1:「理念」に基づいた弱者男性論が必要な理由
1-1:規範に関する議論の性質
これまで、この連載では「特権」や「トーン・ポリシング」、「マイクロアグレッション」という概念や理論について取り上げてきた。これらのいずれもが、「この社会のなかでマイノリティは不利な立場に置かれており、その生活や活動には不当な制限が課せられている」という差別構造の問題を指摘するために用いられるものであった。
差別構造を取り上げた理論では、マイノリティの不利さとともにマジョリティの有利さが強調される。マジョリティは特権を持っているために、トーン・ポリシングもマイクロアグレッションも受けることがないとされる。だからこそ社会はマイノリティの利益を考慮したものへと変革されるべきであり、個々人としてのマジョリティは自分の特権を反省しながらマイノリティのための社会変革に協力すべきである……という風に主張が展開されていくのだ。
表面的には、特権やマイクロアグレッションに関する議論は記述的なものに見える。社会学や心理学の理論を用いながら、社会の構造やそれによって個人にもたらされる影響といった「事実」を明らかにする、という風に議論が展開されていく。だが、実際には、これらの議論の多くは明らかに規範的なものであった。つまり、「社会はこのように変革されるべきだ」「個人はこのような行動をするべきである」といったべき論が、特権やマイクロアグレッションに関する議論には内包されているのだ。
慎重に考えるなら、たとえば「社会にはマイノリティに対する差別構造が存在する」という事実を明らかにしたとしても、それだけでは「社会はこのように変革されるべきだ」という主張をすることはできない。社会学の理論は差別構造を分析して特定するためには役立つとしても、本来、記述的な議論と規範的な議論とは別物であるはずだ。「現在の社会はこうなっている」という発見と「これからの社会はこのように変わるべきだ」という提言をつなげるためには、「理想的には、社会はこのようであるべきだ」という理念が必要になる。
理念について論じる学問のなかでも代表的なのが倫理学である。ただし、倫理学は組織や社会を対象にすることもあるとはいえ、基本的には個人に焦点を当てた学問だ。「ある人の行動や判断の基準とはどのようなものであるべきか」「人はどのような生き方をすべきであるか」といった問題が倫理学の中心にあり、それは「社会はどうあるべきか」という問題と関連していることも多いが、イコールではない。
社会、あるいはもっと具体的に「国家」や「政治制度」を対象として、それがどうあるべきかという理念を論じる学問としては政治哲学が存在する。ただし、ひとくちに政治哲学といってもその範囲は広く、「そもそも政治とはなんであるか」「国家とはどのような存在であるのか」といった記述的な問題について原理的なレベルで考えることも含まれている。政治哲学のなかでもとくに規範や理念に関して研究・議論する分野が正義論だ。
正義論で扱われる問題のひとつが、ある政策が決定されるまでにはどのような過程があるべきか、すべての問題を民主主義的な多数決によって判断されるべきかそれとも問題の種類によっては専門家や権力者の判断に委ねられるべきか、といった手続き的正義に関する議論である。
もうひとつが、財産や資源や自由や権利はどのような根拠に基づいてどのような割合で人々に分配されるべきか、機会と結果や義務と責任の考えをどのように考えてそれぞれにどれくらいの重みを置くか、といった分配的正義の問題だ。ある人の能力や社会に対する功績とその人が得られる報酬はどれくらい比例すべきであるか、他の項目よりもとくに自由が全員に分配されることを最優先すべきか否か、機会の平等と結果の平等のどちらを重視するか……といった様々なトピックについて各論者が「公正な分配とはこのようなものである」ということを主張していきながら議論を行い、互いの主張を批判したり訂正したりしながら「正義」の理念を探ることが、正義論という分野で行われている営みだ。
倫理学と同じように、正義論を行なっている人たちは自分たちが「べき論」を唱えていることに意識的だ。だからこそ、これらの分野で「〜すべきだ」という結論を出すためには、かなりの段階を踏むことになる。自分とはまったく異なる規範を唱えている人を議論の相手にしなければいけないし、自分が唱えようとしている規範に対して想定される数々の批判に応答するための準備も整えなければいけない。議論を経ながら、自分の唱える規範の詳細についてじっくりと論理的に説明していき、多くの人になんとか納得してもらえるように主張を深めなければならない。
他人に対して倫理や正義を説くときには、理に適った議論を行う必要がある。その結果として、倫理学や正義論に基づいた主張は、ニュートラルでフラットなものになることが多い。自分の属している立場にとってばかり都合が良くて他の立場の人のことを考慮しないような主張が納得してもらえることはないから、どんな立場の人にもそれぞれの利害や言い分があることを前提にしたうえで、客観的な視点を意識した議論を展開することになる。マイノリティが受けている不利益を無視するような主張は批判されるだろうが、マジョリティに不条理な義務や責任を課す主張もそうそう受け入れられない。「べき論」を明示的に主張するためには、マイノリティやマジョリティを問わず誰しもに存在する理性に訴えかけることが不可欠になるのだ。
1-2:「裏技」で規範を主張することの問題
本連載でトーン・ポリシングについて論じた稿では、この概念は民主主義的な議論に求められる要件をすっ飛ばして自分たちの要求を通すことを正当化するための「裏技」のようなものである、と記した[1]。そして、トーン・ポリシングに限らず、特権理論やマイクロアグレッション理論を含む近年のポリティカル・コレクトネス的な理論や概念には、多かれ少なかれ「裏技」的な側面がある。
ある種の議論では、「べき論」を展開する代わりにマイノリティに対する差別構造やマジョリティが有利な立場にいるという事象を記述することによって、マイノリティを優遇する主張やマジョリティに義務や責任を追加する主張を正当化しようとする。このとき、「正しい社会とはどのようなものであるか」という理念に基づきながら「マイノリティの不利益にはどのような配慮をして、マジョリティの有利さにはどのように対処するべきか」といった規範を明示的に論じることは回避される。
そして、過去の記事では、「裏技」は他の立場の人からも利用されるという問題を指摘した。昨今の状況では、「自分たちの利益も考慮されるべきだ」「自分たちにはこのような義務や責任を課せられるいわれはない」と論じるためには、「自分たちこそが被害者の立場にいる」と主張するのが近道になってしまう。「べき論」を展開する代わりに差別構造の存在や立場の有利不利を指摘することが、規範を主張するときの作法になっているからだ。しかし、構造や立場に関する議論とはゼロサムゲーム的なものとなることが多い。「不利な立場にいるほうが絶対的に配慮されるべきであり、義務や責任は有利な立場にいるほうにのみ課されるべきだ」という論調が強くなる。規範について明示的に論じる場合とはちがい、互いの利害や言い分を考慮しながら適切な落としどころや妥協を探るということは行われない。
だが、前稿でも論じた通り、被害者という立場を追い求めることは本人の精神衛生や幸福に害を及ぼす[2]。結果として起こっているのは「底辺への競争」とでも言うべき事態だ。利害の対立する当事者たちのどちらもが「自分は不利な立場にいる」と力説することは、当事者たちにとっても社会全体にとってもネガティブな影響をもたらすのである。
本稿のテーマは「弱者男性論」である。
この文章でわたしが示したいのは、どんな立場の人であっても、自分たちの利益に配慮するよう社会に要求するなら、理念を提示して人々の理性に訴えるかたちで主張すべきである、ということだ。
自分たちに対する配慮を社会に求めるなら、できるだけ他の立場の人にも届いて納得してもらえるような議論をしたほうがいい。また、民主主義的な社会においてはどんな立場の人であっても自分と他人を対等な存在に扱うことが求められる。そして、結局のところ、全ての人が平等に配慮される公正な社会を実現するためには、理念や理性に基づいた議論を積み重ねるほかに方法はないのである。
1-3:「弱者男性論」の概要
ひとくちに「弱者男性論」と言っても、その実態を把握することは難しい。
「男性学」がアカデミックな一分野として確立しており、自他ともに「男性学者」と認める人たちによる書籍や論文が多数出版されているのに対して、弱者男性論はそのように制度化されていない。その主張のほとんどはTwitterを主とするSNSやブログサイトで展開されており、書籍などの形式でまとめられることはごく稀だ。また、他人からは「弱者男性論者である」と見なされているが本人はそう思っていない場合もあれば、その逆もある。
その一方で、2010年前後から本邦のインターネットで展開されてきた論争の風景を観察している人であれば、「弱者男性論」とカテゴライズされる一連の主張が強い存在感を示し続けていることに気が付いてきたはずである。
ひとまず、弱者男性論とは「自分たちは「弱者」であると自称する男性たちが、自分が感じているつらさや苦しみや自分たちが被っている不利益を訴えて、自分たちの境遇の改善を求める議論」と定義しておこう。
男性のつらさを取り上げるという点では、弱者男性論は男性学と類似しているところもある。だが、男性学者たちの主張がジェンダー論やフェミニズムの理論を前提にしたものであるのに対して、多くの弱者男性論者たちはフェミニストこそが主要な論敵だと見なしている。「社会の構造は女性差別的であり、不利益や被害を受けているのは女性である」というフェミニズムの主張に対して「社会の構造は男性差別的であり、不利益や被害を受けているのは男性である」という主張をぶつけるのが、彼らの議論の基本だ。したがって、フェミニストの対義語であるマスキュリニストというカテゴリで呼ぶこともできるかもしれない。
ただし、基本的にフェミニズムの主張では「社会から女性差別をなくすべきだ」という規範的な主張やそのための具体的な提言がセットになっているのに対して、弱者男性論者たちのなかには主張が曖昧な者も多い。「この社会から男性差別の被害はなくならない」と諦観して受け入れているようでありながらも、フェミニズムの主張を反転させる「ミラーリング」という行為に固執したり、フェミニストの主張に対するパロディや揶揄などの「からかい」を繰り返したりする論者もいる。だから、自分たちの境遇の改善を本気で求めているのか、それとも「男性が受けている不利益や被害」を喧伝するのは女性たちの主張を否定したり女性たちに嫌がらせしたりするための手段に過ぎないのか、判断が付かないような場合も多々あるのだ。
とはいえ、弱者男性論においても、男性の「つらさ」をストレートに訴えて、男性が受けている不利益が是正されるべきだと主張されることもある。そして、このときに論じられる「つらさ」とは恋愛や結婚に関わるものであることが多い。弱者男性論は「非モテ論」と呼ばれる議論にも接近している。いちども異性と付き合うことができず結婚もできないこと、そのために人生において孤独感や承認の欠如を感じ続けてきたこと、そしてそのような状況は女性よりも男性のほうが経験しやすいことが、「男性のつらさ」と表現されるのだ。
また、弱者男性論や非モテ論では「キモくて金のないおっさん」という自嘲的な表現が使われることがある。男性が女性と付き合えたり結婚したりするかどうかには、コミュニケーション能力や外見に関するセルフケア能力も関わってくるが(これらが欠けている男性が「キモい」ということだ)、それ以上に経済力が重要であることが、しばしば強調される。貧困であったり充分な収入が得られていなかったりする男性は、女性から恋愛や結婚のパートナーとして選ばれず、恋人や配偶者を得られない可能性が高い。したがって、経済力が欠如している男性は、恋愛や結婚もできないという二重苦を経験することになる。その一方で、女性の場合は収入が低かったり正規職に就けていなかったりしても恋愛や結婚を経験できる人は多い。このことから、貧困であることは女性にとってよりも男性にとってのほうがさらに深刻な問題であると主張される。
さらに、「男性にも「ことば」が必要だ」の稿でも触れたような「男性の幸福度の低さ」や「男性の自殺率の高さ」について問題視することも、弱者男性論では定番の主張である[3]。このとき、長時間労働や残業などの仕事の負荷が男性に偏っていることが、幸福度の低さや自殺率の高さの原因であると指摘されることも多い。一方で、恋愛を経験できないことによる孤独感や未婚率の高さがこれらの問題の原因として挙げられる場合もある。
他にも、弱者男性論(またはマスキュリニズム)にカテゴライズされる主張にはいくつかの種類がある。たとえば、「自衛隊員(軍人)や消防士、建設労働者やトラック運転手やゴミ回収業者などの身体や生命の危険を伴う仕事に就いている人の大半が男性であるという事実は、社会に男性差別が存在することを示している」というものだ。
また、弱者男性論は「オタク」による運動と重なっている場合もある。性的な表現を含んだ漫画やアニメなどのフィクションを流通させることや、性的と見なされる女性キャラクターのイラストを公共空間に掲示することに関する自由や権利を守るための運動をしている人のなかには女性も含まれているとはいえ、その多くは男性である。そして、これらの運動ではフェミニストが主要な論敵と目されていることが多いために、オタクたちは共通の「敵」を介して弱者男性論と結び付く。単純に言うと、弱者男性論者のなかには「性的な表現の自由は守られるべきだ」という主張をしている人も多いということだ。
1-4:弱者男性論に日の目が当たらない理由
上述したような弱者男性論の主張は、インターネットやSNSにハマっている人の一部にとっては馴染み深いものかもしれない。しかし、弱者男性論はあくまでネットを中心として展開されている議論であり、リアルの場ではほとんど流通していない。議論や思想が好きな人であっても、書店や図書館に通っていたり大学や学会に通っていたりするだけであれば、目にする機会はまったくないかもしれない。だからこそ、弱者男性論はかなり扱いにくいものとなっている。
弱者男性論の主張が流通しない理由のひとつは、現状のアカデミアでは、「男性のつらさ」を訴える議論は「男性学」にしか回収され得ないということだ。「男性にも「ことば」が必要だ」でも指摘したように、男性学は男性たちよりも女性たちのほうを向きながら論じられているきらいがあり、多くの男性にとっては自分たちの利益や主張を代弁してくれるものではなくなっている。女性にとってのフェミニズムや、性的・人種マイノリティの人々にとってのマイノリティ・スタディーズに相当するものは、男性にとっては存在しない。したがって、男性が受けている不利益や被害を男性の立場から訴える主張、あるいはフラットでニュートラルな立場から論じる主張すらもが、アカデミックな世界では居場所を見つけられず、こぼれ落ちてしまうのだ。
同様の問題は、学者ではない小説家や批評家などによる著作物にも存在している。物書きの世界ですら「男性のつらさ」について(男性の立場から)論じる文章は流行外れになっているのだ。これにはジェンダーについて書かれた本やエッセイ本を買うのは女性のほうが多いという点も影響しているだろう。出版社や本屋からは、弱者男性論やマスキュリニズムはフェミニズムの本に比べて商品価値のないものだと見なされているかもしれない。
しかし、弱者男性論者たちの側にも問題はある。
彼らは、自分たちの主張を適切に理論化して、社会に向けて訴えることができていない。その一因は、彼らの多くが自分たちの境遇を改善するよりも女性やフェミニズムを非難することを優先している点にある。また、ニヒリズムに傾倒して、規範や理念についての議論を軽んじたり冷笑したりする人も多い。彼らは、倫理学や正義論に基づいた議論を理解したり受け入れたりすることができない。したがって、「男性が受けている不利益や被害の問題には、公的な対処がされなければならない」という主張を、他の立場の人たちからも納得が得られるようなかたちで提言することが困難になっているのだ。
現状の弱者男性論は、規範や理念に繋がる経路を失っているか、自分たちの利益だけを考慮して他の立場の人のことを無視した自己中心的で極端な規範しか提言できなくなっている。
とはいえ、状況を現在のままにしておく必要はない。本稿では、マジョリティと見なされがちな「男性」という属性が受けている不利益について具体的に分析したのちに、「男性が不利益を受けていることは正義に反しており、公的な対処が必要な問題である」と主張できるかどうか、リベラリズムをはじめとする様々な正義論を参照しながら検討しよう。
なお、本項では、男性の受ける不利益のなかでも「恋愛や結婚の欠如」とそこから生じる「孤独」というトピックについてとくに焦点を当てることにする。弱者男性論のなかでも恋愛や結婚に関する問題は他に比べて話題になることが多く、中心的なトピックだと見なせることが、主な理由だ。
また、わたし自身、個人的な経歴から「危険な仕事が男性に偏っていること」や「性的な表現の自由」といったトピックよりも、「孤独」や「(経済的な理由により)恋愛や結婚ができないこと」というトピックに対する関心のほうが強い。どんな問題においても、自分自身が関心のあるトピックに関して論じたほうが、問題について真剣に考慮した中身のある議論を展開できるものだ。このことも、これらのトピックを本項で取り上げる理由である。
2:恋人がいないことや結婚できないことの不利益とはなにか?
2-1:恋愛や結婚できないことが「損」だと主張しづらい背景
そもそものところから始めよう。ほしいと思っているのに恋人ができないことや、したいと思っているのに結婚できないことは、問題だと見なされるべきだろうか?
おそらく、一般的には、それらを求めているのに恋人がいなかったり結婚できなかったりすることにはなにかしらの不利益や「損」が含まれている、と考えられるだろう。だいたいの人は、自分自身がそういう立場に置かれることを嫌がるはずだ。そして、他人に恋人がいなかったり結婚できなかったりすることも、その状況は本人が選択したのではない不本意なものであるのなら、その人のことを気の毒に思うだろう。
しかし、とくに昨今では、恋人がいないことや結婚できないことが問題であると指摘するのも難しくなっているところがある。たとえば、若者の「草食化」はわたしが若者であった10年以上前から注目されていたが、最近では若者の「恋愛離れ」に関するニュースがよりいっそう注目されるようになった。VTuberに代表されるようなバーチャル・リアリティの発展と普及、あるいは「推し」の文化が知名度を得たことにより、メディアでは「最近の若者はVTuberやアイドルへの推し活動をすることでロマンス的な感情を満たしており、身近にいる特定の生身の人間と恋愛することは億劫で魅力がないものだと感じている」という議論がもっともらしく語られている。
また、性的少数者に配慮する意識が普及したことにより、一般論のレベルで「恋愛」や「結婚」が個人の幸福にとって大切であると主張するのも憚られるようになってきた。「恋愛には価値がある」と言ってしまうと「アロマンティックの人の人生には価値がない」と主張しているように思われてしまうかもしれない。結婚の大切さを説くことは、結婚することが法律で認められていない同性愛者に配慮していないと批判されるかもしれない。
一方で、性的少数者の人々が受けている苦痛や不利益の原因がマジョリティの偏見や家父長的な婚姻制度にあるとすれば、それは深刻で不道徳な「差別」であるということはわかりやすい。学問の世界では性的少数者の問題が取り沙汰されやすくなった。その代わりに、シスジェンダーでヘテロセクシュアルの人々による「ふつうの恋愛」についての注目は薄れているのだ[4]。
しかし、表面的な風潮がどうであれ、多くの男女にとって恋愛や結婚はいまだに人生の一大事である。
たとえば、VTuberや「推し」文化が登場する前からも、「オタクの若者はアニメやゲームなど二次元のキャラクターに萌えることで性や恋に関する欲求を満たしており、生身の異性には興味を抱かなくなっている」という言説は若者論の定番であった。しかし、わたしが大学時代に入っていたオタク系のサークルでは、二次元キャラに萌えているはずのオタクたちが生身の異性を対象とした恋愛感情を抱いており、同棲生活を楽しんでいたり片想いで苦しんでいたり三角関係の泥沼に嵌まっていたりした。
また、現代でもマッチングアプリをスワイプしてみれば、多くの若い男女が恋人を求めていることは見て取れる。
結局のところ、特定の(生身の)相手を対象にして、会話やデートやセックスを繰り返しながら互いに関する理解を深めていき互いを慈しみあう「絆」を結ぶことは、古来から人間に伝わる普遍的な欲求であるのだ。例外はあるし、社会制度や科学技術や文化や経済の状況で多少は変動するだろうが、それでも人間のデフォルトはそう易々と変わるものではない。メディアやアカデミズムから離れてふつうの人々の世界に目を向けてみれば、大半の人は恋愛や結婚を求めていること、そして求めているのにそれらが得られないのは損や不利益であるということは、現在でも常識として共有されている考え方であるように思える。
2-2:「親密性」とカップル関係
アカデミックな議論、そのなかでも人文学においては、常識を擁護したり常識に立脚した主張を展開したりすることは難しい。
前著『21世紀の道徳』では、恋愛・結婚に関する「絆」への欲求は普遍的なものであると論じるために、脳科学や文化人類学や進化心理学などの知見を参照した。しかし、これらの学問も、必ずしも万人からの支持を得られているわけでもない。とくに人文学に携わる人々や人文学的な考え方に馴染みのある人にとっては、人間の生物学的な性質や傾向を前提とした議論は受け入れ難いであろう。
とはいえ、生物学を経由せずとも、「恋愛や結婚は大半の人間にとって重要なものだ」という主張を補強することはできる。以下では、「親密性」に関する社会学の議論を参照してみよう。
社会学者である筒井淳也の著書『結婚と家族のこれから 共働き社会の限界』では、「親密な他者との情緒的つながりは、私たちに幸福感をもたらす極めて大きな要素 (筒井、p.236)」であると指摘したうえで、「カップルを形成してそこで子どもを作る」ことをできる人とできない人との差が広がった現代は「家族の不平等体制」であると表現されている。
他人と関わることによる情緒的な満足は、友人との交流や行きつけの店の店員とのコミュニケーションからも得ることはできるが、それらは安定していない。いつ店を辞めるかもわからないアルバイト店員と、長期的で親密な関係を築くことは難しい。店長と仲良くなったとしても、店自体が閉まったり潰れたりする可能性もある。また、いくら仲の良い友人がいたとしても、いつか遠くに引っ越してしまうかもしれない。友人が近くに住んでいたとしても、相手が結婚して家族ができたなら、友達付き合いの機会は減るだろう。
一方で、原則として「一対一」で行われる恋愛や結婚には「排他性」という特徴がある。別れたり浮気や不倫をされたりする可能性もあるとはいえ、基本的には、カップル関係とは継続的で安定したものだ。誰かと付き合っているなら、週末にデートしたり同じ建物で寝食を共にしたりするというコミュニケーションを定期的に行うことができる。結婚していればコミュニケーションの頻度はさらに増すだけでなく、「二人は夫婦である」と周囲からも認められたり婚姻関係に対する法的な保護(と義務)が与えられたりすることで、関係はさらに安定したものになる。もし仕事の都合などで引っ越しする必要がある場合にも、配偶者が一緒に付いてきてくれることが期待できるだろう。
カップルとは「人間関係の最小単位」であり、そのために店員との交流や友人関係よりも「あてにできる長期的なパーソナル関係」である(筒井、p243)。友人しかいない人と比べて、恋人や配偶者がいる人は、親密性とそこから得られる情緒的な満足を確保できているという点で優位な立場にいる。……だからこそ、カップルを形成できている人といない人という差が存在する社会の状況は、不平等であると問題視することができるかもしれない。
2-3:男性の友人関係や親子関係は希薄である
カップル関係とは、同性愛の場合を除けば一人の男性と一人の女性との間で築かれるものだ。ごく単純に考えると、恋人や配偶者のいない男性がいれば、それと同じ数だけ、恋人や配偶者のいない女性がいることになる[5]。すると、「カップルが形成できないことで親密性を得られない」という不利益は男女の両方にとって同じように深刻な問題であり、どちらかの性に偏って生じているわけではない、と考えることもできるだろう。
しかし、おそらく、カップルを形成できないことの問題は男性にとってのほうがより深刻だ。男性に比べると女性はカップル以外の関係からも親密性を安定して得られる場合が多いために、筒井が述べているような「カップル以外の親密性はあてにならない」という問題は、とくに男性にとって顕著な問題となる。
心理学者のトマス・ジョイナーの著書『Lonely at the Top: The High Cost of Men's Success(てっぺんで一人ぼっち:男性の成功の高い代償)』では、男性は対人スキルを身に付けないまま成長してしまうために、昔からの友人関係を維持したり新しい友人を作ったりするのが女性に比べて不得意になる、という問題が指摘されている。
ジョイナーによると、多くの女性は、男性と比べて、子供の頃から複雑な人間関係を経験している。男の子どうしの関係とは違い、女の子どうしの関係では、互いに対して気配りをし合うことが要求される。さらに、大半の男の子には同級生の男友達しかいないが、女の子は年上や年下の子とも友人になることが多い。気配りをし合う関係や異なる年齢の友人とも関わる経験を通じて、女性は、対人スキルを身に付けるための「訓練」を子供の頃から受けることになる。
結果として、多くの女性は大人になってからも新しい人と友人になることができて、その人との関係を継続する能力も身に付けている。たとえば社会人になったあとにも、女性同士は互いにランチに誘ったり連絡先を交換することが多く、会社内で人間関係を構築したり新しい友人を作ったりすることが男性よりも得意であるのだ。
「女性同士の友人関係は面倒くさくてドロドロしている一方で、男性同士の友人関係はさっぱりとしていて純粋なものである」というイメージを持っている人は多いかもしれない。だが、男性同士の関係がさっぱりしているように見えるのは、ただ単にお互いに配慮しあっていないことの裏返しでもある。女性たちに比べると、男性たちは友人に対して気配りすることが少なく、こまめに連絡を取り合うなどして関係を継続する努力も怠る。そのため、男性どうしの友人関係とは、脆くて信頼のおけないものである場合が多い。
さらに、子供の頃に複雑な人間関係を経験しないがゆえに、男性は女性に比べて対人スキルを身につける機会がなく大人になる。そのため、昔からの友人がいなくなったときに新しい友人を見つけることも、男性にとっては難しい。会社の同僚ともビジネスライクな関係しか持てず、プライベートな話をしたり仕事が終わった後に遊びに誘ったりすることにも抵抗感を抱いてしまう男性は多くいるだろう。
ジョイナーの議論はアメリカに限らず日本にも当てはまるように思える。わたしの周囲の男女を観察しても、子ども時代や学生時代からの友人との関係を社会人になっても維持して、一年に一度の同窓会というレベルでもなくもっと頻繁に交流を続けられている人は、女性のほうに多い。また、わたしの身近には男性同士・女性同士のそれぞれでシェアハウスを経験した人たちがいるが、男たちのシェアハウスは破綻したのに対して女たちのシェアハウスはいまでも続いている。
もちろん男女ともに例外は多々あるだろうが、女性は同性に対しても異性に対しても配慮や気配りができるために親密な友人関係も薄く広い交友関係も維持できること、男性はそうではないために人間関係のプールが狭くなりがちなことは、一般論や平均的な傾向としては事実であるように思える。
さらに、私見を述べると、日本の男性は実の家族からの親密性を得られていないことが多そうだ。
たとえば、女性のなかには大人になってからも母親と良好な関係を維持して、一緒に食事や買い物や旅行に行く人が多い。定期的に電話をして互いの現状を報告するという習慣も、とくに母と娘との間で一般的なようだ。それに比べると、「父と娘」や「母と息子」、「父と息子」の関係は希薄に見える。成人した男性が両親のどちらかと一緒に遊びに出かけることは珍しい。また、進学や就職で実家を出てからは、具体的な用事もないのに両親に電話をかけたり連絡したりすることはない、という男性はわたしの周りに多くいる。
わたしの場合は、おそらく「家族は大切であり、コミュニケーションは定期的に行うべきだ」というアメリカ的な価値観の影響もあってか、社会人になってからも母親が毎週のように電話をかけてくる。「めんどうくさいな」と思うこともあるし、「毎週電話をしている」と同世代の男性に話すと奇異に思われることもあるが、そのおかげで親子関係の「親密性」がいまだ失われていないとも言えるだろう。逆に言うと、日本の母親は息子が実家にいる間は世話をしたりするかもしれないが、息子とのコミュニケーションに積極的ではないのかもしれない。
また、ジョイナーは、男性は子供の頃から「甘やかされる」ことも対人スキルを成長させられない一因であると指摘している。男子は何もしなくても両親から気配りされて、成長しても家族に対して自分のほうから気配りしたりしなくても許されることが多い(それに比べると、女子には家族に対して気配りすることを求めるプレッシャーがかけられる)。おそらく、この傾向は、アメリカよりも日本においてさらに強い。日本の男性の多くは、親と定期的にコミュニケーションしたり感謝を表明したりすることに気恥ずかしさを感じるだろうし、「そうしなくても許されるものだ」という通念を抱いているようだ。
結果として、日本の男性は女性に比べて希薄な親子関係しか経験できず、そこから情緒的な満足を得ることもできなくなっているのかもしれない。
2-4:「親密性の不平等」を問題視するべきか?
ジョイナーの議論やわたしの観察が妥当であるとすれば、以下のことが言える。とくに(日本の)男性にとっては、友人関係や親子関係は親密性として不安定で希薄なものでしかなく、情緒的な満足を得るうえで頼りになるものではない。
したがって、恋愛や結婚などのカップル関係が、安定して信頼できる親密性の「最後の砦」として重要になってくる。
だが、誰もがカップル関係を築けているわけではない。
とくに近年では経済の影響からカップル関係が築ける人と築けない人との差が拡がっている。そして、第1節でも触れたように、経済力の有無と恋人や配偶者の有無はとくに男性の場合には関係がある。収入が低い男性にとって、付き合ったり結婚したりするのは困難である。結果として、弱者男性は、経済力の欠如と親密性の欠如という二重苦を味わうことになるのだ。
とはいえ、上記の主張に対して「親密性やそこから得られる情緒的な満足には、具体的にはどのような価値があるのか?それはそこまで重要なものであるのか?」という疑問を抱く人もいるかもしれない。
お金が生活の質に直結していることは明白だから、収入や資産がだれにとっても重要であるということはわかりやすい。「経済的な格差や不平等は、是正されるべき問題だ」と主張することは簡単だ。「わたしはお金がなくても幸せだ」と言う人もいるかもしれないが、社会問題や政策について考える際に、その人の意見を真剣に取り上げる必要はないだろう。
だが、親密性についてはそうではない。「わたしには恋人も友人もいないが、本を読んだりひとりで散歩をしたりすることに満足しており、充実した人生を過ごしている」と主張する人はいるはずだ。「他人と交流できる状況のほうが、そうでない状況よりも望ましい」と主張することに対して「人間関係を重視する価値観の押し付けだ」と批判する人もいるだろう。これらの意見は「お金がなくても幸せだ」と言っている人の意見と比べて説得力を持つものだと見なされており、無下に退けることはできない。収入の不平等と異なり、「親密性の不平等は是正されるべき問題だ」という主張は自明ではないのだ。
「経済の不平等が問題であることは広く同意が得られているのに対して、親密性の不平等が問題であることには同意が得られていない」という問題については、第3節で、正義論における「公私分離」の問題という観点から取り上げる。
その前に、以下では、「親密性」が欠如した状態……つまり「孤独」が人にもたらす不利益とはどのようなものであるかについて、より具体的に記述しよう。
2-5:孤独は病気と自殺のリスクをもたらす
まず、孤独は、だれにとっても不利益や損である物事をもたらす。それは、不健康や病気だ。
神経科学者のジョン・T・カシオポは、ジャーナリストのウィリアム・パトリックとの著書『孤独の科学:人はなぜ寂しくなるのか』のなかで、以下のように書いている。
社会的孤立が健康に与える影響というのは、私たちが取り組むのに理想的な問題のように思えた。その一〇年余り前、疫学者のリサ・バークマンが、他者とのつながりがほとんどない人は多くの触れ合いがある人よりも、九年間の追跡調査の間に死ぬ確率が二倍から三倍高かったことを発見していた。社会とのつながりがほとんどない人は、虚血性心臓病、脳血管や循環器の疾患、癌、さらには呼吸器や胃腸の疾患など、死に至るあらゆる疾患を含む、より広範な原因で死ぬリスクが高かった。
(カシオポ、パトリック、p.128)
『孤独の科学』によると、主観的な孤独感は、それ自体が「痛み」のような感覚を本人にもたらす。また、孤独感は自己コントロールに関する機能を低下させて、健康的な行動を取ることを難しくする。加えて、孤独は、ストレス要因への抵抗力を弱めたり、睡眠など治癒機能の働きを低下させたりもする。さらに、孤独感は自己評価を下げる効果をもたらし、社会的なコミュニケーションにも悪影響を与えるのだ。
より具体的に描写すると、他人と交流する機会が少ない孤独な人は「自分は他者から大切にされている」という感覚を抱けないために、自分の身体を大切にしなくなる。また、孤独感自体がストレスとなるうえに、自己コントロール機能も低下しているから、ジョギングなどの健康的ではあるが意志力を要する方法でストレスを解消するという選択を取ることが難しくなり、飲酒や過食や喫煙などの不健康な方法でストレスを緩和するようになってしまう。……これらが相まって、孤独感の高さは、様々な病気や死亡のリスクをもたらすのである。
一方で、人と一緒に暮らすことには、健康や生活習慣の面で様々なメリットがある。たとえば、顔色の悪さや肌の調子に声色などの体調不良を示す些細なシグナルは、自分自身では気付なくても自分を気遣ってくれる他人が指摘してくれることがある。また、夜更かしや飲酒過多や味付けの濃い料理ばかりを食べるなどの不健康な生活習慣は、独身のままならそれが問題であることにも気付かずに死ぬまで継続してしまうかもしれないが、一緒に暮らしている人がいれば「改善したほうがいい」と忠告されるだろう。さらに、恋愛したり結婚したりしているほうが「自分は他者から大切にされている」という感覚を抱けて、自分の健康や生活習慣に配慮するという意志も抱きやすくなるものである。
どこの国でも、独身男性の寿命は他の属性の男女よりも短い。一般的に男性は女性よりもセルフケアに対する意識が低いから、不健康な生活を過ごしがちである。孤独が不健康をもたらすことと、配偶者がいないことは生活や習慣の改善を遠ざけることとが合わさって、独身男性は他の人よりも早死にしやすい存在になっているのだろう。
孤独は不健康や病気による死亡だけでなく、自殺にも直結している。
先述したジョイナーが提唱しており専門家からも広く支持を得られている「自殺の対人関係理論」によると、人が自殺を行うに至る三つの主要因のうちのひとつが「所属感の減弱」である[6]。具体的には「人間同士の集まりや関わりから自分は疎外されている」という感覚を強くする、ということだ。「所属感の減弱」とは要するに「孤独」のことである。実際、男性の自殺率が高い主な原因は男性が女性に比べて孤独になりやすいことにある、とジョイナーは論じているのだ。
つまり、孤独は、病死や自殺という形で人を死に追い込む。死ぬまでには至らなくとも人を不健康にさせるし、情緒にも悪影響を及ぼす。
また、カシオポとジョイナーの両方が指摘しているのは、現代の思想や文学では孤独が美化されがちであり、そのために孤独のもたらす悪影響が軽んじられてしまうことだ。
ここでもまた、現代思想のじつに多くが賛美する「実存主義のカウボーイ」、つまり全世界を相手に回す一匹狼としては人間がうまくやっていかれない理由がわかる。「人は独りで生まれてくる」ことも「人は独りで死ぬ」ことも文字通り真実かもしれないが、他者とのつながりは進化の過程で人類が今の姿になる一助となっただけでなく、現在も私たち一人ひとりがどんな人間になるのかを決めるカギも握っているのだ。どちらの場合にも、人間どうしのつながりや精神の健康、生理的な健康、情動面での健全性はすべて、互いに切り離せないほど密接に結びついている。
(カシオポ、パトリック、p.173)
なお、恋人がいなかったり配偶者がいなかったりすることの問題は、病気や自殺のリスクという「マイナス」が生じることだけに限られない。
むしろ、恋人や配偶者がいないことの不利益として多くの人が想定するのは、他の人々が恋愛や結婚を通じて経験している満足感や人生の充実という「プラス」を得られないことのほうであるだろう。病気や自殺のリスクは、恋人や配偶者(や他のかたちの親密性)を得られずに孤独になることで発生する、あくまで間接的なものである。
本節であえて病気や自殺のリスクを強調したのは、これらは「人生の充実が得られない」という問題に比べて具体的であり、「病気にかかったり自殺願望を抱いたりすることは不利益である」という点については同意を得られやすいからだ。一方で、先述したように、「親密性が欠如していること」や「恋愛や結婚が得られないこと」それ自体が不利益であるという主張は自明ではない。この主張について他の人々に納得してもらうためには、より多くの議論が必要となる。
第5節では、哲学者のマーサ・ヌスバウムによる「潜在能力アプローチ」を援用することで、「恋愛や結婚が得られないこと」も不公正や不正義の対象と見なせる、という議論を行おう。
その前に、次節では、従来のリベラリズムに基づく正義論では「親密性の欠如」や弱者男性の問題を扱うことが難しい理由を解説する。
(中編に続く)