祖母が漬けた梅酒
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「五月は亡くなる人が多いっけねえ」
壁掛けのカレンダーに親族や友人たちの命日を書き込みながら祖母がぼやきました。定年退職後も落ち着くことなく、習い事やボランティアを忙しなく掛け持ちして、友人たちとの会食や旅行も欠かさなかった祖母にとってカレンダーへの書き込みは重要です。プールに着付け、生花、詩吟、中国語、目の見えない人にニュースを読み聞かせるボランティア……どんな場所に行ってもリーダー気質で、何かと人と場を取り仕切り、何くれとなく周囲の人たちの世話を焼き、負けず嫌いだった祖母。
その五月に祖母は手術を控えていて、家族に「帰ってきたらカレー作るからね」と言い残したまま、すたすたと病院へ手術に行き、そのまま二度と帰ってきませんでした。八〇歳でした。
私は東京に暮らしているので、岩手で離れて暮らす祖母が何の手術を受けに行ったのか、その手術で何が起きて突然亡くなってしまったのか、祖父に思い出させるのが忍びなくて、一年以上経ったいまも詳細を聞けずにいます。手術することすら聞かされていなかったので、恐らくわざわざ報告するほどでもないちょっとした手術の予定だったのだと思います。それにしてもまさか自分も五月に亡くなるなんて、祖母が一番信じられなかったことでしょう。
「冬のソナタ」ブームの時に密かにヨン様のステッカーをガラケーの裏に貼ったかと思いきや、突然中国語を習い始め、ヨン様と話したいなら韓国語を学ぶべきじゃないかと声をかけたかったけれど、夜な夜な家族が寝静まった後、暗くなった居間で中国語のカセットテープを流しながら、念仏のようにシャドーイングしている祖母を目の当たりにしたら口を出せませんでした。いろんな思い出があるのに、どうしてこんなどうでもいいことを真っ先に思い出しちゃうんだろう。
でもここからが祖母らしいところで、そのうちすぐに中国からの留学生の面倒を見るようになり、自分も何やら招待されては頻繁に中国に出向いていたのを覚えています。留学生のうち、ひとりの女の子は私とも仲良くしてくれて、祖母に連れられて一緒にいちご狩りに行った記憶があります。祖母は面倒のみかたが豪快で、家族で焼肉に行けば肉をわんさか注文し、お腹いっぱいでもう誰も食べられないのに、肉を焼き続けて全員の皿に山になるまで焼肉を積み上げ続けるような人でした。
祖母と孫って不思議なもので、時々母親よりも趣味の合うところがあります。私と祖母の場合はそれが着物でした。着付けのできる祖母のもとに生まれたのに、全く着物に興味を示さなかった母親と違って、私は成人式に自前で振り袖を買うくらいには着物が好きでした。その話を知った祖母はあとから喜んでお金を出してくれました。
祖母が亡くなった年の十月には私の結婚式があり、そこで私はその振り袖をリメイクしたウエディングドレスを着る予定でした。東京に出かけてくるのが大好きな祖母は、カレンダーにも「たまちゃん結婚式」と書き込んで楽しみにしていたそうで、まさかその時には自分が亡くなっているなんて思ってもみなかったことでしょう。
豪快な人でしたが、私が岩手から東京に帰る時は、悲しくなるからと駅までは見送らず、自分は留守番して祖父に送迎させる、そんないじらしい一面もありました。なので、最後に岩手で会った時もいつも通り駅までの見送りはなくて、最後の思い出は母親と祖母と三人で居酒屋で飲んだ一夜となりました。祖母と酒を飲むなんて本当に珍しくて、ほとんど初めてだったと思うので、あの時飲みに誘ってよかったなと心から思っています。
祖父母が暮らしている岩手県の北上市には歓楽街があるのですが、ふたりともお酒を飲まないので、私はそこに足を運んだことがありませんでした。母親と私はお酒が大好きなのですが、ふたりで晩酌を始めようとすると、祖母から鋭い眼光とともに「酔っ払わないでよ」と必ず釘を刺されました。
私は自分がどうしてそんなことを言い出したのか覚えていないのですが、歓楽街に行ってみたいと初めて祖母にお願いしたら、顔の広い祖母は友人のやっている居酒屋があると言って、意外なことに一緒に飲みに行ってくれることになったのです。二階席もある広々とした居酒屋はその夜貸切状態で、カウンターに母親と祖母と三人で並んで、一緒に小さなビールグラスで瓶ビールを分け合いました。キュッと冷えた一口目のビールが喉に流れ込んできた瞬間、珍しく祖母は私たちに釘を刺すこともなく、おいしそうにビールを飲んでいたのを覚えています。意外だったから、よく覚えています。
実はお酒が好きだったのか、それともようやく子どもも孫も大きくなって、これから一緒に楽しもうという心持ちになっていたのか、わからないし、もうそれは知りようがありません。祖母の死が私に教えてくれたのは、死というものが持つ取り返しのつかなさでした。こんなにも急に、もう祖母と話すことはできないのです。
祖母が亡くなった後にも意外なことは起こりました。遺品の中に大量の梅酒があったのです。祖父は祖母の死後、気を紛らわすように遺品整理に熱中していて、私に梅酒があることを伝えてくれた時には、ほとんどを人に譲ったり捨てたりしてしまって、もう二杯分しか残っていませんでした。いままでいろんなお酒を飲んできましたが、祖母が生前に作った梅酒ほど貴重なお酒は飲んだことがありません。
普段はお酒を飲まない祖父と一杯ずつ梅酒を分け合うと、祖父が「そうだ」と言って祖母の遺影を持ってきてくれました。着物姿で微笑む祖母の遺影に向かって「献杯」とグラスを掲げます。梅酒はまろやかで甘くて、でもアルコール感もしっかりとありました。一杯だけで酔うわけもないのだけど、それでも少しも酔わずに堪能したくて、ものすごく集中して飲みました。こんなに一口ずつが贅沢で緊張感のあるお酒もなかなかありません。もっと感傷的な気持ちになるかと思っていたけれど、一口ずつきちんと味わわなければという妙な緊張感で、寂しさは紛れていました。
そもそも祖母が亡くなったことについて、寂しいという気持ちがまだ追いついていなくて、私はただ途方に暮れていました。亡くなったことをどこかで受け入れられず、彼女と話せることはもう一生ないのだと思うと、心が真っ暗になって、途方に暮れてしまうのでした。でも途方に暮れている時、それは祖母がそばにいる時なのだと思います。その感情を消し去ったり、乗り越えたりすることなく、共に生きていく私は、祖母が生きていた頃の私よりも成熟していると思います。祖母が作ったすっかり熟成した梅酒からは、そんな味がしました。
祖母が亡くなって1ヶ月ほど経った頃、夢を見ました。
祖母がどこかのホテルに電話で予約しているところを、私も別の場所から電話で聞いているという不思議な夢でした。電話越しなので祖母の姿は見えませんでしたが、「おばあちゃんはもう亡くなっているから、(ホテルの予約などをして)働く必要はないんだよ」と声をかけました。
祖母が何か私に返事をしましたが、急に電波が悪くなってしまって声が遠ざかり、何を言っているのかはわかりませんでした。私はもう二度とこの人と話せなくなってしまうと直感して、慌てて「おばあちゃんに出会えてよかった」とだけ一方的に伝えました。途端に夢から覚めて、祖母の返事を聞くことはできませんでしたが、私は自分が心の底から祖母に会えてよかったのだと思っていることがわかり、その夢以降、祖母の死に対して気持ちの区切りがついたように思います。しっかり寂しくなったということです。
その後、私は祖母の趣味のひとつであった詩吟を習い始めました。酒好きで知られる詩人・李白の漢詩ばかり詠っています。習い始める前は、詠っている時だけでも祖母と心が通わせられるのではないかと期待していましたが、そんなロマンチックなことはそうそう起きるわけもなく、詩吟のコンクールに出場している時など、舞台袖からどっしりと見張られているような感じがします。