったり右翼的であったりなどの「色」が付いている。多くの読者は、自分の価値観や政治的傾向と一致する雑誌を購入するものだ。そのため、ある雑誌で登用される著作家たちの政治的傾向には偏りが生じるし、著作家たちのほうも雑誌の「色」を意識しながら自分の原稿の内容を調整したりすることになる。……すべての論壇誌が公平で中立的なものになると雑誌間の違いがなくなり多くの雑誌が潰れしまうだろうから、マーケティングのために雑誌に「色」が付くのは仕方がないことではある。また、論客や論壇誌がそれぞれの旗色をあえて鮮明にすることで議論が活発化する、という側面もあるだろう。しかし、事実や客観性を重視することや、自分の意見を隠すことなく公開するという「真摯さ」は失われざるを得ない。

ミルの主張する「思想と討論の自由」が成立するためには、議論の当事者の双方に「真摯さ」が存在することが前提となる。そして、わたしが考えるに、大学や学会などのアカデミアとは議論における「真摯さ」を担保するための制度であるのだ。

論文を書いて発表することとブログや雑誌に記事を書くこととの大きな違いが、論文で書かれている意見や結論の内容は「報酬」と直結しないことである。アカデミアが適切に機能しているなら、論文は結論によって評価されるのではなく、結論を出すまでの手続きの厳密さ、議論の構成、正確性や新規性などの基準によって評価されることになる。ある論文が高い評価を受けたとしても、その論文の結論が査読する人や掲載誌の読者にとって都合が良かったり快適だったりするからではなく、結論に至るまでの立証や議論の構成が優れているということが理由であるのだ。逆にいえば、基準を満たしさえしていれば、研究者は「読者にどう思われるか」ということを気にせずに主張を展開することができる。

このことは、社会のなかで未解決となっている問題や深刻な利害の対立が発生している問題ほど、SNSや論壇ではなくアカデミアで議論したほうがいい理由にもなる。シンガーの著作やトゥベルの論文のように、学問的な基準を満たす議論であっても結果として特定の人々にとって不愉快であったり「差別的だ」と思われたりするような主張になることはあるだろう。しかし、最初から誰かを傷つけることを意図している論文や差別的なメッセージを喧伝することを目的としているような論文は、そもそもアカデミックな基準を満たさず、却下されてどこにも掲載されない可能性が高い。論文を書く人はまず自分自身が抱いている意見について冷静に検討したうえで、それでも「書くべきだ」と判断した意見を、客観的で公正な基準を満たしながら筋道立てて書くことになる。結果として、その意見がどんなものであれ、アカデミックなかたちで書かれた意見はSNSや論壇に掲載されるものと比べて留保や条件の多い穏当なものになる。だからこそ、アカデミックな場での議論とはSNSや論壇に比べてはるかに安全なものとなるのだ。

したがって、シンガーやトゥベルの議論を「マイノリティに対して攻撃的なメッセージが掲載されているから」という理由でペナルティを与えて、アカデミックな場から制限したり排除したりすることは本末転倒だ。先述したように、意見そのものを封殺することはできない。自分たちの意見がアカデミックな場で制限されたり排除されたりするほど、同じ意見を持っている人たちは論壇やSNSという場で主張を喧伝するようになるだろう。そこで行われる議論は、はるかに危険(で非生産的)なものとなる。

アカデミアとは「言論の闘技場」のようなもの

ここまでのわたしの議論が正しければ、思想と討論の自由は、なによりもアカデミックな場で守らなければならない。規範に関する議論においては、アカデミアとは一定の基準に従いながら意見を交わし合い論争を行なう、「言論の闘技場」のようなものである。しかし、これまでに見てきたように、議論の手続きではなく主張の内容や結論を理由にして、議論による反論ではなくオープン・レターや抗議運動などの方法で特定の意見を抑圧しようとする傾向は、アカデミックな場においてこそ強くなっている。

本来、アカデミックな議論に参加する人には、自分のものと異なる意見や自分にとって不愉快な意見にも向きあうことについての準備や覚悟が要請されるはずだ。だが、本稿の前半でヒースが指摘していたように、「危害」の解釈を拡大することで異なる意見を抑圧するという方法が定着してしまった。

また、大学院に進学して学者を目指す人のなかには、アカデミアを「闘技場」ではなく「避難所」のように捉えている人が増えているようだ。世間で傷つきやすい立場にいる人や差別を受けやすい立場にいる人のことを守って、彼らの意見や利害を積極的に代弁して、彼らが安心感を持って過ごしやすい場にすること。あるいは、自由市場や資本主義のもとでは肯定されづらいオルタナティブな価値観を擁護して、多様性を担保する場であること。そういうことが大学の目的であると定めて、その目的に反する議論や意見には抗議や制限を行なう必要がある、と考えている人が増えているのである。

「道徳的・政治的な目的のためには、アカデミックな場でも議論を制限することが必要になる」という発想は、見かけ以上に浸透している。ハイトが「社会正義大学」の守護聖人としてマルクスを挙げており、ウルフも「自由」というトピックに関してミルとマルクスを対比させていることは示唆的だ。政治科学者のエイプリル・ケリーウォスナーが指摘するのは、「新左翼の父」と呼ばれているヘルベルト・マルクーゼが唱えた「寛容」に関する議論が、現代の学者や若者の多くに受け入れられているということだ[11]。マルクーゼは、権力や立場の差を考えずに全ての言論の自由を等しく認めることは、実際には強者を利して弱者にとって不利益をもたらす「抑圧的寛容」であると論じた。彼によると、右派の言論を認めず左派の言論に対してのみ寛容になる「開放的寛容」こそが真の寛容なのである。

マルクーゼの名前が出るとは限らないが、同様の議論をする人は現代にも多々いる。彼や彼女は、マジョリティとマイノリティとの間には権力勾配が存在するから、マイノリティの意見を優遇することでようやく対等な議論が成立する、と論じる。したがって、シンガーやトゥベルのような「抑圧的」な意見を排除することも、対等な議論のために必要とされる、と主張するのだ。

「開放的寛容」の問題点は、「右派の言論は制限されるべきだ」ということが議論する前から前提されていること、そしてこの前提によって議論自体が制限されるために、そもそもの前提が正しいかどうかを確かめる手段がなくなることだ。このような事態は、まさにミルが『自由論』で批判しているものである。

もちろん、封ずる側は相手の意見の正しさを否定する。しかし、自分たちはけっして間違わないといえるはずもない。人類全体に代わって問題を判定したり、ほかのすべてのひとびとから判断の手立てを奪ったりする権限もない。

その意見は正しくないと確信しているからといって、意見の公表を禁ずるのは、自分たちにとって確実なことは絶対的に確実なことなのだというに等しい。議論を封ずることは自分たちは絶対に間違わないというに等しい。(ミル、p.47)

傷つきやすい立場や差別を受けやすい立場の人が安心感を抱ける場所が必要だとは、わたしも思う。しかし、アカデミアが率先してそのような場になろうとすると、それだけで、アカデミアは「闘技場」という本来の役割を果たせなくなってしまう可能性が高いのだ。

「傷つき」や「抑圧」に配慮しすぎることの危険性

最後に、「危害原則」の問題に戻ろう。

ヒースが論じているように、「言論によって不安にさせられること」が危害であると主張して、表現を制限する根拠にしようとすることは、最近の欧米の若者の間で顕著となっている。しかし、同様の発想は1990年代から存在していたようだ。

ジャーナリストであり同性愛者の権利を守るための社会運動も行なっているジョナサン・ローチの著書、『表現の自由を脅すもの』の原著が出版されたのは1993年だ。本書のなかでローチが問題視しているのは、当時のアメリカにおいて「あなたは他人を言葉でもって傷つけてはならない」という原則が浸透していったことである。

彼によると、正しい知識にたどり着くための研究や討論においては、どこかで誰かが傷つく事態は必ず発生する。その「傷つき」の対象とは人種的マイノリティや性的マイノリティには限らない。たとえば、一見すると人の生活やアイデンティティと関係のなさそうな地球科学や生物学の研究ですら、地球平面説や創造論を信じるキリスト教原理主義者を傷つけてしまう可能性がある。また、1991年にサルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』の翻訳者が刺殺された事件をはじめとして、イスラム教原理主義者たちは物理的な暴力をもって実際に表現の自由を脅かしてきた。

キリスト教やイスラム教の原理主義者が傷つくからといって、思想と討論の自由が制限されることがあってはならない。同じように、マイノリティが傷つくからといって、思想と討論の自由が制限されることがあってはならない。ローチの主張は、他人が傷つくことに配慮するのに慣れ切った現代のわたしたちの目からすると、かなりタフで強烈なものだ。

私は、人道主義者や平等主義者が、道徳的に高い立場にあるという主張は偽りであるということ、そして、人を傷つけることを許容、ときには推奨しさえもするという誓約をもつ知的自由主義が、唯一の本当に人間らしい体制であるということを示したいと思う。私は、「言葉で傷つけられた」人々には、補償という形で何かを要求するという道徳的権利はいっさいないということを示したいと思う。自分が傷つけられたというので何かを要求する人に対する正しい答えとは何か。それは、「お気の毒、だけどあなたは生きていくでしょう」というに尽きる。「人種差別主義者」「同性愛恐怖者」「女性差別主義者」「神を冒瀆する者」「共産主義者」、あるいは、どんな化け物であろうと、これらのものを処罰せよと主張する人たちはどうかといえば、彼らは知的探求の敵であり、彼らの騒がしい要求は全く無視されて然るべきであり、いっさい付き合ってはならない。(ローチ、p.44)

その一方で、彼の議論には30年後の現代を予言していたかのような鋭さもある。

それが無神経なように聞こえるとしても、 気持ちを傷つけられない権利というものが確立されると、より礼儀正しい文化に至るどころか、誰が誰にとって不愉快だとか、誰がより多く傷つけられていると主張することができるかといったことをめぐって声高な泥仕合が一杯起きるだろう。(ローチ、p.205)

ローチは、言葉による攻撃と物理的暴力が同等のものと見なされるようになると、「つらくてきつい批判」も暴力として扱われるようになるだろう、と指摘する。そうすると「科学」(学問)そのものが暴力として見なされるようになり、「人を傷つける思想や言論を取り除く権限を持った当局者」が立てられて、意見が権力によって取り締まられるようになるだろう(ローチ、 p.207)。これは、現在のアメリカの大学で起こっている状況を、多かれ少なかれ言い当てている。

わたしが『表現の自由を脅すもの』を最初に読んだときには、『自由論』に比べても過激であるし、現代には受け入れられない議論であると感じた。しかし、現代の欧米や日本のアカデミアで起こっている様々な事態を見聞しながらこの二冊の本を読み返しているうちに、「傷つき」や「抑圧」に配慮することの危険性を以前よりも強く認識するようになったのだ。

おそらく、SNSや論壇を含めた市井の議論では、わたしたちは他人を傷つけることに関して十分に警戒するべきだ。市井の議論でわたしたちが発する主張は粗雑であったり過剰であったりするし、「報酬」に対する意識などの不純な動機も含まれている。そのようなとき、わたしたちは論敵と見なした相手や自分とは異なる立場にいる人たちのことを、不必要に傷つけてしまう可能性が高い。……したがって、市井の議論においては、「危害原則」が出番となる場面も多いだろう。反ワクチンや誤った医療情報を喧伝する主張に対する制限をはじめとして、特定の場面においてはある種の意見を発信する自由は制限するべきかもしれない。

しかし、アカデミックな議論を危害原則に基づいて制限することは、ほとんどの場合は認められないだろう。ある種の議論においては、学問的な基準を満たしており、だれかを傷つけることを目的としたものではないとしても、結果としてだれかを傷つけてしまうことは避けられない。そして、たとえ傷つくのがマジョリティや原理主義者ではなくマイノリティであるとしても、ローチの言うように、それは「思想と討論の自由」を守るために必要とされるコストなのだ。……この自由を捨ててしまったら、アカデミアの存在意義はなくなり、民主主義の理念は形骸化して、わたしたちの社会は現在よりもさらに悲惨な場所になってしまうだろう。


参考文献:
『自由論』ジョン・スチュアート・ミル(著)、斉藤 悦則(訳)、光文社古典新訳文庫、2012年。
『歴史修正主義 ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで 』武井彩佳、中公新書、2021年。
『政治哲学入門』ジョナサン・ウルフ(著)、坂本 知宏(訳)、晃洋書房、2000年。
『表現の自由を脅すもの』ジョナサン・ローチ(著)、飯間良明(訳)、角川選書、1996年。

 

[1] https://sites.google.com/view/trans-phil-letter/
[2] https://nymag.com/intelligencer/2017/05/transracialism-article-controversy.html?mid=twitter-share-di
[3] https://heterodoxacademy.org/blog/on-rebecca-tuvel-consequences-of-orthodoxies-in-academia/
[4] https://heterodoxacademy.org/blog/one-telos-truth-or-social-justice-2/
[5] https://theline.substack.com/p/joseph-heath-woke-tactics-are-as?s=r
[6] https://help.twitter.com/ja/rules-and-policies/medical-misinformation-policy
[7] https://www.project-syndicate.org/commentary/free-speech--muhammad--and-the-holocaust-2006-03
[8] https://theconversation.com/cologne-peter-singer-and-disinvitations-43412
[9] https://www.theguardian.com/world/2020/feb/19/peter-singer-event-cancelled-in-new-zealand-after-outcry-over-disability-stance
[10] https://www.sbs.com.au/news/the-feed/article/is-peter-singer-dog-whistling-perpetrators-of-disability-hate-crime/kha1sizmr
[11] https://quillette.com/2016/03/01/how-marcuse-made-todays-students-less-tolerant-than-their-parents/

1989年生まれ。批評家。立命館大学文学部英米文学専攻卒業(学士)、同志社大学グローバル・スタディーズ研究科卒業(修士)。
個人ブログでは「デビット・ライス(Davit Rice)」名義で、倫理学・動物の権利運動・ポリティカルコレクトネス・ジェンダー論などに関する文章や書評・映画評論などを発表している。初の著書『21世紀の道徳』が好評3刷。
ブログ:「道徳的動物日記」「the★映画日記

 

II-4 「トーン・ポリシング」の罠

いまわたしたちが直面している社会的諸問題の裏には、「心理学や進化生物学から見た、動物としての人間」と「哲学や社会や経済の担い手としての人間」のあいだにある「乖離」の存在がある。そこに横たわるギャップを埋めるにはどうしたらよいのか? ポリティカル・コレクトネス、優生思想、道徳、人種、ジェンダーなどにかかわる様々な難問に対する回答を、アカデミアや論壇で埋もれがちで、ときに不愉快で不都合でもある書物を紹介しながら探る論考、そのシーズン2の開始です。  

実に民主主義的な状況

SNSの発達がわたしたちの生活を変えたことのひとつに、だれかに「要求」をされたりしたりする機会が増えた、というのがある。

フォロワーやクラスタによっても異なるかもしれないが、たとえばわたしが朝起きてネットを開いて見てみると、必ずと言っていいほど、どこかのだれかがなにかを訴えている。それは性差別的な制度に対する問題提起や実際にあったハラスメントの告発であったりもすれば、企業による環境破壊や労働問題に対する抗議であったりする。与党や野党が打ち出した政策に対する批判のときもあれば、有名人や匿名アカウントが行った発言に対する非難であったりもする。いずれにせよ、社会の状況やだれかの行動などを変えるために、多くの人が要求をしている。……これ自体は、実に民主主義的な状況と言えるだろう。

とはいえ、数十年前に比べてだれかになにかを言ったり言われたりする頻度が増えたのに伴って、以前にはあまり注目されていなかったような様々な問題が表面化することになった。そのなかでも大きいのが「言い方」の問題だ。人々が発する要求は、必ずしも礼儀正しかったり丁寧であったりするわけではない。激しい言葉が使われていたり、相手に対する罵倒が含まれていたりすることもある。押し付けがましく要求されることもあれば、アンフェアで一方的に思えるような要求がされていることもある。

それに対して、要求をされる側の人は「そんな言い方で要求されても聞き入れないよ」といなすこともあれば、「そんな強い言葉で罵倒されたり非難されたりするいわれはない」と抗議することもある。端で様子を眺めている人たちも、「そんな言い方をするべきでない」「むしろ、そんな言い方をされる側の人に対して同情したくなってしまうよ」と、要求をしている人たちの方を批判することがある。

要求する側・される側の不均衡

この現象については、「トーン・ポリシング」という名前も与えられるようになってきた。ただし、トーン・ポリシングという言葉自体、中立的なものではない。それは、だれかからの要求を「そんな言い方は悪いよ」として批判したり却下したりしようとする、要求をされる側の人(および、その人の味方をする第三者の人たち)を非難するための言葉として使われているのだ。たとえば、社会学者の森山至貴による「トーン・ポリシング」の定義は下記の通りだ。

主に差別(…)に反対する意見に対して、「言い方が悪い」という批判によってその力を弱めようとすることをトーン・ポリシング(言い方の取り締まり)と言います。それ自体は差別ではないように見えるのですが、差別を維持したり、より強めたりする効果があります。[1]

また、森山は以下のようにも書いている。

理不尽な行為や態度への怒りを表明するときに、言葉づかいなんて考えていられません。だっていま、怒っているんですから。でも、そんなときにこう言われたこと、ありませんか。

「そんな言い方じゃ聞き入れてもらえないよ。」

こう言われると、ぐっとつまってしまいますよね。では、なぜこのとき私たちは「ぐっとつまる」のでしょうか?

たしかに、怒りを共有してもらえないことにがっかりしたから、という理由はありそうです。でも、理由はそれだけではないはずです。「言い方が悪い」という批判が当たっている気がするか、ということはないでしょうか。きつい言い方をするのはよくないことだと思う気持ちは、たしかに私たちの中にあります。ならば、やはり言い方には気をつけたほうがよいのでしょうか?[2]

気をつけなくていい、というのが森山の主張である。

森山によると、「言い方が悪い」という批判が通じてしまうのは、「聞き入れる側(要求される側)」と「お願いする側(要求する側)」との間に立場の強さの不均衡があるからだ。前者の要求は立場の強さによって押し通せるのに対して、後者が要求を通すためには、前者に受け入れてもらうことが必要になる。さらに、求められる「礼儀正しさ」のレベルも、前者が恣意的に決めることができる。立場の弱い人がそれなりに礼儀正しく要求したとしても、その要求が立場の強い人にとって都合の悪いものである場合には、「そんな言い方じゃダメだ、もっと丁寧に要求しろ」と言いつづけることで、延々と要求を無視しつづけることができてしまうのだ。

森山によると、要求する側の人が「言い方が悪い」という批判を受け入れることは、自分を「お願い」する立場に固定してしまうことにつながる。そもそも立場に強弱があることによって起こっている問題を改善するように要求しているのに、要求のトーンを弱めさせられて「お願い」というかたちにさせられることで、再び弱い立場に追い込まれるというわけだ。過去のマイノリティ運動ではそれを避けるために汚い言葉や手荒な方法などの「乱暴さ」が必要とされてきた。そして、自分の主張が「正しさの問題」に関わることを確認して、「お願い」をさせられる側から逃げることが大切だ、と森山は論じる。

マイノリティの感覚が正しい前提

森山の主張にはそれなりのもっともらしさがある。

彼以外にも、とくにジェンダーやアイデンティティの関わる社会運動をしている人たちや社会学者がトーン・ポリシングについて論じるときには、立場の強弱、つまり「権力」というポイントが強調されることが多い。だれかが要求することに対する「言い方が悪い」という批判が認められてしまうと、ただでさえ有利なマジョリティの立場を揺らがせることができず、マイノリティはずっと不利な立場に居させられつづけることになる、という点はたしかに危惧すべきだろう。言い方や礼儀正しさに客観的な基準なんてないから、要求をされる側の人はゴールポストを遠ざけつづけることができる、という批判も的を射ているかもしれない。

とはいえ、立場や権力を強調する発想は、それ自体が民主主義とはおそろしく相性が悪い。

立場の強弱に注目する人の議論は「マイノリティからの要求は、彼らが弱い立場であるがゆえに、自動的に正しい」と言わんばかりに聞こえることがある。要求の仕方の乱暴さや「怒り」が肯定されるのについても、立場に強弱のある構造そのものが不正義であるということや、そんな構造のなかでマイノリティがマジョリティの態度や行為を「理不尽」と感じたならそのマイノリティの感覚のほうが正しい、ということが前提されている。権力を持つ立場と持たない立場とでは前者のほうが圧倒的に有利であり、だからこそ、問題のある構造を覆すためには後者が「言い方」や「礼儀正しさ」といったルールにしたがう必要はない。……要求を言ったり言われたりするという民主主義的な営みについて、立場や権力を強調する観点から論じてみたら、このような主張になるだろう。そして、たしかに、この主張は現実の社会の状況の一部を適切に捉えてはいるかもしれない。

民主主義が機能しなくなる恐れ

とはいえ、政治的な手続きや民主的な議論の正統性という点からみると、上述したような主張はかなり危ういものだ。

通常の考え方では、だれかになにかを要求するときには「冷静」におこなうべきだ、というルールはマイノリティだけでなくマジョリティにも適用される。だれであっても、社会に対して、あるいは特定の相手や組織に対して要求があるときには、まずは自分の要求が正当なものだと言えるかどうかを自身で検討するべきだ。また、自分が要求を発したら必ず認められる、ということを期待してはいけない。要求の対象となる相手や組織にも、社会のなかにいる自分以外の個人たちにも、それぞれの利害や考え方や言い分があるからだ。

自分の要求が他の人の要求と対立する可能性があるのを認識しておくこと。いざ対立した場合には、どちらの要求のほうが認められるべきかを議論したり、要求の内容について相手と擦り合わせたりするという手続きに備えておくこと。民主主義のもとで政治的な要求を行う際には、このような態度が前提とされる。そのためには、他の人たちの要求を自分のものと対等に扱って考えることも求められる。「自分の言い分はこうだ」と主張するのと同時に「他の人たちはこういった言い分を持っているのだな」と理解して、公平な立場からそれぞれの言い分を判断したらどうなるだろうか、ということも考えなければならない。……現実にどこまで実現できているかはさておき、それくらいの「冷静さ」をみんなが持つことが、民主主義の理念なのである。

森山が指摘するように、マジョリティが立場の強さを利用して自分の要求を押し付けることもあるだろう。そのような行為が常態化すると民主主義の意味がなくなる。だからこそ、それが不適切であり認めてはならない行為だということが、ルールとして広く共有されている。それと同じように、怒りにまかせた主張を是としないことや、最低限の礼儀を守ることも、民主主義のルールだ。「自分は理不尽な行為や態度を取られたのだから、弱い立場に押し込められるのを防ぐために、言い方など気にせずに、乱暴に要求するべきだ」と思って実行する人が少数派であるうちはいいかもしれない。しかし、ルールを破る人が多数になると、民主主義は機能しなくなってしまうだろう。

ルールをすり抜ける「裏技」のようなもの

ジェンダーやアイデンティティに関する社会学などの学問では、それぞれに独自の理論を用いながら、「マジョリティ」と「マイノリティ」や立場の強弱といったものが定義されている。それらの理論に賛同している人たちにとっては、マイノリティの言い方を云々することがトーン・ポリシングであり、立場が弱い人の怒りが認められるべきだということは、半ば自明になっている。しかし、彼や彼女の考え方はあくまでそれぞれの理論に基づいたものであり、その理論が現実をどこまで反映しているかはわからない。ある理論ではマイノリティと見なされる人たちが、別の理論ではマジョリティと見なされるかもしれない。また、立場や権力といった物事がどれほどの影響を持っているかということについての判断も、人のそれぞれの考え方によって異なるだろう。

そして、リベラルな民主主義においては、それらの理論に基づく要求のいずれもが対等な「言い分」として扱われる。つまり、仮にあなたが「自分はマイノリティなのだから、自分は他の人たちとは異なる方法で要求を通すことが認められるべきだ」と考えていたとしても、まずはその考えを、他の人たちと同じ方法で他の人たちに認めさせなければならない。

「立場の弱い人たちの要求は特別に扱われるべきだ」という発想は、民主主義におけるルールをすり抜ける「裏技」のようなものである。裏技の問題は、想定していたのとは異なる人たちにまでも用いられてしまうことだ。たとえば、大半の理論ではアメリカにおける白人男性の立場は強いものとされるだろうが、彼らは彼らなりに弱者であると認める理論もあるかもしれない(白人男性であっても貧しい労働者なら、他の人種の裕福な男女よりかはマイノリティである、という発想はあり得なくもない)。そして理論の有無に関わらず、実際問題として彼らのなかには「自分たちは虐げられている」と考えている人がいるだろうし、「他の人たちに理不尽な態度や行動を取られている」と思っている人もいるはずだ。彼らは、自分たちの怒りは正当なものだと考えるだろう。

「理不尽に対する怒りは作法を守らず乱暴に表現していい」という発想は、2016年の選挙でドナルド・トランプが支持を集めて当選したことや、そのトランプが失脚した直後の2021年1月にアメリカ議会占拠事件を引き起こす一因となったかもしれない。ひとたび「裏技」が認められると、民主主義はかなり危ういものとなってしまう。

哲学で「怒り」はどう論じられてきたか

引用した森山の文章をはじめとして、トーン・ポリシングに関する議論は、「怒り」を中心とする感情に関する議論と結び付いていることが多い。

たとえば、「お前の意見は感情的だ」という批判は、トーン・ポリシングの典型だとされる。そして、フェミニズムをはじめとする昨今の社会運動では、怒りに基づいた主張や要求をおこなうことがむしろ美化されたり理想化されたりする風潮もあるのだ。

以下では、すこしまわり道となるが、西洋の哲学や倫理学において「怒り」という感情がどう論じられてきたかについて、2021年に翻訳が出版された『怒りの哲学 正しい怒りは存在するか』という論集のなかに収められているマーサ・ヌスバウムの小論「被害者の怒りとその代償」を軸としながら考えてみよう。

感情をどう取り扱うかという問題については、西洋哲学の歴史のなかでも様々な考えが存在する。「そもそも感情は理性によって制御できるものではない」「理性は感情を後付けで肯定することしかできない」といった主張がなされることもあるが、多くの場合には、「理性によって感情をどのように制御したり、方向付けたりするべきか」ということが論じられてきた。

たとえば、中庸の「徳」を重視するアリストテレスによれば、自分が軽んじられているときに怒りを表明しない人は「愚か者」である。ただし、怒るにしても、「しかるべき事柄について、しかるべき相手に対して、しかるべき仕方で、しかるべき時に、しかるべき時間のあいだ」怒らなければならない[3]。アリストテレスの議論を参照すると、感情を表出しないことではなく、個別の状況や事態に応じた適切な仕方や程度で感情を表出させることこそが理性的な営みである、ということになるだろう。

一方で、ストア派の哲学では理性による感情の統治が重視されており、原則として感情に基づく判断は是とされない。古代ローマのストア哲学者であるセネカには『怒りについて』という著作があるが、そこで論じられているのは怒りの感情を避けるべきだということだ。また、現代のストア哲学者であるウィリアム・アーヴァインによると、怒りの感情はそれを表出したとしても心の内に抑えたとしても、どのみち本人にマイナスの影響をもたらすものだ(イライラしたときに周りの人やモノにあたることは周囲にも本人にも危害を及ぼすし、抑えた怒りは心の底でふつふつと湧きつづけてストレスの種となってしまう)。だから、大切なのは、怒りという感情がそもそも湧かないように自分の心の持ち方を変えることである。

アーヴァインが推奨するのは、悪いことが起こっても原因を他人に見出そうとするのを止めることや、嫌な事件が起こったとしても「自分を傷付ける事件が起こった」と見なすのではなく別のフレームやストーリーで事件を解釈することなどだ。彼の著書『ストイック・チャレンジ』では、感情を抑制するストア派な生き方を実践するための具体的なテクニックが書かれている。

アリストテレスが怒りを肯定するにしても、それは「しかるべき」タイミングと方法によってのみである、ということは重要だ。彼が論じるような「徳」を持っている人は少数であり、だからこそ見習うべきだとされる。わたしたち凡人は、なにかあったときには徳のある人のことを心に浮かべて、「彼や彼女だったらこの事態に対してどう対処するだろう」と考えて、それを自分の行動や判断の基準とするべきなのだ。

……とはいえ、感情というものの性質をふまえると、なにかの事態が起こったときにその場で「しかるべき」タイミングと方法を定めるのは実に難しい。「いまおれはこいつに軽んじられたぞ」と思っている人がその時に判断する「しかるべき」とは、十中八九、怒りを抑えることではなく表出することのほうに振れてしまっているだろう。徳を実践するにしても、感情には近視的であったり自己中心的な要素があったりすることを理解したうえで、どのような物事に対してどのような反応をするのが適切であるかを普段から考えて、実際になんらかのトラブルが起きたときへの心構えを常にしておく必要があるように思われる。

そうすると、アリストテレスとストア派が言っていることに違いはあまりないかもしれない。どちらも、生活のなかにおいて自分の感情を戦略的にコントロールすることの重要さを説く主張だと見なせるからだ。

前向きな怒りと後ろ向きな怒り

現代の哲学者であるヌスバウムは、アリストテレス研究者である一方で、「新ストア派」の哲学者とも呼ばれている。そんな彼女は、怒りについて以下のように語っている。

では、怒りについて考えてみよう。フェミニストの場合、怒りは激しい抗議であり、隷属的な停滞状態とは正反対のものだと考えられている。そのため、「怒り」は強く、確かに欠くべからざるもののように思える。しかし、私たちはまず、区別することから始めなければならない。怒りを分析すると、その構成要素には、西洋に限らず思想界の長い哲学的伝統に見られるように、怒っている当人や、彼らにとって大切な人々に影響したと考えられる、不当な行為に対する痛みが含まれている。ここに、すでに誤りが起こる余地がある。その行為が偶発的なものではなく、不当なものなのかどうかについて、またその行為がどの程度重要なことなのかについて、彼の判断は間違っているかもしれない。しかし、仮にその二点をパスしたなら、(これまでのところ)「怒り」は不正行為に対する適切な対応ということになる。それは「これは間違っている」「二度と繰り返してはならない」という要求を表明するものだからだ。過去に触れながらも前を向き、未来んに向けて世界を修正することを提案している。

このような怒りを私は「変革のための怒り」と呼んでいる。すでに怒ったことを記録に残しながら、将来的な対応措置を求めているからだ。このような怒りは、加害者を罰する提案を伴うことがあるが、その処罰は将来を見据えた方策ということになる。具体的には、改革として、重要な規範の表現として、同じ害をもたらす者に対する「特定の抑止力」として、そして同じような害をもたらす者に対する「一般的な抑止力」として、ということだ。[4]

ここでヌスバウムが念頭に置いているのが、哲学者のリサ・テスマンによる「重荷となる徳」の問題に関する議論だ。

テスマンによると、世の中に抑圧的な社会制度による不正行為があるとき、それと闘う人たちは、不正に対する激しく報復的な怒りや、一緒に闘う仲間への盲目的な忠誠心や連帯感などを持たなければならない。それらの感情がなければ、不正行為に対する闘いへのモチベーションを保って、不正をなくすための集団的な活動を継続することができないからだ。しかし、報復的な怒りや盲目的な忠誠心は政治的闘争にとっては役立つ「徳」であるとしても、その闘争を行なっている個々人が正しく生きるうえで必要な「徳」というわけではない、とテスマンは指摘する。むしろ、それは個人の人格をゆがめて、その人の人生の豊かさを減らすものであるだろう(たとえば、デモを行なっているときだけでなく家族や友人と過ごしているときにも世の中の不正義について考えて怒ってイライラしつづけている人の人生は、充実したものだとは言いづらい)。

テスマンは、個人の人生に悪影響をもたらすとしても、政治的闘争のためには怒りなどの「重荷となる徳」が不可欠である、という悲観的な見方をしている。それに対してヌスバウムが提示するのは、怒りの感情を後ろ向きなものと前向きなものとに区別したうえで、後者のみを肯定する考え方だ。

不正と闘うために変革を求める怒りは重要である。それは怒りに満ちた抗議だ。そして抗議活動は、間違っていることへ人々の注意を引き、対処する活力を与えるために必要はものである。この種類の怒りは人格に「重荷」を負わせるものではない。前を向いて問題の解決策を考えれば、明るい気分にもなる。また、この種の怒りはあとを引いたり、捻じ曲げられたりする恐れもない。[5]

前向きで未来志向方の怒りは「変革のため」になる一方で、後ろ向きな怒りとは「加害者に見合った痛みを与えたいという仕返し願望」を含んだ応報型のものである、とヌスバウムは指摘する[6]。自分を不当に扱った相手に対する報復の感情は、その怒りを抱く本人にとってよい影響をもたらさないだけでなく、公平性や公共の福祉といったポジティブな理念にもつながらないので、「変革のための怒り」のように社会の改善をもたらすこともない。せいぜいのところ、それは刑事裁判の被告に対する厳罰化の要求や、死刑制度を支持する声しか生み出さないだろう。

逆境においても適切に振る舞える強さ

アーヴァインもヌスバウムも、社会運動をする人の理想としてマーティン・ルーサー・キングを挙げている。

アーヴァインが指摘するのは、社会運動を成功に導く人とは逆境においても適切に振る舞える自信や内面の強さを持っており、社会の不正義に直面しても「犠牲者」の役を演じようとはせず、不正義に対して前向きで果敢に立ち向かうということだ。逆に言えば、日頃から甘やかされていて逆境に対処した経験もないような人は、精神的に成熟せずに弱いままであるから、不正義に直面したときにも打ちひしがれてしまうだけだろう。

ストア派の哲学では、「他人や社会の状況など、自分の外側で起こる物事は自分にはコントロールできない」ということを当然の事実として受け入れたうえで、それらの物事に対する自分の向き合い方を変えることで、他人や社会に振りまわされることなく充実した人生を過ごすことが目指される。この考え方は、単に個人の人生をよくするというライフハックや自己啓発の文脈だけでなく、社会運動にも適用することができるかもしれない。すでに起こってしまった不正義や存在している差別によって自分がダメージを受けて、過度な無力感を抱いて精神的に屈してしまうのを避けることは、未来において正義を実現したり差別を撤廃したりする運動をおこなうためにも必要であるからだ。

また、ヌスバウムは、彼女と同様にキング牧師も怒りを適切なものと不適切なものに区別したことを強調する。自身が率いた公民権運動において、「暴力的に反撃し、損害を与えようとする混乱と怒りが動機となった欲求」は「ラディカルなものでも建設的なものでもない」から活用できない、とキング牧師は否定したのだ[7]。その代わりに彼が求めたのは、アメリカという社会のなかで説明責任や法的処罰などの制度が正しく機能して、黒人と白人とが共通して持っている理念が実現することだった。

キング牧師が非暴力を貫いたことは規範的に正しかっただけでなく実際的にも公民権運動の成功に寄与していた、という評価はヌスバウムに限らず他にも多くの人が下している、一般的な見解であるだろう。

ヌスバウムの危惧

ヌスバウムが危惧するのは、フェミニストの議論では建設的な怒りとそうでない怒りとの区別がなおざりにされがちなことである。フェミニズム運動においては、「変革のための怒り」だけでなく、仕返し願望を含んだ応報型の怒りも認められてしまいがちなのだ。なぜそうなるのかという理由や、具体的な事例などは、ヌスバウムははっきりとは記していない。とはいえ、日本の議論を眺めていても、現代の女性たちが行う政治的な要求のなかには後ろ向きな怒りのトーンを伴っているものが多々あること、市井の女性たちだけでなくアカデミックなフェミニストたちもその怒りを肯定していることは見て取れる。

また、「被害者の怒りとその代償」の前半部分では、ジョン・スチュアート・ミルの『女性の解放』や後世のフェミニストたちによって展開された、「服従」に関する議論が参照されている。それらの議論によると、性差別的な制度や構造は女性に経済的・政治的な不利益を与えるだけでなく、男性に対して女性を精神的・感情的に服従させるものでもある。ここから、フェミニストが「怒り」を肯定する理路のひとつも理解できるかもしれない。それは、以下のようなものである。……家父長制の社会が女性たちを支配して、彼女たちの意識を男性たちにとって都合の良いものに歪めていたとしたら、女性たちは不利益を受けたり差別に直面したりしてもそれに対して怒りを抱くことすらできなかったかもしれない。性差別の構造は、感情を支配するほどに根深い。だからこそ、建設的なものであるかないかに限らず、怒りを女性たちがはっきりと自覚して表出できるようにすることがまずは重要なのだ。

そして、後述するように、差別的な構造のなかで「女性の主張は感情的だ」という偏見がまかり通ってきたという経緯が、逆説的に、女性たちを理性よりも感情のほうを肯定する主張に導くことになったのだ。

理性によってコントロールされた「怒り」

ヌスバウムが論じるところの「変革を求める怒り」とは、あくまでも理性によってコントロールされて建設的な方に誘導された感情であり、「怒り」という言葉で一般にイメージされるものからはかなりズレていることには留意するべきだ。

わたしにとっても、彼女の議論は「怒りは建設的なものになり得る」ということを読者に説得するためのものというよりかは、「社会運動のなかで怒りを表明するとしたら、このようなものにするべきだ」という「建前」を主張しているという感じが強い。実際のところ、ヌスバウム(やキング牧師)の主張は、「怒りという感情をあるよりないほうがいいものだ」と考えるストア派の発想に半ば近づいているように思える。

そして、現代の哲学者のなかには、ヌスバウムやストア派の主張は理想や理性を重んじるがあまりに「怒り」の本質を捉え損なっていると論じる人もいる。たとえば、アグネス・カラードは以下のように評しているのだ。

…怒りを抑制しようという現実的な試みは、怒りを浄化するという現実にはありえない絵空事とは区別されなければならない。「義憤」や「変革のための怒り」という言葉を使って、永続性や復讐心をもたずに悪事に対して正当に抗議する感情を仮定することはできるが、その言葉が指すものは哲学者のフィクションだ。怒りの種類や特色、原因や名前が増えていくことで、怒りの中心にある危機から私たちの注意はそれていく。その危機とは、不正に対する感情的な反応には血の味がつきものだということだ。

 不正に直面すると、私たちはしばしば怒りを覚える。このような怒りは「純粋」なものではなく、ある程度の道徳的な堕落に身をゆだねることを意味している。かといって「黙認」すれば、多くの場合それ以上に悪いことになる。しかし、私が強調したいのは、怒りという道徳的な堕落が最良の選択肢であったとしても、堕落であることに変わりはないということである。[8]

カラードの主張は、怒りが「血の味」や「道徳的な堕落」を伴うものであることを承知しながら、それを否定したり「建設的」なものに昇華したりするのではなく、悪い側面も含めて怒りをそのまま引き受けるべき、といったものだ。

とはいえ、怒りが中心に「危機」を持つものであるとすれば、やはり怒りはどんなかたちでも肯定すべきでない、という(古典的な)ストア派の発想に立ち戻る道も見えてくるだろう。

たとえば心理学者のポール・ブルームは怒りについて進化論のアプローチから考慮したうえで、怒りが肯定される社会で起こる問題点を指摘したのちに、「感情だけが道徳を実践する手段ではない」と指摘してストア派や功利主義に基づく道徳を擁護する[9]

一方で、心理学にも造詣が深い哲学者のジェシー・プリンツは、怒りが間違った方向に進む場合(矛先を間違える、対象を広げ過ぎる、自己破壊につながる、など)を七つも挙げたのちに、それでも怒りには善い側面があり、わたしたちはコントロールによって怒りの悪い側面を抑制しながら善い側面を活用することもできるという、ヌスバウムに近い主張を展開する。

結局のところ、怒りをそのままにして肯定する議論は分が悪いのだろう。わたしとしては、アーヴァインやブルームが論じているようなストア派の議論が最も有益なものであるように思える。怒りを肯定するにしても、ヌスバウムが論じるような「建前」は、理想的でナイーブなものに思えるとしても、やはり必要になってくるはずだ。

要求される側からの強者の論理?

ここまでに紹介してきたような「怒り」に関する哲学的な論争は、トーン・ポリシングに関する議論にも示唆を与えるはずだ。

一般論として、わたしたちは自分の感じる怒りについては警戒すべきである。その怒りは不正に対する適切な反応かもしれないが、そうであってもなくても、「わたしを傷付けたあいつのことを傷付け返してやりたい」という復讐への暗い欲求を含んでいるかもしれない。

怒りに振りまわされないように心がけて、政治的な要求をする際にもその要求の根拠を怒りには全く基づかせないというのも、ひとつの見識だ。

もし怒りに基づいて要求をするとしても、まずはその怒りをできるだけ建設的なものにしなくてはいけないだろう。単に「あいつを傷付けたい」というだけでは他人からも認められるような正当性を持つ要求にはならないだろうから、公正や平等や正義などの普遍的な理念に結び付くようなかたちに、怒りを研磨しなければならない。要求を表現する方法や形式についても、怒りにまかせた暴力や乱暴さはないほうがいい……そうしないとだれもが野放図に怒りを表明して民主的な議論というものが成立しなくなるだろうから。そうでなくても、実際的な問題として、乱暴な言い方をされた意見は他人から聞き入られづらくなる。

もちろん、怒りを建設的なものにして要求の仕方を洗練されていくうちに、そもそも最初に抱いていた怒りという感情のなかにあった激しさは失われることになるだろう。だが、結局のところ、怒りの激しさに魅力を見出す発想が間違っているのだ。

上記の一般論が正しければ、政治的な要求をしている人に冷静さを求めて、「言い方」がまずければ批判することも、やはり一般論としては間違っていない。とくに、だれかが怒りやその他の負の感情に基づいて要求しているときには、別のだれかがトーン・ポリシングをおこなうのは望ましいことですらある。それは民主主義的な社会や健全な議論の場を維持するためだけでなく、要求をしている本人のためにもなるからだ。

とはいえ…アーヴァインやヌスバウムが社会運動をする人の理想として挙げているのがキング牧師であることには、一抹の不安も残る。なにはともあれアーヴァインもヌスバウムも白人であり、公民権運動や反黒人差別運動においては、要求をする側ではなくされる側にいる。そんな立場の人から「怒りに任せた乱暴な主張は良くないから、冷静で建設的に要求しなければいけないよ」と言われたら、要求する人としてはムッとするかもしれない。

それに、たとえば公民権運動においては、マルコムXなど、キング牧師よりも「過激」な主張をする人がいた。白人が「キング牧師の主張の仕方は冷静で建設的だからよかったが、マルコムXの主張の仕方は過激で乱暴だから悪かった」などと言い出すとしたら、いかにも危うい。いくら取り繕っても「要求をされる側の人が自分の有利な立場を守るために、都合のいい要求と都合の悪い要求とを選別している」と見られることは避けられないだろう。

森山のようにトーン・ポリシングを批判している人たちが懸念しているのは、言い方や要求の仕方を問題視することそれ自体というよりかは、マジョリティがマイノリティの要求の良し悪しを決定することで、マイノリティの要求に過度なハードルが課されたり、マジョリティにとって不利な結果をもたらす要求が認められなくなったりすることだろう。わたしは、トーン・ポリシングのすべてがそのように機能するとは思わないし、マイノリティであっても言い方や要求の仕方が批判されるべき場合もあると考える。……とはいえ、トーン・ポリシング批判派が抱いている懸念についても、理解できるところはあるのだ。

 

ここまでは、要求をする側の「怒り」という感情について論じてきた。以下では、視点を変えて、なんらかの要求をされた側の感情について考えてみることにしよう。

「反種差別」の考え方

拙著『21世紀の道徳:学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える』では、現代の動物保護運動の前提となっている「反種差別」という考え方について紹介した[10]。簡潔にいうと、道徳の基本となる「どんな人の利害にも平等に配慮しなければならない」という発想は人間以外の動物たちにも当てはめるべきである、という考え方だ。

たとえば、わたしたちは針で刺されたら「痛い」と思って嫌がる。病気を予防するための注射などのしかるべき理由がないときに他人の体に針を刺すことは、避けるべき非道徳的な行為だと見なせるだろう。そして、イヌやブタやニワトリなどの動物たちも、わたしたちと同じように、針で刺されたら「痛い」と思う。だから、しかるべき理由がないのに彼らの身体に針を刺すことも非道徳的だ。同様の推論は、他の種類の痛みや、家族から引き離されたり監禁されたりすることによって感じる苦しみについても当てはまる。そして、わたしたちの誰もが「殺されたくない」と(基本的には)思っているから、人を殺すのは非道徳的であるのと同じように、「殺されたくない」と思っている動物を殺すことも非道徳的だ。

「動物に苦痛を与えて殺せば美味しい肉が食べられて、手軽に栄養を摂取できる」ということも、本来、動物を食べることを正当化する理由にはならないだろう。「美味しい肉が食べられる」とか「手軽に栄養を摂取できる」とかいったことが、人間を殺害することを正当化する理由になると考える人はいない。人間と同じように痛みや苦しみを感じる動物を、「人間とは違う生物種だから」という理由で殺害することを肯定するとしたら、それは「種差別」なのだ。

欧米では、倫理学者のみならず他の学問をしている人や市井の人々の一部にも、種差別を批判して動物を保護する考え方が浸透している。

たとえば、動物行動学者のジョナサン・バルコムの著書『魚たちの愛すべき知的生活 ― 何を感じ、何を考え、どう行動するか』では、 魚の意識や感情、コミュニケーション能力や認知能力などに関する様々な知見が紹介されたのちに、魚も痛みや苦しみを感じるのだから人間や他の動物たちと同じように道徳的配慮の対象にすべきであるといった提案がされている。

また、各国の法律では、食べるために動物を殺すことまでは否定されていないが、その飼育や屠殺などの過程においてはできるだけ苦痛を与えないことが望ましいとする「動物福祉」の理念が反映されるようになってきた。これまで、動物福祉の対象はイヌやネコなどのコンパニオン・アニマルやウシやブタなどの家畜、ニワトリなどの家禽に限定されていた。しかし、魚類や甲殻類や軟体動物に関する研究が深まり、彼らも痛みや苦しみを感じている(可能性が高い)ということが判明していくのに伴って、動物福祉の対象も拡がっている。

たとえば、2018年にはスイスの動物保護法が改正されて、生きたままのロブスターを熱湯に放り込む調理法を禁止して事前に気絶させてから絶命させることが義務付けられた[11]。また、2021年のイギリスでも政府の審査委員会はタコやカニなどには苦痛の感覚があることを認めて、動物福祉法の対象にすべきだと提案されたのである[12]

「感情的」というレッテル張り

さて、日本では種差別に関する議論や動物福祉に関する話題があるたびに、「そんなのは感情的だ」という反論がなされることが多い。

たとえば、バルコムの著書については「科学的な知見が書かれている箇所はおもしろいのに最後に動物愛護という感情的な主張がされてガッカリした」とレビューしている文章を見かけたことがある。スイスやイギリスのニュースについても、外国の法律であり日本人の食生活に直接的な影響が生じるというわけでもないのに、「ロブスターやタコまで保護しようとするなんて、欧米人の動物保護は感情的で行き過ぎている」というコメントを積極的におこなう人が多々いたのだ。

しかし、種差別に反対する主張は功利主義やカント主義などの論理的な倫理学理論からも肯定されるものだ。ピーター・シンガーやトム・レーガンといった種差別を批判する倫理学者の議論に対する典型的な反応とは、「論理としては正しいかもしれないが、心情的に納得できない」「そんな頭でっかちな理屈では人の心情や行動は変えられない」といったものであるのだ。

動物福祉の理念については、苦痛を与えないようにしながらも殺害することは肯定するという点で矛盾や曖昧さがあることは否めない。コンパニオン・アニマルや家畜の福祉はこれまでにも認められてきたのに魚類や甲殻類などの福祉は後まわしにされてきたことには、哺乳類に対してなら親近感を抱きやすく苦痛を受けている姿を想像して「かわいそう」とも思いやすいのに対して、魚類や甲殻類には感情移入がしづらいから彼らの苦痛に対しても共感を抱きづらい、という感情的な側面も関係しているだろう。……だが、それならなおさら、バルコムが魚類を道徳的配慮の対象とすべきだと論じたりスイスやイギリスの法律で甲殻類や頭足動物が保護の対象とされたりすることは、「感情的」ではなく「論理的」と表現するべきだ。それらは、「魚類や甲殻類も苦痛を感じている」という科学的知見によって、「魚類や甲殻類には配慮する気が起きない」という感情的な判断の修正を迫るものだからである。

むしろ、ここで検討すべきは、種差別に反対する主張や動物福祉に関する主張について、大半の人は拒否反応をするということだろう。ふつうの人は肉や魚を食べながら生活しており、革や毛皮などを用いた製品を使っていることも多いから、動物に対する道徳的配慮という概念を受け入れると、自分が慣れ親しんだ行動や生活のスタイルが否定されることになる。自分に対して「あなたは肉や魚を食べることを止めるべきだ」と直接に言われるのではなく、自分とは関係のない外国の法律が改正されるというときであっても、法律改正の背景にある種差別批判や動物福祉のロジックは自分が抱いている常識や通念とは相反することに気が付かざるを得ない。

そのようなときの典型的な反応が「否認」だ。つまり、種差別批判や動物福祉のロジックに対して論理的に反論するのではなく、「取るに足らないものだ」と決めつけて、それ以上に考えることを拒むのである。このときに用いられるのが、「感情的」というレッテルであるのだ。

重要なのはフェアネスの精神

種差別の問題に限らず、ほとんどの政治的要求では、要求される側の人の行動や考え方や生き方になんらかの変更をすることが迫られる。

しかし、人間とは保守的な存在だ。わたしたちは、だれかに要求されたり論理で説得されたりしても、自分の価値観や行動を容易に変えようとはしない。そのため、社会問題の存在を指摘されても、まず、自分がその問題に向き合わなくてもいい理由を探したり、問題が存在することを認めようとしなかったりする。

アメリカで動物愛護運動を行なう活動家のニック・クーニーによる著書Change of Heart: What Psychology Can Teach Us About Spreading Social Change (『心を変える:社会変革を拡げるために心理学が教えてくれること』)では、わたしたちの心理に備わる保守的なバイアスがいくつも紹介されている。たとえば、以下のようなものだ。

・行動や価値観の変化を拒む「現状維持バイアス」

・「だれかが社会問題で被害を受けているときには被害者のほうにもなんらかの責任があるはずだ」と考えたがる「公正世界信念のバイアス」

・自分がすこしだけ行動したことを「この問題について自分がすべきことはもうやった」と見積もりたがる「貢献度の過大視バイアス」

社会運動をする人たちは、運動の対象となる人たちが保守的で容易に動かされないことを理解したうえで、バイアスに抵触しない方法やバイアスを逆利用した方法で問題を訴えるべきである。これがクーニーの著書のポイントだ。その実践のための具体的なテクニックも、心理学や行動科学の知見を参考にしながら、多々紹介されている。

たとえば、責任を問われたり罪悪感を負わされたりした人は問題を否認しやすくなるので、まずは大企業といった特定の対象を非難する主張をしたほうが、一般の人たちが耳を傾けてくれやすくなる。また、統計やデータを示すよりも、特定の個人に関する具体的なエピソードを伝えたほうが、同情や共感を招いて運動の目的に賛同してくれやすい。さらに、問題の犠牲者や社会活動家たち自身と一般の人との共通点を強調して、仲間意識や親密さなどのポジティブな感情を形成することで、問題について否認されるのを回避しやすくなるのだ。

クーニーの著書の面白いところは、政治的要求においては要求する側だけでなく要求される側の感情も問題となること、むしろ見方によっては要求される側のほうが「感情的」な存在であるということが炙り出されている点である。『心を変える』で書かれているテクニックを実践するということは、社会運動家が心理学や行動科学などの知見という「理性」を用いることで、一般の人たちの「感情」をハックするということだ。民主主義の理念では「市民たちの間では双方が理性的な議論が通じる」ということが前提となっていることをふまえると、この考え方はかなりシニカルであり、危うさを伴うものであるとも言える。

いずれにせよ、自分たちには保守的で現状維持的なバイアスがあり、問題の存在を指摘されても理性的ではなく感情的な理由から否認してしまいがちなことは、要求をされる側の市民たちも自覚しておいたほうがいいだろう。他人に感情をハックされるのに委ねるのではなく、自分自身の理性によって問題と向き合う「自律」を保とうすることは、ある程度までは可能なはずだ。できるだけ多くの市民が理性的であろうとすることは、社会にとってもよい影響をもたらすはずである。

そして、自分が理性的であろうとするなら、だれかになにかを要求されたときに相手のことを「感情的だ」と決めつけて、相手の言い方を云々することは、まずは避けるべきだ。相手のことを「感情的だ」とする自分の判断のほうが、「自分にとって都合の悪い問題に向き合うことを拒みたい」という感情に影響されたものであるかもしれない。また、実際には冷静な言い方でなされている主張であっても、そこで指摘されている内容が自分にとって耳に痛いものなら、攻撃的なものや敵対的なものに聞こえてしまうだろう。わたしたちの感情は自分に甘く、他人に厳しく作用するからだ。

感情とは外から採点できるものでなく、「ここまでは冷静だけれどここからは感情的」という基準が設けられるものでもないことにも留意するべきだ。だれかの主張について感情的であるかないかを判断することが難しい場合もある。

ただし、上述の議論も、あくまで程度問題である。

ある政治的要求や社会運動が実際に感情的であったり、言い方が悪かったり、暴力的であったりすることも、勿論あるだろう(それを認めなければ、たとえば米国議会を襲撃したトランプ支持者を批判することもできなくなる)。

また、感情的だと決めつけずに相手の主張にちゃんと耳を傾けたうえで、その議論に反論することや、理が通っていないものだと論理的に指摘したうえで否定したりすることは、まったくもって正当なことだ。

重要なのは、相手を自分と対等の存在と認めて、相手に対してだけでなく自分の感情や議論に対しても厳しく疑いの目を向ける、フェアネスの精神である。

結びつけられやすい「女性的」と「感情的」

本稿を締めくくる前に、動物愛護運動とトーン・ポリシングとの問題について、もうすこし付け加えさせてもらおう。

わたしが大学院生のとき、修士論文で扱ったトピックのひとつがアメリカにおける動物愛護運動だった。その歴史を調べていくうちに気が付いたのは、動物愛護運動について考えるうえでは「女性」という要素が切っても切り離せないことだ。

たとえば、歴史書のなかでは、十九世紀のアメリカでは動物愛護運動は「社会改良運動」の一環として禁酒運動や児童保護運動に連なるものとして行われてきたことが示されている[13]。そして、社会改良運動の構成員の大半は女性であった。運動家の女性たちは、当時の性別役割分業的な規範を前提としながら、「女性的な優しさ」や「母性的な価値観」に訴えて、一般の女性たちの心を動かすことで、運動への支持を得てきたのである(たとえば、「動物愛護は子どもの情操を守るためにも欠かせない」「鳥を殺して作られる羽根帽子は、優しい女性にふさわしいものではない」といったロジックによるキャンペーンが行われていた)。

また、20世紀以降の動物の権利運動でも、運動形の多くは女性であった。社会的な性役割の他にも、心理学的な事象として、動物に対して抱く愛着や同情やケアの感情は平均的に女性のほうが男性よりも強い、という点は関わっているだろう。

そして、過去においても現代においても、動物愛護運動に関わる女性は「感情的だ」との批判を受けてきた。たとえば、19世紀における生体解剖反対運動や現代における動物実験反対運動など、医学や科学は動物愛護運動の主要な標的でありつづけてきた。そして、医学者や科学者たちは、運動を行なっている女性たちは「ヒステリー」や「動物愛好症」などの病気を患っており理性的な存在ではなくなっているというレッテルを貼ることで、運動に対抗してきたのである。

現在でも、動物愛護運動は「女性的」というイメージと「感情的」というイメージとが結び付けられて批判されることが多い。エミリー・ガーダーという研究者の著書作Women and Animal Right Movement(『女性と動物の権利運動』)では、現在のアメリカなどで動物の権利運動を行っている多数の女性運動家へのインタビューが掲載されている。その本のなかでも、多くの女性たちが、自分の性別に基づいて「感情的」というレッテルを貼られて自分の主張を否定された経験があると証言しているのだ。

バルコムの著者やスイス・イギリスの法案に対する日本人の反応を見ると、たとえ動物愛護運動をしている人の多数派が女性ではなく男性であったとしても、その運動に「感情的」というレッテルが貼られていた可能性はあるかもしれない。

その一方で、女性はとくに「感情的」というレッテルの対象になりやすいということもたしかだ。男性と女性が同様の主張をしているときに、女性だけが「言い方」を批判されるという事態もあるだろう。また、議論や他の場面において感情を示したときにも、男性であればスルーされるところ、女性であったら「ほら女だからすぐに怒ったり泣いたりするんだ」「やっぱり女は感情的なんだ」と言われてしまうということはある。……実際、学校や職場、あるいはネット上において、そのような状況を目にしてきた経験はわたしにもある。

したがって、とくに女性がトーン・ポリシングを警戒したり不当に感じたりすることは、わたしにも理解できる。

また、女性は「感情的」というレッテルを貼られるリスクがあるために、要求や主張をする際に男性よりも高いハードルを課されてきたこともたしかだ。そのため、政治的な要求や学問的な議論を行おうとする女性たちの多くは、男性たちよりもずっと厳しく感情をコントロールしなければならなかった。近年になってフェミニズムにおいて「怒り」をはじめとする感情に基づいた議論が肯定されるようになってきたことは、その反動でもあるだろう。女性たちがいくら理性に基づく議論をしても、男性たちから「感情的だ」というレッテルを貼られて否定されしまうリスクがあるのだとしたら、そもそも不利なルールを強いられていることになる。だとすれば、「理性」という不利なルールに付き合うことはやめて、自分たちの「感情」というルールで勝負すればいい、という発想だ。

乱用の誘惑に耐えること

しかし、ヌスバウムも論じているように、「怒り」やその他の感情を安易に肯定することはやはり得策ではない。また、女性の主張には男性のそれと比べて「感情的」というレッテルが貼られやすいとしても、そのレッテルが実際に正しい場面もあるだろう。……男性の主張が感情的であったり乱暴であったり不当であったりするときがあるのと同じように、女性の主張が感情的であったり乱暴であったり不当であったりするときもあるはずだから。

わたしが思うに、「トーン・ポリシング」という概念が広まることにはメリットもある一方で、マイノリティに対する「罠」として機能する側面もある。

たとえば、男性であるわたしがだれかの要求や主張を「感情的だ」と思ったり「不当な主張だ」と思ったりしたとき、とくにその相手が女性である場合には、わたしはまず自分の判断を疑ったほうがいいだろう。「女性は感情的だ」という偏見にわたし自身が影響されていないかを自省したり、自分にとって都合の悪い主張であるから不当に感じられていないかを確認したりしたほうがよい。その結果、わたしが最初に感じた拒否反応が正しくないと理解することで、相手の女性の主張に対してより適切に向き合えて、より理性的な議論ができるようになるかもしれない。そういう点では、「自分はトーン・ポリシングをしてないか」と注意する意識が男性やマジョリティの間で広まることは有益だ。……だが、それは、女性やマイノリティの主張がどんなものであったとしても受け入れる、ということではない。

また、自省した結果やはり相手の主張が感情的であったり言い方がおかしかったりすると判断できるなら、それは相手に対して指摘するべきだ。「この人は女性やマイノリティであるから、冷静で丁寧に主張することができなくなっていて、感情的で乱暴な言い方しかできないのだな」と判断して指摘を控えることは、それこそ相手を自分と対等に扱わない差別的な発想というものである。

だが、トーン・ポリシングや、『21世紀の道徳』のなかでも論じたマンスプレイニングという概念は、たやすく乱用されてしまう[14]。マイノリティに対するマジョリティの指摘がトーン・ポリシングであるかどうか、男性が女性に対しておこなう議論がマンスプレイニングであるかどうかに、客観的な基準というものはない。結局のところ、その判断は、指摘されたマイノリティや議論を聞いた女性に委ねられる。そして、マイノリティの人はマジョリティの人と同じように自分にとって耳に痛い指摘は拒みたがるものだし、女性は男性と同じように自分と異なる議論を受け入れたがらないものだ。そのため、適切な指摘や議論であっても、「それはトーン・ポリシング/マンスプレイニングだ」といって拒否されてしまうことがある。

……もしわたしがマイノリティや女性だったら、トーン・ポリシングやマンスプレイニングという概念を自分に都合良く乱用することに誘惑を感じるはずだ(それが人間の感情というものである)。しかし、そのようなことをしてしまうと、わたしは他の人たちから腫れ物に触るように扱われて、対等な議論ができる理性的な存在とみなされなくなるだろう。

ジェンダーがどうであったり、立場の強弱がどうであったとしても、大半の人には理性的になって要求したり議論したりすることが可能だ。マジョリティの偏見を無くしたり、女性に対して不当に課されているハードルを取り除いたりすることは大切だが、その目標はあくまで「だれもが理性的な議論の場に参加できて、対等・公平に扱われること」にしておくべきである。

逆に言えば、「裏技」や特別扱いを認めることはできるだけ避けたほうがいい。社会の構造や議論の場における権力の不均衡に注目する発想が行き過ぎると、「女性やマイノリティは理性的になれない」という偏見を解体するのではなく、強化してしまうことになりかねないのである。


参考文献:
森山至貴、『あなたを閉じこめる「ずるい言葉」』、WAVE 出版、2020年。
アリストレス(著)、『ニコマコス倫理学』上巻(光文社古典新訳文庫)、渡辺 邦夫・立花 幸司(訳)、光文社、2015年。
ウィリアム・アーヴァイン(著)、月沢李歌子(訳)、『ストイック・チャレンジ:逆境を「最高の喜び」に変える心の技法』、NHK出版、2020年。
マーサ・ヌスバウム、(著)「被害者の怒りとその代償」(『怒りの哲学 正しい怒りは存在するか』、小川仁志(監訳)・森山文那生(訳)、NEW TON PRESS、2021年)。
アグネス・カラード(著)、「怒りについて」(『怒りの哲学 正しい怒りは存在するか』)。
ポール・ブルーム(著)、「暴力の選択」(『怒りの哲学 正しい怒りは存在するか』)。
ジョナサン・バルコム、『魚たちの愛すべき知的生活―何を感じ、何を考え、どう行動するか』、桃井緑美子(訳)、白揚社、2018年。
Cooney, N. (2011). Change of heart: What psychology can teach us about spreading social change. Lantern Books.
Gaarder, E. (2011). Women and the animal rights movement. Rutgers University Press.
[1] 森山、p.23.
[2] 森山、p.19
[3] アリストテレス、p.294.
[4] ヌスバウム、p.131-132
[5] ヌスバウム、P.132
[6] ヌスバウム、P.132
[7] ヌスバウム、p.134
[8] カラード、p.23-24
[9] ブルーム、p.31.
[10] http://s-scrap.com/5890
[11] https://www.afpbb.com/articles/-/3158081
[12] https://www.cnn.co.jp/fringe/35179819.html
[13] Beers, D. L. (2006). For the prevention of cruelty: The history and legacy of animal rights activism in the United States. Swallow Press.
Pearson, S. J. (2011). The rights of the defenseless: Protecting animals and children in gilded age America. University of Chicago Press.
[14] http://s-scrap.com/4978

1989年生まれ。批評家。立命館大学文学部英米文学専攻卒業(学士)、同志社大学グローバル・スタディーズ研究科卒業(修士)。
個人ブログでは「デビット・ライス(Davit Rice)」名義で、倫理学・動物の権利運動・ポリティカルコレクトネス・ジェンダー論などに関する文章や書評・映画評論などを発表している。初の著書『21世紀の道徳』が好評3刷。
ブログ:「道徳的動物日記」「the★映画日記