第4回 ケアワーカーとしての編集者

気の迷いと偶然で飛び込んだ出版の世界。そこで直面した矛盾と葛藤。マイノリティを支援し社会的な課題の解決を目指すことと、商業的に利益を上げることは両立可能か? 毒親もヤフコメ民やアンチフェミニストからのクソリプも飯のタネ。片手で社会的ルールを遵守しつつ、もう一方の手で理不尽な圧には抵抗する。宗教2世、精神疾患当事者、ポリアモリーという特質をそなえた編集者(見習い)による、「我らの狂気を、生き延びる道を教えよ」の叫びが聞こえるエッセイ。

私は本を作る「編集者」という仕事をしている。

といって、編集者の仕事の概要がまたたくまにイメージできる人はそう多くはないだろう。

「編集」という言葉を辞書でひくと、概ねこのようなことが書いてある。「諸種の材料を集め、書物・雑誌・新聞の形にまとめる仕事。また、その仕事をすること」。なるほど、わからない。「本を作る」となるとまずは、原稿を書く、ということが思い浮かぶ。これは著者の仕事だ。原稿の誤字・脱字、事実関係の確認など、これらはもちろん編集も担うが、より高度な専門性を有したプロフェッショナル「校閲」がいる。少し気の利いたひとなら、「装丁」、本のデザインをすること、というのを思い浮かべるひともいるかもしれない。これは装丁家(デザイナー)の仕事になる。堅実なひとなら、文字を紙に印刷して製本することをいうひともいるかもしれない。これは印刷所と製本所の仕事だ。

編集者はそのどれもやらない。実体として本が存在するための具体的な作業をなにひとつやらない。ここに編集者の「業」、あるいは「原罪」が詰まっている。編集者は他人が書いた原稿と、他人がデザインした装丁と他人が印刷・製本した商品を、取次が流通し、同僚の営業と書店が売る金で飯を食っている。

やることは、あらゆる雑用である。企画書を書いて制作費を獲得し、原稿や資料を整理し、進行と予算を管理し、著者やデザイナーや印刷所、社内のやりとりを仲介し、本ができるのを見届けて、販促戦略を検討して実行する。出版・流通に関わる「その他」すべてを引き受けているのが編集者である。

「その他」のなかでも最も重要と思われる仕事が、原稿の催促だ。そしてこの仕事が、私にとって最大の鬼門でもある。

出版やライティングに関わったことのない勤勉な方々にはちょっと理解できないかもしれないが、原稿というのは、催促しなければ来ない。先輩の編集者は「締切のない原稿が完成することはありえない」と断言していたが、編集者2年の経験を経た私の見解によれば、締切だけでは原稿が完成することはない。催促だ。催促が必要なのだ。催促なくして原稿なし。催促しなければ担当著者様はSNSの更新に励み、こちらの連載は放り出して他媒体で新連載を始めていたりする。本当だ。なぜなら編集者たる私自身が、書き手になった途端、全く同様の行動を取るのだから。先日は会社でかかっているラジオから、一年以上原稿が来ない著者の声が流れてきて笑ってしまった。知的で、穏やかで、やさしげな声でお話しされている。少しでもそのやさしさをこちらに向けてはもらえないだろうか、などの湧き上がる様々な思いを押し殺してにこやかな文面の催促メールを書いた。丁寧にラジオへの感想も添えた。私が本連載で担当編集者からのメールを無視していることへの罰だろう。というわけで、毎日ルーティンで催促の仕事をしている。

しかし、ただ催促のメールを機械的に送っているだけではダメだ。著者のやる気を引き出さなければならない。すでに気乗りしていない筆をなんとか手に取ってもらわなければならない。編集者にはカウンセラーや保育士、教師に求められるような能力が必要になる。これは「ケア」と呼ばれる営みである。「ケア」という言葉は、かつては介護や育児など非生産労働と呼ばれる活動に限定して使われてきたが、現在はそれらのみならず、思いやりや配慮、「わたしたちがこの世界で、できるかぎり善く生きるために、この世界を維持し、継続させ、そして修復するためになす、全ての活動」(『ケアするのは誰か? 新しい民主主義のかたちへ』(ジョアン・C・トロント(著)、岡野八代(訳))を指す言葉として価値を見直されつつある。人間が生きていく上で、必要不可欠な行為なのだ。

確かに著者と編集者は受発注の関係だ。しかし、原稿を書くという作業は、なにか手に取れるモノを作って渡す、というのとは少し趣が違っている。

原稿という言語による表現物は、その人の思想・信条、感情を色濃く反映したものだ。そして表に出てしまったら、もう二度と自分の言葉を表に出す前の世界に戻ることはできない。表現物は著者の名の下に、あらゆる人の目に晒され、評価される。作品にケチがつくということは、人格が否定されることと同様だと感じるひとも少なくない。場合によっては労を尽くして書いた原稿が誰にも見向きもされない「無関心」という裁きを食らうこともある。そうなれば、その人自身が世界から無視されているかのように感じられてしまう。だから、表現者のためらいは大きい。私を含めた著述家の多くはそれで生計を立てている一方、できることならなるべく原稿を書きたくないし発表したくない、でも原稿料がないと生計が立てられない……、という矛盾を抱えているように思う。

筆が乗らない理由は、原稿それ自体にあるとは限らない。体調が悪い、家族に不幸があった、失恋した、離婚した、子どもが反抗期でつらい……こうした著者の状況をつぶさに把握し、時にはキャリアの悩みや人生そのものに寄り添って「ケア」をし、気持ちよく仕事をしてもらう。これが編集者の主たる仕事のひとつである。

しばしば編集者は、「馬を水辺に連れていけたとしても水を飲ませることはできない(You may lead a horse to the water, but you can't make him drink.)」ということわざ通りの状態に直面する。編集者が二階の窓から住居侵入を犯してでも原稿を催促しに来たという手塚治虫の時代ならともかく、現代では著者を無理やりPCの前の椅子に縛り付けることはできない。たとえPCの前に座らせることができたとしても、だからといって著者を取り巻くあらゆる問題が解決して原稿が書けるようになるとは限らない。好き好んで原稿を放置している著者はいない。みなどこかしら申し訳ないという気持ちを抱えながら、どうしても書けない、なぜか書けない、という悶々とした日々を過ごしている。そんな状態の著者に無理やり書かせたところで良い原稿が取れるわけではない。

編集者は「環境としての母」である。編集者ができるのはあくまで、できうる限り良い環境を著者に提供すること、ここまでだ。あなたは必要とされているというメッセージを伝えつつ、資料を用意して提供し、ヒントを与える。このとき著者に「編集者に気を遣わせてしまっている」という申し訳なさを抱かせてはいけない。罪悪感という気の重さはますます筆を遅らせるから、慎重に取り除く。著者が原稿を書くために必要な動機付けをし、アイディア出しに付き合い、書く過程で励まし、最後まで味方でいる。そうしてようやく著者は原稿を書くことができる。野球少年が、母親が拾い集め、泥を落とし、洗い、畳んだアンダーシャツに、母親の苦労に思いを馳せたり、罪悪感を抱いたりすることなく袖を通すことができてはじめて部活にのびのびと打ち込むことができるように。著者が本当の意味で「大人」になってしまったら、編集という仕事は要らなくなる。

ただ編集者は母親ではない、というシンプルな事実が、この仕事の厄介なところでもある。母親であれば、少なくとも理論上は、子どもを無条件で肯定することができる。そういう役割だからだ。「生きてくれているだけでいいよ」と言ってあげることができる。仕事で成果が出なかろうが、他人様に多少の迷惑をかけようがなんだろうが、世界一かわいい我が子。それでよい(もちろん昨今は、共働き家庭の増加、教育費の高騰など様々な事情によって伝統的、フロイト的な意味での「母」の役割を貫徹することは、男女ともに困難になりつつあるが……)。

しかし商業出版における著者と編集者の関係は、「原稿を発注し、受け取り、商品にして売上をあげる」という条件の下にしかありえない。あくまで条件付きの愛なのだ。

原稿を書いてもらうまでの時間は著者の存在を全肯定してやる気を引き出すくせに、原稿をもらった途端に「この部分は難解でわかりにくく、読者に文意が伝わりません。書き直しをお願いします」などと通告する。場合によっては、本を売るために作家の気が進まない宣伝手法を用いたり、映像化を推し進めたりする。のっぴきならない関係になってしまって当然だ。作家が編集者に不信感を抱くのは、なんの不思議もない。そもそも編集者というのが、相反する役割を同時に担っている、よくわからない存在なのだ。

ちなみに育児や介護、教育を担うケア労働は、高度な専門知とスキルが要求されるわりに、労働条件と待遇が劣悪であり、需要に比してなり手が少ないことが社会問題化している。編集者も例外ではない。時折、SNSで「編集者は昼過ぎに出社して、年収1000万円以上もらっているくせに、こちらに取材費を支払わない」と呟いて、1万イイネを稼いでいる著者様がいらっしゃるが、実際のところ多くの中小版元の編集者はその半分ももらっていない。昨今の出版不況では今後、編集者の待遇が改善される見込みもないだろう。

この問題を解決するために、作家エージェント制の導入という手もあるかもしれない。作家に寄り添い、励まし、ケアするマネジメント業務と、原稿に赤を入れ、修正提案をし、商品に仕立てていく版元の編集者を截然と分ける。海外ではこの制度を導入しているところが多い。この場合は、エージェントが作家の書いた原稿を複数の出版社に持ち込んで売り込み、より良い条件の版元で刊行する、ということになる。

難点はエージェントが稼働する分の費用がかかること。つまり、作家の印税の取り分を減らすか、書籍の値上げというかたちで読者に負担を転嫁することでしか、現状この制度は成立しない。なので海外の出版物は日本の書籍に比べると価格が高い傾向にある。また、きっちりとした出版前契約を結ぶことが想定され、作家が版元に対して権利主張をしやすくなる一方、もし作家が土壇場で執筆作業を止めてしまった場合、契約違反として損害賠償請求をされるリスクもある。こんなにも催促を要する日本の作家たちがそんなドライなシステムに耐えられるのか、心配だ。なにより真っ先に書き手としての私が淘汰される未来が見える。実際、日本でも導入事例がないわけではないが、その数は限られている。

つまり、日本ではそうした論理的な矛盾を解決してビジネスライクに書籍の制作を進めるよりは、作家も編集者も「まぁまぁ」といった感じで物事を進めることが選択されているわけで、編集者はケア労働から降りることはできないし、私は今日も催促をしている。

それにケアというのは、一方的なものとも限らなくて、養育や教育の場面において大人が子どもに救われることがあるように、支援者が被支援者に励まされることがあるように、編集者が作家に助けられることもままあるものだ。打ち合わせの合間に些末な生活の愚痴を聞いてもらうこともあれば、担当書が新聞の書評欄に載ったとき、テレビで紹介されたとき、丁寧な読者はがきをもらったとき、彼らの著作が私の人生に多大な喜びとやりがいをもたらしてくれている。

なにより作家とは、私が思うに、まだ多くの人が言語化できていない種々のモヤモヤを言語化する職能を持った人たちなので、その第一読者たる編集者は、彼らの言語化以前の苦しみを直に浴びることになる。言語にならないのだから、原稿が書けないとか、一見すると仕事に関係ないような話題でSNSで炎上するとか、私生活で問題を抱えるとか、そういう「ちょっと面倒な言動」というかたちで彼らは表現する。その表現の源をせめて編集者だけはすくいとって、言葉になるまでのプロセスを見守りたい。その見守りの過程で、私たちは癒しを得る。社会人として、成人女性として、「こういうものでしょう」と自分に言い聞かせて、飲み下してきた社会規範への違和感に対して、著者を通じて言葉を得ることができる。私が、いまも現に会社員でありながら公に働き方への疑問を呈したり、男女不平等な雇用のあり方に憤りを表明することができるのは、担当著者の言葉あってのことだ。

もちろんだからといって、著者の私的な問題や言語化以前の欲望全てを叶えることはできない。そんなことをしていては、編集者は潰れてしまう。編集者にも就業時間以外の人生がある。だからこそ「商業出版」という枠組みは、必要だし、大切だ。カウンセラーがカウンセリングを「カウンセリングルームの中だけ」に限定することで機能するように、編集者と著者の関係は、「商業出版を目的とする範囲において」のみ良い関係でいられるといってよい。

さて今日も原稿が来ない。原稿が欲しい。心から惚れた、あなたの新作が読みたい。なので、多少嫌われることになろうと、メールをする。電話をする。まだあなたの第一読者でありたいという私の我儘を叶えてくれるなら、それは望外の喜びである。

(了)

 

某出版社勤務。複数愛者(ポリアモリー)。文筆と編集。寄稿「図書新聞」/『みんなの宗教2世問題』(横道誠編、晶文社)/朝日新聞社「かがみよかがみ」山崎ナオコーラ賞大賞/note「女の子なんだから勉強しなくていいよ、と言った父は死にかけるまで仕事をやめられなかった」他。