第1回 父は王様、母は従順な家来

精神疾患、自殺未遂、貧困、機能不全家族など、いくつもの困難を生き抜いてきた著者は、あるとき気がついた。じぶんの生きづらさは、女であることでより深刻化させられてきたのではないか。かつて一ミリも疑ったこともなかった「男女平等」は、すべてまちがいだったのではないか。女であることは、生きにくさにつながるのか? ジェンダーの視点を得ていま語る、体験的エッセイ。

私は世の中が男女平等だと一ミリも疑っていなかった。学校の先生がそう言ったからであったし、社会は平等であると教科書に書いてあったからだ。しかし、それは全て間違いであり、それに気がつくのに私はとても時間がかかった。

男女が平等でないと教えてくれたのはフェミニズムだった。フェミニズムを知った時の衝撃を例えるなら雷に打たれたような感覚とでも言えばいいだろうか。男女は平等でないというパラダイムシフトは私の中の壁を瓦解させた。

これから、私という女の話をしようと思う。私の話は、すべての女性に通じるものではないかもしれない。しかし、文章の中に散らばった私の過去の記憶たちはどこかでほんの少しあなたの話にリンクするかもしれない。仮に全くリンクしなくても、ちょっと耳をそばだてて聞いて欲しい。女であることで、生きにくかった私の半生を。

私がまだ幼稚園か小学校低学年か、そこいらの年齢の頃。私はお父さんっ子だった。母よりも父が好きで、よく父の後をくっついて歩いていた。年に一回行く家族旅行で、大きなお風呂に入る時、私はいつも母と一緒だった。それが不満だった私は「お父さんとお風呂に入りたい。男湯に行きたい」と母に申し出た。しかし母は「やめておきなさい」と私に強く言った。なぜやめておいたほうがいいのかの理由は言わなかった。私は母の制止を振り切って父の後について行った。

男湯は当たり前だけど、男しかいない。服を脱いで、風呂場に入ると、男性の視線が私に集中した。稀有なものを見る彼らの視線が私に刺さる。私は体がビリリと緊張した。まだ、男性と女性の体の違いや、女性の体が男性にとってどんな意味を持つかもわからない年齢だけど、自分の体がこの男湯の中では特別な意味を持つ体らしいということが分かった。

そして、男性たちは私の股間を集中して見ていた。私はなぜ、股間なんて汚いところをずっと見るのか不思議でたまらず、気持ちが悪くなった。父の後をついて、体を洗うが落ち着かない。私は湯船にも浸からず、体を流した後すぐに、出口に向かった。父と一緒にお風呂に入りたいという子供の希望は見知らぬ男性たちの視線によってあっという間に潰された。私は服を着て、女湯に向かう。女性だけに囲まれるとホッとした。お風呂から出た母と落ち合って、外に向かう。私はそれから、男湯に入りたいなどと口にすることは二度となかった。

私の兄は私より三つ年上だった。女の体が特別なものだと世の中で最初に教えてきたのは兄だった。

兄はずいぶんませていたと思う。兄は家の中から父が隠し持っていたエロ本を探し出して私に見せてきた。まだ幼い私は漫画の中で、なにが行われているのかが理解できない。男女が絡まりあって何かしているという風にしか理解できず、むしろ、中身を見ても、話が見えてこない。ただ、兄にとってエロ本は重要な意味を持つものらしかった。

「これと似たような内容の本を家の中から探してこい」

妹である私は兄のいうことを聞いた。押し入れやタンスの中を丹念に探し、似たような本を見つけ、兄に報告すると褒められた。

「偉いな、エリコ」

学校でいじめに遭っていて、誇れる妹でない私にとって、兄からの賞賛は嬉しかった。エロ本探しは頻繁に行われた。見つからない時には兄は怒って、「よく探せ」と怒鳴った。私は怖くなって一度探した場所をもう一度探すが、目当ての本が見つからない。タンスの奥の方、押入れの布団の隙間。その本はそういったところに隠されていた。私には兄がそこまで執着する理由すらわからない。兄はどんな気持ちで私にエロ本を探させ、受け取っていたのだろうか。

兄とは小さい頃から一緒にお風呂に入っていた。しかし、ある時から兄の様子が変わった。兄は長時間私と風呂に入りたがり、私に嫌なことをするようになった。私はそれからお風呂に入れなくなった。小学校三年生くらいの時だと思う。入ったとしても一ヶ月に一回、父か母が入っている時を見計らって一緒に入った。私の頭はフケだらけになり、学校でのいじめは一層激しくなった。実際不潔だったし、臭かったと思うので仕方ないと思う。

母は私の髪を結わく時、フケがひどいので、口でふうふう吹いてフケを飛ばした。しばらくすると、おへその周りにボツボツとした吹き出物ができてしまい痒くて耐えられなくなり、母に訴えると病院に連れて行ってくれた。

しかし、処方された薬を塗ったり、飲んだりしても一向に良くならない。私は母と一緒にたくさんの大学病院を回った。大きな病院で何時間も待って診察をしてもらって出た結果は「不潔にしているからです。ちゃんとお風呂に入ってください」だった。大学病院にまで連れて行ってもらえるのに、お風呂にすら入れない私。なぜ、周囲の大人たちは私の異常に気がつけなかったのだろうか。

ウーマンリブがアメリカで起こったのが1960年代ごろ。その時に、女性たちは家庭で行われている性虐待についてようやく口にし始めた。それまでは「家族が家族に性虐待を行う」ということはないものとされていた。家族に欲情するなど異常だからあるわけないとされてきたのだ。だが、それは男たちの都合だったのだろう。

性被害にあった女性たちはPTSDの症状に見舞われていた。当時のアメリカではベトナム戦争帰りの男性たちがPTSDになっていたが、性虐待をうけた女性達は彼らと同じ症状を起こしていたのだ。性虐待を受けるということは戦争で前線に立つのと同じくらいの恐怖を受けるのだ。

父は帰ってくるのが夜の12時近いこともあるが、9時くらいに帰ってくることもある。

「今帰ったぞ!」

玄関を開けると父はドタドタを大きな足音を鳴らし家に入る。小さな団地の廊下は数歩歩けばあっという間に居間にたどり着く。

「おい」

そう言って父は母に背広を脱がすように促す。父は決して自分で背広を脱がない。母も逆らうことなく背広を脱がせるとハンガーにかけた。父はシャツを脱ぎ、ズボンを脱ぐとすぐに風呂に行った。しばらくすると、風呂場の父から声がかかる。

「おーい!エリコ!背中流してくれ」

私は父の声に反応して、風呂場に向かう。父はドアを開けるとタオルを渡してくる。私は無言でそれを受け取り、父の背中を流す。

「もっと力を込めろ」

「脇腹もよく洗え」

「腰の方が洗えてない」

私は父のリクエスト通りに背中を流す。父の背中はとても広く大きい。肩のあたりにはニキビができた跡がたくさんあってデコボコしていた。まだ、小学三年生の私には大人の背中を流すのは大仕事だった。父は私にばかり背中を流させたが、兄は一度も流していない。家庭の中にまで侵食する男尊女卑の精神は私の体に深く刻まれていく。女が下で当たり前。女が不当な扱いを受けるのは当たり前。父の体を流し終わると、もう家族の食事が済んだのに、父のために台所に立ち、母が酒のつまみを作っていた。

風呂から上がった父が、

「今日も疲れた。もう、会社のやつらがバカで参っちまうよ。ビール出してくれ!」

母が冷えたビールを冷蔵庫から出す。うちはビールを酒屋からケースで買っていた。だから、ビールを切らすことはほとんどなかった。栓抜きでビールの栓を開け、母が父のグラスに注ぐ。それを飲み干す父は王様みたいだった。事実、この家で父は王様だった。私と母は従順な家来だった。

朝起きて、歯を磨き、顔を洗い居間に向かう。父はもうすでに会社に行ってしまっていた。テーブルの上にはキャベツを甘辛く煮たものと、納豆のパックが出ていた。母がもやしの味噌汁を注いでくれる。私はご飯を自分でよそうと食事に手をつけた。テレビのニュースを横目に箸を動かす。団地の階段を駆け下りると、同じ班の人たちが私を待っていた。学校に登校する時は、登校班の人たちと一緒に向かう。教科書が詰まった赤いランドセルはずっしりと重くて肩が凝る。今思うと、なぜ女子のランドセルは赤で、男子のランドセルは黒なのだろう。大人達は勝手に私たちに線をピーっと引いていた。子供の私たちは何も疑うことなく、その線が引かれた場所からはみ出ないようにしていた。

学校では名簿が男女別だった。そして、名前を呼ばれるのは男子からで、そのあとが女子。男子と女子で列を作って、整列をした時、先に行くのが男子、後から行くのが女子。当たり前のように行われているので、それが不当なことだと全く気がつかなかった。知らないうちから、男子が先で、女子が後、という概念が体の中に刻まれていく。私の体には女が二番目という意識が少しずつ積み重なっていった。そして、男子はきっと自分が一番だという意識が育っていったのだと思う。

学校で女子だけが集まって、生理について学ぶ時間が設けられた。男子はその間、外で遊んでいいことになった。「男子はいいなー」と女子が口にする。実際男子は授業がなくなったので楽しそうだった。男子はボールを手にしてわらわらと校庭に散らばっていった。

教室に女子だけが集まって、月に一度訪れる生理について先生に教わる。子宮の内膜が剥がれ落ち、それが血液になって膣から流れ出る。自分の股から月に一度、血が流れ出るなんて結構なホラーだ。そして、痛みを伴うらしいということも知った。最後に、みんなに生理用品の試供品が配られた。私はナプキンを手にしながら、こんなものがあるなんて女の体はなんてめんどくさいのかと絶望的な気持ちになった。一ヶ月に一回、一年に12回もある生理。しかも大人になってもずっと続く。何十年もあるのだ。プールにも公衆浴場にも入れず、痛みを伴いながら、血を流す。なんて、不自由な体。その日の学校の帰り道はズシンと体が重くなった気がした。これから先、何十年ものことを考えると暗澹たる気持ちになった。

生理について学んでから1年くらい経った頃、トイレに入ると、下着に茶色くてドロドロしたものがついていた。私はびっくりして、下着を脱ぎ、風呂場で洗った。そして新しい下着に履き替えるのだが、しばらくするとまた、茶色いドロドロしたものがべったりとついているのだ。自分で知らないうちに下痢になったのだろうか。しかし、便意は全くない。私は一人で5回くらい下着を変えた。そして、これは何か異常事態だと思い、母に伝えた。

「お母さん、なんか茶色いものが下着につく。取り替えても治らない」

テレビを見ていた母は立ち上がり、私の下着を覗いた。

「ああ、生理ね」

なんてことない風に言った。その一方で私は激しいショックを受けていた。とうとう私にも来てしまったのかという絶望感。そして、この茶色いものが生理だという驚き。どうやら初潮の時は真っ赤な血が流れるものではないらしい。母は自分が使っているナプキンを渡してくれた。使い方を母はゆっくり教えてくれた。

「このテープを剥がして、下着につけるのよ」

母の手元をじっと眺める。

「捨てる時は、トイレットペーパーに包むんでしょ。学校で教えてもらった」

私が言うと

「ティッシュがもったいないから、テープの部分についてる紙を使いなさい。そうすれば無駄がないでしょ」

母の言葉を聞いて納得する。

私は綿が詰まった四角いナプキンを下着につける。初めてつけたナプキンはゴワゴワして落ち着かない。私はナプキンの感触を感じながら「これが、何十年も続くのを私は耐えられるのだろうか」という恐怖に襲われていた。左の脇腹がジンジンと痛む。初潮を迎えたらお赤飯を炊くという風習があるが、母は炊かなかった。私は別にそれで良かった。めでたくなんてなかったし、父や兄に知られるのも嫌だった。大人になった喜びよりも、子供時代が終わった絶望感の方が大きかった。

1977年生まれ。茨城県出身。短大卒業後、エロ漫画雑誌の編集に携わるも自殺を図り退職、のちに精神障害者手帳を取得。現在は通院を続けながら、NPO法人で事務員として働く。ミニコミ「精神病新聞」を発行するほか、漫画家としても活動。著書に『この地獄を生きるのだ』『生きながら十代に葬られ』(共にイースト・プレス)、『わたしはなにも悪くない』(晶文社)、最新刊『家族、捨ててもいいですか?』(大和書房)が5月10日より発売。

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