フェミニズム恋愛論
何か・誰かを好きになることは、この世界への希望を持つことに似ている。ひとを好きになること=恋愛には、様々な可能性が秘められているにもかかわらず、恋愛はジェンダー的な下位に置かれていないだろうか? 恋愛にジェンダー平等の視点を取り入れることで、見渡しの良い社会像が見えてこないだろうか? ジェンダー平等な恋愛ははたして可能か? 恋愛をめぐる既存の慣習の何が問題なのか、社会学、心理学、文学、哲学などの成果を手がかりにしながら考えていく新連載。より親密な世界の構築のために。
第11回

女性を主人公とする感傷小説にみる恋愛とは何か(上)

2026.04.06
フェミニズム恋愛論
高橋幸
  • 感傷小説の女性主人公が経験した美的恋愛とはどのようなものか?

    相手の美しさに心打たれて恋が始まり、相手を見たり会ったりするたびに相手のいいところばかりが見えてきて、相手への称賛と好きという感情がどんどん高まる。これがスタンダールのいう情熱的な恋愛(l’amour-passion)であり、「虚栄心からなる恋愛」や「財産のための結婚」とは異なる純粋な愛である。

    これは、18世紀半ばに確立した美学的態度を基盤としているので、本エッセイではこれを「美的恋愛(aesthetic love)」と呼んで議論してきた(第4回)。恋愛におけるルッキズムの強まりという現在の問題を考えるためには、恋愛の原型となってきた「人間の美しさ」を称揚する(タイプ)の恋愛を丁寧に見ていく必要があるからである。

    今さらに深掘りしたいのは、そのセンチメンタルなあり方である。スタンダールの美的恋愛の特徴は、感受性を全開にして、相手の行動の一つ一つに意味を見出し、繊細に一喜一憂する感傷(センチメンタル)を主要な気分としていた。

    そこで、前回(第10回)は、感傷(センチメンタル)小説であり、スタンダールが参照した具体的な「恋愛」作品の一つと考えられるゲーテの『若きウェルテルの悩み』を読んでみた。そこには繊細な感情を細やかに描く感傷的で美しい一人称の物語が広がっている。それは本当にすばらしいのだが、美的モノ化と言わざるを得ない事態が起こってもいた。異性愛男性が女性を美しい存在として称揚する中で、その女性の話を聞きもらしたり、相手の書いたものの意図を捻じ曲げて理解した上でロマンティックな空想に耽ったりといった行動は、一般的な関係であれば失礼なことに当たる。にもかかわらず、この関係が恋愛関係であり、相手が女性である場合には、そのような行動こそが、相手を「愛している」ことを意味するものとしてコード化されている(そのような解釈枠組みが成り立って慣習化されていた)。これは、恋愛におけるルッキズムという問題の一例なのではなかろうか、というのが前回までのあらすじである。

    では、同時期の女性において、スタンダールが定式化したような「美的恋愛」はどのようなものとして経験されていたのだろうか? 女性主人公もまた、美的恋愛の中で、相手の美的モノ化や、現代語で言うところのルッキズムと批判されるようなふるまいをしていたのか。それとも、「美的恋愛」はそもそも異性愛男性のものであり、女性が経験した「恋愛」はそれとは異なるものとしてあったのだろうか。

    美的恋愛におけるジェンダー差を明らかにするため、今回は、女性を主人公とする感傷小説において、外見や「美しさ」がどのように言語化され意味づけられているのかを見てみよう。

    「上」(今回)では感傷小説とは何かについて、「下」(次回)で感傷小説における外見の意味について、考えていく。

    前回(第10回)の冒頭で、次は「どのような形であれば恋愛における外見コミュニケーションとして問題がないのか」を語りますと予告していた。だが、美的恋愛の問題性を明らかにするためには、恋愛小説や恋愛物語の構造の中で「外見の美しさ」がどのように意味づけられてきたのかを見ていく必要がある。「恋愛におけるルッキズムとは何か」を考えるには、文学の森に分け入り、先人の文学者が踏み固めた道を辿りながら、自分なりの探索をしてみる必要があるという決断に至った。そのため、ルッキズムについて本格的に考えるのは、第13回からになる。ご容赦いただけたら幸いである

    感傷小説(センチメンタル・ノベル)とは——友情への情熱的な信頼と期待

    ゲーテの『若きウェルテルの悩み』(第一版1774年, 第二版1787年)や、そのゲーテにインスピレーションを与えたルソーの『新エロイーズ』(1761年)は、一般的に感傷小説(sentimental novel/ novel of sensibility)と呼ばれるジャンルに属する。

    感傷小説は、18世紀中盤から後半のイングランド(すなわち産業革命のまっただなか!)で大流行した文学ジャンルであり、フランス語圏やドイツ語圏の文学にも影響を与え、その後のロマン主義文学に流れ込んだ。

    感傷小説は、性格の良さや他人への優しい気持ち、道徳的な美しさ(美徳, virtue)を備えた感受性豊かな主人公が、自分の素直な気持ちを友人や家族、恋人に宛てて書いた「手紙」からなる書簡体小説(多くの場合、作者によるフィクション)という形式を持つ。手紙には、その日に起こった出来事(誰が来て、何を喋ったかなど)や、自分の考え、気持ち、それらを踏まえた相手へのお願い(率直な感想やアドバイスをくれることなど)が、手紙の相手の情緒に訴えるような形で書かれている。

    とくに「友人(friend)」への信頼と期待が、感傷小説では重要な役割を果たした。友人とは「フレンドシップ(friendship)で結ばれた関係性のこと」でありフレンドシップはほぼ日本語の「友情」と訳せるものだが、この時期には家族に対しても、家族としての役割や義務感からではなく、それを超えた愛情やまごころからの気持ちを指し示す場合に、フレンドシップという語が使われた(☆1)

    18世紀は、それまでの中世封建制社会の道徳(秩序原理)となってきた垂直方向で働く封建領主への忠誠(loyalty)や神への愛(agape)に代わって、水平方向で働く世俗的な友愛(fraternity)や友情(friendship)、家族愛、親子愛、恋愛といった愛(love)が重視され実践が本格的に強まっていった時期である。これは、社会史研究や文学史研究、家族史研究などにおいて「感情革命」と呼ばれている(☆2)友人なら私のこの心をよくわかってくれるはず、という期待はとても高かったし(その実例を見たかったら、例えばルソーの『孤独な散歩者の夢想』をお勧めする。これは、友人への期待が裏切られて傷ついた人の文章であるが、ひるがえって友情への期待がいかに高くまた情熱的なものであったのかがよくわかるものとなっている)そのような信頼と期待をもって友人に接することこそが、道徳的に正しい態度として評価されるものでもあった。友情や仲間意識(fellowship)を持つことは、階級の違いによらない「人間性(humanity)」こそが「人間の価値」だとする理念の実践であったからである(☆3)

    このような友情への強い信頼を表明しながら進む主人公の物語は、主人公に共感し涙しながら読み進める読者を生み出し、センチメンタルで繊細な感情(fine feeling)を主人公や他の読者とともに経験することで、感情的な絆でつながった読者共同体を形成した。こうして感傷小説は、18世紀にベストセラーを次々と生み出す一大ジャンルとなっていく。

    この時期には、商業化された複製技術(当時は文字の大量印刷・出版を可能にする技術であった)が、毎朝新聞を読んでカフェで政治的な議論を交わす公衆(パブリック)や、もう少し娯楽色の強い読み物(感傷小説、秘密結社小説、ポルノ小説等)を読み耽る読書階級を形成した。ジェンダー別に異なる出版物(読み物)を読み始めるようになった時期でもある。

    感傷小説の始まり『パミラ』と『クラリッサ』

    感傷小説の始まりは、ロンドンの出版印刷業を営んでいたサミュエル・リチャードソンによる『パミラ、あるいは淑徳の報い』(1740年、以下『パミラ』と表記)および『クラリッサ、あるいは若き淑女の物語』(1748-49年、以下『クラリッサ』と表記)である(Fidler 1989)。文学史上有名になったのはルソーやゲーテだったが、彼らはこのリチャードソンの成功に触発されて、前述の作品を書いた。

    『パミラ』と『クラリッサ』はどちらも、ブルジョワ階級の女性(パミラは貧しいブルジョワ階級であり、クラリッサは裕福なブルジョワ階級である)が、貴族階級の男性の性的な横暴さに対して、女らしい美徳でもって「戦う」物語である。

    様々な困難が降りかかるために、繊細な主人公は苦しみ涙するのだが、道徳的に正しいこと」に対する鋭く強い感覚に裏づけられた芯の強さも持っている。だから、主人公は頑張り続ける。小説は長くなる。「誰が来た」「何を言った」という日常の小さな出来事にも、主人公のその後の運命がかかってくるが故に一喜一憂せざるを得なくなり、読者は情緒的に揺り動かされ気持ち(フィーリング)のアップダウンが続く。心を痛めながらシンパシー(共感)やセンシビリティ(道徳的感受性)を思う存分発揮してセンチメンタルになることが感傷小説を読むという経験なのだが、これは奇妙に快い経験でもある。

    感傷小説は、ブルジョワ階級の男性が娘や妻に勧めたものであり、その女性読者に熱狂的に支持されたものであった。北米の文学史研究者のフィードラーによれば、感傷小説を支えた読者とは、宮廷やサロンや学校に支えられていた上品な価値体系からはみ出した人々であり、また古い民衆文学に馴染むことができなかった人々であった(Fidler 1989:42-43)。読者は、サロンや自分たちの手紙でも大いに話題にした。『パメラ』の一場面を描いた扇子を持つことが教養と淑徳を示すファッションとして流行したりもしている。

    このように、感傷小説『パミラ』と『クラリッサ』は、18世紀の出版文化によって作り出された読書階級に支持されて、「近代(モダニティ)」という時代を形作る文学(フィクション)となった。このリチャードソンの成功以降、ブルジョワ階級女性を主人公とする小説は大量に作られ、パロディ作品も登場するなどさまざまな広がりがあって、そちらの研究も重要なのだが、今回分析するのは、ひとまず「感傷小説の祖」という位置づけを文学研究上で与えられている『パミラ』と『クラリッサ』である。この二作品を見ながら、女性主人公にとっての恋愛とはどのようなものとしてあったのかを明らかにしていこう(☆4)

    『パミラ』と『クラリッサ』は美しく若い女性が被る苦難と涙の物語であり、試練と戦う正義のヒロインの物語である

    内容を見ていくにあたって、最初に述べておきたいのは、『パミラ』や『クラリッサ』は、多幸感溢れる現代のロマンティック・コメディ(ラブコメ)とはかなり雰囲気が異なっているということである。女性主人公自身の「結婚」や「恋愛」に関するあれこれが終始、話題となっているのだが、基本的にこれは、女性主人公の数々の苦難と試練の物語である。現在の読者が「センチメンタルな小説(感傷小説)」と聞いて思い浮かべるであろうものよりも、おそらく、もっと悲惨でドメスティック・バイオレンスとモラル・ハラスメントに満ちた物語である。普通に読み始めるとけっこうメンタルをやられるので、お読みになる場合にはご注意いただきたい。

    主人公には次から次へと困難が降りかかる。それは大きく3つくらいに分類できる。家族からの嫌がらせ、主人公に恋愛感情を寄せる貴族階級の男性からの嫌がらせ、そして美しく若い女性に好奇と懸念の目を向ける世間(社交界society)の悪評という嫌がらせである。まずは、『クラリッサ』を例にして述べてみる。

    家族からの嫌がらせとしては、主人公が望まない人物との結婚の押し付け、家族の繁栄という政治経済的な正統性を主張しながら父母への義務を果たすよう求めること、それでも結婚を了承しない主人公の自室への軟禁、友人との手紙の禁止、もちろん教会に行くことも禁止、主人公クラリッサの味方をした召使いをその場で父が解雇するといったことなどがある。母は涙ながらにとりなして娘を懐柔しようとし、父は威圧的態度と不機嫌さでブルジョワ階級の娘としての義務を果たせと迫る。女性主人公は、父母や家族に対する義務の感覚(sense of duty、これを持つことこそが人間として価値のある道徳的な態度であるとされた)と、家族が結婚させようとすすめる人(『クラリッサ』におけるソームズ)に好意を持つことはできないという自分の信念の間で、苦悩し続ける。ちなみに1750年代のイングランドとは、ブルジョワ階級が結婚の際に娘の意向は一応聞かれるべきであり、拒絶の権利だけはあると考えられ始めた時期である。

    貴族階級男性からの嫌がらせは、パミラもクラリッサも受け続けたものであり、この時期の「ロマンス」の主流のものでもある。パミラは貧しいブルジョワ階級の娘で、親元を離れ、住み込みで召使として働いている。その屋敷の主人のセクハラがどんどんひどくなってきたので実家に帰りたいと申し出たところ、様々な引き留め工作にあう。それら全てに抵抗し「自らの純潔を貫いて清貧に生きていきたいので実家に帰りたい」と伝え続けることで、ようやく認められたが、実家に帰る馬車であると言われて乗り込んだそれは全く知らない場所に着き、主人に騙されて誘拐されてしまったことに気づく。主人の手下の人々によって軟禁され、監視下での生活を強いられ、監視人の女性は意地悪でさまざまな嫌がらせをするし、主人が時々訪問してきては、その度に性的に犯されそうになり、数々の性暴力の恐怖を味わう。主人は、パミラに対する繊細な気持ちを表明して愛していると伝えることで口説いたり、その愛が受け入れられないとキレたり、財産等を大量に贈与するという契約書を作ってプレゼンしてみたり(その契約書が手紙の中に挿入される形で示されている点や、パミラがその一つ一つの条項をどのように批判した上で、最終的にこの「愛人契約」を受け入れることはできないという結論を返事として出したのかを、二段組で印刷することでわかりやすく示している点など、文学テクストとして面白い点は本当にいくつもある)とさまざまなアプローチを駆使しつつ、基本的には自分を愛さないと悪いことが起こるという脅迫をし続ける。

    女性主人公は、これらの災難の渦中にあっても、常に世間や社交界でどのように評価されるかという第三者(アダム・スミスのいう「中立的な観察者」)の視点を持ちつつ、牧師に助けを求める手紙を書いたり、主人や家族にあれこれと働きかけたり、友人に相談してアドバイスをもらったりといった、当時の女性ができる限りのあらゆることを、慎重に実行している。

    このように、女性を主人公とする感傷小説は、若い女性であるがゆえに降りかかってくるさまざまな苦難に、自分で立ち向かって自分の純潔と信念を守ろうとする物語である。性暴力は非道徳的で非難されるべきことだという「正義」が彼女の動機であり、信念であり、「女性的な強さ」の基盤である。

    実際、物語は、純潔という正義を貫くことで、愛と美徳が最終的に勝利する展開になっている。感傷小説は若い女性がひどい扱いを受け続けて泣き続ける話であるにも関わらず、女性読者の支持を集めたのは、これらの苦難の先に純潔と愛の原理の勝利があったからだろう(☆5)

    この前提事項を踏まえて、次回は女性が主人公の感傷小説で、外見がどのように言及され、意味づけられているのかを見ていく。


    ☆1:例えば、『パメラ』では、「母のよう」にパメラを大切にしてくれた召使い長の女性を、パメラは「母のよう」と述べ「私の第三の友人」と述べている。
    ☆2:感情革命とは、主に18世紀中頃のイギリスで起こった、理性重視の啓蒙主義に対する揺り戻しとして起こった、センチメント(情緒)やセンス(感覚)を尊重する思想・文化的潮流のことである。
    この変化は社会史・家族史研究では、「母性愛の発見」や「子どもの発見」等として繰り返し論じられてきたことでもある。例えば、家族史研究のエドワード・ショーターは『近代家族の形成』(1975年)で、18世紀後半から19世紀にかけて、核家族化と母性愛の誕生、ロマンティックラブの実践などにより「感情の革命(revolution of sentiment)」が起きたとしている。これを「第一次性革命」であったと論じたところが、ショーターのオリジナリティだ。ちなみに、1500年から1800年という長いスパンでのイングランドの家族史を研究したローレンス・ストーンはこの大きな変化の潮流を「情愛的個人主義(affective individualism)」と呼んでいる。センチメントは18世紀に注目した場合に、キーワードとなる。
    北米の文学史研究者であるレスリー・A. フィードラーは、感傷小説とポルノ小説が18世紀の同時期に成立したことに注目し、詩における抒情詩の勝利、近代心理学の登場、近代小説やロマン主義文学の興隆といった一連の出来事をあげて、これをサイキック(psychic心霊)革命であると論じている。フィードラーはこれらによって「内面性」や「自我」といった新しい心的次元が発見されるようになったとし、これは「たんに古い経験を記述する新しいやり方の発見というよりは、むしろ新器官の発達」であると述べている(Fiedler 1989:33)。
    ☆3:この18世紀に自由で平等な社会を実現するための新たな理念として重視された「フラタニティ(友愛)」や「フェローシップ」は、現在の英語圏で制度化された数々の協会や基金の名称になっていることにも思いを馳せるのは、「友情」とは何なのかを考える上では重要であるように思われる。
    フラタニティとは北米の大学の社交組織で、日本の大学の校友会(卒業生によって形成される会)と学生会・自治会(在校生で形成され、新入生歓迎会や大学祭などを開催する)をあわせたようなアソシエーションである。女性はソロリティであり、これらがジェンダー別に構成されているのは、18世紀的友愛概念の経路依存性によるものだろう。
    ☆4:文学等のフィクション作品に書かれている「恋愛」は、社会科学がデータとして求めるような「恋愛行動」ではなく、人々が憧れ価値あるものとした「理想としての恋愛」である。だが、当時の人々が何を理想とし、どのような感情やふるまいが愛を示すものとして解釈していたのかを明らかにするには、「理想としての恋愛」を描いている文学テキストこそが適切な分析対象である。
    とくに、当時の人々に熱烈に支持されて社会的な流行現象を引き起こした作品は、それが「当時の人々の価値観に合致していた」ということができる。もう少し詳しくいうと、この作品が人々の価値観をよく「反映」していたということであり、またこの作品で提示された新たな理想や価値観が「自分の求めていたものはまさにこれだ」という形で人々に受け入れられ支持されたということでもあり、おそらくはその相互作用によってフィクションが現実の価値観や時代意識を形作ってきたのだろう。このようなフィクションと現実の相互作用によって、私たちの価値観や解釈枠組みは形成されているというのが、私がここで採用している社会学的な図式(シェーマ)論の前提である。
    現在、恋愛社会学の質的研究はインタビュー調査が多く、それは方法論がフォーマライズされて確立しているがゆえに査読論文や学位審査論文でも通りやすいからであるように個人的には思っている。だが、作品(フィクション)分析もまた恋愛研究においては主要で有用な方法になるはずだ。作品の選定基準の洗練とそこから確実に導出できる解釈の妥当な範囲に関する批判的吟味を洗練させていけば(査読者も恣意的な資料分析だと一蹴するのではなく、どのような基準で分析資料が収集されているのかを踏まえて、分析や解釈が妥当なのかを検討するという手続きをとるようになれば)、恋愛の質的な社会学的研究のさまざまな可能性が拓けてくるのではないだろうか。
    ☆5:そういえば、20世紀末の日本で、少女と女性と「大きいお友だち(男性)」からの絶大なる支持を得て大人気作品となり、たくさんのシリーズが作られた『美少女戦士セーラームーン』(マンガ原作:武内直子, 1992年-1997年, テレビアニメ製作:テレビ朝日・東映エージエンシー・東映動画, 1992年-1997年)とは「愛と正義のセーラー服美少女戦士セーラームーン」であり、登場シーンの決めゼリフは「月に変わっておしおきよ」だった。女性が「戦う」時に、道徳や正義を基盤とするのは、近代小説の始まりである感傷小説から続く、一つの原型といえそうである。
    感傷小説は、貴族階級の悪徳を糾弾し、ブルジョワ階級の道徳的正統性や優位性を主張するものという階級闘争が、貴族男性とブルジョワ女性との間の性的闘争として描かれている。これに対して、セーラームーンの戦いは階級闘争によって戦闘構造が基礎づけられているわけではないという点が、社会構造上の違いだが、そうなってくると、ではセーラームーンたちの敵である悪の組織「ダーク・キングダム」とは何なのかが気になってくるところだ。そのあたりはまたいずれ論じることにしよう。
    【参考文献】
    ▪️エドワード・ショーター, 1987, 『近代家族の形成』(田中俊宏訳, 昭和堂)
    ▪️サミュエル・リチャードソン, 2011, 『パミラ、あるいは淑徳の報い』(原田範行訳, 研究社)
    ▪️サミュエル・リチャードソン, 2015,『クラリッサ』(渡辺洋訳, https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/repo/huscap/all/76756/
    ▪️ジャン=ジャック・ルソー, 1960, 『孤独な散歩者の夢想』(今野一雄訳、岩波文庫)
    ▪️レスリー・A. フィードラー, 1989,  『アメリカ小説における愛と死——アメリカ文学の原型 1 』 (佐伯彰一・行方昭夫・ 井上謙治・入江隆則訳, 新潮社)
    ▪️ローレンス・ストーン, 1991, 『家族・性・結婚の社会史——1500年-1800年のイギリス』(北本正章訳, 勁草書房)
     
何か・誰かを好きになることは、この世界への希望を持つことに似ている。ひとを好きになること=恋愛には、様々な可能性が秘められているにもかかわらず、恋愛はジェンダー的な下位に置かれていないだろうか? 恋愛にジェンダー平等の視点を取り入れることで、見渡しの良い社会像が見えてこないだろうか? ジェンダー平等な恋愛ははたして可能か? 恋愛をめぐる既存の慣習の何が問題なのか、社会学、心理学、文学、哲学などの成果を手がかりにしながら考えていく新連載。より親密な世界の構築のために。
フェミニズム恋愛論
高橋幸
高橋幸(たかはし・ゆき)

1983年宮城県石巻市生まれ。2008年東京大学総合文化研究科修士課程修了、2014年同博士課程単位取得退学。明治大学、國學院大学、武蔵大学、明治学院大学、日本女子大学、成城大学、成蹊大学、関東学院大学、東北学院大学等の非常勤講師を経て、現在石巻専修大学准教授。専門はジェンダー理論、社会学理論。著書に『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど──ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(2020年 晃洋書房)、共著に『離れていても家族』(2023年 亜紀書房)、最新刊は『恋愛社会学』(2024年 ナカニシヤ出版)。