この性と身体のハンドルをにぎる:ピッパ・ガーナーについて
-
アメリカに、ピッパ・ガーナー(Pippa Garner)というアーティストがいました。彼女は1970年代から、通信販売カタログや求人広告、メッセージ付きTシャツ、テレビ番組でのパフォーマンスや立体作品、写真作品、イラストなど、多彩な手法で消費主義社会やジェンダー規範をユーモラスに批判する作品を多数発表してきましたが、最も重要な作品は、整形手術やホルモン治療、タトゥーを経た彼女の身体そのものです。
ガーナーは1942年生まれで、出生時に割り当てられた性別は男性であり、アーティスト活動もフィリップ・ガーナーという男性の名前でスタートし、やがて非合法に女性ホルモン剤(エストロゲン)を入手し、外科手術との「共同制作」によって自分自身の身体を作り替えていきました。彼女はこの性別移行を「ジェンダー・ハッキング」と呼び、芸術の手法として実践しました。
彼女は、トランスジェンダーの人々が語るような「間違った身体に生まれたと感じた」経験よりも、消費者向けの広告や扇情的な資本主義におけるジェンダーの強化から逃避する手段として、自身の性別移行を位置付けています。
性別というものを背負わされること、あるいは性別によって区切られることには、昔からどこか奇妙な違和感がありました。というのも、私の人生の背景には常に広告や消費主義があって、それらは非常にジェンダー志向的だったからです。つまり、「女性向けの商品」と「男性向けの商品」がはっきりと分かれていたのです。そこには、徹底的な男らしさ、あるいは徹底的な女らしさ、マッチョな男性か化粧をした女性か、という極端なイメージばかりがありました。そして、もし自分がそのいずれにも当てはまらないと感じたとき、人は居心地の悪さを覚えるのです。でもそれこそが、彼らの狙いでした。そう感じさせることで、商品を買わせるのです[1]。
「これを買えばもっと男らしく/女らしくなれるかも?」という期待を抱かせたり、あるいは「自身の性(のアピール)がもしかして不十分かもしれない」、という不安を引き出したりして居心地の悪さを与え、それを商機に変えていくのは、マーケティングの常套手段です。そうした消費主義社会のなかでガーナーはジェンダー化された広告や、(男性の)性的興奮を誘発するメディアから距離を置くために、それらのメッセージに煽動されることのない心身を獲得することに取り組み始めたのでした。
ガーナーの「ジェンダー・ハッキング」については後ほど詳しく考えるとして、まずは彼女が自身の身体のほかにどのような作品を作ったのかを見ていきましょう。
ガーナーの作る作品はいずれも皮肉っぽいギャグが根底にあり、「くだらねぇ!」と笑いながら見られるものが多いのが特徴です。ガーナーがアーティストとして関心を持ってきたのは、工業製品、商業的な製品、とりわけ男性的な機械製品、女性的な日用品など、そもそも開発の段階で商品のターゲットとなる性別が割り当てられている商品たちです。「男性的」なものであれば車、スーツ、ネクタイ。「女性的」なものであればハイヒール、コスメ、ランジェリーなど。このようにジェンダー化されている商品の、そのジェンダーを撹乱したり、揶揄したりするのが、ガーナーの定番のスタイルです。
例えば、ハイ・ヒールにローラー・スケートのタイヤ部分を取り付けた《High Heel Skates》は1982年出版の『Better Living Catalog』に収録されたアイテムのひとつ。「忙しい女性のための」発明品です。このように極度にジェンダー化された製品に、車を想起させるタイヤを取り付けた本作は、消費の欲望と、商品設計の両方に浸透しているジェンダーを撹乱する代表的な事例です。

Pippa Garner, Better Living Catalog, Primary Information, 2023 (Original: 1982)
とりわけ重要な作品である《Kar-Mann》(1969)は半人半獣ならぬ半人半車の立体作品。
ガーナーは、キャリアの初期にアートセンター・カレッジ・オブ・デザインで自動車デザインを学んでいますが、1969年にこの作品を発表し、退学処分となりました。
このタイトルは、流線型のイタリア製スポーツカーのボディと信頼性の高いドイツ製エンジンを融合させたフォルクスワーゲン・カルマンギア(Karmann Ghia)にちなんだもの。この作品は、ガーナーが古着屋で見つけたペダル式の子供用サイズの車を改造しています。銀色の自動車の前方の部分はそのままに、後方の部分が用を足す犬のように後ろ足を上げている裸の人間の下半身とドッキングされています。その下半身はなめらかな曲線とむっちりとした質感が強調され、どこか女性らしくも見えるのも本作の重要な要素でしょう。さらに、そこには丁寧に作られたペニスと陰嚢がくっついて、おかしみの中に、情けなさや、どこかなまめかしさも感じる作品です。
《Backwards Car》(1973-74)はシボレー・ビスケインをボディ部分の前後が反転するように改造したもの。運転手は、座って普通に(?)運転できるようになっていますが、その際、運転手が前方を望むのは後部座席の窓から、ということになります。外側から見ると、車は、トランク側の方向を前方として、走ります。ちなみにガーナーはこの車を運転する際、後頭部に顔のプリントされたマスクを被り、まるで彼女の体が前を向いているのに車が後ろ向きに走っているかのような演出を行いました。
これらの作品は、消費主義社会における「男性的」なもの、つまり「強さ」「速度」「権威」といった印象を与えられている車を改造することによって、その権威を無力化したり、あるいはその強さや速度の方向性を(文字通り)変えたりしていると言えるでしょう。ガーナーの作品を見ると、製造された時点で性が割り当てられるプロダクトは、確かに、人間(の身体)にも重ねて考えることができることに気がつきます。
こうした作品制作を通じて、ガーナーは、自身の身体もある種の商品である、という考えに至ります。
私は生粋の消費者であり、物質主義者でした。そして私はその概念でよく遊んできました。80年代に、手術の必要性が複数回から一回に減り、比較的安価になったとき、『これって買っていいものなのかな?』と思ったのです……。私はこれまで多くの家電や車を使って作品を作ってきたのですが、その時に鏡に映った自分を見て、『私は電化製品ではないのか?』と自問するようになりました。この、私が持ち歩いているもの、いわばこの覆いのようなものは、適切に機能する素晴らしいシステムと部品で満ちています。私は誰かを雇い、基本的に外科医と共同作業をして、『さあ、アートをしましょう。これが私の提供するもの、私の身体です』と言うことができるのです[2]。
ガーナーはこのように考えて、身体もアートのメディアであり、消費社会の言語で語り直すことができる「素材」にすぎないという視点を最も過激なかたちで体現しました。そして、彼女の他の作品と同じように、自己の身体を消費資本主義が生み出した製品と捉え、「割り当てられた性別」ではない別の性のあり方に作り変えていったのです。
こうしたガーナーの創作活動について、トランスジェンダー女性でありメディア研究者のマッケンジー・ウォークは、以下のように評しています。
その最も親密な切断(=身体改造)は、消費文化全体が肉体をどのように形づくり、管理するかを、大規模なレベルで示す換喩である。ピエル・パオロ・パゾリーニが、戦後の「ネオ資本主義」を、単に消費財を生み出すだけでなく、それを消費する主体までも排出するものとして捉えていたことを、私は思い出す。
ガーナーの手にかかれば、その「消費財」と「消費者」の両方が、改変=ハック可能な素材となるのである。とはいえ、トランス医療は、他の消費財とまったく同じではない。身体のジェンダーは、消費的新資本主義のマトリクスにおいて、ある種の「急所」である。そこでは、ジェンダーに基づいた労働の分業と、消費の分業とが不可欠な基盤を成している。この構造のなかで、トランスであることは、ネオ資本主義(あるいはそれが何であれ)にとって扱いきれないような仕方で、消費者という存在を変容させるのである[3]。
ウォークが指摘するように、トランス医療は、家電や自動車のような「ただの」消費財を対象にするのとは異なり、身体という極めて感覚的で個別的な経験と切り離せないものです。だからこそ、身体における「改造」や「再設計」は、単なる部品交換のような操作ではありません。
ガーナーが行うのは、人体の外部から新たな回路を導入したり、既存の接続を断ち切ったりすることで、資本主義によって形づくられ、扇動される感性のシステムを不能にさせ、そこから生まれる欲望や感情のパターンそのものをずらしていく行為といえます。さらにこうした試みは、資本主義が長い時間をかけて構築してきた、男女二元論に基づく労働と消費の構造、すなわち「望ましい身体」や「正しいジェンダー」のあり方を露呈させてもいます。
こうした文脈で、ガーナーの「私はこの内分泌系で遊ぶことができると決心しました。それは調整できるものだったんです。カフェインを飲めば、エネルギーレベルが上がるのと同じです。調整するんです[4]」という発言を聞くと、この「遊び」という言葉が、制度化され、社会化され、さまざまな規範に疑問を持たないように飼い慣らされてきた大人が作る資本主義的な社会と対立するものとして用いられていることがわかります。
さて、このようにガーナーの作品は、理論的には批評的で先鋭的な行為であると理解できても、どこか感覚の側では割り切れない「ひっかかり」のようなものが残るかもしれません。それは、「ジェンダー・ハッキング」プロジェクトに対する「これって本当にいいの?」というような感覚ではないでしょうか。
確かに、わたし自身もガーナーの作品について話そうとするとき、「アートとしてのトランス」を強調すると、近年のトランスジェンダーへの差別言説に力を貸してしまうのではないか、と怖くなり少し慎重になってしまうところがあります。実際、1980年代から1990年代初頭にかけて、ガーナーの性別移行へのアプローチは誤解され、ジェンダーに対するガーナーの取り組みはLGBTQ+への「嘲笑」と見なされました。その結果、LGBTQ+コミュニティのメンバーたちから孤立することにつながりました[5]。
日本では数年前から、特にSNS上で、「不安」や「素朴な疑問」として(あるいはそういう「ふり」をして)トランスジェンダーへの偏見を強化する言葉が見られるようになりました。具体的なトランスジェンダーに対する差別言説としては「気まぐれに性別を変えている」とか「女性のふりをして女性のスペースに入り込んでいる」というものがあります。前者はトランス女性やトランス男性の存在や経験を軽視・揶揄する言説で、ジェンダー・アイデンティティを持続的なものとしてとらえる視点が欠けているし、割り当てられた性別と性自認との不一致の苦悩を否定するものです。後者はトランス女性が公共の女性トイレや浴場、スポーツ競技などにアクセスすることを「不正」や「性加害の温床」とみなす言説ですが、まず、トイレ/浴場/スポーツ競技などはそれぞれ全く別物です。この言説は、場所や競技の特性に適ったルールがあることを無視しています。また、トランスジェンダーによる性加害のリスクを裏付けるような実証データは存在しません。従って、このような誤解に基づいた「トランスジェンダー」への「不安」は差別的なものであるとして、多くの国際機関や団体などが批判しています。極めて少数者である(しかし確実に存在する)トランスジェンダーを犯罪者と同一視すること、つまり、あるアイデンティティを犯罪の傾向と結びつけるのは差別に他なりません。こうした言説の影響もあり、トランスジェンダーの自殺率は、LGBTQ+当事者のなかでも高いことが知られています。SNS上だけでなく、現実の暴力や迫害などにも発展しており、トランスジェンダーの人権は今、非常に深刻な状況に置かれているのです。
こうした深刻な状況の中で、ガーナーの性別移行の事例や、彼女が身体や性の在り方を「遊ぶ」と語ったことが、他のトランスジェンダーの性別移行を「ズル」や「不正」やあるいは「趣味」のように見せたり、トランスジェンダーを差別する言説に「理がある」かのような印象を与えたりしかねないから、彼女について言及しない、という判断が導きだされることもあるかもしれません(実際、ガーナーは、1986年から2014年の間、一度しか個展を開催しておらず、作品発表の機会に恵まれたとは言えません)。
しかし、こうした懸念は、医療者でも当事者でもない第三者が誰かのジェンダーアイデンティティを「評価」できる、あるいは「本当かどうか」ジャッジできるかのような錯覚に基づいているとも言えます。
他人の身体や性のあり方に対して、何らかの「正しさ」や「筋の通った理由」を求めてしまう「素朴さ」は、その人にしか感知し得ない身体や性の感覚があるという前提の欠如に導かれているのではないでしょうか。わたしは、この前提の欠如が、誰かの生を他者が左右してもよいとする意識につながっていくのではないかと警戒します。
ガーナーはベトナム戦争時には男性として徴兵され、このときに枯葉剤に曝露したことが原因で白血病を発症し、2024年末に82歳で亡くなりました。彼女のジェンダーについての考え方はこの軍隊での経験から来ています。ガーナーは「軍が何をするかというと、まだ未熟な思春期の、感化されやすい若者たちを連れてくるのです。彼らのテストステロンを取り上げ、それを武器に変えるのです。アイデンティティを剥奪されます。軍の考え方は、あらゆる性的な気晴らしを取り除き、テストステロンを武器として機能させることに集中させることです[6]」と述べています。現在進行中の戦争も、もちろんこのようにジェンダー化された側面があります。戦争は、国家というナショナルな枠組みに性と身体の主導権を握られた状態でもあるのです。
ピッパ・ガーナーは「自分の体は芸術であり、資源であり、物だと思っています[7]」、「物として扱われるのは悪いことだと思われているけれど、私はそれが好きなんです[8]」と述べています。ガーナーにとって「自らの身体を物として扱う」ということは、決して投げやりな意味ではなくて、むしろ、自分の生の、あるいは性と身体の、ハンドルをにぎることについての言及とも考えられます。そうすると、はじめはとんでもないことのように感じられた「ジェンダー・ハッキング」が消費と戦争の時代を生きぬくための切実な技術にも思えてこないでしょうか。
ピッパ・ガーナーのユーモアは、「くだらねぇ!」と笑わせつつ、身体や性、欲望といったものを、論争の主題ではなく、自分にしかわからないものとして感じ直すきっかけを与えてくれます。「わからなさ」に敬意を払い、他人の内側にある感覚や違和感を勝手に測らないこと。社会や制度が当然のものとして押しつけてくる「正しさ」に抗い、自分の身体をめぐる主導権を手放さない意思が、彼女の作るすべての「物」たちには刻まれているのです。
