II-8 弱者男性のための正義論(中編)

いまわたしたちが直面している社会的諸問題の裏には、「心理学や進化生物学から見た、動物としての人間」と「哲学や社会や経済の担い手としての人間」のあいだにある「乖離」の存在がある。そこに横たわるギャップを埋めるにはどうしたらよいのか? ポリティカル・コレクトネス、優生思想、道徳、人種、ジェンダーなどにかかわる様々な難問に対する回答を、アカデミアや論壇で埋もれがちで、ときに不愉快で不都合でもある書物を紹介しながら探る論考、そのシーズン2の開始です。  

3:リベラリズムと弱者男性

 3-1:リベラリズムにおける「公私分離」

前節で親密性の欠如が不利益であるということを強調したのは、弱者男性の問題を取り上げた際に呈されることの多い、「恋愛や結婚できないことが悪いとは限らない」「恋人や配偶者がいないことは大した問題ではない」という意見に反論するためであった。

とはいえ、先述した通り、「本人が求めているのに恋人がいないことや結婚できないことは、その人にとって不利益である」という考え方はごく常識的なものでもある。

だが、従来の政治思想や正義論では、この「常識」を反映することは難しい。とくに、哲学者のジョン・ロールズに代表されるような現代のリベラリズムでは、親密性の問題はどうしても後回しにされてしまう。公私の分離は、リベラリズムにおいてとくに重視される要素であるからだ。

この問題について、筒井淳也は以下のようにまとめている。

リベラリズムとは、生存や承認など、基本的な人権については政府が率先して保障し、また経済の領域でも不公正な取引を排除することを目指す立場です。そのかわりに、第三章でも触れたように、私的な領域、つまり友人関係や恋愛関係、そして家族関係については消極的にしか介入しない、という立場でもあります。つまり、公的な領域と私的な領域に線引きをし、公的領域では公正さを保障するが、私的領域は個々人の自由に任せる、ということです。

(……中略……)

結婚するかどうか、もっといってしまえば結婚できるかどうかについても、政府が積極的にそこに乗り出してきて支援をしたり、あるいは損害を補償することはありません。この章の最初の節で、「家族の負担を取り除き、家族を気軽に形成できる基盤があれば、人は家族を作るようになるだろう」ということを述べました。政府ができることは、結婚・家族生活が上手くいかなくても生活に困らない状態を用意することであって、人間関係を仲介したり、そこで生じる「不公正」を積極的に緩和したりすることはほとんどありません。

しかし、です。家族やその他の親密な仲にある人と関係を結ぶことで得られる情緒的な満足は、必ずしも「公正」に分配されているとは限りません。何らかの理由で、特定の誰かからのケア、「気にかけ」を十分に得られない人は出てきます。特に社会が経済的、政治的に不平等であるときはそうです。

(筒井、p.238 – 239)

3-2:「善の構想」と「基本財」

ロールズの著作はほかの政治哲学者が書いた本に比べても難解な内容であり、わたし自身、彼の主張を正確に理解できている自信はない。

とはいえ、教科書や入門書などでは、ロールズのリベラリズムは以下のようにまとめられている:人々には各々の考え方や価値観(これらは「善の構想」と呼ばれる)に基づいて自分の目標を追求したり理想とする生き方を実践したりする自由が保証されるべきである。原則として、政府は人々の善の構想や生き方に口を出すべきではない。政府の役割とは、どんな善の構想を持つ人にとっても自分の構想を実現しながら生きていくうえで必要になる、普遍的に重要でニュートラルな価値を持つ「基本財」が平等・公平に保障されたり分配されたりすることである[1]

基本財には収入や資産などの経済的なものが含まれる一方で、法律や制度によって権利や自由が保障されていること、不当な差別や抑圧を受けたりせずに「自分が平等な市民として社会から公正に扱われている」と感じられること(自尊の社会的基盤)なども含まれている。

たとえば、あなたの目指す目標がプロ野球選手であったとしても研究者であったとしても、あるいは善い父親になることや野良猫を保護することであったとしても、どんな目標を追求するにせよお金や権利があることや自由を制限されないことは同じように必要になるだろう。そして、それらの分配が不公平であったり、個人や属性の間で所持している基本財に格差が生じていたりするなら、その状況は公的な問題である(不正義である)と判断されて、是正されるべきだということになる。

逆に言えば、基本財が平等・公正に分配されているなら、そこから先は各人の「善の構想」に任せるべきだ。プロ野球選手を目指す人は自分のお金や自由を野球の練習やそのための道具と設備に注ぎ込むだろうし(バットを買ったりジムに通ったりなど)、野良猫の保護を目標とする人は猫の世話に時間を割いてお金はエサ代や動物病院での去勢・避妊手術に費やすかもしれない。このとき、「野球の練習ができる設備」や「猫のエサ」が基本財であるとはいえない。それらは本人たちにとっては重要な価値を持つだろうが、野球に興味がなかったり猫を飼っていなかったりする人にとっては価値のないものであるからだ。

そして、基本財の分配が平等であったなら、ある人が欲しいと思っているものを得られないこと自体は公的な問題にはならない。たとえば「高いバットが欲しい」と思っている人が、それなりに収入があるのにジムに通ったりプロテインを買ったりしたなどの理由で貯金できなかったという理由からバットを買えないとしても、それ自体は本人の私的な生活の範囲でやりくりすべき問題であり、正義の対象となる公的な問題だとは見なされないのである。

さて、ロールズや他の大半のリベラリストは、「恋人がいること」や「結婚できること」を基本財であるとは見なさないだろう。「恋人がいなくてもいい」と思っている人や「結婚できなくていい」と思っている人は少なからずいるし、本人の人生にとって恋愛や結婚がどれだけの重みを持つかということも人によってバラバラであるからだ。

経済的な要素や権利が全員にとってニュートラルな価値を持つのに比べて、恋愛や結婚はそうではない。恋愛や結婚を基本財に含めようとすることは、「野球の練習ができる設備」や「猫のエサ」(あるいは「特定の宗教の教義を実践できること」)を基本財に含めるのと同じように、価値観を押し付けることだと見なされるはずである。

 3-3:経済力の問題だけに注目することは不適切

第2節では、弱者男性が「経済力が欠如していること」と「親密性が欠如していること」の二重苦を味わっていることを指摘した。リベラリズムにおいては、前者は公的な問題として扱うことができる。しかし後者は私的な問題であり、政府や社会が関与すべきではないとされるだろう。

経済力がないことが恋愛や結婚ができないことの要因になっている点に注目すれば、「経済的な格差の是正を主張することができるなら、弱者男性の問題は、リベラリズムでも間接的に解決されることになるはずだ」と考えることもできるかもしれない。しかし、経済的な問題だけを取り沙汰すると、弱者男性の抱えている苦悩はどうしても過小評価されてしまう。

まず、現状では、男性というグループは女性というグループに比べると経済的に優位な状況にある。そのために、「男女間の経済格差」という統計的な問題を解決するための具体的な政策は提言されて実施される一方で(性別間の賃金差別を是正するための政策など)、「男性のなかで経済的に困窮している人たち」というグループを直接的なターゲットとして救済するための対策は実施されない。実施されるとすれば、男女の両方を含めた「低収入層」と「高収入層」との間の格差を是正するための政策であるだろう。つまり、経済に関して女性を直接的に救済する政策は考案されているのに比べて、男性は間接的にしか救済の対象にならないのだ。……このことは、弱者男性たちに「自分たちの問題は後まわしにされている」という感覚を抱かせているかもしれない。

それ以上に重要なのが、親密性の問題が私的な領域の範囲内と判断されることで、病気や自殺のリスクという深刻な問題が看過されていることである。

経済的な資源がなかったり権利がなかったりすることが生きていくうえで重大な支障になることは明白であり、そのためにそれらは「基本財」として公正な分配が保障されるべきだと見なされている。一方で、恋人がいなかったり結婚できなかったりすることが男性にもたらす健康上の不利益とは、医学や心理学の理論やデータを用いながら立証する必要のある間接的なものであるために、その深刻さが理解されづらい。

さらに、独りで生きている人は、「寂しさ」や「虚しさ」や「劣等感」といった、より曖昧で客観的な指標で表すこともできないようなマイナスの感情も抱いているだろう。第2節の議論に基づけば、経済的な収入が同じくらいに分配されている男女の間でも、これらの不利益やマイナスの感情は、親密性を欠如している男性に偏って発生していると予想できる。だが、リベラリズムでは、このことを問題視できない。重要なのはあくまでも「公」的な基本財が公正・平等に分配されているかどうかであり、「私」的な領域で個人間にどのような差異が生じようとも、それ自体は正義の対象となる問題ではないとされるためだ。

現代の正義論はロールズの議論を中心に展開されているが、リベラリズムの主張が絶対だというわけではない。むしろ、多くの論者は、ロールズの主張を批判したり修正したりしながら、「ほんとうの意味での平等や公正とはこういうものだ」という彼らなりの見解を提出している。

次節では、リベラリズムに対するフェミニズムからの批判、そして功利主義による正義の考え方について紹介する。どちらの理論も、弱者男性論が取り上げる問題と多少は関係しているからだ。……ただし、結局のところ、フェミニズムでも功利主義でも「男性が受けている不利益」という問題を充分に扱うことはできない、という点を指摘しよう。

4:フェミニズムと「幸福度」と弱者男性

4-1:フェミニズムによるリベラリズムの「公私分離」批判

リベラリズムにおける公私分離の発想は、フェミニズムによって長らく批判されてきた。

とはいえ、多くの場合、フェミニズムによるリベラリズム批判は本稿の主張と真逆の方向になされる。

政治哲学の議論においてフェミニズムが主に問題視してきたのは、「家族」が「私」の領域の範囲内にあると見なされるがゆえに、そこで生じる不正が見過ごされてしまうことだ。

たとえば、夫からの妻に対するドメスティック・バイオレンスや家庭内での性暴力が問題視されるようになったのはごく最近のことである。あるいは、夫婦間での性役割分業により家事や育児・介護が妻のほうに押し付けられることで彼女のキャリアが絶たれたり自由が奪われたりする、という事態は多くの家庭で起こっている。個々の妻たちは自発的に家事やケア労働を選択しているとしても、彼女たちの選択が積み重なることで「女性は結婚したらキャリアを諦めて家事に専念するものだ」という社会的通念が形成されており、就職における統計的差別などのかたちで他の女性たちに悪影響を及ぼしているかもしれない。また、女性差別的な価値観を抱いている親のもとで育つことは、女子であれば自信を失わせて人生の選択肢を狭めることにつながるだろうし、男子にとっても「女性を対等な人間と見なさなくなる」など情操の発達に悪影響をもたらすであろう[2]

フェミニズムによるリベラリズムの公私分離批判を簡潔にまとめると以下のようになる:現状では家族という「私」の領域に不正が生じており、それは「公」の領域における女性の選択や生き方にも悪影響を及ぼしている。したがって、家族も「公」の領域に含まれると見なして、そこで起こっている問題を正義の対象に含めるべきだ。

近年のフェミニズムでは、育児や高齢者介護などのケア労働についてはポジティブな意味合いが見出されることも多い。しかし、夫婦関係や婚姻制度は、不正の温床だと見なされがちだ。そのため、ラディカルな議論では、結婚という慣習そのものを破壊すべきであると主張されることもある。より穏当な議論においても、主に論じられるには「私」の領域に閉じ込められている女性がそこから脱出して「公」の領域で活動しやすくなることが目指される。フェミニズムの目標のひとつは、家族の形態を多様化して、夫婦関係や婚姻制度が個人の生き方に与える影響を減少することなのだ。

4-2:フェミニズムと弱者男性論は一致するか

公私という軸で考えてみれば、男性は女性とは真逆の問題に直面している。

大半の男性は経済的に依存できる相手がおらず、自分が生きていくための金は自分で稼ぎ続けなければならないので、キャリアを優先したり長時間労働をしたりなどの「公」の領域に閉じ込められている。そのために、家族や恋人との時間を大切にしたり友人と遊んだりするなどの「私」を犠牲にせざるを得ない。

そもそも恋人や配偶者のいない弱者男性にとっても、求めているのは親密性という「私」を自分たちもが得られることだ。フェミニズムが「私」の領域内で生じている不正に注目するのに対して、男性論は「私」の領域それ自体から疎外されていることを問題視しているのである。[3]

フェミニズムと弱者男性論は共存できるか、それとも両者の主張は相反するのかは、一概には言えない。

たとえば、性別役割分業が解体されたり緩和されたりすることは、両者のどちらの目標にとっても都合が良いだろう。女性を「私」の領域から解放して「公」に接近させて、それと同時に男性を「公」の領域から解放して「私」に接近させられるのなら、男女の双方が奪われているものを補い合うことになるはずだからだ。

一方で、フェミニズムでは婚姻制度や夫婦関係の負の側面が注目されて、それらを破壊したり希薄化したりすることが目指される。これは、カップル関係に基づいた親密性を必要とする男性にとっては明らかに都合が悪い。離婚の要件が緩和されて再婚しやすくなった社会や事実婚がしやすい社会、婚姻制度がなくなりカジュアルで多様な親密性が認められた社会ではそうでない場合よりも「自由」は増すだろうが、その代わりに、カップル関係は不安定なものとなるだろう。

また、弱者男性のなかには、経済力だけでなく恋愛に関する能力(性的な魅力やコミュニケーション能力)にも欠けている人が多いとも考えられる。そのために弱者男性は「自由」を行使することができず、不安定さの影響だけを被って、現状よりもさらに孤独な存在となることが予想できるのだ。

4-3:効用と「適応的選好形成」の問題

リベラリズムは、公私分離とは別の方向からも批判することができる。

基本的にリベラリストが重視しているのは、スタート地点で資源が公正・平等に分配されていることだ。

ロールズの議論には「社会的・経済的不平等は、それが最も不利な人に対して最も利益になる時にのみ正当化される」という「格差原理」が含まれるが、彼が懸念するのは、競争の結果として格差が拡大して、基本財が充分に保証されていない状態に陥る人々が表れることである。ロールズは人々がそのような状態に陥ることは不正義だと見なして再分配の必要性を説くが、そこで重視されているのはあくまで基本財という公的な物事の平等だ。極端に言うと、他の人よりも著しく貧乏な人が登場することは不正義となり得るが、他の人よりも著しく不幸な人が登場すること自体は(その不幸が経済などに起因するのでなければ)不正義にはなり得ない。

しかし、「分配それ自体が公正であるか」ということや「不平等や格差が存在していないか」ということの他にも注目できるポイントはある。それは「分配や競争の結果として、最終的に人々はどんなものを得られてどんな状態になっているか」ということだ。このポイントに注目する立場は帰結主義と呼ばれる。そのなかでも、「最終的に全ての人々が得られる幸福(または効用)の合計を最大化することを目指すべきだ」と主張する思想が功利主義である。

実は、弱者男性論においては、分配や平等よりも幸福や効用を重視するという点で、功利主義に接近する主張がされることがある。つまり、アンケートや社会調査によって計られた「幸福度」や「生活への満足度」に注目して、「日本では男性よりも女性の幸福度のほうが高いから、男性のほうがより多くの支援が必要である」と論じられることがあるのだ。

わたし自身も『21世紀の道徳』では功利主義を支持する議論を展開しており、上記の主張にも感覚的には同意するところがある。……とはいえ、帰結主義や功利主義には「幸福」や「効用」をどのように定義してどのように測るか、という難点が付き物だ。アンケートで測れるような「幸福度」は政策を考える際の指標としてどれほど信頼できるものなのか、という問題もある。

幸福だけでなく自由の量やその他の物事を計算の対象にする帰結主義もありえる。ある人々が現時点で抱いている主観的な感覚だけを効用と定義することもできれば、「その人に充分な情報と時間や理想的な環境が与えられていた場合に、形成されていたであろう選好」が満たされることを効用と定義することもできるし、本人の主観とは別に「これらが満たされていなければその人はほんとうの意味で幸福だとはいえない」という客観的なリストを設けることもできる。

そして、幸福や生活の満足度など、本人の主観的な感覚を効用と定義する際に立ちはだかるのが適応的選好形成の問題だ。経済学者のアマルティア・センは、以下のように指摘している。

[効用に着目しながら]このように個々人の優位性を見る方法は、固定化してしまった不平等が存在する時には特に限界がある。永続的な逆境や困窮状態では、その犠牲者は嘆き悲しみ不満を言い続けているわけにはいかないし、状況を急激に変えようと望む動機すら欠いているかもしれない。実際、根絶しえない逆境とうまく付き合い、小さな変化でもありがたく思うようにし、不可能なことやありそうにないことを望まないようにすることの方が、生きていくための戦略としてはよっぽど理にかなっている。逆境におかれている人は、たとえ困窮した生活に押し込められていても、欲望とその達成から生じる心理的状態を計測し、快楽のプラスと苦痛のマイナスを合計してみると、それほど悪い生活をしているようには見えないかもしれない。適切な栄養を摂り、そこそこの衣服を着て、最低限の教育を受け、適切に雨風を防げる場所に住むという機会すら欠いている人も、効用による評価では困窮の程度は相当に覆い隠されてしまうかもしれない。

このように効用の計算は誤った方向に導く性質を持っており、この点は階級、ジェンダー、カースト、コミュニティーに基づく持続的な差別がある場合には特に重要な意味を持ってくる。効用アプローチとは対照的に、潜在能力アプローチでは、困苦を強いられている人々が基本的な機能を達成する自由を欠いているということを直接説明することができる。
(セン、p.9)

4-4:「女性の幸福度の高さ」と適応的選好形成

センが指摘する通り、とくにジェンダーが関わる問題に関して幸福に注目する場合には、適応的選好形成が問題となりやすい。

女性差別的な制度や文化のなかで生きている女性たちは、若い頃から「わたしがキャリアを追求しようとしても男性に比べて著しい障害に立ち向かう必要があり、困難で成功する見込みが薄い」ということに気が付いたり、「わたしが家事やケア労働を行わないと、周囲の人はわたしを非難したり攻撃したりするだろうし、わたしを扶養してくれる人もいなくなるだろう」ということを学習したりするかもしれない。女性は自分が暮らしている社会の状況に順応するために、キャリアを追求するという夢を諦めて「どうせ稼げないのだから仕事はほどほどにして趣味などの他のところに充実感を見出せばよいのだ」「家庭に閉じこもる主婦の道のほうが幸せなのだ」という風に自分を納得させるかもしれない。このように差別的な環境に適応するために選好を形成した人は、女性差別の存在する不公正・不平等な社会のなかでもその選好を満たすことができて、結果として満足感や幸福を得ることもできるかもしれない。

しかし、たとえばAさんがなんらかの方法で「Bさんの選好は差別的な環境に適応するかたちで形成された」ということを知ったとすれば、Aさんは「Bさん本人が満足して幸せに過ごしているのなら、それでよい」とは判断しないはずだ。平等な環境であればBさんは夢を追求できていたり、現状に満足せずにもっと充実した生活を過ごすことができていたりしたのならば、たとえ本人が幸福であるとしても、現在の状況には不公正や不正義が存在すると見なすことができる。

ジェンダーに関する適応的選好形成の問題は、インドや中東諸国や発展途上国などの女性差別がとりわけ露骨で深刻な地域に関して指摘されることが多い。したがって、「(いちおうは)先進国であり、法律や制度のレベルでは男女同権がある程度確立している日本に当てはめられるものではない」と反論する人もいるかもしれない。しかし、男女間の賃金格差の問題をはじめとして、制度的な女性差別の存在は本邦でも様々に指摘されている。

たとえば、労働経済学者の大沢真知子の著作『21世紀の女性と仕事』では、表面上は男女平等である日本でも「雇用主や管理職の抱いているステレオタイプのために重要な仕事が割り当てられなかったり不公平な評価をされたりすること」や「妊娠・出産や育児による休業や短時間労働のために昇進の可能性が低い部署に配属されてキャリアが築けなくなること(マミートラック)」などの問題から、実態として女性はキャリアの面で不利であることが解説されている。

また、「幼いころから女性の幸せは男性によって決まると教えられているために」(大沢、p.180)女性たちが男性に対する依存願望を捨てきれず、自分が能力を発揮して活躍することよりも男性に扶養されるという選択を捨て切ることのできない「シンデレラ・コンプレックス」という問題もある。ある人はどんな状況に幸福を感じられるか、ということには社会的な要素も影響することは否めない。「女性は本人が努力して活躍するよりも、いい夫を見つけて家庭に入ったほうが幸せになれる」という価値観が残っている社会では、キャリアの道を歩む女性は「わたしは不幸な道を進んでいるかもしれない」という疑問を捨てることができず、実際に幸福を感じづらくなるだろう。

なお、適応的選好形成の理論にはパターナリズム的な押し付けがましさがあることは指摘しておいた方がいいだろう。いま自分が幸福だと思っている人に対して「あなたは差別的な社会に自分を適応させたから現在の状況を幸福に感じているだけであり、より自由で公正な社会に生まれていたら現状に満足せずにもっと充実した人生を過ごしていたはずだ」と面と向かって言ったら、反発されるのが当たり前である。

「日本の女性たちが感じている幸福や満足は適応的選好形成の結果に過ぎない」と論じることも、当の女性たちから反論される可能性がある。彼女たちは、日本社会の状況をしっかりと理解して他の選択肢も考慮したうえで、「どんな社会であっても、わたしはキャリアよりも趣味や家庭生活を選択して、その人生に幸福を感じられる」と主張するかもしれない。

とはいえ、たとえ本人の確固たる意思に基づいて家庭に入ることを選択しても、もし男性と離婚した場合にはキャリアを捨てたことが重荷となって、ひどく不安定な状況に直面するだろう。また、独身女性が日々を楽しく過ごせていたとしても、病気や災害などで思わぬ出費が必要になった場合や人生が急転した場合には、賃金格差やキャリア面での不利という現実が押し寄せてくるかもしれない。不公正や不正義は、現状における人々の主観とは別のところにも潜んでいる。だからこそ、平常時の「幸福度」は女性のほうが高いことは、「女性に対する差別や抑圧が深刻でない」ということを証明しないのだ。

4-5:「男性の幸福度の低さ」と責任の問題

幸福度の高低と差別や公正に関する議論は、逆側からも行える。

つまり、ある属性の人々の幸福度が低いからといって、それだけでは「その属性の人々に対する差別や不公正が存在すること」は証明できないのである。

先述した通り、男性は女性に比べて友人や親との関係が希薄であることが多いために、恋愛や結婚とは異なるかたちの親密性を女性ほどには得られていない。このことは、長時間労働を課せられることやキャリアへのプレッシャーと並んで、男性の主観的な幸福度に影響を及ぼしているだろう。カシオポが論じるように、孤独は「痛み」をもたらす。恋人や配偶者もいない弱者男性の場合には、孤独からくる苦痛は特に深刻なものとなる。

だが、他人との関係が希薄である人生を男性たちが過ごすことの責任を女性たちや求めることはできないし、「社会」に求めることも難しい。

そもそも、幸福とは、本人の行動や習慣、意識や「気の持ちよう」といった事柄に大幅に左右される。基本財がどのように分配されようと、ネガティブ思考が強い人やセルフケア能力に欠けている人が幸福になることは困難だ。だから、「幸福になりたい」と個人が希望したときには、自分のどのような特性が自分に不幸をもたらしているかを自覚して、意識的に修正することも不可欠である。

たとえば女性たちが友人たちとの関係を充実させることで幸福になっているのなら、男性たちがやるべきなのは、女性たちを見習って自分も友人たちとの関係を充実させることであろう。

「お前たちの幸福の分け前をよこせ」と女性たちに要求することや、「自分たちのほうが不幸なのだから自分たちへの配慮を優先すべきだ」と社会に要求することは、明らかにまちがっている。そんな要求が通用してしまうと、だれもが自分は不幸だと証明するのに躍起になるだろう(そして「被害者意識の文化」が到来することになる)。不幸であることは、他人に自分を配慮させることを正当化しないのだ。

主観的な不幸や苦痛とそれに関する責任や配慮という問題は、政治哲学における「正義対ケア」の論争とも関わっている。

リベラリストである政治哲学者のウィル・キムリッカは、ケア論の問題を指摘する文脈で、下記のように論じる。

なぜ正義を唱える理論家は、他者への責任を公正の要求に限定することが重要だと考えるのであろうか。仮に、主観的苦痛が常に道徳的な要求を呼び起こすとするならば、倫理的ケアにかかわる事柄として、私のあらゆる利益に注意を向けるよう他者に期待するのは正当である。しかし正義を唱える理論家にしてみれば、このように言うことは、自分自身の利益の一部については全責任を負わなければならない、という事実を見落としたものである。正義の視点によれば、公正にかかわる事柄として、自分の利益の一部に注意を向けるよう他者に期待するのは、たとえ他者自身の善の追求が制約されたとしても正当である。だが、自分の利益すべてに注意を向けるよう期待することは正当ではありえない。自分自身の責任の範囲内に属する利益が存在するからである。自分の責任である事柄に注意を払ってもらうため、他者に自らの善の追求をやめるよう期待するのは不当であろう。

(…中略…)

以上のように見てみれば、主観的苦痛と客観的不公正との論争は真の論争である。この論争には、われわれ自身の福利にたいする責任について、決定的に異なる立場が存在するからである。ケアを唱える理論家に言わせれば、客観的不公正を重視するならば、道徳的責任の放棄を容認しかねない。というのも、客観的不公正に従えば、他者への責任が不公正の告発に限定されるため、他者の避けえた苦痛は見落とされるからである。正義を唱える理論家に言わせれば、主観的苦痛を重視するほうが道徳的責任の放棄を容認している。というのも、主観的苦痛を重視するならば、賢明さに欠ける者が自らの選択の代償を支払うという当然のことを否定し、責任を持って行動している者に不利益を被らせ、無責任な者に得をさせるからである。

(キムリッカ、p.588-589)

キムリッカの書く通り、「自分自身の責任の範囲内に属する利益」は存在する。責任という概念は、物事の是非について判断したり利害を調停したりするための重要な指標であり、理不尽な要求とそうでない要求との区別を付けるためには不可欠なものだ。

とはいえ、どこまでが個人の責任の範囲内でありどこまでが社会に責任があるのか、特定することが困難な場合もある。

女性に比べて男性の幸福度が低いことには、一般的に男性は女性よりもコミュニケーション能力やセルフケア能力に劣っているという点も確実に影響しているだろう。これらの能力は意識的に訓練して高めることが可能であるのを考えると、「コミュニケーションやセルフケアを怠って不幸になるのは完全に自己責任だ」という主張も想定できる。

一方で、ジェンダー論者であれば「社会が権力的で暴力的な「男らしさ」を男性に身に付けさせることで、男性はコミュニケーションやセルフケアを軽視するようになっている」と主張するかもしれない。この場合には男性の不幸は「社会」のせいということになる。他方で、心理学者や生物学者のなかには、感情を軽視して物質的な事柄を重視する「モノ化志向」が生得的に強いことが、男性に生じる問題の原因だと主張する人がいる[4]。それが正しければ、個人としての男性たちの責任は薄れるだろうが、かといって社会にどこまでの責任があるか判断することも難しい[5]。また、ジョイナーは、男性の孤独や自殺率の高さの原因を生物学的なものと社会的なものとの両方に見出している。責任という概念が便宜的なものであり、どこかで恣意的な線引きが必要になることも否めない。

ここで視点を変えてみよう。キムリッカは主観的苦痛を重視するのは(正義の観点からすれば)誤りであると指摘する一方で、客観的不公正であれば正義の問題になるとも論じている。

弱者男性の問題が客観的不公正であると主張するのが難しいのは、経済力の欠如という問題は男性という属性には顕著でないことと、親密性の欠如という問題は「私」の領域に属するためにリベラリズムで扱うのは難しいことに由来した。

正義論には財の平等な分配を重視するリベラリズムのほかにも、財を分配した後に訪れる帰結に注目する立場が存在する。しかし、本節で論じてきたように、「幸福度」に注目する主張は適応的選好形成や責任という問題に対処できず、とくにジェンダーが関わる問題においては理に適った主張にならない。

しかし、帰結主義には、幸福や効用を重視する功利主義とは異なる考え方も存在する。次節では、弱者男性の経験する困難を正義の問題として取り上げるうえでは先に言及したセンやヌスバウムが提唱する潜在能力アプローチこそが最も有望な理論である、ということを論じよう。

5:潜在能力アプローチと弱者男性

 5-1: 「機能」と「潜在能力」

 センは個人の福祉という観点から「機能」と「潜在能力」を以下のように定義している。

個人の福祉は、その人の生活の質、いわば「生活の良さ」として見ることができる。生活とは、相互に関連した「機能」(ある状態になったり、何かをすること)の集合からなっていると見なすことができる。このような観点からすると、個人が達成していることは、その人の機能のベクトルとして表現することができる。重要な機能は、「適切な栄養を得ているか」「健康状態にあるか」「避けられる病気にかかっていないか」「早死にしていないか」などといった基本的なものから、「幸福であるか」「自尊心を持っているか」「社会生活に参加しているか」などといった複雑なものまで多岐にわたる。ここで主張したいことは、人の存在はこのような機能によって構成されており、人の福祉の評価はこれらの構成要素を評価する形をとるべきだということである。

機能の概念と密接に関連しているのが、「潜在能力」である。これは、人が行うことのできる様々な機能の組合せを表している。従って、潜在能力は「様々なタイプの生活を送る」という個人の自由を反映した機能のベクトルの集合として表すことができる。財空間におけるいわゆる「予算集合」が、どのような財の組合わせを購入できるかという個人の「自由」を表しているように、機能空間における「潜在能力集合」は、どのような生活を選択できるかという個人の「自由」を表している。

(セン、p.59 – 60)

センが著書『不平等の再検討』で主張しているのは、社会の善さを「基本財や資源の分配が平等であるか」という点から測るリベラリズムや「より多くの人がより大きな効用を得られているか」という点から測る功利主義よりも、「人々は潜在能力を平等に得られているか」という点から測る潜在能力アプローチのほうが指標として優れている、ということだ。

潜在能力アプローチであれば、リベラリズムと功利主義それぞれの欠点に対処することができる。

まず、基本財や資源の分配が平等であるかということだけに注目するリベラリズムでは、それらの指標では測ることのできないところに存在する不平等に対処することができない。

たとえば、ある人たちにお金と時間を与えて、「このお金と時間を使って旅行を楽しんできてください」と言ったとしよう。

このとき、与えられたお金や時間が同じであっても、健康な成人と妊婦や車椅子に乗った人が同じように旅行を楽しめるとは限らない。バリアフリーが進んでおらず身体的ハンディキャップを持った人々に対する適切な配慮が行われていない社会では、妊婦や車椅子に乗った人にとっては移動の自由や利用できる施設の選択肢が狭まるだろうし、電車の代わりにタクシーを使ったり設備の整った高い宿を選んだりする必要があるために出費がかさむかもしれない。旅行に限らず、同じような不利は日常の生活や仕事においても生じている。この事実をふまえると「同じだけのお金と時間を与えたから平等だ」と言うことはできない。むしろ、「妊婦や車椅子に乗った人が健康な成人と同じように旅行を楽しむ(生活を過ごす、仕事をする)ためにはどうすればいいか」というところから逆算して、道路や公共施設のバリアフリー化を進めたり、バリアフリーでは対処しきれない部分を賄うためにより多くのお金や時間を分配したりする、ということが平等のためには必要とされるのだ。

潜在能力アプローチは「機能」という結果を考慮するので、帰結主義という点では功利主義と共通している。

ただし、機能には「健康」や「社会生活への参加」といった具体的・客観的な指標が含まれているために、主観的な幸福度だけに注目したときに起こる「適応的選好」の問題を回避することができる。

たとえば、長時間労働を強いられて不健康である人や家庭に閉じ込められている人が「わたしはこの状況でも幸福だ」と思っていたとしても、それとは関係なく、潜在能力アプローチであれば「そのような状況は間違っており、改善しなければならない」と主張することができるのだ。

後述するように潜在能力の「客観リスト」を提示するヌスバウムの場合には、この特徴はいっそう鮮明になる。

さらに、潜在能力アプローチはパターナリズム的な「押し付け」の問題も回避している。

潜在能力とは、ある人が「健康になったり社会生活に参加したりすること」(機能)を望んだときに、それを実現できる状態が整っていることだ。長時間労働を強いられている人や家庭に閉じ込められている人は、望んでも健康や社会生活への参加を得られていないという点で、潜在能力が欠如している状況にある。一方で、「しようと思えば社会生活に参加できるけれど、社会生活に魅力を感じないので参加しない」といった状況であれば、潜在能力が満たされているので、機能が欠如していても問題とならない。センはこの違いを「飢餓に苦しむ人」と「自分の意志で断食している人」の違いに例えている。

5-2:潜在能力アプローチは弱者男性の問題にも適用できるか?

さて、基本的にセンの著書では特定の属性は対象にされておらず、一般的な正義や平等の問題として潜在能力が論じられている。一方で、ヌスバウムが潜在能力アプローチを用いている本のタイトルは『女性と人間開発』であったり

『正義のフロンティア:障碍者・外国人・動物という境界を越えて』であったりする。女性や障害者、あるいは動物という弱者の問題を扱うときには通常のリベラリズムよりも潜在能力アプローチのほうがふさわしい、とヌスバウムは論じている。

当然のことながら、彼女の著作では、(通常は強者とされる)「男性」という属性の人々が直面する問題がピックアップされているわけではない。

しかし、本稿でわたしが示してきたような「恋愛や結婚ができないこと」やそれに伴う「親密性の欠如」という弱者男性に顕著な問題は、潜在能力アプローチでこそ適切に扱えるかもしれない。

まず、センが「健康状態にあるか」「避けられる病気にかかっていないか」「早死にしていないか」といった機能を基本的なものとして定義していることに注目しよう。

カシオポやジョイナーが論じているように、親密性の欠如とそこから生じる孤独は病気や苦痛や自殺と関連していることが事実であるなら、「孤独でないこと」も重要な機能であると見なせるだろう。

そして、親密性のなかでもとくに安定した関係がカップル関係であった。それならば、恋愛したり結婚したりしたいと思っているのにそれができない男性たちは、間接的に、重要な潜在能力を欠落している状態にある。したがって、男性が恋愛できたり結婚できたりしないことは不平等・不公正であり、公的な対処が必要な問題である、と論じることができるのだ。

センは「資源や基本財を自由へと変換する能力には、個人間で差がある」ことや「変換能力の差は、単に身体的な違いによっても起こりうる」と指摘している(セン、p.49)。ごく一般的な話として、男性は平均して女性よりも背が高く体重が大きいので、女性よりも多くの栄養を必要とする。男性と女性に同じ量のご飯を与えるだけでは、健康という機能を平等に保障することにはならない。

センの議論には含まれていないが、変換能力の差は「身体的な違い」だけでなく「心理的な違い」によっても起こるかもしれない。男女に心理の傾向の差やコミュニケーションに関する指向の差があるとすれば(その差が生物学的なものであるか社会的に構築されたものであるかはともかく)、同じ条件であると、男性のほうが孤独になりやすくなる。ならば、親密性に関わる何らかの財を孤独である男性に多めに分配することや、妊婦や車椅子の人にとってのバリアフリーに当たるような社会的な配慮や制度設計を孤独な男性に対しても行われなければ平等とはいえない、と主張することもできるかもしれない。

もっとも、上記の主張は、男女の心理の差はどれくらい存在しているか、それをどのように特定できるか、という点にかかってくる。

また、リベラリストたちによる「人は自らのコントロールの下にある物事については、自分で責任を持つべきであるとする見方」(セン、p.233)に、センもある程度は同意している。先述したように、男性たちのセルフケア能力やコミュニケーション能力が欠如している理由のどこまでが生物学的要因や社会的要因のせいであり、どこまでが男性たち自身の責任であるか、特定することは困難だ。女性や障碍者の直面する問題と異なり、男性の経験する困難にはどうしても曖昧さが生じてしまう

……とはいえ、具体的な対処法や解決策が考えられないわけでもない。この点については、第7節で改めて論じよう。

5-3:「人間らしい生活」に注目するヌスバウムの議論

対処法について述べる前に、ここまでは棚置きにしてきた問題について、改めて取り上げよう。

弱者男性の経験する不利益とは、親密性が欠如することにより病気や自殺のリスクが上がるという「マイナス」が存在することに限られない。むしろ、恋愛や結婚を通じた満足感や人生の充実という「プラス」が得られていないことのほうが、より本質的で重大な不利益であるとも見なせる。

センと同じく「潜在能力アプローチ」を提唱するヌスバウムであるが、彼女の理論には、「人間らしさを経験できる善い人生とはこういうものだ」という特定の価値観に基づいた、潜在能力の客観リストが含まれている。

ヌスバウムの議論を援用すれば、特定の人々が恋愛や結婚を通じた「プラス」が得られないことも不正義であり、公的に対処が必要な問題であると主張できるかもしれない。

経済学者でもあるセンは「この機能は充実した人生にとって不可欠だ」「人間はこの機能によって満足感を得られたほうがよい」という風に、価値論的な判断を行いながら機能の優劣を評価することには消極的だ。そのために、彼が機能として挙げるのは、健康であることや病気にかからないこと、あるいは社会生活に参加することや自尊心を持つことといった、ほとんどの人が「それは誰にとっても大切だろう」と納得できるような、無難で希薄な物事に留まっている。

一方でヌスバウムの専門は古代ギリシャ哲学であり、倫理学や幸福論も彼女の守備範囲である。とくにアリストテレス哲学を研究対象とする彼女は、「人間らしい生活をするためにはこれらの機能が欠かせない」「人間にとってほんとうに価値がある物事はこれだ」という価値判断を行いながら、センよりも踏み込んだ主張を行っているのだ[6]

この[潜在能力]アプローチの背景には二つの直観的な考え方がある。第一は、特定の機能は、それを達成しているかいないかによってその人が人間らしい生活をしているか否かが分かるという意味で、人間の生活の中で中心的位置を占めているということである。第二に、マルクスがアリストテレス哲学の中に見出したことだが、単に動物的な方法ではなく、真に人間的な方法でこれらの機能を満たすことには大事な意味があるということである。人の生活があまりにも貧しくて、人間の尊厳に値せず、人間らしい力を発揮することもできず、動物のような生活であるという状況に私たちはしばしば出会う。マルクスの例では、飢えている人は十分に人間的な方法で食べ物を食べることができないということであり、これによってマルクスが言おうとしたのは、実践理性や社会性を持った生き方であろうと私は考える。人は単に生き延びるために食料を得ているだけであれば、食べるという行為は社会的理性的要素の多くを伴っていない。しかし、たとえ適切な教育や、娯楽や自己表現のための余暇や、他の人々との貴重な交際によって人間としての感覚が磨かれていないとしても、人間の感覚は単に動物のレベルでも働きうるとも論じている。マルクスはおそらく認めないだろうが、私たちはさらに表現や連帯の自由や信仰の自由といったいくつかの項目もこのリストに加えるべきだろう。その核心的概念は、「群れをなす」動物のように人生が受身的に形作られ、世の中に流されて生きていくのではなく、他の人々と協力しあい互いに助け合いながら自分自身の生活を築いていく、尊厳を持った自由な存在としての人間である。真に人間らしい生き方とは、一貫して実践理性と社会性という人間らしい力によって形作られるものである。

(ヌスバウム[2005]、p.85 - 86)

先述したように、ヌスバウムはとくに重要な潜在能力(と彼女が考えるもの)をリスト化している。「リストそのものは変更可能であり、徐々に修正されてきる」(ヌスバウム[2012]、p.90)とされてはいるが、原著が2000年刊行の『女性と人間開発』と2006年刊行の『正義のフロンティア』それぞれに掲載されているリストを見ても、その内容はほぼ変わっていない。おそらく、最初に作成された時点でかなり考え抜かれたものであり、易々と変わることはないだろう。

ヌスバウムが潜在能力アプローチを重視する目的のひとつが、インドをはじめとする非欧米諸国や発展途上国における女性差別を批判することだ。

とくに欧米諸国の人が外国の女性差別について意見を呈すると、現地の(男性の)人から「これがこの国の文化なのであり、西洋人から見ると差別的に見えるかもしれないが、実際にはこの国の女性もこの文化に満足しているので、外部からつべこべ言われる謂れはないのだ」といった反論をされることが多い。しかし、潜在能力アプローチであれば、普遍的な観点から「その国の人たちがどう思っていようがそれは女性差別であり、改善されなければならない」と主張して、反論を退けることができる。

ヌスバウムは生物学や進化心理学を採用しているわけではないが、アリストテレス的な発想に基づきながら、人間という「種」には時代や文化を超えて普遍的な共通点が存在しているという前提に立っている。したがって、「どのような物事が人間の生活を充実させられるか」「人間らしい生き方とは何であるか」ということについても国や地域に左右されない基準を設けられる、と彼女は考える。潜在能力のリストは、その普遍的な基準の具体例であるのだ。

ヌスバウムの立場は、個人にとっての価値や「善い人生」について、「当人がそれを選好するから」「当人がそれで幸せになれるから」といった主観を重視する観点ではなく外部からの基準によって判断するものであり、卓越主義とも呼ばれる。

卓越主義には「上から目線」が付き物であり、パターナリズムとも親和的であるから、リベラリズムや個人主義とは相性が悪いことは否めない。センと同じようにヌスバウムも機能と潜在能力を区別しており、後者が保障されていれば実際に機能が実現できているかは問題ではない(だれかが自分の意志に基づいて「善くない人生」を過ごすことは構わない)、としている。それでも、価値や「善い人生」についての外形的な定義を示そうとする時点で、「わたしはそれに価値があるとは思わない」「何の権限があってお前が他人の人生の善さを決められるのだ」という反発は避けられないだろう。

だが、価値や善さを具体的に指定できることこそが、卓越主義の利点でもある。適応的選好形成の問題を避けられるだけでなく、リベラリズムに存在していたような公私分離の問題にも対処できるからだ。

基本財の分配のみに焦点を当てるリベラリズムでは、「善の構想」の範囲内の問題とされる物事は正義の関わる問題であるとされなかった。しかし、ヌスバウムによれば、重要な潜在能力の最低水準が満たされていないことは「不公平で悲劇的な状況と見なされるべきであり、緊急な配慮が必要である」(ヌスバウム[2005]、p.85)。

そして、彼女のリストのなかには「感覚・想像力・思考」や「自然との共生」や「遊び」など、従来のリベラリズムでは明らかに「善の構想」の範囲内と見なされるような物事も含まれている。ある人が「美術館に行って芸術を鑑賞したい」と思っているのにそれができないことや、「動物と一緒に生活したい」と思っているのにそれができないことは、ロールズ的なリベラリズムであれば正義が関わる問題とはされないが、ヌスバウムの潜在能力アプローチなら「人間らしい生活」を過ごすための選択肢を奪われているという点で不正義だと見なせるのだ。

5-4:恋愛や結婚と「人間らしさ」

ここまでに解説してきた、ヌスバウムの潜在能力アプローチであれば、リベラリズムの公私分離を回避して、「善の構想」の範囲内に含まれていた物事も正義の対象にすることができる。

すると、もし、だれかと恋愛したり結婚したりすることが重要な潜在能力であると見なせるならば、弱者男性のおかれている状況は悲劇であり、公的に対処される必要がある不正義だと主張することもできるはずだ。

もっとも、多くの哲学者と同じように、ヌスバウムは「愛」についてはさまざまなところで語っているが「恋愛」についてはあまり論じていない。むしろ、『女性と人間開発』のなかでは、ロマンチック・ラブ的な恋愛観は近代西洋に固有のものだとして否定されている。結婚についても、夫婦を中心とした核家族を自然なものであるとする発想は西洋的なものであるとしてやはり切り捨てられて、インドの寡婦は結婚生活が終わったことを喜んで再婚の意思を持たなかったり、インドや南アジアの女性は男女関係の代わりに「女性たちの相互支援のためのグループ」を築いていることが示されたりしている。

とはいえ、特殊なのは西洋ではなくインドのほうである、とは指摘できるかもしれない。なにしろ、インドでは女性差別がとくに深刻であり改善の必要があるということは、ヌスバウム自身が『女性と人間開発』のなかで繰り返し主張しているのだ。男女が平等であり両性が互いを尊重する社会であったなら、インドの寡婦も夫の死を悲しんでいたかもしれない。

それでは、ヌスバウムによる潜在能力の客観リストを見てみよう。

私見では、リストのうちの以下のような箇所が、恋愛や結婚に関係付けられる。

・性的満足の機会と妊娠・出産のことがらにおける選択の機会とを持つこと。(三「身体の不可侵性」から)

・自分たちの外部にある物や人びとに対して愛情をもてること。私たちを愛しケアしてくれる人びとを愛せること。そのような人びとの不在を嘆き悲しむことができること。概して、愛すること、嘆き悲しむこと、切望・感謝・正当な怒りを経験することができること。(五「感情」から)

・他者と共にそして他者に向かって生きうること。ほかの人間を認めかつ彼らに対して関心を持ちうること。さまざまな形態の社会的交流に携わりうること。他者の状況を想像することができること。(七「連帯」から)

(ヌスバウム[2012]、p.90~92)

実際問題として、現代の先進国に生きる一般的・平均的な人々がこれらの機能を経験するのは、多かれ少なかれ恋愛や結婚を通じてであるだろう。あるいは、他のかたちで経験できるとしても、恋愛や結婚を通じてのほうが濃厚な経験ができたり、経験の中身を充実させたりできる。

性的な規範が時代によって変動して緩くなっているとしても、恋人や配偶者としかセックスしないという人はいまだに主流派である。親や友人に対して愛情を持つ人もいるだろうが、恋人に対する愛情はそれらを上回ることが多いものだ。「他者と共に生きよう」と思ったときには、シェアハウスで暮らすよりも特定の相手と同棲することや結婚して家庭を持つことを希望するほうが、男女ともに一般的である。

結局のところ、恋愛したり結婚したりすることは、人間らしい人生を過ごすことに深く関わっている。学問の世界ではなかなか主張しづらいこの見解は、常識的であるがゆえに真を突いているはずだ。

だから、ある人たちから恋愛や結婚をしたいと思っているのに、それをする機会や選択肢が奪われている状況は、悲劇であり不正義であると表現することができる。したがって、「弱者男性の状況も悲劇であり、彼らの経験している苦しみには公的な対処が必要だ」という主張は成立するのだ。

(後編に続く)

 


<参考文献>
アマルティア・セン、池本幸生・野上裕生・佐藤仁(訳)、『不平等の再検討 潜在能力と自由』、岩波書店、1997年。
マーサ・ヌスバウム、池本幸生・田口さつき・坪井ひろみ(訳)、『女性と人間開発』、岩波書店、2005年。
マーサ・ヌスバウム、神島裕子(訳)、『正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて』、法政大学出版局、2012年。
ウィル・キムリッカ、『新版 現代政治理論』、千葉眞・岡崎晴輝 (監訳)、日本経済評論社、2005年。
ジョン・T・カシオポ、ウィリアム・パトリック、柴田裕之(訳)、『孤独の科学 人はなぜ寂しくなるのか』、河出書房新社、2010年。
筒井淳也、『結婚と家族のこれから 共働き社会の限界』、光文社、2016年。
金野美奈子、『ロールズと自由な社会のジェンダー』、勁草書房、2016年。
山田昌弘、『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか? 結婚・出産が回避される本当の原因』、光文社、2020年。
大沢真知子、『21世紀の女性と仕事』、左右社、2018年。
神島裕子、『ポスト・ロールズの正義論 ポッゲ・セン・ヌスバウム』、ミネルヴァ書房、2015年。
Joiner, Thomas. Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success. Palgrave Macmillan.2011.

 

[1] ロールズと同じくリベラリズムの代表的な論客である法哲学者のロナルド・ドウォーキンの議論では「基本財」の代わりに「資源」という言葉が用いられており、その定義や議論における位置付けも異なる。とはいえ、「個々人のそれぞれの目的追求に役立つ、ニュートラルな価値を持つもの」という点は共通している。
[2] この段落では、社会学者である金野美奈子の著書『ロールズと自由な社会のジェンダー』でまとめられている、政治哲学者のスーザン・オーキンによるロールズ批判を参考にした(金野、p.117~126)。
[3] 男性が「公」の領域に閉じ込められており「私」の領域に関わることができていないという議論は、男性学においても多々なされている。
[4] 『21世紀の道徳』第7章「フェミニズムは男性問題を扱えるか?」で詳しく論じている。
[5] たとえば女性は妊娠や生理を経験するという生物学的な現象のために男性に比べて不利益を被っているが、それらの不利益に対しては社会的に対応・補償した方が望ましい、ということには広く合意が取れている。しかし、これらの不利益の存在は物理的・外形的に明らかであるのに対して、モノ化志向とは心理や認知という内面に関わるものである。男性はモノ化志向が生得的に強いということを認めたとしても、それが個々人の経験する実際の不利益とどこまで相関しているかを特定することは困難だ。
[6] アリストテレスの幸福論については『21世紀の道徳』の第11章「快楽だけでは幸福になれない理由」を参照してほしい。

1989年生まれ。批評家。立命館大学文学部英米文学専攻卒業(学士)、同志社大学グローバル・スタディーズ研究科卒業(修士)。
個人ブログでは「デビット・ライス(Davit Rice)」名義で、倫理学・動物の権利運動・ポリティカルコレクトネス・ジェンダー論などに関する文章や書評・映画評論などを発表している。初の著書『21世紀の道徳』が好評3刷。
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