朝顔観察日記(4)
-
朝顔の鉢に支柱を立てた。水をやり、心許ない6月の日光を必死に浴びながら順調に育ってくれている。都会暮らしなので、赤子(息子、1歳1か月)の教育に少しはいいかもしれないと思い、毎日、朝顔に水をやるときには、じょうろと一緒に赤子を抱えて外に出た。
しかし、途中で「このイベントに愛犬ニコルが参加していない」ということに気がつき、妻に頼んで4人(1匹含む)でベランダに出るようになった。赤子を左手で抱えながら右手でじょうろを持つのは僕の体力では厳しいと感じていたため、妻が赤子、僕が犬とじょうろ抱えた。
今朝は、いよいよ鉢に支柱を立てることにした。前回の「朝顔観察日記(3)」に書いたとおり、新しく買った3つの鉢には、それぞれ3本、3本、2本の計8本の芽が出ていた。発芽した本数が少なく、また僕が間違って巨大な鉢を買ってしまったのが功を奏したのか、どの芽も発育がよかった。有機物だけではなく、無機物にまで憐憫の念を抱く気弱な僕にとって、生長の遅い芽を取り除く(間引く)作業がない今年は、穏やかな気持ちで観察できている。
志賀直哉は「朝顔」(岩波書店『志賀直哉全集 第九巻』収録)という文章を書いている。ちょうど3ページの短い随筆のように思えるのだが、宗像和重の「後記」によると、初出は1954(昭和29)年1月1日発行の「心」第七巻第一号で、目次では題名の下に「(小説)」と記されているそうだ。小説は「私は十数年前から毎年朝顔を植ゑてゐる」の一文で始まる。
「私」は、熱海大洞台の住まいの裏山の中腹に、掘立小屋の小さい書斎を建てた。窓の前の急斜地に四つ目垣を結い、ゆくゆくは茶の生垣にしようとしていた。しかし、それには何年かの年月がかかるので、とりあえず東京の百貨店で買った朝顔の種を撒いたという。夏になり、母屋は子どもや孫で一杯になった。そのため、「私」は1か月ほど、書斎で寝起きした。年のせいか早朝に目覚める日が多く、出窓にあぐらをかいて、外の景色と四つ目垣を眺めた。
「私は朝顔をこれまで、それ程、美しい花とは思つてゐなかつた」と述懐する。「一つは朝寝坊で、咲いたばかりの花を見る機会がすくなかつた為めで、多く見たのは日に照らされ、形のくづれた朝顔で、(…)」。しかしその夏、朝顔の美しさは特別なものだと感じたのだ。
朝顔の花の生命は一時間か二時間といつていいだらう。私は朝顔の花の水々しい美しさに気づいた時、何故か、不意に自分の少年時代を憶ひ浮べた。あとで考えた事だが、これは少年時代、既にこの水々しさは知つてゐて、それ程に思はず、老年になって、初めて、それを大変美しく感じたのだらうと思つた。
たしかに僕も朝顔といえば、小学校の夏休みが始まる前の日、大量の荷物(本当は徐々に持って帰ればよかったのだが)と一緒に鉢を抱えて、家まで汗を流しながら歩いたしんどい記憶しか残っていない。朝顔を美しいと思ったのは、大人になってからだ。今日は、じょうろで水をやる作業に加え、鉢に支柱を立てなければいけなかったので、妻が抱っこ紐で赤子を吊るし、犬を抱えてくれた。僕は水をやったあと、必死になって3つの鉢に支柱を立てた。
犬は外の景色をきょろきょろ眺めていた。赤子は、はじめは「あじゃ」と言いながら朝顔の葉を触り、すぐに手を引っ込めてはまた葉を触り、を繰り返していたが、僕が支柱を立てる頃にはすっかり飽きて、うとうと眠たそうにしていた。犬はずっときょろきょろしていた。
赤子も犬も、いつか大人になったら朝顔の美しさに気が付くのだろうか。いやしかし、犬は2歳9か月だから、人間でいえば成人の年齢に達しているはずである。でもまあ、産まれてからまだ3年以下しかこの星に存在していないのだから仕方がない。そして何よりも、まだ朝顔は花を咲かせていないのだ。花が咲いたら、きっと赤子も犬もよろこぶだろう(たぶん)。
Back Number
-
第1回高級な蜜柑
-
第2回犬と人
-
第3回インタビュー
-
第4回洋式トイレ
-
第5回眠れない夜
-
第6回ルーティン
-
第7回大晦日の大晦日感
-
第8回彦
-
第9回遅刻の理由
-
第10回管理人さん
-
第11回心の余裕
-
第12回サイン
-
第13回パブリックな顔
-
第14回尻が痛い
-
第15回不意打ち
-
第16回僕は断固として
-
第17回高級な蜜柑(2)
-
第18回小田君
-
第19回管理人さん(2)
-
第20回絵文字の解釈
-
第21回緊急事態宣言
-
第22回お調子者
-
第23回編集の竹村さん
-
第24回バンドマン
-
第25回薄毛の広告
-
第26回雪
-
第27回ソーセージは美味しい
-
第28回偉い犬
-
第29回偉くない人
-
第30回インタビュー(2)
-
第31回それはちょっと
-
第32回サイン(2)
-
第33回自信
-
第34回カレーは辛え
-
第35回バレンタインデー
-
第36回自己宣伝
-
第37回幼馴染の言い分
-
第38回犬大好き
-
第39回子どもの頃の夢
-
第40回三つ子の魂
-
第41回赤子の将来
-
第42回拝啓、週刊誌様
-
第43回King Gnuの新井さん
-
第44回読書ができなくなった人へ
-
第45回受験シーズン
-
第46回巣篭もり旅行
-
第47回東京都出身ふたたび
-
第48回大酒飲みの親戚のおじさん
-
第49回犬を洗う日
-
第50回大酒飲みの親戚のおじさん(2)
-
第51回クレーム対応
-
第52回高級なドライヤー
-
第53回10年前
-
第54回「誰かが褒めていなければ褒めにくい問題」
-
第55回3月生まれ
-
第56回断酒
-
第57回「愛犬家はみんな、うちの犬が一番可愛いと思っている説」
-
第58回3つ目のブルガリアヨーグルト
-
第59回マスクは大事
-
第60回春はすごい
-
第61回本の片付けについて
-
第62回角さんの分類
-
第63回目黒の秋刀魚
-
第64回桜ばな
-
第65回コンプレックス
-
第66回やる気
-
第67回イノベーション
-
第68回原稿の提出方法
-
第69回キャズム超え
-
第70回白くて丸いやつ
-
第71回お洒落な部屋着
-
第72回双子のライオン堂の竹田さん
-
第73回人生で最高に幸福な時間
-
第74回スマホの充電ケーブルが溜まる件
-
第75回「されている」
-
第76回ナ、ノ、ハ、ナ
-
第77回うぐいすの初鳴日
-
第78回英雄・コービー
-
第79回ピアノを習っている男子
-
第80回サークルの夏合宿
-
第81回ニコルのこと
-
第82回やさしくなりたい
-
第83回赤子はすごい
-
第84回ダンゴムシを見つける達人
-
第85回人間は弱い
-
第86回気圧のせい
-
第87回読書
-
第88回運転免許
-
第89回連休明け
-
第90回応援しがい
-
第91回赤いカーネーション
-
第92回あいみょん
-
第93回「まだ生きている」
-
第94回断酒(2)
-
第95回慎重さ
-
第96回朝一の僥倖
-
第97回寝てない自慢
-
第98回1時間10分のモヤモヤ
-
第99回筋トレ嫌い
-
第100回目出度い
-
第101回怪談タクシー
-
第102回生まれて初めて
-
第103回最高の海外旅行
-
第104回神隠しの犯人
-
第105回駄目さが希望
-
第106回心のなかの仄暗い場所
-
第107回朝顔観察日記
-
第108回祝日がない月
-
第109回朝顔観察日記(2)
-
第110回雨のことば
-
第111回バンドマン(2)
-
第112回風邪予報士
-
第113回紫陽花
-
第114回ニコルの人気
-
第115回弱音
-
第116回犬の帰還
-
第117回冷房の設定温度
-
第118回ためらい
-
第119回ラーミアンでバーメン
-
第120回朝顔観察日記(3)
-
第121回マリトッツォ
-
第122回歴史の分岐点
-
第123回本の片付けについて(2)
-
第124回赤子の躍進
-
第125回未来からの前借り
-
第126回計画の大切さ
-
第128回1年の折り返し
-
第129回家賃の支払い
-
第130回名選手、名監督にあらず
-
第131回気になる投票所
-
第132回ありのまま、今、起こったことを書くぜ
-
第133回七夕の願い事
-
第134回あるひとつの日常
-
第135回朝顔観察日記(5)
-
第136回ワクチン接種1回目
-
第137回ワクチン接種1回目(その後)
-
第138回ワクチン接種1回目(3日目)
-
第139回回復
-
第140回早朝の散歩
-
第141回本物を見ること
-
第142回文字入りTシャツ
-
第143回4連休
-
第144回日傘がほしい
-
第145回髪を切りたい
-
第146回退屈さ
-
第147回赤子はすごい(2)
-
第148回ニコルゾーン
-
第149回ワクチン接種2回目
-
第150回ワクチン接種2回目(2日目)
-
第151回ピスタチオ
-
第152回腰が痛い人
-
第153回ワクチン接種2回目(5日目)
-
第154回ある夏の思い出
-
第155回朝顔観察日記(6)〜あきらめない
-
第156回二代目・朝顔観察日記(1)
-
第157回父と中原中也
-
第158回文化系トークラジオLife
-
第159回あいつは?
-
第160回痛いと言っていい
-
第161回マスクチェーン
-
第162回二代目・朝顔観察日記(2)
-
第163回黒マスク
-
第164回高身長
-
第165回凪を生きる
-
第166回二代目・朝顔観察日記(3)
-
第167回自分の声
-
第168回優しい死神
-
第169回フィルムを貼る仕事
-
第170回ダンス動画
-
第171回コロナ以後
-
第172回下北沢
-
第173回偶然の駄洒落
-
第174回スティーヴ・アオキ
-
第175回親に似る
-
第176回二代目・朝顔観察日記(4)
-
第177回最近のニコル
-
第178回今日からおじさん
-
第179回赤子の苛立ち
-
第180回赤子が強い
-
第181回彼岸花
-
第182回犬の誕生日
-
第183回メロトッツォ
-
第184回筋トレ嫌い(2)
-
第185回怪談プリンター
-
第186回モテとは何か
-
第187回二代目・朝顔観察日記(5)
-
第188回二つ名
-
第189回やりたいことリスト
-
第190回犬年齢
-
第191回二代目・朝顔観察日記(6)
-
第192回家賃の振り込み(2)
-
第193回勉強
-
第194回地震
-
第195回偶然の駄洒落(2)
-
第196回観光地のマグネット
-
第197回マスクチェーン(2)
-
第198回二代目・朝顔観察日記(7)
-
第199回狭い街
-
第200回行けたら行く
-
第201回観光地のマグネット(2)
-
第202回徹夜について
-
第203回寒い季節のアイス
-
第204回小さな一歩、大きな一歩
-
第205回覚え違いタイトル集
-
第206回観光地のマグネット(3)
-
第207回前髪のこと
-
第208回出口がある街
-
第209回動物園
-
第210回疲れを知ること
-
第211回積読くずし
-
第212回前髪のこと(2)
-
第213回千葉の沼
-
第214回3日前の晩ご飯
-
第215回好き嫌い
-
第216回赤爆
-
第217回老い
-
第218回シックスマン
-
第219回なにもない世界
-
第220回駄目貯金術
-
第221回ウニについて
-
第222回読書の悦楽
-
第223回大学を卒業できない夢
-
第224回僕が走った
-
第225回文学フリマ
-
第226回育児について
-
第227回二代目・朝顔観察日記(8)
-
第228回本の片付けについて(3)
-
第229回今日は何の日
-
第230回書籍化
-
第231回ロクちゃんのぬいぐるみ
-
第232回電話で伝える氏名の漢字
-
第233回吾輩は僕である
-
第234回風船トレーニング
-
第235回コンビニのKさん
-
第236回褒めて伸ばす
-
第237回短眠
-
第238回赤子の習い事
-
第239回ビニール傘
-
第240回二代目・朝顔観察日記(完)
-
第241回年末進行
-
第242回懐かしさ
-
第243回クリエイティブ迷子
-
第244回僕が好きだったもの
-
第245回手紙
-
第246回犬と赤子
-
第247回はじめてのサンタクロース
-
第248回コーヒーの香り
-
第249回人生の杭
-
第250回高級な蜜柑(3)
-
第251回大晦日の大晦日感(2)