実に民主主義的な状況
SNSの発達がわたしたちの生活を変えたことのひとつに、だれかに「要求」をされたりしたりする機会が増えた、というのがある。
フォロワーやクラスタによっても異なるかもしれないが、たとえばわたしが朝起きてネットを開いて見てみると、必ずと言っていいほど、どこかのだれかがなにかを訴えている。それは性差別的な制度に対する問題提起や実際にあったハラスメントの告発であったりもすれば、企業による環境破壊や労働問題に対する抗議であったりする。与党や野党が打ち出した政策に対する批判のときもあれば、有名人や匿名アカウントが行った発言に対する非難であったりもする。いずれにせよ、社会の状況やだれかの行動などを変えるために、多くの人が要求をしている。……これ自体は、実に民主主義的な状況と言えるだろう。
とはいえ、数十年前に比べてだれかになにかを言ったり言われたりする頻度が増えたのに伴って、以前にはあまり注目されていなかったような様々な問題が表面化することになった。そのなかでも大きいのが「言い方」の問題だ。人々が発する要求は、必ずしも礼儀正しかったり丁寧であったりするわけではない。激しい言葉が使われていたり、相手に対する罵倒が含まれていたりすることもある。押し付けがましく要求されることもあれば、アンフェアで一方的に思えるような要求がされていることもある。
それに対して、要求をされる側の人は「そんな言い方で要求されても聞き入れないよ」といなすこともあれば、「そんな強い言葉で罵倒されたり非難されたりするいわれはない」と抗議することもある。端で様子を眺めている人たちも、「そんな言い方をするべきでない」「むしろ、そんな言い方をされる側の人に対して同情したくなってしまうよ」と、要求をしている人たちの方を批判することがある。
要求する側・される側の不均衡
この現象については、「トーン・ポリシング」という名前も与えられるようになってきた。ただし、トーン・ポリシングという言葉自体、中立的なものではない。それは、だれかからの要求を「そんな言い方は悪いよ」として批判したり却下したりしようとする、要求をされる側の人(および、その人の味方をする第三者の人たち)を非難するための言葉として使われているのだ。たとえば、社会学者の森山至貴による「トーン・ポリシング」の定義は下記の通りだ。
主に差別(…)に反対する意見に対して、「言い方が悪い」という批判によってその力を弱めようとすることをトーン・ポリシング(言い方の取り締まり)と言います。それ自体は差別ではないように見えるのですが、差別を維持したり、より強めたりする効果があります。[1]
また、森山は以下のようにも書いている。
理不尽な行為や態度への怒りを表明するときに、言葉づかいなんて考えていられません。だっていま、怒っているんですから。でも、そんなときにこう言われたこと、ありませんか。
「そんな言い方じゃ聞き入れてもらえないよ。」
こう言われると、ぐっとつまってしまいますよね。では、なぜこのとき私たちは「ぐっとつまる」のでしょうか?
たしかに、怒りを共有してもらえないことにがっかりしたから、という理由はありそうです。でも、理由はそれだけではないはずです。「言い方が悪い」という批判が当たっている気がするか、ということはないでしょうか。きつい言い方をするのはよくないことだと思う気持ちは、たしかに私たちの中にあります。ならば、やはり言い方には気をつけたほうがよいのでしょうか?[2]
気をつけなくていい、というのが森山の主張である。
森山によると、「言い方が悪い」という批判が通じてしまうのは、「聞き入れる側(要求される側)」と「お願いする側(要求する側)」との間に立場の強さの不均衡があるからだ。前者の要求は立場の強さによって押し通せるのに対して、後者が要求を通すためには、前者に受け入れてもらうことが必要になる。さらに、求められる「礼儀正しさ」のレベルも、前者が恣意的に決めることができる。立場の弱い人がそれなりに礼儀正しく要求したとしても、その要求が立場の強い人にとって都合の悪いものである場合には、「そんな言い方じゃダメだ、もっと丁寧に要求しろ」と言いつづけることで、延々と要求を無視しつづけることができてしまうのだ。
森山によると、要求する側の人が「言い方が悪い」という批判を受け入れることは、自分を「お願い」する立場に固定してしまうことにつながる。そもそも立場に強弱があることによって起こっている問題を改善するように要求しているのに、要求のトーンを弱めさせられて「お願い」というかたちにさせられることで、再び弱い立場に追い込まれるというわけだ。過去のマイノリティ運動ではそれを避けるために汚い言葉や手荒な方法などの「乱暴さ」が必要とされてきた。そして、自分の主張が「正しさの問題」に関わることを確認して、「お願い」をさせられる側から逃げることが大切だ、と森山は論じる。
マイノリティの感覚が正しい前提
森山の主張にはそれなりのもっともらしさがある。
彼以外にも、とくにジェンダーやアイデンティティの関わる社会運動をしている人たちや社会学者がトーン・ポリシングについて論じるときには、立場の強弱、つまり「権力」というポイントが強調されることが多い。だれかが要求することに対する「言い方が悪い」という批判が認められてしまうと、ただでさえ有利なマジョリティの立場を揺らがせることができず、マイノリティはずっと不利な立場に居させられつづけることになる、という点はたしかに危惧すべきだろう。言い方や礼儀正しさに客観的な基準なんてないから、要求をされる側の人はゴールポストを遠ざけつづけることができる、という批判も的を射ているかもしれない。
とはいえ、立場や権力を強調する発想は、それ自体が民主主義とはおそろしく相性が悪い。
立場の強弱に注目する人の議論は「マイノリティからの要求は、彼らが弱い立場であるがゆえに、自動的に正しい」と言わんばかりに聞こえることがある。要求の仕方の乱暴さや「怒り」が肯定されるのについても、立場に強弱のある構造そのものが不正義であるということや、そんな構造のなかでマイノリティがマジョリティの態度や行為を「理不尽」と感じたならそのマイノリティの感覚のほうが正しい、ということが前提されている。権力を持つ立場と持たない立場とでは前者のほうが圧倒的に有利であり、だからこそ、問題のある構造を覆すためには後者が「言い方」や「礼儀正しさ」といったルールにしたがう必要はない。……要求を言ったり言われたりするという民主主義的な営みについて、立場や権力を強調する観点から論じてみたら、このような主張になるだろう。そして、たしかに、この主張は現実の社会の状況の一部を適切に捉えてはいるかもしれない。
民主主義が機能しなくなる恐れ
とはいえ、政治的な手続きや民主的な議論の正統性という点からみると、上述したような主張はかなり危ういものだ。
通常の考え方では、だれかになにかを要求するときには「冷静」におこなうべきだ、というルールはマイノリティだけでなくマジョリティにも適用される。だれであっても、社会に対して、あるいは特定の相手や組織に対して要求があるときには、まずは自分の要求が正当なものだと言えるかどうかを自身で検討するべきだ。また、自分が要求を発したら必ず認められる、ということを期待してはいけない。要求の対象となる相手や組織にも、社会のなかにいる自分以外の個人たちにも、それぞれの利害や考え方や言い分があるからだ。
自分の要求が他の人の要求と対立する可能性があるのを認識しておくこと。いざ対立した場合には、どちらの要求のほうが認められるべきかを議論したり、要求の内容について相手と擦り合わせたりするという手続きに備えておくこと。民主主義のもとで政治的な要求を行う際には、このような態度が前提とされる。そのためには、他の人たちの要求を自分のものと対等に扱って考えることも求められる。「自分の言い分はこうだ」と主張するのと同時に「他の人たちはこういった言い分を持っているのだな」と理解して、公平な立場からそれぞれの言い分を判断したらどうなるだろうか、ということも考えなければならない。……現実にどこまで実現できているかはさておき、それくらいの「冷静さ」をみんなが持つことが、民主主義の理念なのである。
森山が指摘するように、マジョリティが立場の強さを利用して自分の要求を押し付けることもあるだろう。そのような行為が常態化すると民主主義の意味がなくなる。だからこそ、それが不適切であり認めてはならない行為だということが、ルールとして広く共有されている。それと同じように、怒りにまかせた主張を是としないことや、最低限の礼儀を守ることも、民主主義のルールだ。「自分は理不尽な行為や態度を取られたのだから、弱い立場に押し込められるのを防ぐために、言い方など気にせずに、乱暴に要求するべきだ」と思って実行する人が少数派であるうちはいいかもしれない。しかし、ルールを破る人が多数になると、民主主義は機能しなくなってしまうだろう。
ルールをすり抜ける「裏技」のようなもの
ジェンダーやアイデンティティに関する社会学などの学問では、それぞれに独自の理論を用いながら、「マジョリティ」と「マイノリティ」や立場の強弱といったものが定義されている。それらの理論に賛同している人たちにとっては、マイノリティの言い方を云々することがトーン・ポリシングであり、立場が弱い人の怒りが認められるべきだということは、半ば自明になっている。しかし、彼や彼女の考え方はあくまでそれぞれの理論に基づいたものであり、その理論が現実をどこまで反映しているかはわからない。ある理論ではマイノリティと見なされる人たちが、別の理論ではマジョリティと見なされるかもしれない。また、立場や権力といった物事がどれほどの影響を持っているかということについての判断も、人のそれぞれの考え方によって異なるだろう。
そして、リベラルな民主主義においては、それらの理論に基づく要求のいずれもが対等な「言い分」として扱われる。つまり、仮にあなたが「自分はマイノリティなのだから、自分は他の人たちとは異なる方法で要求を通すことが認められるべきだ」と考えていたとしても、まずはその考えを、他の人たちと同じ方法で他の人たちに認めさせなければならない。
「立場の弱い人たちの要求は特別に扱われるべきだ」という発想は、民主主義におけるルールをすり抜ける「裏技」のようなものである。裏技の問題は、想定していたのとは異なる人たちにまでも用いられてしまうことだ。たとえば、大半の理論ではアメリカにおける白人男性の立場は強いものとされるだろうが、彼らは彼らなりに弱者であると認める理論もあるかもしれない(白人男性であっても貧しい労働者なら、他の人種の裕福な男女よりかはマイノリティである、という発想はあり得なくもない)。そして理論の有無に関わらず、実際問題として彼らのなかには「自分たちは虐げられている」と考えている人がいるだろうし、「他の人たちに理不尽な態度や行動を取られている」と思っている人もいるはずだ。彼らは、自分たちの怒りは正当なものだと考えるだろう。
「理不尽に対する怒りは作法を守らず乱暴に表現していい」という発想は、2016年の選挙でドナルド・トランプが支持を集めて当選したことや、そのトランプが失脚した直後の2021年1月にアメリカ議会占拠事件を引き起こす一因となったかもしれない。ひとたび「裏技」が認められると、民主主義はかなり危ういものとなってしまう。
哲学で「怒り」はどう論じられてきたか
引用した森山の文章をはじめとして、トーン・ポリシングに関する議論は、「怒り」を中心とする感情に関する議論と結び付いていることが多い。
たとえば、「お前の意見は感情的だ」という批判は、トーン・ポリシングの典型だとされる。そして、フェミニズムをはじめとする昨今の社会運動では、怒りに基づいた主張や要求をおこなうことがむしろ美化されたり理想化されたりする風潮もあるのだ。
以下では、すこしまわり道となるが、西洋の哲学や倫理学において「怒り」という感情がどう論じられてきたかについて、2021年に翻訳が出版された『怒りの哲学 正しい怒りは存在するか』という論集のなかに収められているマーサ・ヌスバウムの小論「被害者の怒りとその代償」を軸としながら考えてみよう。
感情をどう取り扱うかという問題については、西洋哲学の歴史のなかでも様々な考えが存在する。「そもそも感情は理性によって制御できるものではない」「理性は感情を後付けで肯定することしかできない」といった主張がなされることもあるが、多くの場合には、「理性によって感情をどのように制御したり、方向付けたりするべきか」ということが論じられてきた。
たとえば、中庸の「徳」を重視するアリストテレスによれば、自分が軽んじられているときに怒りを表明しない人は「愚か者」である。ただし、怒るにしても、「しかるべき事柄について、しかるべき相手に対して、しかるべき仕方で、しかるべき時に、しかるべき時間のあいだ」怒らなければならない[3]。アリストテレスの議論を参照すると、感情を表出しないことではなく、個別の状況や事態に応じた適切な仕方や程度で感情を表出させることこそが理性的な営みである、ということになるだろう。
一方で、ストア派の哲学では理性による感情の統治が重視されており、原則として感情に基づく判断は是とされない。古代ローマのストア哲学者であるセネカには『怒りについて』という著作があるが、そこで論じられているのは怒りの感情を避けるべきだということだ。また、現代のストア哲学者であるウィリアム・アーヴァインによると、怒りの感情はそれを表出したとしても心の内に抑えたとしても、どのみち本人にマイナスの影響をもたらすものだ(イライラしたときに周りの人やモノにあたることは周囲にも本人にも危害を及ぼすし、抑えた怒りは心の底でふつふつと湧きつづけてストレスの種となってしまう)。だから、大切なのは、怒りという感情がそもそも湧かないように自分の心の持ち方を変えることである。
アーヴァインが推奨するのは、悪いことが起こっても原因を他人に見出そうとするのを止めることや、嫌な事件が起こったとしても「自分を傷付ける事件が起こった」と見なすのではなく別のフレームやストーリーで事件を解釈することなどだ。彼の著書『ストイック・チャレンジ』では、感情を抑制するストア派な生き方を実践するための具体的なテクニックが書かれている。
アリストテレスが怒りを肯定するにしても、それは「しかるべき」タイミングと方法によってのみである、ということは重要だ。彼が論じるような「徳」を持っている人は少数であり、だからこそ見習うべきだとされる。わたしたち凡人は、なにかあったときには徳のある人のことを心に浮かべて、「彼や彼女だったらこの事態に対してどう対処するだろう」と考えて、それを自分の行動や判断の基準とするべきなのだ。
……とはいえ、感情というものの性質をふまえると、なにかの事態が起こったときにその場で「しかるべき」タイミングと方法を定めるのは実に難しい。「いまおれはこいつに軽んじられたぞ」と思っている人がその時に判断する「しかるべき」とは、十中八九、怒りを抑えることではなく表出することのほうに振れてしまっているだろう。徳を実践するにしても、感情には近視的であったり自己中心的な要素があったりすることを理解したうえで、どのような物事に対してどのような反応をするのが適切であるかを普段から考えて、実際になんらかのトラブルが起きたときへの心構えを常にしておく必要があるように思われる。
そうすると、アリストテレスとストア派が言っていることに違いはあまりないかもしれない。どちらも、生活のなかにおいて自分の感情を戦略的にコントロールすることの重要さを説く主張だと見なせるからだ。
前向きな怒りと後ろ向きな怒り
現代の哲学者であるヌスバウムは、アリストテレス研究者である一方で、「新ストア派」の哲学者とも呼ばれている。そんな彼女は、怒りについて以下のように語っている。
では、怒りについて考えてみよう。フェミニストの場合、怒りは激しい抗議であり、隷属的な停滞状態とは正反対のものだと考えられている。そのため、「怒り」は強く、確かに欠くべからざるもののように思える。しかし、私たちはまず、区別することから始めなければならない。怒りを分析すると、その構成要素には、西洋に限らず思想界の長い哲学的伝統に見られるように、怒っている当人や、彼らにとって大切な人々に影響したと考えられる、不当な行為に対する痛みが含まれている。ここに、すでに誤りが起こる余地がある。その行為が偶発的なものではなく、不当なものなのかどうかについて、またその行為がどの程度重要なことなのかについて、彼の判断は間違っているかもしれない。しかし、仮にその二点をパスしたなら、(これまでのところ)「怒り」は不正行為に対する適切な対応ということになる。それは「これは間違っている」「二度と繰り返してはならない」という要求を表明するものだからだ。過去に触れながらも前を向き、未来んに向けて世界を修正することを提案している。
このような怒りを私は「変革のための怒り」と呼んでいる。すでに怒ったことを記録に残しながら、将来的な対応措置を求めているからだ。このような怒りは、加害者を罰する提案を伴うことがあるが、その処罰は将来を見据えた方策ということになる。具体的には、改革として、重要な規範の表現として、同じ害をもたらす者に対する「特定の抑止力」として、そして同じような害をもたらす者に対する「一般的な抑止力」として、ということだ。[4]
ここでヌスバウムが念頭に置いているのが、哲学者のリサ・テスマンによる「重荷となる徳」の問題に関する議論だ。
テスマンによると、世の中に抑圧的な社会制度による不正行為があるとき、それと闘う人たちは、不正に対する激しく報復的な怒りや、一緒に闘う仲間への盲目的な忠誠心や連帯感などを持たなければならない。それらの感情がなければ、不正行為に対する闘いへのモチベーションを保って、不正をなくすための集団的な活動を継続することができないからだ。しかし、報復的な怒りや盲目的な忠誠心は政治的闘争にとっては役立つ「徳」であるとしても、その闘争を行なっている個々人が正しく生きるうえで必要な「徳」というわけではない、とテスマンは指摘する。むしろ、それは個人の人格をゆがめて、その人の人生の豊かさを減らすものであるだろう(たとえば、デモを行なっているときだけでなく家族や友人と過ごしているときにも世の中の不正義について考えて怒ってイライラしつづけている人の人生は、充実したものだとは言いづらい)。
テスマンは、個人の人生に悪影響をもたらすとしても、政治的闘争のためには怒りなどの「重荷となる徳」が不可欠である、という悲観的な見方をしている。それに対してヌスバウムが提示するのは、怒りの感情を後ろ向きなものと前向きなものとに区別したうえで、後者のみを肯定する考え方だ。
不正と闘うために変革を求める怒りは重要である。それは怒りに満ちた抗議だ。そして抗議活動は、間違っていることへ人々の注意を引き、対処する活力を与えるために必要はものである。この種類の怒りは人格に「重荷」を負わせるものではない。前を向いて問題の解決策を考えれば、明るい気分にもなる。また、この種の怒りはあとを引いたり、捻じ曲げられたりする恐れもない。[5]
前向きで未来志向方の怒りは「変革のため」になる一方で、後ろ向きな怒りとは「加害者に見合った痛みを与えたいという仕返し願望」を含んだ応報型のものである、とヌスバウムは指摘する[6]。自分を不当に扱った相手に対する報復の感情は、その怒りを抱く本人にとってよい影響をもたらさないだけでなく、公平性や公共の福祉といったポジティブな理念にもつながらないので、「変革のための怒り」のように社会の改善をもたらすこともない。せいぜいのところ、それは刑事裁判の被告に対する厳罰化の要求や、死刑制度を支持する声しか生み出さないだろう。
逆境においても適切に振る舞える強さ
アーヴァインもヌスバウムも、社会運動をする人の理想としてマーティン・ルーサー・キングを挙げている。
アーヴァインが指摘するのは、社会運動を成功に導く人とは逆境においても適切に振る舞える自信や内面の強さを持っており、社会の不正義に直面しても「犠牲者」の役を演じようとはせず、不正義に対して前向きで果敢に立ち向かうということだ。逆に言えば、日頃から甘やかされていて逆境に対処した経験もないような人は、精神的に成熟せずに弱いままであるから、不正義に直面したときにも打ちひしがれてしまうだけだろう。
ストア派の哲学では、「他人や社会の状況など、自分の外側で起こる物事は自分にはコントロールできない」ということを当然の事実として受け入れたうえで、それらの物事に対する自分の向き合い方を変えることで、他人や社会に振りまわされることなく充実した人生を過ごすことが目指される。この考え方は、単に個人の人生をよくするというライフハックや自己啓発の文脈だけでなく、社会運動にも適用することができるかもしれない。すでに起こってしまった不正義や存在している差別によって自分がダメージを受けて、過度な無力感を抱いて精神的に屈してしまうのを避けることは、未来において正義を実現したり差別を撤廃したりする運動をおこなうためにも必要であるからだ。
また、ヌスバウムは、彼女と同様にキング牧師も怒りを適切なものと不適切なものに区別したことを強調する。自身が率いた公民権運動において、「暴力的に反撃し、損害を与えようとする混乱と怒りが動機となった欲求」は「ラディカルなものでも建設的なものでもない」から活用できない、とキング牧師は否定したのだ[7]。その代わりに彼が求めたのは、アメリカという社会のなかで説明責任や法的処罰などの制度が正しく機能して、黒人と白人とが共通して持っている理念が実現することだった。
キング牧師が非暴力を貫いたことは規範的に正しかっただけでなく実際的にも公民権運動の成功に寄与していた、という評価はヌスバウムに限らず他にも多くの人が下している、一般的な見解であるだろう。
ヌスバウムの危惧
ヌスバウムが危惧するのは、フェミニストの議論では建設的な怒りとそうでない怒りとの区別がなおざりにされがちなことである。フェミニズム運動においては、「変革のための怒り」だけでなく、仕返し願望を含んだ応報型の怒りも認められてしまいがちなのだ。なぜそうなるのかという理由や、具体的な事例などは、ヌスバウムははっきりとは記していない。とはいえ、日本の議論を眺めていても、現代の女性たちが行う政治的な要求のなかには後ろ向きな怒りのトーンを伴っているものが多々あること、市井の女性たちだけでなくアカデミックなフェミニストたちもその怒りを肯定していることは見て取れる。
また、「被害者の怒りとその代償」の前半部分では、ジョン・スチュアート・ミルの『女性の解放』や後世のフェミニストたちによって展開された、「服従」に関する議論が参照されている。それらの議論によると、性差別的な制度や構造は女性に経済的・政治的な不利益を与えるだけでなく、男性に対して女性を精神的・感情的に服従させるものでもある。ここから、フェミニストが「怒り」を肯定する理路のひとつも理解できるかもしれない。それは、以下のようなものである。……家父長制の社会が女性たちを支配して、彼女たちの意識を男性たちにとって都合の良いものに歪めていたとしたら、女性たちは不利益を受けたり差別に直面したりしてもそれに対して怒りを抱くことすらできなかったかもしれない。性差別の構造は、感情を支配するほどに根深い。だからこそ、建設的なものであるかないかに限らず、怒りを女性たちがはっきりと自覚して表出できるようにすることがまずは重要なのだ。
そして、後述するように、差別的な構造のなかで「女性の主張は感情的だ」という偏見がまかり通ってきたという経緯が、逆説的に、女性たちを理性よりも感情のほうを肯定する主張に導くことになったのだ。
理性によってコントロールされた「怒り」
ヌスバウムが論じるところの「変革を求める怒り」とは、あくまでも理性によってコントロールされて建設的な方に誘導された感情であり、「怒り」という言葉で一般にイメージされるものからはかなりズレていることには留意するべきだ。
わたしにとっても、彼女の議論は「怒りは建設的なものになり得る」ということを読者に説得するためのものというよりかは、「社会運動のなかで怒りを表明するとしたら、このようなものにするべきだ」という「建前」を主張しているという感じが強い。実際のところ、ヌスバウム(やキング牧師)の主張は、「怒りという感情をあるよりないほうがいいものだ」と考えるストア派の発想に半ば近づいているように思える。
そして、現代の哲学者のなかには、ヌスバウムやストア派の主張は理想や理性を重んじるがあまりに「怒り」の本質を捉え損なっていると論じる人もいる。たとえば、アグネス・カラードは以下のように評しているのだ。
…怒りを抑制しようという現実的な試みは、怒りを浄化するという現実にはありえない絵空事とは区別されなければならない。「義憤」や「変革のための怒り」という言葉を使って、永続性や復讐心をもたずに悪事に対して正当に抗議する感情を仮定することはできるが、その言葉が指すものは哲学者のフィクションだ。怒りの種類や特色、原因や名前が増えていくことで、怒りの中心にある危機から私たちの注意はそれていく。その危機とは、不正に対する感情的な反応には血の味がつきものだということだ。
不正に直面すると、私たちはしばしば怒りを覚える。このような怒りは「純粋」なものではなく、ある程度の道徳的な堕落に身をゆだねることを意味している。かといって「黙認」すれば、多くの場合それ以上に悪いことになる。しかし、私が強調したいのは、怒りという道徳的な堕落が最良の選択肢であったとしても、堕落であることに変わりはないということである。[8]
カラードの主張は、怒りが「血の味」や「道徳的な堕落」を伴うものであることを承知しながら、それを否定したり「建設的」なものに昇華したりするのではなく、悪い側面も含めて怒りをそのまま引き受けるべき、といったものだ。
とはいえ、怒りが中心に「危機」を持つものであるとすれば、やはり怒りはどんなかたちでも肯定すべきでない、という(古典的な)ストア派の発想に立ち戻る道も見えてくるだろう。
たとえば心理学者のポール・ブルームは怒りについて進化論のアプローチから考慮したうえで、怒りが肯定される社会で起こる問題点を指摘したのちに、「感情だけが道徳を実践する手段ではない」と指摘してストア派や功利主義に基づく道徳を擁護する[9]。
一方で、心理学にも造詣が深い哲学者のジェシー・プリンツは、怒りが間違った方向に進む場合(矛先を間違える、対象を広げ過ぎる、自己破壊につながる、など)を七つも挙げたのちに、それでも怒りには善い側面があり、わたしたちはコントロールによって怒りの悪い側面を抑制しながら善い側面を活用することもできるという、ヌスバウムに近い主張を展開する。
結局のところ、怒りをそのままにして肯定する議論は分が悪いのだろう。わたしとしては、アーヴァインやブルームが論じているようなストア派の議論が最も有益なものであるように思える。怒りを肯定するにしても、ヌスバウムが論じるような「建前」は、理想的でナイーブなものに思えるとしても、やはり必要になってくるはずだ。
要求される側からの強者の論理?
ここまでに紹介してきたような「怒り」に関する哲学的な論争は、トーン・ポリシングに関する議論にも示唆を与えるはずだ。
一般論として、わたしたちは自分の感じる怒りについては警戒すべきである。その怒りは不正に対する適切な反応かもしれないが、そうであってもなくても、「わたしを傷付けたあいつのことを傷付け返してやりたい」という復讐への暗い欲求を含んでいるかもしれない。
怒りに振りまわされないように心がけて、政治的な要求をする際にもその要求の根拠を怒りには全く基づかせないというのも、ひとつの見識だ。
もし怒りに基づいて要求をするとしても、まずはその怒りをできるだけ建設的なものにしなくてはいけないだろう。単に「あいつを傷付けたい」というだけでは他人からも認められるような正当性を持つ要求にはならないだろうから、公正や平等や正義などの普遍的な理念に結び付くようなかたちに、怒りを研磨しなければならない。要求を表現する方法や形式についても、怒りにまかせた暴力や乱暴さはないほうがいい……そうしないとだれもが野放図に怒りを表明して民主的な議論というものが成立しなくなるだろうから。そうでなくても、実際的な問題として、乱暴な言い方をされた意見は他人から聞き入られづらくなる。
もちろん、怒りを建設的なものにして要求の仕方を洗練されていくうちに、そもそも最初に抱いていた怒りという感情のなかにあった激しさは失われることになるだろう。だが、結局のところ、怒りの激しさに魅力を見出す発想が間違っているのだ。
上記の一般論が正しければ、政治的な要求をしている人に冷静さを求めて、「言い方」がまずければ批判することも、やはり一般論としては間違っていない。とくに、だれかが怒りやその他の負の感情に基づいて要求しているときには、別のだれかがトーン・ポリシングをおこなうのは望ましいことですらある。それは民主主義的な社会や健全な議論の場を維持するためだけでなく、要求をしている本人のためにもなるからだ。
とはいえ…アーヴァインやヌスバウムが社会運動をする人の理想として挙げているのがキング牧師であることには、一抹の不安も残る。なにはともあれアーヴァインもヌスバウムも白人であり、公民権運動や反黒人差別運動においては、要求をする側ではなくされる側にいる。そんな立場の人から「怒りに任せた乱暴な主張は良くないから、冷静で建設的に要求しなければいけないよ」と言われたら、要求する人としてはムッとするかもしれない。
それに、たとえば公民権運動においては、マルコムXなど、キング牧師よりも「過激」な主張をする人がいた。白人が「キング牧師の主張の仕方は冷静で建設的だからよかったが、マルコムXの主張の仕方は過激で乱暴だから悪かった」などと言い出すとしたら、いかにも危うい。いくら取り繕っても「要求をされる側の人が自分の有利な立場を守るために、都合のいい要求と都合の悪い要求とを選別している」と見られることは避けられないだろう。
森山のようにトーン・ポリシングを批判している人たちが懸念しているのは、言い方や要求の仕方を問題視することそれ自体というよりかは、マジョリティがマイノリティの要求の良し悪しを決定することで、マイノリティの要求に過度なハードルが課されたり、マジョリティにとって不利な結果をもたらす要求が認められなくなったりすることだろう。わたしは、トーン・ポリシングのすべてがそのように機能するとは思わないし、マイノリティであっても言い方や要求の仕方が批判されるべき場合もあると考える。……とはいえ、トーン・ポリシング批判派が抱いている懸念についても、理解できるところはあるのだ。
ここまでは、要求をする側の「怒り」という感情について論じてきた。以下では、視点を変えて、なんらかの要求をされた側の感情について考えてみることにしよう。
「反種差別」の考え方
拙著『21世紀の道徳:学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える』では、現代の動物保護運動の前提となっている「反種差別」という考え方について紹介した[10]。簡潔にいうと、道徳の基本となる「どんな人の利害にも平等に配慮しなければならない」という発想は人間以外の動物たちにも当てはめるべきである、という考え方だ。
たとえば、わたしたちは針で刺されたら「痛い」と思って嫌がる。病気を予防するための注射などのしかるべき理由がないときに他人の体に針を刺すことは、避けるべき非道徳的な行為だと見なせるだろう。そして、イヌやブタやニワトリなどの動物たちも、わたしたちと同じように、針で刺されたら「痛い」と思う。だから、しかるべき理由がないのに彼らの身体に針を刺すことも非道徳的だ。同様の推論は、他の種類の痛みや、家族から引き離されたり監禁されたりすることによって感じる苦しみについても当てはまる。そして、わたしたちの誰もが「殺されたくない」と(基本的には)思っているから、人を殺すのは非道徳的であるのと同じように、「殺されたくない」と思っている動物を殺すことも非道徳的だ。
「動物に苦痛を与えて殺せば美味しい肉が食べられて、手軽に栄養を摂取できる」ということも、本来、動物を食べることを正当化する理由にはならないだろう。「美味しい肉が食べられる」とか「手軽に栄養を摂取できる」とかいったことが、人間を殺害することを正当化する理由になると考える人はいない。人間と同じように痛みや苦しみを感じる動物を、「人間とは違う生物種だから」という理由で殺害することを肯定するとしたら、それは「種差別」なのだ。
欧米では、倫理学者のみならず他の学問をしている人や市井の人々の一部にも、種差別を批判して動物を保護する考え方が浸透している。
たとえば、動物行動学者のジョナサン・バルコムの著書『魚たちの愛すべき知的生活 ― 何を感じ、何を考え、どう行動するか』では、 魚の意識や感情、コミュニケーション能力や認知能力などに関する様々な知見が紹介されたのちに、魚も痛みや苦しみを感じるのだから人間や他の動物たちと同じように道徳的配慮の対象にすべきであるといった提案がされている。
また、各国の法律では、食べるために動物を殺すことまでは否定されていないが、その飼育や屠殺などの過程においてはできるだけ苦痛を与えないことが望ましいとする「動物福祉」の理念が反映されるようになってきた。これまで、動物福祉の対象はイヌやネコなどのコンパニオン・アニマルやウシやブタなどの家畜、ニワトリなどの家禽に限定されていた。しかし、魚類や甲殻類や軟体動物に関する研究が深まり、彼らも痛みや苦しみを感じている(可能性が高い)ということが判明していくのに伴って、動物福祉の対象も拡がっている。
たとえば、2018年にはスイスの動物保護法が改正されて、生きたままのロブスターを熱湯に放り込む調理法を禁止して事前に気絶させてから絶命させることが義務付けられた[11]。また、2021年のイギリスでも政府の審査委員会はタコやカニなどには苦痛の感覚があることを認めて、動物福祉法の対象にすべきだと提案されたのである[12]。
「感情的」というレッテル張り
さて、日本では種差別に関する議論や動物福祉に関する話題があるたびに、「そんなのは感情的だ」という反論がなされることが多い。
たとえば、バルコムの著書については「科学的な知見が書かれている箇所はおもしろいのに最後に動物愛護という感情的な主張がされてガッカリした」とレビューしている文章を見かけたことがある。スイスやイギリスのニュースについても、外国の法律であり日本人の食生活に直接的な影響が生じるというわけでもないのに、「ロブスターやタコまで保護しようとするなんて、欧米人の動物保護は感情的で行き過ぎている」というコメントを積極的におこなう人が多々いたのだ。
しかし、種差別に反対する主張は功利主義やカント主義などの論理的な倫理学理論からも肯定されるものだ。ピーター・シンガーやトム・レーガンといった種差別を批判する倫理学者の議論に対する典型的な反応とは、「論理としては正しいかもしれないが、心情的に納得できない」「そんな頭でっかちな理屈では人の心情や行動は変えられない」といったものであるのだ。
動物福祉の理念については、苦痛を与えないようにしながらも殺害することは肯定するという点で矛盾や曖昧さがあることは否めない。コンパニオン・アニマルや家畜の福祉はこれまでにも認められてきたのに魚類や甲殻類などの福祉は後まわしにされてきたことには、哺乳類に対してなら親近感を抱きやすく苦痛を受けている姿を想像して「かわいそう」とも思いやすいのに対して、魚類や甲殻類には感情移入がしづらいから彼らの苦痛に対しても共感を抱きづらい、という感情的な側面も関係しているだろう。……だが、それならなおさら、バルコムが魚類を道徳的配慮の対象とすべきだと論じたりスイスやイギリスの法律で甲殻類や頭足動物が保護の対象とされたりすることは、「感情的」ではなく「論理的」と表現するべきだ。それらは、「魚類や甲殻類も苦痛を感じている」という科学的知見によって、「魚類や甲殻類には配慮する気が起きない」という感情的な判断の修正を迫るものだからである。
むしろ、ここで検討すべきは、種差別に反対する主張や動物福祉に関する主張について、大半の人は拒否反応をするということだろう。ふつうの人は肉や魚を食べながら生活しており、革や毛皮などを用いた製品を使っていることも多いから、動物に対する道徳的配慮という概念を受け入れると、自分が慣れ親しんだ行動や生活のスタイルが否定されることになる。自分に対して「あなたは肉や魚を食べることを止めるべきだ」と直接に言われるのではなく、自分とは関係のない外国の法律が改正されるというときであっても、法律改正の背景にある種差別批判や動物福祉のロジックは自分が抱いている常識や通念とは相反することに気が付かざるを得ない。
そのようなときの典型的な反応が「否認」だ。つまり、種差別批判や動物福祉のロジックに対して論理的に反論するのではなく、「取るに足らないものだ」と決めつけて、それ以上に考えることを拒むのである。このときに用いられるのが、「感情的」というレッテルであるのだ。
重要なのはフェアネスの精神
種差別の問題に限らず、ほとんどの政治的要求では、要求される側の人の行動や考え方や生き方になんらかの変更をすることが迫られる。
しかし、人間とは保守的な存在だ。わたしたちは、だれかに要求されたり論理で説得されたりしても、自分の価値観や行動を容易に変えようとはしない。そのため、社会問題の存在を指摘されても、まず、自分がその問題に向き合わなくてもいい理由を探したり、問題が存在することを認めようとしなかったりする。
アメリカで動物愛護運動を行なう活動家のニック・クーニーによる著書Change of Heart: What Psychology Can Teach Us About Spreading Social Change (『心を変える:社会変革を拡げるために心理学が教えてくれること』)では、わたしたちの心理に備わる保守的なバイアスがいくつも紹介されている。たとえば、以下のようなものだ。
・行動や価値観の変化を拒む「現状維持バイアス」
・「だれかが社会問題で被害を受けているときには被害者のほうにもなんらかの責任があるはずだ」と考えたがる「公正世界信念のバイアス」
・自分がすこしだけ行動したことを「この問題について自分がすべきことはもうやった」と見積もりたがる「貢献度の過大視バイアス」
社会運動をする人たちは、運動の対象となる人たちが保守的で容易に動かされないことを理解したうえで、バイアスに抵触しない方法やバイアスを逆利用した方法で問題を訴えるべきである。これがクーニーの著書のポイントだ。その実践のための具体的なテクニックも、心理学や行動科学の知見を参考にしながら、多々紹介されている。
たとえば、責任を問われたり罪悪感を負わされたりした人は問題を否認しやすくなるので、まずは大企業といった特定の対象を非難する主張をしたほうが、一般の人たちが耳を傾けてくれやすくなる。また、統計やデータを示すよりも、特定の個人に関する具体的なエピソードを伝えたほうが、同情や共感を招いて運動の目的に賛同してくれやすい。さらに、問題の犠牲者や社会活動家たち自身と一般の人との共通点を強調して、仲間意識や親密さなどのポジティブな感情を形成することで、問題について否認されるのを回避しやすくなるのだ。
クーニーの著書の面白いところは、政治的要求においては要求する側だけでなく要求される側の感情も問題となること、むしろ見方によっては要求される側のほうが「感情的」な存在であるということが炙り出されている点である。『心を変える』で書かれているテクニックを実践するということは、社会運動家が心理学や行動科学などの知見という「理性」を用いることで、一般の人たちの「感情」をハックするということだ。民主主義の理念では「市民たちの間では双方が理性的な議論が通じる」ということが前提となっていることをふまえると、この考え方はかなりシニカルであり、危うさを伴うものであるとも言える。
いずれにせよ、自分たちには保守的で現状維持的なバイアスがあり、問題の存在を指摘されても理性的ではなく感情的な理由から否認してしまいがちなことは、要求をされる側の市民たちも自覚しておいたほうがいいだろう。他人に感情をハックされるのに委ねるのではなく、自分自身の理性によって問題と向き合う「自律」を保とうすることは、ある程度までは可能なはずだ。できるだけ多くの市民が理性的であろうとすることは、社会にとってもよい影響をもたらすはずである。
そして、自分が理性的であろうとするなら、だれかになにかを要求されたときに相手のことを「感情的だ」と決めつけて、相手の言い方を云々することは、まずは避けるべきだ。相手のことを「感情的だ」とする自分の判断のほうが、「自分にとって都合の悪い問題に向き合うことを拒みたい」という感情に影響されたものであるかもしれない。また、実際には冷静な言い方でなされている主張であっても、そこで指摘されている内容が自分にとって耳に痛いものなら、攻撃的なものや敵対的なものに聞こえてしまうだろう。わたしたちの感情は自分に甘く、他人に厳しく作用するからだ。
感情とは外から採点できるものでなく、「ここまでは冷静だけれどここからは感情的」という基準が設けられるものでもないことにも留意するべきだ。だれかの主張について感情的であるかないかを判断することが難しい場合もある。
ただし、上述の議論も、あくまで程度問題である。
ある政治的要求や社会運動が実際に感情的であったり、言い方が悪かったり、暴力的であったりすることも、勿論あるだろう(それを認めなければ、たとえば米国議会を襲撃したトランプ支持者を批判することもできなくなる)。
また、感情的だと決めつけずに相手の主張にちゃんと耳を傾けたうえで、その議論に反論することや、理が通っていないものだと論理的に指摘したうえで否定したりすることは、まったくもって正当なことだ。
重要なのは、相手を自分と対等の存在と認めて、相手に対してだけでなく自分の感情や議論に対しても厳しく疑いの目を向ける、フェアネスの精神である。
結びつけられやすい「女性的」と「感情的」
本稿を締めくくる前に、動物愛護運動とトーン・ポリシングとの問題について、もうすこし付け加えさせてもらおう。
わたしが大学院生のとき、修士論文で扱ったトピックのひとつがアメリカにおける動物愛護運動だった。その歴史を調べていくうちに気が付いたのは、動物愛護運動について考えるうえでは「女性」という要素が切っても切り離せないことだ。
たとえば、歴史書のなかでは、十九世紀のアメリカでは動物愛護運動は「社会改良運動」の一環として禁酒運動や児童保護運動に連なるものとして行われてきたことが示されている[13]。そして、社会改良運動の構成員の大半は女性であった。運動家の女性たちは、当時の性別役割分業的な規範を前提としながら、「女性的な優しさ」や「母性的な価値観」に訴えて、一般の女性たちの心を動かすことで、運動への支持を得てきたのである(たとえば、「動物愛護は子どもの情操を守るためにも欠かせない」「鳥を殺して作られる羽根帽子は、優しい女性にふさわしいものではない」といったロジックによるキャンペーンが行われていた)。
また、20世紀以降の動物の権利運動でも、運動形の多くは女性であった。社会的な性役割の他にも、心理学的な事象として、動物に対して抱く愛着や同情やケアの感情は平均的に女性のほうが男性よりも強い、という点は関わっているだろう。
そして、過去においても現代においても、動物愛護運動に関わる女性は「感情的だ」との批判を受けてきた。たとえば、19世紀における生体解剖反対運動や現代における動物実験反対運動など、医学や科学は動物愛護運動の主要な標的でありつづけてきた。そして、医学者や科学者たちは、運動を行なっている女性たちは「ヒステリー」や「動物愛好症」などの病気を患っており理性的な存在ではなくなっているというレッテルを貼ることで、運動に対抗してきたのである。
現在でも、動物愛護運動は「女性的」というイメージと「感情的」というイメージとが結び付けられて批判されることが多い。エミリー・ガーダーという研究者の著書作Women and Animal Right Movement(『女性と動物の権利運動』)では、現在のアメリカなどで動物の権利運動を行っている多数の女性運動家へのインタビューが掲載されている。その本のなかでも、多くの女性たちが、自分の性別に基づいて「感情的」というレッテルを貼られて自分の主張を否定された経験があると証言しているのだ。
バルコムの著者やスイス・イギリスの法案に対する日本人の反応を見ると、たとえ動物愛護運動をしている人の多数派が女性ではなく男性であったとしても、その運動に「感情的」というレッテルが貼られていた可能性はあるかもしれない。
その一方で、女性はとくに「感情的」というレッテルの対象になりやすいということもたしかだ。男性と女性が同様の主張をしているときに、女性だけが「言い方」を批判されるという事態もあるだろう。また、議論や他の場面において感情を示したときにも、男性であればスルーされるところ、女性であったら「ほら女だからすぐに怒ったり泣いたりするんだ」「やっぱり女は感情的なんだ」と言われてしまうということはある。……実際、学校や職場、あるいはネット上において、そのような状況を目にしてきた経験はわたしにもある。
したがって、とくに女性がトーン・ポリシングを警戒したり不当に感じたりすることは、わたしにも理解できる。
また、女性は「感情的」というレッテルを貼られるリスクがあるために、要求や主張をする際に男性よりも高いハードルを課されてきたこともたしかだ。そのため、政治的な要求や学問的な議論を行おうとする女性たちの多くは、男性たちよりもずっと厳しく感情をコントロールしなければならなかった。近年になってフェミニズムにおいて「怒り」をはじめとする感情に基づいた議論が肯定されるようになってきたことは、その反動でもあるだろう。女性たちがいくら理性に基づく議論をしても、男性たちから「感情的だ」というレッテルを貼られて否定されしまうリスクがあるのだとしたら、そもそも不利なルールを強いられていることになる。だとすれば、「理性」という不利なルールに付き合うことはやめて、自分たちの「感情」というルールで勝負すればいい、という発想だ。
乱用の誘惑に耐えること
しかし、ヌスバウムも論じているように、「怒り」やその他の感情を安易に肯定することはやはり得策ではない。また、女性の主張には男性のそれと比べて「感情的」というレッテルが貼られやすいとしても、そのレッテルが実際に正しい場面もあるだろう。……男性の主張が感情的であったり乱暴であったり不当であったりするときがあるのと同じように、女性の主張が感情的であったり乱暴であったり不当であったりするときもあるはずだから。
わたしが思うに、「トーン・ポリシング」という概念が広まることにはメリットもある一方で、マイノリティに対する「罠」として機能する側面もある。
たとえば、男性であるわたしがだれかの要求や主張を「感情的だ」と思ったり「不当な主張だ」と思ったりしたとき、とくにその相手が女性である場合には、わたしはまず自分の判断を疑ったほうがいいだろう。「女性は感情的だ」という偏見にわたし自身が影響されていないかを自省したり、自分にとって都合の悪い主張であるから不当に感じられていないかを確認したりしたほうがよい。その結果、わたしが最初に感じた拒否反応が正しくないと理解することで、相手の女性の主張に対してより適切に向き合えて、より理性的な議論ができるようになるかもしれない。そういう点では、「自分はトーン・ポリシングをしてないか」と注意する意識が男性やマジョリティの間で広まることは有益だ。……だが、それは、女性やマイノリティの主張がどんなものであったとしても受け入れる、ということではない。
また、自省した結果やはり相手の主張が感情的であったり言い方がおかしかったりすると判断できるなら、それは相手に対して指摘するべきだ。「この人は女性やマイノリティであるから、冷静で丁寧に主張することができなくなっていて、感情的で乱暴な言い方しかできないのだな」と判断して指摘を控えることは、それこそ相手を自分と対等に扱わない差別的な発想というものである。
だが、トーン・ポリシングや、『21世紀の道徳』のなかでも論じたマンスプレイニングという概念は、たやすく乱用されてしまう[14]。マイノリティに対するマジョリティの指摘がトーン・ポリシングであるかどうか、男性が女性に対しておこなう議論がマンスプレイニングであるかどうかに、客観的な基準というものはない。結局のところ、その判断は、指摘されたマイノリティや議論を聞いた女性に委ねられる。そして、マイノリティの人はマジョリティの人と同じように自分にとって耳に痛い指摘は拒みたがるものだし、女性は男性と同じように自分と異なる議論を受け入れたがらないものだ。そのため、適切な指摘や議論であっても、「それはトーン・ポリシング/マンスプレイニングだ」といって拒否されてしまうことがある。
……もしわたしがマイノリティや女性だったら、トーン・ポリシングやマンスプレイニングという概念を自分に都合良く乱用することに誘惑を感じるはずだ(それが人間の感情というものである)。しかし、そのようなことをしてしまうと、わたしは他の人たちから腫れ物に触るように扱われて、対等な議論ができる理性的な存在とみなされなくなるだろう。
ジェンダーがどうであったり、立場の強弱がどうであったとしても、大半の人には理性的になって要求したり議論したりすることが可能だ。マジョリティの偏見を無くしたり、女性に対して不当に課されているハードルを取り除いたりすることは大切だが、その目標はあくまで「だれもが理性的な議論の場に参加できて、対等・公平に扱われること」にしておくべきである。
逆に言えば、「裏技」や特別扱いを認めることはできるだけ避けたほうがいい。社会の構造や議論の場における権力の不均衡に注目する発想が行き過ぎると、「女性やマイノリティは理性的になれない」という偏見を解体するのではなく、強化してしまうことになりかねないのである。