バッカスと踊れば
遺品の梅酒、バーで出会う知らない酒瓶、飲み慣れたお酒と気の置けない友人たち。どんな日でも、どんな時でも、お酒があれば気持ちはほどけて、ちょっぴりいい日。失われてしまったもの、欠けているものたちを見つめたエッセイ集『永遠なるものたち』の著者である姫乃たまが新たに紡ぐ酒にまつわるエッセイ連載。
第2回

海とスパークリングワイン

2025.11.11
バッカスと踊れば
姫乃たま
  •  午前九時の待ち合わせ場所には誰もやって来ませんでした。

     私はひとり、カーシェアの駐車場で予約していた車に乗り込み、昼頃には到着しているはずの海を思い浮かべていました。

     まだちっとも冷房が効いていない車内で、ハンドルは日差しを吸収して熱くなっていて、ノースリーブワンピースの下にじわりと汗が滲みます。

     海を好きになったのは、お酒が飲めるようになってからです。子どもの頃も「海に行く」と聞けば心躍りましたが、到着してみれば何かが欠けている気がしました。海を目の前にして気分はたしかに浮き足立っているのですが、同時にどこか拍子抜けしているような感覚があったのです。

     

     三十分後、助手席のほうから微かな視線を感じて振り向くと、草刈さんが窓越しにカメラのシャッターを切っていました。この暑いのに長袖の白いワイシャツを着ていて、それが日差しの中で清潔そうに光っています。草刈さんのカメラの中には気の抜けた表情の私が映っていることでしょう。

     彼に写真を撮られる時、いつでも不思議と緊張しなくて、暗い感情が全く湧き上がりません。

     草刈さんはどんな場所にも自然と馴染んでしまうようなところがあって、だから他者にレンズを向けるという本来は暴力的な行為もあっさりと自然にこなせてしまうのです。

     初対面の人たちにも古くからの友人のように溶け込んでしまう人で、お酒を飲まないのに気づくといつも酒の席に最後までいます。

     今日もそんな彼の性質に甘えて、好きな人たちに「海行かない?」と声をかけている間にちぐはぐなメンバーになってしまいました。私以外の三人はほとんど初対面です。

     いざ当日になってみると、初対面の人たち同士でそれぞれが楽しんでくれるのか、にわかに緊張してきました。まだ家から出ていないというあゆみちゃんを迎えに行くために、久しぶりにハンドルを握った指先にも緊張が走ります。

     

     あゆみちゃんが後部座席に乗り込みながら「よくこんなに集まらなさそうなメンバー集めたね」と笑っています。

     すぐにでも海に入れそうなラフな格好のあゆみちゃんをバックミラー越しに目にしたら、夏休みが始まる時の感じがしました。あゆみちゃんはいつでも遊ぶ準備のできている大人で、私は彼女に会うと広々とした草原を見つけた時の犬みたいな気持ちになります。

     草刈さんが三十分遅刻、待ち合わせから一時間を過ぎてようやくあゆみちゃんをピックアップしたいま、まだマスターとは連絡すらついていませんでした。

     マスターは私の行きつけのバーのマスターで、貴重な同い年の友人でもあります。これは朝まで店で飲んで寝てるなと思いつつ、今度はマスターの家まで車を走らせます。私はたった三十分の運転で神経を使い果たしてしまったので、早々に草刈さんと運転を代わってもらいました。

     私も普段はあまり時間通りに行動できないほうなので、友人たちがぱらぱらとルーズに集まってくるのが気楽で、すでに集合時間から二時間も経っているのに、まだ都内の狭い道をこちゃこちゃ走っているのも可笑しくて助手席でこっそり笑ってしまいました。

     

     午前十一時、マスターの家の扉には鍵がかかっていませんでした。

    「おーい、海行こ!!!!!」

     勝手に玄関を開けて、部屋の中に向かって大声を出すと、やや時間があってから、奥のほうでもぞっと人の動いた気配がして「寝坊やん!!!!!」というマスターの叫び声が聞こえました。

     大遅刻したマスターは初対面の人たちに囲まれながら、後部座席で小さくなって「気まずい気まずい」と連呼していたけれど、草刈さんもあゆみちゃんも笑い飛ばしていて、私は全員が車内に揃った時点でもう海に到着したくらい大満足でした。

     高速道路に入る前にコンビニに立ち寄ってあゆみちゃんと缶ビールを買い込んでいたら、遅刻したお詫びにマスターが奢ってくれました。本当は全員遅刻したのですが、何も言わずに甘えることにします。

     

     窓の外を高速道路の景色が後ろに流れていきます。ひらけた道を車がスムーズに走り出すと、私の心も一気に海へ向かって駆け出して行きました。

     あゆみちゃんと缶ビールで乾杯して、一口飲みくだした瞬間、彼女が「ああ、きれいになる」と声を上げたので、心底共感しました。わかる。午前中に飲む缶ビールの一口目は身も心も清めてくれます。

     店長はひどい二日酔いで「黙ったら吐きそう」と言って、ずーっと後部座席で何か面白いことを喋っていました。案の定、集合時間に遅刻しないように直前まで酒を飲みながら待っていた(けれど眠ってしまった)ようです。

     

     海の近所にあるスーパーマーケットは冷蔵庫の中みたいに冷えていました。ヘビーな湿度からも解放されて呼吸がしやすく「生き返ったあ」と思いながら、買い物カゴに酒瓶を詰められるだけ詰めていきます。缶ビールもたくさん。私が一番欲しかったのはスパークリングワインです。

     あゆみちゃんがきゅうりを、マスターが冷えた豆腐をカゴに放り込みました。夏です。

     

     もう何年か、夏が来るたびに通っているけれど、この海に人がいるのを見たことがありません。浜辺にはまあるく削れた小石が広がっていて、砂がまとわりつかないところもお気に入りの海です。 

     民家が遠巻きにぽつりぽつりとあるけれど、この辺りの人たちがどういう暮らしをしているのか私にはわかりません。早朝に少しだけ海で泳いだりするのでしょうか。仕事で行き詰まった時、家を飛び出して目の前の海に潜ったりするのでしょうか。それともこれだけ近いと意外と海では遊ばないのかもしれません。

     私は浜辺でお酒を飲むことしか考えていなかったので、水着は持ってこなかったのだけど、同じく水着を持ってきていなかったマスターが、海を見るなり目を輝かせて「本気で遊びたい」と言ったので、私も「よし、泳ぐか」という気持ちになって、ワンピースを脱ぎながら浜辺を駆けて、スリップのまま海に飛び込みました。

     海は薄い青色に澄んでいて、浅瀬では濃い青色をした小魚の群れが泳いでいます。店長も海水でTシャツを肌に貼り付けたまま、海面から顔を上げてそばで歓声を上げています。あゆみちゃんは浜辺からそんなマスターを微笑ましく眺めていて、その時にこの四人で海に来られて良かったと改めて心から思いました。

     

     浜辺で風に吹かれて、スリップごと全身を乾かします。

     海から上がって心地よく気だるくなった全身に冷えた缶ビールが沁みます。

     ちゃんと水着に着替えた草刈さんが、どこまでも遠くへ泳いで行って、浜辺から見ていると小さなフィギュアのようです。

     草刈さんは泳ぎが上手で「波に抗わないことが大事」なのだと、いつかの海で話していました。私がひどい抑鬱状態で沈んでいる時も、同じように「波に抗わないことが大事」だと教えてくれたことがあります。鬱の波が押し寄せても、その波に逆らわないこと。力を抜いていれば、必ず浮上できることを、私も最近わかってきた気がします。

     どんどん遠く離れていく草刈さんを見ながら「今だ」と思いました。

     スーパーマーケットの袋から結露しているスパークリングワインのボトルを取り出して抜栓すると、勢いよく空気が抜ける痛快な音とともに、目にしている景色の彩度が上がりました。

     夏の日差しにぎらぎらと輝いている海、スパークリングワインのボトルから噴き出した泡、あゆみちゃんが齧っているきゅうりの鮮やかな緑、熱くなったブルーシート。

     泡がしゅわしゅわと細かく弾けながら、舌と喉を滑り落ちていって、私の気分は全然拍子抜けなんかしておらず、海を思い浮かべて期待していた時と同じように気分が高揚していました。

     子どもの頃、私の海に足りていなかったのはスパークリングワインと気の置けない友人たちだったのでしょう。

     

     彼らは感心するくらいリラックスするのが上手で、いつの間にか全員浜辺で寝転がりながら過ごしていました。逆さまになった缶ビールとどこまでも広がる青い空が見えます。

     今日の晴天からは信じられないことに、明日は台風が東京を直撃するそうです。

     帰りの高速道路は台風に備えて車が全然走っていなくて、車内にはマスターの小さな寝息だけが響いていました。

     道路が空いていたので、あっという間に新宿駅に着いたけれど、珍しく新宿駅も人通りが少なくて、窓を開けると街は静まり返っていました。改札口が夜道の中で田舎のコンビニみたいに光っていて、こんなに静かな新宿駅を見たのは初めてです。風はぬるく、言われてみれば明日台風が来てもおかしくない重たさをしています。

     あゆみちゃんとマスターを起こさないように小さな音でラジオをつけたら、いかにもラジオDJらしい低くて渋い声が流れてきて、私には誰だかわからなかったのだけど、草刈さんが「この人まだ番組やってたんだ」と呟きました。

遺品の梅酒、バーで出会う知らない酒瓶、飲み慣れたお酒と気の置けない友人たち。どんな日でも、どんな時でも、お酒があれば気持ちはほどけて、ちょっぴりいい日。失われてしまったもの、欠けているものたちを見つめたエッセイ集『永遠なるものたち』の著者である姫乃たまが新たに紡ぐ酒にまつわるエッセイ連載。
バッカスと踊れば
姫乃たま
姫乃たま(ひめの・たま)

1993年、東京都生まれ。10年間の地下アイドル活動を経て、2019年にメジャーデビュー。2015年、現役地下アイドルとして地下アイドルの生態をまとめた『潜行~地下アイドルの人に言えない生活』(サイゾー社)を出版。以降、ライブイベントへの出演を中心に文筆業を営んでいる。音楽活動では作詞と歌唱を手がけており、主な音楽作品に『パノラマ街道まっしぐら』『僕とジョルジュ』、著書に『永遠なるものたち』(晶文社)『職業としての地下アイドル』(朝日新聞出版)『周縁漫画界 漫画の世界で生きる14人のインタビュー集』(KADOKAWA)などがある。