第七書簡 イラン/アメリカ関係の深層

日本人は、身近な隣人となりつつあるムスリムの論理を理解しているか? そこに西洋文明中心視点の誤ったイスラーム解釈はないか? 世界のイスラームに関連するトピックを題材に、より深いイスラーム理解にたどり着くための往復書簡。イスラーム教徒でイスラーム法学者である中田考、非イスラーム教徒でイスラーム思想研究者の飯山陽、専門を同じくしつつも互いに異なる立場の2人による、火花を散らす対話。  

イランとアメリカの対立とソレイマーニー暗殺 中田考

2020年1月3日、トランプ米大統領の命令により、バグダード国際空港でイラン革命防衛隊(IRG)ゴドス部隊のガーセム・ソレイマーニー司令官(編註:日本のメディアでは「コッズ部隊」「ソレイマニ」の表記もある)が同行していたイラク・ヒズブッラー大隊司令官アブー・マフディー・ムハンディスと共に爆殺されました。

直接のきっかけは、2019年12月にアメリカ軍によるイラク・ヒズブッラー大隊の基地空爆に対して暴徒がバグダードのアメリカ大使館を襲ったことでした。この米大使館襲撃の裏で糸を引いていたのがイラン革命防衛隊の国外工作担当ゴドス部隊司令官ソレイマーニーであり、ソレイマーニーが更なるアメリカの権益の攻撃を企てている、というのがトランプの爆殺指令の理由でした。現時点では、トランプは、ソレイマーニーの具体的なアメリカ襲撃計画の証拠を提示していませんが、それはここでは問題ではありません。

1.問題の背景

トランプはソレイマーニー爆殺に先立って2019年4月8日にイラン革命防衛隊を国際テロ組織に指定していましたので、アメリカ、というかトランプの中ではそれなりに整合性がある話でした。イラン革命防衛隊を「テロ組織」と呼ぶのは、「全ての警察、軍隊はテロ組織だ」という私の正しい言葉の定義によるだけはなく、「テロ」研究者の間でもそれなりに広がっている言葉遣いですので、爆殺を当然視する声も聞かれます。とはいえ、トランプでさえ、国連加盟国の正規の軍組織をテロ組織に指定したのはイラン革命防衛隊が初めてであり、異例な処置であることは間違いなく、しかも、アメリカの友邦イラクを賓客として訪問中に、イラクの有力な政治家(軍閥)アブー・マフディー・ムハンディスもろともに殺害したわけですから、国際法の専門家でなくても、国際的な大問題であることだけは分かります。

その意味では第三次世界大戦に発展しかねない危機だ、と煽り立てる記事があったのも理解できますが、アメリカとイランが正面から戦争になった場合、中露は口先ではアメリカを非難してもイランについてアメリカに宣戦布告をすることはありませんので、地域紛争以上のものに発展することはなく、第三次世界大戦になる可能性は最初からありませんでした。

ソレイマーニー爆殺は、トランプが選挙のための点数稼ぎのため大物テロリストを殺したとの戦果が欲しかったため、などとも言われています。私自身は、いままで口先だけで戦争はしない、と思われていたのを、「やる時はやる」ということを実証して北朝鮮に圧力をかけたのでは、と思っていますが、確たる証拠はなく、真相は分かりません。しかし、トランプは大統領になる前からアメリカの中東からの撤退を公約しており、爆殺後のトランプの言動からも彼の意図がイランに戦争を挑発することではなく全面戦争を望んでいないことは明白でした。またイラン側の反応も面子を立てるための限定な報復であり、しかもアメリカ側に死者が出ないように配慮し事前にイラク政府を通じて攻撃箇所を予告した上で攻撃するという念の入れようでしたので、アメリカとイランの戦争のシナリオに現実性がないことはすぐに明らかになりました。

とはいえ、アメリカを大悪魔と呼び正面から対立するだけでなく、アメリカと特別な関係にあるイスラエルを地上から抹殺すると公言し、アラブの二大国エジプトとサウジアラビアと敵対する地域大国イランとアメリカの衝突が、中東だけでなく、世界情勢に大きな影響を与えることは事実であり、中東・イスラーム地域研究の焦点の一つであることは間違いありません。

ソレイマーニーの爆殺の前、トランプ政権の「最大限の圧力」、厳しい経済制裁の下でイランの通貨リヤールは下落し、物価は高騰し、庶民生活は苦しくなっていました。そうした時期にイランの「英雄」であり革命の対外工作の総司令官であったソレイマーニーの殺害をトランプが指示したのはイランの現政権を追い詰め転覆させる目的であったと推測したくなるかもしれません。しかしそれは中期的にも短期的にも間違っていると思います。

2.反イラン・デモ

順に説明しましょう。実はソレイマーニー爆殺は、ガソリン値上げの発表を機に2019年11月15日に始まりイラン全土に広まり収束の目途がたっていなかったデモの最中に起こりました。このデモは欧米では千人を超す犠牲者を出し、イラン革命以来最大規模の反体制デモとも言われるものでした。ところが、イラン国内においては「英雄」であるだけでなく「アイドル」的人気を誇っていたソレイマーニーの爆殺で、イランの国内のムードは一転し追悼ムード一色に染まり、反体制派のデモは雲散霧消しました。それはアメリカとの戦争の緊張の中で1月11日に革命防衛隊が民間機を誤射によって撃墜し乗客176人(大半がイラン人)が死亡した事件に対する一部の抗議デモによっても再燃しませんでした。

詳しくは後に論じますが、欧米のイラン反体制運動報道は大きなバイアスがかかっており基本的に眉唾なので普段は真面目に相手しないのですが、今回は少し違います。というのは、現在アラブ世界で「第二のアラブの春」と言われる反体制運動の波が生じており、2019年にスーダンとアルジェリアで長期政権が崩壊し、レバノン、イラクでも大規模な反体制運動が生じており、特にレバノン、イラクではイランの影響下にあるシーア派勢力にも批判の矛先が向かっていたからです。もちろん、これらの国で反体制運動が発生した理由は国によって違い、たまたま同時期に発生した、といった方が実態に近い――「第一のアラブの春」はかなりの程度まで相互に影響しあっていましたが、「第二のアラブの春」はほとんど偶然に思えます――のですが、イランに対する批判に関しては、アラブのシーア派に対する過剰な資金援助に対するイランの国内での反発とイランの影響力に対するアラブの反発が連動しているのも確かであったため、一応検討が必要でした。

特に重要だったのがイラクでした。イラクでは2019年10月から全土で政府の腐敗に対するデモが起きており、批判はイランの影響にも及び、11月にはシーア派の聖地カルバラーとナジャフでイラン領事館が襲撃され、遂に12月1日には親イランのアブドゥルマフディー首相が辞任に追い込まれる事態にまで至っていました。ところが、ソレイマーニー殺害によって、イラクのシーア派の最高権威スィースターニー師がソレイマーニーに哀悼の意を表し、イラクのシーア派のウラマー(イスラーム学者)の中でも反イラン・アラブ・ナショナリストの急先鋒とみなされていたムクタダー・サドル師もすぐにイランに飛び葬儀に参列しました。私はスンナ派なので実感できませんが、シーア派にとって葬儀、特に殉教者の葬儀は極めて重要です。イスラームには聖職者はいませんがシーア派のイスラーム学者は、キリスト教や仏教などの聖職者に近い一つの社会階層をなしており、シーア派に関してはイスラーム学者を区別することにも意味があります。そこで本稿ではイスラーム学者には「師」をつけることにします。

イラン人のソレイマーニーだけでなく、同国人のアブー・マフディーも米軍に殺され、殉教者として葬られ追悼されたことで、イラクの反イラン運動は水を差されることになりました。特にトリッキーな動きで反イラン・アラブ・ナショナリストのシーア派の権威として求心力を誇ってきたムクタダー・サドル師は、反イランから反米にはっきりと舵を切りました。

更に2020年1月28日にトランプがホワイトハウスにイスラエルのナタニエフ首相を招いてパレスチナ人をあからさまに蔑ろにした中東和平の「世紀のディール」を提案したことで、アラブ世界での反イスラエル感情が高まり、トランプに忖度したサウジアラビア、UAEの権威が失墜したのに反比例し、反イスラエルの姿勢を貫きぶれないイランに対する評価が上がったことも、イランに対する鬱積する反感がアラブのシーア派の間でさえ表面化しつつあったイランにとって追い風となりました。

つまりソレイマーニー爆殺から中東和平の「世紀のディール」に至るトランプの中期的対中東政策は、「客観的には」イランを弱体化させるどころか、むしろ側面支援となったと考える方が妥当です。

3.アメリカの中東政策の誤り

先に述べたように、トランプがソレイマーニーの爆殺でイランとの戦争を望んでいなかったことは、選挙前から公言している彼の中東政策と爆殺の前後の発言と照らし合わせることで確認できます。しかしそれがイランに対する側面支援を意図したと考えることは、憶測にすぎず証拠を挙げることはできません。イランの政権を弱体化させようとしたのが判断を誤って裏目にでたとも考えられます。そして私の中東・イスラーム地域研究者としての40年の経験から言うと、アメリカの歴代政権の中東・イスラーム政策は殆ど誤った状況認識に基づいていたために結果的に裏目、裏目に出ており、特に対イラン政策はそうでした。トランプも、単にイラン、中東情勢を見誤っており、ソレイマーニーの爆殺によりイランの革命防衛隊が弱体化し、保守派がトランプの「本気」に震え上がり、イラン国内の反体制派、反イランのアラブ諸国が勢いづくと勘違いしていたと考える方が自然なように思えます。少なくとも、トランプの周りのポンペオ国務長官やエスパー国防長官、それにアメリカの国際問題、中東関係のシンクタンクなどはそう考えていたと思います。以下ではそう考える理由を説明していきましょう。

私はもうずいぶん昔になりますが、1992年から1994年まで在サウジアラビア日本国大使館で専門調査員として勤務し、外交官の真似事をしており、アメリカ大使館、イラン大使館などの外交団とも情報交換をしていました。当時は1991年の湾岸戦争の直後で、アメリカはサウジアラビアに約5000人の軍人を駐留させていました。またサウジの基幹産業石油産業の世界最大級の企業でもあるサウジARAMCO(Arabian American Oil Company)の人材の多くを供給していました。大使館自体が日本とアメリカでは規模が桁違いでしたが、それに加えて駐留米軍やARAMCOなどを有するアメリカと日本では情報量は二桁違っていました。なによりもアメリカには日本にはほとんどいないアラブ系米国人が約300万人もいるのですから情報量では最初から勝負になりません。しかし情報量と情報収集能力は必ずしも比例しません。特に宗教、文化のような主観的な事柄に関しては、自分たちこそが人類が歴史の中で達成した世界最高の文化の持ち主だと思っているアメリカ人は、むしろ殆ど理解できない、というより自分の価値観と先入観で評価するだけでそもそも理解しようという気がありませんでした。

勿論優れた例外が稀にあるのは当然ですが、アメリカの地域研究のレベルはルース・ベネディクトの『菊と刀』(1946年刊)の頃より退化しているのではないか、と私は思っています。2003年1月、当時のブッシュ大統領(ブッシュJr.)はイラク侵攻に先立って、第二次世界大戦後の日本占領の成功をモデルにイラクを占領して民主化を成功させることができる、と述べて──よくもまぁそんな妄想が抱けたものだと思いますが──開戦を正当化しました。しかしイラクは民主化するどころか、イスラーム国(IS)を生み出し、破綻国家化しました。アメリカの占領による日本における民主化──というより本当は「アメリカの属国化」ですが──の「成功」とイラク占領の失敗を比べれば、アメリカの諜報、情報収集能力と知性の劣化は火を見るように明らかです。

話をサウジアラビアに戻しましょう。植民地になった経験のないサウジアラビアでは、敬虔なワッハーブ派宗徒はそもそもワッハーブ派のサウジ人以外とは交流しません。ましてや異教徒のアメリカ人とは近づきもしないのでアメリカ人が彼らの生の声を聴くことはありません。アメリカ人の耳に届くのは、西欧式の教育を受けて英語で欧米流の論理で話をする一部のサウジ人による耳障りの良い言葉だけです。アラブ諸国を捨ててアメリカに帰化したアラブ系米国人はなおさらです。そのようなインフォーマントから得られたバイアスのかかった情報は量が多ければ多いほど偏見を増幅、強化し、理解を深めるどころか、誤解を増やすだけでした。欧米諸国の中でも特にアメリカにその傾向が強いのは、世界最強の覇権国として、他国を理解しなくても圧倒的な武力により自己の意志を押し付けることができ、たとえ判断を誤り失敗を繰り返しても、他国を破綻国家にしていくだけで、自国には塁が及ばないためです。だからこそ9・11同時多発攻撃でアメリカ本土を攻撃された時にあのようにパニックに陥り、それ以降、坂を転げ落ちるように自由の看板を下ろし、監視国家への道を突き進んでいったのです。後にイラクの移行政府の副首相になる、アメリカで教育を受け実業家として成功した亡命イラク人アフマド・チェラビーによるサダム・フセインが大量破壊兵器を有しビン・ラーディンと共闘しているとの捏造情報にブッシュが騙されて利用されイラクに侵攻させられたのも、そうしたアメリカの情報分析能力の低さの例証です。トランプ政権は決して例外ではなく、ただその延長上にあるだけです。

サウジアラビアの日本大使館専門調査員時代のアメリカ大使館の外交官たちとの意見交換によって、竹槍でB29と戦う──古い表現ですが──ような数百倍とも思われた彼我の情報格差を知ると同時に、異文化理解においては偏見に基づく情報は理解を妨げるノイズであり、むしろ多ければ多いほど真実を覆い隠すマイナス要因にすらなり、むしろオリジナリティーがなく他人真似がうまいだけと言われた日本人──私が若い頃は日本人はそう言われていたのです──の方がまだアメリカ人より共感能力があるため情報分析能力が相対的に高く、実際のサウジアラビア、中東、イスラームの社会と文化の理解における彼我の差は数倍──それでもやはり圧倒的に負けてはいるのですが──まで縮めることができると思うようになりました。

4.アメリカと中東

もともとイギリスの植民地であり1783年に独立したばかりのアメリカは、中東・イスラーム地域に植民地を有さず、ヨーロッパ、ロシアのようなムスリムとの何世紀にもわたる敵対の厄介な歴史的問題を抱えていませんでした。アメリカはヨーロッパと違って歴史的にムスリム世界に恨まれる筋合いはなく、最近──といっても第二次世界大戦後のことですが──イランに「大悪魔」と呼ばれ、ビン・ラーディンらに「9・11」の標的にされたのは、イスラーム世界と西洋の文明論的対立などではなく、拙劣な外交のせいにすぎません。

むしろウッドロウ・ウィルソン大統領が1918年に発表した14か条の平和条に盛り込まれた民族自決原則は、第一次世界大戦で敗北した多民族国家ロシア帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、ドイツ帝国、オスマン帝国を崩壊させ、将来のムスリム諸民族の帝国主義列強からの独立の理論的準備をしたとも言えます。しかし第一次世界大戦の戦後処理の時点ではこの民族自決の原則が適用され独立が認められたのはエストニア、チェコスロヴァキア、フィンランド、ポーランド、ラトビア、リトアニア共和国などヨーロッパの民族の国家だけでした。英仏など戦勝国の西欧列強のアジア・アフリカにおける植民地が独立を認められなかったのは言うまでもなく、ドイツ帝国のアジア・アフリカの植民地も独立を認められず委任統治領の名で英仏に分割されました。またオスマン帝国の旧領もヨーロッパのアルメニアだけが独立を認められ、アラブ地域はイラク、パレスチナ、エジプトはイギリス、シリア、モロッコ、チュニジアはフランスの委任統治領、保護国となり英仏の間で分割されました。中東では1919年にウラービー革命を武力鎮圧しエジプトを保護国化したイギリスが間接支配を続けるために1922年に王国として独立を認めたのを皮切りに、イラク、ヨルダンを王国として独立させましたが、植民地アルジェリアを併合していたフランスは第二次世界大戦後までシリア、モロッコ、チュニジアの独立を認めませんでした。

この間、アメリカは西欧列強の勢力圏である遠い中東に関しては基本的に干渉しない政策をとっていましたが、1945年2月のフランクリン・ルーズベルト大統領とアブドゥルアズィーズ・サウジアラビア国王との会見以来、サウジアラビアを石油を供給する中東の最大の同盟国とみなしその利権確保を中東政策の基軸に据えました。第二次世界大戦が終ると1947年にアメリカはソ連の影響拡大を阻止する世界戦略「トルーマン・ドクトリン」を発表し、米ソが対立する冷戦が始まります。つまりサウジアラビアにおける石油利権、ナチスの迫害を逃れてヨーロッパからアメリカに移住したユダヤ人ロビーが支持する「欧米のユダヤ人の中東における植民地」としてのイスラエルを守るために、アメリカはこれまで第二次世界大戦前には積極的に関わってこなかった中東において、中東に対するソ連の影響の浸透を抑え込む政策を取ることになったわけです。

民族自決の原理に基づきアラブ国家としてのパレスチナの独立を求めるサウジアラビアをはじめとするアラブ産油国と、ユダヤ人の独立国家イスラエルの建国を求めるユダヤ人の対立する要求の間で、1948年のイスラエル独立宣言に際してアメリカがアラブ諸国が拒否したイスラエルの建国を最初に認める国に、ソ連が第二の承認国になりました。また、1956年にエジプトのナセル大統領によるスエズ運河の国有化をきっかけに起きた、イスラエル、イギリス、フランスがエジプトに進攻したスエズ戦争において、アメリカがソ連と共にエジプトの側に立ち、英仏、イスラエルを撤退に追い込みました。どちらの出来事も、中東におけるソ連との影響力獲得競争という文脈の中でのことでした。つまりスエズ戦争でアメリカがエジプトの側についたのは、第二次世界大戦後、ドイツが撤退した東欧を勢力圏に収めたソ連の影響が中東に及ぶのを恐れ、エジプトを懐柔しようとしたものでした。しかしスエズ戦争の勝利後、ナセルは逆にソ連との関係をますます強化することになり、イラクでもイギリスが擁立したハーシム家の王制が1958年にクーデターで倒され共和制が成立し、1963年にはアラブ社会主義のバアス党政権が誕生します。また1958年には北イエメンとフランスから独立したシリアがエジプトのナセルの下にアラブ連合共和国を結成します。アラブ連合共和国は1961年に崩壊しますが、シリアはバアス党政権になり、北イエメンはエジプトの支援の下で王制が倒され共和制になりました。隣の南イエメンは1967年に人民民主主義共和国として独立し、ソ連の中東における橋頭保になりました。全てを詳述する紙幅の余裕がないので端折りますが、北アフリカでも、チュニジア、リビアでは王制が倒され共和制が成立し、内戦の末にフランスからの独立を勝ち取ったアルジェリアも社会主義陣営に加わります。

こうしてアラブ世界は、ソ連の支援の下に王制の打倒を目指すアラブ社会主義共和制諸国──実態は全体主義独裁制ですが──とアメリカの庇護下にある伝統的王制諸国──実態は民衆を抑圧する専制君主制諸国──に分裂することになり、アメリカはスエズ戦争以降は中東における唯一の真の西側の友邦──要するに欧米の植民地ということですが──イスラエルに一方的に肩入れすることになります。そして私見によれば、スエズ戦争において国際世論を配慮しイスラエルの無法を押さえたのを最後に、冷戦の論理に絡めとられ、イスラエルと石油利権を守るために中東の現実、国際法、人倫から目を逸らして非合理的な政策をアメリカは追求するようになります。

これ以降のアメリカの中東政策の柱は、西欧に残された最後の植民地として中東に打ち込まれた楔である唯一の友邦イスラエル、西側と東側の緩衝地帯、軍事同盟NATO(北大西洋条約機構)の東側に対峙する前線として唯一の非キリスト教国として組み込まれたトルコ、石油の供給基地としての(当時)世界最大の産油国サウジアラビア、そしてアメリカの代理人として軍事的にアラブ産油地帯に睨みを利かせた「ペルシャ湾の憲兵」パーレヴィー朝イランとなりました。このアメリカの中東政策の4本の柱、イスラエル、トルコ、サウジアラビア、イランは、いずれも大きな認知の歪みとその歪みがもたらす戦略的問題を抱えていたのですが、その中で最も早く破綻したのが、イランでした。というわけでやっと話は本題の米イラン関係に戻ります。

5.アメリカの冷戦期のイラン政策

アメリカの冷戦戦略の最初の大きな過ちがなされたのがイランでした。実はイランは第二次世界大戦中、当時の皇帝レザー・シャーが中立を宣言しながらもナチス・ドイツ寄りの政策を取ったため、1941年にイギリスとソ連の連合軍が侵攻し、レザー・シャーは退位させられ、息子のムハンマド・レザーが新皇帝に擁立され、北部がソ連、南部がイギリスに占領されました。大戦終了後、イギリス軍は撤退しましたが、ソ連軍は居残り、北部にクルド人とアゼリー人の傀儡ソビエト政権を立てました。これらの傀儡ソビエト政権はすぐに崩壊しますが、この事実は、イランが後の冷戦の原因となる共産主義と資本主義のイデオロギー闘争の中東における前線であったことを示しています。そしてそのために、イランで1951年に民主的選挙によって選ばれ絶大な人気を誇る民族主義的政治家であったモサデク首相がアングロ・イラニアン石油会社を接収し国有化した時、アメリカとイギリスはイランが共産化しソ連陣営に寝返ることになるのではと恐れ、CIAが主導した秘密工作によりクーデターによってモサデク政権を転覆させました。

モサデクの失脚後、ムハンマド・レザーが秘密警察SAVAKを背景に専制君主として強権的な支配を行うことになります。イランはイギリスの勢力圏でしたが、ムハンマド・レザーを軍事的に支援し、中東における欧米の利権を「ペルシャ湾の憲兵」に仕立て上げたのは、第二次世界大戦後、イギリスに替わって西側陣営の盟主となったアメリカでした。CIAが民主的選挙で成立したモサデク政権を転覆させ、イランの民主化を妨害したことは、後になってオルブライト国務長官、オバマ大統領も公式に認めています。CIAが秘密工作でモサデク政権を転覆させたことを道義的に責めようということではありません。アメリカは時流を見誤って権益を守ろうとして無理をした結果、権益を守るどころか大きな厄災を引き寄せることになった、と言っているのです。

モサデクの石油国有化は、ナセルのスエズ国有化に5年も先立ちます。スエズ運河の国有化も後に資源ナショナリズムと呼ばれるものの一種でしたが、1962年には国際連合で「天然資源に対する恒久主権の権利」の宣言が出され、資源保有国の外国資本に対する優位が認められ、1967年にアルジェリアがアメリカのエッソ/モービル社を国有化したのを皮切りにアラブ諸国は軒並み外国の石油会社を国有化することになります。モサデクには先見の明があり、石油国有化は逆らうことのできない時代の流れとなったのでした。ところがアメリカは時流に逆らって、クーデター工作をしてまで石油国有化を阻止した結果、イラン国民の恨みをかい、革命で傀儡のムハンマド・レザーは追放されパフレヴィー朝は崩壊し、イスラーム共和国が成立したばかりか、テヘランのアメリカ大使館がイラン革命急進派の学生たちによって占領され、アメリカはイランと断交することになりました。

イギリスの石油利権を守るために、イランを外国資本による搾取から解放しようとの資源ナショナリズムを他の中東諸国に先駆けて掲げて国民の支持を得ていたモサデク政権を秘密工作で転覆させ、その後、ムハンマド・レザーの国民への搾取と弾圧、人権侵害に目をつぶって、軍事、経済、外交的支援を与え続け、イラク、アルジェリア、リビアなどのアラブ産油国を超えてソ連の影響がサウジアラビアとペルシャ湾岸の他の王制諸国に及ぶのを避けるために、イランを「ペルシャ湾岸の憲兵」に育てたアメリカでしたが、結局のところ石油を国有化した他の湾岸産油国との通常な良好な関係さえ維持することが出来ず、結果的にイランを中東における最大の敵に変えてしまったばかりでなく、アメリカの特別な友邦イスラエルにとってもアラブ諸国よりも危険な敵にしてしまったのです。──実はイランとイスラエルとは激しく対立しつつも、実は現在でも裏でつながっている、というのもまた事実なのですが、話が複雑になりすぎますので、その話は今回は割愛します──。それだけではなく、そのイランのイスラーム政権と戦わせるためだけに、ナセルの死後、世界最悪の人権蹂躙の独裁政権の一つであったのみならず、アラブのソ連陣営であり反アラブ王制の急先鋒でもあったイラクを軍事的、経済的に支援し、中東随一の軍事国家にしてしまいました。その結果、対イラン戦争の戦後処理に不満なイラクが余勢をかってクウェイトに侵攻したことが世界を巻き込む湾岸戦争に発展し(1990-1年)、米軍がイスラームの「聖地」サウジアラビアに駐留することになったため、ソ連のアフガニスタン侵攻にあたってはCIAの支援の下でアラブのイスラーム主義者を結集して対ソ連ジハードを戦ったビン・ラーディンが反米ジハードに転じ、2001年のアメリカ同時多発攻撃事件「9・11」に至る負の連鎖が引き起こされました。

後知恵と言われればそれまでですが、こうして回顧すると、アメリカの中東、イスラーム世界認識の拙劣さは明らかに思えます。繰り返しますが、道義的に非難しているのではありません。誤った中東認識に基づくアメリカの政策はことごとく予想に反してアメリカ自身の国益を損ない、その国力と威信を削ってきた、というのがここで言いたいことです。

6.アメリカとイラク政策

話はまだ終わりません。やっと今回のテーマに直接つながるところまで来たところです。「9・11」でパニックに陥り、「テロとの戦争」を宣言したブッシュ大統領は、2003年1月に大量破壊兵器の保持と共にビン・ラーディンとの関係を口実にイラクに侵攻しサダム・フセイン政権を崩壊させました。後に大量破壊兵器もビン・ラーディンとの関係も虚偽であったことが明らかになっています。

ブッシュがサダム・フセインを倒しさえすればイラクが親米の自由民主主義の国になると妄想していたことは既に述べましたが、それが妄想であることはまともな中東、イスラーム研究者であれば誰にでもわかっていることでした。というのは、サダム・フセイン政権崩壊後に自由民主主義を担う受け皿となる政治勢力がイラクには存在しなかったからです。サダム・フセイン政権は強権的独裁政権で反体制派の存在を一切許しませんでしたので、自由民主主義の受け皿が存在しなかったことはある意味では当然です。しかし問題は自由民主主義勢力が存在しなかったことではなく、自由民主主義ではない反体制政治勢力が、国内ではなく国外には存在したことです。それがシーア派法学の権威(マルジャア)ムハンマド・バーキル・サドル師の思想に基づくシーア派イスラーム主義組織ダウワ党とイラク・イスラーム革命最高評議会(2007年イラク・イスラーム最高評議会と改称)でした。ダウワ党は1957年に結党されましたが、イラン・イスラーム革命のイラクへの波及を恐れて1980年に禁止され、ムハンマド・バーキル・サドル師は処刑されました。ダウワ党の幹部の多くはイランに亡命しましたが、その一人で高位法学者(アーヤトゥッラー)ムハンマド・バーキル・ハキーム師(2003年テロで爆死)がイランの支援の下に結成したのがイラク・イスラーム革命最高評議会でした。

つまり、イラクにはサダム・フセインとバアス党の追放後に政権の受け皿となりうる政治勢力は存在したけれど、それはアメリカ流の「自由民主主義」とは真っ向から対立するシーア派のイスラーム主義政党であり、しかもそれはアメリカの不俱戴天の仇イラン国内でイラン・イラク戦争でもイラン側について戦い、長年にわたってイスラーム学の研鑽を積み政治・軍事的経験を重ねた熟練のシーア派の宗教政治家たちだった、ということです。

私はサダム・フセイン治下のイラクは1991年にバグダードを数日訪れたことがあるだけですが、サダム・フセインが、エスニックなスンナ派も含めて国民の大多数から恐れ憎まれていたことは、短期滞在の旅行者にも分かりました。ですから、アメリカが自分たちがイラクで起こした戦争のコラテラルダメージによる死傷者、破壊した家屋や産業施設に、アメリカ人と同じ基準で公正な賠償金を払うだけ払って、イラクの政治に干渉せずイラク人に政権を引き渡してすぐに撤退していれば、アメリカは感謝され、「解放者」として歴史に刻まれたかもしれません。しかし、親米の自由民主主義政権を作る、などという妄想を抱いていたアメリカには、それはできず、いつものことですが、占領下でイヤード・アッラーウィー(暫定政府首相)、アフマド・チェラビー(移行政府副首相)のような子飼いの世俗政治家を使って傀儡の統治機関を作り、自分たちに都合の良い憲法を制定するメンバーを選んで紛い物の「民主主義」国家を作り、世界各国から復興支援の名目で金を集め、アメリカに擦り寄るイラク人たちにばらまいただけでした。実際にはその多くがアメリカの戦争利権屋たちに還流しているのですが、その話は今回は禁欲します。日本も数十億ドルを払わされています。

簡単に言えば、アメリカのご都合主義の紛い物の「親米自由民主主義」の押し付けと、子飼いの親米利権屋たちへの金のばら撒きが、イラクの破綻国家化の原因です。「民主主義」について、人権、平等、自由など、いろいろ余計なものを付け加えたがる者がいますが、すべては利害関心によって歪曲されたイデオロギー的粉飾に過ぎず、「民主主義」の本質は多数派の支配、その制度的保証は完全秘密投票による多数決であり、それ以上でも以下でもありません。勿論、「民主主義者」だけの閉じられたサークルでは、各自がそれぞれの「私の民主主義」の理想を語るのは自由ですが、異なる価値観を有する様々な文明圏の研究者の間の「客観的」「価値中立的」な社会学的分析では、そういう夢物語は、話を混乱させるだけで有害無益です。イラクを真に「民主化」するには、イラクで多数を占めるシーア派が「自由」に選んだ政府を作るしかありません。そして米軍のイラク占領以来、現在に至るまで、政治的移行期や危機の節目節目でその発言が注目されるイラクの国民の間で最も影響力のある人物がイラクのシーア派法学者の最高権威(マルジャア)スィースターニー師であることは、イラク・ウオッチャーの間では常識となっています。ですからイラクの民主化を本当に望むなら、イラクの多数派のシーア派が最高権威と仰ぐ──政治的発言においてシーア派党派色の薄いスィースターニー師はスンナ派も頼りにしています──スィースターニー師の指導の下に纏まる政体を考えるべきです。

7.イラン革命の西欧の社会科学への影響

現在のイラクの政体は、アメリカが軍事占領下で押し付けた西欧流の領域国民国家です。それがいけないと言うのではありません。──いや、いけないのですが、今はそれを論ずる場ではない、ということです──。国や政治のあり方が領域国民国家でしかありえない、との先入観を捨てないと、中東、イスラーム世界は理解できないからです。イラクで最も影響力がある人物でありながら、スィースターニー師はいかなる公職にもついていません。彼の権威は、大統領や首相、最高裁長官、国会議長、あるいは国防大臣、参謀長官のような一切の制度的権力とは無縁です。これは、イラン革命の初期の故ホメイニー師を思い起こさせます。当時パリに亡命していた無位無官の一介の宗教者の言葉に、数百万人を超す民衆が、残虐な専制君主の弾圧を恐れずイラン全土でデモに繰り出す姿が世界中にテレビで放映されました。私はまだ高校生でしたが、その時の衝撃は今も忘れません。なぜこんなことが現代に起きうるのか、イラン革命の謎を知りたいという想いが私が大学でイスラム学を専攻するきっかけの一つであったことは疑いありません。東京大学で1980年に私が最初に受講したイスラム学科の講義で提出した期末レポートで、私が選んだテーマはイラン革命でした──もっとも故佐藤次高先生には良をつけられましたが──。イラン革命は私だけでなく、世界の宗教研究、地域研究のパラダイムシフトをもたらしました。イラン革命以前には「上部構造」は「下部構造」経済に規定されるとの「科学的社会主義」が最新の流行で、政治、社会、文化のような上部構造は表層であり、表層の動きはその深層にある経済という下部構造の分析によって理解できる、と考えられており、マルクスが「大衆のアヘン」と呼んだ「宗教」は上部構想の中でも最表層であり時代遅れの遺制と軽視されていました。転機となったのがイラン革命で、イスラームを中心に宗教が政治に及ぼす影響が見直されるようになりました。私たちイスラーム研究者も、イスラームには経済に還元できない自律性がある、と言いましたが、いつの間にか、振り子の針が逆に振れすぎたように思います。特にS.ハンチントンの『文明の衝突』以来、「テロ」、戦争、難民などすべての問題がイスラームによって「説明」されるようになってしまいました。私はイスラームには経済などの下部構造に規定されない自律性があるとは思いますが、戦争などの社会、政治問題の多くはイスラーム的装いをまとっただけで、真の原因は経済問題であると思っています。

8.民族と宗教

無位無官の法学者が共同体全体の指導者の権威を持つ、というのはスンナ派には存在しない特殊シーア派的な現象です。この現象については、イスラーム学的には、シーア派の「平信徒」はクルアーンとハディースの独自解釈(イジュティハード)ができる法学者(ムジュタヒド)に従わなければならない(タクリード)とのシーア派ウスール学派の教義、法学者がイマームの代理として5分の1税(フムス)の徴収、処分権を有するとのシーア派法学の規定などによって説明されています。「法学者の統治(ウィラーヤ・ファキーフ)」論については、ホメイニー師と対立したイラクのナジャフのシーア派法学界の最高権威フーイー(1992年)師の弟子で師と同じく「法学者の統治」論を認めないスィースターニー師ですが、むしろ今の彼の姿は革命初期のホメイニー師の姿に重なるように私には思えます。

それについてはまた後に述べるとして、スィースターニー師の「異常さ」はある意味ではホメイニー師以上です。それはスィースターニー師は単に無位無官であるだけではなく、そもそもイラク人ですらないことです。スィースターニー師は1930年にイラン北西部の聖地マシュハドに生まれ、マシュハドとコムの神学校でイスラーム学の基礎を修めた後、イラクのナジャフに留学し、そのままナジャフに定住した生粋のイラン人です。そもそも国民ですらない無位無官の一宗教者の言葉に、国の運命を左右する政治的局面で国民が耳を傾ける、というような現象は領域国民国家の論理では理解できません。そもそもイラク、イラン、アラブなどという言葉にどれだけの意味があるのか、が問い直されなければならないのです。

アラブには旧約聖書のアブラハム(イブラーヒーム)の子イシュマエル(イスマーイール)に男系出自を辿る血縁的定義と、アラビア語を話しアラブ化した者という言語・文化的定義の二つがあります。後者をムスタウリブと言います。スィースターニー師はシーア派第三代イマームの血を引く預言者ムハンマドの子孫サイイドであり、かつイスラーム学を修めた、つまり古典アラビア語に習熟したイスラーム学者ですので、血縁的にも言語・文化的にも立派なアラブです。シーア派の場合、分かり易いのですが、黒ターバンを巻いたイスラーム学者は全員が預言者ムハンマドの子孫(サイイド)、つまりアラブです。その意味で、現在の最高指導者ハーメネイー師も、故ホメイニー師もアラブでした。更にハーメネイー師はアゼリーですので、「トルコ人」でもあります。中東、イスラーム世界において、「民族」「国民」などというものは、場合によって都合よく取り換えられる衣装のようなものでしかありません。まぁ、「国民」は無理やり着せられてなかなか脱げない拘束衣のような窮屈で迷惑な存在ではありますが。

もちろん、良く耳にする「アラブはペルシャ人が嫌い」「イラン人がアラブ人と間違えるとすごく怒る」などといった言葉は私自身も口にすることがあり、それはそれで真実なのですが、それも文脈次第だということです。特にイスラーム学者の言説の場合はそうです。イスラームのドグマティックな言説を文字通りに鵜呑みにせず、民族感情といったものを考慮しなければならない、といった形で副次的には参照すべきではあっても、あくまでも、イスラームの教義に照らして解釈するのが基本です。といっても、教義とは個々の事象の記述の寄せ集めではなくカテゴリーの体系です。例えて言えば、教義とは値が決まった定数ではなく、方程式のようなものです。同じ方程式であっても代入する値が変われば式の値もかわってきます。たとえばスンナ派法学の多数派説では、ズフル(正午)の礼拝の定刻は太陽の南中からモノの陰がそのモノと同じ長さになるまでと決められています。ですから礼拝の定刻の規定自体は同じでも、高緯度のイギリスと赤道直下のインドネシアでは、ズフルの礼拝の定刻は全く異なります。同じように統治論自体が同じでもおかれた状況によって表面に現れる言動は全く違ってくることもあります。礼拝の例で言うと、同じスンナ派でもハナフィー派だとズフルの礼拝の定刻は陰の長さが二倍になるまでです。ですからハナフィー派のズフルの定刻の長さは多数派より長くなります。季節によっては高緯度の国の多数派のズフルの定刻の長さと低緯度の国のハナフィー派のズフルの定刻の長さが一致することもあります。この場合は同じ時間にズフルの礼拝をしていてもその基づく学説は違っています。政治についても同じで、表面的な言動が同じでも、置かれている状況が違えば元になる政治思想は全く違うこともあれば、逆に置かれている状況が違えば、政治思想は同じでも表面的な言動は全く違う、ということもあります。ですから、イスラーム主義運動、特にイスラーム学者の言動は、表面的な言動の片言隻句を取り上げるのではなく、その運動、学者の思想の全体と置かれた状況の文脈の中において解釈しなくてはなりません。

9.シーア派神学校

権力による抑圧が存在するところでは言論には歪曲が生じるため特に気を付ける必要があります。イラクは未だにアメリカ軍が駐屯し、事実上はアメリカの支配下にあるため、アメリカが押し付ける法秩序に対立する発言はできず、沈黙したり、わざと誤解を招くダブルミーニングの表現を使ったりするのが通例です。イランについても程度の差はあれ同じことが言えます。イランの場合、確かに国内では「法学者の統治」制度のおかげでイスラーム法学者が世俗権力の掣肘を受けずにイスラームの教義を語ることが出来ます。しかし対外的には、イランもまた国際的領域国民国家システムに組み込まれている以上、その法秩序にあからさまに背く発言はできないからです。

特にシーア派の場合、自己及びシーア派の共同体に危険があると思う時には信仰を隠すことが義務となる「タキーヤ(信仰隠し)」の教義があります。先ほどの礼拝の定刻の例を取ると、シーア派の場合はズフルの礼拝の定刻が全く違うのですが、スンナ派の支配地や、あるいは異教徒の支配地に住む場合、シーア派の教義に従っていながら、表面的にはスンナ派の礼拝の定刻にスンナ派の作法で礼拝をしていたり、そもそもムスリムであることすら隠し礼拝を全くしていないことさえありえます。

前述のムクタダー・サドル師はイラク・ナショナリストと呼ばれ、2019年にもサウジアラビアを突然訪問するなど反イランとみなされていましたが。そもそもサドル師はイスラーム法学者として権威ある法学者(ムジュタヒド、マルジャア)になるべく修行中の学徒ですが、彼の師匠はカーズィム・ハーイリー師です。ハーイリー師はムクタダー師の父方伯父のムハンマド・バーキル・サドル師の後継者の一人で元はナジャフの法学権威でしたが、サダム・フセインの迫害を逃れてイランに1974年に亡命しそれ以来コムの神学校──スンナ派で言うマドラサではハウザ、ペルシャ語でホーゼと言います──で教えており、「法学者の統治」論の保守派の論客として知られています。シーア派のイスラーム政治、特にイスラーム法学者が公式に政治の実権を握るイランでは、このハウザこそが陰の政府なのであり、シーア派のイスラーム政治運動を知るにはこのホーゼのネットワークの動きを知らないといけません。ムクタダー・サドル師は勿論ナジャフのハウザの学徒でもありますが、コムのホーゼの学徒でもあることが、国籍の違いよりも重要です。そしてシーア派のムジュタヒド、特にマルジャアと呼ばれる高位のムジュタヒドは独立ですので、イランの最高指導者ハメネイー師でさえ、宗教的事項に関しては他の権威マルジャアたちの見解には容喙できません。イランの公式教義になっている「法学者の統治」論でさえ、イラクの人のハーイリー師のように支持者がいる一方で、イランのマルジャアの中にも認めない者がいます。コムのホーゼの学徒に聞いたところでは、イランの陰の政府であるコムのホーゼにもスィースターニー師の代理人事務所が普通に置かれており、ハメネイー師に次ぐ数の学徒がスィースターニー師事務所から奨学金をもらっているそうです。勿論、イラクにもハメネイー師の代理人がいて事務所が置かれています。

私はオリエンタリストですので、マドラサで学徒(ターリブ)として学んだ経験はカイロのアズハルと、サウジアラビアのリヤドのモスクでアブドッラフマーン・バッラーク師の自宅のモスクの私塾で短期間学んだぐらいでほとんどないのですが、マレーシア、インドネシア、パキスタン、アフガニスタンなどで多くのマドラサを見学してきました。コムのホーゼもカイロ留学中──確か1990年頃──に当時コムに留学中だった日本人学徒を訪ねたのを皮切りに何度か訪問していますが、僅かな滞在経験でも分かるほどに、スンナ派のマドラサとはあらゆる点で全く違っています。この話をし始めるときりがないので詳細には立ち入りませんが、コムのホーゼの特徴として、それぞれのマルジャアたちがイスラーム法学を学ぶ学徒だけでなく、独自のコンピューターエンジニアなどの理系技術者集団を含む自分に服従(タクリード)する信奉者を抱え、個人の図書館、シンクタンク、出版社が一つになったコンプレックスの研究所を有する一国一城の主であり、そうした法学的に独自の権威を有するのみならず独立の社会経済基盤を有するマルジャアたちを束ねるのがハーメネイー師を始めとする十人ほどの大法学者(アーヤトゥッラー・ウズマー)たちだということだけは読者諸賢も押さえておいて欲しいと思います。

彼らはレバノンからパキスタンまで広がるハウザのネットワークの中で20年ほど寝食を共にし同じ古典を暗記し共通の教養を身につけ、更に20年そうした共通教養を元に議論を積み重ね切磋琢磨することで権威(マルジャア)になっていきます。ムクタダー師やスィスターニー師の政治的言動は、そうした背景を考慮に入れて解釈する必要があるのです。

10.シーア派政治論

と言っても、残念ながら古典から現代までレベルはともかく量はそれなりにあるスンナ派政治思想研究に比べて、シーア派の政治思想の研究は世界的にも遅れており、ヨーロッパ語でも概説書はあまり評判のよくないSachedinaのThe Just Ruler in Shi'ite Islam(1998)ぐらいしかなく、日本語では全くありません。ですので、取りあえず最低限、拙著『イスラーム学』(作品社2020年)の19節「ムフスィン・キャディーヴァルのシーア派国家類型学」の「2.シーア派法学の国家論の発展史、3.国家類型論」(362‐374頁)、特にスィースターニー師のようなイラクの法学者の言動の理解に関しては国家の第6類型の「マルジャア監督人民ヒラーファ(カリフ制)」に関する議論(370‐372頁)をお読みください。私自身は、スィースターニー師の立場は、「法学者の統治」とは違って法学者は政治に直接関わらず要所要所で大所高所からの助言を与える存在となるべきとの故モンタゼリー師の「法学者の監督(ナザーラ)」論に近いものだと考えています。

前述のようにイラクのシーア派法学界の最高権威だったフーイー師は「法学者の統治」論を否定しており、サダム・フセイン政権時代には政治的発言を慎む「静寂主義」を取っていましたが、それは必ずしもフーイー師に確固たる政治理念がなかったことを意味しません。ムハンマド・バーキル・サドル師の従兄弟でムクタダー・サドル師の父でもある法学権威ムハンマド・サーディク・サドル師は湾岸戦争後に政治的発言を増しサダム・フセイン批判を始めましたが、1999年に息子二人と共に銃撃で殺害されており、サダム・フセインによって暗殺されたものと考えられています。ですからフーイー師の「静寂主義」も、現代シーア派政治思想の潮流と照らし合わせて考えれば、彼の思想と言うより、政治に関与すると殺害される危険があったサダム・フセインによる弾圧状況の下での表現形式に過ぎないことが分かります。そして同様にフーイー師の後継者であるスィスターニー師が、サダム・フセイン時代に比べて比較的「自由な」アメリカ占領下とアメリカの占領下で作られた傀儡政体の下で、フーイー師の「静寂主義」を離れ、イラク政治が重大な危機に陥るたびに声明を発表することで、徐々に存在感を増し、イラクで最も影響力のある人物との評価が定着することになったのも、フーイー師から継承した政治思想の現代の状況下での表現型と考えられます。

現在の無位無官のスィスターニー師の姿が革命初期のホメイニー師を思い起こさせる、と書きましたが、同じイランの最高指導者であっても、現最高指導者のハーメネイー師とはその性格が全く違います。ホメイニー師はイスラーム共和国が成立し最高指導者になる前から大法学者として押しも押されもしないマルジャアであり、最高指導者になってからも、国家を超越した存在であり、こまごました政務には関わってはいませんでした。一方、ハーメネイー師は、法学者としての格は低く、1981年から1989年まで現在ローハーニー師が務めている大統領職にあったのが、ホメイニー師の最高指導者位の後継者に指名されていた大法学者のモンタゼリー師が政治路線の対立から解任されたため、急遽最高指導者に任命されたのでした。つまりハーメネイ―師が大統領時代の習性から瑣事に至るまで何事も自分で処理するため、表面的に独裁者に映ったとしても、それは政治学的な意味での独裁ではなく、いわば「偶然的」なものだと考える方がよいと思います。

11.ハーメネイー師とスィースターニー師

というのは現在のイランのイスラーム学界では、キャディーヴァル師が言うところの「イスラーム法学者の無条件の親任ウィラーヤ(統治)」説が通説なのですが、ハーメネイー師は人民主権をその統治論に組み込んでおり、欧米のイスラーム地域研究やメディアによる保守派との評価とは違い、むしろ改革派寄りの中道派だからです。詳しくは拙稿『イスラーム学』18節「法学者の統帥権と人民主権──ハーメネイー師のイスラーム国家論を中心に──」(348‐359頁)をお読みいただきたいと思いますが、驚くべきことに、『イスラームにおける国家(Ḥukūmat dar Eslām)』(全2巻)(1986年)はイランの最高指導者ハメネイー師によるシーア派イスラーム国家論の主著であり、シーア派のみならずスンナ派を含めた現代のイスラーム政治論の作品の中でも極めて重要な著作でありながら、欧米の研究書では一切取り上げられていません。先にアメリカの中東、イスラーム地域研究において、アメリカに帰化した欧化主義者のアラブ人のインフォーマントの存在が、対象の理解の助けになるよりもかえって偏見と誤解を増幅し正しい認識を歪めていると言いましたが、イラン革命でイランを追われ敵国アメリカに亡命したイラン人たちはそれよりも更に悪質で、アメリカの政府に食い込み、40年にわたってイランのイスラーム体制がすぐにも崩壊する、と言い続け、アメリカの対イラン政策を誤らせ続けてきました。しかしイラン革命以来40年にわたってイランを見てきた者としては、オオカミ少年たちの言葉を信ずる気にはなれません。革命初期のラジャイ大統領、バーホナル首相、ベヘシュティ最高裁長官ら多くの革命指導者がモジャーヒディーネ・ハルクらの「テロ組織」に暗殺された反体制派による悲惨な「テロ」の連鎖、──ハーメネイー師の右腕が不自由なのも1980年の爆弾「テロ」で負傷したことが原因です──アメリカ大使館襲撃事件によるアメリカとの断交、75万人の犠牲者を出した湾岸産油国やエジプトなどのアラブ諸国に支援されたイラクのサダム・フセイン政権との戦争(イラン・イラク戦争:1980‐1989年)などのこれまでイラン革命が乗り越えてきた内政と外交の大変な諸問題に比べれば、現在のアメリカの経済制裁や外交的圧力、国内の反体制勢力のデモなど取るに足りない些末事としか思えません。革命を知らない若い世代は「真剣に反体制運動をしている」つもりでしょうが、革命とイラン・イラク戦争を知るハーメネイー師ら政府の指導部は彼らを西欧のプロパガンダに躍らされている愚かな一握りの跳ね上がりの不満分子ぐらいにしか思っていないでしょう。勿論時代は変わっており、彼らの現状認識が必ずしも正しい、とは言いきれませんが。

スィースターニー師に話を戻すと、イランの反体制という文脈に置きなおすと別の姿が見えてきます。スィースターニー師は若くしてコムのホーゼを離れイラクのナジャフに留学します。実はホメイニー師のおかげでコムのホーゼはシーア派イスラーム学の中心地として有名になりましたが、コムのホーゼはイラクのサーマッラーとナジャフのハウザで学んだヤズド出身のイラン人のイスラーム学の権威アブドゥルカリーム・ヤズディー師(1937年没)によって開校されたもので、シーア派の神学校としてはナジャフ、カルバラーなどの神学校に比べてはるかに「格下」でした。イラクのナジャフ、カルバラー、サーマッラー、カーズィマインを「アタバート」と呼びます。アタバートの字義は「玄関」ですが、それぞれシーア派の初代イマーム・アリー、第3代イマーム・フサイン、第7代ムーサー・カーズィムと第9代イマーム・ムハンマド・ジャワード、第10代アリー・ハーディーと第11代ハサン・アスカリーの聖廟があり、イラクにおけるシーア派の「聖地」を意味します。しかしアタバートはオスマン帝国のスレイマン大帝(1966年没)が晩年にサファヴィー朝との戦いの後に領有して以来、1623‐1638年の短期間サファヴィー朝によって奪還された以外、オスマン帝国の支配下にありました。アタバートはオスマン帝国の支配下におかれましたが、オスマン帝国はアタバートのシーア派の権利を保障しイランからのシーア派の巡礼の権利を認めたため、アタバートはシーア派の自治宗教都市になり、世界中からシーア派の留学生が集まるシーア派イスラーム学の中心地になります。というのは、私はスンナ派、特にサラフィーなので理解できないのですが、シーア派はイマームの墓への思慕の念が非常に強く、敬虔な信徒なら誰しも生きている間はイマームの墓の側で学び死んだ後はイマームの側に葬られたいと望むからだそうです。実はイランにはイマームの墓は第8代イマームのアリー・リダーしかありません。ちなみにマシュハドには今もイランで第二の規模のホーゼがあり、スィースターニー師、ハーメネイー師もマシュハドの預言者の子孫のイスラーム学者の家系の出身で、最初はマシュハドのホーゼで学んでいます。ところがコムにはイマームの墓はありません。イマームの墓はありませんが、コムには第8代イマーム・アリーの妹のファーティマの墓があります。シーア派ではイマームでなくても、イマームにゆかりのある(とみなされた)人間(イマームザーデ)の墓であればなぜか有難がるのでサファヴィー朝時代にファーティマの墓の周辺にハウザが作られていたために、前述のアブドゥルカリーム・ヤズディーがイランの北東部の辺境のマシュハド替わって首都テヘランに近いコムのハウザをイランのイスラーム学の中心地として再建したのであり、サダム・フセイン時代にシーア派に対する迫害によるナジャフのハウザの衰退により地位が高まり、イラン・イスラーム共和国の成立後、ホメイニー師のハウザとしてシーア派世界の学問の中心地とみなされるようになったのです。

サファヴィー朝はもともとは無学なトルコ系遊牧民のスーフィー教団(クズルバシュ)でしたが、シーア派を公認教義としてレバノンからイスラーム法学者を招聘してシーア派の教育、法制度を整えました。しかしイマームだけが預言者の後継者としてのウンマ(イスラーム共同体)の正当な統治者であり、それ以外の地上の支配者はすべてお隠れの救世主(マフディー)第12代ムハンマド・マフディー・ムンタザルの権力の簒奪者とみなすシーア派法学者とサファヴィー朝とそれ以降の帝王(シャー)たちの間には常に緊張関係がありました。そしてイランの既成権力に批判的なシーア派法学者にとって安全な避難所、亡命先となったのがイランの権力者の手が及ばず、スンナ派の支配下にありながら、あるいはスンナ派の支配下にあるが故にスンナ派批判をしない限りシーア派の教義の問題には容喙せず自治を認めていた、シーア派の聖地アタバートでした。

ムハンマド・レザーを批判したホメイニー師も1964年から、フランスに移住する前年の1978年までイラクに亡命しナジャフのハウザで教鞭をとっていましたが、それはアタバートに亡命してイランの政権を批判するシーア派法学者の伝統に則ったものでした。詳しくはイラン革命の歴史人類学的分析の古典Michael M. J. Fischer, Iran: From Religious Dispute to Revolution(1982)をお読みください。後にホメイニー師と血で血を洗う凄惨な戦争を繰り広げるサダム・フセインでしたが、この時期には「ペルシャ湾の憲兵」としてサダム・フセイン政権を抑圧していたムハンマド・レザーと戦うための手駒、交渉材料としてホメイニー師を匿っていたのでした。

スィースターニー師がナジャフに留学したのは、彼がまだ若く第二次世界大戦後の混乱期でしたのでイラン政府の弾圧を恐れて亡命したわけではないと思いますが、それ以降一度もイランに帰国していないのは、パーレヴィー朝に対しても、現在のイスラーム共和国に対して批判的だからであり、一種の亡命とも言えます。もしそうであるとすれば、イランの干渉を批判しイラクのことはイラクが決めるべき、とのイラク・ナショナリズムの文脈でこれまで解釈されてきたスィスターニー師の言葉も、イランの現体制の最高指導者が政治の全てに細々と口を出すハメネイー師流の「法学者の統治」に対するイラン人の亡命法学者としての批判であり、イラクだけでなく、イランも、そして全てのシーア派共同体もスィスターニー師のような、位無官で政治権力を有さない高位法学者に自発的に従い、法学者の方も、そのような信徒を権力によるのではなく、宗教的権威(マルジャア)として指導するべきである、との意図からのものと再解釈することができることになります。

2009年にはスィースターニー師が当時のイラン外相モッタキーとナジャフで会見し、イラン・イスラーム革命勝利30周年を祝福し、「私はいつもイラン、そしてすべてのイスラーム共同体がより一層の成功を収めることを祈っている」と述べ、イラン・イスラーム革命の神聖なる目的が達成されることの必要性を強調した、と報じられています(2009年02月14日付E‛temad-e Melli紙)。これもイラン人らしい、そしてイスラーム法学者らしい、婉曲な表現によるイランの現体制に対する批判と、イランと全てのシーア派共同体への政治的コミットメントの決意表明だと私は思っています。

12.ソレイマーニー

最後にソレイマーニーの話に戻りましょう。日本ではソレイマーニー爆殺をイランの国民的英雄を不法に殺害した暴挙とみなすものと、何万人もの無辜の民を殺した国際テロリストを処刑した快挙とみなすものの両極端に評価が分かれているように思いますが、どちらも的外れです。もちろん、どんな人間であれ、一行の言葉で過不足なく記述し尽くすのは無理、といった一般論ではありません。そのためには、まずイランが革命国家であることを再確認しておく必要があります。イラン革命は20世紀最大の民衆革命でした。ロシア(十月)革命、中国(共産主義)革命は、単なる政権の交替ではなく、社会経済の構造的変革のプログラムを持ち実際に実行した、という意味では紛れもなく革命でしたが、その方法は、無定形な民衆の自発的な蜂起によるものではなく、ロシア革命は第一次世界大戦、中国革命は満州事変のどさくさに紛れて、「職業革命家」の武装組織が扇動したクーデターに近いものでした。数百万の非武装の民衆が街に出て非暴力でパフレヴィー帝政を倒したイラン革命はむしろイギリス革命、フランス革命とも比べうる「市民革命」でした。──その後に反体制派の処刑などが続いたことも同じです──。革命の常として、革命で処刑された者の縁者や海外に亡命した者たちが反革命なのは当然です。彼らが亡命先でイラン・イスラーム共和国に対するネガティブ・キャンペーンを行っていることは、その最悪の例であるアメリカの例を既に述べました。国内に残った者で革命に幻滅した者が多いのも事実です。イラン革命が真の民衆革命であったことと表裏一体でもありますが、革命に加わった者が多様で呉越同舟同床異夢であったため、革命で追放され亡命した親米王党派のみならず、革命に参加した左派ムジャーヒディーン・ハルクなども反イスラーム共和国に転じています。ムジャーヒディーン・ハルクはイラン国内で要人暗殺などの反体制「テロ」を繰り返しただけでなく、イラン・イラク戦争でサダム・フセイン政権に味方しイランと戦ったため国内的支持をほぼ失いましたが、米軍の攻撃によってフセイン政権が崩壊し「テロ」活動の拠点を奪われ、現在では欧米で革命初期の亡命者たちと共に反イスラーム共和国プロパガンダを繰り広げています。繰り返しますが、欧米のイランに関する情報はこうした、反体制派の動きを針小棒大に誇張して伝え、体制への支持を全て独裁政権のプロパガンダとして否定する反イスラーム共和国プロパガンダにこの40年騙され続けてきました。革命防衛隊やソレイマーニーを抑圧の象徴として嫌うイラン人が一定数いることは紛れもない事実ですが、その数も力も極めて限定的なものです。またアラブ地域、スンナ派イスラームの研究者はイラン・シーア派の理解がなく、アラブの世俗独裁政権、専制王政との類推で考える過ちを犯しがちです。

たとえば革命防衛隊ゴドス部隊はシリアに深くコミットしていますが、彼らの目的はアサド政権を守ることではなく、ダマスカスのザイナブ廟などの前述のイマームザーデをイスラーム国の破壊から守ることでした。というのは、イマーム・ザーデのような聖者廟がイスラーム国のターゲットだからです。シリアでは約30万人の反政府シリア国民が殺されていますが、その大部分はアサド政権とロシアによるもので、ゴドス部隊は無関係です。またイラクでもシーア派を不俱戴天の仇とみなすイスラーム国との戦いにクドス部隊も参加していますが、イラク政府軍やイラクの他の民兵組織に比べて特に残虐であったり特別な「テロ」行為を行っているわけではありません。

そしてなによりもアラブ、スンナ派研究者から見ると不思議に思えるのは、ソレイマーニーが国民的「ヒーロー」というよりも、スレイマーニーの写真入りの子供たちの文房具が売られているような「アイドル」的存在だった、ということです。私もコムのイスラーム学徒から、日本を含む西側の報道では無理やりシリアの戦場に送り込まれているなどとしか書かれていないアフガニスタンのハザラ人の学徒たちもソレイマーニーの爆殺のニュースに学寮内で泣き崩れていたと聞かされました。こうした敬虔な信徒たちがソレイマーニーの葬儀のためにイラン各地で数百万人が集まりました。

結語

革命防衛隊はイスラーム共和国が出来た時に、革命の理念を守るためにイスラーム法学者直属の組織として国軍とは別に設立された武装組織であり、予備役も含めると約50万人と言われます。この革命防衛隊の50万人がイスラーム共和国を護るために武装して正規戦を戦いうるコアな支持者だとすると、ソレイマーニーの葬儀の参列者の数がイラン革命の理念の積極的な支持者の規模をほぼ表していると考えることができます。勿論、それでも人口8千万人の国民の一割にも達しませんが、これは1979年にパフレヴィー朝の正規軍に立ち向かって革命を成し遂げた民衆の数とほぼ同じです。非武装の数百万人の革命の理念に忠実な支持者があれば強大な専制帝政さえ倒せたことを考えれば、反乱に際して軍が中立を保つとしても、数百万の市民の支持者に加えて反体制派を圧殺することを躊躇わない革命の理念に忠実な50万の武装組織(革命防衛隊)を有するイランの現体制を、反体制デモにさえ多めに見積もっても数十万人しか動員できない国内の反体制派が自力で打倒することが不可能なことは容易に理解できるでしょう。

アメリカ軍の侵攻でサダム・フセイン政権が倒れた時も、アラブの春でチュニジア、エジプト、リビア、イエメンの政府が倒れた時も、それまで数十年にわたって軍と警察の恐怖(テロ)を背景に国民を弾圧してきた独裁政権でしたが、独裁者を助けて身命を賭して戦おうという者も、独裁者に殉ずる者も殆どいませんでした。それはソ連が崩壊した時に、70年にわたって国民の身体と精神を全体主義的に支配してきたはずの共産党があっと言う間に雲散霧消したのと似ています。

現在、ムスリム世界、スンナ派世界には、イスラームに立脚した国家は一つもなく、軍と警察の力で民衆を抑圧する強権国家しかなく、命を捧げて守るべき理念もなければ、利害打算で結びついた支配階層の取り巻き以外に身命を賭して政権を守ろうとする者もいません。国内に強権体制に抵抗する一定数の反体制派が存在し、超大国アメリカとその盟友イスラエルと裕福な湾岸諸国を敵にまわしながら、一向に倒れる気配を見せないイランがアラブ、イスラーム地域研究者には分かりにくいのはそのためで、つまり反体制派よりも遥かに多い体制の理念を心から信じる熱狂的な体制の支持者が存在する、という状況がアラブでは見ることができないからです。

アラブには存在しませんが、実はスンナ派世界の中で、イスラームに基づいて国を作ろうとした国がひとつだけありました。──そのイスラーム理解が正しいかどうかはここでは問いません──。それが前回お話ししたアフガニスタンのターリバーンでした。ちょうどこの原稿を書いている間に、アメリカが2月29日「アシュラフ・ガニー政権を相手にせず」とのターリバーンの主張に従い、18年以上に及び、2000人以上の犠牲者1兆ドル以上の経費を費やしながらターリバーンと単独和平を結びました。和平を寿いでいるわけではありません。腐敗を極めたアシュラフ・ガニー政権が存続する限りアフガニスタンに平和は訪れませんから。アメリカに負けなかったターリバーンを称賛したいわけでもありません。イランの話です。イランの国内の反体制派に自力で現体制を倒す力がないことは既に述べました。しかしアメリカが軍事介入すれば、アフガニスタンやイラクのようにイランの現体制を倒し、傀儡政権を作ることは可能でしょう。しかしアメリカの傀儡──というよりは「共犯」と言った方がよかったかもしれませんが──のパフレヴィー朝帝政が、革命の理念に忠実な市民たちによって倒されたのなら、それに加えて過酷なイラン・イラク戦争を戦い抜いた上に、シリアやイラクでゲリラ戦の経験も積んだ数十万人の民兵「革命防衛隊」を擁する現在のイスラーム共和国を倒して傀儡政権を作っても、内戦を押さえこむことはできず破綻国家化を招くことは必定です。道義的な善悪の話をしているのではありません。

人口約2千万人のシリアが破綻国家し6百万人が難民化しましたが、百万の難民が流入しただけで、ヨーロッパではイスラムフォビア、排外主義が台頭しEUの崇高な人道の理念は風前の灯となっています。実はソ連が侵攻して以来の内戦でアフガニスタンが破綻国家した時も、当時の人口約2千万人のうち6百万人ほどが難民化しました。しかしアフガニスタンはヨーロッパから遠くその難民はムスリムの隣国イランとパキスタンがそれぞれ約300万人を受け入れたため、欧米では可視化しませんでした。しかしヨーロッパに近いシリアの破綻国家化はヨーロッパに甚大な影響を及ぼしました。アフガニスタンとは規模が違うイランの破綻国家化はヨーロッパに破壊的な影響を与えることになるでしょう。イランは地理的には中央アジアでむしろアフガニスタンと近く地中海のシリアとは違う、と思われるかもしれませんが、そうではありません。というのは、イランの破綻国家化は予想不能でコントロールのできない影響を周辺諸国に与えますが、まず確実なのは、中東のパワーバランスが大きく変わり、隣国のトルコで政変が起こり大混乱に陥り、下手をするとトルコも連鎖的に破綻国家化しかねない、ということです。人口の規模と国力からイランと同規模かそれ以上のヨーロッパの陸続きの国トルコが混乱に陥ると、イランからだけでなく、トルコからも、何百万から千万規模の難民がヨーロッパに押し寄せることになります。

なぜイランの現体制が崩壊すれば、連鎖的にトルコに政変が起こるのかの理路は、今回はとても話しきれませんが、次回にお話ししたいと思います。

 

イランとアメリカの「不都合な現実」 飯山陽

テロ支援か、抵抗運動か

2020年2月13日は、イランのイスラム革命防衛隊コッズ部隊のソレイマニ司令官が米軍によって殺害されてから40日の記念日でした。イラン国内では追悼式典が開催され、革命防衛隊のサラミ司令官はアメリカとイスラエルが少しでも間違いを犯せば攻撃すると演説し、その様子はイラン国営テレビで生中継されました。

レバノンではイスラエルとの国境で、エルサレムの方向を指差しパレスチナの旗を背にしたソレイマニ像がお披露目されました。その前の週、イランの最高指導者ハメネイ師は、パレスチナの武装組織をできる限り支援すると表明しました。これらの事象は、イランがどのような国で中東地域にどのような影響力を持っているかを示しています。

イランは、中東から地中海にかけて「シーア派の弧」を形成し覇権を握ることを目指しています。そのために各地の武装勢力に資金や武器を提供し、イランの「代理勢力」化して影響力を強化してきました。この作戦の参謀だったのがソレイマニです。ソレイマニの死後、革命防衛隊はイランのヒズボラ、パレスチナのハマス、イラクの人民防衛隊、イエメンのアンサールッラー、アフガニスタンのファーティミユーン、パキスタンのゼイナビユーンといった武装勢力の旗をバックに会見を行い、これらがイランの代理勢力であることを初めて公式に認めました。

レバノンにイランの軍人であるソレイマニ像が建立されたのは、現在実質的にレバノンの政権を握っているのがイランの代理組織ヒズボラだからです。ハメネイ師がパレスチナ武装勢力の支持を公式宣言したのも、パレスチナのハマスやイスラミック・ジハードがイランの代理勢力だからです。

ヒズボラやハマスは、日本を含む世界各国がテロ組織指定しているイスラム武装組織です。ソレイマニの死を経て、イランはそれらとの関係をもはや隠さなくなりました。アメリカがイランを「世界最大のテロ支援国家」と呼ぶのには、こうした背景があります。一方イランの側は、これは「テロ支援」ではなくアメリカやイスラエルといった「帝国主義国家の抑圧」に対する「抵抗運動」なのだと主張し、正当化しています。これは1979年のイラン革命以来一貫したイランの論理です。

つまりアメリカとイランの問題は、アメリカの側に立ってイランをテロ支援国家と認識するか、あるいはイランの側に立ってアメリカを帝国主義の抑圧国家と認識するかによって、全く見え方が異なってくるのです。

ソレイマニ殺害について中東イスラム研究の「専門家」が述べた見解は、彼らのほとんどが後者の立場をとっていることを示唆していました。

中東イスラム専門家たちの見解

東京外国語大学教授でイラン研究が専門の松永泰行氏は2020年1月3日の朝日新聞記事に、「殺害されたソレイマニ司令官は、部下が負傷すれば病院に駆けつけ、亡くなれば実家に駆けつけて家族とともに泣く、浪花節的な人物だった」というコメントを寄せました。

慶應義塾大学教授で同じくイラン研究が専門の田中浩一郎氏は同日NHKで、「(ソレイマニは」イラン国内では自分たちの国を過激派組織ISやアルカイダなどテロ組織から守ってきた英雄として扱われている。イラン国民から見ると自分たちを守ってきた人をアメリカが殺したことになる」「力で物事を理解させようというトランプ政権の対応そのものがあらわれた。中東にある爆弾の導火線にアメリカが火をつけた格好になった」と解説しました。

田中氏は5日のTBSサンデーモーニングでは、「アメリカはソレイマニ司令官に度々助けられてきた。軍事的に。(略)しかしISがほとんど脅威でなくなったら、いきなりご用済みにしちゃった、というわけなんです」と解説しました。この解説は、アルカイダ創設者ウサマ・ビンラディンがかつてアメリカについて、「アフガニスタンでジハード戦士を使い捨てにした」と非難したことと重なります。

東京大学名誉教授で日本の中東イスラム研究の礎を築いた文化功労者の板垣雄三氏は9日北海道新聞に、「米国が今回取った戦争への第一歩は、大国としての米国の凋落を改めて浮かび上がらせた」「そもそもトランプ政権は国家としての体を成していない」「欧米がイランに対して行ってきた支配・圧迫の歴史に対する民族的な抵抗の意味を決して見落としてはならない」などと寄稿しました。

「イラン擁護/アメリカ批判」は中東研究者だけにとどまりません。

北海道大学大学院教授で国際政治学者の鈴木一人氏は4日の朝日新聞GLOBEでソレイマニを「国民的な英雄であり、『アイドル』とも言って良い存在」「中東における武装組織の指揮官としてはおそらく最も優秀で、輝かしい戦績を誇る人物」と高く評価し、トランプ大統領がソレイマニ殺害を実行した理由については、「『オバマには出来ないことを自分は実現した』という姿を見せたいという思いもあったのだろう」「(弾劾の)問題から国民の目をそらす必要があると考えた可能性もある」など、個人的な理由だと解説しました。

5日放送のTBSサンデーモーニングでは評論家の寺島実郎氏が「アメリカはいつも敵の敵は味方とし、利用したら捨てる」「イランは第二のベトナムみたいなことになりかねない」、法政大学総長の田中優子氏が「大統領選のために中東を利用しているんじゃないか。冷戦後、常に中東で敵を作り続けている」「軍産複合体がより富を蓄積しているんじゃないかと勘ぐってしまいます」「戦争を利用しながら権力を蓄えていくっていうアメリカの像が浮かび上がってきます」などと、それぞれアメリカを非難しました。

それでは理解は深まらない

「専門家」や文化人たちが「イラン擁護/アメリカ批判」で一致している理由については、憶測することしかできません。しかしそれによって生まれる効果については指摘することができます。

第一に、メディアを通してイランは悪くない、とにかくアメリカが悪い、トランプ政権が悪いという印象を日本の一般市民に与えることができます。

第二に、アメリカとイランの対立という問題の論点を「どちらが悪いのか」という問題にすりかえ、「アメリカが悪い」と主張することにより、イランという国の実態やソレイマニの実像を隠蔽することができます。ソレイマニは市民にとっては独裁と抑圧の象徴だという側面もある、という点は指摘されませんでした(ソレイマニの実像についてはアゴラ文春オンライン、およびニューズウィークに寄稿しました)。

このふたつは、日本と日本人に著しい不利益をもたらします。これでは日本の一般市民は、アメリカとイランの問題について理解したいと思ってテレビを見たり新聞を読んだりしても、「イランは悪くない」「アメリカが悪い」という主張を押し付けられるだけで、客観的な事実や状況に対する理解は全く深まりません。

「アメリカが悪い」という自分の「気持ち」を優先させ、「専門家」という権威によってその「気持ち」をあたかも客観的分析であるかのように開陳するのは、一般市民に対する詐術に等しく、研究者としてあるまじき姿勢です。一般の日本人は「専門家」がイランとアメリカのどちらが「好き」なのか知りたいわけでも、イランとアメリカのどちらが悪いのか判断してほしいわけでもありません。

野党の政権批判の道具にも

さらに「専門家」の「イラン擁護/アメリカ批判」は、野党による政権批判にも利用されています。

立憲民主党の枝野代表は4日の会見で、「アメリカによるイラン司令官の殺害は、中東地域における緊張を極度に高めていると非常に危惧している。そもそもこの行為が国際法上正当化出来るのかどうかについて疑問があるし、中東の安定を損なうリスクが非常に高いという意味で、我が国にとっても軽視出来ない」「そんな状況の中東地域に、自衛隊を国会の審議もなく調査という目的で送り出す。自衛官の安全を含めて、大変由々しき事態だ」と述べました。

社民党は4日トランプ大統領に抗議するという声明を出し、福島みずほ氏は5日「中東に自衛隊を派遣しないよう全力を尽くします」とツイートしました。

共産党の志位書記長は4日「主権国家の要人を『空爆』して殺害する権利は、どの国にも与えられていません」とツイートし、5日には共産党が「トランプ政権の無法な軍事力行使を非難し、外交的解決の道に立ち戻ることを求める」声明を出しました。

野党各位は共に、アメリカを批判することで日米同盟を外交主軸とする政権与党を批判しています。「専門家」の「イラン擁護/アメリカ批判」には、日本における体制批判のプロパガンダとしての効果があるのです。

既出の北海道新聞への寄稿文の中で板垣氏は次のようにも記しています。

このような状況下で海上自衛隊の艦船を中東へ派遣することは、あまりにも状況認識を誤っていると言わざるを得ない。本来なら和解を促す使節団を関係国に派遣すべきではないか。それができない平和国家・日本も凋落の危機にある。(北海道新聞2020年2月9日)

しかし中東への自衛隊派遣については、この時点でイランからすでに理解を得ていただけでなく、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、オマーンも地域の安全に寄与するものとして支持を表明しています。板垣氏の認識、見立ては誤っているのです。

一般の日本人に客観的な事実を解説するかわりに「アメリカが悪い」という価値観を一方的に吹き込み、誤った認識のもとに戦争の危機を煽り立てて一般市民に恐怖感を与え、野党の政権批判に寄与する−。これが、ソレイマニ殺害を巡る報道を通して明らかになった「専門家」の主張の特徴です。

揺れるイランの国内情勢

ソレイマニの死後も、イランでは様々なことが起こりました。

1月7日にはケルマン州で行われたソレイマニの葬儀で参列者が将棋倒しになり70人以上が死亡しました。これについてイランのザリーフ外相は「これは人々がいかに彼(ソレイマニ)を愛していたかの証であり、かつアメリカの政策がいかに誤っているかのシグナルだと」と語りました。

1979年にイスラム革命によってイラン・イスラム共和国となって以来、イランは一貫して明白な反米国家です。国民には子供の頃から「アメリカは大悪魔」だと教え、金曜礼拝後や公共の集いの際には「アメリカに死を!」というシュプレヒコールが唱えられ、アメリカ国旗が燃やされます。

1月8日には革命防衛隊がミサイル誤射によってウクライナの旅客機を撃墜し、176人が死亡しました。当初撃墜の事実を隠したイラン当局は一転してそれを認めた後、死者を「殉教者」と呼ぶ一方、犠牲者の葬儀を行うことを禁止し、当局の対応を批判した遺族を「公務員を侮辱した」として拘束しました。カナダ在住の犠牲者の遺族の一人はカナダのCBSニュースに出演し、「妻を殺しておいて殉教者と呼び、遺族に対して喜べと言う。最悪だ」と怒りをあらわにしました。

1月11日からは、イラン各地でウクライナ機撃墜に抗議し「独裁者に死を!」などと叫ぶデモが発生しました。デモ隊が体制打倒のスローガンを叫び、ハメネイ師やソレイマニのポスターを破ったり燃やしたりする映像とともに、革命防衛隊下部組織メンバーがナイフでデモ隊に斬りつけたりバイクでデモ隊に突っ込む映像もSNSで広まりました。

2月13日には21日の選挙を前に、イランの監督者評議会が議員選挙に立候補を届け出た「穏健派」候補者6850人を失格にしたとロイター通信が伝えました。人権活動家のマシフ・アリネジャド氏はAFP に対し「あらかじめ選別された候補者の中に穏健派も反体制派もいない」と述べ、選挙が出来レースであることを批判、他方ハメネイ師は「投票は宗教的義務だ」と国民に通達しました。

2月19日には2018年2月にアメリカのスパイ容疑で革命防衛隊に拘束された元国連環境コンサルタントの女性科学者ニルファル・バヤニ氏ら環境活動家8人に対し、禁錮4年から10年の判決が下されました。バヤニ氏は取調官から性的虐待や拷問を受けていると外部に訴え続けてきましたが、イランの体制はこれを黙殺しました。

2月21日にはサウジがイエメンの首都サヌアから撃ち込まれたミサイルを迎撃したと発表しました。迎撃したのはヤンブー工業地帯上空で、ジッダの日本国総領事館は「ヤンブーで操業中の日系企業からの連絡によれば、21日夜半過ぎに、迎撃されたミサイルの破片と思われる小物体2個が、工場建屋の屋根を破って作業場に落下した」と発表しました。

サヌアは現在、イランの代理組織であるアンサールッラーという武装組織を擁するフーシー族が支配しています。米軍は昨年11月25日と今年2月9日の二回にわたって湾岸で拿捕した国籍不明船にイラン製のミサイルなどが大量に積まれており、イランからイエメンに密輸される武器だった可能性が非常に高いと発表しました。フーシー族は様々な制裁対象とされており、武器供与も国連安保理決議で禁じられていますが、イランだけでなく北朝鮮もフーシー族に武器供与をしていると2018年の国連報告書が指摘しています。イランや北朝鮮からフーシー族に供与された武器は、サウジで操業する日本企業の脅威にもなっているのです。

イランの経済情勢は、アメリカの制裁強化により悪化の一途を辿っています。しかしその一方で、アメリカのシンクタンク民主主義防衛財団(FDD)の2018年のリポートによると、イランは毎年160億ドル以上の資金を海外の武装組織に提供しています。

抑圧される反体制派

イランで頻発するデモでは、人々が「シリアではなく我々のことを考えろ!」「ガザやレバノンはもうたくさん、私の人生はイランにある!」などと口々に叫んでいます。2019年11月に発生したイラン建国以来最大規模とされる反体制デモでは、わずか2週間で参加者1500人以上が革命防衛隊など体制側によって殺害されたとロイター通信が報道、アメリカのイラン担当特別代表フック氏も1000人以上が殺されたと述べ、国連人権高等弁務官バチェレ氏はイランの治安部隊が非武装の市民を銃撃する「検証済みのビデオ映像」があると証言しました。

2月22日にはコロナウィルス感染者6人の死亡と、約800人に感染の症状が出ていることが当局から発表されました。感染蔓延の噂は発表前から広まっていましたが、2月11日はイランの革命記念日、21日は選挙でした。

2月24日にはコムの議員が政府はコロナの実態について嘘をついている、コムだけで死者はすでに50人に達したと告発、ILNA通信はイラン保健省の「対策をとるのが遅すぎた」というコメントを伝え、25日には保健副大臣の感染が発表されました。

レバノン、バーレーン、クウェート、イラクなど中東諸国ではイランから帰国した人に次々とコロナ感染が確認され、WHOやアメリカもイラン当局がコロナの実態を隠蔽している可能性に懸念を表明しましたが、ロウハニ大統領は「すべて平常通り。何も問題はない」と強調した上で、イランに問題があるかのような報道は全て「敵の陰謀」だと述べ、ハメネイ師は「敵のプロパガンダ」を非難しました。

3月3日にはイランの革命防衛隊司令官が「コロナはイランと中国を標的にした生物兵器だ」と発言、一方中国はイランに自国民を救出するためのチャーター機を出し、ワシントンポストは中国にかわってイランが感染拡大の拠点となる可能性がある、イランは中国のように封じ込めができておらずリソースも不十分なのでより危険だと報じました。

イランから亡命しドイツで受け入れられたイラン人女性初のオリンピック・メダリストであるテコンドーのキミア・アリザデ選手は1月13日、イランの体制を偽善、嘘、不正と批判し、「私はイランで抑圧されている多数の女性のうちの一人」と告発しました。

2009年にイスラム教からキリスト教に改宗し棄教や国家への反逆、冒瀆などの罪で死刑判決を受けた後、国際的圧力などで釈放され現在はアメリカで暮らすマルヤム・ロスタンプル氏は2月11日のインタビューで、「イランで抑圧されているのは私たちのような宗教的マイノリティだけではない。全市民だ」と述べました。

2003年にノーベル平和賞を受賞した人権活動家のシリン・エバディ氏は2月25日ワシントンポストに寄稿し、「私たちは理想的な社会の実現を目指してイラン革命を支持した。ホメイニ師が嘘をつくとは考えもしなかった。だが私たちは間違っていた」と若い世代のイラン人に向けて懺悔しました。

問われる「専門家」の存在意義

イランは帝国主義アメリカに抑圧された被抑圧者だ、だからイランは被抑圧者の仲間と連帯しアメリカとイスラエルに「抵抗」する権利があるのだ、というのがイランの体制の主張です。

しかしそこには、被抑圧者であるはずのイランの体制自体が、イランの人々を抑圧し、中東各国のテロ組織に武器と資金を提供して内部からの侵略工作を進め、地域全体の治安を脅かし、内戦を激化させて多くの市民を犠牲にしているという「現実」があります。

イランの体制に寄り添い断固としてイラン擁護を続ける日本の中東イスラム研究者は、そうした「不都合な現実」からは目を背けます。現実から目を背ける研究者が現実の客観的分析を行えるはずはなく、現実が分析できない研究者に先の見通しを立てる能力があるはずがありません。

いったい日本の中東イスラム研究者というのは、何のために存在しているのでしょうか?人権抑圧の独裁国家を擁護し、アメリカと日本の政権を批判するために存在しているのでしょうか?個人がどのような政治的主張を持とうと、それは自由です。しかし学問を政治活動の道具にしたり、「専門家」という立場を利用して政治的主張を学術的裏付けのある客観的主張であるかのように粉飾したりするのは卑怯です。

グローバル化が進み、国際情勢が日本の一般市民の生活にも直接的影響を与える今の時代は、インターネットの普及で情報多元化も進み、イデオロギーを吹聴するプロパガンダのための中東イスラム研究が百害あって一利なしであることが市民の目にも明らかになりつつあります。研究者自身がその姿勢を改めない限り、社会における彼らの価値は限りなく低下し続けることでしょう。

 

中田考(なかた・こう)
1960年生まれ。イスラーム法学者。灘中学校、灘高等学校卒業。早稲田大学政治経済学部中退。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。カイロ大学大学院文学部哲学科博士課程修了(Ph.D)。1983年にイスラーム入信、ムスリム名ハサン。現職は同志社大学一神教学際研究センター客員フェロー。『イスラーム国訪問記』『みんなちがって、みんなダメ』『カリフ制再興 ―― 未完のプロジェクト、その歴史・理念・未来』など著作多数。最新刊『13歳からの世界征服』(百万年書房)。

飯山陽(いいやま・あかり)
1976年生まれ。イスラーム思想研究者。アラビア語通訳。上智大学アジア文化研究所客員所員。上智大学文学部史学科卒。東京大学大学院人文社会系研究科アジア文化研究専攻イスラム学専門分野単位取得退学。博士(東京大学)。現在はメディア向けに中東情勢やイスラムに関係する世界情勢のモニタリング、リサーチなどを請け負いつつ、調査・研究を続けている。著書に『イスラム教の論理』(新潮新書)、最新刊『イスラム2.0』(河出新書)。