第8回 なぜ動物を傷付けることは「差別」であるのか?

いまわたしたちが直面している社会的諸問題の裏には、「心理学や進化生物学から見た、動物としての人間」と「哲学や社会や経済の担い手としての人間」のあいだにある「乖離」の存在がある。そこに横たわるギャップを埋めるにはどうしたらよいのか? ポリティカル・コレクトネス、優生思想、道徳、人種、ジェンダーなどにかかわる様々な難問に対する回答を、アカデミアや論壇で埋もれがちで、ときに不愉快で不都合でもある書物を紹介しながら探る「逆張り思想」の読書案内。  

動物倫理と「種差別」

2012年に大学院に進学したとき、わたしが修士論文のトピックに選んだのは「アメリカの動物保護運動の歴史と、動物の扱いに関する倫理学的理論の関係」であった。その後、大学院を卒業してからも「道徳的動物日記」というブログを開設して、当初はいわゆる「動物倫理」の関する考え方や概念についていろいろと解説していたものだ。

動物倫理に関する研究をしたりブログをやっていたりすると、知りあった人たちから動物保護運動や動物倫理に関する質問をされることがある。このとき、わたしは質問をしてくる人の大半が「動物保護運動や動物倫理とは間違っているものであり、否定されるべきものだ」と思っているらしいことに気付かされる。動物保護運動が動物を守るために人間の経済活動を妨害することや、動物倫理の理論では人間とあまり変わらないくらいの道徳的地位が動物にも認められていることは、的外れで常軌を逸している、と彼らは考えているのだ。

また、2012年から2021年までの10年間で、わたしに投げかけられる質問の内容は徐々に変化していった。最初のほうは、反捕鯨運動や反イルカ漁運動について質問されることが多かった。反捕鯨や反イルカ漁の活動はアメリカ人やオーストラリア人などの欧米人が行う運動だというイメージが強く、そしてわたし自身がアメリカ人であるからこそ、このトピックについて質問したくなったのだろう。しかし、近年では、倫理的ビーガニズム(健康や美容に関する理由ではなく、倫理的な理由に基づいて実践される完全菜食主義)や反畜産運動について聞かれることのほうが多くなっている。インターネットを介して自分たちの主張を発信するビーガンの数が年々増えていることにより、ふつうの人々もビーガニズムの考え方に接する機会が増えたことが理由であるのだろう。

動物倫理の問題について考える切り口はさまざまにある。

人からの質問を多く受けているうちにわたしが気付かされたのは、動物の保護を主張する人も動物の利用を肯定する人も、どちらも相手の主張に反対するときには「差別」という言葉を用いていることだ。

これから説明するように、動物倫理にとってキーとなる概念は「種差別」である。捕鯨やイルカ漁にせよ、家畜の肉や乳や卵を得るための畜産業にせよ、人間に対してはおこなわない行為を他の動物に対して行うことを「生物種」の違いに基づいて正当化することは人種差別や性差別と同じように「差別」である、という考え方が現代の動物保護運動やビーガニズムの核心となっているのだ。

その一方で、動物倫理の考え方に反対する人も、「差別」を持ち出すことが多い。たとえば、反捕鯨運動や反イルカ漁運動とは、欧米諸国が寄ってたかってアジアの片隅で細々とおこなわれる伝統文化を叩く運動であり、それはキリスト教の考えをよその国に押し付ける自文化中心主義や文化帝国主義であって、捕鯨やイルカ漁を行う漁師と日本人全体に対する差別である、と彼らは主張するのだ。また、「クジラやイルカは高度な知能を備えた動物であるから殺してはならない」という主張に対して、「ブタやウシは知能が低いから殺してもいいが、クジラやイルカは知能が高いから殺してはいけないというのは、知能に基づく差別だ」という反論がおこなわれることもある。

とはいえ、動物倫理の考え方では、知能の高低に関係なく、苦しみや痛みを感じる動物に苦痛を与えることや動物を殺すことは否定される。それに、近年ではビーガニズムを実践する日本人も増えている。すると、反捕鯨運動に対してなされていたような「知能に基づく差別」との批判や「自文化中心主義」との批判は、ビーガニズムには当てはまらないことになるはずだ。しかし、批判者たちは、ビーガニズムの考え方もけっきょくは差別であると論じる。動物にせよ植物にせよ、「生命」であることには変わりがない。だが、ビーガニズムは苦しみや痛みを感じるという「能力」に基づいて動物と植物との間に線を引き、後者を殺害することを容認する。その点では、「生物種」に基づいて人間と動物との間に線を引き、後者を殺害することを容認する常識的な考え方と、差別的であるという点ではなんら変わりがない……肉食の慣習や畜産制度を擁護する人は、このような主張をおこなうのだ。

上述したような反論については、自身が肉や畜産物を食べる人たちであっても、反応はいくつかに分かれるだろう。「そうだそうだ、動物も植物も同じ生命なのだから、どちらかは食べてよくてどちらかを食べてはいけないというのは差別に決まっている」と賛同する人のほうが多いかもしれない。しかし、家で犬や猫を飼っていたりして日々動物と触れあっている人なら、動物に苦しみや痛みを与えることは道徳的に問題である、という主張に共感できるところはあるだろう。「苦しみや痛みを感じるかどうかということは実際に重大な差異なのであり、そこを無視することは間違っているのではないか」と考える人も、少なくないはずである。

では、いったいなにが差別であるのか? どんなことが差別ではないのか?

動物倫理の問題や、よりひろく道徳全般について考えるうえで、「差別」とは優れた切り口であるように思える。

差別とは「不合理な区別」

「差別とはなにか」という問いに対する答えは、答える人の立場や属性によって異なるものかもしれない。ある社会におけるマジョリティとマイノリティとでは、それぞれが異なる経験をして異なる風景を見ながら生きているために、差別の問題について感じたり考えたりしていることはかなり違ってくるだろう。男性と女性とのあいだでも、差別に対する敏感さにはかなりの差がありそうなものだ。また、社会学や政治学などの各学問では、それぞれの問題意識や考え方に即したかたちで「差別」という言葉が定義付けられている。

しかし、ここはあえてシンプルに言い切ってしまおう。差別とは、「不合理な区別」、あるいは「正当な理由をもたない区別」だ。逆に言えば、合理的な区別や正当な理由をもつ区別は差別ではなく、ただの区別である。

たとえば、現代の日本社会では、日本国籍を持ち18歳以上である人ならだれもが選挙権を持つことができるとされている。

国籍に関する条件はともかく、「18歳以上」という条件については、大半の人々が合理的で正当だと考えるだろう。17歳や16歳が選挙権を持たないことに関しては問題であると主張する人もいるかもしれないが、5歳の子どもが選挙権を持たないことまでをも非合理で不当であると考える人は、ほとんどいない。投票という行為には「自分にとって利益となる政策はどのようなものであるか」を理解したり、各党の公約の内容を理解したうえでその実現可能性を判断したり、それぞれの政治家の資質を評価したり、これまでの政治の歴史や政局の流れについての知識を持っておいたりするなど、複雑で様々な知的能力が要請される。もちろん、18歳以上であっても、すべての人が投票をする際にそのような複雑な能力を駆使したうえで判断しているとは言えないかもしれない。だが、すくなくとも、5歳の子どもは投票を適切におこなうための政治的判断を下す能力を持たないことはほぼ確実だ。だから、5歳の子どもが選挙権を持たないことは、正当な理由に基づいた区別なのである。

一方で、日本でも諸外国でも、男性だけに選挙権があって女性には選挙権がないという時代が長く続いてきた。現代では、選挙権の有無を性別によって区別することは、れっきとした差別であると考えられている。18歳の女性は、すくなくとも18歳の男性と同程度には、自分にとっての利益を認識したうえで投票先を選択する能力があるはずだ。女性であるからといって、投票を適切におこなうための政治的判断能力に欠けているということにはならないから、性別を理由として選挙権を持たせないことは差別であるのだ。同様に、人種や肌の色を理由として選挙権を持たせないことは差別である。ヨーロッパ系であってもアフリカ系であってもアジア系であっても、投票に必要とされる能力はみな同様に持っているからだ。

そして、犬や猫やチンパンジーやクジラが投票権を持たないことは、種差別ではなく区別であると見なせるだろう。愛玩動物に関する政策は犬や猫の生活や生命に大きな影響を与える可能性があるが、彼らには政策の内容を理解したり政策が自分の生活に与える影響について判断したりすることはできない。犬や猫は文字が読めないし、複雑な概念がわからないからだ。犬や猫よりかは知能が高いとされるチンパンジーやクジラであっても、政治家の資質や政局の流れについて判断する能力はないだろう。彼らに選挙権を与えたところで、その権利が適切に行使される可能性は皆無である。だから、犬やチンパンジーが選挙権を持たないことは、正当な理由のある区別なのだ。

選挙権の有無を年齢や生物種で分けることは正当な区別であり、性別や人種で分けることは不当な差別である、ということは明白なように思える。しかし、不当であるか正当であるかが明白ではない分け方も存在する。

たとえば、わたしはアメリカ人であるために日本での選挙権を持たないが、そのことについて「生まれてからずっと住んでいるんだし税金も払っているんだから、選挙にくらい参加させろよ」と思う気持ちはなくもない。その一方で、「でも、外国籍の人でもなんの条件もなく投票できるとなったら、日本国籍の人たちの利益が侵害されるかもしれない」と思う気持ちもある。外国籍の人に選挙権を与えないことは正当な区別であるに決まっていると主張する人もいれば、不当な差別でしかありえないと主張する人もいる。その中間には「条件次第によっては外国籍の人も選挙に参加できるようにするべきだ」と主張する人たちがいて、その「条件」の内容をめぐって丁々発止の議論がおこなわれてもいる。いつかは答えが出るかもしれないが、現時点では正当さがまだ定かでなく、区別であるか差別であるかが宙ぶらりんであるのだ。

いずれにせよ、選挙権の有無を分ける際に核心となるのは「投票を適切に行うための政治的判断を下す能力」だ。なぜその能力が重要になるかというと、その能力を持っている存在であれば、選挙に参加することで自分の利益に関わるコミットメントをすることができるからである。選挙権の有無が年齢や生物種という基準で分別されているのは、それらの基準によって選挙権に関わる利益を持つ存在と持たない存在とを分別することができるからだ。逆にいえば、年齢や生物種による区別は正当ではあるが本質的なものではなく、政治的判断を下す能力の有無や選挙権に関わる利益を間接的に測るための、便宜的なものである。

動物はなんの権利も持たない

「権利」という言葉については、ひとかたまりのセットや束になっているというイメージを持っている人が多いようだ。

たとえば、「基本的人権」という言葉には自由権や生存権などの複数の権利が含められている。自由権や生存権が守る利益の内容は異なっており、それぞれの利益がなぜ守られなければいけないかということはそれぞれ別の理路で議論されるべきことである。だが、わたしたちが普段の生活において物事を考えたり、司法や行政の場で法律が実際に運用されたりする際においては、「それぞれの権利はなんのために存在しているのか」ということを毎回いちいち論じるわけにはいかない。だから、理由はさておき、とにかくわたしたちには諸々の権利がセットになって保証されている、ということが自明の前提となっている。

しかし、実際には、自由権や平等権やその他の諸々の権利が法律で保証されている背景には、ひとつひとつの権利ごとに異なる理由が存在する。自由や平等に関する利益はほぼ全ての人が持つからこそそれらが基本的人権だとして保証されている一方で、一部の人しか持たない利益を保証するための基本的でない権利も存在する。なにかを創作しない人は著作権や意匠権を持たないし、他人に貸す土地を持たない人は底地権を持たない。それらの人は、著作権や底地権が保証するような利益をそもそも持っていないからだ。細かく見てみると、人間たちのあいだでも、権利というものがそれぞれの持つ利益に応じて不均等に配分されることがわかるはずだ。

そして、現行法では、原則として動物はなんの権利も持たない。

たしかに、動物に与える理由がまったくない権利も多数存在する。選挙権はもちろんのこと、著作権や底地権を動物たちに対して認める理由も存在しないだろう。動物たちは創作活動をすることや土地を貸すことに関する利益を持たないからだ。

その一方で、生存権や自由権については断言することができない。日本の法律では生存権は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」とされているが、文化的な生活についてはさておき、健康な生活を営むことに関する利益は動物にもあるはずだ。犬でも猫でも、不健康な生活を過ごすと病気になって苦しむことになり、不利益を被るからである。また、大半の動物たちは人間と同じように、自由に行動できることを望む。それまでジャングルのなかで自由に生きていたチンパンジーが檻に入れられたり身体を拘束されたりしたら、不快や不安を感じて、脱出するためにもがくであろう。

不法に身体に侵害を加えられることのない権利である「身体権」に関わる利益は、かなりの部分まで、動物も人間と同じように持っていそうなものだ。わたしたちは、理由や同意もなく誰かに拳で殴られたり、鞭で叩かれたり、包丁で刺されたりしたくないと思っている。そういうことをされたら痛みや苦しみを感じて不利益を被るからだ。そして、犬や猫やチンパンジーも、殴られたり叩かれたり刺されたりすると痛みや苦しみを感じるのである。

選挙権や底地権の有無を生物種に基づいて分けることは合理的な区別であった。だが、生存権や身体権については様子が異なる。健康な生活に関する利益や身体を侵害されないことに関する利益は、人間と同じように動物たちも持っているのだ。そうなると、生物種に基づく区別は不当になってくる。そう、それは種差別なのである。

利益に対する平等な配慮

これまでに述べてきたような考え方のまとめとして、ピーター・シンガーの著作『動物の解放』から引用しよう。

人間と動物のあいだにはいくつかの重要なちがいがある。そしてこれらのちがいはそれぞれが有している権利においてなんらかのちがいを生じるにちがいない。しかし、この明らかな事実を認識することは、平等の基本原理をヒト以外の動物に拡張すべきだという主張に対する障害とはならない。男性と女性のあいだに存在するちがいも同様に打ち消すことができないものである。そして女性解放の支持者たちは、これらのちがいが権利のちがいを生じるかもしれないということを承知している。多くのフェミニストは、女性は必要があれば人工妊娠中絶を行う権利をもっていると主張している。これらのフェミニストたちが男性と女性の平等を求めるキャンペーンを行なっているからといって、彼女らが妊娠中絶を行う男性の権利も支持しなければならないということにはならない。男性は妊娠中絶を行うことができないので、彼がそれを行う権利について論じることは無意味なのである。女性解放や動物解放がそのようなナンセンスにまきこまれるべき理由はない。平等という基本原理をあるグループから別のグループへ拡張することは、私たちが両者を正確に同じやり方で扱わなければならないとか、両者にまったく同じ権利を付与しなければならないということを意味するわけではない。私たちがそうすべきかどうかは、その二つのグループの成員の本性によってちがってくるであろう。平等の基本原則は同一の扱いを要求するわけではない。それは平等な配慮を要求するのである。異なる存在に対して平等な配慮を行なった場合には、異なった扱いや異なる権利が結論として引きだされることになるのかもしれない。(シンガー、p.22-23)

上述の引用文に表れている考え方は「利益に対する平等な配慮」の原理と呼ばれるものであり、シンガーの思想の核心となっている。ただし、シンガーによると、「利益に対する平等な配慮」の原則は彼に限らずほかの多くの倫理学者や哲学者がそれぞれ異なるかたちで表現してきたものであるのだ。

「種差別」という言葉はシンガーが発明したわけではないし、動物への道徳的配慮の必要性を主張する議論も『動物の解放』が出版される以前から存在していた。しかし、シンガーの『動物の解放』は、出版されてから現代にいたるまで動物保護運動の理路的支柱となっているし、倫理学のサブジャンルとして動物倫理が医療倫理や環境倫理と並ぶほどの存在感を持つようになったこともまず間違いなくシンガーの功績だ。だから、「種差別とはなにか? 」というテーマについても、シンガーの主張をベースとしながら論じることは適切であるだろう。

「権利」という言葉からは離れる

ここまでの議論において、わたしは説明の都合から「権利」という言葉を多用してきた。大半の人は道徳的な問題について権利の有無という観点から考えることが多いために、差別と区別の違いについて論じるうえでも権利という言葉を用いたほうが、説明が簡単になるからだ。だが、「“権利”という言葉から距離を置くべき理由」で論じたように、道徳的な問題についてより根本的に考えるためには、そもそも「権利」という言葉からは離れたほうがよい。

『動物の解放』のなかで、シンガーは功利主義者のジェレミー・ベンサムが動物の「権利」について語った議論を引き合いに出している。そして、「問題となるのは、理性を働かせることができるかどうか、とか、話すことができるかどうか、ではなくて、苦しむことができるかどうかということである」で締められるベンサムの文章を引用したうえで、シンガーは以下のように論じるのだ。

ベンサムは私が引用した文章において「権利」について語っているが、その議論は実際には権利についてというよりも、むしろ平等についてのものである。ベンサムは周知のように「自然権」は「ナンセンス」であると述べ、「自然であり規定できない権利」を「支柱に乗ったナンセンス」と呼んだ。彼は人々と動物が道徳的に受けるべき保護に簡潔に言及する方法として、道徳的権利について語った。しかし、道徳的議論の現実の重みは、権利の存在の主張に依拠するわけではない。というのは、今度はこれが、苦しみと幸せの可能性にもとづいて正当化されねばならないからである。このようにして私たちは、権利の究極的性質についての哲学的論争に巻き込まれることなく、動物のための平等を主張できる。

一部の哲学者は、大いに苦労しながら、動物が権利を持たないことを示すための議論を組み立てたが、それらは本書の議論を論駁するための試みとしては間違っていた。彼らは、権利を持つためには自律的でなければならない、あるいはコミュニティの成員でなければならない、あるいは他者の権利を尊重する能力を持たねばならない、あるいは正義の感覚を持たねばならないと主張した。これらの主張は動物解放の論拠とは関係ない。権利という用語は、便利な政治的省略表現である。それはベンサムの時代にそうであったよりも、三〇秒のテレビニュース断片の時代においていっそう役に立つ。しかし私たちの動物に対する態度のラディカルな変革のための議論においては、それはまったく必要ない。

もしある当事者が苦しむならば、その苦しみを考慮に入れることを拒否することは、道徳的に正当化できない。当事者がどんな生きものであろうと、平等の原則は、その苦しみが他の生きものの同様な苦しみと同等にーー大ざっぱな苦しみの比較が成り立ちうる限りにおいてーー考慮を与えられることを要求するのである。もしその当事者が苦しむことができなかったり、よろこびや幸福を教授することができなかったりするならば、何も考慮しなくてよい。だから、感覚(sentience)をもつということ(苦しんだりよろこびを享受したりする能力を厳密に表わす簡潔な表現とはいえないかもしれないが、便宜上この感覚ということばを使う)は、その生きものの利益を考慮するかどうかについての、唯一の妥当な判断基準である。知性や合理性のようなその他の特質を判断基準とすることは、恣意的であるとのそしりを免れないであろう。皮膚の色のようなその他の特質を選ばない理由は何か?(シンガー、p.29 -30)

ここでシンガーが念頭に置いているのは、動物に対する道徳的配慮の必要性を否定する人たちがおこなってくる、定番の反論のことである。

動物倫理を否定する人たちは、動物は権利に対応する「義務」の存在を認識して守るための知性を持たないから、動物に権利を認めることはできない、と主張することが多い。または、道徳とは人間どうしの合理的な社会契約に由来するものであるから、社会契約に参加できるだけの合理性を持たない動物は道徳の対象にならない、と主張することもある。道徳とはなんらかの相互性に基づくものであると前提したうえで、動物は人間に対して道徳的に行為することができないから人間も動物に対して道徳的に行為する必要はない、と彼らは論じるのだ。

相互性は必要とされない

たしかに、ある種の利益が道徳的に配慮されるためには相互性が必要とされる場合もある。たとえば、国や地域でおこなわれる選挙に参加するためには対象の国や地域に税金を納めていることや一定期間居住していることが条件とされるが、これは不合理な条件ではないように思える。その国や地域に対してなにもコミットメントをしていない人までが投票できてしまうと、その地域の住民たちの意思が選挙の結果に適切に反映される可能性が低くなってしまう。つまり、選挙に参加できるのは同じ国や地域に住んでいて同じように税金を納めている人たちだけにしておかないと、その人たちの利益が侵害されるのを防ぐことができなくなってしまうから、そうでない人たちの利益を制限することは許容されるのだ。また、選挙に限らず、諸々の経済活動における契約行為や、恋愛や夫婦関係に関することなど、道徳的な問題に相互性が必要とされる場面は多々ありそうなものである。

けれども、健康に生きることに関する利益や苦しめられたり痛めつけられたりしないことに関する利益が道徳的に配慮されることにまで、相互性が必要とされるものだろうか?

赤ちゃんは義務の存在を認識するための知性を持っていなさそうだし、社会契約に参加できるだけの合理性も持っていないだろう。しかし、だからと言って赤ちゃんを殴ったり首を絞めて殺したりすることは道徳的に問題ない、と言える人はいないはずだ。これに対して、「赤ちゃんは成長したら知性や合理性を持つ大人になる可能性があるから、特例として道徳的に配慮する必要がある」と反論する人もいる。だが、人間のなかには、大人になってもほかの人たちと同じような知性や合理性を持たない人たちがいる(重度の知的障害者の人たちや、深刻な認知症の人たちなど)。そのような人たちは、高度な知性や合理性を持っている人たちのようには道徳に関する複雑な思考をはたらかせて道徳的に行為することができないかもしれない。だからと言って、生きることや苦しまないことに関する彼らの利益を考慮しなくていいということになるのだろうか?

「殴ったら痛みを感じる存在を無意味に殴ってはいけない」という規範や「生きたいと思っている存在を意味もなく殺してはいけない」という規範を守るうえで、相手がどんな知性を持っているかとか道徳的に行為できる存在であるかどうかは、ほとんど関係がないはずなのだ。

だとすれば、赤ちゃんや知的障害者の人たちを苦しめたり殺したりすることが非道徳であるのと同じように、犬や猫や牛や豚や鶏を苦しめたり殺したりすることも非道徳である。先述したように、健康な生活に関する利益や身体を侵害されないことに関する利益は、動物たちも人間たちと同じように持っているからだ。知性や合理性の有無や高低は赤ちゃんや知的障害者の人たちを苦しめたり殺したりすることを容認する理由にならないのだから、同じように、動物たちを苦しめたり殺したりすることを容認する理由にもならない。それに対して、「動物たちはホモ・サピエンスとは異なる生物種なのだから、仲間である人間たちに対してとは異なる扱いをしてもいいのだ」と反論するとすれば、その発想はまさに種差別である。

上述してきたような考え方が、現代の動物保護運動や倫理的ビーガニズムの根底にある、「動物倫理」の発想の基本といえる。

植物も動物と同等に扱うべきか?

さて、冒頭で述べたように、ビーガニズムに対しては「動物も植物も同じ生命であるから、どちらかを殺害して食べることを許容して、もう片方を殺害して食べることは許容されないというのは差別だ」という批判がなされることが多い。

だが、植物は感覚や意識を持たない。そのために、動物たちが持つような「苦しまないこと」や「痛めつけられないこと」に関する利益を、植物はそもそも持たない。「利益に対する平等な配慮」の考え方のポイントは、行為者がおこなう行為そのものではなく、その行為が被行為者に与える結果のほうを問題視することにある。ある対象をナイフで傷付けるという行為は、その対象が人間の赤ちゃんであっても猫や鶏であっても、「痛みを発生させる」という同様の結果をもたらすから、道徳的に問題となる。しかし、対象が植物である場合には痛みは発生しない。さらに、植物には意識もないのだから、恐怖や焦りなどのその他のネガティブな感覚も発生しない。だから、「人間の赤ちゃんをナイフで傷付けてはいけないが、猫はナイフで傷付けてもよい」という主張は不合理な差別であるが、「人間の赤ちゃんをナイフで傷付けてはいけないが、植物はナイフで傷付けてもよい」という主張は合理的な区別である。同じように、「食べるために牛や鶏を殺害することは許されないが、食べるために植物を殺害することは許される」という主張も差別ではなく合理的な区別であるのだ。

この議論に対してよくおこなわれる反論が、「植物にも動物と同じような感覚や意識が存在する」というものだ。この主張を補強するために、なんらかの最新の科学的発見が持ち出されることもある。しかし、そこで主張される「感覚」や「意識」とは、わたしたちがそれらの言葉にふつう持たせる意味をはるかに超えた、かなり幅広くて曖昧な概念であることがほとんどだ。すくなくとも、植物は動物のような神経を持たないという解剖学的な理由と、そもそも動くことのできない存在である植物が痛覚を発達させるメリットが存在しないという進化論的な理由から(痛覚とは刺激から逃避するための反応として進化してきたものである)、植物が痛覚を持つという可能性は皆無に等しい。同じ理由から、牛や鶏などの哺乳類や鳥類が痛覚を持つことは、ほぼ確実である。魚類や甲殻類にも痛覚が存在する可能性はかなり高いと言われているし、昆虫が痛覚を持つ可能性だって植物に比べればずっと高い。そして、合理的な判断とは、可能性の高低を適切に考慮した判断のことでもある。だから、「植物も痛みを感じるかもしれない」とか「動物は痛みを感じないかもしれない」という可能性の話を持ち出しても、結論はけっきょく変わらないのだ。

では、痛覚や意識の話を度外視して「植物も動物も同じ生命である」と主張すれば、ビーガニズムに対する反論は成立するのだろうか? 残念ながら、対象が生命であるかどうかということ自体は、道徳的にはさほど重要な問題ではない。後述するように、感覚や意識を持つ生命にとっては「殺される」ということは危害になりえる。しかし、感覚や意識を持たない存在は、自分の生命に対していかなる利益を持ちようもない。だから、殺されることも危害にはならないのである。

「どんな生命にも同じ価値があり、同じように大切にするべきだ」という言葉はもっともらしく聞こえるものだし、簡単ですぐに学べるルールでもあるから、子ども相手に教えるものとしては、「利益に対する平等な配慮」のような難しくて複雑な道徳的原理よりも適しているだろう。しかし、すべての生命に同じ価値を認めて同じように大切に扱おうとする規範は、苦痛や危害を発生させる行為とそうでない行為との区別を付けられなくしてしまう。だれかに痛みや苦しみを与える可能性がある問題について考えるときには、慣れ親しんだ言葉にもとづいた単純な発想から脱却して、複雑に考えることが必要とされるのだ。

生に対する利益と「知性」の関係

上述したように、動物と植物とは明確に線引きすることができる。前者は感覚を持つために「苦しまないこと」や「痛めつけられないこと」への利益を持つから、その利益が配慮されるべきである。しかし、後者は感覚を持たないためにそれらの利益を持たず、したがってそれらの利益が配慮される必要性はない。

ところで、苦痛を受けないことに比べると、「死なされないこと」についての利益は複雑だ。ここまでの議論では、「知性」は道徳的配慮をするかしないかの基準としては不適切なものであるかのように論じてきた。だが、実を言うと、ある存在が自分の生に対してどんな利益を持つかには「知性」が密接に関わっているのである。

ごく特殊な人を除けば、わたしたちはだれもが「死にたくない」と思っている。自分の人生はかけがえのない大切なものであり、なにも恐怖や苦痛を感じない安楽死であったとしても、自分の人生が終わらせられることはあってほしくないと思っているはずだ。わたしたちがそう思えるのは、人間には言葉や知性があって、「自分」という概念や「死」という概念を理解できているためである。また、未来についての予測がおこなえて、明日のことや来月のことや来年のことも考慮に入れた長期的な予定が立てられて、「これからはこういうことをしたい」「自分はこんな人間になりたい」といった長期的な目標や計画を立てられるからだ。死は、その人の人生を終了させることで「死にたくない」という気持ちに反する結果を無視したり、その人が人生で立てていた目標や計画を頓挫させたりする。だからこそ、死はわたしたちに危害をもたらすのであり、可能なら避けられるべきことなのだ。

問題なのは、動物たちは自分の生についてどこまでの利益を持っているのか、ということである。大半の動物たちは言葉を持たない以上、「自分」という概念や「死」という概念も理解していない可能性がある。また、長期的な予測を立てて行動できる動物の種類は限られているようであり、生に対する目標や計画を立てられる動物たちがどれだけいるかも疑わしい。その一方で、どうやら言葉が理解できるようであったり、死の概念が理解できていたり、長期的な目標を立てることができたりしそうな動物もいるようなのだ。

知性の高い動物たちは、ふつうの人間ほどには「生」に対して強い利益を持っていないとしても、知性の低い動物たちや、あるいは人間の赤ちゃんや重度な知的障害者よりかは強い利益を「生」に対して持っている。だから、知性の高い動物が死ぬことを知性の低い動物が死ぬことよりも重大な危害であると見なして、どちらかが死ななければいけないときに後者を死なせることは、種差別ではなく合理的な区別だ。逆に、「人間だから」という理由で赤ちゃんや重度な知的障害者たちが死ぬことを知性の高い動物が死ぬことよりも重大な危害であると見積もることは、合理的な区別ではなく種差別である

クジラやイルカ、チンパンジーなどの動物を殺すことが重大視されているのは、上述したような考え方にしたがってのことだ。これまでにおこなわれてきた様々な研究や実験や観察の結果、クジラ類や霊長類の動物たちは言語を使用できていたり「自分」や「死」という概念を理解できていたり長期的な目標を立てることができたりする可能性が、ほかの動物よりも高いからだ。

区別することを放棄する根拠にはならない

この考え方に対してすぐに出てくる批判は「けっきょくは可能性の問題であり、わたしたち人間が理解していないだけで、ほかの動物たちも彼らなりのやり方で死の概念を理解したり長期的な目標を立てていたりするかもしれない」というものだ。そして、この批判には的を射ているところもある。動物たちがどんな知性を持つか、彼らはどんなかたちで世界を認識しているかは、究極のところはわたしたちにはわからない。意識というものは個体ごとに備わり個体ごとに完結するものであり、自分以外の存在がどんな意識を備えているかということを直接的に理解するのは、原理的に不可能であるからだ。また、間接的なかたちで動物たちの知性や認識を理解するためにおこなわれる研究や実験や観察についても、その結果や内容に関する議論は日々更新されている。クジラ類や霊長類はわたしたちが思っているほど賢い存在ではないと主張する学者もいる。その逆に、猫や鳥や魚や虫などはこれまでわたしたちが理解していたよりもずっと高い知性を持った存在である、ということを示す新しい研究結果が日々生み出されていたりもする。

しかし、動物たちの知性についてわたしたちには100パーセント正確にはわからないからといって、そのことは、生に関して彼らが持っている利益の問題を考慮する際に、比較して区別を行うことを放棄する根拠となるのだろうか?

テントウムシが死ぬことより人間が死ぬことのほうがほぼ全ての場合において重大な問題であるということは、真面目に考えれば大半の人が同意できるはずだ。ネズミが死ぬよりも人間が死ぬことのほうが重大であるし、猫の死に比べてもやはり人間の死のほうが重大であるだろう。同じように、テントウムシやネズミが死ぬことよりもクジラやチンパンジーが死ぬことのほうが重大であるように思える。ここで「テントウムシの知性についてもクジラの知性についても人間には100パーセント正確にはわからないのだから、比較できるものではない」と 反論を行なう人もいるだろうが、大半の人は、すこし本気になって考えればテントウムシの死とクジラの死は比較できる、ということに同意せざるをえないはずだ。様々な根拠から、クジラの死はテントウムシの死よりも重大な事態であるということの蓋然性の高さは判断できる。そして、蓋然性の高さにしたがって区別を行なうことは合理的であり、蓋然性を無視した区別は非合理であるのだ。

最善の判断を志向しつづけること

シンガーによる「利益に対する平等な配慮」の原理でも、そのほかの倫理学者たちの考え方でも、行為の善し悪しを判断するためにはなんらかの基準が用いられることが多い。その一方で、基準を用いた判断の不確かさを非難する人も多々いる。ある基準に盲点があったり恣意性があったりすることを指摘して、基準を修正することは有意義であろう。しかし、基準そのものを否定すると、道徳についてなにも判断することができなくなってしまう。だから、限界や欠点があるとしても、区別であるか差別であるかを判断するための基準は絶対に必要なのだ。アメリカの倫理学者ゲイリー・ヴァーナーの著書『人格、倫理学、動物の認識能力:ヘアの二層功利主義で動物を位置付ける』から、「基準」の必要性や蓋然性の高さに基づいた判断の必要性について論じられている箇所を、訳して引用しよう。

基準にもとづいた私の議論に対する、哲学者のコリン・アレンによる批判に対する私の最初の返答は、「ラムズフェルドの返答」と呼ぶことができるかもしれない。最高の装備や改良型の高機動多用途装輪車両が、イラクに向かうアメリカ軍の全軍に対しては配備されていない、という批判に対してアメリカの元国防長官のドナルド・ラムズフェルドが言ったとされる返答に由来しているからである。ラムズフェルドはこう言ったのだ。「君も知っているように、戦争には手元にある軍隊で行かなければならないんだ。自分がこれだけ欲しいと思っている軍隊や、後からこれだけ欲しかったと思うことになる軍隊で戦争に行ける訳じゃないんだ」。ラムズフェルドと同様に、私もこう言おう。倫理的な判断は、自分が欲しいと思っている証拠ではなく、自分が手にしている証拠に基づいて行わなけばならない

科学者や、心の哲学を専門にしている哲学者なら、無期限に結論を保留する余裕があるかもしれない。しかし、倫理学者や立法者は、その判断を下すときに入手可能な最善の証拠に基づいて判断を下さなければならない。そして、日々の生活においては全ての人が倫理学者である。私はいつも自分のことを「倫理学者」ではなく「倫理理論学者(ethical theorist)」と呼んでいる。ポピュラーメディアは、「倫理学者」のことを自分に投げかけられた全ての倫理的問題についての答えを持っている人だと描写するからだ。しかし、問題が投げかけられた時の私の答えとは、多くの場合は「その答えは、事実がどんなものであるかということによる」というものになる。「日々の生活においては全ての人が倫理学者なのだ」という私の主張は、全ての倫理的問題に対して表明できる意見を全ての人が持っている、ということは意味していない。私が言いたいのは、私たちの全員が、倫理的な議論の対象となる判断を数え切れないほど多く下している、ということなのだ。その判断の多くは待つヒマのないものであるし、その問題に関して必要であったり求められたりする情報を全て集める前に判断を下す必要がある。このことは、立法者にとっては明白なことだ。立法者は、広い範囲に重大な結果をもたらす政策や法律を不完全な情報に基づいて頻繁に制定しなければならない。しかし、立法者に比べると判断の与える影響は少ないといえ、同じことは私たちの全員に当てはまるのだ。(Varner, p.115-116)

現実とは不確かなものだ。ある行為がどんな結果をもたらすかということには、予想のできない部分が常に存在する。行為をした後であっても、それによって実際には誰に対してどんな結果がもたらされたか、ということを判断するのが難しい場合すらある。合理的であるという確信を持っておこなった区別が、基準が間違っていたために実際は不合理な差別であった、という事態も多々あるだろう。しかし、「トロッコ問題について考えなければいけない理由」でも論じたように、わたしたちはトレードオフのジレンマから逃れることができない。けっきょくのところ、倫理的な判断とはトレードオフに対して最善の回答を行おうとする判断のことである。いま得られる限りの情報を参照しながら、偏見や思い込みをできる限り排除して、間違っていたことが判明した場合にはすぐに修正をしながらも、最善の判断を志向しつづけることが倫理学であるのだ。とすれば、現代の動物保護運動や倫理的ビーガニズムの背景にある、「種差別」に関する議論はただしく倫理的なものであると言うほかないのだ。

 

<参考文献>

ピーター・シンガー(著)、戸田清(訳)、『動物の解放 改訂版』、2011、人文書院。
Varner, Gary E. Personhood, ethics, and animal cognition : situating animals in Hare's two level utilitarianism. New York: Oxford University Press, 2012.

 

1989年生まれ。批評家。立命館大学文学部英米文学専攻卒業(学士)、同志社大学グローバル・スタディーズ研究科卒業(修士)。
個人ブログでは「デビット・ライス(Davit Rice)」名義で、倫理学・動物の権利運動・ポリティカルコレクトネス・ジェンダー論などに関する文章や書評・映画評論などを発表している。
ブログ:「道徳的動物日記」「the★映画日記

 

第7回 ストア哲学の幸福論は現代にも通じるのか?

いまわたしたちが直面している社会的諸問題の裏には、「心理学や進化生物学から見た、動物としての人間」と「哲学や社会や経済の担い手としての人間」のあいだにある「乖離」の存在がある。そこに横たわるギャップを埋めるにはどうしたらよいのか? ポリティカル・コレクトネス、優生思想、道徳、人種、ジェンダーなどにかかわる様々な難問に対する回答を、アカデミアや論壇で埋もれがちで、ときに不愉快で不都合でもある書物を紹介しながら探る「逆張り思想」の読書案内。  

「幸福」「意味」とはどういうことか?

古代から、人間は「幸福」や「人生の意味」について悩んできた。どうすれば幸せで有意義な人生を送れるのか? そもそも、「幸福」や「意味」とはどういうことなのか?

すこし前までは、こんな難しい問題について考えて答えようとするのは、宗教家と哲学者と文学者しかいなかった。とくに哲学においては、現代においても幸福論や人生の意味論は主要なテーマとなっており、多くの哲学者がこの難題について日夜考え続けている。また、本屋に行けば、過去の有名な哲学者たちによる幸福論や人生論を現代の著者が解説している新書本やソフトカバーの単行本を、いくつも探すことができるだろう。

ただし、過去の時代にいた哲学者がいくら有名であったとしても、彼の唱えていることが正しいとは限らない。幸福論は多数の哲学者によって書かれてきたからこそ、すべての幸福論を並べてみたら、ある哲学者の言っていることと全く正反対のことを別の哲学者が言っている、ということもざらに起こっているはずだ。こんな場合には、単純に考えて、少なくともどちらかの一方の意見は間違っている。そして、間違った幸福論を唱えている人のアドバイスに従ったら、幸福に近付くどころか遠ざかってしまうはずである。

この連載の第一回で紹介した「ダーウィニアン・レフト」論とは、要するに「道徳について考える場合には、自然科学の知見を含めた、正しい事実認識に基づかなければいけない」というものであった。誤った事実認識に基づいて道徳判断をしようとしても、判断を誤って、他人に迷惑をかけたり危害を生じさせたりするおそれがある。同じように、自分の幸福や人生について考える場合にも、正しい事実認識に基づいておいたほうがいい。そこで判断を誤ると、自分が損をしたり失敗したりするおそれがあるからだ。

そして、現代では、心理学や経済学などをはじめとする自然科学や社会科学の観点から幸福について論じた研究が蓄積されている。哲学者による幸福論や人生論を参考にしようとする場合にも、どの哲学者の意見を頼りにするかは、科学的な知見に照らしあわせたうえで選択するべきだ。人間や社会というもののあり様について科学が明らかにした事実とあまりにかけ離れた議論は、いくら有名な哲学者が唱えているものだとしても、真に受けないほうがよいであろう。

上記のことを意識したうえで、今回は、古代のギリシアやローマで活躍した「ストア派」の哲学者たちの意見を紹介しよう。エピクテトスやセネカ、マルクス・アウレリウスなどなど。ただし、彼らの原典を引きながら紹介することは、現在のわたしにはちょっと力量不足なので、やめておく。

その代わりに、心理学をはじめとする現代的な学問の知見と照らしあわせながら21世紀におけるストア哲学の価値を説いたアメリカの哲学教授、ウィリアム・アーヴァイン氏による議論を紹介しよう。いわば、「ストア哲学入門」のさらに入門、という内容になる。

そして、アーヴァインが論じるようなストア派の考え方に対してわたしが抱いている疑問や不安についても、あわせて述べさせてもらうことしよう。

人生は一度きりしか生きられない

さて、アーヴァインによると、人は「間違った人生を生きる」ことを避けるために、人生哲学を持つべきだ。

だれにせよ、自分の人生は一度きりにしか生きられない。そして、確たる指標や考えを持たず、身のまわりにいる人々や偶然に起こる出来事、時代や社会の流れなどに振りまわされて右往左往しながら生きてしまうと、死の床についたときになってようやく、「自分は間違った仕方で生きていた、自分は人生を無駄にしてしまった」ということに気が付く羽目になるかもしれない。その一方で、ただしい人生哲学を持ち、それに従って生きることさえできれば、ぼうっとしているうちに無駄で有害なものに気を散らされることを避けて、ほんとうに価値のあるものを追求する人生を過ごすことができるかもしれない。

ストア哲学は、なにが「価値のあるもの」であるかということを考えるとともに、「無駄で有害なもの」についても考える思想だ。ひとことでいうと、それは「欲求」である。わたしたちの心は、放っておくとついつい欲求に振りまわされてしまうものである。だが、ストア哲学者たちによると、欲求をコントロールして「心の平静」を得ることこそが、有意義で幸福な人生を過ごすために目指すべきものなのだ。

欲求のメカニズム

そもそも、欲求とはなにであるか?アーヴァインは、「生物学的インセンティブ・システム」という表現を用いながら、欲求のメカニズムを説明している。

わたしたちの身体には、空腹になれば「食事をしたい」という欲求を生じさせたり、喉が乾けば「水が飲みたい」という欲求を生じさせたりすることで、生存のために必要な行動をわたしたちが行うように動機付ける仕組みが備わっている。また、「不潔な場所から離れたい」「危険な人物と会うことを避けたい」「身体を酷使する仕事をサボりたい」などの負の欲求も、生存にとって悪影響となる物事を回避するためにわたしたちを動機付ける仕組みだといえる。

そして、生存に関する欲求だけでなく、繁殖に関する欲求も、わたしたちの身体には備わっている。ある年代までの男女は、「セックスしたい」という欲求を強く持ち続けて、セックスできる相手がいないときには強く悩まされて、セックスをするために様々な行動を取るように動機付けられる。また、めでたく恋人ができた人であっても、「フラれたくない、捨てられたくない」という負の欲求を抱き続けるものだ。そして、結婚をして、安定してセックスできる相手を確保した人の多くは、こんどは「子どもがほしい」という欲求を抱くことになるだろう。

食事をしたいという欲求が充たされたりセックスしたいという欲求が充たされたりすると、わたしたちはなんらかの「快感」を得る。その一方で、「不潔な場所から離れたくない」「恋人に捨てられたくない」という負の欲求が充たされない場合には、わたしたちには「不快感」が生じる。そして、欲求を充たした場合に得られる快感や負の欲求を充たせられなかった場合に生じる不快感の存在について身体が覚えていたり頭で理解していたりするからこそ、前者を獲得して後者を回避するように、わたしたちの行動が動機付けられるのだ。つまり、快感は「報酬」として、不快感は「罰」として、それぞれがインセンティブとしての機能を持ってわたしたちの行動に影響を与えているのである。

生存と繁殖に貢献するインセンティブ・システム

欲求を通じて生存と繁殖へとわたしたちを動機付けるインセンティブの仕組みは、進化の歴史を通じて発展してきた。たとえば、胃のなかになにも残っておらず身体を動かすエネルギーが尽きかけている状態であっても「お腹が空いた」と思えず食事に対する欲求が湧かないような人は、まともに生存することもできず、子どもを残すことができる前に死んでしまう可能性が高いだろう。また、自分自身の生存に関するインセンティブ・システムが正常に機能している人であっても、「セックスしたい」という欲望をまったく抱かず「子どもがほしい」ともまったく思わないのであれば、その人が子孫を残す可能性はほとんどないはずだ。そのような人たちが淘汰されていくことで、生存と繁殖に貢献するようなインセンティブ・システムを持った人の遺伝子だけが残っていき、現代のわたしたちにも引き継がれることになったのである。

ただし、生物学的インセンティブ・システムは、あくまで生存と繁殖のみのために発達してきたのであり、わたしたち個人の幸福を考慮して設計されたものではない。

たとえば、ひとくちに食欲といっても、糖分や塩分や脂質が多く含まれた食事に対して、わたしたちはより強い欲求を抱くものだ。その理由は、人類史のつい最近まで、人間は糖分や塩分や脂質を入手する機会が限られている環境で生きてきたことにある。限られた栄養分に対する強い欲求が設定されることで、それらの栄養分を摂取する貴重な機会が訪れたときにも、逃さずに摂取することができるようになったのだ。

しかし、科学技術が発達して生産力の工場した現代社会では、過去のようには糖分や塩分や脂質は不足していない。わたしたちが生きる環境の変化は、生物学的インセンティブ・システムの発達を凌駕する、きわめて速いスピードで起こった。そのために、糖分や塩分や脂質に対する強い欲求はわたしたちの身体のなかに残り続けており、ついついこれらの栄養分を過剰に摂取してしまうことになる。だが、たとえば糖分を過剰摂取したら糖尿病となるように、栄養の過剰摂取は長期的にはわたしたちの身体に病気を引き起こすことになる。言うまでもなく、病気はわたしたちに苦痛を与えて、わたしたちを不幸にしてしまう。だが、生物学的インセンティブ・システムは、「特定の栄養分に対する強い欲求を設定することで、それが有り余っている時代にわたしたちはどうなるか」ということまで考慮して設定されていないのだ。

繁殖に関する欲求も、わたしたちの幸福を考慮してくれるとは限らない。たとえば、所属している集団の人間関係の状況や本人の身体的魅力、あるいは経済状況の問題から、だれかとセックスすることがどうしても困難であるという人は多くいるものだ。あるいは、恋人がもうすでに他の人に心を奪われてしまって、なにをどうしても相手が自分のもとから離れることは防ぎようがない、という状態に陥る人もいる。このような人たちにとっては「セックスしたい」という欲求や「恋人にフラれたくない」という負の欲求は充たされることがないものであり、それらはただ焦燥感や不満感や苛立ちを引き起こすものでしかなく、学業や仕事など人生においてやらなければいけないことに対する集中を妨害してしまうものでもある。しかし、生物学的インセンティブ・システムは個人が経験している状況などおかまいなしに、セックスや恋愛(そして、それらを経て子どもを残すこと)に対する欲求をわたしたちに押し付けてくる。うまくいかない状況ならセックスや恋人のことをあきらめられるくらいに弱い欲求しか持たないような人は、そもそもセックスをせずに子どもを残さない可能性が高いために、そのような人の遺伝子はとっくに淘汰されてしまっているからだ。

つまり、生物学的インセンティブ・システムはあくまでわたしたちをある年齢まで生存させて子どもを残させることを目的にして設計されたシステムなのある。欲求に振りまわされて辛く惨めな人生を送ることになっても、子どもさえ残してしまえれば、生物学的インセンティブ・システムの目的は達成されてしまうのだ。そこで、わたしたちの幸福が考慮される必要性はないのである。

 後天的な条件付けで先天的システムを上書き

だが、わたしたちの行動のすべてが、生物学的インセンティブ・システムに支配されているわけではない。

インセンティブ・システムは、手に痛みを感じたら手を引っ込めてしまう、という「反射」のシステムとは異なる。欲求とはあくまで行動を動機付けるだけのものであり、欲求に抗って行動を抑えることは可能なのだ。そもそも、すこしでも食欲を感じたら他のことが考えられなくなって一目散に食べ物に飛びついてしまうような人間や、性欲を感じたら手近な異性を襲ってセックスをしようとする人がいたとしても、そんな人たちは生存も繁殖もまともに行うことはできないだろう。インセンティブ・システムは報酬と罰をもってわたしたちの行動をコントロールしようとするが、わたしたちの側にも、そのコントロールに従うかどうかを選択する能力は与えられているのである。

躾をされた犬は食事を目の前にしても我慢ができるように、動物であっても、後天的な条件付けによって、先天的なインセンティブ・システムを上書きさせることができる。人間であれば、家庭や学校における教育や諸々の集団への順応を通じて、社会一般や特定の集団に存在するルールを理解したうえで、それにあわせて自分の欲求をある程度までは自覚的にコントロールすることもできるだろう。そして、人間には理性があるために、「生物学的インセンティブ・システムは、わたしたち個人の幸福ではなく、生存と繁殖を目標として設計されている」という事実を理解することもできるのだ。

生物学的インセンティブ・システムがどのような報酬や罰を設定しているかを経験や知識に基づいて理解しながら、「自分が幸福になること」や「自分がよい人生を生きること」を目標に据えたうえで、生き方や考え方の戦略を練ることで生物学的インセンティブ・システムを出し抜くことが、人間であるわたしたちには可能なのだ。これを、アーヴァインは、進化という「奴隷主」に対して「奴隷」であるわたしたちが反乱を起こすことにたとえている。

現実の奴隷の状態を考えてみよう。たしかに奴隷たちは、主人とそのインセンティブ・システムから逃れることはできないかもしれない。だが、それでも彼らは、屈従によってみずからの人間としての価値が奪われるのを拒否するかもしれない。とくに仲間の奴隷を助けるためとあれば、全力を尽くそうとするかもしれない。そうなれば当然、ときとして主人の命令を拒むことになる。主人の目標達成に手を貸せば、みずからの生きるプランが設定した目標を損なうからだ。たとえば彼らは、仲間の奴隷を鞭で打てという主人の命令を拒むかもしれない。そうすればむろん奴隷監督から罰せられるだろう。だがそれは、意味ある人生を送るためにはわずかな代償にすぎない。宇宙的に見たら意味あるものではないかもしれないが、個人として見れば大きな意味をもつ。大事なのはまず間違いなくそこなのである。

私たち「進化の奴隷」もまた、自分たちのおかれた状況に対して、これと同じような戦略を使うことができる。自分自身が生きるための個人的プランを作り上げ、それを進化の主人が課したプランに重ねるのである。こうすれば私たちはもはや、進化の主人の命令に従っているだけの存在ではなくなる。みずからの人生を手にし、その人生で何かをーーみずからが意味あるものと考える何かをーーしているはずだ。そしてそれによって、私たちはできうるかぎりにおいて、自分の生活に意味を与えていることだろう。

ここで心に留めておきたいのは、みずから生きるためのプランを形成するとき、私たちは進化の主人を欺いているということだ。彼が私たちに欲望する能力を与えたのは、それによって彼の目標とする私たちの生存と繁殖が達成されやすくなるからである。だが私たちに与えられた欲望能力には、いくつかのオプションから選択する能力もまた含まれる。BIS(生物学的インセンティブシステム)が罰を与えるような事柄さえ選ぶこともできるのである。それゆえ、自分のライフプランを形成するというのは、事実上、この選択する能力を「濫用」していることにほかならない。私たちはその能力を、進化の主人が定めた目標を達成するためではなく、自分のために定めたべつの目標ーー進化の主人の目標とは相容れない目標ーーを達成するために使っているのだ。友人や隣人、あるいは職場のボスを欺くのは悪いことかもしれないが、進化の主人を欺くのは道徳的に何ひとつ問題ではないと私は思う。

(アーヴァイン、2007、p.281-282)

「進化の主人」に対して反乱を起こす方法は様々にあるだろう。キリスト教やイスラム教のような宗教が課す戒律に従って生きることができれば、欲求に振りまわされる人生からは脱却できそうなものだ。仏教も欲求をコントロールすることには定評があり、とくに禅の発想は現代の欧米でも注目されて、多くの人が実践している。そして、アーヴァインは、理性を駆使して欲求をコントロールする実践的なライフハックとして、ストア哲学を現代に復活させたのである。

ストア哲学の欲求コントロール

では、具体的には、ストア哲学では欲求をどのようにしてコントロールされるのか?

その主たる方針は、世の中には「自分の力でなんとかなること」と「自分の力ではどうにもできないこと」があることを認めたうえで、前者のみに力を尽くすことだ。

たとえば、コミュニティで一番の美女に恋慕の感情を抱いたところで、引く手あまたの女性が自分のことに興味を持って好意を抱いてくれて、他の男を差し置いて自分を選んでくれるかどうかは、相手次第である。そのようなことについて悩んでしまっても、時間と気力を消耗するだけだ。もし、美女のことで悩むのに使ったエネルギーを、代わりに運動であったり勉強であったりなどの自己研鑽に使えていれば、より快活に日々を過ごすことができていただろう。

恋愛でなくとも、たとえば社会的な地位や評判といったものに対する欲求が充たされるかどうかは、最終的には他人次第だ。収入をどれだけアップできるかは偶発的な事情に左右されるし、努力を積み重ねて築いた財産であっても、なんらかの失敗や災害によってあっという間に失われるおそれは常に潜んでいる。

自分の外側にいる他人や偶発的な事情に左右される物事に希望を抱いたり人生における幸福を見出そうとしたりすることは、分が悪い賭けであるのだ。それよりも、日々の生活において自分の能力を研鑽したり自分の心身の調子を良くする習慣を身に付けたりするなど、自分がコントロールできることに力を尽くしたほうが、安定して幸福を得ることができる。つまり、負ける可能性のあるゲームは避けて、勝てるゲームだけをすることが、ストア流の幸福の秘訣であるのだ。

とはいえ、実際のところ、まともに社会生活を送っている人間であれば自分のコントロールの範囲外の物事についても関わらなければならない。また、「自分のコントロールが完全には及ばないが、努力次第である程度まではコントロールが効いたり、目標が達成されたりする可能性を高められる」という物事にも、人生では多々直面することになるだろう。

そんなときには、「目標を内部化する」ことが重要になる。スポーツの試合でたとえるなら、「試合に勝つ」ことから「試合でベストを尽くす」へと、目標をずらせばよいのだ。ベストを尽くすことができれば試合に勝てる可能性も大幅に高められるだろうが、仮に負けたとしても、どのみち目標は達成されることになる。「試合に勝つ」という目標は、対戦相手の実力などの外部要因や偶然が絡んでくるために、達成されるかどうかは常に不安定だ。しかし、目標を内部化することで、どんな結果になったとしても心の平静を保ったままポジティブな感情を得ることができるようになるのだ。

「目標の内部化」という戦略は、仕事に対する向き合い方にも適用できる。結果として出世できたり立派なキャリアが築けたりするかどうかということにこだわるのではなく、仕事に対して自分がどれだけ真剣に取り組めるか、ということを目標にすればいい。同様のことは、恋愛を含んだ、他人との関わりにも当てはまる。他人の心とはコントロールできないものであるが、自分自身が恥じたり後悔の気持ちを残したりすることなく、他人に対して最大限に誠実に向き合うことを目標とすればいいのだ。そうすれば、うまくいったり運が良かったりする場合には社交や恋愛から得られる喜びを味わうことができるし、そうでない場合にも、自分の目標が達成されずに不幸や空虚感を味わうことは避けられるのである。

 ネガティブ・ビジュアリゼーション

しかし、「欲求をコントロールすればいい」「目標を内部化すればいい」という発想には、「言うは易く行うは難し」という感想を抱く人もいるだろう。実際、多くの人は「欲求は抑制したほうが良い生き方ができる」ということについて理性では同意しているだろうが、日々の生活でそれを実践することができないからこそ困っているのである。

アーヴァインによると、古代のストア哲学者たちは机上の空論を唱えていたのではなく、欲求をコントロールするための具体的なテクニックを編み出して、それを実践していた。さらに、ストア流のテクニックは、現代における心理学の知見とも一致しているのである。

欲求を抑えるテクニックのなかでも基本となるものが、「ネガティブ・ビジュアリゼーション」だ。人生がいまよりもつらいものになることや、自分が築いてきた地位や財産が失われること、恋人や配偶者や子どもなどの大切な人々が亡くなってしまうことを想像する、という行為である。当たり前に存在していると思っているものがなくなってしまう事態を想像することで、逆説的に、いま自分が手にしているものの価値やありがたみを再発見することができる。それは、手にしていないものを獲得しようとする欲求を抑制することにもつながるのだ。

ネガティブ・ビュジュアリゼーションは、マーケティングの世界ではお馴染みの、「アンカリング(錨)効果」という心理学的知見を活用したテクニックである。

たとえば、まったく同じシャツを同じ値段で売るとしても、単に「定価3200円」で売るより「定価は4000円だが、20パーセントの割引セールにより3200円」という価格設定で売るほうが、客の購買意欲をそそりやすい。定価の4000円という金額を「錨」として客の潜在意識に沈めることで、3200円という金額を安価に感じるように仕向けられるからだ。同じように、ネガティブ・ビジュアリゼーションでは、「自分が手にしているものがなくなってしまった状況」を錨にして自分自身の潜在意識に沈めることで、いま自分が手にしているものの価値を感じやすくなるように、自分自身を仕向けさせるわけである。

アーヴァインによると、ネガティブ・ビジュアリゼーションは定期的に行うことが重要である。順調に日々を過ごしていると、「いま自分が手にしているものは、当たり前に存在し続けるものだ」とついつい思ってしまい、潜在意識に沈めた錨がいつの間にか外れてしまうからだ。

また、ネガティブ・ビジュアリゼーションは時間をかけて行う必要はないが、具体的な状況を想像しながら集中して行わなければいけない。たとえば「恋人が亡くなる」ということを想像する場合には、死んだことを相手の家族から電話で知らされる場面や葬式に参加している場面など、相手が亡くなった場合に実際に自分の身に起こりそうなことを想像したほうが効果的であるのだ。リアルな場面を想像すればするほど、生きている恋人と会ったときの喜びや感謝の気持ちは深くなるのである。

フレーミング効果を活用

アンカリング効果とあわせてストア哲学者たちが活用してきた心理学的テクニックは、「フレーミング(枠組み)効果」を活用したものだ。自分が経験している状況を認識する枠組みを変化させることで、その状況に対して自分が抱いている感情を変化させられる、というテクニックである。つまり、同じ事態にあっても、「気の持ちよう」次第によってその事態から自分が受ける影響は変えられる、ということだ。

たとえば、わたしたちには自分のことを正当化する傾向があるため、他人とのあいだでトラブルがあったときには「自分は悪くなくて、相手のほうが悪い」と枠組みで認識してしまうことが多い。しかし、「相手の悪意によって自分が傷付けられた」という考えを抱いていると、相手に対する怒りや被害者意識からストレスを感じてしまい、心の平静や幸福から遠ざかってしまう。それよりも、「自分にも悪い点があった」という枠組みで認識することで、怒りや被害者意識からは解放されて、同じようなトラブルが起こらないように反省したり欠点を改善したりすることにもつながり、生産性のある幸福な日々を過ごしやすくなるのだ。

そのほかにも、自分が直面している状況を悲劇ではなく喜劇として認識することができれば、いやな出来事があってもユーモアを持ちながら笑い話として処理することができる。または、自分の人生を運命論的に捉えるという枠組みもある。そうすると、どれだけ理不尽な不幸が起こったとしても、「最終的には、この不幸にもなんらかの意味がある」と見なしたり「この出来事は自分が成長するための試練として起こっているのだ」と見なしたりすることができて、前向きに生きることができるだろう。このように、フレーミング効果を駆使すれば、他人や社会などの外部要因や偶然によりどんなことが起こったとしても、「こういう感情を持ちたい」と自分が思う方向に感情を調整できる可能性がある。

感情の影響力は、しばしば過大評価されている。18世紀イギリスの哲学者デビッド・ヒュームによる「理性は情念の奴隷である」という言葉は有名だ。しかし、アンカリング効果を用いたテクニックにせよフレーミング効果を用いたテクニックにせよ、「感情」というものがどのようなタイミングで生じたりどのように機能したりするかを認識したうえで、発生する感情の種類やその感情が自分に与える影響を「理性」によって戦略的にコントロールする、という点が肝心となっている。感情と欲求は一直線に結びついていることをふまえると、これこそが、生物学的インセンティブ・システムという「奴隷主」に対して反乱を行う「奴隷」が手に取るべき、強力な武器だといえるだろう。

老人のための考え方?

さて、わたしがストア哲学……というか、アーヴァインの本に初めて触れたのは、ちょうど30歳のときであった。とくに『良き人生について:ローマの鉄人に学ぶ生き方の知恵』を最初に読んだときには、いたく感銘を受けたものだ。

30歳とは、「若者」と呼ぶにはそろそろ厳しくもなってくる年齢である。ただ単に快楽や刺激を得ながら生きることにも飽きや疲れを感じてきて、自分の身に降りかかる様々な出来事や他人との関係に振りまわされることへの虚しさを抱くようになり、自分の人生をいかに生きるべきかということについて改めて考え直すには、ぴったりの時期であった。『良き人生について』を読んだ当時は一年半近く付き合ってきた恋人と別れた直後だったということもあり、自分の外側に存在しておりコントロールが効かない他者ではなく、自分の心の平静を保つことや物事に対して自分がどう向き合うかということから人生における意味や幸福を見出す、という考え方には深く同意できるところがあった。

ただし、30歳とは、「若者」としての気分や感覚にまだ引きずられている年齢でもある。結婚をしたり天職に就いたりして落ち着いている人もいるだろうが、まだまだ人生の方針が見つからず物事の優先順位も定められずに迷っている人も多い年齢であるだろう。そんな年齢においては、地位や財産に対する欲求を捨てたり他者との関わりから得られる喜びを後回しにしたりして、自分の心の平静をなによりも重視する生き方を選択することには、尻込みしてしまうところもあった。実際、同世代の友人たちにストア哲学の考え方について紹介しても、賛同が得られないことが多い。アーヴァインも、自分が教える若い学生たちがストア哲学の考え方を受け入れることを拒みがちである点について嘆いている。

ストア哲学には「老人のための考え方」という側面がどうしても存在するのだ。たとえば子どもの頃からストアの考え方を実践することができて、恋人や親友のことを想って心が揺さぶられることもなく、「自分が活躍して地位や名声を取得してやろう」という野心を抱くこともいちどもないまま生涯を過ごすことができた人が存在するとしても、そのような人生を羨ましいと思えて、「自分もそんな人生を過ごしたい」と考える人の数は少ないはずである。

幸福を得るためには感情が必要

先述したように、生物としてのわたしたちが抱く欲求は、生存と繁殖を目的として設計されたものであり、わたしたちが幸福になるか不幸になるかを考慮して設計されたものではない。財産や地位に対する欲求、あるいは性欲や食欲などの明らかに低次元な欲求を充たすことだけを目的として日々を過ごしてしまった場合には、たしかに、意味がなくて不幸な人生となってしまう可能性が高いだろう。

しかし、「自分の人生には意味がある」と確信を持って思えるようになるためには、生きていくなかで「自分はいま意味のある人生を過ごしている」という感情を抱くことが必要となるはずだ。そして、理性が戦略を駆使することで感情をコントロールできるとしても、無から有を生み出すことはできない。心の平静を保つだけであれば理性のみに頼ることもできるかもしれないが、幸福を得るためには、けっきょくは感情が必要となるはずなのだ。

心理学者のダグラス・ケンリックの著書『野蛮な進化心理学:殺人とセックスが解き明かす人間行動の謎』では、「人生の意味とはなにか」という問いについて、進化心理学の観点から説明することが試みられている。

ケンリックは、まず、マーケティングの分野などで有名な心理学者であるアルフレッド・マズローによる「欲求のピラミッド」の理論を持ち出す。

マズローは、人間の欲求を、飢えや乾きや身の安全などを求める「生理的欲求」、恋人や友人を求めたり世間における地位や名声などを求めたりする「社会的欲求」、そして自分の才能を発揮したいという「自己実現」への欲求とに分別した。ピラミッドの基底部にあるのは生理的欲求であり、頂点にあるのが自己実現への欲求だ。どんな人間であっても、まずは飢えや乾きが充たされたり自分の身の安全が保証されたりすることを必要とする。しかし、それらの欲求がいちど充たされると、その次には他者からの親愛の情や、社会からの承認がほしくなる。それらを得られたら、こんどは、自己実現を目指したくなるのが人間というものである……と、マズローは論じたのだ。

ケンリックは、マズローの描いたピラミッドを進化心理学の観点から補修した。補修されたピラミッドでも基底部にあるのは生理的欲求に変わりないが、ピラミッドの頂点にあるのは自己実現ではなく「子育て」となっており、その下には「配偶者の獲得」や「配偶者の維持」がある。マズローのピラミッドでは上部に位置していた社会的欲求や自己実現への欲求は、ケンリックのピラミッドでは中間部に移動されている。生物として見た場合の人間の究極の目標は「繁殖」である以上、社会的地位を得て財産を築いたり自己実現をして魅力のある人間になったりすることも、異性を惹きつけて一緒に子どもを養い続けるという目的のための手段にすぎないと見なせるからだ。

自己実現を頂点に据えるマズローのピラミッドが個人主義的なものであったのに対して、子育てや配偶者を上部に据えたケンリックのピラミッドでは、「他者との結びつき」に関する欲求の重要性が高く見積もられている。そして、ストア哲学の発想と類似点があるのは、明らかにマズローのほうであるだろう。生理的欲求に価値を見出すべきではないのはもちろんのこと、他者からの承認や地位などの社会的欲求も、「自分の力ではどうにもできないこと」であるから執着してはいけない。ストア哲学が「心の平静」を目標としていることとマズローが「自己実現」を頂点に据えていることも、他者に左右されずに自分の意思と能力に基づいて実現できるものを理想にしているという点で、共通している。

他者がいないと充たされない

その一方で、ケンリックのピラミッドの上部にある欲求は、他者がいないと充たされないものだ。ストア哲学の考え方に基づけば、充たされるかどうかが不安定であるから抑制されなければならない欲求である。しかし、ケンリックは、わたしたちが「人生の意味」や幸福を感じられるようになるためにはこれらの欲求を充たすことが欠かせない、と論じる。社会的な生物である人間にとっては、他者との結びつきや家族を築くことへの欲求は根深くて重要なものだ。それを充たすことができなければ、いくら心の平静を保てたり自己実現できたりしたとしても、人生には空虚さが残り続けるかもしれないのだ。

人間主義を標榜する心理学者たちは、ときとして、どう見てもひとりよがりとしか思えないほど個人的な現象を重視するーー世界の見え方がお気に召さないなら、考え方を変えればいい。つまり、何事も自分次第というわけだ。自身の心を見つめ、独自の考えにふけり、自分の好きなことをするのは、ある基準においてはけっこうなことだ。だが突き詰めていえば、人間はそのようにできてはいない。私たちはそこまで自己中心的じゃないのだ。また、周囲の人々と一線を画していると思っている場合でも、それは別に高次の存在になっているのではない。大人になっても他者の要求に気を配れない人は、実は自己実現ができているのではなく、病的な状態であるだけかもしれないのだ。

(ケンリック、2014、p.163)

理性を重視するストア派の哲学者たちであれば、セックスに対する欲求は低次のものとして一蹴して、価値を認めないだろう。しかし、ケンリックは、セックスをすることやセックスを通じて配偶者と関係を維持することや子どもを生み出すことと、自己実現や人生の意味などの高尚な物事に対する欲求は密接に関係している、と論じているのである。

 ライフステージに応じての実践を

では、実際のところ、どちらの側の言い分がただしいのだろうか?

いまのところ、わたしとしては、「時と場合による」としか答えられない。

先述したように、子どもや若者である時分からストア哲学を完璧に実践しようとすると、その人の人生は中心に空洞が空いたような虚しく不健全なものとなるはずだ。意味のある人生を送るためには、どこかの段階で、他者との結びつきを求めたり、自分ではどうにもならないことに対して欲求を抱いたりすることが必要となるはずなのである。

その一方で、歳をとって、ある程度の財産を蓄えて家庭も築いた段階になれば、欲求を抑制して心の平静を保つことの重要性は増していくはずだ。財産が欠乏している状態では人は不幸になるが、財産を蓄積すればするほど幸福になれるというものでもない、ということは経済学の研究などでもよく指摘されている。中年くらいになれば、必要以上に多くのものを得ようと欲求するよりも、たとえばネガティブ・ビジュアリーゼションを行うことでいま得ているものに満足して欲求を抑制したほうが、人生を有意義に過ごしやすくなるだろう。

なお、ケンリックも、人間の欲求はライフステージによって変動するということを指摘している。どんな人でも「繁殖努力」期である青年時代まではセックスに対する欲求が強くなるが、ある年齢を過ぎた頃から「子育て努力」期へと徐々に移行して、セックスそのものに対してではなく家庭を築くことに対する欲求のほうが強くなっていくのだ。もしかしたら、ストア哲学も、ライフステージに応じて実践するのがちょうどいいのかもしれない。繁殖努力期のあいだは魅力的な異性を獲得することや自分自身の魅力を増すことに向けて精一杯努力するべきであり、様々な欲求は努力に火をつけるガソリンとなるから無理に抑えるべきでないが、それらの欲求が無駄で重荷となってくるライフステージに差しかかってきたら、欲求に対するコントロールを徐々に強めていけばよいのである。

ただし、不遇な生い立ちであることや、自身の能力や魅力が根本的に不足していたりするなどの理由で、どれだけ頑張っても「配偶者の獲得」といったピラミッドの中間段階にある欲求すら充たせられないという人だって、世の中には多く存在しているはずだ。

そういう人たちについては、不利な境遇のなかで欲求を充たそうと無理に頑張るよりも、早い段階からストア哲学を実践したほうが、有意義な人生を過ごしやすくなるかもしれない。「自分の力ではどうにもできないこと」への切望はさっさと捨ててしまって、自分にも達成できることに集中したり、あるいは自分の境遇について考える際のフレーミングを変えたりすることで、ふつうであれば他人よりも不幸になるはずの人生でも幸福に過ごせる可能性が出てくるかもしれないのだ。

ただし、このように考えるとストア哲学は対処療法的な幸福論ということになるし、「負け組」のための幸福論ということになってしまいかねない。

そうでなくても、他者に振りまわされることを拒んで自分がコントロールできる範囲の幸福を強調するストア哲学の発想には、自閉的な雰囲気が付きまとう。わたしたちの多くは、自分の外部にある物事に対する欲求や希望を捨てて自分の内側だけに幸福を求めるというストア哲学の考え方に、多かれ少なかれ拒否感を抱くはずだ。

しかし、だれであっても人生のどこかの段階からは「心の平静」を目指したくなるということだって、また確かなはずなのである。人それぞれの事情や特性に合わせながらほどほどに実践するぶんには、やはり、ストア哲学は現代にも通じる有益な幸福論であることは間違いないだろう。

 

<参考文献>
ウィリアム・アーヴァイン(著)、竹内和世(訳)、『欲望について』、白揚社、2007年。
ウィリアム・アーヴァイン(著)、竹内和世(訳)、『良き人生について:ローマの鉄人に学ぶ生き方の知恵』、白揚社、2013年。
ウィリアム・アーヴァイン(著)、月沢李歌子(訳)、『ストイック・チャレンジ:逆境を「最高の喜び」に変える心の技法』、NHK出版、2020年。
ダグラス・ケンリック(著)、山形浩生・森本正史(訳)、『『野蛮な進化心理学:殺人とセックスが解き明かす人間行動の謎』、白揚社、2014年。

1989年生まれ。批評家。立命館大学文学部英米文学専攻卒業(学士)、同志社大学グローバル・スタディーズ研究科卒業(修士)。
個人ブログでは「デビット・ライス(Davit Rice)」名義で、倫理学・動物の権利運動・ポリティカルコレクトネス・ジェンダー論などに関する文章や書評・映画評論などを発表している。
ブログ:「道徳的動物日記」「the★映画日記