サイン(2)
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先週の金曜日、つまり2021年2月5日、新刊の刊行記念イベントが下北沢の本屋B&Bで開催された。緊急事態宣言下の無観客オンライン配信だったにもかかわらず、たくさんの人が集まってくれた。むろん、誰ひとりの顔も拝見できていないが、僕には確かに観客の熱気が伝わってきた。
それにしても、12月前半に出版した本の刊行記念イベントが2月になってしまうとは。しかし、安全を第一に考えれば、それは致し方ないことである。開催には当然慎重になるべきだ。その状況は今も続いている。なのに、帯に推薦コメントをいただいた映画監督の今泉力哉さん、版元のウェブマガジンに書評エッセイを寄せていただいた演劇モデルの長井短さんという、ご多忙なおふたりがゲストとして駆け付けてくれた。幻冬舎の編集者・竹村優子さんが当日の司会を務めてくれた。
今泉監督、長井さんの作品が僕は好きだった。ツイッターは以前から相互フォローだし、お会いできそうなチャンスがあったのにもかかわらず、ずっと実現できないままでいた。つまり僕は、おふたりと初対面だった。こう見えて(どう見えているのかは知らないが)、僕は初対面の人と会う際にはもの凄く緊張する。しかし、この日ばかりは会える楽しみがまさっていた。緊張はしていたのだけど、ずっと会いたいと思っていたおふたりに会って、語り合えるチャンスなのだ。すでに観たり、読んだりしたものも含めおふたりの作品をチェックし、限られたトーク時間の中で聞いてみたい質問を練って当日に備えた。
ところで、僕にはもうひとつ重要な仕事があった。サインである。オンライン配信のチケットを申し込む際に、新刊のサイン本を購入できるオプションが付いていたのだ。そんな奇特な人がいるものだろうかと半信半疑になりながらも、刊行記念イベントはそもそも新刊を売ることが目的のひとつであり、リアルの会場に観客を招き開催すればその場で買ってくれる人がいる。なかにはサインを求めてきてくれる人もいることを、前の単著や共著を出した際に知った。そして以前に書いたことだが、僕は新刊が発売された直後、わざわざサインをデザインしてくれるサービスに「宮崎智之」のサインを発注していたのだ。計14,300円。「納期短縮オプション」を使う気合の入れようだった。
ようやく、そのサインをお披露目する機会が訪れたのである。しかし、この連載にサインのエピソードを書いた1月初旬までは、添付されていた漢字練習帳のような用紙を使って練習していたものの、あまりにもサインを書く機会がないため、その後は完全に放置してしまっていた。だから再度、練習し直さなければいけない。練習し直さなければいけないのだけれど、いつもの愚鈍さがむくむくと立ち上がってきて、なかなか練習帳に向き合うことができない。考えてみれば、小学校の頃から漢字練習帳の類が僕は嫌いだったのだ。でも今、僕は小学生ではなく、38歳の大人である。そして、これは宿題などではなく、歴としたお仕事である。僕はイベントの告知が出た1月26日、久しぶりに練習帳を開いた。まったく書けなくなっている。そのことを確認しただけで、その日は満足した。
竹村さんや、イベントを担当してくれた博報堂ケトルの稗田竜子さんから、「ちゃんと練習していますか?」と何度か確認されていた。練習していなかった。ゲストおふたりの作品をチェックするだけではなく、ほかの仕事も並行的に進めていた。しかし、常に頭の片隅には引っかかり続けていた。ほとんどいないと思うが、ひとりでも僕のサイン本がほしいという奇特な人がいたならば、その期待に全力で応えたい。果たして僕はイベント前日の深夜、漢字練習帳に再び向き合った。やっぱり書けない(当たり前だ)。だけど何度か書いているうちに、それなりにサインの体をなしてきた気がした。「こういうのは一日置いたほうが記憶が定着する」と考え、体調管理のためにもそこで就寝した。
当日は、朝からイベントの進行や質問項目を詰めていた。気がついたら15時になっていた。だが、19時に家を出れば集合時間に間に合うので、まだ4時間ほど時間があった。僕は腱鞘炎になるのではないかと思うくらい、必死にサインを練習しまくった。練習しすぎてゲシュタルト崩壊を起こし、一度、記憶が白紙の状態に戻ったりしたが、僕は諦めなかった。いったい「納期短縮オプション」とはなんだったのかと思いはしたものの、ひとりでもサイン本を購入してくれた人がいるならば、今からでも最善を尽くしたい。直前まで練習した結果、集合時間に5分ほど遅れて会場に到着した。
イベントはそれはもう、(少なくとも僕にとっては)最高の時間だった。アクリル板を隔てて並ぶおふたりの話はとても面白く、また僕の質問にも真摯に答えてくれて、新しい発見がたくさんあった。あっという間の2時間。まだまだ話し足りなく、できればあと3時間は語っていたいくらいだった。
イベント終了後もマスクを付けてソーシャルディスタンスを守りながら、おふたりと話し込んだ。すると稗田さんが寄ってきて、「宮崎さん、まだお仕事が残っていますよ」と机の上にサインをする本を置いた。い、意外とたくさんある。うれしい。こんな愚かな僕にサインを求めてくれる人がいるなんてうれしくて涙が出そうなのだが、ここでその日一番の緊張が僕を襲ってきた。まさにパニック状態だった。
するとちょうどその時、竹村さんが「三人が並んだ写真を撮りましょう」と提案した。たぶん竹村さんは気づいていなかったと思うけど、ナイスなタイミングである。撮影されている間に落ち着くかもしれない。しかし後からその写真を確認すると、この世の終わりのような表情をして僕は写っていた。
本が積んである机に戻り、震える手でサインを書いた。意外と書ける。事前に稗田さんから「為書きなしのサイン」と聞いていて、はじめは何のことかわからなかったのに「了解しました!」と知ったかぶりをしていたが、前日の深夜に調べたところによると、ようは「○○さんへ」といったい宛名のことらしい。練習を直前まで怠っていた罪悪感もあり、稗田さんに「今日の日付を入れたほうがいいですかね?」と聞いてみた。稗田さんは、「そうですね。せっかくですし入れましょう!」と答えた。
その、最後の最後に発揮したサービス精神がまさか裏目に出るとは、本当に僕は愚鈍な人間である。後から確認すると、「2021年2月5日」と書くべき日付が「2021年5月2日」になっているサイン本がいくつかあることが発覚した。しかし、やはり僕はその時、パニックになっていたのだと思う。謎のポジティブさを発揮し、「2021年5月2日」になっているサインはむしろ「当たり」なのではないかと考えた。人間のままならなさ、人生の不確かさ、それでも続けていくいじらしさ。そういうものについて語ったのが、このイベントだったのではないかと。視聴してくれた人ならばそう考えるはずだと。
「そんなことはない」と気づいたのは、翌日の昼に目を覚ました後のことだった。サインに当たりも外れもない。ただのミスである。しかし、書き直させてほしいと頼むのも気が引ける。イベントで僕は、「この本は『人間の弱さ』について書いてあるが、それを表現する際に範囲を曖昧にするのは嫌だった。だから、偶然で、一過性の存在である『ぼく』という一人称ですべて引き受けようと思った。そのことで、『人間の弱さ』という普遍的なものに近づけると考えた」と、堂々と宣言していたのだ。
どう引き受けるべきだろうか。まさか、「未来へのサインです。やったね!」なんてことにはできないだろうし。もちろん交換を望む人がいればそうするが、ツイッターを見る限りはイベントを視聴してくれた人の反応は温かく、きっと言い出せない人が多いに違いない。何気なくカレンダーで「2021年5月2日」を確認してみた。ゴールデンウィーク中の日曜日である。そうだ! と僕はひらめいた。「当たり」を引いてしまった人用に、(もし需要があるのなら)ひとりでオンライン刊行記念イベントを無料で開けばいいのではないか。そうすれば、そのサインの日付は矛盾しなくなるのではないか。
素晴らしいアイディアを思い付いたのである。僕は愚かな人間なので、愚かなミスはこれまでたくさんおかしてきた。そのぶん昔から帳尻を合わすことが得意なのだ。だが、果たしてこれで帳尻を合わせたことになるだろうか。愚かを極めすぎて、もはや自分では判断ができない。なので、「当たり」を引いてしまった人で、もしそれを望む人がいるならば、ツイッターのDMやメールアドレスに連絡いただけると幸いだ。そして、最後に重要な視点を述べさせてもらうと、誰も僕のサインの日付なんか、まったく気にも留めていない可能性がある。大いにあり得る。僕は愚かなだけではなく、自意識過剰でもある。
Back Number
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第1回高級な蜜柑
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第2回犬と人
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第3回インタビュー
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第4回洋式トイレ
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第5回眠れない夜
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第6回ルーティン
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第7回大晦日の大晦日感
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第8回彦
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第9回遅刻の理由
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第10回管理人さん
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第11回心の余裕
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第12回サイン
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第13回パブリックな顔
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第14回尻が痛い
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第15回不意打ち
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第16回僕は断固として
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第17回高級な蜜柑(2)
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第18回小田君
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第19回管理人さん(2)
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第20回絵文字の解釈
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第21回緊急事態宣言
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第22回お調子者
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第23回編集の竹村さん
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第24回バンドマン
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第25回薄毛の広告
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第26回雪
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第27回ソーセージは美味しい
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第28回偉い犬
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第29回偉くない人
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第30回インタビュー(2)
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第31回それはちょっと
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第33回自信
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第34回カレーは辛え
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第35回バレンタインデー
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第36回自己宣伝
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第37回幼馴染の言い分
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第38回犬大好き
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第39回子どもの頃の夢
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第40回三つ子の魂
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第41回赤子の将来
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第42回拝啓、週刊誌様
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第43回King Gnuの新井さん
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第44回読書ができなくなった人へ
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第45回受験シーズン
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第46回巣篭もり旅行
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第47回東京都出身ふたたび
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第48回大酒飲みの親戚のおじさん
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第49回犬を洗う日
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第50回大酒飲みの親戚のおじさん(2)
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第51回クレーム対応
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第52回高級なドライヤー
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第53回10年前
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第54回「誰かが褒めていなければ褒めにくい問題」
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第55回3月生まれ
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第56回断酒
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第57回「愛犬家はみんな、うちの犬が一番可愛いと思っている説」
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第58回3つ目のブルガリアヨーグルト
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第59回マスクは大事
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第60回春はすごい
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第61回本の片付けについて
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第62回角さんの分類
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第63回目黒の秋刀魚
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第64回桜ばな
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第65回コンプレックス
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第66回やる気
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第67回イノベーション
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第68回原稿の提出方法
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第69回キャズム超え
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第70回白くて丸いやつ
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第71回お洒落な部屋着
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第72回双子のライオン堂の竹田さん
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第73回人生で最高に幸福な時間
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第74回スマホの充電ケーブルが溜まる件
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第75回「されている」
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第76回ナ、ノ、ハ、ナ
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第77回うぐいすの初鳴日
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第78回英雄・コービー
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第79回ピアノを習っている男子
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第80回サークルの夏合宿
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第81回ニコルのこと
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第82回やさしくなりたい
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第83回赤子はすごい
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第84回ダンゴムシを見つける達人
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第85回人間は弱い
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第86回気圧のせい
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第87回読書
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第88回運転免許
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第89回連休明け
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第90回応援しがい
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第91回赤いカーネーション
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第92回あいみょん
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第93回「まだ生きている」
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第94回断酒(2)
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第95回慎重さ
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第96回朝一の僥倖
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第97回寝てない自慢
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第98回1時間10分のモヤモヤ
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第99回筋トレ嫌い
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第100回目出度い
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第101回怪談タクシー
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第102回生まれて初めて
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第103回最高の海外旅行
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第104回神隠しの犯人
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第105回駄目さが希望
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第106回心のなかの仄暗い場所
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第107回朝顔観察日記
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第108回祝日がない月
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第109回朝顔観察日記(2)
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第110回雨のことば
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第111回バンドマン(2)
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第112回風邪予報士
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第113回紫陽花
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第114回ニコルの人気
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第115回弱音
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第116回犬の帰還
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第117回冷房の設定温度
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第118回ためらい
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第119回ラーミアンでバーメン
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第120回朝顔観察日記(3)
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第121回マリトッツォ
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第122回歴史の分岐点
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第123回本の片付けについて(2)
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第124回赤子の躍進
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第125回未来からの前借り
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第126回計画の大切さ
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第127回朝顔観察日記(4)
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第128回1年の折り返し
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第129回家賃の支払い
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第130回名選手、名監督にあらず
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第131回気になる投票所
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第132回ありのまま、今、起こったことを書くぜ
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第133回七夕の願い事
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第134回あるひとつの日常
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第135回朝顔観察日記(5)
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第136回ワクチン接種1回目
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第137回ワクチン接種1回目(その後)
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第138回ワクチン接種1回目(3日目)
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第139回回復
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第140回早朝の散歩
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第141回本物を見ること
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第142回文字入りTシャツ
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第143回4連休
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第144回日傘がほしい
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第145回髪を切りたい
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第146回退屈さ
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第147回赤子はすごい(2)
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第148回ニコルゾーン
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第149回ワクチン接種2回目
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第150回ワクチン接種2回目(2日目)
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第151回ピスタチオ
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第152回腰が痛い人
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第153回ワクチン接種2回目(5日目)
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第154回ある夏の思い出
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第155回朝顔観察日記(6)〜あきらめない
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第156回二代目・朝顔観察日記(1)
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第157回父と中原中也
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第158回文化系トークラジオLife
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第159回あいつは?
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第160回痛いと言っていい
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第161回マスクチェーン
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第162回二代目・朝顔観察日記(2)
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第163回黒マスク
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第164回高身長
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第165回凪を生きる
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第166回二代目・朝顔観察日記(3)
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第167回自分の声
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第168回優しい死神
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第169回フィルムを貼る仕事
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第170回ダンス動画
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第171回コロナ以後
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第172回下北沢
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第173回偶然の駄洒落
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第174回スティーヴ・アオキ
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第175回親に似る
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第176回二代目・朝顔観察日記(4)
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第177回最近のニコル
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第178回今日からおじさん
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第179回赤子の苛立ち
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第180回赤子が強い
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第181回彼岸花
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第182回犬の誕生日
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第183回メロトッツォ
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第184回筋トレ嫌い(2)
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第185回怪談プリンター
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第186回モテとは何か
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第187回二代目・朝顔観察日記(5)
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第188回二つ名
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第189回やりたいことリスト
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第190回犬年齢
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第191回二代目・朝顔観察日記(6)
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第192回家賃の振り込み(2)
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第193回勉強
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第194回地震
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第195回偶然の駄洒落(2)
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第196回観光地のマグネット
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第197回マスクチェーン(2)
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第198回二代目・朝顔観察日記(7)
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第199回狭い街
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第200回行けたら行く
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第201回観光地のマグネット(2)
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第202回徹夜について
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第203回寒い季節のアイス
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第204回小さな一歩、大きな一歩
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第205回覚え違いタイトル集
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第206回観光地のマグネット(3)
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第207回前髪のこと
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第208回出口がある街
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第209回動物園
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第210回疲れを知ること
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第211回積読くずし
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第212回前髪のこと(2)
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第213回千葉の沼
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第214回3日前の晩ご飯
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第215回好き嫌い
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第216回赤爆
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第217回老い
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第218回シックスマン
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第219回なにもない世界
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第220回駄目貯金術
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第221回ウニについて
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第222回読書の悦楽
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第223回大学を卒業できない夢
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第224回僕が走った
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第225回文学フリマ
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第226回育児について
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第227回二代目・朝顔観察日記(8)
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第228回本の片付けについて(3)
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第229回今日は何の日
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第230回書籍化
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第231回ロクちゃんのぬいぐるみ
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第232回電話で伝える氏名の漢字
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第233回吾輩は僕である
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第234回風船トレーニング
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第235回コンビニのKさん
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第236回褒めて伸ばす
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第237回短眠
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第238回赤子の習い事
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第239回ビニール傘
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第240回二代目・朝顔観察日記(完)
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第241回年末進行
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第242回懐かしさ
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第243回クリエイティブ迷子
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第244回僕が好きだったもの
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第245回手紙
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第246回犬と赤子
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第247回はじめてのサンタクロース
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第248回コーヒーの香り
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第249回人生の杭
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第250回高級な蜜柑(3)
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第251回大晦日の大晦日感(2)