オタク文化の可能性――「男性性」を肯定し、誇るためのロールモデル
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傷を負った者の文化──「敗者の文化」としての戦後オタク文化
前回までに、二〇世紀の惨劇こそが、「男性性」と核戦争や大量虐殺とファシズムを結びつけ、男性性に対する極めてネガティヴなイメージを形成したことを確認した。そのような男性性への「傷」「汚点」を踏まえた上で、「男性性」「男らしさ」を回復し擁護しながら、「新しい男性性」を構築していくことが私たちには必要である。そのために、現代日本のオタク文化の可能性を検討するのが、今回の内容である。ここで言う「オタク文化」とは、戦後日本のサブカルチャーのことを指し、第二回、第三回で確認したような集団や個人に関わるアイデンティティとしての「オタク」とは、重なりつつも異なるものであることは、最初に確認しておく。
さて、オタク文化は、「敗者の文化」である。何を「オタク文化」と定義するのかは難しいが、たとえば特撮文化をオタク文化の源流に置くのは異論はないだろう。特撮文化は紛れもなく「敗者の文化」であった。第二次世界大戦中にプロパガンダ映画を作り公職追放された円谷英二がその技術を投入して作った『ゴジラ』(1954)『モスラ』(1961)などは言うまでもないし、『ウルトラマン』(1966-67)にも敗戦の屈辱とルサンチマンが色濃い。『ウルトラマン』が参照した戦後のプロレスも、アメリカはじめ外国に負けた恨みを、力道山などの日本人役のレスラーが外国人レスラーを叩きのめすことで「スカッと」させる、反実仮想的な代償による満足を与えるエンターテインメントだった。
第一次アニメブームを起こした『宇宙戦艦ヤマト』(1974-75)も、第二次世界大戦で沈んだ日本の戦艦であるヤマトを蘇らせ、ナチスドイツを思わせる敵と戦いながら、放射線汚染の起こっている地球を救うという物語だった。『ヤマト』に影響を与えたと思しき架空戦記というジャンルの中でも、現実の歴史の敗北を反転させ、仮想的な勝利と優越感を得る類の作品はとても多かった。オタク文化が「敗者の文化」であるとは、その起源に第二次世界大戦の敗戦が存在し、占領と復興の時期における様々なアイデンティティの捩じれに心理的に対応していったジャンルである、という意味である(スーザン・ネイピア『現代日本のアニメ』および、巽孝之『Full Metal Apache』など参照)。
それは「勝者」の文化とは異なる傾向を持ってきた。たとえば『宇宙戦艦ヤマト』では、メインキャラクターの乗組員たちが次々と死んでいき全滅しかけたり、圧倒的に勝てない敵に特攻しようとする場面が現れる(『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』1978)。それはアニメだけでなく、『ヤマト』の監督の一人である舛田利雄の実写映画も、戦闘の結果味方が大量に死ぬような陰惨な内容が多い(『あゝひめゆりの塔』1968、『二百三高地』1980、『大日本帝国』1982など)。
原爆投下を思わせるシーンも、日本のオタク文化の中にはくり返し現れる(『風の谷のナウシカ』の巨神兵、『AKIRA』の爆発、『新世紀エヴァンゲリオン』の「〇〇インパクト」、音楽などにおける「世界の終わり」など)。くり返し破壊される都市(ゴジラシリーズ、ウルトラマンシリーズ)は、敗戦の光景のトラウマ的な反復であり、アニメや特撮は、それらを遊びの中でコントロール可能なものにしようという無意識的な試みであると解釈されてきた。「神の国」ではなくなり、アメリカ化し「科学技術立国化」したことによるアイデンティティ喪失と変容に対する悲鳴もSF作品の中で大量に寓意的に登場してきた(小松左京『日本アパッチ族』1964)。漫画とアニメの『はだしのゲン』では原爆の陰惨さをこれでもかと描き、主人公の家族や仲間がひたすら死んでいく内容が展開した。
つまり、戦いに勝利し、自身のアイデンティティや、戦闘に伴う「男性性」を屈託なく肯定できた戦勝国と異なり、戦後日本の「男性性」は、敗戦により当初から屈託を抱えているのである(パールハーバーの博物館などを見るとノリが全然違うことが分かる)。明らかに女性的な性格なのに「父」「男性性」にこだわった江藤淳などの保守派の議論も、この敗戦と占領に対する屈託に関わっている。だからこそ、男性性を取り戻すために核武装、という類型の議論も出てきた。
筆者がここで展開しようと思うのは、この「敗者の文化」、傷を負った者の文化であることに、新しい男性性を構築していくための積極的な可能性を見ようという議論である。
「男らしさ」の仮想的回復か、「男らしくなさ」の受容か
第九回で述べたように、傷を負ったからこそ、その傷を与えた加害者に同一化し、その苦しみから逃れようとする心理的な適応の方法論がある。
横山光輝『鉄人28号』の鉄人は、大日本帝国の超兵器という設定だった。科学技術の圧倒的な力によって敗北した日本が、科学の力で「強い側」になりたいという願望を本作には感じる。アニメなどでは、そのような「強い者」になって戦い勝利するという物語が多い。ロボットものなどの魅力の基調はそこにあるだろう。科学の力で「強さ」を獲得したいというのは、復興期の日本人の切なる願いをも感じさせる。
そのような、疑似的に「男らしさ」=強さ・科学を回復させる願望充足作品がある一方、「男らしくない」男性主人公を描く物語も数多く存在している。たとえば『機動戦士Ζガンダム』(1985-86)の主人公カミーユは、男性だが女性の名前を付けられており、ガンダムのパイロットとして戦争の中で優れた戦果を挙げるが、心を病んでいき、戦いそれ自体が全て無くなることを願う。「男らしく」ないのだ。その影響を受けた庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公シンジも、戦いと競争に倦み疲れている。作中には「男の戦い」と題されたエピソードがあり、父に反抗した瞬間に鎮圧されるので、そのような「男性性」が去勢され不能になっている状態を作り手は意識していただろうと思う。
1995年は、インターネット元年であったが、「新時代の日本的経営」などで非正規雇用化が進み、バブル崩壊以降の長期的不況も始まり、男の子たちが「一人前」の人間になるための回路が次々と閉ざされていった。終身雇用で就職し一軒家を買い家庭を持つ、というような「普通の」人生として思い描かれるライフコースが、いきなり極めて難易度の高い、競争しなければ手に入らないものに変わってしまったのだ。かつてはそう思われていなかった『サザエさん』一家や、『クレヨンしんちゃん』一家が、今では手が届かない羨望の対象に思われていることが、その変化を分かりやすく示すだろう。
『エヴァ』に起因する第三次アニメブーム以降、美少女や「萌え」が一般化し、メカや技術や科学などの主題が後景化していった。それは、戦後の科学技術立国化と結びついていた高度成長、その延長線上にあるバブルが崩壊し、男性が「男になる」「一人前になる」回路が閉ざされ、傷を負った男たちが増えていったことと相関しているように思う。ゼロ年代に隆盛したKeyやLeafの美少女ゲームでは、心に傷を負った美少女たちが登場し、彼らのトラウマを癒すという物語類型が広範に描かれた。それは、家父長になる欲望を現実で断念した男たちの代償であると分析されることもあったが(宇野常寛の「レイプ・ファンタジー」など)、筆者はそうではなく、男性がその傷を負った美少女にも主体を同一化させ自身を仮想的に救い癒そうとする複雑な構造があったと解釈している。
今や「国民的作家」となった新海誠の作品でも、男性たちは「男らしく」ない。映画としてのデビュー作に相当する『ほしのこえ』(2002)でも、ロボットに乗って戦争に行くのは女性で、主人公の男性は地球でうじうじしている。この時期のライトノベルでも、主人公は「やれやれ系」と揶揄される、学習性無力感を持ち、行動できないようなタイプが非常に多かった。
新海誠の、当時における日本映画の歴代興行成績第二位となる大ヒット作『君の名は。』(2016)は、男女の身体が入れ替わる内容だが、オーストラリアで筆者が新海誠についての発表をした際、クィア当事者の院生が「日本アニメはクィアだ」と話しかけてきて、「そう見えているんだな」と驚いた記憶がある(彼はそれこそ新海誠やセーラームーンについて発表していた)。
新海誠が大きな影響を受けた宮﨑駿の作品も、見返してみると、クィア的と言うか、両性具有的である。科学や戦闘に強く政治的なリーダーでありながら、生命に対する慈しみや共感や母性を持つナウシカ。戦争で戦闘に従事しながら、泣き虫で見た目の美しさにこだわり弱虫であるハウルなどの人物は、両性具有的ではないか。「傷」を負うことはジェンダーに「女性」を刻印されジェンダーが混乱する、という宮地尚子の見解を既に第九回で紹介しているが、この日本アニメのクィアネスを考えるとき、それが第二次世界大戦などの「傷」を起点に創造性を発展させた文化だからだと解釈したくなる。
戦後日本のオタク文化における優れた作家は、このような「傷」を扱い、かつ、両性具有的な傾向があるように感じる。『ゲーム作家 小島秀夫論』で詳述した、芸術選奨文部科学大臣賞を史上二人目に受賞したゲーム作家である小島秀夫も、傷に共感しケア的に赤ん坊を育てる男性主人公を、ゲームという競争や支配という「男性性」を仮想的に満たすジャンルの中で描いていた(『DEATH STRANDING』)。そして、宮﨑も小島も、その傷を引き受けた上で、反戦反核のメッセージを発している。
傷を受けた者が、過度に男性性や支配性や攻撃性を発揮し、虚しさや無力感などから逃れようとする方向がある。トラウマに対するコーピングとして一時的に必要なのは分かるが、それへの依存や嗜癖になっていくことは、中長期的に心身を蝕み、自他を悲惨な方向に導きかねない。そうであるならば、傷を直視し、少しずつ受容し、それを創造的な方向に向けていくような「トラウマ後成長」に向かう方向がありうる。戦後日本のオタク文化には、そのようなレリジエンスを体現しているような系譜があるように思う。
そのような作り手たちを「国民的作家」にしてきたのが戦後日本であり、その作品が世界に高く評価されている。オタク文化の中には、批判される側面もあるが、このような系譜もまた存在しており、筆者は、高く評価されるべきはこの系譜ではないかと思う。これらの作品群は、「男性」たちが「新しい男性性」を構築し、男性性を肯定し誇り、自尊心を回復するために有用なロールモデルを提供しているのではないかと思われる。
傷つきから、加害性に向かうのを抑制するということ
戦後すぐの、「日本人」である力道山が外国人レスラーをやっつけ、それに感情移入することで、現実の敗戦の心理的な代償を得たように、敗北した者が仮想的に勝者になることで、心理的な埋め合わせをするフィクションもある。婚約を破棄されたり愛さないと告げられた女性が溺愛されるタイプのフィクションには、その心理を強く感じる。ゲームの中などで「無双」するのもそうだろうし、現実で冴えない人生だった者がトラックに轢かれて異世界転生した先で活躍し尊敬されモテモテになるというのも、その類だろう。現実では得られないものをフィクションの中で代償的に手に入れているのである。
これは、かつてオタク文化が戦争の傷を中心としていたが、今は日常と化した戦争、学校やSNSや対人関係における「戦場」のトラウマに対応するように変化してきたと解釈しうる(★1)。
第九回で「男性の(性)被害」を扱う中で、傷つきの後遺症として、過剰に男らしさや支配や暴力など、加害者側の内面や言動を取り入れてしまうパターンがあることを述べた。暴力的な虐待を受けた者なら暴力で支配するというパターンである。コミュニケーションにおけるカースト、仲間外れ、疎外、侮蔑などをくり返し受けた者の中に、そのような加害者側の価値観を内面化する者も出てくるだろう。これが、自分を苦しめるような男社会や家父長制や男性性、競争や支配などに、降りた方が楽になる者たちが固執してしまうメカニズムの一因であろうと思う。
私たちは既に第六回の議論で、虐待やイジメによる傷つきの累積の結果、成果を出し偉業を達成するということで傷を乗り越えたイーロン・マスクという事例を扱った。彼の場合は、支配的で暴力的に虐待していた父を内面化し、過酷な「独裁」を敷くようになった。仮にどんなに社会的に成功し達成しても、彼の中に刻み込まれた「インセル」性は消えていないように見える。彼はまさに覇権的男性性と従属的男性性のハイブリッドであった。そして、過剰な「有害な男性性」の方向に向かっているように見える。「男性性」の追求は、無限に達成されることがないのだ。
しかし、そうではない道もある。自らが受けた傷を見つめ、アイデンティティの混乱や、無力感、脆弱性などを開示し、認め合い、癒しと和解に向かう道もあるのではないか。それは、宮﨑駿や新海誠や小島秀夫ら、世界で高く評価されている日本のオタク文化の担い手たちが示している道である(★2)。
傷を受けた。その屈辱や無力感は確かにある。それを仮想的に逆転させて心を守ることも時には必要である。しかし、加害者と同じことを繰り返してはならない。その衝動、報復心は抑えなくてはならない。
宮﨑駿は『もののけ姫』で、自身に原因がない理由で死に至る呪いを受け追放されたアシタカを主人公にし、彼が憎悪や報復心をなんとか抑え込み、不毛な戦争を行っている集団の両方に介入し止めようとする物語を描いた。「コントロール出来なくなってしまった憎悪をどうやったらコントロール出来るかっていうテーマがあるんです。(中略)課題は、サンの人間に対する憎しみをアシタカの愛情で和らげることが出来るだろうかということでした」(宮﨑駿『折り返し点』p99)。「それは今の日本の子供たちが、自分の内に潜んでいる暴力にとまどっているのと同じです。なぜ自分たちにいらだち、人を憎み、友人が出来なかったりするんだろうというふうにね」(『折り返し点』p108)「『さかしらにわずかな不幸を棚に上げ』ってエボシに言わせたくなってしまうんですけどね。私はおまえさんの知らないくらいひどい目に遭ってるんだ、っていうことはいくらでもあると思うんだけど、でもその憎しみとか憎悪とかっていうのは、それを掻き立てると、再生産すると、相手側にも同じ憎悪を必ず作り出すんです」(宮﨑駿『風の帰る場所』p164-165)
傷を受けたことにより、相手と同じになろうとすることは、たとえば戦後日本であれば、核武装し、原爆を他の都市に投下し空襲で焼き払うようなことになるだろう。だが、その先に待っているのは、人類の破滅ではないのだろうか。「男性性」に極めてネガティヴな印象が付いた理由として、第二次世界大戦を挙げてきた。機械的な殺戮、核兵器、虐殺、性暴力、ファシズムなどの中で、「男性性」には極めて深刻な傷がついた。六〇年代のカウンターカルチャーはそれへの反動だった。「科学」「資本主義」「論理」なども男性性と結びつけられ、極めてネガティヴなイメージがついた。原爆やアウシュビッツ、様々な虐殺や性暴力を鑑みれば、それも仕方のないことであり、フェミニズムの中にある、平和やエコロジーを「女性性」と結びつけるイメージもその陰画として展開した部分があるのだろう。
前回確認した通り、男性性を擁護し回復するためには、戦争や核兵器や虐殺や性暴力などを否定する必要がある。それらと結びついた男性性は、意気消沈させるネガティヴなものになってしまうだろう。だから、その鬱と無力感と罪悪感から逃れるために、否認の誘惑に心理的に駆られやすくなる。それは、いけない。我々は、第二次世界大戦で人類が行った、気が滅入り人類そのものを肯定できなくなるぐらいの意気消沈を深く経験し、様々な加害の歴史を潜り抜けた上で、浮上するように男性性を肯定する道を探さなくてはならない。男性性や性欲それ自体を喜びとして誇れるようにするためには、戦争、搾取、暴力、支配などを批判するような男性性でなければならないだろう。ファシズムや兵器の破壊などに「力」「支配」の代理満足を感じるのではない、真に平和を志向するような、ケア的=女性的な性質をも併せ持つ、両性具有的な男性性になるのが望ましいのではないか。
第四次フェミニズムに大きな影響を与えたジュディス・バトラーは、『戦争の枠組』の中で、民族や国家のアイデンティティを確固たるものにするのではなく、揺らがせることで9・11で「傷」を受けたアメリカが、「戦争」時に認知を単純化することに抗おうとした。それは『ジェンダー・トラブル』で、ジェンダーの流動性や境界の曖昧さを謳ったことの延長線上にあるだろう。詳しくは『宮﨑駿の「罪」と「祈り」』の中で論じたが、宮﨑は自身の経歴とトラウマを投影した人物を初期作で美少女として描いていた。宮﨑作品にはジェンダーの流動性があり、『もののけ姫』では「敵味方」の二項対立も解体しているが、これはバトラーの理論と通じる部分がある。
フェミニズムや女性からの被害者意識と報復心によりアンチフェミニズム・インセル的な言動をする有害な道ではなく、過度なナショナリズムや民族主義で排外主義の暴力に向かうのではない、和解と協調に向かうより高い道を歩めないだろうか。それは、「傷」を起点にする日本のオタク文化の両性具有性の延長線上にあるように思われる。そこには、人類を破滅と絶滅から救う、新しい「ヒーロー」の姿すらあるのではないだろうか。
もうひとつの、ロールモデルを示そう。富野由悠季は『機動戦士Ζガンダム A New Translation』シリーズで、かつて「Z」で結末で精神崩壊させてしまったカミーユを元気に生き残らせ、前向きなエンディングに描き直している。カミーユはニュータイプであり、人類の進化の希望を託した存在であった。彼は、既に述べたように、女性の名前が冠されている。彼は、戦士として高い能力を持ち戦争で敵を倒す「男性性」を持っているが、戦争の敵にまで共感し同情し、敵のフォウ・ムラサメと深く心を通じ合わせ、死者たちと繋がりを持ち、戦争を嫌悪し、隣人を大事にする存在として描かれており、「女性的」な性格を持っている。富野は彼のことを設定上「史上最高のニュータイプ」であると述べている。これは、第二次アニメブームの中心となった『ガンダム』の監督からのメッセージであり、エンパワメントだと受け取るべきだろう。このような両性具有性こそが、戦後日本のオタク文化が示す、「新しい男性性」のひとつのロールモデルたりうるのではないだろうか。
解離と「鎧」を乗り越えるために
既に、男性性と解離の話は述べた。傷を受けた心は、自身の脆弱性や辛さを抑え込むために、過度に「強さ」「理性」などが強まった状態になる。それは心の自然な防衛である。その防衛こそが、「弱さ」を認めることを阻み(無意識に強い恐怖が生じてしまい)、感情を無視し続けることが、対人関係や親密な関係を築くことに困難を生み出してしまう。それは、本人の責任ではなく、傷が原因であり、同情されるべきことであり、生き残るために仕方のなかったことである。だが、その適応が、悲しいことに、逆に自他を苦しめてしまうことがある。
『機動戦士ガンダム』や『宇宙刑事シャリバン』など、身体を機械や金属で覆って強くなる作品が、戦後日本では作られ続けてきた。それは男性が成長の過程で纏う「鎧」の象徴でもある。「科学」とは、戦中戦後の文脈では、日本に原爆を落とし、物量で勝利したアメリカのニュアンスがあった。『仮面ライダー』も、改造人間に主人公がなるのは敵によってである。1970年の大阪万博や『ウルトラマン』は、その科学≒アメリカ化を積極的に肯定しようとする作品であった。ある意味でこれも、傷を負わせた相手の要素を取り入れ強くなろうとする心理的防衛だと考えられる。
それが必要なときもあった。そのことを認めた上で、鎧や殻の内側の弱い心をしっかりと見つめる必要があるのではないか。宮﨑の『ハウルの動く城』の中で、愛する者を守るために必死に戦争に従事し心が闇に染まっていく主人公ハウルに対し、ソフィーは「あの人は弱虫がいいの」と述べるのがクライマックスだが、それは誰かを守ったり何かを達成するための戦いが心を蝕み、守るはずのものを脅かす存在になりがちな男性性への批評である。
映画やアニメやゲームなどのキャラクターに感情移入しているとき、アイドルやスポーツで「推し」を応援しているとき、解離のような状態になり、投影的同一視が起こっているように感じる。そこでは本当の自分自身が忘却され、理想の対象と同一化することで、現実の弱さや問題が否認される。ゲームで「無双」しているときもそうだろう。インターネットでインセル的な「イキり」が起こりやすいのも、インターフェイスがゲームみたいであるし、なりたい人間に仮想的になれる場だからだ。
しかし、ネットは、マジックサークルで現実と切り離されたフィクションの空間ではなく、現実の延長線上にあるソーシャルであるから、他者が存在し、仮想的な万能感や理想的な自己像を維持するのは困難になってしまう。そこにおける他者と自分の間の摩擦は、理想と現実のギャップへの直面を意味し、抑え込んでいるものが大きく防衛が強ければ強いほど、他者が自身を脅かす脅威だと心理的に錯誤しやすくなる。
だが、それを止め、傷つきを認め、見つめ、弱さを見つめ、鎧を脱ぐ必要がある。そのことで、他者と自分の間に、傷に対する共感を発生させ、心を開いていくことを通じて、癒し、社会や他者とつながっていくことの先に、自他が救われるより良い道があるのではないか。そのような道の先にこそ、戦争や軍拡競争、競争社会から来る過酷な労働と淘汰の恐怖と不安、環境破壊から絶滅の危機、支配と暴力、という悪循環から抜け出し、別種の人類のあり方に向かう鍵があるのではないか。
新海誠と村上春樹──男らしくない男たち
少しばかり、文学とアニメやゲームなどを横断し、「男らしくない男」の系譜を確認してみよう。たとえば、新海誠の作品の主人公や、ゼロ年代のライトノベルの「やれやれ」系などと揶揄される主人公は、村上春樹の影響を大きく受けていた。
村上春樹作品には、そのデビュー作でカート・ヴォネガットを参照していたことから分かるように、「トラウマ」の後遺症的な文学という側面がある(★3)。彼の描く男主人公が内向的で読書や趣味や恋愛や性愛にこだわっているのは、1960年代から70年代にかけて暴力的な政治闘争こそが「男らしさ」であった時代に対するカウンターであった。あの時代の文脈では、彼は「男らしくない」人物である(最近は、春樹の主人公の性愛がフェミニズム的に問題にされる傾向が多いが、それもそれで分かる。それは、性愛による癒しではなく傷つきという主題系が春樹には乏しいからだろう)。春樹がこのような作風に至った背景には、1972年に起こった連合赤軍によるリンチ殺人事件、および、早稲田大学学内で起こった川口大三郎のリンチ殺人の影響が指摘されている。
大ベストセラーになった『ノルウェイの森』は、主人公が愛する人を失ったことへの記憶のフラッシュバックから始まり、友人の自殺などで心に傷を負った二人が交流する物語である。KeyやLeafの美少女ゲーム、麻枝准の作品などは、その大きな影響下にある。それらは、心に傷を負った者たちが傷に共鳴し癒そうとするが、傷に由来する対人関係や距離感の不安定さで失敗してしまう悲しさや切なさそれ自体が構造化されているような作品が多かった。村上春樹は、「内向の世代」と呼ばれた文学者たちの系譜を意識した作家である。文学の世界に目を向ければ、必ずしもマッチョな男たちばかりではないことはすぐに分かる。平安時代の短歌などを見てもそうだろう。
春樹のその後の作品、『ねじまき鳥クロニクル』や『騎士団長殺し』などでは、阪神淡路大震災、第二次世界大戦、東日本大震災などと、災厄の「傷」が隠喩的寓話的に複雑な心理的なネットワークを織り成している。これは、90年代以降のグローバルな世界において、アウシュビッツや性暴力、虐殺などの惨禍が、国や民族を超えた共感と刺激のネットワークを織り成し、「記憶空間」を形作っていったことと似ている。東日本大震災の「傷」を描く新海誠の『すずめの戸締まり』がベルリン国際映画祭のコンペに選ばれた際の中継を観ていたら、ウクライナの記者などが戦争の惨禍と重ねて理解している様子が見えたが、それも同じことだろう。林志弦が『犠牲者意識ナショナリズム』で問題提起するように「傷」を使った共感の連帯は、閉じたアイデンティティ集団を形成しそこに病的な心理が発生したり政治的に利用されたりもする。だが、そのような「輪郭」「枠組」を超えた世界的な連帯の共同性を作る可能性がここには確実にある。このような作家たちがベストセラーになり、「国民的作家」であることの意味は軽くない。
トラウマを負った者は、その記憶も歪む。隠喩や寓意でしかそれを語れないこともある。否認も防衛も、変形も起こる。解離や抑圧も起こる。それらの全てを含めて、共感し受容するような、複雑な共感のネットワークが存在し得るのではないか。戦争や性暴力、貧困や屈辱、不安なども含めた、この世界の惨劇や苦痛に、民族や国家やジェンダーの「枠組」「アイデンティティ」を超えた共感のネットワークが形成されることで、世界を良い方に導く可能性はあるはずなのである。戦争、差別、暴力、貧困、孤独などの傷に共鳴することで、枠組を超えた共同性と共感のネットワークによる、新たな共同性が発生させられ得るはずなのだ。
滅びゆき、失われゆくアイデンティティの葛藤
戦後日本のオタク文化を参照するのは、それが「滅びゆくもの」「時代遅れになるもの」への固執と、敗戦などによるアメリカ化などにより「新しくならざるを得ないこと」の複雑な葛藤を構造化した作品の多いジャンルだからだ。
男性性への固執は、産業構造の転換などで、これまでの「男性性」に有用性と必要性がなくなっていくことによって生まれていると、これまで論じてきた。かつて信じた信念やアイデンティティを失う経験を、かつて「神の国」だった大日本帝国からアメリカ占領から民主主義国家に生まれ変わる際に、日本は経験してきた。
『仮面ライダー』や魔法少女ものにある「変身」は、科学技術や西洋的な価値観やライフスタイルに変化してきた戦後日本の転換の寓意と考えられてきた。失われゆく古い価値観への、否定と愛着の入り混じりも、『ゴジラ』をはじめとする本田猪四郎作品、『ウルトラQ』、宮﨑駿作品などでくり返し描かれ、滅びゆくそれを映画やアニメの中に移し替え生き残らせる試みが起こってきた。
既に述べたが、『ウルトラマン』、大阪万博、『攻殻機動隊』などでは、新しく生まれ変わっていく日本をポジティヴに肯定しようという意志が体現されていた。総じて戦後日本の大衆文化、オタク文化の中には、そのような愛着を抱いたものや生き方が変化していくときの心理的・社会的ジレンマの葛藤が含まれており、どのように敗北と変化を受容するのかという心理的なモデルを提供しようとしてきた側面がある。
喪われていくもの、滅びゆくものを芸術で描き、昇華する文化は、それこそ六五〇年以上続く能や、『平家物語』などの文学作品でも行ってきたことだった。『宇宙戦艦ヤマト』などは、滅びゆくものを哀悼しアニメの形で蘇らせつつ、戦後民主主義的な価値観と折衷しようという、過去と未来が複雑に混じり合ったSFであった。単純に過去に戻ることは出来ないが、単純に進歩を良しとはしない。そのような複雑なジレンマを構造化した作品の系譜こそが、世界に受容されそのユニークさに共感を生んでいる日本アニメの力であり、戦後日本が誇るべき文化であろう。
世界的に、失われた過去への回帰願望が高まり、自民族や国家中心主義的な思想がポピュリズム的に勢いを増している。そう思わざるを得ない心境や苦境には共感するし、おそらくグローバル資本主義・新自由主義に内在する様々な矛盾や問題は確かにあるのだろう。しかし、それを排外主義や女性やリベラルやフェミニズムの責任に転嫁しても、単なるスケープゴートの政治であり、事態は改善するどころか悪化し続けるだろう。
保守的な男性性への回帰願望も、おそらくは同じなのであろう。変化を厭うのは人間の自然であり、愛着を持った色々なものが喪われていくのは辛いことである。しかし、産業構造の転換やグローバル資本主義の強制力により、受け入れざるを得ないこともある。それは無念なことではある。ただし、過去に回帰することはおそらくは不可能なことなのである。科学や技術、価値観や思想などには、逆進性のある部分があり、戻ることの出来ない部分が多いのだ。保守や回帰の思想すら、ネットで流布し、そのネットは電気で動いているが、電気の普及は1880年代頃から始まったものであり、それ以前には今のように普及してはいなかった。それ以前に戻りたいだろうか? ジョン・ヴァーリィの『スチール・ビーチ』が描いたように、私たちは、魚が海から陸に上がったように、科学技術による鋼鉄の浜辺に打ち上げられ、その上に適応し進化していくことを迫られているのである。そこでは、性愛も家族も死生観もナショナリズムも民族主義も当然これまで通りのものであることはありえない。そのように見えるものも、基本的には鋼鉄の浜辺の上に出てくる、フェイクの幻のようなものである。
だから、単純に戻るのでも進むのでもない、複雑な道がありうるのだと考える必要があるし、その道を探るしかないのだろう。鋼鉄の浜辺の上に、これまでにあった大事なものを移し替え、形を変えながら、重要なエッセンスを活かし続けることに賭ける、ということ。おそらく『ゴジラ』や宮﨑駿、新海誠、『攻殻機動隊』の士郎正宗らがやろうとしてきたことは、そういうことなのだろうと思われる。そしてそれこそが日本が誇り、世界が評価する文化となっているということを、我々は受け継ぐべきである。
加害と被害のねじれを引き受けるということ
改めて、男性性を、自分自身を肯定し、誇り、互いの自由意志と歓びを持って男性性・女性性の誇示をも楽しみ、性や愛を歓びを伴った肯定的なものと寿ぐためには、その負の面をどうしても除去する努力が必要だろう。それ抜きに、負の側面も含めた男性性を全肯定することは困難である。同時に、男性性の美質や利点――強さ、守ろうとすること、努力すること、現実と対峙すること、論理的で公正であろうとすること――を否定し全てを原罪とするのも間違っている。仮に男性から受けた被害やトラウマの結果であろうと、そのような本質主義的なミサンドリーは批判されてしかるべきである。
我々のアイデンティティには、すでに傷が付いている。自分たちは神に選ばれた民ではないし、世界で一番強くもなく、科学技術によって明るい未来や無限の発展や拡大を出来るような存在でもない。地球の有限性や科学の破壊性などを思い知ってしまっている。文化や芸術や詩もアウシュビッツを防ぐことは出来なかった。愛と平和(ラブ&ピース)を謳ったカウンターカルチャーも、集団自殺や殺人事件、麻薬による狂気などに帰結していった。「男性」であれ「日本人」であれなんであれ、我々のアイデンティティには既に大きな傷が付いている。
それは、被害を受けたということだけでもない。戦時中の日本には、アジア諸国での「加害」という非常に大きな罪も存在している。それらを否認するわけにはいかない。男性性に原罪を付すのには反対だが、しかし、集団的アイデンティティにおけるネガティヴな点を否認し自身を聖化するわけにもいかない。第九回などで触れたように、加害に至った原因に被害者性があるのだとしても、それでもその加害や暴力を見つめ、抑制し減らす努力が必要だ(★4)。
宮﨑駿は、『風立ちぬ』で、大日本帝国が行った重慶における民間人の無差別殺傷を描こうとしており、アジア各国に対する「罪」の意識も深い。四歳の時に宇都宮で受けた空襲のトラウマを語る「被害者」でもある彼が、加害と被害の複雑に捩じれたアイデンティティの中で、自由や解放、希望を求めて創造した結果が、世界に高く評価され尊敬を得ているという事実、そしてそのことがオタク文化や日本の地位を挙げ、そのことが自尊心の高揚に繋がっていることを、深く見つめるべきである。それは、加害性の否認や、国や民族への固執や排外主義、男女を本質主義的に対立させることとは、正反対ではないだろうか。
『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの映画、『ヤマトよ永遠に』(1980)の結末部近くに、こんな展開がある。敵の星を、新波動砲によって愛する姪ごと吹き飛ばしてしまった主人公の古代は、その罪に慄く。「人間は、いつになったら血を流さずに幸せになれるんでしようね……サーシャも救えなかった。残ったのは、俺の血にまみれた手だけだ」と古代は嘆く。そこに、死んだ姪であるサーシャの霊が呼びかける。「あなたは今、自分の罪を知っていらっしゃる。血を流すことの恐ろしさを感じていらっしゃる。その思いは、すこしずつ積み重なって、今はだめでも、きっといつか、命を大切にできる人類を作りあげるでしょう」。
男性性を、改めて誇り、肯定するために
かつて大江健三郎は、ノーベル文学賞の受賞講演「あいまいな日本の私」で、このように述べた。「二十世紀がテクノロジーと交通の怪物的な発展のうちに積み重ねた被害を、できるものなら、ひ弱い私みずからの身を以て、鈍痛で受けとめ、とくの世界の周縁にある者として、そこから展望しうる、人類の全体の癒しと和解に、どのようなディーセントかつユマニスト的な貢献がなしうるものかを、探りたいとねがっているのです」(p17)。
現在も、グローバル資本主義の中で、格差は拡大し、人々の自尊心はずたずたになり、社会や共同体は新自由主義によって切り裂かれている。SNSというテクノロジーにより、フェイクニュースや陰謀論、ヘイトが蔓延し、本質主義的なアイデンティティ政治が暴力的な罵倒や攻撃を日々くり返し政治に影響する事態になっている。この壊滅的な状況に対する、「癒しと和解」を齎すことが必要なのではないか。
『加害と被害のフェミニズム』所収のチョン・ヒジン論考によると、本来は普遍的にマイノリティや弱者に連帯するはずのフェミニズムは、新自由主義により、人を押しのけて自分たちだけの利益を求めるように変わった。同様の構図は白人至上主義や弱者男性論壇にもある。過激なミサンドリーを持つフェミニストが暴君的な父親や夫、恋愛での傷つきのトラウマを持っていることもあるし、既に連載の中で触れてきたように、アンチフェミニズムやインセル的な発言を繰り返す者の中に、母親や女性からの暴力や虐待を受けていた者も観察される。筆者も、暴君的な父の家父長制的な態度に対するトラウマにより、男性性の問題を考えたり、フェミニズムに賛同している部分もある。
だが、「傷」により、フラッシュバックで、ある「属性」を敵と見なし、「自分たち」の利益を得ようというゼロサム思考に陥ってしまっては、「被害者意識ナショナリズム」のジェンダー版のような隘路に陥るのだろう。そのような対立と分断、憎悪と報復の応酬の先にあるのは一体何なのだろうか。当初は争いなどなかったツチ族とフツ族がプロパガンダにより相互に憎悪し一〇〇万人近くが死んだルワンダ虐殺は、たった三〇年前の出来事である。このような結末に類似する事態になる可能性は高くないだろうか。そうであるならば、その悲劇が起きる前に、癒しと和解の道に進むことを考えてもいいのではないだろうか。
伝統やローカルな価値や文化が破壊されている。その痛みに共感することさえ可能であるならば、民族やジェンダーや国家の輪郭を超えた問題解決の道が見つかるはずではないのか。そして、気候変動や第三次世界大戦やファシズムによって未来に生じかねない未だ存在せぬ傷に共感することで、問題の解決に務めるようにならないだろうか。孤立し、自分(たち)だけのことを考えるのではなく、世界、未来などとつながり、「傷」による連帯から、「人類の全体の癒しと和解に、どのようなディーセントかつユマニスト的な貢献がなしうる」存在へとなりえないだろうか。オタク文化の影響を受けた人々には、そのようなポテンシャルがあるのではないだろうか。
日本のオタク文化の延長線上に、「傷」や「汚点」を受けてしまった、日本、オタク(文化)、男性性を、改めて誇り、回復し、肯定できるようになる道が、ある。過去に戻るのではなく、傷を否認して鎧で身を固めるのでもなく、傷を受け止め、「弱さ」を見つめる強さを持ち、共感を通じて新しい存在に変わっていき、生命を大事にし、隣人を愛する努力していくことこそが、フェミニズムでは救われない男性たちが、輝かしい栄光を手にし、尊敬を受けるための道なのではないだろうか。
■注
★1 斎藤環は『「自傷的自己愛」の精神分析』の「はじめに」を「インセルたちの犯罪」という節から始め、「非モテ」という自意識を持つ者や、ひきこもりなどに、自身を過剰に否定し罰する「自傷的自己愛」があると述べている。「自傷的自己愛」のメンタリティはインセルと共通点が多く、暗く陰鬱で自己否定的で悲観的なところがよく似ているだろう。彼らは自己肯定感が低い部分と、その自分のネガティヴさを自分では分かっているという確信における強い自己愛に二重化していると斎藤は言う。中には社会的な成功者もいるが、やはりそれでも自己否定感や自信のなさに悩まされていると言う。それは本連載で述べてきた「弱者男性」のあり方と似ているように思う。それは、客観的な貧困や障害などに限定されず、客観的には強者であってもそのような自己認識になってしまうものだった。
斎藤は、その原因を、様々な傷つきの累積ではないかと述べている。家庭における親からの否定や批判などの精神的虐待はその分かりやすい例だが、それ以外にも、イジメやハラスメント、それから学校におけるスクールカースト下位に置かれることを原因に挙げている。それらにより、「尊厳」が傷つけられ侵され続けた環境にある者が、「自傷的自己愛」になりやすいのだと分析している。
彼らには、分裂が生じやすい。プライドは高いが、自信はない、という状態になりやすいのだという。脆弱な自我が不安や無力感を感じやすいのだが、それを守る盾としてプライドが高くなる。おそらくそうなると優劣や上下へのこだわりが強くなることと、屈辱や侮蔑などへの過敏さが同時に発生するだろう。これは、ネットでの自称「弱者男性」たちとのやりとりで感じられる特徴と符合している。
現代の若者は仲間などからの「承認」が心理的に重要であり、であるからこそ批判に過敏になる傾向がある。その「承認欲求」が陰謀論につながるメカニズムを斎藤はこう分析する。「苦労して表の知識を学ぶよりも、すぐに理解できるマイナーな知によってマウントが取れる快感がそこにあります」「知的なコンプレックスを抱えていると、ウラの知識で一発逆転を狙いたくなる気持ちはまったく共感できます」(p145)「これがコミュニティに共有されると、そこに『仲間として承認される』という快感が加わります」(p146)
「陰キャ」が異性にモテるというフィクションについて、斎藤は「現実には起こりにくいと思われるこうしたストーリーに感情移入している人の中には自傷的自己愛者も少なくないと思われますが、そうだとすればやはり彼ら彼女らは、愛に絶望しつつも愛を断念し切れていないのではないでしょうか」(p212)と分析している。「自傷的自己愛」は、適切な対応で改善していくと斎藤は述べているが、本論が重視したいのは、おそらくは現代のオタク文化も、このような現実における様々な尊厳などの「傷」を負った者を癒したり救うためのフィクションという側面があるということである。
本論の文脈に即して言うならば、その自尊心や自己愛の傷を埋め合わせるために、自身が上に立ったり、マウンティングしたり、競う必要はなく、そのような傷を与える暴力やシステムそれ自体に抗し、他の傷を負った者たちと連帯していくような道こそが、望ましいのだろう。他者と繋がることで自身を癒したり、あるいは癒されることによって他者と繋がれる、そういう風になっていくことを願う。その方法論として、斎藤が挙げるオープンダイアローグも一つの手であるし、横道誠らが実践する当事者研究やピアカウンセリング、哲学対話なども有効であろう。
★2 前回のロックミュージシャンたちのところでも論じたが、生物学的な男性を、戦争・暴力・支配・環境破壊的なイメージで一枚岩的に考えることが錯誤であると感じるのは、実際の男性の中にこのような具体的な反証となる例がたくさん存在しているからである。
★3 余計な話をすると、筆者はヴォネガットが味方の連合軍にドレスデンで空爆された『スローターハウス5』を卒論の対象にしていた。その主人公は、その加害と被害のよじれのような、ブラックユーモアのような現実を理解できず、解離と否認の状態になり、現実がSF小説であるかのような妄想を抱くようになっていた。
★4 加藤典洋は、『敗戦後論』の中で、戦後日本における加害と被害のねじれについて言及し、そのような日本の分裂の克服を謳っている。「それが可能でないとしたら、侵略戦争を行い、敗れた国の国民であるわたし達に、ある種日本国民としての誇り、矜持が宿ることはない」(p58)と述べている。それをもじって言うならば、加害性を見つめ内省し抑制し、傷や弱さを直視する「強さ」を持つことがなければ、「加害性や暴力性をも持ち、傷を負ったジェンダーである男性たちに、男性としての誇り、矜持が宿ることはない」だろう。